<<2001年5月 の日記>>

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
. . 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 . .

2001/5/13

地球温暖化で海面の平均水位が1mとか2mくらいでも上昇したら大変なことになるのだが、 たとえ10m上がったって日本列島全てが水没するわけではない。 同じように、子供にとって学校がどれだけストレスフルな場所になったとしても、 そこで楽しく有意義な生活を送る子供は常に一定数存在する。 変化の無い所だけを見て、問題がないと言うのはナンセンスだ。 それで、いったい学校へ行く子供と行かない子供はどこが違うのか長年考えてきたのだが、 突然、答えがひらめいてしまった。

子供が学校へ行かないことを選択することは、親に非常に不快なショックを与える。 経験者の一人として言えば、あれは霊光波動拳をのみこむような辛い経験となる。 玄海ばあさんは幽助がこれに耐える素質があると思ったから、 あの試練を与えたわけだが、 子供も自分の親を見て、これが試練に耐えうると思うと、不登校という選択をする。 残念ながらそうでない親をかかえた子供は、黙って学校へ行き続ける。 つまり、子供でなく親の潜在能力が道を分けるのだ。

不登校が親にとって何故試練になるかと言うと、 自分の言葉のリアルさを点検させられることになるからだ。 「学校へ行け」とリアルに言うためには、自分自身がリアルさを持たければならない。 しかってなだめてお願いして何かエサでつってみたりあきらめたり絶望したり、いろいろやってるうちに、 いつのまにかそのポイントに無意識に気がつかされる。 何をやってもリアルでないと子供は反応しない。 なかなかリアルになれない自分に直面することで、自分の人生の棚卸をさせられてしまう。

それでは子供や学校に起因する要因を何故考慮しないのかと言うと、 子供にストレスを与えている原因が、海面の上昇のように日本中に遍在するものだからだ。 つまり、学校におけるあらゆる指示がリアルでなくなっていることだ。 「朝は8:30に来い」 「朝礼の時は並んで立っていろ」 「教室で座って先生の言うことを聞け」 「宿題をちゃんとやってこい」 「寝る前はちゃんと歯をみがけ」 俺たち親の世代が聞いたこのような言葉は、その当時はいくぶんかはリアルだった。 リアルな言葉に従うのは、それほど辛いことではない。 同じ言葉でもリアルでない言葉に従うのは、全く別の経験である。 そして、こういった言葉にリアルさを与えていたのは、教師でも親でもなくある種の社会的な合意だ。 そのパワーソースが機能しなくなっているのだから、 ごく一部の例外をのぞいて、子供に対してリアルな命令を下せる大人がいなくなったのは当然である。 だから、ほとんど全ての子供たちがもれなく厳しいストレスにさらされていると見て間違いない。

それで、平均値としてこのような状況が進行しているのは間違いないが、 個々の学校やら家庭にはそれぞれ個別の要因があるから、 当然子供が受けるストレスにも濃い薄いがある。 その濃い薄いや子供自身のストレス耐性によって、学校から逃げるか逃げないか決まるものだと俺は漠然と思っていた。 その通りだったらまだよいのだ。 臨界点に達した子供はもう既に逃げていることになるのだから。 しかし、どうもそうではないのだよね。 子供に真剣に接する教師ほど「なぜこの子が?」と疑問を持つらしい。 10万人が不登校したら10万通りの原因があるとか言ったりする。 そうではない。たぶん子供の中には要因はないのだ。 親のキャパシティが事を決すると仮定すると妙にいろいろなことのつじつまが合ってくるのだ。

そして恐しいことに、この理論から自動的に導かれる結論として、 臨界点に達しているのにその状況から逃げ出せないでいる子供が相当数存在することになる。 学校へ行かない子供より行ってる子供の方を心配してる場合なのである。


2001/5/14 (「出しっぱなし」の害)

普通、人間は外部と通信するための外向きのチャンネルと自分自身と通信するための内向きのチャンネルを持っている。 たいていは両者をほぼ均等に使って生きている。 外向きのチャンネルをほとんど使わないで生きている人たちには「引きこもり」という立派な名称が与えられているのに、 内向きのチャンネルがぶっこわれた人には、用語が定義されていない。 そこで、俺が「出しっぱなし」という言葉をこのたび考案してやった。

