風のホール公演パンフレット文章

ハイドン交響曲「疾風怒涛期とは?」

1:知らない曲を聞く

皆さま、地味な選曲にもかかわらずようこそいらっしゃいました。

ハイドンの、特に、有名な「時計」「軍隊」「驚愕」などのロンドン交響曲以外の(初期・中期)交響曲を聞くということは、ほとんどの方にとっては、とりもなおさず「知らないもの」を聞くという行為です。「知っているものだけを、毎回なぞりながら聞く」「覚えてしまったら、やっと楽しめる」という音楽の聞きかたは、最も自然でらくちんなものではあるけれど、実はもっと大きな楽しみ方があることを知って、お集まりいただいたものと考えています。

例えるなら、知っている近所のイトーヨーカドーと保育園までの道だけを走っているドライブと、どこにでも走っていける、初めて行く場所でも大丈夫!という人の違いでしょうか。

「(その曲を)初めて聞いても、楽しめる」ことは、長い間クラシック音楽と付きあっていこうとするときに、とても大事な能力になります。そのときに、とても大きなよりどころになるのが、ハイドンが膨大な創作の中でぼんやりと模索しながら、しだいにはっきりと我々に示してくれるようになった「形式」という考え方です。

・形式は「ルール」である

ここでいう形式、とは、野球を見るときにルールを知っている、というようなこと。9イニング、打ったら走る、3アウトで攻守交代とかね。

3者凡退、送りバントにヒットエンドランの「普通」の試合運びの部分もあれば、2アウト満塁トリプルプレー、パーフェクトゲームというとんでもないいドラマが起きることもあるのが野球ですが、ルールを知らないければ満塁の緊張もドラマもわからない。交響曲も同じです。

もう、始まり方からしてトンでもないというものもあれば、異常に緊迫した雰囲気のもの、上品きわまりないもの、深みを湛えたもの、長いもの、内面的なもの、派手なもの、精密なもの、快速なもの、さまざまですが、これは基本の形式というもの、スタンダードを知っていることで、そことの比較において、理解される。

その「スタンダード」「普通の交響曲」こそ、ハイドンの交響曲であるといえます。しかし、「じゃ、何番あたりがスタンダード?」と聞かれても、ハイドンの交響曲にはひとつとして、「型通りに進行してなにも特徴がない」という曲がないので、(探してみましたが、ないのです。)できるだけ沢山の曲を知るうちに、そこにぼんやりと、やがてはっきりと見えてくる平均値、共通性、作り方の基本がスタンダードなのだ、というしかないのです。ベートーヴェンは膨大なハイドンの創作とその結果を研究してその平均値を徹底的に算出し、法則化してから創作にはいることができたために、あのような大きな建築を作ることができたのでした。それ以降の音楽がすべてベートーヴェンを手本として発展したために、それに慣れた耳で聞くとハイドンの作品は未完成な、未分化な、あるいは小規模すぎるものに聞こえることがあり、それがハイドンの決定的な不幸です。でも、ハイドンとベートーヴェンの創作環境はまったく違っていたことを思い出し、他の音楽と較べてハイドンを聞くことはやめてあげましょうねー。

・普遍的な法則を作ったハイドン

実は、ハイドンがアイゼンシュタットという田舎の宮廷に30年もの長さ勤務して、(ほとんど幽閉状態といえます)自らの楽団を率いて幾多の実験を繰り返し続けたことによって完成された「形式」は、ベートーヴェンからマーラー・シベリウスに至るまで、そして、交響曲だけではなく、ピアノ・ソナタは弦楽4重奏曲など、大きな器楽作品のすべてを包括理解できる法則のようなものなのです。

ルール>形式への知識と観賞経験<を身に付けてしまえば、知らない交響曲ではあるけれど、聞き始めるやいなや「ああ、これが第一主題か。なかなか旋律的・・・」「おや奇妙な音形覚えておこう」「繰り返したからここまでが提示部・・・」「転調、するわけですね」「さっきの奇妙な音形展開で使っている!」「あ、この曲は再現が不完全、いや、まった、これはお得意偽の再現・・」「これ、これほんとうの再現部!」「終るかな・・・あ、終らない!変わった結尾を付けている・・・ベートーヴェンみたいだ・・・」

