<<2001年2月 の日記>>

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2001/2/13

地球少女アルジュナ*」ってなかなかいい。


2001/2/14 (神話とワイドショー)

ワイドショーと神話はすごくよく似ている。 ヒーローやヒロインのことを語っているフリをして、実はどちらもエグい話ばかりだ。 不倫、殺人、グロ系のオカルトなど暴力や嫉妬をベースにした話題が多い。 嘘だと思うなら、古事記でもギリシャ神話でも読んでみろ。 何故か女性週刊誌に多い奇形児や障害者なんかもよく出てくるし、 ミッチーサッチー顔負けのオバタリアンやら叶姉妹みたいな正体不明の怪しげな美女とか結構「濃い」人物が多いことに驚くだろう。 最近の流行りで言えば、クスリを使った強姦未遂や強姦致死もあるし確か死体遺棄もあったはずだ。

何より共通しているのが、マッチポンプ原理がベースとなっていること。 神々しい人物が意外に俗っぽかったりズルかったり馬鹿だったりするという構造が基本的なストーリーの基盤になっている。 まず、その人がどれだけ偉い人か詳しく説明しておいてストンと落とす。 最近で言うと高橋尚子がやられたあれです。

人間というものは基本的にそういう構造の話を定常的に必要とする生物らしい。 もちろん、昔の人はつつましかったから、こういう話も濫用はしなかった。 だから、毎日のように新しいスキャンダルをでっちあげなくても、何百年となく語りつがれてきた同じ話で用が足りた。 現代人は何かにつけ強欲であり、エネルギーも食料資源もスキャンダルも生存に必要な量の何倍も欲しがる。 しかし、こういう話で埋めておかないと埋まらない穴が心の中にあるのは同じである。

現代日本において、こういうことを研究している第一人者が梨元勝だとすると、 ヨーロッパで最初にこの穴の構造に気がついたのがユングである。 奴が生きていたら、俺は梨元と共著で本を書かせてやる。 きっと深層心理学における偉大な業績となっていたことだろう。 必要なものは必要なんだから、だれかこのことを真面目に研究してくれよ。 まあ、両方に精通した*田口ランディ*という人がいるからとりあえずは何とかなるかもしれんが・・・。

2001/2/15 (プログラマーのための宗教)

俺はプログラマーだからOSはもちろんエディタにもメーラにもこだわる方だが、 *宗教*を選ぶのも簡単にはいかない。 まず、当然のことながらプログラミングを禁止している宗教には入れない。 これを止められたら家族もろとも路頭に迷うからあたりまえなのだが、 さすがに在家信者がまっとうな仕事をするのを止めるラディカルな宗教は少ない。 問題はそういうことではなく、コードを書くという作業は俺にとってある種の快楽の追求でもあることだ。

バグの無いコードを徹底的に追求していくと、 その構造の中にある種の「美」が生まれてくる。 それを感じるセンスがないと単なる職業的プログラマーとしてもなかなか一人前にはなれない。 美しいコードを読んだり書いたりすることは、ハッキリ言って楽しいことである。 ごぞんじのように、一番楽しいこと(かってVHSを推進し今ネットを推進するパワーの源つまりアレです)を禁じる宗教は多いが、その勢いで「楽しいことはとにかく全部ダメ!」みたくなってる所も多い。 俺だって、仕様書と納期があればそれに従うが、コードを書くという行為は根本的には楽しくてやってるのであって、 これを止める宗教はやはりイヤだ。

じゃ、快楽の追求を容認すりゃいいのかと言うと、 「だいたい、プログラムなんぞは下賎の行為だが、しょせん罪深いおまえのような者は下賎の行為がふさわしい。 見逃してやるからほどほどにしとけよ」などと言われるものやはりちょっとイヤ。 つまりこれを勘弁してくれさえすればどんな宗教でもいいかと言うと、そうはいかない。 なぜかと言うと俺は、よいコードの中にある美・・・実にシンプルなパーツの組合せで驚くほど複雑で多彩な処理を可能にする、 あの不思議な感覚は、もしそういう存在があるとしたら、何か神につながるものがあるに違いないと考えている。 だから、どうせならコードの美しさと共存できるような世界観のある宗教にしたい。 もうちょっと欲を言えば、あの独特の美をちゃんと説明できる体系を持った宗教がいい。

