「運命:徹底解説」公演プログラム用解説

茂木大輔

運命の自筆譜

今僕の手もとに、「運命」の自筆総譜のファクシミリがある。指揮者の田久保裕一氏がこの公演に際して御好意から貸して下さったものだ。おかげで、今日はこの自筆譜から、ベートーヴェンがオーケストレーションまで終えていながら削除した第1楽章最後の13小節を再現して、演奏することができる。感謝いたします。

僕も自筆譜はヨーロッパに行くと楽譜屋で探しては買い集めている。時代、国、作品の規模などによって驚くほど異るその楽譜、紙、インク、ペンなどを比較してみること、それぞれの作曲家の筆跡、生きた人間としての姿勢、性格、仕事場の空気といった、生々しいバイオグラフィーを知ることも楽しみだが、音楽家としてさらに興味深いことは、「最終稿」であるはずのスコアに、作曲家自身が最後の段階で行っている修正のあとである。「新世界」の第2楽章のテンポが二転三転する有り様や、「ハイドン・バリエーション」の、現在では管楽器で演奏されるテーマが、最後の段階までブラームスにとって弦楽器も含んでいたことなど、演奏上のイメージを作曲家のそれと近づけるために、自筆譜には非常に貴重な情報が無限に含まれているのだ。

多くの作曲家が自分の作品をきちんと納品し、滞りなく演奏できるように、美しくスコアを書いているのはむしろ当然と言える。バッハは非常な速筆であったことが筆致から伺えるが、その符頭も符尾も、くっきり正確な位置に収まっていて乱れがなく、そのまま演奏できるほどであるし、ワグナーのそれは、あの壮大な音楽を構想した人間とは思えないほど神経質に、繊細に、定規を使ってきちんと清書されていて修正のあとなどはみじんもない。

しかるに、これら大作曲家の中で、グランプリ級に自筆符がキタナイのがベートーヴェンである。

僕はかつて「第9」の重たーい自筆譜を大枚はたいて買ってきたのだが、何が書いてあるかほとんど解らなかったため、ベートーベンの自筆はコレクションするのを御遠慮していたくらいだ。

今回、貸していただいた「運命」をあらためて眺めてみると、やはり、キタナイ。まず、基本的に書いてある楽譜がもう、キタナイ。興奮している楽章ではその速度に追いつかないかのように、時間の強風を受けてタテ棒が斜めにかしがっている。第3楽章の冒頭や、4楽章への連結の部分では比較的冷静に書いているので、ベートーヴェンさんとしては、まだ誰も聞いていないこの凄まじい音楽が頭の中で鳴り響くことに、とてもではないが影響されずに書くことなど出来なかったのだろうと思われる。

基本がキタナイところに、こんどはおびただしい修正がはいる。すべての小節、すべての楽器といってもいいほど、ぐしゃぐしゃ!と消して書いていたり、その中の音一つは有効だったり、頁全体をどっか別の紙に書き直していたり、さらには赤鉛筆のぶっとい字で、写譜屋にあてた注意などが書き込まれ、ぱっと見たらどれが有効で無効なのか、全くと言っていいほどわからない。ドなのかレなのか解らないところも一杯あるのだ。有効なのはドレなのか?シラレないのである。

普通ならこれは「下書き」なのであって、もう一度完全に清書したほうがいいですよ先生、と言いたくなってしまうのだが、「運命」の初演のときには同時に演奏された「合唱幻想曲」は当日に楽譜が上がったため練習ができなかったというくらいで、おそらく先生はタイムリミットぎりぎりまでかかって作業をしていたに違いない。「実力の範囲で」「無理なく」初演1ヶ月前にさっさと仕上げて、バイク便でやってきた写譜屋に「よろしくねー!」とチワワを抱きながらきれいなスコアを渡し、「納期納品完了!さ、風呂はいって『砂の器』見て缶ビール飲もうッと!宿命宿命・・・」というような気分で仕事をしていた人ではないということは、濃厚に伝わってくる。

というわけで、キタナイ。しかし、ありがたいことに、この理解不可能と思える自筆を冷静に解読し、分析した論文というものが存在する。日本で手に入りやすいのはハインリッヒ・シェンカーの分析書。(文末参照)ここには、楽章ごとの詳細な分析の最後に、自筆譜と現行の印刷譜の相違とその経過、意味がリストアップされているのだ。

