<<1999年11月 の日記>>

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1999/11/8

つんくと亀井静香の共通点。

1999/11/10

Linux Magazine12月号の「隠喩としてのコンピュータ」というコラムに「ストールマンの主張する自由にわかりにくさがあるとすれば、つきつめれば、自由を前提とするコミュニティがわかりにくいからだろう」という鋭い分析が出ていた。 例えば、RADICAに書かれているMorphy Oneの開発日記を見ていると、こういう「コミュニティ」というものがよくわかる。 よくわからないかもしれないけど、とりあえずそのパワーだけはわかる。 とうとう「コミュニティ」がハードまで作るようになった。 このまま行けば、こういう動きがパソコンと関係ないものに手を広げるのも時間の問題だ。

GPLのわかりにくさは「コミュニティ」を知らないからというのは確かだ。 目がさめるような鋭い指摘だが、それだけならこれは時間の問題で、こういうかたちで「コミュニティ」の成果が目に見えるかたちでいろいろ現れてくるだろう。 しかし、それだけで問題が解決するのだろうか。 つまり、GPLの意味をみんなが理解するのだろうか。 知っていてもそれをなかなか認められない人種がいるような気がする。

1999/11/16

星新一の古いショートショートを読んでいたら、こんな話があった。 若くして両親に死なれ、苦学して大学を出たものの、運に恵まれず職を失い死ぬことを考えていた主人公が、突然、未来の世界につれていかれた。 何をさせられるのかと思うと、「苦労話を聞かせてくれ」という依頼。 未来はみんな幸せになっており、悲惨な話に飢えていて、この主人公はたちまち人気者になったとさ。

どこかで聞いたような話だと思ってよく考えてみたら、これ「電波少年」じゃないか! そういえば、筒井康隆にはもっとそっくりな「俺に関する噂」という名作がある。 こちらは、ごく平凡なサラリーマンの「俺」のつまらない日常を、突然、テレビや週刊誌が連日のように報道しはじめる、というストーリー。

悲惨や苦労に飢え、非凡なスターの幻想にも飽きてしまった、現代人のこころを見抜いて、きちっとヒット作品を生み出したTプロデューサは天才だとすると、それを30年前、つまり、テレビが大衆化してまもない時代に、その行くつく先を見抜いていた、この二人はなんなんだ。

ついでに言うと、若い頃は星新一というのは人畜無害な作家だとばかり思っていたが、今読むと、あちこちに強烈な毒がある。 常に、筒井が一目おいていたことの意味が(これが昔不思議だったのだ)、今になってわかってきた。

1999/11/24

ソフトを作るのに、ハードからくる制約と組織からくる制約がある。 ハードの制約は、小さなマシンで問題になる。 例えば、アドレス帳やらスケジュールなどのPDAのプログラムなんて実に単純なものだ。 適当な簡易言語を使えば、初心者の練習用にちょうどいいくらいだ。 しかし、これをあの小さなマシンにのせようとすると、OSやAPIが非標準の見慣れぬものになり、メモリサイズやらCPUのスピードやらを気にして作ることになるので、素人には手が出せなくなる。

一方、でかいシステムも単純なものだ。 銀行のATMなんて本質的には「残高=残高−引出し額」という計算をしているだけだ。 しかし、こちらは絶対的な品質保証をしなければならないので、どうしても組織として開発することになる。 プログラマがコ−ドを書くのは年に1度か2度で、後の時間は仕様書を書いたりハンコおしたり会議ばかりしていることになる。

そういう意味で、最も扱いやすいのはパソコンから部門サ−バの領域で、linux*はこのレンジを中心に発展してきた。 他のプロジェクトもタ−ゲットはこの範囲になるものが多い。 しかし、最近OpenWebというプロジェクトが立ち上がったが、これは明らかにそのはるか上のクラスを相手にしている。 EJBという技術は、プログラマが当てにならないことを前提にしていて、多少のバグがあってもシステムがこけないことを第一の目標としているものだ。 プログラマをたくさん集めると、必ずといってよいほど、やる気のないものや明らかに適性がないものが混じってしまう。 多少はそういうプログラマがいても、なんとかシステムを開発するのがメインフレ−ムの発想で、EJBはこの延長線上にある。 少数精鋭で勝負するUNIXやオブジェクト指向とは発想が違うのだ。

これと逆に小さいほうにはみだしたMorpy Oneという事例もある。 ここへ来て、急速にオ−プンソ−スの裾野が広がっているような気がする。

1999/11/25

「逆説の日本史6」が面白い。 例えば、日本の僧侶は妻帯しているが、これを教義の中できちっと位置付けているのは親鸞(浄土信宗)だけだという。 仏陀はもちろん、インド、中国、日本にあまた現れた、偉い坊さんの中で、「SEXしてもいいよ」と言った人は他にない。 では、なぜ日本では何宗であろうと結婚しているかというと、何と「明治政府が許可したから」だそうだ。 *宗教*で食ってんなら、嘘でもいいから「仏様が夢に出て来て結婚しなさいと言った」とか「実は秘密のお教にそう書いてあった」とか言えよな!

それから、瞑想というのはやり方によってはドラッグみたいなもので、ハイになれる。 これは決まった手順を踏めば誰でもできることで、これが宗教的な意味を保証することはない。 オウムの信者はここを勘違いして、自分の神秘的体験=教祖のエラサの証明と思っちゃったわけだ。 ここらへんの危なさを禅では「魔境」と言う言葉で表していたのは知ってたけど、何と昔の日本人は庶民でもみんなこういうことを知っていたそうだ。 その証拠に「野孤禅」と言う言葉があって、これは非常に一般的に使われていたそうだ。

私は思うのだが、宗教というのは本来危ないものである。 火薬やアセンブラやバイアグラのように、素人がヘタにいじると危険だけど、危険な所に意味がある。 そして、危ないけどなくてはならないものだ。 だから、自分で触ることはなくても扱い方を知っておいたほうがいい。 井沢さんの言うとおり、日本人は宗教に対する一般常識がなさすぎる。 法律より教祖の言葉が絶対なのは当然だしそうじゃなければ本当の宗教じゃない、人を救えない。 だから、社会の中に置いとくのは危険だし相当な覚悟がいるものだ。

もうひとつ言えば(これは私の考え)、「人間は宗教がなくても生きられる」というのが最も大きな非常識。 やっかいなものだけど、なくてすませるものではありません。 大半の日本人は無宗教といいつつ、会社とか世間とか科学とか和とか、そういうヘンなものを宗教のかわりにしているだけだ。 自覚がないだけに、こういうものに随分ふりまわされている。 あげくのはてに、へんなオカルトにひっかかったり、過労死したり、好きでもないガングロにしたりする。

この自覚のなさからくる問題点を外側から指摘するのが井沢元彦で、内側から指摘しているのが河合隼男だ。 どちらも現代日本人必読の書だと私は言いたい。


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