バッハ:ロ短調ミサ:パンフレット先読み

ごあいさつ

ようこそいらっしゃいました。

バッハの「ロ短調ミサ曲」を上演できることは、長年の、本当に強く願っていた夢でした。素晴らしいオーケストラの友人たちと、信頼する東京混声合唱団のみなさん、その声の力に幾度も深く感動させられてきた4人の独唱者から、この巨大で絢爛、すみずみまでが工夫と色彩に満ちた美しい音の建築が立ち上がることを思って、深い幸福に包まれています。

長い音楽です。プレ・レクチャーで興味あることを沢山お話したことですし、今日は多くを語るのはやめておき、このプログラムに、聞き所のヒントを書いておこうと思います。 みなさんは、本番中はきっと、そんなものは不要であるとお感じになるでしょう。そのくらい、この音楽が持っている、いかなる人間をもとらえてしまう力は大きなものだからです。

この作品は一度聞いてしまったらきっと生涯の宝になるでしょう。よかったらこのパンフレットをお持ち帰りになって、幾度も聞き返されるときに参考にしていただけたらと思います。

曲の番号は、皆様から見える場所に、手動方式で掲示しながら上演します。おそらくはほとんどのCDが2枚組で、この数と同じトラック番号を打っていることでしょう。

(ただし、楽譜に、各出版社によって便宜上打たれている曲番号とは違っています)

どうか、ごゆっくりとお楽しみ下さい。またひとり、バッハの音楽の、この曲のファンが増えることを祈っています。

05年二月

茂木大輔

ロ短調ミサの思い出

この曲を、音として初めて知ったのは、留学してしばらくしたころ、ヘルムート・リリンクのアンサンブルから電話があって、「東ドイツのツアーにあなたを連れていくことになりました」というウレシイ電話を貰ったことがキッカケだった。当時の東ドイツは共産主義で、素人にはちょっと出かけていけないピョンヤンなみの壁の向こうであると同時に、ドイツ音楽史では非常に重要な都市が林立していた。バッハの生地アイゼナッハやヘンデルの町ハレなどを回るこのツアーに、バッハの最大最高傑作(であることは知っていた)の演奏に参加して連れていってもらえることは、天にも昇る心持ちだった。「イキマスいきます!」と電話口で興奮していると、「いや・・でも、パートは3番オーボエですよ」とすまなそうにしている。24歳の僕であるから、師匠パッシン、その片腕で2番オーボエの神様と歌われた女流ヘダ・ロトヴァイラーというメンバーがいる以上、自分が3番なのは当然、「あ、全然へーきっす!」と、何も知らずに引き受けてしまった。

恐ろしい事実を知ったのは、しばらくしてからだった。

「ロ短調ミサ」は2時間半かかる大作だが、出番は「Sanctus」たった1曲しかない。リリンクは教会でのミサ曲の公演には休憩をとらないから、ずっと舞台にいて、吹くのはわずか7分、それもまったく聞こえないと言ってよいパートなのだった。僕はそのツアーの間中、美しい教会を埋め尽くした聴衆を前に、オーケストラのはじっこに座って、自分のからだの回りを音の奔流が流れ、輝き、昇天してゆくのをじっと浴びていた。気が付いたとき、僕はそのあちこちを、鼻歌で歌えるほどに覚えてしまっていた。1984年のことだった。

その翌年の1985年にも、同じパートでツアーの声がかかってきた。3月21日、バッハの300回目の誕生日、僕はバッハがこの曲を仕上げた最後の地ライプツィヒにいて、バッハのお墓にたくさんの花が捧げられているのを前に写真をとり、リリンクにその場所でサインを貰った。

あれから、20年がたった。

その後僕はリリンク・アンサンブルの2番に昇格して東西両方のベルリンでゴリツキーというオーボエの巨匠と組んでアリアを吹いたり、1番オーボエとしても世界中でこの曲を吹いた。帰国してからも、N響定期を含め、幾度も演奏した。たくさんの思い出がこの曲には残っている。

