本日12/9
三鷹市芸術文化センター
「第9初演再現」へのプレレクチャー
第9,ミサ・ソレムニスの歌詞説明、全体構成、作曲事情など。
第9自筆譜ファクシミリを閲覧していただけます。
プレレクチャー資料(更新ソフト不調のためここに貼ります)
1:「第9」初演
*歴史的事実
*1824年5月7日、ケルントナートーア歌劇場(ウィーン)で行われた。開演は19時であった。
*演奏は同劇場のオーケストラ、合唱団にかなりの数のアマチュアを加えた混成の編成。
楽器編成は、管楽器4人づつ(倍管編成)、弦楽器はヴァイオリン24(12+12),ヴィオラ8,チェロ10,コントラバス10という非常に大きなもの。
合唱は、少年合唱32,男声合唱34,にアマチュアの女声歌手18人程度が加わったとされている。
*独唱歌手は、ヘンリエッテ・ゾンターク(ソプラノ)
カロリーネ・ウンガー(アルト)、アントン・ハイツィンガー(テノール)ヨーゼフ・ザイベルト(バス)。ソプラノのゾンタークは18歳、アルトのウンガーも21歳。
指揮はミヒヤエル・ウムラウフ、イグナーツ・シュパンツィヒのコンサートマスター、総指揮としてベートーヴェンも舞台上にいて総譜を見ながらテンポを指示したという。
*曲目:
「献堂式」序曲
「荘厳ミサ曲」からキリエ、クレド、アニュス・デイの3章。(3つの賛歌、と表記)
交響曲第9番二短調
当初ベートーヴェンはウィーンの音楽状況(ロッシーニの爆発的流行)に絶望し、これらをベルリン(プロイセン)で初演する気持ちを持っていたが、1824年に多くの音楽愛好家たちが連名で「2月請願書」と呼ばれる長大な文章でベートーヴェンにウィーンでの初演を懇願し、結果的にウィーンで初演された。この演奏会は非常な成功であったと伝えられている。
演奏箇所の決定は2転、3転し、当初アン・デア・ウィーン劇場を予定したが、ここの劇場管弦楽団のコンサートマスター:クレメントが、ベートーヴェンの望むシュパンツィヒでの演奏を拒否し、楽団もこれに従ったため、ケルントナートーア劇場に変更。初演の成功をうけて、再演は同じウィーンのレドゥーテンザールで5/23に行われたが、集客はすでに悪く、(天気の良い休日の昼まであったためと言われている)収入は低かった。
荘厳ミサを抜粋上演したこと、「賛歌」と表記したことについては、教会音楽を歌劇場で演奏することにたいして官憲の禁止があるのではないかと恐れていたことが、会話帖の記録から判明している。
2:荘厳ミサ曲
・作曲事情:
ベートーヴェンの友人であり、作曲の生徒でもあり「大公」トリオや「告別ソナタ」など10曲あまりを献呈されている「ルドルフ大公」(1788−1831)に皇位継承権がなく、宗教上の高職である大司教に就任。
その即位式(1820)のために準備したが間に合わず、楽譜は1823年にウィーンでベートーヴェンが持参して大公に手渡され、献呈がなされた。
・特徴:
すでに、全曲で80分もの時間を要する作品の規模からして通常のカソリック典礼のための音楽を逸脱している。また、随所においてミサ通常文(共通の歌詞)の語順の変更など、教会では許されない工夫を加えていて、もはや純粋な演奏会用作品であると考えたほうが自然である。
ただし、この時期になるとハイドン晩年の6曲のミサ(1796〜)、ベートーヴェン自身のハ長調のミサ(Op.86,1807)
>同じエステルハージ宮廷のために作曲<
あるいはモーツアルトの「ハ短調ミサ」「レクイエム」(1791)など、音楽として非常に充実したミサ曲が一般化していたのは事実で、「まるで、ミサが音楽会のようになっていた」、こうした音楽を作曲し、利用できる環境、風土が皆無ではなかった、と思われる。
荘厳ミサ曲は、ベートーヴェン自身も言っているように「最大の」作品であり、楽譜の売り込みにさいしてはミサを1000グルデン、「第9」交響曲を600グルデン、という値段をつけている。
・作品の概要
キリエ
いきなり
「わが心より出でて,願わくば、再び(人の)心にはいらんことを」