こんなイッチャってること言うからと言って、 俺が神様の声を聞いたり光を見たりというアンビリバボー系の経験があるわけではない。 そーゆーことは一切ない。 心霊写真特集を心待ちにして喜んで見るがその夜はぐっすりと安眠する。 うちの奥さんはアレを見ると眠れなくなるからと 「信じてないなら見るな」などと(やややつあたり気味の)苦情を言うのだが・・・。

ただ、神様のいない物質だけの世界にきれいなコードが存在するということが論理的な矛盾であるような気がするだけだ。 頭の中で原子や分子がガシガシぶつかったりはねたりしているうちに、よいコードができるとはとても思えない。 それくらいちゃんとしたコードの存在って奇跡的なんだよ。 だから物質以外の別の存在を仮定する世界観の方が、プログラマーとしての職業的な直観に合致するのだ。 同じようなことはペンローズという物理学者も言っている。 ちゃんと本業で賞をもらった偉いひとだが、 「現代の物理学では人間の頭の中で起こることは全部説明できない」と言っている。 ただ、彼は「だから今の物理学は不完全だ」と言って物理学のほうをいじってすませようとしてるようだが、 俺は天才ではないので、そこまでやる気力はない。 妥協して「別の存在」をいろいろ物色している。 「別の存在」はそりゃ掃いて捨てるほどいろいろあるが、 コードを書くというこの馬鹿げたヘンテコな行為をうまく説明できる奴がなかなかいなかった。

ところが最近そういう要求仕様にかなり近いものを見つけたので、ここで報告しておく。 ニール・ウォルシュという人に降ってきたメッセージである。 「神との対話1〜3」という本になっている。 これが結構イケてるのだ。

一番気にいった考えかたは、 「神さまには何でもできるが、ひとつだけできないことがある。 そのたったひとつだけどうしてもできないことをさせるために、神さまは人間(生命、物質)を作った」 という話だ。 その神さまにできないたった一つのこととは 「神自身を体験すること」 俺たちは神さまの代理として、神を体験するためにここに出張させられている。 かなり俺流(落合かお前は?)にねじまげているが、 このウォルシュさんの説明は、俺がコードを書いたり読んだりする動機を説明できちゃうんだよね。 (正確を期せば、代理でなくて実は本人なんだが「体験」するためにはこういうふうに身をやつす必要があるという。 水戸黄門じゃないけどね。まあ、詳しくは本家を見てちょ)

神様は、ありとあらゆる形でこの世界を隅々まで体験したいそうだ。 もしそうであれば、*linux*を書いたりemacsを書いたりする体験もそれに含まれるに違いない。 さらに、そういう経験をありとあらゆる方法で味わうために、 この世界にはこんなにもたくさんのプログラマーとlinuxユーザが必要なのである。

2001/2/16 (ジョージアのCMにパラレルワールドを見る)

一介のサラリーマンの浜ちゃんが家族サービスのためにスキーに出かけ、 帰りがけに道路工事の交通整理をしている松っちゃんとすれ違うというあのジョージアのCM。 あれがメチャメチャ好きだ。

あのCMにはただごとでないリアリティがあると思う。 あれは単なるフィクションではなくて、 俺達のこの世界のすぐ横には、浜ちゃんがサラリーマンをしていて松っちゃんが道路工事をしているあの世界が実在しているのではないか。 CMの製作者とダウンタウンの二人は、その世界から発信されてる電波を無意識に受信しながら演じているから、あんなにリアルなんじゃないだろうか。

その世界では、別の誰か・・・例えばこれを読んでいるあなたが「人気者で行こう」や「ダウンタウンDX」をやってるかも。 ただ、あの世界の浜ちゃんと松っちゃんが芸能人長者番付の常連になっている自分を夢見ながら不承不承その人生を歩んでいるとは思えない。 平凡な毎日を平凡にそしてそれなりに楽しく暮らしているような気がする。 あのCMを見る限りでは、彼らはどちらの世界でも同じ波長で生きていける人たちじゃないかな。

ああいうふうに常に自分を見失なわない人に俺はなりたい。

2001/2/19 (聖徳太子の賞味期限が切れた)

「戦後政治の総決算」なんて見方はまだまだ甘いと思う。 では「明治以来の無理な近代化のツケ」がいよいよ回ってきたのか。 それとも、「本質的には鎖国を続けてきた江戸時代からの国民性」を変えねばならないのか。 俺は、そんなもんじゃすまないよ、と言いたい。