「ロ短調なら、タダでも吹く、弾く、歌う」というのはオーボエ奏者だけではなく、この曲を一度でも演奏した人間みんなの本心ではないだろうか。(今夜は、一応のものをお支払いしています。)聞いて美味しく、吹いてオイシイ。

20年前、あの美しいオーボエ・ダモーレのソロをいつか自分が吹きたい、とこぶしを握って3番の席にいた自分だが、バッハが勤務したトーマス教会の前で握手したリリンクが指揮台から見ていた、聞いていた、風景と音を今日は味わう。

日本から来た留学生の若い3番オーボエ奏者は、どう見えていたのか。自分の音が彼に届いていたかどうか、注意していようと思っている。

バッハ:「ロ短調ミサ」の作曲事情

この曲は、バッハの遺品の中に、4つの分冊として重ねられていた楽譜であった。通してみると、カソリックのミサ通常文(音楽をつけられるところ)全体に作曲された「ミサ曲」になる。

しかし、音楽だけで2時間半という演奏時間は当時の教会典礼の(長さなど)常識を大きく踏み越えたもので、実際の、ミサで用いることを考えていたとは思えない。生前上演された記録も、一部分を除いては、ない。さらにバッハ自身はルター派の信者であって、カソリックのミサ(こちらのほうが歌詞がはるかに多いのです)を作っていること自体が普通ではない。

作品全体を見てみると、一気に書き下ろしたのではなく、もっとも古い「サンクトゥス」は1724年、キリエ、グローリアは1733年に作られたものであり、全部が完成したのは1748年ごろではないかと見られている。24年間もかけてひとつのミサ曲を作ったというより、本来がカソリックのものである「クレド」への作曲も含めて、巨大な「ミサ曲」とする、という構想も、次第にバッハの心のなかに芽生えていったのではなかったか。

こうして、上演(収入)の予定もなかったこと、宗派を越えていること、自分の人生の中での作風も一時代に限定せずに時間を超越していること、さらに、バッハにとって古い時代のグレゴリオ聖歌の様な音楽から、かなり前衛的な協奏曲状の音楽までを用いて時代様式さえも超越していること、そしてそれらをラテン語という国際原語の、キリスト教徒ならば誰もが知っていた共通の歌詞(ミサ通常文)の中で大きな統一体としてまとめ上げていることは、まさに時代、国籍を越えて全人類のために残された「音楽のお手本」のような存在を作ろうとしたのではないか、と思わせる。

まさに、声楽、器楽、独唱、合唱、独奏、合奏のすべてを包括し、時代を越え、宗派をこえた音楽史上もっとも偉大な作曲家バッハのライフワークが「ロ短調ミサ」なのである。

*ミサ曲とその歌詞

「ミサ」について詳しくは知らない。信者の方に聞いても、「子供のころから言っていて、唱えたり歌ったりすることを覚えていて・・・」という説明のほうが多く、とりあえずは儀式であって、もともとは「最期の晩餐」でかわしたパンとワインの誓いをもとにしているということくらいでカンベンして下さい。

このミサで唱えられるたくさんの言葉はかなり厳密に決まっているらしいのだが、(ミサ典礼文)、この中で、儀式の、暦によって変化する部分ではない核心部分に当たるのが「通常文」というものらしい。ミサ曲はこれに音楽をつけたものである。

通常文はラテン語なので、当然音楽史のミサ曲は、すべてラテン語の歌詞、しかも、「全く同じ」と言っても良い歌詞を持っている。これがミサ曲鑑賞の大きな楽しみで、ヒント。

キリスト教絵画がブームになってきたといわれるけれども、「受胎告知」「東方3博士の礼拝(クリスマス)」「聖母子」「磔刑」など、共通テーマがあることはとても芸術鑑賞を助けてくれる。ミサ曲も、バッハ、モーツアルト、ハイドン、べートーヴェン(ミサ・ソレムニスなど)、シューベルト、ブルックナー、プーランクにいたるまで、歌詞は全く同じである。(極々小さな例外有り)同じ歌詞に偉大な作曲家たちがどんな音楽をつけたのか、比較する楽しみが無限に広がっている。(モーツアルトで有名になった「レクイエム」も、「死者のためのミサ曲」であり、歌詞の一部分は「ミサ曲」と共通。)

