三鷹:パンフレット原稿(プレレクチャー含む)


コンサートの演奏曲目

*新古典主義によるイタリア風4つの音楽(茂木大輔:編)

・プルチネラ(ストラヴィンスキー)

・オルランド侯爵のバレエ(レスピーギ)

・オーボエとハープのためのヴィラネッル(レスピーギ)

・イタリアーナ(レスピーギ)

*ドニゼッティ:歌劇「ラメンムーアのルチア」第1幕第2場から「噴水の場」(ハープ独奏用編曲:アルベルト・ツァベル)ハープ:内田奈織

*カッチーニ:アヴェ・マリア

テノール:森田有生

ハープ:内田奈織

*ポンキエッリ:オーボエ、ハープ、管弦楽のためのカプリチオ(奇想曲)管弦楽編曲:港大尋

オーボエ:池田昭子

ハープ:内田奈織

OEKAZE

*マスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」(田舎騎士)より間奏曲


休憩


池辺先生のお話し


*ロッシーニ特集

*「絹のはしご」序曲

*木管4重奏曲ト長調より第1楽章

フルート:岩佐和弘

クラリネット:山根

ファゴット:藤田旬

ホルン:小川正毅

*チェロとコントラバスのための2重奏曲二長調(全曲)

山之内俊輔:チェロ

吉田秀:コントラバス

*「スターバト・マーテル」より第2曲

「悲しみに沈む聖母の心を剣が貫いた」

テノール:森田有生

OEKAZE

*「チェネレントラ」(シンデレラ)序曲


解説

イタリア音楽を特集するのは、オーボエ奏者としての「イタリアン・リサイタル」(ライブCDとして発売中)以来。語ることが少なく、音楽が全てを語ってしまうと感じられるし、そもそも、「語る」ようなことを研究しようという気持ちにならない。

どうも、音楽史には、「語りたくなる」作曲家と、そうでもない人がいるらしく、前者の代表がモーツアルト、ベートーヴェン、バッハ、ショパン、マーラー、ドビュッシー、そしてセロニアス・モンク(ジャズ・ピアノ)、ジョン・コルトレーン(ジャズ・サックス)。

後者は何をおいてもロッシーニであり、(フォアグラとかトリュフとか肥満の逸話ばかりが・・・)メンデルスゾーン、テレマン、ヴィヴァルディ、ヨハン・シュトラウス、ラヴェルなど。

ロッシーニを振りたいと思ったのは、「第9初演再現」が限りなくやりがいのある仕事である反面、限りなく重たい、と始めから思っていたから。「セミラーミデ」の序曲が大好きで、「泥棒かささぎ」や「アルジェのイタリア女」のオーボエ・ソロに苦しみつつ楽しんだ記憶があるから。

振ってみると、というか、勉強の段階から、いままで取り組んできたドイツ音楽とは全く違っている、勝手が違うという印象がある。ドイツ音楽は、形式や和声を分析してゆくことで、作曲家の意図することがわかってくるという安心感がある。理解することで指揮できる。しかし、ロッシーニの序曲の形式は、貧困とさえいえる展開部を持つだけの、極々おざなりなソナタ形式に過ぎない。同じことの繰り返しを、「ロッシーニ・クレッシェンド」「ロッシーニのローラー」と呼ばれる効果だけではなく、形式全体でも、あるいは主題の組み立てそのものにおいてさえ、多用している。ハイドンが眉をひそめてかすかに笑いそうであり、シューマンが激怒しそうである。ワグナーは感激していたというが成功にか。作品にか。

では、この魅力はなんなのか。

ロッシーニは、自分にとって、どうしても存在していてくれなくてはならない音楽である。オーケストラのレパートリーからロッシーニが消えたら、いつおれたちは笑えばよいのか?

まずは、旋律。これは説明できることではないので、特集の中で、その、ピンでイケテる、メロディだけでもう「勝っている」メロディの数々を、どうかご堪能下さい。勝負できるのはドボルジャークとチャイコフスキーだけではないのか?

ひとつ、特徴があるとすれば、ときどきセクシーにメロディのトップ音を半音下げる効果の色気。ブルーノートともまた違う、憂鬱というよりはちょっと悲しい、いや、もう少し可愛らしい悲しさなので、「ちょっとだけかなぴー・・」という、しかし直ぐ笑うアイドルのよう。「スタバ」でも、「チェネレントッラ」でも(第2主題)味わって下さい。

つぎに、音域。

とにかく、高い。弦楽器も高いし、管楽器も高い。あきたらず、ちょっと困るとすぐピッコロを使っている。ピッコロ=ロッシーニ、「ピッコロッシーニ」なのであります。これが、南国の光り輝く太陽、海、突き抜けて澄んだ青空を連想させる。ベートーヴェンのチェロが、ピッコロなのだ。