とドイツ語で添え書きがあることが異例である。mit Andacht「敬虔に」というドイツ語の表情指示も新しいと言える。
リズム、管弦楽法、強弱の設計、重要な動機をさりげなく提示する聞きやすいが実は複雑で2重3重に企まれた器楽の序奏に続き、規定通り、「Kyrie」を3度呼びかける合唱*独唱の開始となる。eleison(憐れみたまえ)には、バッハなどが多用した教会音楽の重要な象徴のひとつである「十字架音型」が用いられて、伝統との親和を伺わせる。
中間部のChriste eleisonはホルンの旋律で導入され、拍子も調性も変化。規定通りはっきりした3部形式を意識していることになる。
再帰するKyirieは冒頭に相似しているが、ここで作られている、さりげなく、微妙かつ有意義な「変化」の数々には、一度くらい聞いたのでは到底全貌を掌握できない、この作品に込められた前人未到の工夫、経験、技術、美意識が感じられる。独唱と合唱、さらには器楽との複雑精妙な融合的扱い、ことに、同じ旋律や動機でも、フレーズ、リズム、和声が一体となって「ずらし」「延長」「短縮」などを多用しながら作っていく音楽的緊張と緩和の心地よさに注目。終止の和音などはブラームスを予感させるあたたかな、優しい音。
ともかく、ミサ曲全体の繊細な美しさは、交響曲や序曲だけからわれわれが知ってきたベートーヴェンの「たけだけしく、ひたすらしつこい反復と爆発」というイメージを一掃するものがある。
クレド
バッハの「ロ短調ミサ」は、Gloria もCredoも細かいアリアや合唱曲にテキストを分離して個別に作曲していたことを覚えておられるだろうか。
ここでは、ベートーヴェンはクレド全体を一つにして作曲しているのだが、冒頭に示される、いきなり調性を眩惑するようなフシギな、一度きいたら忘れない、「吹奏楽」のような(高音のクラリネット+トロンボーン)和音を軸にして、「ロンド形式」や「ソナタ形式」などに接近する、「形式的統一」を計ろうとしている。(今回演奏しない、先行楽章のGloriaでは、典礼歌詞を変更してまで、楽章の最後にもう一度冒頭歌詞Gloria in excelcsisを再現したりもしている)しかしこれはハイドンのミサ曲などにおいても見られる現象で、それを非常に大規模に行ったことに特徴がある。
個別の歌詞の音楽化にあたって、画像的な象徴(decsendit=下降>降臨、Ascendit=上昇>昇天など)を行ったり、語意の対照を音楽に持ち込んだり(Vivos=f.>生けるもの、mortuos=p,死せるもの、etc.),裁きjudicareにトロンボーンを配する(裁きのラッパの寓意)などということは教会音楽の通常の工夫と言えることであるが、興味深いのはバッハも「核心部分」として特別に(作曲しなおしてまで)扱った、
・生誕et incarnatus est
・受難(磔刑)crucifixus
・復活et resurrexit
の処理である。
et incarnatus(そして処女マリアから、聖なる霊によって)の開始にあたって、ベートーヴェンは:
1:初めて独唱を投入、テンポの大幅ダウン(そこまでは全て合唱、同じテンポ)
2:教会旋法を用いて意図的に「古風」な、宗教的な感情を継起しようとしている。
3:上空に聖霊の鳩を現すフルート独奏を追加
などの工夫を行っている。
ここはバッハもある意味共通だが、違うのは
続行する、通常のミサ曲では連続意味として作曲される、
et homo factus est(そして人となりたもうた)
の歌詞を、高音のテノール独唱とホルンの衝撃音、チェロの強い旋律、長調への転調、美しい合唱との交唱などで、「別の意義」として扱っていることだ。
それに続くのは受難(passus)で、コントラバスの最高音域などの画期的楽器法が目立っている。
イエスの死は(et sepultus est)バッハとも類似して、最低音域、最弱の音量、遅いテンポで描かれ、音楽は静止する。