などと、そのドラマ、ハイドンの仕掛けた、びっくり、いたずらなどをリアルタイムに楽しむことができます。それがどんなに大きな楽しみになっていくか、おわかりいただけるのではないでしょうか。当時の聴衆はそのように、毎回新しい音楽を聞いていたのですから。

この「形式」とは、外見上、「速くて複雑、ゆっくりで穏やか、メヌエット、快活なフィナーレ」という4つの楽章をもち、第一楽章にはソナタ形式をおく。(基本的に2つの主題が最初は違う調で現れ、その材料=動機を使った展開部の後に両方の主題が同じ調で再現され、終る。という形式。)場合によりゆっくりな序奏がつく。2,4楽章もソナタ形式を取ることがあるが、ロンドのことも、変奏曲のことも、フーガやカノンのこともある。ということだけです。たいしたこたーないんです。そんなこたーないか。

2:聞き方のコツ

そのために、今夜お聴きになる新しい(覚えていない)交響曲を使って、次のような練習をしてみましょう。

*その音楽はどんなふうに始まっているか、聞いた瞬間に「言葉」に直して、記憶して下さい。

例:「大きな音」「一斉に始まる」「激しい」「ヴァイオリンだけが旋律」「下ってゆく音階」などです。

*冒頭と同時のこともありますが、「目立つ旋律」「覚えやすい旋律」が来たとき、必死で覚えて下さい。それは道路標識のようなもので、すぐに過ぎ去ってしまいますが覚えて置かなくてはならないのです。その旋律はおそらく主題です。これを覚えることが出来ないと展開部はただの退屈になります。リズムだけでも、メロディの感じだけでも、どんな特徴でもいいから、「ピーちゃん」とか「ジュリエッタ」とか「3拍子三太郎」とか名前をつけたりして、言葉になおして覚えましょう。ただ、見失ってもがっかりしないで下さい。その旋律は少なくとももう一度、繰り返されるからです。(そのために、普通主題はすぐ繰り返されて記憶の中で「確保」されるばかりか、主題提示部>第一楽章の前半>は、文字通り「繰り返される」のである)その「再会」のとき、しっかりと脳裏に刻みましょう。

*つぎに、「反復」に気をつけて下さい。「あ、いま、同じことを繰り返した!」ということ。

今書いた「確保」などももちろんですが、音楽はよく繰り返されています。まったく同じ場合もあるし、同じことを「小さく」したり、「音域を変えたり」「楽器を替えたり」して反復していることもあります。8小節もの長い部分ごと反復することもありますし、わずか2,3コの音のつながりをしつこく繰り返しながらじらしたり、音域や和音、楽器に変化をくわえて盛り上がってゆく場合もあります。その、反復していることに注意して、頭の中で「反復!」「やってるやってる!」と言葉になおしてしっかり認識して下さい。反復をいつ、どのようにやめたか、(「脱けたー!」)も重要ですよ。

*これも大きな意味での「繰り返し」ですが、主題はいつか再現する、ということを知っていて下さい。再現した瞬間を聞き逃さないで下さい。頭の中で「再現した!」と、確認しましょう。

始めはなかなかわからなくて、道に迷うことがしばしばかと思います。音楽を聞くのがこんなに忙しい、汗のでるシゴトだとは想像もしていなかった!という方が大半でしょう。僕もそうでしたし、いまでもそうですから・・・でも、ぼんやりと聞いていたほうが間違いだったことに僕も40を過ぎてから気が付きましたが、実は音楽を聞くのは本当に大変なスポーツなのだと言えます。でも、幾度か汗をかいて必死で聞いているうちに、今度はぼんやりと、さらっと聞いていても、嘘のように、いままではただ聞き流すだけだった音楽の作られかたや内容、ドラマ、発展が聞こえてくるようになります。「今」、ハイドンは、ベートーヴェンは、なにをしているのか、攻撃なのか守備なのか、帽子を取っているだけなのか、それは実は3塁ランナーへのサインなのか、暴投なのか1球遊んだのか、次は多分フォークをほおるのか、けん制するのか、みんな、リアルタイムで聞こえてくるようになるのです。作曲してもらいながら聞いているような、「生中継」の気分は最高です。