*ラテン語はむずかしくない

ラテン語は非常に難しいような印象があるのだが、実は、英語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語などの原語の源流になっている部分があるため、こうした短い歌詞程度を「なんとなくわかる」「覚えやすい」ということについては楽しい原語だと言える。

Gloria in ecxelsis Deo、などという言葉には、車の商品名がグロリア、エクセルシオ、などと2つも含まれているし、エクセル東急ホテルは「高い」とか、覚えるのも速い。

スペイン語の「ありがとう」がグラシアス、せにょーる!なのは西部劇などで御存知と思いますが、Gratiasも(前半の7)で出て来るでしょう。感謝という意味です。

少女マンガに「テラ(地球)へ」などというのがあり、et in Terra pax(そして、地には平和を)」はそのままフランス語の基礎授業みたいだ。

父はPatris,神はDeus,主はDomino(ゲームが・・)ひとつはuno(ゲームが・・・)

「聖なる」はSancto.

・・・・Petersburg,San Francisco,etc.

対訳を、ときどきじっくり見比べて発音してみると、「あら!カンタン」と思うのではありませんか。お楽しみ下さい。一度覚えてしまうとほかのミサ曲でも同じですから便利です。

*なぜ、「ロ短調」なのか

ロ短調は##と、シャープが2個つく調ですが、これは長調では「ニ長調」となります。当時、最も祝祭的なトランペット、ティンパニを活躍させる音楽はこの二長調を取ることが普通でした。このミサ曲は確かにロ短調の暗いフーガで始まりますが、主要な段落になる圧倒的なクライマックスでは、すべて二長調のトランペット群が大活躍をします。ですから、この曲は「ニ長調ミサ」でもあるのです。

(通常、曲の調は、始まったところの調を言います。べートーヴェンの「運命」のフィナーレはハ長調ですが、開始がハ短調なので交響曲ハ短調と呼ばれます)

この二長調の極端な明るさと、中心となる淋しくも暗いロ短調を自由に往き来できることが、バッハをしてこの調を選ばせた理由だったと思われます。

*ロ短調ミサの編成

管弦楽は小さく、フルート、オーボエ(オーボエ・ダモーレ持ち替え)がそれぞれ2,(サンクトゥスのみオーボエ3)、トランペット3,ティンパニ、それに、極く一部で演奏するホルン1,ファゴット2と、弦楽器、通奏低音のオルガン1です。「マタイ受難曲」の約半分。これが、死の瞑想から復活の爆発までのダイナミズムにおいていかなる徹底的な効果を上げるかは、お聞きいただくだけで十分おわかりになると思います。音楽には、ほかに楽器というものはなにも必要ではないのではないか、と思わせる設計には、後世の大管弦楽がちょっとバカバカしく思えてくるほどの説得力があります。

合唱は普通が5声部で、ソプラノが2つに別れています。ただし、このうち、もっとも瞑想的な音楽では「ソプラノ1を休み」という明確な指示によって編成を減少させています。

また、サンクトゥスでは6声部、続くオザンナは8声部に拡大して、ステレオ効果的呼び交しをさせています。

独唱は、本来ソプラノ2,アルト、テノール、バスの5名(合唱に対応)の編成ですが、今日は菅家さんがもとメゾの出身で非常に広い音域をお持ちであること、その表現力をぜひ多くの場面で生かしたいという僕の願いから、ソプラノ2を掛け持ちして歌っていただいています。そのため独唱者は4名です。

*ロ短調ミサ全体の設計

バッハが楽譜を大きく分冊しているのは

1:キリエ、グローリア(ここまででひとつの完成作品だったことがあり、表紙に「ミサ」と書かれています)

2:クレド(ニケア信条:信仰告白)