タレントとかアナウンサーとか政治家とかには「出しっぱなし」が結構いると思う。 青島幸男が「知事さんは、あたりまえだけど一日中、365日ずっと知事さんなんです。これが結構キツかった」と言っていた。 赤ちょうちんに行ってもSPがついてきて、 それでも無理して飲んでやっといい気分になったら、どっかで地震があって呼び出される。 そういう日常が耐えがたかったと言うのだ。 要するにプライベートな時間が無い生活はつらいということで、これがあたりまえの人間の感覚だ。

10年も20年も部屋から一歩も出ないというのも随分な片寄りだけど、 プライベートな時間が一切ないような生活を10年も20年も喜気として続けるのもやはり普通じゃない。 商売上の必要からしかたなくそうするなら、これはこれでしょうがない。 しかし、一定のポジションと権力を得たら、久米宏や大橋巨泉みたいにそれを行使してプライベートな時間を確保しようと思うのが当然。 タレントは売れてくるとそういう方向に動く奴が意外に多いが、 なぜか女子アナと政治家はそういう必要性を全く感じない人の割合が多いような気がする。 こういう片寄った人を「出しっぱなし」と呼ぶことにする。

俺が言いたいのは、「引きこもり」と「出しっぱなし」は均等に論ずるべきだと言うこと。 「引きこもり」が異常だと言うならば「出しっぱなし」も異常だと言うべきだ。 「引きこもり」を無理に直そうとするなら「出しっぱなし」の治療も強制すべきである。 俺のスタンスは、基本的にはどっちも好きでやってるのだからほっとけばいい。 ただ、一部は本人が非常にキツい思いをしてそういう生活を続けているのに自分で止めることができなくなってる。 そういう人には救いの手がさしのべられるべきだ。 全部ではないが「出しっぱなし」の人を見てて、時々かわいそうになることがある。

別に俺の意見に同意しなくてもいいが、 両者を理由なく区別するのはやめてほしい。 「引きこもり」を問題にするのと同じくらいは「出しっぱなし」の問題を考えるべきだと思う。

と言うと、おそらく「引きこもりは社会に対する寄与がゼロであるのに、 出しっぱなしはたとえ背後に病的なものがあったとしても社会に貢献しているから、 同等には論じることはできない」という意見が出てくるだろう。

残念でした。 ここには奇妙な対称性があるのです。 「引きこもり」は寄与もしないが、社会に対して害も与えない。 「出しっぱなし」はノーマルな一般人より、大きな仕事をすることがあるのは間違いない。 早い話が総理大臣や知事などは「出しっぱなし」でなければつとまらない。 青島幸男のように、そうでないノーマルな人が間違ってなってしまうと仕事が停滞して迷惑だ。 だが、こういう連中は一旦社会に対して害を与えはじめると、とめどがなくなってしまうんだよね。

引きこもりは常にプラスマイナス0。 一般人は、プラス50かマイナス50。 出しっぱなしは、プラス1000かマイナス1000。 結局、期待値はどれも同じである。

一例をあげれば、諫早湾の干拓事業。 俺は、人間のためになることなら自然を壊してもかまわないと思う。 政治家が私腹をこやすのも基本的にはOKなのだが、あれだけは認められない。 あれだけの公金を流用するなら、もっともっときれいに人に迷惑をかけずに私腹をこやすことができるはずだ。 あれだけ自然を壊していいなら、もうちょっと乗数効果の高い経済的に有効な手がいくらでもある。 つまり、あれを強行しても誰も嬉しくないんだよね。 あれは頭が悪いというより、内向きのチャンネルのぶっこわれた人間がやる典型的な行為だ。

ビルゲイツのような「エゴイスト」の害は限界があるから恐くないんだけど、 「出しっぱなし」は壊れているだけに、やることにとめどがない。 俺は自分のビョーキの面倒で精一杯なんで、他人のビョーキは基本的にはどうでもいいのだが、 社会で共有する問題として他人のビョーキに首をつっこまなきゃならんとしたら、「引きこもり」じゃなくて「出しっぱなし」の方が先だと思う。


2001/5/15 (人を鬱にする音楽と犯罪)

20世紀になってから作曲家はドレミファソラシドを普通に使っちゃいかんことになったらしく、 「現代音楽」というのは、だいたい一般人が「?」というものになっている。 俺は、結構幅広くいろんなジャンルを聞く方だと思うのだが、 さすがにあの類はちょっと苦手だ。