まあ、ちょっと気をつけて聞いていると、覚えて欲しいものは覚えやすく、盛り上げて欲しいところはまさに盛り上がるように、作曲してあるのがわかりますけれどね。だから、「名曲」なのです。大事なことは、頭の中で「言葉になおす」ことです。そうやって言語として認識し、音楽をムードや色彩、感覚としてだけ聞くのではなくて、難しく言えば「論理」として聞くことは、脳幹を経て情報が左右に飛び交うことで素晴らしい観賞体験を産んでいきます。

「よし、第一主題」「う、このリズムどこかで・・・そうか!第二主題の始まりの3つか・・・」などと、言葉で確認しながら聞くことをお薦めします。汗、でますけどね。

3:今日の演奏者

今日は、とても珍しいハイドンの中期交響曲を、そのなかで区分された3つの時代から一つづつ聞いていただきます。

オーケストラはいつものメンバーがソロを控えて張りきってくれておりますが、コントラバス・ソロのあるものが続くので、九州交響楽団首席奏者で、先日「人間的楽器楽」長崎編のソリストをつとめてくれた深沢功君に上京してもらうことになりました。また、オーボエには新しく、新日本フィル首席でソリストとして全国的に活躍の古部賢一君を招いています。御期待下さい。

それぞれの作品

ハイドン:交響曲第72番

二長調

概説

まず、番号であるが、現在一般に使われているハイドンの交響曲の「番号」はホーボーケン(中華料理屋ではない)の整理番号で、1957年に編纂された。おおむね、年代順ではあるものの、いまだに詳細が判明していなかったり、誤ってその番号に入れられたが整理されていないものなどがある。この72番は1781年ごろの作品と見られていたが、のちにランドンの研究により、31番に先立つものと見なされている。これは、「主に4本のホルンを展示的に用いているということなどが31番(「ホルン信号」)に酷似しているが、それほど完成度が高くない」ため、31番のための習作、または・それとともに・同じ目的(新任ホルン奏者の紹介)の作品と考えられるということだ。ランドンは幅を見て1763-65ごろとしている。

この曲の題名についてはしたがって、「30.5番」「30+1/2番」あたりと考えていただき、「ホルン信号第2番」とか勝手に付けても怒られない。

このころハイドンはまだエステルハージの宮廷では副楽長であり、週2回のコンサートのために交響曲や室内楽を作曲していた。一般に「第一期」交響曲といわれる。まだバロックの合奏協奏曲の色合いを残し、内容的にも形式的にも重厚感はない。

第一楽章**(*は譜例)

4本のホルンを使いながらすべて同じ調性の楽器であり、「バトル」とか「技較べ」的雰囲気が漂う。演奏不可能なほど音域が高く、しかも難しいホルンパートは残酷にも4人の奏者にリレーしながら同じように課せられていて、今日の、「ホルンソロ、吹いて死ぬのは首席だけ」という感覚は通用しない。エステルハージの宮廷で、2名新任(フランツ・ライナーとカール・フランツ)として紹介され、先輩とともに小さな楽器を手に誇らしげに居並ぶ、技量伯仲の4人の奏者を彷彿とする。

テンポの微妙なのろさ、ぬるさはホルンの技巧を可能にするためでもあるが、まだこの辺にはバロック協奏曲の「中庸」なムードが漂っている。第二主題(*譜例)は判別困難であるが、一応低音に現れる。

第二楽章

ヴァイオリンとフルートのソロを弦楽器がひたすら伴奏するという可憐な楽章。「バッハです」といっても結構だまされてしまうでしょうね。非常に単純な3部形式だが再現では第二主題の調が変わったりして、ソナタ形式。

第三楽章:メヌエット

沈黙していたホルンが今度はグループ・サウンドで厚みを聞かせる。トリオではオーボエも活躍し、この時代のハイドンとしては珍しくもファゴットもソロを持つ。第二楽章とペアーで聞くと、サウンドの対比が意識されているのがわかります。

フィナーレ

これが、なんつってもこの曲のキモ。最初に弦楽器だけで演奏される簡素なテーマ(*譜例)を、いろんな楽器がソロで変奏してゆく。まずはフルート、チエロ(ハイドンのチエロ協奏曲をほうふつ!)、ヴァイオリン、コントラバス、オーボエ+ホルン、フルート含む合奏と続く。このあいだ、テーマのコード進行は変化しないため、まさにモダン・ジャズのジャム・セッションのようであり、それぞれの奏者が手ぐすね引いて臨んだに違いない楽しい雰囲気が閉じこめられている。