それをたよりに自筆譜を見てゆくと、ベートーヴェンがこの作品に執念深く行った推敲の、およその方向性というものが見えてくる。

それは、僕には大きく分けて2つのポイントに整理される。

*「より誰にでも解りやすく、明解に意図を伝える」こと、そして、

*「徹底して、同じことの繰り返し、単純さを避ける」ことである。

前者は主にオーケストレーションに関する驚くほどの試行錯誤に現れている。それぞれの声部が彼にとって必要な強さで、その序列通りに響くためにはどの楽器がどの音域で何を担当するべきなのか、消しては書き、書いては写す繰り返しの中に、ホルンやファゴットの、チエロやビオラの用法に、この曲が今日我々が聞き慣れた姿に一歩一歩近づいてくる間に通ってきたさまざまな響きの歴史が隠れている。

後者は、さらに作曲の本質に接近した問題であることは勿論であるが、ベートーヴェンは初演用のこの自筆譜を用意し、いったん曲の最後までを書いてしまってからも、非常に重要な小節を追加したり、リズムやメロディが単純リピートされている箇所に小さなフレーズや音をたったひとつ加えることで必要にして充分な変化を得たり、長すぎる第1楽章のエンディングを削除したりした。さらに、今となっては「これこそが天才的」と思われる、曲の本質にさえかかわっていると感じられるような瞬間が、最後の最後に追加されたりした。(第1楽章コーダにある「突然の空白」を緊迫させる「つぶやき」の1小節や、第3楽章から第4楽章への移行部分:ティンパニの連打:が始まる直前のファゴットの「ずれ」などは、ぎりぎりまで作者の発想には含まれていなかったことが確認できる)

まるで、一度彫り上がった仏像に、いつまでも小さなノミやヤスリで最後の魂を入れ続ける仏師のような作業が、ここには目で見える形で残されている。(実物は第2次大戦の爆撃で焼失した。)

しかももっと凄いことには、修正はこれで終わりではなく、リハーサルをしては1小節増やし(冒頭の音楽、フェルマータの2回目には小節がリハーサル中に:パート譜のみに:追加された。)初演を聞いてはまたしても直し、という具合に、この交響曲は初演され、初版が印刷されてからもなお、まだまだ修正や誤りの訂正を受け続けるのである。そのなかの最も大規模で長時間にわたったものは、ベートーヴェンが第3楽章の繰り返しをやめたために消し忘れ、そのまま印刷されて流布した2小節を削除することであった。この「第1カッコ」と「第2カッコ」が続けて演奏される奇妙な音楽は、なんと初演後40年近くの間「真にベートーヴェンらしい」と崇拝さえされていたのだ。

この自筆総譜からさらにさかのぼって、ベートーヴェンが用いていたスケッチ用の(おそらくはさらにキタナク混乱した)紙片から、丹念にこの曲に関連した楽想を探しだし、整理して論評を加えるという偉業を残してくれたのがグスタフ・ノッテボームである。今日は、主にピアノスケッチの形で書かれ、「ベートヴェニアーナ」という著作に引用されているこれらの楽譜を実際のオーケストラで聞いていただこうと思う。そうすることによって、ベートーヴェンが初期に発想していたアイデアの原石からこの作品を作るためには、どのような前人未到の推敲プロセスが必要であったのか、耳で聞いて実感していただけることと思う。この作品の第1の魅力はなにをおいてもそうした、「強固な意志と美意識の力によって、充分な時間をかけ、極限まで磨き上げられていっさいの無駄なく完成しているが故に、あらるゆ細部までが魅力を放っている」という点にある。そうした作品を演奏することは演奏者にも本当に大きな挑戦になるのであり、僕はすでに数週間前から重圧・絶望・逃避・再挑戦を繰り返し感じ続けているばかりか、今書いているこの文章もまた、推敲に推敲を重ねていっこうに完成しないのであります。

2:作品の概要

まず、調性が目を引く。ハ短調という調はハイドンにごく少数の前例があるばかりで交響曲の調としては異例だからだ。モーツアルトは2つしかない短調交響曲をどちらもト短調で書いたが、上記ノッテボームによれば、運命が一番最初にスケッチのなかに姿を現したとき、それはト短調で書かれていたし、この曲の第3楽章とモーツアルトの40番のフィナーレが類似していることも知られている。(聞いて頂きます)それが、いつからハ短調になったのかはよくわからないが、ベートーヴェン自身の前例としてはピアノ協奏曲の第3番がまず濃厚に英雄的なハ短調。そして、なにより「英雄」(変ホ長調)の第2楽章、「葬送行進曲」がハ短調をとっていることが直接的な前例といえるだろう。英雄的な変ホ長調と、フィナーレとしては最大の爆発力をもつハ長調の双方を近親調に内包して、自身は巨大な「悲愴」(ピアノソナタ)感を漂わせるハ短調は、このあとブラームスの1番、ブルックナーの8番など、「偉大な」創作の調として選ばれてゆくことになる。