だが、「2001年宇宙の旅」の月のモノリス発見の場面で流れる曲(リゲティという人が作ったそうだ)を聞いた時は「なるほど」と思った。 あれは、聞いているうちにどんどん鬱になって行く。 確かに、普遍的に人間を動かすパワーがある。 あの曲を聞くまでは、現代音楽なんてのは五線譜にでたらめを書くか、目茶苦茶に楽器をかきまわしていれば、 それでいいのだ、くらいに思っていたのだが、 あそこまで人間の不安感を煽るには、才能とかテクニックとか理論とかいろんなものが必要だと納得した。

それで、最近の犯罪がなぜ人を揺るがすのか、なぜ妙に人を不安にするのか考える上で、 ああいう音楽はひとつの啓示を与えてくれる。 つまり、昔の犯罪は例えば松本清張の世界みたいな貧困から発生する情念がベースになっていた。 これは言わば演歌だな。 あるいは、ロックの根本的なテーマである若者が体制に反抗するという物語。 純粋に金銭的な動機の犯罪は、その冷たさからユーロビート(これはちょっと苦しいかも)。 まあ、真似する気にはならなくてもだいたい動機はわかる。 ドレミファソラシドの並べ方はいろいろあるが、 大半の音楽がドレミファソラシドでできているのとおんなじで、 大半の犯罪の動機の構成要素はおおよそ誰にでも想像がついた。

もちろん、全部が全部説明できるわけではなく、 今も昔も電波な人はいた。 電波な人は、誰もいない空間とおはなしするし、理解できないことをする。 そういう人が犯罪を犯した時には、やはり動機を聞いてもわからない。 ただ、このわからなさは今のように人々を不安にしなかった。 これは、猫が弾くピアノと同じだと思う。 デタラメではあるけど音楽ではない。 そういう音を聞かされても、人はやかましいとは言うだろうが、不安になったり鬱になったりしない。

このように例えていくと、現代の犯罪はまさにリゲティだ。 ドレミファソラシドが普通じゃないから、理解できないことは同じ。 でも、それは素人のデタラメじゃなくて、ある種の独創性となんらかの精緻な構造を持っている。 人々の心を揺るがす何かを持っている。 一般人には決してできないことだ。 嘘だと思うなら、自分で想像しうる限りの最も奇妙な犯罪を思い描いてください。 それを実行に移したと仮定して、新聞の一面に載る自信ある? 首尾よく一面にのったとして、その記事は現実に起きている犯罪のようにあそこまで人々を不安にできる?

で、さすがの俺も次の一節を書くのはためらうのだが、 やっぱりこれはある種の表現であり、それができる人間は天才なんじゃないか? 彼らが表現しているものにまっ正面から向きあうことが、こういう犯罪を抑止する最も効果的な方法ではないのだろうか? それが具体的になんなのかはわからないが、きっとそれはリゲティに「もう二度と作曲するな」というくらいの覚悟が必要なことだと思う。


2001/5/26

昔のサラリーマンはせっせと残業ををして飲みニケーションなるものをかわした。 今のサラリーマンはそれをしない。 これを見て人はサラリーマン気質も変わったなどと言う。 なぜ事象の片側だけに注目するのだ? サラリーマンが変わったのでなく、残業や飲みニケーションが変わったのである。 正確に言えば、それらが個人に持たらすものが変化したと見るべきである。

不登校が増えたのは子供が変わったのでなく学校が変わったのであり、 主婦の引きこもりが増えたのは、主婦が変わったのでなく主婦をとりまく世間が昔と違うのだ。 少年犯罪が増えたのは、少年が変わったのでなく少年を取りまく社会が変化しているのである。 正確に言えば、それらが個人に持たらすものが失われたのだ。

で具体的にそれは何かと言うと、これは説明するのが難しい。 説明の仕方をいろいろ考えているうちにあることに気がついた。 経済成長なる概念が内在しているひとつの謎である。 何が不思議って、経済成長って奴の単位が摩可不思議なのだ。 これは兆円でもなくドルでもなくパーセントで計ることになっている。 つまり、今年の経済と去年の経済が違うということを前提としているのだ。

GDPと同じように微分値で計った方が具合がいいことがあるのだと思う。 残業ができたり学校へ行けたりすることがあたり前でなかった時代が視野の中にあって、 今はそれができるというのは微分値が高い。 しかし、親の世代がそれをあたりまえのようにしていたから、 子供もしろというのは、微分値がゼロだ。

