<<2000年4月 の日記>>

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2000/4/4

「戦後50年のウミが俺の時に一気に出たんだな」

警察の不祥事が続いた時、小渕首相が記者との懇談(っていうのはウチワ話)で言ったそうだ。 これを聞いてちょっと「おや?」と思った。 愚痴みたいなものだし、当然と言えば当然の言葉なんだけど、何となく不思議で印象に残った。

よく考えてみると、これって「もうこの国のシステムはこのままじゃ駄目だ」ということを暗に言っていると、とれないこともない。 残念なことに政治家で本音でそう思っている人ってほとんどいないんだよね。 もし、この解釈が当っていたら、ここまで危機感を持ってるのはこの人と小沢さんくらいだと思うが、ちょっと深読み(無理読み)だろうか。 それから「この人の言うことをもうちょっと注意して聞いてみよう」と思っていたら、逝ってしまった。

やっぱり、過労で倒れるほど危機感を持っていたのかも、と思うのだが真相はわからずじまい。 とりあえずご冥福を祈ります。

2000/4/6

濃霧で自分の進路を見失ない、落雷で無線機が壊れた飛行機の話。 霧の中を手探りで飛行しながら、パイロットはやっと高層ビルの窓際に立っている人を視界に捉えた。 「俺たちは今どこだか教えてくれ」パイロットは叫んだ。
その男は答えた。
「飛行機の中だ」
それを聞くとパイロットは機体を旋回させ、まもなく無事に空港に着陸した。
ある乗客が聞いた。
「無事に着陸できたなんて奇跡だ。一体どうやって位置を確かめたんですか」
「あの男の言ったことを聞いた時、すぐにここがIBMのビルだってわかったよ」 パイロットは答えた。
だって、あの男のいうことは100%正確で、しかも200%役にたたない答えだったからね

これはIBMの社長ルー・ガースナーについての本にあったIBMを茶化したジョークだ。 ガースナーが来る前に、IBMがいかに官僚的になっていたかを示すために挿入されていた。

しかしこのパイロット、アメリカだからよかったけど、日本だったらこうはいかないだろう。 だって「100%正確で、しかも200%役にたたない」連中が多すぎて、それがどこだかちっともわからないよ。

2000/4/6

不可逆?非可逆?なことについて

茶碗をひっくり返してしまったら「我が家ではこんなふうにテーブルにお茶がぶちまけてあることはない」とか「お茶はテーブルの上でなく茶碗の中にあるのが正しい姿だ」とか「ぞうきんが必要な社会は何かがおかしい」とか言っていても意味がない。 とにかくぞうきんでふくことが必要だ。

テーブルにお茶がぶちまけてある世界より、茶碗にお茶が入っている世界の方が望ましいとは誰でも考える。 しかし、一度ぶちまけられたお茶は戻ることはないし、戻すことでなく「ぞうきん」、つまり以前は全く不要だった別のアプローチが必要になる。

終身雇用も土地神話も親や先生の権威も元に戻ることはないし、インターネットのない世界にも戻れないし、グヌーテラ*のない世界にも戻れない。 今と昔とどちらが良いのか考えることは無駄ではないと思うけど、ぞうきんを茶碗の上で絞ってでも茶碗の中にお茶がある世界に戻そうというような議論をする人が多すぎる。 確かにテーブルの上にお茶がなく茶碗の中にお茶があるけど、そのお茶を彼らは飲むのだろうか?

2000/4/10

ニュース23で「争論:オウムとどうつきあうか」という企画をやっていた。 この題目の立てかたはいいと思ったが、肝心の論者がイマイチ。 ひとりは、公共の福祉のためにはある程度信者の人権が制限されるのもやむなし、という主張で、この主張自体はいいのだが、「彼らを追いこんだことで、彼らの反省を引きだした。彼らは反省しかけてます」とはなんたる現状認識の甘さ。 もうひとりは、どうもテレビ慣れ、討論慣れしてないようで、相手の勢いに押されて「戦争中の共産主義弾圧みたいで僕はいやだなあ」を繰り返すばかり。 ただ「この異物は日本の中から産まれ、日本の中で育っていることを忘れてはいけない」というようなことを言っていて、もう少しゆっくり主張を聞きたかった。

私は、オウム信者に「麻原を否定しろ」と言うのはナンセンスだと思う。 それができるくらいなら、連中はとっくにそうしている。 それができない、あるいはしたら意味がなくなるのが信仰というものだ。 別にオウムの教義に詳しいわけじゃないが「あの人は冥想はうまいけど、悪いことをしたから刑務所に入れられたのは当然です」と思いながら信仰と言うものがなりたつとしたら、その方がよほど変わった珍しい*宗教*だろう。

