<<2000年6月 の日記>>

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2000/6/2

「峠」読了。 主人公の生き様も心に焼きついたが、*司馬遼太郎作品の常として、脇役にも印象に残る人がたくさんいた。 そして全体の印象として、幕府側つまり旧体制側にもずいぶん人材はいたんだ、ということを知った。 特に情勢のよく見えている人は意外に多かったということも。

軍隊も金も人材もちゃんと揃っていて、あれだけあっけなくつぶれるのは何かというと、 組織の違いだ。 組織が人の邪魔をしていたのが幕府で、組織が人を生かした(というよりしゃぶりつくした)のが薩摩、長洲。 組織が違うといってもほんのちょっとした違いなんだろうけど、激動期にはほんの少しの違いで情勢が大きく傾く。

前回これを読んだ時には、長銀も山一證券もつぶれていなかったわけで、 そこまで読みこめなかったし読めたとしてもただのフィクション、 あるいは遠い国のできごとみたいに思ってしまっただろうけど、 「人材がいても潰れる」という実例を知ってから読むと、これがよくわかる気がする。

2000/6/3

長島が清原にこだわり続けるのは、実は清原が年棒の一部を長島に渡すという約束ができていたからだ、 なんてことが明るみにでたら、どうなるだろう。 つまり、清原が活躍すれば長島に金が回るしくみになっていて、そのために長島は清原を使い続けるという話だ。 こんな裏があったとしたら、いまだにいる頑固な長島ファンもさすがにあきれてしまうだろう。

しかし、誰よりオーナーのナベツネさんが怒るだろう。 いい選手を呼ぶためならいくら金を使ってもいいけど、自分の金が自分の愛する巨人をメチャクチャにするために使われたら、 ちょっとやそっとでは許せない気分だと思う。

しかし、クドいけどここまでされても、全く動じない脳天気なオーナーもいるんですよね。 ここまで生臭い話は、自分のポリシーとしては書きたくないけど、選挙も近いことだしまあいいか。 「政官財のトライアングル」なんて言葉がでてきたら、この話をちょっと思い出してください。

2000/6/4

今日の「報道特集」で今回の選挙で引退する議員のインタビュー集をやっていた。 ほとんどが死にかけたようなジジイだが、ひとりだけ50代くらいで政界が「嫌になって」やめるという人がいて、面白いことを言っていた。 自分がやめると言った時の後援会の反発はすさまじいもので、「失敗した。引退すると言わないで落選してやめればよかった」と後悔したそうだが、 自分のようにやめたいけどやめられない議員はたくさんいると言うのだ。

これを聞いて思い出したのが、「峠」の一場面である大名が河井継之助に「河井、わしは大名じゃ」というセリフ。 この大名は幕府のエラい人で、エラいのに頭が切れるという珍しい人。 そこで、河井継之助はこの人に幕府の危機を訴え、対策を提案して決断を促す。 「わしは大名じゃ」というのはその必死の献策に対する答えだ。 意訳すると「あなたの言うとおり幕府は今未曾有の危機にあり、非常の策が必要だと思います。 だけど、私はしがらみの中で生き、しがらみの中でこそ存在価値のある人間です。 そういう私には、あなたの提案は受けいれられません」

結局、150年たっても人間のやってることは全く同じなわけで、 本質的に同一の現象であるならば、長い期間を経て多面的に検証されているレポートの方に存在意義がある。 しかも、レポーターのレベルが最上のものを選べるわけで、歴史小説の面白さっていうのはそういうことだろう。 つまり、ほとんどの日本人はしがらみの中で生きているのだが、 大小のしがらみがこんがらがった結び目のまんなかにいる人が、昔は「大名」と呼ばれ今は「議員」と呼ばれているわけだ。 どちらにも行動の自由はなくやめる自由さえ与えられていない。

2000/6/6

メインで使っているマシン(IBM ThinkPad 570)の液晶の具合が悪く、本日より修理に出す予定。 そのため、しばらく更新できないと思います。

2000/6/7

・・・などと言っていたら、サブのマシンの環境があっとゆうまに完成してしまった。 Pentiumu133 32M 1.2Gというポンコツマシンなのだが、KondaraのKDEがちゃんと動くんですね。 こちらの腕もいくらかはあがっているのだろうが、*linux*の完成度は確実に増している。 一応プロなもので道具にこだわってて、○○が動かないとダメとか××は△△じゃなけりゃとか注文はうるさくて、 マシンが変わると1週間くらい仕事にならんことが多かったのだが、 今回はあっけないくらい簡単に引越しできました。

