花ごよみ

5月25日

chaburui

花 山紫陽花 瀬戸の月(ヤマアジサイ セトノツキ)・深山鳴子百合(ミヤマナルコユリ)・糸薄(イトススキ)

器 竹耳付時代籠

「瀬戸の月」は高知県産で、小額空木(コガクウツギ)と山紫陽花の自然交雑種だそうです。



花ときもの

「花ときものは似ている」。「いけばなの方」と「きもの会社の方」との対談を読みました。どちらも伝統的な型があり、そこに時代の息吹や新しい感性を自由に吹き込むのだとか。

何が「新しさ」なのかと言いますと、花は、洋花も多用し、ライブパフォ−マンスをしたり、音楽に合わせていける。きものは、仕立てる段階でその人に合わせておはしょりを縫っておいたり、伝統にとらわれない素材を選ぶといったことだそうです。

「伝統と革新」はいつの時代にも存在した永遠のテーマですが、ただ「邪道だ」としか言わないのでは、「旧態然としているだけ」と言う側との水掛け論で、不毛だと思います。

「花ときものは似ている」。私も同じ考えです。どちらもまだまだですが、花がわかるようになれば、きものもわかるようになる。きものがわかるようになれば、花もわかるようになる。これは確信に近いものがあります。

いつ、どこで、どのような目的で、誰のためにいけるのか。着るのか。ひとくちにTPOと言いますが、これは本当に難しいことです。パーティーなどのきものは、たいてい様々な「解釈」があり、いろいろな方がいらっしゃるので気楽といえば気楽ですし、きものを見れば、その人なりの「考え」がわかるので興味深く、勉強にもなります。場数を踏むのが何よりですが、どうにもこうにもわからない場合もあります。たとえば、川瀬先生の花講座です。先生は平服でどうぞとおっしゃって下さいます。しかし、先生がいけられた花は、往往にして神がかりになるのです。つまり、かみさまがいらしてしまう。先生には、お言葉に甘えて普段着のきものでお許しいただけるとしても、カミとなった花に対して、いったい何を着ればよいのか。答えはまだなく、いつも頭を悩ませています。

花は、花と器と板と、場合によっては掛け軸が、その場所でテーマに沿い、一つの世界をつくりあげてこそです。きものなら、きものと帯と長襦袢、半襟、帯揚げ、帯締め。取り合わせがいくら完璧でも、いけ方、着方で台無しになるのも、花ときものは同じです。上手下手というより、人となりが現れてしまうおそろしいものだというところも一緒でしょう。

花もきものも、見る人を楽しませ、喜ばせなければ意味はないのだと思います。川瀬先生は、お稽古の時によく「マイモード」という言葉を使われます。「ひとりよがり」とか「自己満足にすぎない」という否定的な意味です。花見の宴などに桜のきものを着る人がいますが、本物の見事な桜の前に偽物の桜があっても興醒めなだけで、「マイモード」の典型です。昔から、茶花では桜をいけなかったようで、理由は、どこにでもあるから。お茶会に呼ばれ、道すがら、さんざん桜を見たあとで、茶室に入ってもまた桜ではつまらないのは道理です。日本文化の大きな柱の一つは「先取り」ですから、花の咲く前にその花のきものを着るように、身近な桜が開花していない時に、一足早く咲かせていけるのは一法かもしれません。満開の桜の時季であっても、桜の本質が凝縮されたような、究極の桜をいけられればよいのかもしれませんが、古の昔から、万人の心に刻まれているような花は、いけるのも着るのも難しそうです。

川瀬先生は、お稽古や講座の時に、しばしばきものを例に挙げて説明なさいます。この花は木綿のきもののようだとか、この籠は結城紬のようだとか、夏の花は涼しげに、透ける紗のきもののようにいけるとか、師走の花は、きものの丈を短くキリッと着て働くイメージでいける、といった具合です。先生が結城のようだとおっしゃった籠は、確かに民具でありながら揺るぎない風格があり、普段着である結城紬のきものが袋帯をも受けて立つように、どんな気高い花をも受け入れられる懐の深い籠なのです。花ときものの世界が持つ格、風合い、空気感は、つくづく似ていると思います。

花はまず、どこが故郷か。寒い地方か、暖かい地方か。山育ちか、野の育ちか。水辺か、はたまた庭か。同じ種類の花でも、育った場所、育てた人が異なれば、まるで「別人」ですし、「花を切る時点でもういけている」と川瀬先生がおっしゃるように、どの花を選んで切るかで決まってしまいます。きものもまったく同じで、どこの糸をどのように織り、誰が染め、そして最後は、誰が仕立てるか。品種改良された外国産の絹糸を化学染料で染め、「海外仕立て」されたきものと、日本の絹糸を日本の草木で染めたり描いたりし、「男仕立て」されたきものでは、「トルコ桔梗のいけばな」と「川瀬先生のたてはな」ほどの差があると言っても過言ではありません。まったく同じ「型」でありながら、外国で作られた帯と比べると、私が普段着用に好きな古裂で自作した帯の方が、はるかに「帯」なのです。「型」の意味とはいったい何なのか。つくづく考えさせられます。

川瀬先生は「型」をお教えになられません。お稽古のとき、先生から言われて一番うれしいお言葉は、「花になってる」です。「茶花は本質的か本質的でないか。それしかない」ともおっしゃいます。型のない川瀬先生の花と、強固な型を持つきものの究極の共通点は「自然」かもしれません。時には原種のチューリップ、時にはインドの古更紗が「花」になり「帯」になるのも、それらが「自然」だから受け入れることができるのでしょう。

花をいける人の数を増やしたいとか、きものをたくさん売りたいとなると、どうしても大衆に迎合し、本質的なことを不問に付して、楽な方へ、楽な方へと流れます。「入り口は入りやすく」というのが、昨今の伝統芸能の世界におけるキャッチフレーズのようになっていて、大量生産された免許皆伝の方たちが生きていくため、どの分野でも人集めに必死なようです。しかし、伝統芸能が大衆化したのは江戸時代のことで、それまでは限られた階層だけが担っていたわけで、レベルを維持するためには、それでよいのではとも思います。「普及活動=善」と思われがちですが、はたしてそうなのでしょうか。

川瀬先生は「入り口」から超がつくほど難しく、教える人数も制限され続け、入門してからの「五年生存率」は数パーセント。「時代に逆行」していらっしゃいます。川瀬先生に花をいけることを教えてもらいたくて、講義クラスに席を置き、実技クラスの席が空くのを待っている方たちは山ほどですから、家元のように誰かに代稽古させ、大先生はたまにお出ましという形態なら、いくらでも教える人数は増やせるはずです。でも、それはなさらず、100%ご自分で、厳しくとことんお教えになる。まったく「時代に逆行」です。時代に迎合しようとする方達のところに人がなかなか集まらず、時代に逆行している人のところに人が集まるとは、なんとも皮肉なものです。私が入門して間もない頃、「十年の節目に、後進に席をお譲りしようと思います」とおっしゃってやめていかれた方のことは忘れられず、私もプラチナシートにいつまで座っていてよいものか考えてしまいます。花もきものも、進歩なくして未来なしということだけはわかっているつもりですが。。。

最後になりましたが、こちらで川瀬先生の『一日一花』が紹介されています。出版後、4年以上経ってもこうして紹介されるのは嬉しいことです。丸善丸の内本店3階に、そろそろ並んでいる頃かと。







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