<<2001年6月 の日記>>

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2001/6/7

未来の歴史学者が21世紀初頭を研究しようとしたら、 一次資料として2ちゃんねるのログをチェックするだろうな。 それを勉強する学生たちは、 俺たちが「春はあけぼの」とか「いとをかし」とかを覚えるような感じで、 「逝ってよし」とか「氏ね」とかという単語を一生懸命暗記したりしてるかもね。

「名無しさん」だからっていい気になってバカなこと書き散らしてると、 末代まで恥をさらすことになるから気をつけましょう。


2001/6/8

てっとりばやく海岸から砂を取ってきてコンクリに混ぜると、 30年たってから鉄筋が腐ってあっちこっち滑落する。 去年、このことが随分騒がれたが、今になってやっとわかったんだけど、 これは一種の啓示だったんだ。

小学校に見張りを立てて男が乱入しないようにしようとか、 入院歴のある危い奴はちゃんと見張るようにしょうというのは、 これはこれで応急処置としては必要なことかもしれないが、 滑落するコンクリートを接着剤で止めましょうと言ってるようなもので、 本質的なことではないし、 長期的には破綻する。 次は入院歴の無い奴が見張りのいない別の場所で事件を起こすだけのことだろう。

俺は精神には深層というものがあるという立場を取っている。 深層があって構造がある。 論理や言葉というものは表層をなでるだけのものなので、 日本人の精神にとって鉄筋にあたるものが何かということは表現できないけど、 それが錆びていることだけは断言できる。 滑落する場所を予言することはできないが、 まだまだあちこちが滑落することは確かだと思う。

ただ、最近、ちょっと考えがかわったのだけど、 どこの国でも21世紀には、いったんサラ地にしてやり直さなきゃならないみたいだ。 だったら、簡単に崩れてしまうことも、まるっきり悪いことじゃないのかもしれない。

まるっきり悪いことではないんだけども、 とにかく鉄筋が腐ってるという認識は必要だと思う。 そして、このアナロジーで重要なことは、 外側から鉄筋だけをきれいに修繕する手段はないと言うことだ。 壊れるものをさっさと壊してしまうしか方法がないと言うことだ。

2001/6/11

もし地震を止める技術が開発されて、これがヘタに運用されたら、 プレートとプレートの歪みが蓄積されて制御不能なとんでもない大地震を発生させてしまうだろう。 トンデモ犯罪を考える上で、これと同じような力学的な観点が必要だと思う。 俺が思うに歪みが蓄積されやすい世代ってものがあって、 神戸とバスジャックと豊川の事件の年代がこれにあたる。 どの事件でも、同年代の子供たちが「犯人に共感できる部分がある」と言っていた。 もうちょっと踏みこんで聞き出せば、 「彼がやったおかげで僕はやらなくてすんだ」という発言を引き出せるかもしれない。

もうひとつの危険地帯が浩宮(60年生まれ)ととんねるず(64年生まれ)の間あたりにあって、 砒素カレーと音羽のお受験殺人と今回の児童連続殺人がここに入る。 どれも、仮に殺して逃げおおせたとしたら犯人に何か嬉しいことがあるろうか?という疑問がわく事件だ。 この世代はすでにビビッドな感性を失なっているので、「犯人に共感」などとはなかなか言わない。 実は、俺も浩宮と同い年でこの危険地帯に入っているのだが、 さすがに「共感」という言葉は使えない。 ただ「自分の心の中には犯人と共通する闇がある」くらいなら言ってもいいかなと思う。

「闇がある」というのは、これを自分の心の中から異物として排除したいという強烈な衝動がわくということだ。 「何故こういうキチガイを放置しとくんじゃあ」というヒステリックな意見は犯人を異物としてラベリングしたいという欲求から出てくる。 どれだけ人がこれを排除したがってるか知りたければ、 キチガイがからまない同程度に悲惨で突発的な事件を想像してみればよい。

例えば、タンクローリーが横転してそこにスクールバスが突っこんで大爆発して死者数十名という事件だったらどうだ。 タンクローリーの内容物やら積載量やらが基準を満たしていたか、 その基準は適正なものなのか、 適正な基準で運用されているのに事故が起きたのは偶然の要素があるのか。 こういう専門家の分析が繰り返し報道されるだろう。 「タンクローリーは公道を走るな」とか過激な意見は 「・・・という意見もあります」というやや冷笑的なかたちで紹介されるに留まる。 子供たちを爆死させたタンクローリーとそのへんを走っているタンクローリーが違うものだという当然の認識が先に立つからだ。