続行する復活(et resurrexit)が歴然たる転調と上昇音型、音量、テンポの爆発を持って描かれるのはバッハの場合などとも共通である。
よって、核心部分は、復活を含めると通常の3つではなく、et homo factus estを別に扱って、合計4つの意味を持つことになる。
なお、そのあとに続行するカソリックのややこしい教義あたりを、いかにも迷惑そうに作曲しているのはバッハも同じ(最短歌詞扱い)。ベートーヴェンは、ここに、本来存在しないが、意味としては有効なままのCredo(我信ず)を、その音楽とともに反復している。
問題はそのあと。
バッハは、Confiteor(洗礼による許し)から、et expecto(我待ち望む)を静かな合唱曲とし、再び、イエスの復活と類似の方法で、死者の蘇り(resurrectionem mortuom)と来世の生命(et vitam venturi saeculi ,amen)を爆発的音楽で(一緒に)描いた。
ベートーヴェンは、この最後の一行
et vitam venturi saeculi ,amen.(来世の生命)
のみを徹底してこだわって、2つの大きなフーガにする。
これは、クレド全体の1/3にも及ぶ長大なもので、この歌詞が彼にとって最も大きな関心であったことの強い表明となっている。
しかも、フーガに続行する終結部分では、ひたすらに上昇してゆく独唱、合唱、器楽が一体となり、どこまでも昇天してゆく魂が究極の美しさとして描かれ、パラダイスを象徴する。(第9との類似に注意)
ベートーヴェンが直面した、あまりにも多くの現世の困難と不幸を思わせるとともに、政治・社会的状況が、「来世」を強く待ち望む気風であったとも理解できると思う。
アニュス・デイ
2つの大きな部分、Agnus deiとDona nobis pacemに別れている。
前半は、ブラームス「ドイツ・レクイエム」にエコーを見ることができる、まさにロマン派の男声音楽。しだいに音域を上げ、合唱を増加しながら3度、繰り返されるリートのようになっている。
後半のDona nobis は、さらに
1
中間部(戦争描写とレシタティーヴォ)
2
中間部(慌ただしい器楽と、再び戦争描写)
3
という3つの部分・中間部からなる。
最もショッキングなのは、トランペットとティンパニによる戦争描写、「震える声で」と指示された歌手達のレシタティーヴォから、雨が上がるように平和の世界に戻ってくる工夫。交響曲第6番、嵐から終楽章への接続を思わせる。
全曲では、先行楽章に長大なヴァイオリン・ソロが天上の世界を描くSanctusを持っており、この祈りはベートーヴェンとしては比較的楽観的に、清浄な世界として描き出しているように思われ、曲も、意外にあっけなく終わる。核心部分は曲尾なのではないわけで、この点、第9などの交響曲とは趣が違っていることにも注目。
3*第9交響曲
成立事情
1817年に、ロンドンのフィルハーモニック協会から、新しい交響曲(2曲)を書くこととベートーヴェン自身を招聘したいという打診があり、これを承諾した。
その後金額の交渉や政治不安、甥カールの問題などが発生し、作曲上は「荘厳ミサ」、ピアノソナタなどに没頭。
作曲本格化は1823年で、比較的短期間に完成した。
合唱など声楽の導入、その場所、歌詞の決定(歓喜に寄す)などの着想は1820年ごろから散見、22年には大体の骨子があったと思われる。
基本的には、作曲の動機としてロンドンという大都市での上演を前提とし、多額の報酬の見込める(ハイドンも行ったし、モーツアルトも招かれていた)作曲依嘱が契機となったと思われる。
当初は2曲(第10として)の交響曲を同時に進行するつもりであった様子が伺える。これは、5+6,7+8,と2曲づつをセットにして創作、発表してきた経緯からも自然。しかし、完成したものはこの2つの曲の合体した大規模なものとなった。
シラーの原詩との関係
「歓喜に寄す」は1786年に発表された、当時大流行した詩で、知識層は朗読などを通じて暗記していたことと思われる。