2000/6/7

TVタックルに、元医者の変なおじさんが出てきて面白いことをたくさん言っていたが、 ひとつ印象に残ったことがある。 「医者というものは昔は、ほっとくと死ぬ場合に行くものだった。 ところが、今は健康というのは非常に狭い強固なイメージがあって、そこからちょっとはずれるとすぐ医者に行く」

つまり昔は、「病気」というのは死の回りにあるごく限られた範囲を指していて、それ以外は全てが健康、 だから、病気の領分が狭いだけ健康というものには多様性があった。 しかし今は逆で、健康というのがいろいろな情報によって作られたごく狭い範囲に閉じこめられていて、ひととおりしかなく、 逆に、病気の方が多様性がある。

こういう歪んだ見方を体にあてはめるだけでも随分罪なことだが、 最近はこころの問題にも同じことをしようとしている。 バスジャック事件の少年の入院と外出という処置は適切だったのかどうか、ここ2、3日ニュースで随分やっているが、 普通じゃない精神のあり方を全部医者の領分におしこんでしまうというのは無理だと思う。

ある精神科医が「本当の病気の人にはああいう犯罪はできません」と言っていた。 つまり、彼は緻密な計画をたて自分をしっかりコントロールして医者をだました。 そういう秩序だった行動がとれないのが本当の「病気」であって、精神科医が習ってきたのはそういう病気の直しかただけだ。 それ以上のことにも取り組む人はいるのだが、それは学校で教わったスキルでなく一人の人間としてぶつかっているわけで、 その場合には、医者でなくひとりの人間としての度量や感度で勝負している。 それができる人とできない人がいるのは当然だ。

できる医者もできない医者もそのことを正直に言うべきだと思うが、それより問題なのは、 そういう発言を許さない世間一般の方だと思う。 つまり、正気で無差別理由なし殺人を行うという人間のあり方を認められないわけだ。 しかし、戦争になって兵隊に取られれば同じことをする人はたくさんいる。 つまり本当の問題は行動の正当性でなく、同じ「正気」を共有しているかどうかだということだと思う。

もちろん、あれは大変な悲劇であるのは間違いないが、彼にとっては正気の行動だった。 正気で彼をああいうことするという所まで追いこんでしまった状況を全体として問題にすべきである。

2000/6/8

インターネットもこれだけメジャーになると、いろいろな人が顔を出してくる。 ここでは 超整理法のおじさんがずいぶん変なことを言っている。 なかでも、 「私は、タイトルとして相手の名前を「B様」というように書くことが多いのだが、 それに対する返信が、Bさんから「RE:B様」と返ってくるのは、いかにも異様だ (というよりは、こちらの人格を無視された気持ちになる)」 という所には笑ってしまった。 言うまでもないが、サブジェクトには表題あるいは要約の機能があるので、本文の要点を記すのが常識だ。 ネチケットがどうのこうの言うまえに、みんながこの人のまねをしたら、 B様のメーラには「Subject: B様」というメールばかりになってしまい何がなんだかわからなくなる。

ここは単なる笑い話だが、その後は結構本質的な勘違いをしている。 この人は、ひょっとして関係あるかもという関係者にCc: を出すということに、なぜだか抵抗があるらしい。

メールを受け取る側からいえば、こうしたメールは、どうしても必要なものではな い。というよりは、迷惑な場合が多い。「聞いていない」といえなくなるだけでな い。後でゆっくり反論しようと思っていると、メールをやり取りした人達の間だけ でコンセンサスが形成され、物事が決められてしまう。

これって、要するにメーリングリストのノリが嫌いだと言うことだ。 おそらく、この人はMLなんてものにはまだ縁がないんだろうが、 ある意味、まだ見ぬメーリングリストの特性を見ぬいているわけで、それはそれですごい直観力だと思う。 だから、私はこういう人がいくら馬鹿なことを言っていると思っても、それで切り捨てたりしないのだ。

それで、何が本質的かと言うと、MLの発言と言うのは宛先が非常に漠然としている。 もちろんその中の誰か個人でもないし、「ご来席のみなさま方」全員にあてているわけでもない。 その中間あたりの所にあてて発言する。 相手がそれに返答する場合も、文章は元の発言者宛になっていても、漠然とその他の目を意識している。 このフワッとしたあいまいな関係性みたいなものが、MLの、そしてインターネットの本質である。