しかし、現実に起きたこの事件では、 どいつもこいつも因果関係の分析より先に何らかの対策をたてたがる。 なぜかそのへんにいるキチガイは学校に乱入したキチガイと同一視される。 全ての学校に警備員を置くより、その予算で交通事故の対策でもした方がより多くの子供の命を救える。 こんな意見を言ったら袋叩きだ。 だけど実際には交通事故で死んでる子供の方がずっと多いんだよ。 なんかおかしくないか? 結局、理解不能な犯罪を起こす奴は「キチガイ」とラベリングして安心したいのだ。

ある専門家が今回の事件の犯人について「これまで多くのトラブルを起こしているが、その中に精神障害の徴候はほとんどない」と言っていた。 俺も奴はキチガイではないと思う。 別の専門家は「人格障害」と言っていた。 「人格障害」ってのは、便利な逃げ口上であって 「これは私が学校で直し方を教えてもらったキチガイとは明かに違うんだけど、 それを正直に言うとあたりさわりがあるのでゴマかしておきます」という意味なのだ。

地震の原因が震源地でなくて断層の歪みであるように、 あの犯人のことをいくら調べても原因はわからないだろう。 そして、プレートとプレートのズレがある限り、 歪みが蓄積されどこかでそれが解放されなくてはならない。 解放を止めようとすれば、より多くの歪みが蓄積されさらに大きな事件が起こる。 「大きな」というのは死人の数ではなくて(それもあるかもしれないが)、 「理解不能度」「トンデモ度」がアップするということだ。

必要なことは、断層に蓄積しているエネルギーをできるだけ広い範囲で分散させて解放することだ。 それは具体的に何なのだと言われたら、 「犯人が表現した闇、そして自分の心の中にもある闇を正直に見つめることだ」と言うしかない。 こういうあいまいな言葉の使い方は嫌いなんだけどね。

2001/6/16 (M・タクマ氏の犯罪)

ある朝、俺が会社に着くと、俺の机に見知らぬ男が座っている。 そいつは当然のように電話に出たり部下に指示したりしている。 誰もそれを不思議と思わないのが不思議だが、 どうもここではそいつが俺と認識されているらしい。 俺はあわてて逃げ出して、いろいろ調べてやっとのことでその男の正体を見破った。 そいつは、なんと俺の「名刺」だった。 これはやっかいな奴が相手だ。 なんてったって奴は「名刺」であるだけに、俺の肩書きは奴の手の内にある。 肩書きをはずされてしまった俺は、俺が俺であると主張できる根拠を何もちあわせていない。 逆にあいつの方が、俺の人間関係を全て握っている。 俺の回りの人間は誰もが、俺でなく俺の肩書きと関係を結んでいたからだ。

これは、安部公房の「S・カルマ氏の犯罪」(のリライト)だ。 中学生の時に、これを読んで「なんてくだらねえ小説だ」と思った。 当時は当然そんな言葉はないが、まさにこれこそ厨房である。 例の容疑者についての詳しい報道を聞くまで、俺にはこれの価値が認識できなかった。

奴は社長の名刺と医者の名刺を作って、お見合いパーティでナンパしていたそうだ。 人がどれだけ人間でなく肩書きを相手にしているのか気がついた時、 安部公房は物語を作り、宅間守は名刺を作る。 どちらも多くの人間の深層心理を特殊な方法で蒸留するタイプの人間であるらしい。

強盗が金を得ようとする手段を人は非難するが、その動機を非難できない。 同じ動機を持ちあわせているし、それを自分で認識しているからだ。 そして、その目標に向かって別の形で邁進しているからだ。 宅間は社長の名刺と医者の名刺を同じ名刺屋で同時に作った。 安直に肩書きを得ようとするその行為について、 誰もがそのあさはかな手段をあざわらうだろうが、 その動機についてはどう思うのだろうか。