3:サンクトゥス

4:オザンナ、ベネディクトゥス、アニュス・デイ、ドナ・ノービス・パーチェム

です。さらにこれは、完成した部分である「ミサ」(ミサ・ブレヴィスと呼んでこれだけで上演することもあります)と、「それ以降」と考えることができます。

キリエ(1−3;ここでの数字はステージで表示するシリアルです。)は3曲で、人間の罪と赦しを願う2つの暗い、憂鬱なフーガ(歌詞はKyrie eleisonのみで同じ)に、キリストの温かで寛容な救いの姿を描くChriste eleisonをはさんだ3部構成、音楽としては全体の序文のような意味を持ちます。グローリア(4−12)は開始と最後に華やかなトランペット音楽を持ち、様々なアリア、合唱曲を交互に配列した構成になっていますが、最初の興奮からなだらかに鎮まって、qui tollis peccata mundi(9)を底辺に、管楽器アリア(10,11)を続けながらCum sancto spiritu(12)の絢爛たるフーガにまで駆け上がってゆく長い上昇曲線を持っています。Gloria全体が大きなV字型の設計になっていると言えるでしょう。全体に、途切れず次の曲に(Ataccaで)進む処理が目立っています。

後半の主要部分はクレドであり、後半シリアル1−9の9曲で、グローリアと同じ曲数。こちらも、大きな合唱曲に縁取られたシンメトリーな構成になっていますが、底辺部分がイエスの生誕、死、復活というキリスト教の3大教義を扱う3曲(4,5,6)に、それぞれ3曲を左右に展開した、十字架を思わせる構成。その中心はCrucifixus(十字架につけられ:5)という曲であることを考えても、偶然とは言えないでしょう。

このあとに続く数曲はむしろ音楽としては「エピローグ」のようにもなっています。

サンクトゥス(10:ここだけは1曲で1分冊)、オザンナの爆発から、次第に最小編成の瞑想アリアへと音楽は鎮静してゆき、テンポは極限まで遅くなり、その後に続くあまりにも荘厳なDona nobis pacem(15)で全曲を閉じます。

序奏としてのキリエ、エピローグとしてのサンクトゥス以降に、2つのシンメトリーな9曲づつをもつ心臓部分を配置した、全曲で見ても左右対称な構成になっていると言えるでしょう。

*おのおのの曲について

Missa

Kyrie

1:Kyirie eleison

合唱、管弦楽(木管と弦楽器)

ラテン語の歌詞の中で、キリエはギリシャ語。「主よ、あわれみたまえ」は、のちにラテン語でmiserere nobisとしても再帰して歌われるミサ曲の最も重要な歌詞。

これは、いまどきの日本のポップスが日本語の歌詞で、リフレインが英語になっているように、「見出し」のような意味になっているのかもしれない。

短いがあまりに圧倒的な叫びのような序奏に続き、まずは管弦楽による長いフーガ、ようやく終わったかと思いきやそれはイントロ。テノールからけだるく始まる合唱フーガは、幾度も終わりそうになって終わらず、人間の罪や苦しみが容易には赦されないことを感じさせるとともに、「日常時間」の慌ただしさ、から、全てを真剣に良く考えるべき瞑想の時間である、この「音楽の教会堂」に人間を導き入れる長い回廊の役割も持っているのだ。

2:Christe eleison

ソプラノ2重唱、弦楽器

「キリストよ、憐れみたまえ」である。

人間世界のほうを描いた1,に対し、こちらでは弦楽器の幅広いふくよかな愛に満ちた響きと、天上の声のソプラノがイエスの肖像画を描き出す。

3:Kyrie eleison

合唱、管弦楽

再び、憂鬱なフーガであるが、キリストの姿を垣間みたあと、すこし救いの光が宿るようであり、長さも少し短いです。救われますな。

Gloria

4:Gloria in excelsis Deo-(連続して)

5:Et in terra pax

合唱、管弦楽(トランペット群含む)

トラペットが鳴り響き、オーボエが踊り、賛美の音楽がやって来る。

連続して演奏される、軽やかに、輝かしく天上の神の栄光をたたえる部分(49と、「地において善きことを語る人に平和を」(5)の、大地を表す美しい低音の保持部分に対照が作られる。キリエでテノールから暗く始まったフーガは、ここでは女声から軽やかに歌いだされて、「音楽を聞く喜び」が全身に溢れる。涙も溢れます。