・エステルハージ第二期(別名:疾風怒涛期)の交響曲より

「疾風怒涛」は、当時の演劇の名前らしく、文学の世界で流行した概念だったらしい。日本で言えば「アララギ派」とか、「三田文学」とかそういう整理概念なのだろうか。ゲーテの「ウエルテルの悩み」をこの一派にくわえることもあるという。

副楽長ハイドンが楽長ウェルナーの死にともなって楽長に昇進し、教会音楽とオペラなども手がけるようになった1766年ごろから−73年にかけての交響曲創作には短調の、異常とも言える情熱のほとばしりを湛えた作品が多く、これをハイドンの「疾風怒涛期」と呼ぶことがある。(ハイドンには、これ以外の時代には長調の曲が全然多い。)ただ、上記の文学運動はハイドンのこの時期よりあとであって、またアイゼンシュタットの田舎で活動していたハイドンがこうした運動から影響を受けて文学的インスピレーションからこれらの交響曲を書いたのだろうという説はいまではほとんど否定されている。僕など、文学的に無知な人間からすれば、むしろこの時期のハイドンの創作の方が世界的に有名であって、そんな文学の話とは関係なく、ハイドンの「情熱時代」とか「激流時代」とか名付けてしまいたいほどだ。いくつか、例を挙げて聞いていただく。

部分的な紹介の演奏

交響曲第39番ト短調より

第一楽章の提示部

第四楽章の提示部(1768−70?)

この曲は、同じ調を持つモーツアルトの交響曲第25番「小ト短調」に影響を与えたと言われている。僕には、大きなほうの(K550:第40番)への影響も強く聞こえる。まずはその冒頭暗示的な開始とまさに怒濤のような音の津波、また技術的には、4本のホルンを二つのペアーに別けて、高い Bb管とG管2本づつとし、短調の複雑な音階に対応させていることなどがそれである。(当時のホルンは出る音が限られていたので、調によって管を変えたが、1種類の管では短調には対応しきれず、充分に活躍できなかったため。)なにより、この音楽の持っている「異常」な、休みなく噴出し、どこまでも疾駆する雰囲気をお聴きいただきたい。みなさんなら、どんな映画の場面にこの曲をつけるだろうか。

交響曲第44番ホ短調「悲しみ」より

第一楽章の提示部(1771−2)*(譜例)

この交響曲も短調であり、ホルンは1本づつの複調。打って変わって憂鬱な、極めて不安定な開始から、弦楽器の反復対話に重ねて、オーボエが2本で未解決の音を交換しあいないがら嗚咽するような長い音楽を、主題が幾度も断ちきるシーン、そのあとの予期せぬ長調による主題の出現などは、もはやオペラのようにドラマティックで、これ以前のハイドンの創作が「のんき」なものにさえ感じられる。年齢的にも立場としても独立した人格としてのハイドンが確立されたのではなかったか。

交響曲第45番「告別」

嬰へ短調

1772年初秋

今日聞いていただく交響曲の中で、唯一「有名」なのがこれであります。しかし、ハナシは御存知でも、全部聞いたことがある、ないし、肝心の最後んとこも、聞いたことがある、と言う方は以外に少ないのではないだろうか。

(僕も、かつて1回演奏したことがあったが、まるっきり記憶になかった。しかし、今回分析勉強してみて、この作品の凄さに今はぞっこんになっているのです。)

一応、これは「逸話」というより実話らしいが、御紹介しておきます。ハイドンの雇い主エステルハージ公は、夏には別荘(エステルハーザ宮)で過ごすことを常としたが、ここには楽団全員を伴い、しかし楽団員の家族はアイゼンシュタットに残された。この年(1772)滞在はなんと8箇月を越えて伸びに伸び、楽員はついに楽長ハイドンに「なんとかしてください!!部長!!」と泣きついた。そこで、ハイドンは新しい交響曲の最後に唐突にゆっくりな部分を作り、一人づつ楽員がロウソクを吹き消しては退場し、最後に自分とコンサートマスターのトマジーニだけが(ペタジーニではないし、トマソンでもないので。)残って、さみしく終るというウイットでその願いを表現した。ニコラウス侯はこのユーモアを理解し、翌日早速全員に休暇を与えたというのである。