俺は社長と医者に同時になろうとする自分を想像することはできない。 だから、2枚同時というとこだけは笑いものにする資格があるだろう。 だが、出世欲や名声欲も多少は落としてきたつもりだが、 落とそうとすることの難しさを通して、 いかにそういうものがたくさん自分の中に詰まっているかよくわかっている。 だから、名刺を作ることの動機の方は簡単には笑えない。

物事を安直に得ようとするその性向が、ひとつの破滅に向かって彼の人生をドライブした。 だとしたら、数十人の子供を刃物で傷つけるという破滅の最終局面において、 ピークを迎えたのは彼の残虐性でなくてやはり彼の安直さと思わなくてはいけない。 肩書きを得ようとする誰もが持ち合わせている動機を、 宅間の安直さで得ようとすると二枚の名刺になる。 それでは8人の子供の命を奪うという許しがたい行為によって、 彼は何を安直に破壊させようとしたのだろうか。

宅間の狂気や妄想だけがひとり歩きしてその動機を生み出したと思うことはそれこそ安直である。 彼が俺たちの欲望の中から二枚の名刺を抽出して見せたように、 やはりあの行為も俺たちの心の中にある何かを反映していると考えざるを得ない。


2001/6/17 (トクモリ、ツユダク、ハイリマス)

「いかがですか」という美しい日本語を、「ご一緒にポテト等いかがですか」というセンテンスの中でしか口にしたことがない、 あるいは、耳にしたことがない若者が相当数いる。 このまま行くと、 「いかがですか」という言葉にネガティブな印象を持つ人が増えて来る。 あるいは、バイトに「いかがですか」という日本語を習得させるためのコストがばかにならなくなる。 いつか、マニュアルが書きかえられる日が来るだろう。 代わる言葉が「どうですか」になるのか、 我々がまだ聞いたこともない珍妙な言葉になるのか、それはわからない。 どちらにせよ、切替の時期と用語の選択でマクドナルドは難しい判断を迫られる時が来るだろう。

「特盛、つゆだく、入ります」という奇妙な言葉使いには俺は相当な違和感がある。 つゆだくはまあいい。 新語なのかそうでないのか知らないが、語感が和風であって意味も直感的によくわかる。 問題なのは「入ります」という言い方で、「いったい誰がどこへ何のために入るのだ」とからみたくなってくる。 まさか俺の口の中に牛丼が入ることを宣言しているのではないだろう。 それは注文した直後に発声される言葉であり、「口に入る」という事象はまだはるか未来のことだ。 まだそのフェーズに到達していない。 それでは入るのは何なのか、熟考を重ね、ようやく「注文」ではないかという仮説を得た。 「注文」だとしたら逆に「入りました」になるべきではないかという疑念が残るのだが。

疑問と微妙な反感はあるのだが「特盛、つゆだく、入ります」という言葉が、機能的であることは俺も認める。 当然、意味は明解であるし何より威勢がいい。 習得に困難もない。 俺には適当な代替案は思いつかない。

この機能性と曖昧さを保ったまま、この言葉を英語に訳すことはおそらく不可能だろう。 「鬱氏」とか「串」「鯖」のたぐいや「漏れ」なども、同様に機能性と同時に微妙なニュアンスを保持している。 サービス産業と2ちゃんねるで、何故そういう不思議な日本語が生まれるかと言うと、 どちらも機能性と文化が衝突する場であるからだ。 相反する要求に締めあげられて、日本語の潜在能力が発掘されているのだ。 リミット技とかトランスとかスーパーサイヤ人とかと同様の現象が発生しているのである。

これと比較すると、銀行の幹部や官僚の使う言葉はいかにもだらしない。 「経営判断が甘かったと言われるが、当時はだれも土地が下がるとは思っていなかった」 平気でこういう甘えた言い方をする。 「当時の一般常識に従って行動しただけで、経営判断は正しい」 責任を感じるなら、このようにはっきり主張して悪役を引きうけるべきだ。 それによって、問題の輪郭が浮き出てくる。 「一般常識」とはどういう範囲の一般常識なのか。 経営者の仕事とは一般常識に従うことだけなのか。 一般常識というマニュアルに従っていれば経営者の職務は成りたつのか。 「いかがですか」という店員とどういう違いがあるのか。

