<<1999年7月 の日記>>

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1999/7/1

遠い親戚(従姉妹のダンナの母親)が亡くなってお通夜に行ってきた。 従姉妹と言ってもかなり年の離れた人で、学生の時に下宿させてもらっていたこともある。 世話にはなってるけど縁が遠すぎるので、行くべきかどうか迷ったけど、連絡が来たのでとりあえず行ってみた。 こういう時に、親がどちらかでも生きていたら相談できたのにと思うのだが、実は私の父親は恐ろしく非常識な所があって、それがいつどこに現れるかわからない人なので、生きていたとしても頼りにならない。

そして、そのお通夜の席で叔父さんからその親父の非常識ぶりをまたひとつ聞かされた。 この叔父さんは父が亡くなってから会うたびに「おまえも兄貴のことでは苦労しただろうな」と言ってくれる。 「おれもあの人は不気味だった。何するかわからないから恐かった」というのだ。 父親の非常識は主として金銭がらみだが、他人から見ると単に商売がヘタだけどよく働く人がいい人だと思う。 ただ、私とこの叔父さんだけに見せた一面がある。 商売がヘタというなまやさしいものでなく、破滅に向かって突き進むような所があったのだ。 ひとつの事業(と言ってもただの飲食店だけど)が安定してくると、別のもっと危険な事業に手を出して、トラブルを巻き起こす。 これを何回繰り返したかわからない。

これまでこの破滅への衝動みたいなものが始まったのは、私が10代、親父が40代の頃だと思っていたのだが、 今日聞いた話によると、実は20代の頃私が生まれる前に始めた最初の店がすでにおかしかったらしい。 収入に関係なく経費をかけ、最後に従業員に給料を払えなくなってしまったのだが、それでも本人はスキーに行ってしまったことがあったそうだ。 昭和30年代のことだ。スキーと言っても今の感覚とはちょっと違うだろう。 こういう好き勝手をして、本人だけでも気楽に楽しく生きたならまだいい。 「僕は本当にノンキで商売がへただねえ」口癖のように言っていたけど、そんなお気楽なものでないことを叔父さんと私(とたぶん私の母)は知っている。

「俺はあの人がいつかこれをするような気がして恐かった」と叔父が首に手を当てながら言う。 「それは自分を?それとも他人を?」当然のように私が聞く。 「自分を」と叔父は答えた。

でも実はこういう父の危ない面は自分にも遺伝していて、それがいつ爆発するか恐い。 幸いなことに今の所は、そういう狂気はプログラミングという仕事やこういう雑文書きに押し込められている。 このホームページが混沌としているのもそういうわけです。

1999/7/4

「正直である」ということは最も基本的な道徳のひとつだと思う。 私はプログラミングという自分の商売の中でこれを実感している。 正直な技術が結局伸びる技術である。 ただ「正直」という時に、現実をちゃんとあるがままに先入観無しに見る、ということと、自分のわかることとわからないことをきちんと区別するということもも含めたい。 「見る」ことや「区別」するためには、理論や知識や眼力が必要で、これは「正直」という道徳的な言葉からちょっとはみ出てしまうかもしれないけど、それくらいの技術とパワーと覚悟を背景にしていない「正直さ」は価値がないと思う。

そういう意味で宮台真司は正直な人だ。 彼が援助交際と覚醒剤を論じる時、常にフィールドワーク(たくさんのヤッてる人とのインタビュー)と各種アンケートなどのデータを出発点にしている。 (ルーズでない)ハイソックスと長めのスカートをはくと援助交際の値段が高くなるという現実、覚醒剤が急速に拡大しているのに少なくとも都市部では中毒者の数は増えていないという現実。 こういうよくわからない現実を直視することからスタートして、本当にそういう行為の何が害になるのか、どのような危険性があるのか、そういう害や危険性から若者が自分を守るには何が必要なのか、を論じている。