一方で「麻原を認める以上は犯罪集団だ」という主張も当然だと思う。 断定はできないが破防法の適用もありだったのでは?くらいに思っている。 しかし、そうなると両方合わせると「オウムは何やっても犯罪集団で取締りの対象」になってしまい、「信仰の自由」はどうなるのだという疑問が出てくる。 この矛盾をどう解くのか、それを聞きたかったんだけだなあ。 やはり、宗教の危険性の本質に対して基本的な認識がないのかなあ。

2000/4/11

*田口ランディ*と山形浩生が似たようなことを言っている。 文脈や結論は違うのだが、ライターと読者の関係と言うものがネットによって変質しているということを強調しているのだ。 ライターの主張に異議がある場合、ネット以前は負け犬の遠吠えのように、文句の手紙を書くしかなかった。 今でもそのノリで文句メールを投げてくる人がいるそうだ。

しかし、ネットの中ではライターと読者の関係は同等である。 それがわからない読者が多いらしい。 そういう読者に対して山形浩生は、これまでは 「ひたすら情報の消費者としてふんぞりかえってればよかった。発し 手がアレしてねぇぞ、コレしてねぇぞ、と要求していればよかった」けど、今は 受け手が「情報のただの消費者」から脱しなければいけない、と言っている。田 口ランディは「私とあなたはインタ−ネットという世界で同じ発言の可能性を持っ ています。あなたが、私の記事に意見記事を書いてくれたら、私は私の記事と並 べてMSNサイトに掲載します」と言っている。

いつもながら、どちらも鋭いことを言うと思います。 田口ランディの方は ここ の3月5日のところ、 山形浩生の方は ここです。

2000/4/11

グヌーテラというアブナイものが出現した。 簡単に言うとmp3を交換するためのソフトだ。 技術的にはIRCのようなプロトコルで、中央にサーバがでんと構えているというモデルを取ってない所が特色である。 サーバがクライアントでありクライアントがサーバである。 AさんがBさんにつなぎ、BさんがCさんにつなぎ・・・という調子でじゅずつなぎになったネットワークがひとつのデータベースとして機能する。 このネットワーク全体に「XXXXというファイルはありませんか?」という問い合わせを投げ、ファイルを持っている奴が「ここにあるよ」というと、そこへもらいに行く。 もらいに行く時はダイレクトにそこに取りにいくようだ。

ブロードキャストが多くてネットワークが飽和しないかということと、問い合わせがファイル名だけなのでファイルを見つけることが難しそうだから、たくさんのマシンがつながってきて規模が大きくなった時にどうなるかちょっと不安である。 ただ、全体的にシンプルなモデルなので、運用でカバーすればなんとかなるかもしれない。

・・・などとノンキに技術論をやってる場合ではない。 これが画期的なのは、そういう技術的なことではなくて社会的なインパクトとスタンスだ。 まず、こいつら確信犯なのだ。 つまり、CDから録音したmp3データの交換(ひょっとしたらワレズも)というあきらかな違法なことをサポートする目的で作られたソフトでありプロトコルであること。 それから、*オープンソース*という武器を法律破りのツールとして意識的に使っていること。

ここに、*グヌーテラ*は「飢えた弁護士どもにも負けない」と誇らしげに書いてある。 つまり、プロトコルが中央にサーバを置かない分散処理だから、サーバがやられても(核爆弾にって書いてあるけど警察にだろう)、ネットワークとしてはびくともしない。 オープンソースだから、開発者が逮捕されても誰かが引きついで続きをやってくれる。 このように、逮捕やサーバの押収といったトラブルを勘定に入れてシステムを設計している。 これは音楽業界がどんなにがんばっても止められないよ。 いったい、どうなるのだろう。

それと、もうひとつ巧みなのが、石原都知事の外形標準課税と同じ戦略を取っていること。 つまり、悪者をターゲットにして庶民の感情に訴えるという作戦だ。 日本では銀行、アメリカでは弁護士、をたたくと喜ぶ人が大勢いる。 「飢えた弁護士は核兵器より破壊的だ。でもグヌーテラは負けない」とはお見事! でも、これで弁護士はオープンソースを目の敵にするだろうな。

2000/4/12

BM(ビジネスモデル*)特許というやつに腹が立ってしょうがない。 こんなもので金を稼ごうとする、低能で下劣な連中には天罰があたればいい! バカヤロ!死ね!