第1楽章

冒頭、調性も確立しないうちからすぐさま2回も停止(フェルマータ)することはこれまた異例である。18世紀の音楽では「開始してすぐ停止する音楽は疑問、質問を表す」ことになっていたそうだが、(マタイ受難曲第2部の冒頭など)ここからは疑問などの印象は受けない。ソナタ形式をとっていることは確かだが、第1主題がどこまでかということをはっきり規定できないほどに音楽は途切れず邁進してしまう。2度目停止したあとにフェルマータを含む信号が(あとから)挿入されたのは、同じリズムがあまりにも連続する中で、このあとが主題の確保であることをはっきりさせるためではないかと思われる。そうして見ていくと、フェルマータがつけられているのは、

・第1主題提示(*1)

・第1主題確保

・展開部の冒頭

・再現部の冒頭と、提示部での該当箇所の再現(オーボエのカデンツアもこの場所にある)。

・第1楽章終結の直前(ここは第1主題を回帰している)

の、ソナタ形式上重要な第1主題関連の箇所であることから、このフェルマータはある種の「見出し」のようなものではないかと考えることができる。

第2主題(*2)はまず変ホ長調で順当に提示されているが、再現部ではハ長調をとる。これは全曲のフィナーレがハ長調になることを暗示している構造だが、明るく終わってしまっては「ネタバレ」になってしまうため、長い闘争的なコーダを作ってハ短調を完全に確立している。

なお、再現部での第2主題の導入にホルンのかわりにファゴットが用いられていることは、この両方の調の性格を的確に表現していると僕は考えている。自筆譜ではチェロの使用も考えて消した形跡がある。

第2楽章

ハイドンの緩徐楽章に多く見られる、2つの主題を持つ2重変奏曲になっているのだが、それらを発達させたというより、むしろ全く新しい形式の音楽であるとさえ感じられる。ひとつには主題自体(*3)があまりにも豊富な内容を持っていること、これまた途中でイキナリハ長調に転調している(*4)こと、主題のおしまいが明快な終止(段落)で終わっていないで、異常なほどの緊張を持続したままつぎの変奏に進むしかけになっていること、さらには変奏が進むと主題の小節数や和声の枠組みを外れて、展開とも言えるような音楽が連続し、主題の回帰はむしろ原形に近く、ロンドやソナタ形式を思わせることなどがその理由。従来の変奏曲(先月のハイドン85番、キラキラ星など)ではわかりやすいシンプルな主題を、和音や小節数を守りながらしだいに装飾してゆくもので、一つ終わってまた一つ、という風に作られていたものであるから、なによりこの緊密感と主題からの発展の規模は未曾有のものであったと言え、自筆譜を見るとベートーヴェンがことに楽章の後半で管弦楽法に苦しんでいることも、習うべき前例がもはや存在しなかったという意味において理解できる。

第3楽章

冒頭の暗く陰うつな雰囲気、深刻に進むホルンの行進曲からして、まず、スケルツォではないと思われる。ベートーヴェンはスケルツオとは書いていないし(ただのAllegro)、書きたければ書いているのだから、「メヌエットではない3拍子の楽章」であるからというだけの理由でスケルツォと呼ぶことは適当ではないと僕は考える。トリオはハ長調に転じることは確かだが、これまた疑似フーガのようになっていて荘厳であり、スケルツォには聞こえない。実はこの曲のスケルツォ(いたずら、悪ふざけ)はフィナーレの一番最後にある(後述)というのももうひとつの根拠。ちなみに、やはりスケルツオト呼ばれることがある「第9」の第2楽章についても僕はマチガイであると思っている。これまた、全く新しい内容を持つ音楽なのだ。(第3番「英雄」の文字通りスケルツオとの実演比較を予定しています。)

まず、管弦楽法の徹底的な工夫がこの作品の演奏(指揮・暗譜)を極端に難しくしている。この楽章も、始まってすぐ停止するのだが、この停止に(*5)向けてつけられた楽器法は、毎回本当に微妙に、しかし確実・効果的に変えられている。トリオ(*6)では低音弦楽器に超絶技巧が求められているが、ここの演奏が当時すでに非常に難しくて有名であったことは、さまざまな批評などに残されている。

ベートーヴェンは当初計画した、主部+トリオを二度演奏するという繰り返しをやめてしまったため、続く音楽は温度が急激に冷えて虚ろとなり、骸骨や干からびた食べ物、空の食器などを描いたヴァニタス(虚栄と死の寓意画)を思わせる。しかしこれは実質上のダ・カーポ(頭に戻る)をしているのであって、楽章冒頭のあの咆哮するホルンの威圧が、枯れ果てたファゴットとピチカートに移されている(*7)のである。同じ音楽に全く異る管弦楽法がつけられて、2つの極端に対照的な世界を作り出していることは、管弦楽の音楽である交響曲の偉大な成功と言えるだろう。曲は激動のトリオの代わりに暗黒を思わせる突然の暗やみに突入し、ティンパニの連打にせきたてられて、切れ目なく4楽章に進んでいく。