そもそも、今回の政局で一番おかしいことは、責任者が不在であることだ。 これはむしろ自民党の一党独裁の時の方がはっきりしていた。 三角大福中の時代には、総理総裁が変わる時には実質的には政権交代がちゃんと行なわれてきた。 気配りとがまんの竹下さんと言うが、クーデター後は最後まで大将と喧嘩し続けた。 トップが腹を切る時は、取り巻きも一蓮托生だったよ。

ところが今回、次の総理候補として名前が上がっているのは、全部責任者じゃないか。 まず、最もオフィシャルな意味での連帯責任があるのは、副総理格で入閣している橋本。 まあ、これは表の顔ぶれが権力とつながってないという自民党の事情を考慮してやってもいい。 そうなると、派閥のNO2である小泉の名前が出るのがおかしい。 最近は自民党の動きは派閥単位で考えちゃいけないみたいだ。 そうなると、実質的に森を選んだ4人組の一人である野中が有力候補だってのはどういうことだ。

「自民党ってのは、悪いことばっかりする人たちの集りなんだよ。 今さらそんなことに驚いてどうする」 とか言われそうだけど、 彼らには彼らなりの倫理はあった。 その倫理が法律や一般の常識とはちょっと違うのは確かだけど、 彼らなりの独自の倫理はちゃんと守られてきた。 失敗した奴が責任を取るという、本当に最低限のルールが乱れたのはつい最近だと思う。

何でこんなことになっちゃったのか考えるには、 政治家じゃなくて俺たち自身のあり方をもう反省しなくちゃいけない。 政治家たちがリスクを避けて勝馬にのりたがるのは、やはり俺たち日本人がどこかでそういう選択をしてるんだと思う。 受験戦争やバブルだって、みんなして勝馬に乗りたがるからここまでおかしくなってる。 勝つ方を選びたいのはあたり前なんだけど、 選択する時にはリスクがあるということを受けいれなくちゃいけない。 俺には日本人が目の前にリスクがあるという現実を否認してるように見える。 そのことが問題を深刻にして歪めてしまうのだ。

それで、こういうリスク回避の元祖は誰かというと、これが何と聖徳太子なんだよ。 あの時も、ローカルルールの神道を取るかグローバルスタンダードの仏教を取るか重大な選択を迫られていた。 国内世論はまっぷたつで、どっちを取っても深い傷が残る局面を向かえていた。 聖徳太子は一応仏教派の蘇我について実権を握った。 政治的にはそれなりにケリをつけたけど、戦後処理の中で施政方針として、 「どっちも取る」という表明をした。 対立する二つの思想を矛盾を解決しないでひとつの体系に収めるという、世界史上誰もやってない離れわざを演じた。 ひとつ上のレベルに視点を上げて矛盾を解決するってのはヘーゲルがやってる。 しかし、矛盾を解決しないで体系化するってのは聖徳太子以外誰もやってない。 そんなことをちょっとでも考えた奴さえいない。

もちろん、聖徳太子は天才であり日本にとって恩人であり、 その後1300年以上我々はその恩恵を受けてきた。 例えば、深刻な*宗教*がらみの内戦はないし近代化もうまくやった。 しかし、さすがにとうとう賞味期限が切れたようだ。 俺は、リスクを取らない国民と責任を取らない政治家に、そのマイナス面を見る。

2001/2/21 (T-REXとニュートンとミール)

昔むかし、グラムロックというジャンルがあって、これは今の人にわかりやすく言うなら、 ビジュアル系の元祖である。 男が化粧してやや軽めと言うかキャッチーなロックを歌う。 だが、ひとつだけ大きな違いがあって、グラムロックの連中は目のすわり加減はハンパなものではなかった。 というのは、現在では想像できないほど男が化粧するというのは強烈な反逆行為だったからだ。 そもそもロック自体が市民権を得ていない時代に、 他のロッカーからも「なんじゃあいつらは」と言われるようなことをするのだ。 地球を全部しょいこむような悲愴感がただよい触れれば切れるような緊張感があった。

かように、リアルタイムで経験しないと真価がわからない仕事が世の中にはある。 ニュートンの仕事もそうだ。 ニュートンはT-REXと違い誰でも知ってるし教科書にも載っている。 しかし、やはり奴の革命性も今の人には理解できないだろう。