この人は頭のいい人で(皮肉ではない)自我の境界がくっきりとしている。 自分あてのメッセージとそうでないものをデジタルに区分したいのだ。 だから、それを許さないCc:的なノリにいらだつのだ。

民主党が「課税最低限の引下げ」ということを言いだしたが、不思議と自民党でこれを誉める人がいる。 その理由が今日の読売新聞で解説してあったが、 自民党では税制に関することでは、税制なんとか会というのが一番偉くて、ここの人が「聞いてないよお」と言うと、 幹事長みたいな党のトップでも口が出せなくて困っているらしい。 そこで、民主党の外圧を利用して、この「聞いてないよお」攻撃をかわそうという意図だそうだ。 なんとも想像を絶する不思議な世界だ。

しかし、MLで意思決定が行われるようになると、こういう「聞いてないよお」おじさんも困ってしまうだろう。 超整理法と自民党の長老政治というのは、従来の常識では対極にあるものだが、 *オープンソース*というのは、そういう狭い地球の北極と南極を両方まとめてぶっとばしてしまうほどの破壊力を持っていると言うことだ。

2000/6/9

援助交際の買う側の男についていろいろ知りたい。 どんな奴で、何を考えているのか。 どんな職業についていて、収入はどれくらいで、他に趣味があるのか。 どんな政党を支持しているのか、ネットをしているのかしてないのか。 imodeは使うのか使わないのか。 定量的なデータもほしいし、生の声をインタビューしたものも見てみたいし、 心理学的な分析も欲しいし、宮台真司にも論じてほしい。

これが何ひとつとしてないのはどういうことだろう。 売る側についてはカタいものから風俗っぽいアプローチまで、いろいろな観点からたくさんの報道や分析があるのに、 買う側については何ひとつない。

尾木直樹という教師をやっていた人が「非難するなら買う方を非難しろ」と言っているのを読んでいて、 このことに気がついたのだけど、非難するとか問題にする以前に何も情報がない。 この情報の偏りには何か重要な理由があると思う。 法的にも倫理的にも買う側の方が罪が思いし、おそらく日本独自のことだから日本人論という切り口でも扱えるし、 もちろん心理学的、社会学的にも重要なテーマであるはずだ。 でも、決まってテレビで「援助交際がなんたら」と言うと売る側の女の子たちが出てくる。

少年犯罪でも本当に問題にすべきなのは、これと対になっている大人の側の歪だろう。 援助交際みたいに、大人の側にどういう奴がペアになっているのかがわかりやすくはないが、 必ず何かペアになるものがあるはずだし、そっちの方が本質に近いはずだ。

どうしても少年の側から接近したいなら、「思春期の言葉」を理解してからじゃないと話にならない。 これは、*村上龍*がニュース23に出て言っていたことだが、彼らはちゃんと自分を語る言葉をまだ持っていないのだ。 「ムカツく」とか「キレる」とかという言葉は、「この背後にあるものを自分は表現できない」と言っているだけで、 彼らの内面で起きていることを1%たりとも表現していない。 「大人の不正に対する怒り」とか「将来に対する夢がない」とか、そういうわかりやすい言葉にはおさまらないのだ。 「動機が不明」とか、さも不思議そうに言うけど、これは素人に解明できるもんじゃありません。 天才小説家とか熟達のカウンセラーが扱うべき領域で、相対性理論と量子力学の統合とか160kmの速球を投げるくらい難易度の高いこと。

だから、我々素人は大人の側から迫るしかないのだが、これはたぶん「痛い」んだろうね。 「買う側のことを知りたい」と言ったけど、 本当にこれを深く知ったら自分の中にもそういう一面があることを認めなくてはいけなくなるような気がする。

2000/6/14

今日の「ここが変だよ日本人」は超能力がテーマで、元スプーン曲げ少年の清田氏がゲストだった。 清田氏はスプーンを曲げられなかったが、ゲストの外国人の中で6〜7人(かもっと)がスプーンを曲げていた。 これは、もちろん科学的に厳密に管理された実験ではないが、 あの番組の製作方法などを加味して考えると、かなり超能力の存在に対する有力な証拠となるような気がする。