音楽については後述するが、これを実話とするならば、ここには侯に非常に信頼された楽長としてのハイドンの姿と、それでもなお、「社長、たまには休暇下さいよー!」などと気安くはなしかける雰囲気ではなかった、あくまでもよそ事に奏上されねばならなかった完全一方的封建的関係というものも伺い知れて興味深い。

さて作品。

この時期のハイドンとしても、非常に質の高い、凝縮された音楽であり、末尾の逸話がなかったとしても、ハイドン中期の代表作であったことは疑いない。

まず、調の選択が極めて異例。嬰へ短調!!!聞いたことがありますか?転調のたやすい鍵盤楽器の曲ならいざしらず、すぐそば(行きやすい調)に最多#の嬰へ長調を抱えるしかも短調を選ぶというのは、むりに道路の崖っぷちぎりぎりを走っているような、切迫した作曲状態であるといえる。現に、曲の随所に、あきらかに普通に進行していない、ねじまがったような音階が聞き取れる。

第一楽章

ともかく、噴出しており、エネルギッシュであり、悲痛そのものであり、複雑な響きである。第一主題は和音を激しく上下に引き裂いたような跳躍型で、これが延々と変化しながら繰り返される。第二主題がない、とか、展開部で初めて二長調に現れるとかと言う見解が一般的だが、僕としてはとりあえず、基本通り並行調のイ長調に達したときに(数小節前から予言的に出現しつつも、だ。この曲は形式がブロックごとにがっちりしていなくて、あちこち「浸水」が起きている。)現れる新しいリズム(譜例)を第二主題と考えており、展開部に現れる唯一のやすらぎの旋律は、第二主題がリズム的(律動的)に展開されたものと理解している。怒濤、悲痛、分散和音的でまったく旋律性のない第一楽章の中間に、予期せず穏やかな旋律(譜例3)が現れ、しかも2度と登場しないというスタイルは、「運命」のオーボエ・カデンツを思わせる。再現部も定型通りではなく、展開してもしてもしつくせない、不死身のエネルギーを感じさせる。でも聞いていると、わけがわからないかも。整った、簡潔なベートーヴェンの再現部を聞きなれたおれたちは、「先生!校訂、推敲、したんですか!!」と問い詰めたくなるくらいだ。

第二楽章

怒濤の不死身がやっと終ったので、こんどは永遠の天国のようなながーーーーーーい音楽が来る。一応ソナタ形式だが材料が多くて確認しにくいはず。寝ていて下さい。

(あきらかに、「休憩」の楽章。でもよく聞くとまことに美しい。ポイントは「垂れ下がる」音形です。)

第三楽章メヌエット

始まり(第三小節)から、レコードの針が飛んだのではないかと思わせるほど唐突な和音がくっついてくる。よく知らないが一応6度の一種なんだろうか。教えて下さい。F#-C#7とサワヤカに進行したので、当然F# に戻るだろうと(旋律は戻ってるし)多寡をくくっていると、Dmajorに不意打ちをくらい、これを五度五度のように解釈して半音下のC# に戻ってくる。モダン・ジャズの代理コードのようだ。聞きなれるとむちゃくちゃにかっこいい。イキナリこの始末だから、ハイドンは油断ならない。しかもこのほうが(おそらく)楽器にとって弾きやすい(難しすぎない)からそうなっているのではないかという、現実受容>響きが変で面白い>そこが個性>利用。という図式が成立。

第四楽章

ある解説には、「グレゴリオ聖歌のよう」とあるが、旋律は確かに(5音音階的なので)そう、あるいは演歌調でも、雰囲気は「つり目」というか、「寄り目」というか、ともかく、「待ったなし!!」という詰め寄り系で始まる。つぎつぎと新材料が投入されて目まぐるしく運ばれてしまう上、提示部が結尾に至るあたりの作り方は実に鮮烈巧妙で、ものすごい爽快感がある。この脇役だった「爽快リズム」(*譜例)をすかさず展開部で偏愛するあたり、役者を知ってますなー、という感じだ。