6:Laudamus te

アルト独唱、ヴァイオリン独奏、弦楽器

この音楽初めてのアリア。大きな管弦楽のクライマックスを聞いたあとに、スピリチュアルなヴァイオリン・ソロとそれを追いかけあうアルトの技巧を聞かせるのは余りに心憎いバッハの企み。

7:Gratias

合唱、管弦楽

「感謝します」の意であり、穏やかで荘厳。あまりにも自然に開始され、なだらかに進む、休憩時間の様な音楽のはずが、天上から差し込むトランペットの高音に目の眩むような場所に導く。神をかいま見る瞬間なのだ。あなたはもう一度、この体験をすることになる。

8:Domine Deus

2重唱(ソプラノ、テノール)、フルート独奏、弦楽器

眩んだ目を冷やすようなフルートの涼しいソロに続き、神とキリスト、2つの人格が、同じように歌いつつ歌詞の異る2人の独唱者によって美しく描かれる。しかし、この歌詞は「神の(犠牲の)小羊」という言葉とともに2人一緒になり、印象を強め、音楽は気温が下がるかのように暗く悲しみをたたえ始める。そして・・・

9:Qui tollis peccata mundi

合唱(第1ソプラノを欠く)、弦楽器

なんじ、世の中の罪を除く者、憐れみたまえ。

Kyrie eleisonでも祈っていたお願いの本論に入ってきたことになる。前曲から連続し、アルトから始まる暗くひきずるような合唱曲。第1ソプラノを休ませて音量に翳りを作っている。

Qui tollis peccata mundiも、つぎのQui sedes ad dextram patris(父の右に座す者)も、Agnus dei(犠牲の小羊)も、すべて同じ人(救い主)への呼びかけであり、続くのはmiserere nobis(憐れみたまえ) というミサ曲全体の中でほぼ唯一の命令文(お願い)。「憐れみたまえ(Erbarme dich)」という歌詞は、「マタイ受難曲」のペテロの否認の場面で、ヴァイオリン独奏とアルトのアリアで歌われている。(そこではドイツ語)この抽象的なお願いが、具体的に何を求めてのことなのかは、ミサ曲の一番最後に初めて語られる。

10:Qui sedes ad dextram patris

アルト独唱、オーボエ・ダモーレ独奏、弦楽器

あまりにも、あまりにも美しすぎる音楽である。

歌詞とは恐らく具体的な関連性は作っていない。問題は、「底辺」であった先行する楽章から、柔らかで甘いオーボエ・ダモーレの旋律が、か細い草花が首をもたげるかのような小さな希望を見出していることにあるだろう。振りながら吹けないのが悔しいが、日本一の美音、朋友蠣崎が吹いてくれる。

11:Quoniam tu solus Sanctus

バス独唱、ホルン独奏、ファゴット2,通奏低音

突然、今まで聞いていなかった音色が立ち上がる。「いと高き(Altissimus)」最高音域を駆け巡るホルン。低音域を溌剌と泳ぎ回るような2本のファゴット。とっておきましたね秘密兵器。バッハのほかのオラトリオでも、カンタータでも、この編成は聞いたことがない。まったく特別な音楽であり、この瞬間を待ってホルンの小川さんは1時間という時間をじっと待つ。この音楽は興奮の頂点で連続してつぎに雪崩れ込む。

12:Cum sancto spiritu

合唱、全管弦楽

「父と子と聖霊の御名においてアーメン」はここである。

まさに奔流であり、爆発であり、もはや暴力のような音楽の興奮と陶酔、法悦がここにある。フーガを開始する音型が上がって下がる3音なのは、神の王冠を表す音象徴。

第1部終わり:休憩

Symbolum Niceum

(後半では、シリアル番号を再び1から開始します)

1:Credo

合唱、弦楽器

グレゴリオ聖歌を使って、明るく、リラックスして、確信に満ちて開始。バッハは客観的で、歌詞に移入していないように見える。

2:Pater omnipotentem

合唱、管弦楽

神の力、天地万物に及ぶことを信ずるという。素早く進んでいく短いフーガ。あっさりした印象が、曲の一番最後に来て、「見えるものと見えざりし物(万物)」という歌詞のときに、ソプラノの最高音H(見えざりし音?なのか?)や、コントラバスの最低音域(d)からトランペットの最高音まで、この演奏集団の持つ全部の音域が一気に駆け上がられる瞬間は圧倒的。