とりあえず、金融機関はこうやってロジカルに追いつめるべきである。 そこでロジックと文化の矛盾する所まで締めあげるべきである。 同じ凡庸な言葉でもマクドナルドの「いかがですか」のように鍛えあげられた凡庸さ、というものは存在するのであって、 その段階まで達してない金融機関には甘えがある。

2001/6/26

日本中探したってSMAPになれる人間は5人しかいない。 SMAPであることの難しさ、それは3点ほどに集約されると俺は考える。 第一に多芸多才であること。 第二に2の線と3の線という矛盾する方向性を同時にこなすこと。 そして、最も重要な第三のポイントは人格の裏側まで曝すことが職業の一部を構成していることだ。

「人格の裏側まで曝す」とは何を言っているかと言うと、 例えば、少年隊の東が何かハレンチな行為をしてつかまったとする。 人は驚くだろうが、キムタクが同じことをしたら比べものにならないくらいの大ニュースになるだろう。 両方を頭の中で丁寧に想像してみればわかると思うが、 我々がテレビで見ている東は「作りもの」だという暗黙の了解があるのだ。 それに対し、キムタクは生のキムタクを見せている。 あるいは、ナマであるような幻想を強く与えている。 だから、東がプライベートな生活の中でテレビで見ている東と違う側面を見せたとしても、 それほど驚きはない。 しかし、キムタクがそのような危険な人格を隠し持っていたとしたら、 我々はその事実を受け入れるのにちょっと苦労するだろう。 我々はキムタクの人格の全てをテレビで見ている気になっているからだ。

このような方向性はSMAPのオリジナルではないが、 このスタイルのひとつの完成形をSMAPの5人は見せていると思う。

言うまでもなく、これは大変困難なことで、日本中でこれを成し遂げることができるのが、 5人しかいなくても驚くには値しない。

だが、今、日本全体で教師という存在に対してこれと同じくらいの困難なことを期待し、強いているような気がする。 教師が求められていることとは何か。 これもやはり三点にまとめることができる。 まず、多芸多才であること。 別に「いいとも」に出られるくらい面白いことをしろとか言うわけではないが、 勉強を教え、事務作業をこなし、生徒の進路を考え、しつけをして、さらにさまざまな心の問題に対処する。 某所では、180cmの大男が包丁を振り回していたら、これを取りおさえるのも教師の仕事だという暴論も出ているらしい。 ありとあらゆることを教師にさせたがる。

特に、偏差値を上げることと、心の問題に対処するという二点は、矛盾する作業だと思う。 SMAPは全員がお笑いのツボを心得えているし、「いいとも」レギュラーの三人は司会者として安定感のある仕事をする。 昔は、アイドルというのは自分はカッコつけて目立ち、回りがバカをやって引きたててもらうポジションだったのだが、 その両方を同時に成立させるというのは、かなりきわどい作業だと思う。 両者は完全に逆方向とも言えない。 サッカーで言えばDFがオーバーラップして攻撃に参加するのと同じように、 強烈な才能があれば矛盾を突破することは可能かもしれないが、 やはり、教師もこれと同じように完全に矛盾しているわけではないが、かなり矛盾していることを求められている。

そして、もうひとつの問題は、教師には全人格的な関与を平気で求めてしまうことだ。 営業マンは成績さえ上げれば、風俗にいくら入れこんでも非難されない。 大工は家をたてれば、偏屈な性格でも仕事がある。 しかし、教師は立派な人格者でないといけないことになっている。

だから、世間一般の期待に十分答えることのできる教師は、日本全国で5人くらいと見るのが妥当だと思う。 多少のレベルダウンを認めるとしても、ジャニーズ全員の人数を加えて20〜30人程度だろう。 言うまでもなく、こういう職業は職業として成立していない。 職業と言うのは、一定の訓練と一定の規律で誰もが要求を満たすことのできる作業で成り立っていなければいけない。 ある程度の適性や能力を前提とするとしても、 要求水準が、ppmで計るようなものではなく、せめて5%くらいは合格できるものでないと「職業」とは言えない。

得てして、無能な上司に限ってSMAPやイチローのような水準の能力を部下に要求する。 こういう会社は組織としてなりたたない。 自分の果たすべきポジションが明確でなくなるからだ。 教育の混乱は、これと同じ状況で、 先生方がいったい自分が何をしたらよいのかわからないのではないだろうか。



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