例の「告別」のコーダはまったく新しい音楽に聞こえ、5つの楽章のようだが、調性としてはオープンで(もとの調に戻らずに。それでは終れないのが「ルール」。まだツーアウトなの。)その部分に入っており、あ、でも、さっきの爽快リズムを持ってくれば、F#mで終っちゃうこともできますがね・・・・ま、それはいいとして、アダージョと書かれた部分はイ長調で新しいが、終っていくときにはいつのまにかF#mに戻っている。人が減っていく間に手品を聞いたような気分だが・・・・・どうやって終るかお楽しみに。

休憩

交響曲第70番二長調(1779・12/18)

ハイドンの、オペラ作曲が中心となり、わかりやすく安全な作風が続く、次の創作期に属しているが、ハイドン研究家のランドンによって、「ハイドンの最も興味深い交響曲の一つ」として紹介され、有名になった。そこそこに。

この時期としては異例な、いや、交響曲という音楽としても、最も変わったものがこの70番ではないかと思う。

なにしろすごいことは4つの楽章それぞれが持つ強い個性とコントラスト。

ことに、あまりにも憂鬱でこっけいで俗でありながら高貴であるという矛盾しまくった性格を持っている第二楽章は凄い。これはまるでマーラーのようであり、とても通常の健全な人格だけから産みだされる音楽ではないだろう。

第一楽章

本日初めてトランペットが登場し、絢爛たる、めくるめくファンファーレ楽章をお届けする。とはいうものの、この楽章にはトランペットとティンパニはあとから付け加えられた。まずとにかく、リズムの饗宴というか、何拍子かわからないまま幻惑されて進行してゆく推進力と、安定したときに響き渡る堂々たる楽器法は、管弦楽を拡大してもらって多数のオペラを産みだしてきたハイドンの10年あまりの進歩をはっきりと記している。非常に祝祭的で快感に満ちた音楽。

第二楽章(*譜例)

前述のように極めてへンな音楽。ここ(三鷹)の足立プロデューサーと車に乗っていて、「こんなへンな音楽あるよ」と聞かせたことが、今日のコンサートの企画発端です。ハイドン自身はこの楽章に「2重対位法によるカノン」と、誇らしげに記入しているという。主題旋律があまりに個性的なため、ひたすら変奏しながら繰り返しているように聞こえるが、一応カノンなのです。どうでもよいことかも。ぶつかり合い、矛盾し、譲り合わず、納得しあうように絡まりあうオーボエたちは身もだえるほど官能的。

第三楽章

メヌエットだが、先行する憂鬱楽章を吹き払うかのように力に充ち満ちている。特筆すべきは、普通メヌエットは主部>トリオ>主部(ダ・カーポ)で終るのに、ここにはますます力強いコーダがついている。初めてかどうかわからないが、珍しい。駄目押しのように旋律を繰り返して終る様は異常にかっこいい。

第四楽章

これこそ、ヘンの白眉なり。

不吉な鳥の声のようなヴァイオリンに導かれ、「驚愕」があり、そして偉大な二短調フーガが展開される。絢爛に二長調でこの交響曲が開始されたのはついさっきのことだというのに・・・ちなみに、「運命」など、短調で始まった音楽が長調に終ることは歴史的に必然だったそうだが、長調の曲が短調に終ることはめったにない。この曲も、最後に来てかすかな光を見いだすものの、二長調と二短調の矛盾(主権争い)には結論が出ない、アッと驚く形で終ってしまう。

なんという、面白い曲でしょうか。

交響曲第31番二長調「ホルン信号」(1765)より第四楽章

これも、冒頭演奏した72番のフィナーレと同じ、簡素な主題をジャムセッションする変奏曲。31番はホルン信号と呼ばれてそこそこ有名だが、楽章の構成などは72番と酷似している、完全な姉妹作品。個人的にはホルンの用法が好きなので72番を全曲演奏しましたが、このフィナーレには有名なコントラバス・ソロをはじめ、美味しいところが満載なので、最後に、メンバー御紹介をかねて演奏します。きっと、ハイドンも楽団の名手たちを紹介しながら演奏したのではなかっただろうか。御静聴に感謝します。

ハイドン交響曲のCD

ホグウッド、ピノック、ブリュッヘンなどが精力的に全曲録音に取り組んでいるが、挫折したのもあるらしい。僕はこれらは全部聞いたうえで、アダム・フィッシャー指揮、ブタペスト祝祭管弦楽団(Austro-Hungarian Haydn Orchesta)の全曲録音を愛好。Nimbusから。33枚組セットで、安かった。