3:Et in unum

ソプラノ、アルト2重唱、オーボエ・ダモーレ2,弦楽器

父と子は一体であるという。同じ旋律を一拍のズレで演奏する器楽、声楽には、違ったスラーがつけられて、親子ふたりの横顔を美しく並べた肖像画のようだ。この音楽は、もともと、つぎのet incarnatus est(この世に肉体をもって:イエスが:生まれ・・)までをバッハが作曲していて、天から降臨する象徴の音楽(高音域から星屑のように下る旋律)も出て来る。しかし、このミサ曲に編成するに当たってバッハは歌詞を書き換えて歌わせ、次の曲まで「生誕」の言葉を待つことにした模様。声楽パートだけの別紙が自筆譜に挿入されている。

4:et incarnatus

合唱、弦楽器

イエスの生誕。この歌詞の扱いには音楽史では大別して2種類がある。クリスマスとして静かに、神秘的に、しかし悦ばしく描くもの(モーツアルト:ハ短調ミサ、シューベルト)、もうひとつは、この曲のようにやがてイエスを襲う運命を暗示するかのように暗く残酷に描くもの。ボッシュの「ゴルゴタの丘をのぼるイエス」の絵の裏板には、可憐な赤ん坊が不完全な歩行器にすがっている隠し絵がある。

5:Crucifixus

合唱(ソプラノ1を欠く)、フルート2,管弦楽

音楽は途切れず続いているようで、しかし2本のフルートに、冷たい、歴然たる交差した音型(十字架音型)が出現して背筋は凍る。ソプラノ1は沈黙し、低音は同じ4小節を反復するパッサカリア形式を開始する。「(イエスは)私たちのために、十字架につけられ、受難し、死んだ」。死んだ(Sepultus est)、の歌詞でフルートも弦楽器も去り、この曲を最低音域の合唱(バッハには珍しくpianoの指示あり)と低音楽器だけで閉じるとき、パッサカリアは13回目の反復をしている。

6:et resurrexit

合唱、管弦楽

そして復活が来る。

暗い墓穴から天に昇るイエスのように、音楽は一気に低音から高音へと折り重なって登ってゆく。

「ブランデンブルク協奏曲第7番」とあだ名される、フルート、オーボエ、トランペット、弦楽器のすべてが華々しく活躍しソロをからませて綾なす音楽は、復活の日の絢爛たる絵巻。

「生けるものと死せるもののすべてを裁いた」の場面で合唱のバスだけが長いパッセージを歌う場面は圧巻。

「彼の国に終わりはない」という賛美で合唱が音楽を終わるが、器楽は協奏曲を続けている。文字通り、「終わらない」のだ。

7:et in Spiritum sanctum

バス独唱、オーボエ・ダモーレ1,2独奏、低音楽器

全曲中、一つの音楽で扱う歌詞が最も多い、逆に言えばバッハが歌詞の重要性を強調しなかった音楽。もっともカソリック的歌詞だからかもしれない。2本のダモーレとバスが旋律を共有し、お互いを伴奏しながら、聖霊と教会の平安の境地を綴ってゆく。

8:Confitior

合唱、通奏低音

器楽の、旋律への重なりや伴奏音型を持たない、「アカペラ」の唯一の曲。(通奏低音は鳴る)たんたんと、バッハからしても古いスタイルで2重フーガが始まるが、曲の最後にはテンポが急に落ち、エンハーモニック転調という高度な技法を用いる終結部分がきて、そのまま次の音楽につながる。

9:et expecto

ここでは「われ死者の復活を待ち望む」歌詞。さきほど核心部分(4,5,6)でイエスの死と復活を描いたバッハは、この8−9のつながりではあえて類似の方法で、このふたつの類似の概念を確認し、反復しているといえる。