2000/4/13

ある人から「ネットのスピードが極限まで速くなったら何が起こるか思考実験せよ」という宿題をもらっていて、ここ1週間ほど悩んでいたのだが、*グヌーテラ*がヒントになってようやく解けたので、ここに書いておく

ネットがスピードアップすると、まずクラスタが作りやすくなる。 クラスタとは、ひとつのサーバを複数台のマシンで構成すること。 どれかが壊れても、他がカバーしてシステム全体としては動き続ける。 現在、これのネックはクラスタを構成するサーバ同士の通信だ。 仕事を分けあうにせよ、同じ仕事を並行でやるにせよ、クラスタではサーバ同士の通信がたくさん発生する。 現在は、これがネックで何百台、何千台というクラスタはできないが、もしネットが速くなれば台数をいくらでも増やすことができる。

これが極限に達すると、ネット全体がひとつのクラスタとして機能するようになる。 何億台、何兆台というマシンがひとつのマシンのようにふるまうのだ。 webだったら、ファイルにURLをつけて、このクラスタにほうりこむ。 すると、URLとファイルはクラスタの中のどこかに記録される。 次にURLで読みだすと、その「どこか」がファイルを返してくる。 それが実際にどのマシンにあるかなんて、誰も気にしなくなる。

そして、サーバという概念が消滅する。 ネットの参加者は全て同等なのだ。 そして、クライアントが少しずつネットのごく一部のストレージとプロセッシングを受けもつ。 自分のマシンに誰のファイルが置いてあり、自分のファイルが誰のマシンに置いてあるかなんてことは誰も考えない。 クライアントの資源と信頼性には限りがあるが、もの凄い台数で多重化すれば、十分な信頼性を確保できる。

これは全くの夢物語でなく、JINIというJAVA*を家電化するプロジェクトでは、これに近い概念のネットワークを考えており、既に実装も提供されている。 これに「ネットの速度→∞」という仮定を加えれば、「クラスタの台数→∞」という結論はそんなに荒唐無稽なものではない。

さて問題は、こういうふうになったネットは管理できないことだ。 そもそもネットを管理するというのは、サーバの存在に依存している。 サーバがなくなれば、管理するためのてがかりがない。 mp3だろうが、核爆弾の作り方だろうが、睡眠薬の致死量だろうが、何でもネットにタレ流しで止められない。

ということで、宿題の答えは「ネットは一切管理できなくなる」でした。

2000/4/13

キリスト教=巨人ファン、イスラム教=阪神ファン、仏教=アントラーズファン、という喩え話を思いついた。 巨人ファンと阪神ファンは宿敵同士で一生仲良くできないけど、お互いに相手のことを理解できる部分が多い。 ケンカはするけど、相手の言葉の微妙なニュアンスまで理解できる。 理解できるからケンカするという部分もある。

アントラーズファンとは、野球とサッカーというジャンルの違いがあるので、微妙にズレが生じてくる。 例えばサッカーでは「戦術」という言葉が出てくるが、こういう概念は野球にはなくて、なかなか話がつうじない。 一神教の世界から仏教を見るとこんな違いがあるのだろう。 「アントラーズと巨人とどちらが強いか」という設問は無意味だから、ケンカにもならないけど、仲良くするのもちょっと難しい。

しかし、巨人ファンから見て一番やりにくいのが「スポーツなんかちっとも見ない」という人だろう。 例えば、巨人ファンがこういう人の接待をするハメになったら途方にくれてしまい、アントラーズファンの方がずっとましだと思うだろう。 そして、我々日本人が自分のことを無*宗教*と言う時、この巨人ファンと同じくらいの違和感を持たれることを忘れてはいけない。 巨人ファンにとっては「チームが違ってもいい、違う競技でもいい、観戦するのが嫌いで自分でやる人でもいい、とにかくなんでもいいからお前はスポーツというものと接点がないのか」と感じるだろう。

2000/4/16

橋本-小川戦をビデオで細かくリプレイしながら見なおした。 最初から最後まで一部の隙もなく見せる戦いだった。 最後に、猪木がマイクを持って何かわめいていたのものやっと意味がわかった。 「すばらしい勝負を見せてくれてありがとう」と言っていたのだ。

あれは、ガチンコなのだろうが、まぎれもなくプロレスだった。 プロレスの技というのは、相手が協力しないとなかなかかからないものが多い。 本気で相手の技をつぶしにかかったら、試合にならないだろうと思っていた。 しかし、本気でやってもちゃんとプロレスというものが成り立つことを初めて知った。 そして、負けながら凄みを見せるまさにプロレス的な男のプロレス的な幕切れ。