と言うのは、その外国人たちの半数程度は毎度おなじみの顔ぶれで、 全員がタレントではなく別の職業を持った一般人である。 そして、言いたいことを自由に言っている(ように見える)。 毎回のように激しい議論が起きて、管理されないことから発生するハプニング性が番組の売りものになっている。

あれがインチキだとすると、超能力者本人が失敗してゲストが成功するというちょっとヒネった演出が行なわれていたことになるが、 他の一回こっきりの番組ならともかく、あの番組で「しこむ」のは難しいと思う。 しこむとすると、どういう困難があるか。

まず、ゲスト全員がサクラだったとする。 とすると、番組スタッフが「みなさん、今日はこういう演出をしますから、御協力願います」と依頼したことになるが、 あのうるさい連中が全員一致して、これを飲むとは思えない。 相手が芸能人なら、なんらかのプレッシャーをかけて口をふさぐことはできるが、 本業と帰る国のある人にはまず通じない。 そして、半数は論理や理性で生きているキリスト教圏の人だから、 もしそんな嘘を強要されたら、絶対にどっかに訴えでるだろう。

となると、たくさんいるゲストの中に数人のサクラをもぐりこませることになるが、 これもかなり危険な作業だ。 ゲストの多くは懐疑論者なので、インチキの徴候を目を皿にして探している。 「今日は見慣れない顔が多いな」などと思っていたら、そういう新顔だけがスプーンを曲げたとなると、 すぐバレてしまう。 バレたら黙らせることができないのは、上の仮定と同じ。

それでは、レギュラーのうち何人かを買収すると言う手はどうかと言うと、 これは買収を断わられた時のリスクが高すぎる。 従って、買収が100%成功するという確信がなければできない。 あのさまざまな文化圏から来た人たちの中で、誰が応じるか事前に予測できるだろうか?

では、ゲストは誰も知らないがスプーンにしかけがあったとすると、 この場合は、100人の懐疑論者の目をごまかして、本人も気づかないうちに曲るスプーンというものが必要になる。 そんな仕掛けが可能だろうか?

そして清田氏はかなり有名人なので、以上のどの場合でも証拠を握って告発する気になればマスコミがよってくる。 オウムなどのカルトをたたく材料にもなるネタだから、かなり高く売れるはずだ。 テレビ曲とマスコミの力関係も気になるが、テレビ局社員の悪事はかなり報道されているので、 マスコミは実利をとると見てよいだろう。 国や*宗教*によって倫理観は違うが、 こういうインチキを放置しておくとカルトの犠牲者が増えるのは確かなので、 告発しないという個人的な必然性は考えずらい。 実利があって倫理的にも問題なければ、普通告発する。

従って、しばらく待ってこの件に関する報道がなければ、超能力というものは、99%存在すると見て間違いない。 残りの1%は、「本人も気がつかないうちに曲るインチキスプーン」。 これは理論的には不可能ではないし、Mr.マリックの手品を見ているとあっても不思議ではないとは思うが・・・。

2000/6/15

カウンセラーの資格をとろうと思ったら、絶対に必要な条件がある。 それは、自分自身がカウンセリングを受けることである。 しかも、上級の資格になるほど条件が厳密で要求される時間も長くなる。 河井隼雄氏は、ユング派の本場のスイスで修行したが、ユング療法士の資格を持った人に1年以上も分析を受けたそうで、 一定の時間に達していないと、試験の受験資格さえもらえなかったそうだ。

私なりに解釈すると、無意識あるいは人の内面を扱う専門家になるには、 人間がいかに自分の内部で起きていることを知らないか、ということを体験的に理解することが必須だからだと思う。 例えば、ACというのは親から精神的なサポートを受けられず場合によっては虐待を受けた人たちだが、 そういう人は親を憎んでいるかと言うと逆に「うちの親は偉い人です」とか言うことが多いようだ。 親を憎む人もいることはいるが、どちらかと言うとそれは程度の軽い人で、 「親を憎む自由だけは与えられていた」などと言う。

今、「続・科学の終焉」という本を読んでいるのだが、 心理学の専門家の中にもそういうことを解ってない連中が予想以上に多くて驚いた。 そして考えたのは、ガリレオやニュートンのことで、彼らが力学の基礎となる理論を産みだした時には、 膨大な天文学の観測の結果と微積分の基礎となる数学が蓄積されていた。 それがなければ、いかにニュートンが天才だとしても、万有引力の法則を発見することはなかっただろう。