その上で、援助交際のことは「僕にも本当のところはよくわからないのです」と正直に言い、そこが出発点なのだという。 彼には7才の娘がいて、彼がテレビに出てそういうテーマについてしゃべっているのを見ている。 帰って来てその娘に「売春て何?」と聞かれた時のことも書いている。 彼は一切のウソやゴマカシ無しにちゃんと7才の女の子にわかるように答えてます。

さらに、そういう行為がごく一部の若者のことだという理屈に対しては、「やらない方が99%から90%になっても1割の変化、同じことをやる方に着目すると1%から10%という10倍の変化」だ。 だから、やる方に着目し調査し論じ対策をこうじる必要があると反論する。

今日は彼の「学校を救済せよ」という本を読んですごく感動しました。 この本には、(世間的にな意味で)一般的な中学生を論じている所もあって、そっちもすごくいいです。 親にも教師にも今のこの社会で子供のことは背負えないしわからない。 「正直に」過大な期待をおとすことからはじめるべきだと。

1999/7/6

うちの奥さんが「今、自分はマーブルケーキ」と言った。2つの自分が中途半端に交じり合っていてすごく不安定で苦しいと。

彼女には「自分のことを忘れて他人のためだけに生きる」モードと「他人から逃げて殻に閉じこもる」モードがあって、切り替えながら生きてきた。 モードによって、言うことや望むことや怒ることややることが随分違う。 片方のモードで起きたことを別のモードで語ることはほとんどない。 (忘れているわけではないけど) 早い話が記憶の連続性を保った二重人格だった。

両方のモードは目指す方向がかなり違うから、片方のしたことの後始末でもう片方が苦しんだり、何かが実る寸前に中断してしまったりする。 私はなんとか両方を連結しようとしたけど、それは間違っていた。 これは、ちゃんとした理由があって彼女が選択した生き方、自分を守る方法なのだから。 「あの時、君はこういったのに今は全く違うことを言っている」 こういって両方を合体させようとするのはイジメに近い。 確かに、分裂していることは彼女の害になっているけど、それをいつどのようにやめるのかは、彼女自身にしか決められないし、選べない。 待つしかないのだとやっと気がついた。

待って待って待って、ずっと待ってやっと「マーブルケーキ」になった。 2つのモードがまだらに交じり合っている。

今度は自分の番かな?

1999/7/8

私はいつも朝一番のテレホタイムに各地のWEBを一回りする。 今日は仕事関係で面白い記事をいっぱい見つけた。 かなりテンションがあがってきた所で、実にのんびりしたいいエッセイを見つけた。 落差がすごかった。 これです

仕事関係の方もひとつだけ。 ポータルは魔力を失いつつある? という記事です。 ネットはテレビと違う。 みんな違う番組を見たくてネットするのだから、ポータルなんてどう考えてもおかしいと思ってた。 ざまあみろ。

1999/7/9

7/7の多事争論に面白い問題提起がある。 なぜ、東海道新幹線でなく後からできた山陽新幹線でトンネル崩落の事故が起きたのか? 同じことが、アポロ計画とスペースシャトルにも言える。 アポロの方が先行していて、ずっと難しいことをやっている。 それなのに爆発したのはスペースシャトルの方だ。

これは、モラールの問題だと思う。 世界で最初のプロジェクトは成功する。 危機感もあるし、プライドもある。管理者も技術者も人材が集まる。 本当に危険なのは、その技術が当たり前になってからだ。 成功するのは当たり前で、コスト削減が求められる。 そうなると手抜きするやつが出てくるのだろう。 しかし、ビッグプロジェクトはひとつの手抜きがとんでもない結果を生む。

次に心配なのは原子力発電所だ。

1999/7/12

読売新聞によるとハリウッドで「フランダースの犬」の実写版が作られるそうだが、この映画なんと結末が2とおりあるそうだ。 原作どおりネロが凍死してしまうバージョンと、最後に助かり父親とも再開するバージョンができていて、各国の配給会社がどちらかを選択するようになっている。 そして、アメリカではハッピーエンドバージョン、日本では原作バージョンが選択されるらしい。