「万有引力の法則」の本当の意味はなんだと思う? 重力加速度がどうのこうのとか、距離の自乗に比例がうんぬんとかじゃない。 あれの本質は、月とリンゴが同じ法則でさばけると言うことだ。 つまり、天上の事物と地上にあるものに共通の原理があることを発見した、というのが大事なことなんだ。 それまでにも、科学は発展していたし、ケプラーなどは数学的にはニュートンと同じ方程式を発見していた。 だが、それまでの科学は地上に存在する物体を扱うもので、空の上のことは管轄外だったのだ。 だって、そこは神の領域だから。

リンゴが落っこったあの日に、この世界から「聖なる領域」が消滅した。 男の化粧と同じで、慣れてしまうとなんでもないように思うが、これが実は大変な変革なのだ。 ニュートン以前の科学者は、信仰と科学が矛盾していなかった。 劣等生が徒競走で優勝したりメンコが強かったりすることでステータスを確保できた、言わばちびまる子ちゃん的な秩序と同じで、 バッテイングしない複数の価値観、世界観を持つってのはいいことだ。 今の人にはわかりにくいだろうが、なんてったって居心地がいい。

ポスト・ニュートン世代の俺たちは、神様なんて本当はいないことを知っている。 天上の世界に神様はいない。 いないどころか、ゴミ問題が深刻だ。 来月の13日は、実はうちの奥さんの誕生日で、俺は毎年これを忘れないように気をつけなくちゃいけないのだが、 今年はありがたいことに、ちょうどその日に空からミールが降ってくる。 宇宙も俗な空間になったもんで、今日は燃えないゴミの日(ただしプラスチックは不可)だったと思うと、 明日はミールが降ってくる日だったりして、両方がゴミ問題というカテゴリーでくくられてしまう。

聖なる領域って実はゴミ捨て場に近い機能を果たしていたりして、 これを喪失することで、俺たちはやっぱり「捨て場」に困っちゃったりしてるのだ。 つまり、仕切りのない一枚岩の世界で俺たちは、 捨てたつもりのゴミが自分に返ってくることを意識しながら生きていかなくちゃならない。 目を明けて見る方と目をつぶって見る方・・・、どっち側でも同じ困難をかかえているんだよ。

2001/2/22 (俺たちの「リリース2.4.0」)

音楽ファンの一人として、たくさんのバンドの終焉を見てきた。 しかし、これほど平穏な気分で終わりを向かえることができるのは初めてだ。 「このバンドはちゃんとやってるから、いつなくなってもおかしくないんだよ」 Yukiがそう言った日に、俺は今日の日が来ることを予感していた。 そして今、とても晴れやかな気分で彼らの最後のCDを聞いている。

もちろん、俺にとって*Judy and Mary*がどうでもいいバンドだからじゃない。 むしろcurrentで活動しているバンドの中では、最も好きなバンドだ。 しかし、unstableなブランチはいつかstableなメインの枝にバックポートされなくちゃいけない。

世の中には、unstableな音楽とstableな音楽がある。 *linuxカーネルの2.3.xと同じように、unstableな音楽とは先進的であるが不安定な音楽だ。 楽しみはいろいろあるが仕事には向いていないし、頼ることはできない。 そういう音楽しかないとしたら人生はもっとハードなものになる。 stableでなければ生きていけないし、unstableでなければ生きてる意味がない。 ソフトウエア開発と同じように生きることは難しい。 だけど、Judy and Maryがunstableな輝きを失うことなく解散することは嬉しいことだ。

また、世の中にはunstableな社会とstableな社会もある。 アメリカという国は、怪しげなパッチもどんどん入れてしまう一番unstableな国だ。 俺たちは、日本というstableな社会にこの最先端のブランチをバックポートしてる最中なのかもしれない。 バックポートとは、unstableなバージョンに入っている尖った機能を、 stableなバージョンに移しかえることだ。 例えばlinuxのUSB対応機能は、unstableなバージョンである2.3の上で開発され、 ある程度安定した結果が得られるようになってから、 stableなバージョンである2.2にバックポートされた。 そして安定性をもう一段高めて、2.2.xとしてより多くのユーザに提供され、 さらに細かいバグを取る。 この時、stable上で得られたバグに関する情報は、2.3にも反映される。 こういう相互的フィードバックの過程を長い間経てから、やっと2.4はリリースされたのだ。