クスリのききめを学問的に確認するダブルブラインドテストという試験があるが、 簡単に言うと、ある病気の人を200人探してきて、くじびきで100人にその薬を与え、残りにはニセ薬を与える。 医者も患者本人もどちらを飲んでいるかわからないというのがポイントだ。 そして、両方のグループで直った率を統計的に判定して、薬を与えたほうのグループで直った率が一定以上多ければ、 そのクスリがOKとなるのだ。 精神病を直すクスリにも同様の試験があるのだが、 そういうクスリでこのテストをするには、当然ながらその人がビョーキかどうか正確に判定しなくてはならない。 また、実験が終ってから直ったかどうかも正確に判定しなくてはならない。 その判断がいいかげんならば、出た数字をいくら統計的にいじくっても意味がない。

しかし、はっきりとした分裂病ならともかく、うつ病のように病状が微妙なものは、 そういうデータをとるのは内面にかかわる作業であり、ひとすじなわではいかないはずだ。 そのあたりがわからない医者や研究者がいくらクスリを探したって、見つけられるとは思えない。 「続・科学の終焉」は心理学全般を含む人間の精神を扱う科学を、かたっぱしからやっつけている本だが、 この本の著者も含めてどのジャンルの学者も、人間の内面を扱うことの困難がわからないまま、適当な学説をとなえている。 まるで、天文学と数学がわからない奴が力学の根本法則をでっちあげてニュートンになろうとしているようなもので、 「10年早い」と言わざるを得ない。

そして、この問題の難しさは、他人の内面と自分の内面が違うことだ。 フロイトを知識として読むことはできる。 この本の著者はフロイトも批判しているが、当然、フロイトやその後継者の学説は理解している。 理論がわかれば、他人の無意識はわかるのだ。 「あの行動の本当の動機はこれこれ」とかは、知識で言える。 だけど、自分の内面は知識だけでは扱えない。 経験が絶対必要だ。 ここが解ってないと、数学ができないで理科系の学問をやろうとするのと同じで、 非常に危うく、回り道が多く、しかも具体的な成果がない。

「続・科学の終焉」は、そういう意味で根本の問題意識はズレているが、 やっつける相手がが幅広く、やっつけ方がコテンパンで痛快で、それはそれで面白い本だった。

2000/6/19

しゃべり場という、 10代の少年少女が語りある番組があるが、 これに、松本創(はじめ)君と言うなかなか素晴しい少年が出ている。 彼は小学校5年から学校へ行かないで、無人島へ行ったり演劇をしたりで、 非常にユニークな生き方をしている人だけど、 そういう独自の生き方を自分自身のリアルな言葉で表現できてることが凄い。 彼の言葉を文字に書きとっても、そのヴィヴィッドな感覚は記録できないと思うが、 あまりに感動したので、書きとめておきたい。


高校とか大学出た方が安定の可能性は広がるかもしれないけど、 どの道、つかめるのはひとつじゃん。

学校行ってる時に行かないっていう選択肢があるってこと、気づいてた?てか、 高校へ進まないっていう選択肢がさ、進むのと同じレベルで存在してた?

選択肢の中で俺は勉強したいから行くっていうのはいいと思うし、 俺は学校自体は否定するつもりはないから。 ただ、その前に行かないってことがあるのを知っておくべきだと思うのね。

なんで勉強するのかってのは、要はこれ衝動なの、単純な欲求なんだよ。

(はじめみたいに衝動ばっかで動いてたら疲れるよという声に) 疲れるか?俺疲れてないよ。

(松本のは自分の狭い体験が全てをいい表わしてるかのように一般化されちゃうから、それはすごく危険だと思う、という声に) 何で今を生きられないの?今を。 (何でお前は生きていけるの?) 今は今あるから。

あしたあさってのことが不安だったら、今楽しくないじゃん。 そのためにあしたあさってのことを考えるのは、今考えてるのと一緒じゃん。 そうじゃなくて本末転倒・・・何だろ。わかんね。(とここで髪をかきながらもすごくいい笑顔)

知らない世界のことを何で頭から否定できるの? 想像してみてごらん。 そういうのが生きてんだよ。 いろんな社会があってさ。いろんな法則で成りたってて。 その中のひとつからの視点だけで、別の社会を否定されるってのは、 その社会に生きてる奴にとってはメチャクチャ頭にくることなんだよ。