人間は個人のレンジでは安定を求めるが、社会的な事象では一定量の微分値を必要とするのである。 だから、経済成長は少なくとも2〜3%であるのが望ましいし、 会社も学校も家庭も年に2〜3%はぶっこわしてかなくちゃいけないのだ。

最近おかしなことばかり起こるとテレビでよく言っているが、 年2〜3%の社会の成長が起きているだけで、 10年前も100年前も1000年前と全く同じことが起きているだけだ。 別にビックリするようなことじゃないよ。


2001/5/27

1950年から75年までに全世界で音楽に対して投入された創造力の総量と、 その後の25年間に投入されたそれとはかなり大きな違いがある。

例えばジャズだけを見ても、50年代から60年代に至る中でどんどん複雑な和音を使うようになった。 それが極まってこれ以上複雑にしようがなくなると、目茶苦茶にピアノをぶったたくフリージャズというものが出てきた。 これは目茶苦茶であるだけに発展させることが難しく、 苦しまぎれにピアノに火をつけたり裸踊りをはじめたりして、これ以上やったら死人が出るという所で、 今度は一転してリズムの方が複雑化しはじめた。 まず、ロックのビートを取り入れた8ビートがはじまり、 次にそれを細分化して16ビートにすることで、 フュージョンとかブラックコンテンポラリーというジャンルが花開いた。

このようにジャズはこの25年間、絶えず様式を破壊して次の様式を創造することを繰り返してきたわけだが、 一方ロックでは社会と音楽のかかわりで革命を起こした。 50年代にはポップスというのは全てイロモノだったのが ビートルズによってロックが社会を革命するためのパワーであるという認識が一般化してしまった。 ビートルズが活動したのはたったの8年間であるが、 そのスマップより短い活動期間のうちにアイドルから革命家になってしまったのだ。

流行歌の枠を大幅にはみ出すことで得た、 いろいろな成果を持ちかえって新たなポップスにすることも既に70年代に試みられている。 シカゴやギルバート・オサリバンは今でも十分CMソングとして通用するわけだし、 我が国では73年に*ユーミン*が「中央フリーウエイ」や「海を見ていた午後」を書いている。

音楽と技術も密接に関わりあっていた。 トランジスタができたからアンプという電気回路で音を増幅し変化させるエレキギターができて、 ロックという音楽が可能になったわけだが、 もちろん若者の心を揺さぶるためにトランジスタは発明されたわけでなく、 そういうアプリケーションを編み出したことは独創と言ってよい。 ビートルズはいちはやく多重録音というものを活用しわけだし、 16ビートというリズムもドラムの各パーツを干渉させずに別個に録音できるようになって初めて、 心地良い音にできるリズムである。 75年以降もテクノロジーの進歩は止まってないが、それにこれほどビビッドに感応できた音楽家はいない。

2000年のヒットチャートを1975年のそれと比較してから、 1975年と1950年の違いを見てみろ。 あるいは、1950年から若者を一人誘拐して75年に降ろし、 そこでまた一人連れさって2001年に連れてくる。 50年の若者は75年の音楽を聞いて深い混乱に陥るだろうが、 75年の若者はMP3にはぶったまげるだろうが、そのデバイスで鳴っているのが21世紀の音楽とは思えないのではないか。

このように考察すると、 75年以降ポップスが完全に産業化されていることがわかる。 そこに創造力が全く使われなかったとは言わないが、 例えばお菓子産業で新しいポテトチップスの袋をデザインするために必要とするエネルギー程度のものだろう。 では、75年以降創造力はどこに投入されていたかと言うと、 映像とゲームである。 しかしどちらも音楽より容量は少ないしあっというまに産業化されてしまい、 今やガッツのある若者はみんなネットをしている。 Linuxやナップスターを生み出すエネルギーの根っこはこんな所にあるのだ。 そして、日本ではネットの普及が遅れた分だけ、エネルギーが暴発してんだろうね。

これからネットと教育に関わろうとする人間は、50年から75年の間の軽音楽の歴史を勉強した方がいい。 ここに投入されたエネルギーの凄さを思い知った方がいい。 それだけのエネルギーが25年間行方不明になっているのだ。 覚悟を決めてバックドラフトの中に飛びこむんだな。


[UP]