項羽と劉邦の戦いも非常にプロレス的だと思う。 真剣な殺し合いでありながら、勝負を越えたやりとりがあり、相手を認めるからこそ、相手の技に乗った上でたたきつぶそうとする。 そして、鴻門の会という有名な場面に、まさにプロレス的な丁々発止がある。

この場面で、両者の参謀の格の違いがあきらかになる。 項羽と劉邦がお互いをどのように見ているか。 小川と橋本のように、殺意に近い憎しみしかないようでいて、そうではないものがある。 これに敬意とか戦いを越えた友情とか安易な言葉はあてはまらない。 その「何か」が、劉邦の参謀である張良には見えていて、項羽の参謀である范増には見えてない。 両者の知謀は同等だが、ここにわずかの差があり、これが最後に勝負を分けた。

この時点では項羽が圧倒的に有利であるが、范増は項羽をして劉邦のトドメを刺させることに失敗する。 後に立場が逆になり、張良は劉邦をして項羽にトドメを刺すように決断させることに成功する。 プロレスの枠を超えてしまう劉邦の心の痛みを張良はわかっていた。 わかっていて、あえてそれをさせる張良の凄み。 そういう凄い男をかかえこんでしまった劉邦の凄み。

こういうのは*司馬遼太郎*の脚色なんだろうと思ってたけど、真剣勝負の中にしかありえないドラマってものがあるんだな、と小川-橋本戦を見て知り、やはりあれは実際に起こったことなんだろうと考えを変えました。

2000/4/17

アドリブにしちゃあ、なかなかのもんだと自分で思った。

2000/4/28

「自立」ってのは変な言葉で、実体としてはアナログなのに概念としてはデジタルになっている。 どういうことかと言うと、「きのう、金を拾った」と言えば「いくら」と答えることは普通だが、「あの人は自立した人だ」と言って「どのくらい」と答えたらいかにも変だ。 「そうだね」と言うか、「いや、あの人は自立してない」ということで、納得すればそれで話は終り、そうでなければ議論になってどちらが正しいか結着をつけなくてはいけない。 結局、1か0か○か×か、デジタルな概念として扱われている。

日本語っていう言葉は、もっとニュアンスのある繊細な言葉だったはずなのに、どうしてこんなことが起きるのか、変だなと思ってよく考えてみると、そもそも「自立」なんて、これは日本語じゃないのかもしれない。 外来語として輸入した概念はだいたいこういう扱いを受けているわけで、こういうことがどれだけ我々の毎日の生活をゆがめているか、見直した方がいいかもしれない。 いっそのこと「私は1000円分は自立している」とか、外来語の頭には必ず値段をつけて言う。 ばかげているようだが、私はマジで言っているのである。

完璧な自立ということなんてありえない。 普通の意味で自立しているというのは、たいてい、西洋的な合理主義への依存であって、そういう人は目の前に日本的なあいまいな人間がうろちょろしてると、怒りだす。 つまり、自立という言葉に秘められた深い陰影に入りこまないで外側から離れて見ているから、乱暴に二者択一の議論ができてしまうわけだ。 もちろん、金額などいう一次元的な数値で形容しても実体にほと遠いのだが、とりあえずデジタルなものではないと意識できるだけずっとマシだと思う。

2000/4/29

子供がサイボーグクロちゃんを見て、そのままテレビをつけっぱなしで、自分の部屋へ行ってこの間買ったばかりのムジュラの仮面をやりはじめた。 夢うつつのまま聞いていたら、つけっぱなしのテレビで堀絋一が「気を使うな、頭を使え」と言ったので目がさめてしまった。

バブルの時に伸びた会社はほとんどが、政治とのつながりで商売していた。 経営者は、政府、官庁、業界などあちこちに気を使うことが商売だった。 そういう会社は今、全部だめになっている。 今、のびているのは頭を使う経営者で、気を使っていたら頭を使う余裕がない

言ってるのはあたりまえのことだけど、「気を使うな、頭を使え」というスローガンはいいね。

ただ、ちょっと不満なのは、野村監督について触れた発言。 「彼には戦略性があってすばらしいが、惜しむらくはちょっと暗い」 間違いじゃないけど、選手達に働く場を与えたという重要なポイントを言わなきゃだめじゃないか。 大豊だって、なんだかんだ言って仕事をしている。 監督が暗くて嫌な奴でも、野球選手は野球をさせてもらえば満足で本望なんだろう。 個々の選手が活躍できる場とストーリーを用意したこと、だから選手たちが能力以上のものを発揮していることは認めるべきだろう。 ついでに言っておくと、また今年も一日天下なのかもしれないけど、首位に立ったその日、セリーグで3割打者がいないのは阪神だけだった。


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