知らないのはわかるよ。 話聞いて想像しろよ。 それに納得して、「ああそうだね。俺もそうしたいよ」じゃなくていいから。 そういう世界があって、それをわかれよ。認識しろよ。

こういうこともあるし、俺はこういうこと選んでこうだった。ただ、それを伝えたいんだ。

(お前がうらやましいけど俺は逃げないという声に) 俺は、別に逃げてるわけじゃないんだ。 俺だって、最初まじめに学校行ってる所からはじまってるんだ。 で、ちょっとずつなんか、亀裂が生じたりとかいろんなことがあって、 ちょっとずつのつみかさねでこうなったりとか、 だから、日々でかわってんたんだよ。 突然、こうなろうって決めてこうなったわけでもないし。

文脈を言うと、ある中3の少年が「何のために高校へ行くんだろ、勉強するんだろ」という疑問を発したのに対して、 松本君は「学校へ行かない別の生き方もあるんだよ、もちろん行くという道もある。 両方を充分吟味して、選択したらいい。 そして、俺は行かない方を選択してこうなった」と言いたいのだが、 他の少年たちには、無理に学校へ行かない選択を押しつけているように聞こえてしまうのだ。 それに対して、松本君は上に書いたようなさまざまな表現で、それを伝えようとしている。

必ずしも自分の生き方(選択)に納得できてないが、その道しかないと思っている他の少年たちにとっては、 この松本君の存在というのは、ひどく圧迫感があるらしく、 どうみても何の押しつけもしてないのだが、そのナチュラルでナマの表現が、非常に脅迫的に写ってしまうらしい。 それで、かなり言葉のやりとりがきつくなって、別の少年が怒って退場する事態となってしまった。 その中での言葉だ。

他の少年たちも素直で若者らしい感性もある子たちなのだが、「自己責任と別の選択肢」というものを提示されると本能的な恐怖心が出てしまうようだ。 いったいこれはなんだろう。 というか、ひとつの日本という国の構図を見ているようだ。 それはともかく、松本君の自然体はとにかくカッコよかった。

2000/6/20

PS2のワークステーション版ができるという噂があるそうだ。 できたとしたら、ジュラシックパークやタイタニックがご家庭で作れるという凄い性能のマシンになるので、 パソコンとは別のジャンルになるという見方が普通だろう。 しかし、別のそのグラフィックエンジンを使わなくてはいけないということもないだろう。 単に、速くて安い*linux*マシンとして使ってもかまわないはずだ。 そして、半導体の世界では数が値段なので、インテルのコストパフォーマンスを一瞬で追い越す可能性だって ないとは言えないような気がする。

ついでだから前から書こうと思っていた、技術ネタをもうひとつ。

PLAN9*オープンソース*になった。 PLAN9とは、UNIXを作ったケン・トンプソンたちが開発した、全く新しい概念のOS。

シンプルだがラディカルなシステムで簡単には説明できないが無理にひとことで言えば、 「部屋が狭いのに家具を買いすぎてしまい、 モノが散らかって何がどこにあるのかわからなく、 寝る場もなくなってどうしようもないから、 引越しを契機に全部かたずけてみたら、 意外にスッキリとして住みやすい部屋だったしモノもよく見るとそんなに多くない」 という感じ(全然「ひとこと」じゃない)。

要するに、linuxを含むUNIXにとって、ネットワークという要素、ひとりが占有して使うパソコンあるいはワークステーションという利用形態は、当初想定されてなかったものだ。 これを後づけしたことで(普通以上にうまくはやったのだが)、現在のUNIXは必要以上に難しくなっている。 特に、資源の貸し借りが問題で、人様のものを借りるための手続きが借りる品物によって随分違っている。 DISKを借りようと思えばNFS、CPU(というかシステムそのもの)を借りようとすればtelnet、 そしてヨソで走らせてる自分のプログラムに自分のテレビを貸そうとすればX、 というように多種多様なプロトコルがあって、 プロトコルが違えば使うコマンドも違うしプログラムの書き方も違ってくる。 そして、実運用ではこういうものを全部組みあわせることになるので、わけがわからなくなってしまう。 しかしPLAN9では、こういう資源の貸し借りが全てひとつのプロトコル、 ひとつのシステムコール、ひとつのコマンドで処理してしまう。 「誰に」「何を」「何という名前で」使わせる、という指示で全部できてしまうのだ。 使うのも楽だし、プログラムを組むのも簡単、しかも実装するOSもシンプルになるといういいことづくめである。

