<<2001年10月 の日記>>

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2001/10/12 (2ちゃんねるは「言霊」の制約を受けない場である)

「どの程度の雨で運動会を順延にするか、明確に決めておきましょう。 当日の朝6:30の東京都多摩西部の予報が、20%以下なら決行、 70%以上なら中止、その中間の場合は午後の予報を含め、 下記の式で算出した確率が・・・」 なんてことをしつこく言ってたら、 変な奴か嫌な奴である。 こうゆう奴がどう変なのか、なぜ嫌なのかを分析して、 日本人の危機管理意識の低さと共通の構造があることを発見したのが、 井沢元彦の「言霊理論」である。

日本人は無意識に 「何かを音声として発声することで、その事象の発生確率が増加する」 という信仰、あるいは迷信のようなものを持っていると井沢は言う。 運動会順延の条件を明確化しようとする奴は、 「雨」「降る」「中止」等という言葉をたくさん使わざるを得ない。 これらの言葉を遠慮なくガンガン使うと、 明日、実際に雨になってしまう、というわけだ。 確かに、誰かがこういう議論をさんざんして雨天順延となれば、 みんなで「あいつのせいだ」と言いそうな気がする。

危機管理というのは、 最悪の事態を想定して最善の手段を予め検討しておくことだから、 当然、「最悪の事態」のいろんな側面を言葉にする必要がある。 「日本の肉牛が8割方 狂牛病に感染していたら」 「ハイジャックされた自爆ジェットが原発に突っこんだら」 「某国から何十万人という難民が日本に押しよせてきたら」 こういう事態で、何人死ぬか計算することから始まる。 こういう「縁起でもない」ことは 結婚式の忌み言葉みたいに、 多くの日本人が無意識に避けてしまうというのだ。

政治も行政もマスコミもこの「言霊」のために、 いろいろな所がゆがんでいると井沢は主張する。 切れ味はすごくいい。 マルクスのように切れ味がよすぎて、 使い方に注意する必要があるが、 これで、本当にいろんなことが説明できる。

ところが、日本の中で唯ひとつだけ、 この「言霊」の影響を全く受けていない場がある。 言うまでもなく「2ちゃんねる」だ。

「明日、運動会です」というスレがたてば、 とりあえず「雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨」というレスがつくのが2ちゃんねるだ。 ひととおり忌み言葉を吐き出してから、 意味のある話が始まる。 話がもりあがってくれば「おめでとう、明日の降水確率80%」等とギコ猫が言いはじめる。 日本で、本当に危機管理の議論ができるのは2ちゃんねる以外に考えられない。 実際に専門家が本音で(AAや煽りの間をぬってだが)真摯な議論をしている。 他の場における議論とどこが違うのか細かく観察していくと、 ここでの発言は「言霊」問題に制約されないというポイントに行きつく。

例えば、 狂牛病のスレッドを見ていると、 まだ解明されてないプリオンのふるまいに関して、 いろいろ恐ろしい話が専門家から出てくる。 「豚や鶏は 狂牛病に感染しないのではなく、 感染しているが発病する前に寿命が来て死ぬだけだ」とか、 「血液感染を示すデータがあって牛乳も×という研究がある」とか。 このように、 「可能性は非常に低いが万が一起きたら大変」なことというのは、 「言霊」の制約を受けやすい話題なのだが、 2ちゃんねるに限り抵抗無しに書きこめるようだ。

匿名というのは、問題の半面でしかない。 2ちゃんねるが単なる「匿名掲示板」だったとしたら、 単なる冷やかしやおふざけで終わってしまうはずだ。 もし、誰かが「チクリ」をしようとしたら、 比較的安全で効果の大きい2ちゃんねるを選ぶのは、簡単に説明できる。 しかし多くの告発者は、 「チクリ」をしようとして2ちゃんねるを探しあてたのではなく、 2ちゃんねるを見ているうちに「チクリ」をする気になるのだ。 「匿名」には動機を引きよせる力はあるが、 動機を産み出す力はない。 そこには別の何かがある。

途中だが俺の話はここまでだ。 その力が何なのかを解明するには、 「聖」だの「俗」だのがどうしたこうしたという*宗教*学的な分析が必要なのだと思う。

2001/10/15

もし、自分の娘が「おとうさん、私はこの人と一緒になります」 と言いだして、その男がたまたまプログラマーだったら、 俺はそいつにRubyでコードを書かせる。 そして、そのコードを見て娘を幸せにできるかどうか判定する。

Rubyというプログラミング言語は、 楽しいことを仕事にすること、あるいは仕事を楽しむことを要求する。 それができないとうまくプログラムができないようになっている。 開発者のまつもと氏は、 何事にもすごく柔軟な発想をしバランス感覚に優れている人だが、 「Rubyはプログラミングを楽しくする言語」 ということだけには、かなり頑固であり意固地である。 Rubyは過去の言語の「いいとこどり」をした寄せ集めの言語だが、 この点だけはユニークであり一貫している。

楽しさを最大化するには、自由が必要である。 Rubyは他の言語に比べて、プログラマに大きな自由を許している。 「オブジェクト指向」という思想をそのために使っている。 そして、自由が混沌にならないように、「自治」のための仕組を用意している。 自分で自分を律していけば、 どれだけ仕事が大きくなっても仕事は崩壊しない。 たくさんの人がネットを通して共同作業しても問題ない。 ただし、自治でなく他律的なコントロールを求めた瞬間に、 全ての自由度が反逆してコードは滅茶苦茶になってしまう。

*Java*はこのようの観点で見ると、Rubyの対極にある言語だ。 Javaはプログラマ性悪説を取っている。 誰かの仕事を監視するために、これほど洗練されたシステムはない。 「監視」するということは期待すべき仕事の「成果」について、 何かを知っていなくてはいけない。 ソフトの世界で「成果」を全部予見できたら、仕事が終わっているということだ。 最終的な「成果」の本質をうまく取り出さないと「監視」はできない。 Javaは「オブジェクト指向」をこのような「監視」のシステムとして活用している。

同じ「クラス」という言語の概念を、 Javaはひとを縛るために使い、 Rubyはひとのいましめを解くために使っている。 どちらも過去の伝統を正統的に引きついでいる言語だが、 Javaではプログラマーが迷子にならないように伝統を活用し、 Rubyではプログラマーが冒険に出るために過去の知恵を集積している。

「Just for fun」という動機から成された最も大きな仕事がLinuxだ。 Rubyは同じ道を行き、これに匹敵する成果をあげるだろう。 *オープンソース*の本質はここにある。

ここ数ヶ月、痛いほど思い知らされたように、 「憎しみ」も大きな仕事の動機となり得る。 「憎しみ」にかられたプログラマーにはJavaが必要だろう。 この事実から目をそむけるのは非現実的だ。

しかし、"fun" も同じように大きな仕事を成し遂げる。 これも事実であり現実である。 RubyとJavaというふたつの現実を同時に見ることは、 たやすい仕事ではない。

だが、人間はそれをするためにこころとからだを同時に不可分に与えられているのだ。


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