パローレ(しゃべくり)の魅力も旋律の中に満ちている。同じ音の素早い反復、細かな動き、音が多すぎて詰まってくるリズム、不安定に「身振り」を思わせる大げさな音の動きなど。イタリア人の身振り、手振りを交えた早口が、音楽の中に写真に撮られているのだ。

ロッシーニは、ベートーヴェンと面会し、しかも晩年には自宅のサロンに、サン・サーンス、ビゼー、グノー、ワグナー、ベルリオーズ、クララ・シューマンなど、もう恐るべき数の、枚挙にいとまがない音楽家を招いている。19世紀は芸術に携わる人間への尊敬が一気に増大し、待遇が飛躍的に改善し、(ロッシーニは、オペラのヒットによって大富豪になった。モーツアルトが、フィガロのヒットとは経済的にはほぼ全く無関係であったのは、ほんのわずか数十年の時差にすぎない)、しかも鉄道が普及して交通が格段に激しくなり、パリもベルリンもイタリアも、本当に近い場所になったのだ。19世紀は混んでいる、というのが勉強していて感じる直接の感想である。

ここで考えること:

ロッシーニがヒットさせたのはオペラである。しかし、一作3時間以上というそれらのオペラのうち、今日全曲を世界中の劇場で上演しているものは、「セヴィリアの理髪師」、せいぜいが「チェネレントラ」くらいしかない。晩年の、あんなに有名な序曲を持つ「ウイリアム・テル」でさえ、もはや1曲のアリアさえ聞かれることが無い。(類似の例にはチャイコフスキーのオペラがあるのだが、それはまた別の話にしておく。実は詳しくは知らないので・・・)

多数の作品が生き残る、ヴェルディやプッチーニ、モーツアルトやリヒャルト・シュトラウスとは大きな差異があるのだ。

強引に言い切ってしまえば、ロッシーニの作品からは「序曲のみが生き残った」。劇場ではなく、交響楽団が、コンサート聴衆が、ロッシーニを忘却から救出したとも言えるのである。

その、おそらく第1の理由は、「ほかの交響楽レパートリーには、深刻なものが多すぎる」ということにあるだろう。ロッシーニは、ハイドン・ベートーヴェンが初めて凌駕した音楽=イタリアの公式を、さっさと復活させてしまったのだが、結果としてベートーヴェン=ブラームスがメイン・レパートリーとして永遠の命を得たことで、序曲に「素晴らしい息抜き」「ちょっとした笑いの瞬間」として、存在意義を与えらた恰好なのである。

ロッシーニのオペラのほとんどは、ブッファ、と言われる、笑いの多いものであった。そしてそれは文字通り、全世界を制覇し、席捲し、巨額の富をもたらした。そして、二度と振り返られることがなかった。どことなく、テレビ番組「エンタの神様」を思わせる。笑いがつなぐ家族、笑いが癒す、忘れさせる浮世の苦労、心配事。そして、使い捨てに現れては消える「芸人」たち、番組が終わると、あんなに笑ったギャグを誰も覚えていないという「現象・・・」(だいたひかる風)

21世紀日本文化史がいつか語られるとき、「お笑い」は見逃すことの出来ないキーワードになるだろう。ロッシーニは、想像を絶する数の人間を笑わせて、自分も充分に幸福になり、若くしてほぼ引退し、美食と贅沢に明け暮れて天寿を全うした。

ベートーヴェンの「第9」に始まり、ロッシーニに終わる今年の3コンサートは、「浮世に消える幸福」と、「来世を待ち望む幸福」(ミサ・ソレムニス:2段階フーガ)の両方を語ることになった。多数のご来場とご静聴に感謝します。


>>>以下は、プレレクチャーのみです。

*「料理のピアノ曲」について

ロッシーニが終の住処としたパリで、「老いのあやまち」という曲集を作曲した。その第4巻には、「4つのデザート」「4つの前菜」という4曲づつの組曲(ピアノ)が含まれている。前2回のコンサートで声楽リハーサルのピアノを務めてくれた、合唱指揮者でもある杉尾陽子さんが、研究の成果とピアノ演奏を披露して下さいます。

*ハープについて

お笑いブームどころか、荒川静香が誰かも知らず、ひたすら「老人のように静かな」練習と演奏の生活にいそしむ(テレビを持っていない)池田昭子さんが今回のメインゲストだが、その芸大寮時代からの親友が京都のハーピスト内田奈織さん。ソロ・アルバムも多数出されているスター。

普段間近に見ることは出来ない楽器のペダリング、構造などの解説、および、イタリア音楽から魅惑の独奏を聞いて頂きます。