原文は8行に4行の「合唱」という部分のつく12行の節を9つ持つ長大なもの。ベートーヴェンが作曲しているのはこのうち、第1,第2(「合唱」を除く),第3節、および第4節の「合唱」(テノール・アリア部分)。
そのなかでも、
・第1節の全体
(”Frerude,schoener Goetterfunken"以下、「合唱」は”seid umschlungen ”以下)
と、第3節の「合唱」
(Ihr stuerzt nieder,Millionen?以下)
を最も重点的に、繰り返し取り扱っている。
上記テノール・アリア部分の出現はそこだけ、それ以外の箇所は一度だけ重唱で扱われるのみ。
交響曲の概要
全体構成として特徴的なのは、声楽を含む第4楽章が、先行3つの楽章全体と対応する形3+1になっていることであり、4つの楽章をほぼ均等な密度で構成(1,2,7)、またはむしろ前半の楽章で思想的に重点を語り、後半を軽く(3,4)創作してきたベートーヴェンの交響曲の中では、類似の形態がなく、ボリューム的な意味で第8番のフィナーレの長さ、また緊張を維持して音響陶酔的なフィナーレに爆発するという点では第5番との関係が考えられる。
第9番では、先行1,2,3楽章それぞれに充実した音楽でありながら、第1楽章では長大さにもかかわらず大きな対比や変化、構成の明快さなどがあえて避けられて難解である意味不快な音楽になっていること、第2楽章では呼吸もできないような同一リズム音型の連続で、中間部でようやく休憩できるもののこれもどこか虚ろな音楽であること、(第3,4,5,7などのスケルツオ楽章のトリオははるかに充実している)第3楽章も主題にはさほどのインパクトがなくごく通常の、印象の弱い旋律であること(3,4,5,7の緩徐楽章にある印象的な愛される主題、多くの愉悦や構成、発想に、音楽としてはるかに長があると思われる。)、実質的には基本旋律のカンタンな変奏に留まっていて大きな変化や構想がないことなど、意識的に「あとで否定される」(ことを前提に)創作が行われていると考えられる。
第4楽章冒頭の凄まじい音響(嵐)とそれにつづく主題への導入あたりから、音楽はようやく聞き手を惹き付ける魅力を放ち始めるのであり、この曲の鑑賞にあたっては先行3つの楽章を「忍耐」するような感じになったとしてもそれは創作意図にかなったことといわなくてはならない。
とはいえ、こうした緊張の持続と大きな全体構成により、第4楽章の声楽部分がもたらす解放感と歓喜は、まさに音楽鑑賞上前例のない巨大なものとなったのであり、その意味においてはこれまた最後に思わず感動・熱狂してしまうことも作曲意図にかなったことであると言えるだろう。
(ポイント)
第1楽章
・開始の壮大な計画性、宇宙観。
・第1主題を開始する分散和音の下降は序説で、つぎに2つの重要な核心がある。(19,20小節)
・第1主題提示がすでに第2主題調に振れること
・第2主題調が、D-Bbという3度(下がる)関係
・「繰り返し」がないこと。(ベートーヴェンの交響曲の第1楽章で初めて)
・雰囲気があまり変わらないこと(変化に乏しい)
・全体に、全然「すっきりしない」こと(非常に不安定な和音の配置などの問題、管弦楽法の分厚さ、多くの「ずらし」)
・聞くのがツライ音楽であること。(運命の第1楽章に前例があるが、これはやはり珍しいことと言わなくてはならない)
・再現部の轟音、不快感
・コーダ部の葬送行進曲
・断ち切るような終結のしかた(第2楽章とも類似)
第2楽章
・開始・停止(運命のよう)
・ティンパニのオクターブ調律、独奏的用い方
・別の交響曲の第1楽章である予定だった。
・変拍子を行っていること。
・スケルツオなのにソナタ形式、しかもその部分を単純ダ・カーポするというやりかた
・保続音、同音反復の多さ
・中間部で拍子が変わること。ブルックナーなどを予言。
・中間部には合唱の導入を予定?(トロンボーンの存在)
・中間部主題が「歓喜の歌」への暗示(第1楽章第2主題も同じ)
第3楽章(変ロ長調)