ヨーロッパとアメリカもそういう関係にあるのかもしれない。 ヨーロッパは長い間2.2のようなstableバージョンで地道に国や社会を運営してきた。 stableバージョンは一般的に長いメンテナンス期間を経ているうちに、 構造が明解でなくなる。 例外が多く全体像を把握するのが難しく自然と無駄が多くなる。 部分的でもいいから、ゼロから再設計したくなった時、人はunstableなバージョンを分岐する。 一から作り直すとどうしても新たなバグがたくさん混入する。 ヨーロッパは長い間洗練されてないアメリカ人やアメリカ社会のことを田舎者と馬鹿にしてきた。 しかし、再構成したバージョンは無駄がないから、動きだせば強い。 その強さが最もはっきりと現実化したのがネットというものだろう。

だが、仕事はそれでは終わらない。 stableなレベルまで品質を上げてより多くのユーザを収容できる2.4をリリースしなくちゃいけない。 linusでさえ、この最後のフェーズは見こみ違いをして1年以上予定をオーバーした。 時間はかかったが、どうにか彼はこれをやり遂げた。 俺たちも、とっとと2.3と2.2を融合して2.4をリリースしてしまおう。

蛇足だが、Judy and Maryの美しい終わり方は俺にもうひとつインスピレーションを与えてくれた。 正しく生きれば終ることは恐くないし悲しくないってことだ。 「俺はちゃんと生きてるから、いつなくなってもおかしくないんだよ」 そんな言葉をサラリと言えるように「ちゃんと」生きていこうと俺は思っている。

2001/2/25 (提言:世代別二院制)

仮に田中康夫が歴史に残る名知事になったとしても、 お隣りの岐阜県に攻めこんで岐阜県知事を兼任というわけには行かない。 長野県のことは長野県民が、岐阜県のことは岐阜県民が決める。 こういうふうに当事者が決めるのが地方自治の原則であって、 民主主義の原則でもあるのだが、この原則は時間軸の方向にも適用すべきではないだろうか。

財政、エネルギー、環境、国防・・・。 こういう30年とか50年のレンジで考えなきゃいけないことに70や80のくたばりぞこないが口を出すのはおかしい。 ジジイどもに良心や先見の明があるかないかという問題じゃない。 民主主義の原則は、利害に関係する人がみんな集まって決めるということだ。 いくらノックさんを選んじゃうからと言っても、大阪の知事は大阪に決めさせるのと同じ。 長期的に影響のある政策は若い人が決めて、ジジイが口出せるのは1〜2年の目先のことだけにするべきじゃないか。

具体的に言うと、 参議院衆議院の二院制は廃止して長期的な政策を考える「長期院(長院)」と単年度の予算だけを決める「短期院(短院)」の世代別二院制にする。 そして、長院は選挙権も被選挙権も20才〜40才に制限するのだ。 40過ぎたら、自動的に長院の議員にもなれないし長院議員の選挙に投票することはできない。 もう次の世代に託すわけだ。

長期短期で利害がぶつかる時は、長期優先。 例えば、赤字国債をどれだけ出すかは長院が決める。 そこで予算の枠を決めて、その枠の中をどう分配するかは短院が決める。 目先の政策は全員で決めるべきだけど、先のことは若い人の方が関係するんだから、 そういう人が主体で決めるべきだ。

このシステムでいいことは、教育にも真剣味が増すこと。 成人式で暴れるバカの悪口を言ってるだけではすまない。 もうじき自分らは連中にこの国を渡して、口を出せなくなる。 そうなると人ごとじゃなくなるだろ。 好き勝手に説教をたれ流すだけじゃなくて、実効性のある道徳教育とは何かをもうちょっと本気で考えなきゃならなくなる。 そうなって初めて、連中が自分らの本質を真似してることに初めて気づくのだ。

2001/2/27 (森=フロンガス説)

森総理とかけてフロンガスととく。 こころは「最初無害だと思ってたら、致命的にマズいことがあとから判明。 何事にも反応が鈍いが妙にしぶとい。 早く退治しないと全滅の恐れあり」 で、全滅するのは自民党か日本か?人類か地球環境か? 前者であればほっといてもいいが、後者であるかもしれないからやっぱり退治しとく?



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