花ごよみ

7月23日

sennou

花 仙翁花(センノウゲ)・蓮(ハス)・西湖葦(セイコヨシ)

器 古銅獅子耳付花入  薄板 真塗矢筈

仙翁花は、室町時代初め頃、中国から伝わったそうです。将軍家はじめ宮家や大寺院で行われた「七夕法楽」の記録の中には、仙翁花を数千本集めたものもあるとか。それは浄土を出現させることだったと川瀬先生はおっしゃいます。仙翁花は、長いあいだ幻の花で、近年流通するようになり、我が家の庭にまで来てくれました。七夕には間に合いませんでしたが、夏の花ですね。


唐物

「虚に居て実を行ふ 実に居て虚を行ふに非ず」

先日、川瀬敏郎先生の花を拝見する会(デモンストレーション)で、先生が紹介された芭蕉の言葉です。利休の「花は野にあるように」も同じかもしれません。「虚」のなかで、「実」以上に「実」と思わせ、真実を感じさせるのが俳句であり花なのでしょう。溜息しか出ませんが。。。

今回の会では、先生御所持の、室町時代の相阿弥と金重の掛軸を掛けて下さり、東山文化さながらの、唐物の籠や銅器がずらりと並べられ、そこに花が次々といけられていきました。

先生の花を拝見し、芭蕉についてのお話をうかがっているうちに、中世から近世にかけて唐(から)から来た物、唐物の器は漢詩かもしれないと思いました。芭蕉は、和歌や連歌はもちろん、漢詩も極めて俳句にたどりついています。利休が唐物の書院茶を経て侘び茶という「かろみ」に行きついたように、本当の意味での「なげいれ」や茶花をいけるには、「唐物」を我がものとしていなければならないのでしょう。

今年初めの読売新聞に、三島由紀夫の未発表テープが発見されたという記事が載り、「漢文の素養がなくなってから、日本人の文章はだらしなくなった」という一節が胸に刺さりました。祖父が漢学者という三島の作品を読み返し、この文章のシンは漢文なのかとしみじみ思うと同時に、自分の文章も読み返し、なるほど、と。。。私のまわりでも、卓越した文章を書く方たちは、漢文・漢詩が「好き」とか「かじった」と謙虚におっしゃっていらしたことを思い出します。

漢詩なら、おいそれと手にとって読もうとはしませんが、唐物の花器には出来心で花をいけようとしてしまう。漢詩は素養がなければ入り口でつまづきますが、花器は水を張って花をいれるだけですから、ある意味、誰にでも可能で、いけた気になってしまう。実際、私も先月のお稽古で、素晴らしい唐物籠を使わせていただき、先生がお持ち下さった、稀有な気配をただよわせた松をお借りしていけました。先生に直していただくと、一瞬、唐物が少しわかったかのように錯覚してしまう。恐ろしいことです。

さて・・・、文は人なり。だらしない文章を書くのはだらしない人だからで、したがって、いける花もだらしない。とりあえず、「夏休みの宿題」として漢文を勉強しようと思います。少しでも文が変わり、花が変わることを願って。



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