アメリカのニュースサイトを見ていると「XXX社は本サイトのスポンサーです」という注記が書いてあることがある。 XXX社の製品や関連技術、競合している会社などについての報道には、こういう注意書きがつくようだ。 つまり、「このニュースはXXX社の圧力で事実を曲げて報道しているかもしれません。それは、読者が判断してください」と言っているわけだ。

どちらもすごく健全なことだと思う。 「悲劇的な童話の結末をいじっていいか」 「ジャーナリズムと資本の関係はどうあるべきか」 世の中には、こういう簡単に結論の出ない問題がたくさんある。 わからないなら、わからないと言えばいいものを、「これが正解だ」と言ってしまう。 そこから、いろいろなことが歪んでくる。

日本では「新聞は厳正中立だからスポンサーの意向で事実を曲げることはありません」と言う。 それはいいけど「だから、スポンサーの名前をいちいち明記する必要もありません」となるとちょっと??で、さらに 「スポンサーの名前を注記することは、圧力の存在を認めることになります。だからできません」と言い出す。 官僚がおかしなことを言ったりやったりする時もだいたいこういうパターンで、間違いの存在を認められないから、それを防止したり修正する策も打ち出すことができない

大前研一がテレビで言っていたけど、2000年問題もこれと同じ状況になっているようで、日本では「対策が完了している」と大本営発表してしまったから、トラブル対策が取れなくなっているそうだ。 アメリカでは、「努力はしたが一部は間に合わない。ついては、こういうトラブルが予想されるので、事前の対策として・・・」とアピールをし、いろいろな具体策を打ち出している。 経験がなく何が起こるかわからないことだから、いろいろ準備が必要なことは言うまでもない。

1999/7/20

なぜドイツに「援助交際」がないのか?という面白いエッセイ発見。

1999/7/25

「情報フィルタリング能力」というキーワードを思いついた。 検索エンジンを利用する時も、掲示板やメーリングリストの議論を追っかける時も、たくさんのゴミの中で光るものをみつけなくてはいけない。 タイトル、ハンドル、最初の2〜3行だけで、その情報の価値を瞬間的に判断する能力。 正確な判断は必要ない。 間違って拾ってしまったら、残りを読んでから捨てればよい。 間違って捨ててしまっても、ネットの上には、一つしかない情報は稀だ。 重要な情報なら、他の所にも書いてある。 こういう能力を多くの人が無意識のうちに身につけているのではないか。

ネット以外ではこういう能力は使い道がないし、害になることもある。 情報が整理、統合化されていたら、あることは一個所にしか書いてない。 読み飛ばしたら、それで一生その情報とはお目にかかれない。

例えば、きのうオメガウェポンの倒し方をネットで検索した。 それは「アルティマニア」という究極解説本のP302に書いてある。 この分厚い本の中で、たった一個所だけ書いてある情報だ。 これを読み飛ばしたら他の場所には書いてない。 しかし、ネットにはいくつも同じことが書いてある。 どれも少しずつ違っているが、大筋は同じだ。 かなり適当に見ていっても、ひとつくらいは探すことができる。

こういうセンスがある人とそうでない人では、同じホームページ、同じメーリングリスト、同じ掲示板を見ても、随分印象が違うだろう。 ネットにあるよい情報は、大抵多くのゴミにまみれている。 ある人は「ゴミだらけだ」と言い、別の人は「宝物がいっぱい」と言う。 こういう印象の違いが総体となって、インターネットというものの正体をつかみにくくしているのだろう。

私は、これが将来大きな社会問題になるような気がする。 世界がネットが好きでネットを使う人間と、逆の人間に分裂する。 両者は、知的能力や思考方法や性格が違うのではない。 「情報フィルタリング能力」のある者とない者にわかれてしまう。 そして、同じ物を見ても全く違うことを言うから永遠に議論がかみ合わなくなるのだ。 おそらく、この分裂はネットに接続できる者とそうでない者の対立として現れるだろう。 だが、ネットが技術的にも経済的にも普遍的に誰でも使えるようになってもその対立は解決されない。 その時に、はじめて問題の根深さがわかるのだ。


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