・2つの交響曲の序奏部、緩徐楽章などを一体化した。そのため、強引な、しかし印象的で美しい転調と、拍子の変化を持っている。
・和声の美しさ
・末尾のみを反復するフレーズ形式が歌謡的
・2つめの主題は冒頭のみ
・ヴァイオリンの変奏的扱い
・墓(亡霊)の寓意である変ロ長調>「変ホ長調」に間違っていました。訂正します。
、4番ホルンの驚愕的にソリスティックな扱い(変ハ長調の音階にまで)
・ティンパニの、カンタービレで美しい弱奏の表現が応答、のちに弦楽器と一体化。和音もある。
・鳴り響くファンファーレは第4楽章登場の予告、ラッパの数はそれぞれ7回。(裁きのラッパの寓意:現世の(死後の)安定を脅かし、第4楽章冒頭の嵐を告げる)
しかし、ここでも意識的に変化を少なく、単調に構成し、1,2,3楽章と第4楽章、という大きな対比を意識している。
第4楽章
序奏器楽部分
・冒頭の和音はクラスター(管・打楽器のみ)
・低弦レシタティーヴォには歌詞が計画されていた。
・否定する3つの楽章の回想。
・歓喜主題の器楽による、丁寧で美しい提示方法。(音域、音量を増加しながら繰り返されること)
・夢を破るように再び現れる嵐は弦楽器を加えて強化。
・独唱の最初の2行はベートーヴェンの歌詞。否定しているのは嵐だけでなく、先行3つの楽章の持っていた内容の全て。
・シラーの歌詞は別紙参照
声楽第1部分:
・器楽で提示された歓喜主題の、主に独唱による変奏。聞き取りにくく、軽い扱いである。
合唱が本格的に投入される「天使ケルビムが神の前にたつ」のは裁きではなく、楽園成就の誇らしい報告。ケルビムには翼がある=「喜びの翼」
・女声独唱は曲の終わりまでまたしても休み。
声楽第2部分
・6/8,トルコ打楽器、ピッコロ、コントラファゴット、テノール、男声合唱
この歌詞は少し原詩では離れたところにあり、トルコ軍楽隊と戦争の寓意のためにわざわざ採用されたと見られる。
・途中のフガートには意味がなく、声楽の休み時間?
を経て:
・ついに混声合唱と管弦楽全体での歓喜主題。クライマックスの1.
声楽第3部分
・トロンボーン(神性の象徴)と男声合唱(斉唱)により、「抱きあえ、もろびとよ」の部分。
・教会旋法的でもあり。
・続く部分は、テンポを落し、文字通り音楽が「ひざまづく」。
・転調し、「敬虔に」(イタリア語:divoto)の指示。
・「創造主を感じるか?世界よ」という呼びかけにつく音響の天才性。
・星空の彼方にいる(見えない)神への遠いあこがれを、星のまたたき(木管・ヴァイオリン)と上空への音楽が絵画的に。歌詞はここで全部出たことになる。
声楽第4部分
・歓喜主題と、「抱擁主題」が抱擁する2重フーガ。
・演奏は困難を極め、クライマックス2では合唱ソプラノには長大な高音が。
・続く部分は不安な、たった1声部の連鎖音楽。原詩にあって作曲されていない「宇宙時計」と「ばね」の寓意を思わせる。
・続行部分は、音階が美しく上昇して、限りない昇天のイメージであり、(ミサとの共通)今度は創造主の元に近づく主体の実感を持っている。あたたかで感動的な、合唱の究極美がある。
声楽第5部分
・ここから実質的にコーダ。
・女声独唱者の再投入、歌詞は新しいものは出ない。
・合唱、独唱それぞれにテンポを落したカデンツ。
声楽第6部分
・独唱難所の高音カデンツにつづいて、再びトルコ音楽が投入、最後のフィナーレとなる。
・最終的にもう一度だけテンポを落して全員で感動的に歌われるのは
Tochter aus Elysium
Freude ,schoene Goetterfunken!
という、冒頭の歌詞を逆転したもの。
・全曲の開始と同じ、D-Aの完全五度を下降して合唱が終了するのはシンメトリーか?
・1,2,4楽章は全てA-D(らーれ)のユニゾン(和音なし)で閉じられる。(最終部のティンパニを除く)
茂木大輔
2005年12月10日
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