Sanctus

本来、大きな区切りであるべき箇所で、ことに典礼で用いるならば前の曲とこの曲の間には長い儀式があるという。しかし、バッハは前曲(9)の最後を極めて簡潔に終わらせたばかりか、普通曲の最後に書くはずのフェルマータも、fineの言葉も、バッハの習慣だった「Soli deo gloria」の言葉も書いていない。最後の小節には休符さえしっかりと書いてある。これは、「イン・テンポで次に進め」という意味だと取ることが十分に可能。カソリックの長大なクレドに作曲したバッハの、典礼へのささやかな反発だったのだろうか。いずれにしても、音楽は興奮したままこの巨人(神の兵士)のような音楽に進む。

10:Sanctus

合唱 (6声部に拡大)管弦楽(オーボエ3に拡大)

「聖なるかな」と3度叫ぶことを3度行う、形式通りの部分につづいて、天と地が栄光に満ちることを3拍子の舞曲が歌う。

Osanna,

Benedictus,

Dona

nobis pacem

11:Osanna in excelsis

合唱(8声部に拡大)

オザンナ、オザンナ!と、ユニゾンの合唱だけ(器楽なし)で開始される効果は全曲で初めてであり、新鮮。しかも前の音楽から明らかに関連性をもって続いている。長いミサ曲全体の最終部分を前に、バッハが集中力をセーブして次々と音楽を進めていこうとしていることがわかる。途中で現れる器楽のユニゾン部分はハイドンであるかのような新しい響き。オザンナとは「今すぐ救うもの」の意味だというが、バッハでは明快で楽しいこの音楽、プーランクの無伴奏ミサではこの部分が極めて悲痛。時代による、救いへの期待感の違いだろうか。

12:Benedictus

テノール独唱、フルート独奏(自筆譜には楽器の指定なし)、通奏低音(チェロとオルガン)

このミサ曲で最小の編成(3声部、4名)。独奏楽器は、音域や機能からフルートが最適と考えられている。多分に即興的な印象を与えるアリアであり、テノールの唯一のアリアであることもあって、もはやこの偉大な建築も終わりに近づいているという終末感を色濃く滲ませる。

「主の名において来るもの」とはオザンナであり、意表をついてオザンナはもう一度演奏される。(13)(>ミサ曲では通常のルールである。)

14:Agnus Dei

アルト独唱、ヴァイオリン群、通奏低音

一度聴いた舞曲(オザンナ)をもう一度聞いた疲労感、倦怠感を残して、最も深い悲しみ、絶望、瞑想をたたえた最後のアリアが来る。もともとはカンタータ11番の中で、「いかないで、私の命」という死のアリアとして歌われていた。miserere nobis(憐れみたまえ)の祈りが再びここにあるが、キリエ第1曲のギリシャ語による「eleison:

あわれみたまえ」の動機が、暗いヴァイオリン低音の響きに移されて歌詞の意味の共有を暗示している。

ヴァイオリンの最低音、G線の開放弦(指で押さえない音)で、「人間の力では何もできないこと」を暗示して消え入るように音楽が死ぬ。

15:Dona nobis pacem

合唱、管弦楽

絶望の底にあって、人は何を願うのだろうか。

静かに、救いの手が差し伸べられて、それは次第に大きな充実の音楽となって天を目指してゆく。人の世の絶えることのない苦しみから、長い間祈り続けた、願い続けた「憐れみ」の答えとは、「(心に)平安(平和)を与えたまえ」であった。そして、トランペットが奏する。目の眩む天からの永遠の光に神の姿をもう一度見るとき、(この音楽はわれわれが1時間半前に聞いたGratias(前半の7)と同じである。)鳴り響くティンパニに勇気を与えられて、我々はバッハの伽藍から再び陽の光差す外の世界に歩き出す。答え、平安は「感謝」の中にあったのだろうか。

Dona nobis pacem

バッハに感謝を。

茂木大輔

参考文献

ヘルムート・リリンク著「バッハ・ロ短調ミサ曲」松原茂訳、シンフォニア社

バッハ叢書全巻(フェッターほか著、白水社)

三ケ尻正著:ミサ曲・ラテン語・教会音楽ハンドブック(ショパン社)

松原玲子編:「典礼ノート・ミサの手引き」カトリック広島司教区発行