と言っても、こういうことをするシステムは「分散OS」というジャンルができているくらいで、 これまでにもいくらでもあったのだが、 現状から一気にぶっ飛びすぎると、現在のハードや人間の頭からかけ離れていて、 いい論文にはなってもなかなか動くシステムにはならない。 もともとUNIXも全く新しい画期的な概念を持ったOSではなくて、 当時の先進技術をスリム、シンプルにしてきれいにまとめたもので、 そういう先進性と実用性のバランスという点では、UNIXと同じような重要性を持っていると思う。

「財政再建か景気回復か」というテーマもそうだが、 ヘタな技術者がトレードオフをさばくとどっちもダメ、普通の技術者だと半分づつで結局使えない所で、 天才は両方を80%くらい取ってしまうものだ。 PLAN9もそうで、とりあえず少しソースをいじればUNIX(LINUX)用のサーバソフトは移植できそうだし、 移植さえしてしまえばクラッキングされた時の被害を劇的に少なくしたシステムができてしまう。 それは、そのサーバに「貸す」資源を簡単かつ厳密にコントロールできるからである。

linuxだけでも到底遊びきれないのに、またこんな新しいオモチャが出てきては、困ってしまう。

2000/6/22

教師、警官、医者、官僚・・・。 資格が必要な職業で、昔は自動的に立派な人と見なされた職業だが、 不祥事続きのものだ。 それも、金銭欲とか名誉欲のようなわかりやすい動機でない、理解不能な不祥事を起す人たち。 しかも、そういうのが続々出てきて、「あれは例外」といういいわけができなくなった職業。

突然気がついたのだが、 「資格が必要な職業で昔は自動的に立派な人と見なされた職業」というくくりかたをすると、 弁護士という商売はこのリストの中に入ってもおかしくない。 しかも、司法試験という難関をくぐりぬけた超エリートだし、規制業種だし、 一人前になるまでの期間が長く勉強だけして30代になっていきなり社会に出るようなパターンになりがちだ。 他の職業より、もっとアブナい奴を量産しそうな気がするが、なぜかこれまでの所は 「こいつ何考えとんじゃ?!」というような不祥事は起きてないような気がする。

どこが違うのだろう? とりあえず主として個人で活動するか、組織で活動するかという違いはある。 あまり説得力はないが、もしこれが原因だとすると、日本人の国民性にも日本という社会にも、 ちまたで言われている程(私も多いに「ちまた」してる口だが)、問題点はないのかもしれない。 ただ単に、日本という国には組織というものを致命的に腐敗させる何かがあるだけなのかも。

2000/6/26

選挙と受験が共通にかかえる問題点。 それは、選択が1回こっきりであることだ。 選挙では数年に1度、受験では一生に一度。 たった1回の選択であまりにも多くのものごとを決めてしまうのがおかしい。

これに対して市場というのは、 選択そのもののメカニズムには、随分あやしい所や間違ってしまう要素がたくさんあるが、 選択が連続的に続くということが問題点を全部帳消しにしてくれる。 だから、IBMが作った大型コンピュータ中心の世界がわずか10年でパソコンの世界になり、 それがまた10年でネットの世界になって、我々はその恩恵にあずかっている。

日本国民の総意が「改革は必要だけど、ソフトランディングにしてね」という所だとすると(もちろん私は同意しないけど)、 今回の選択は、かなりいい線いってる。 とりあえず森政権は継続するからすぐには変化はないけど、 東京の自民党は公明党の協力をもらっても大物が落選しているから、それなりの危機感を持つだろう。 しかし我々は、この選択の結果に最長4年間にわたって縛られるわけで、 途中で気がかわっても「やっぱりハードランディングにしよっと」というわけには行かないのがつらい所だ。 つまり、1回こっきりの選択はうまくやっても結局はうまくいかない。

2000/6/28

西遊記の孫悟空は「こち亀」の両さんにソックリ。 異常な生命力の持ち主で、物欲が強くて、なんでもやりすぎて痛い目を見るが、ちっともこりることがない。 世界の果ての5本の柱(実はお釈迦さまの指)にションベンひっかける、という有名な場面なんか、 得意げな顔がまさに両さんだ。

このように、物語が自立するだけのパワーを持つ時は、結構、神話や古典のモチーフにそっていたりする。


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