第4楽章

この曲を少ない回数しか聞いたことがない人に「どこが一番好きだった?」と聞くと、「第4楽章の冒頭」(*8)という答えが返ってくることが多い。それもそのはずであって、音楽全体がこの爆発の瞬間に集約されているようなものなのだ。これを気持ち良いと思わない人はいないだろうし、そのために(あえて言えば)先行する3つの楽章は「全く(第1楽章、第3楽章)、あるいはあんまり、ちょっとしか(第2楽章、3楽章のトリオ)気持ち良くないように」作曲されていると言っても良い。こういうプランは「力道山型」というか、「水戸黄門型」「忠臣蔵型」「コロンボ型」古くは「ヴェニスの商人型」と共通している。我慢すればするほど解放されたときの快感は物凄いという、人間精神が持っている根本的な法則に則ったものなのであり、人間全体への洞察から産まれた必然的な作品造形なのである。ソナタ形式をとっている。途中、展開部の最後、再現部の直前で第3楽章の音楽からの接続の音楽(*9)が回帰することは非常に目新しいが、コレ全体を第4楽章への序奏とみなし、この部分も含めて「再現」されているという解釈も有りうる。仮定のハナシであるが、この曲を誰も知らずにいて初演を聞いていたとして、フィナーレの途中でこの部分がきて、突然静かになって、このまま終わってしまったらどういう印象であっただろうか。

過去に類似の音楽がなく、誰も結末を知らないのだから、聞いているほうは「ど、どうなる・・・??」とさぞハラハラしたことでしょう。逆に、昨年演奏したハイドンの「告別」では、楽員が席を立たなかったとしたら「またフィナーレに戻るのかも」と最後まで期待感を捨てられなかったのではないか。こういう大掛かりな、斬新な仕掛けを、「あ、例のアレね?」という受容しかできなくなっている現代人は、古典鑑賞にはつきまとう現象とはいえ、とても不幸である。

この楽章の最後はブルレスケ、スケルツオのような、茶番劇の雰囲気で終わっている。(*10)たくさん打たれる終止の和音も、終わりそうで終わらないギャグに聞こえる。初めて聞いた人は、それこそ、笑うのではないだろうか。

3:小さな新説

今回、指揮するにあたり自分の分析を相当多数の文献や解説書と引き比べてみたのだが、「運命」交響曲が、たったひとつのリズム動機(*11)で全曲を統一して作られている偉大な動機労作の産物だという学説は、もはや定説どころか真実であるかのように語られ続けている。第1楽章はそのように聞こえるのが確かで、第3楽章のホルンの主題もまあ、それに類似したリズムであること、フィナーレのプレストでコントラファゴットによって戯画化されているのがそれでることまではよいとして、それ以外の部分(第2楽章のいくつかのアウフタクト、第4楽章に頻発する3連符など)までもその動機の変形、展開として聞くかどうかについては、単純に聴覚的に難しいと考えている。

今回僕は、分析した結果到達した新説(?)を唱えたいと考えているが、それは、この曲を統一する要素はひとつではなく、二つ存在するというものである。「運命の」動機を音程の変形は自由にして扱っているリズム動機と考えるが、もうひとつ、全曲の重要な場面に出現する旋律的動機が存在するのだ。その動機の存在に気づいたのはあるときにこの曲の第4楽章をN響でリハーサルをしていて、ふとチェロに、トロンボーンや我々木管、ひいてはトランペットまでがあまりにも朗々とクライマックスで吹き鳴らす旋律(*12)が隠されていることを知ったときだった。(*13)

この旋律は、第4楽章がコーダに入る直前、つまり音楽の発展の最終場面では完全に音楽の主役となって金管群によって音楽全体を圧倒しているものである。

便宜上をこれをシドレと3度上昇する「上昇の旋律」と呼ぶ。

このときは、第2主題の伴奏音形をクライマックスに用いるという節約的な作曲であるな、と思っただけであったのだが、幾度か指揮しているうちに、第3楽章のトリオ(*14)はまさにこのシドレで始まり、トリオ全体をそれで作っていることが気になった。そうしてみるならば、実は第1楽章の第2主題(*15)にも歴然と強拍にこの動機が出現している。「第9」の有名な「歓喜の歌」が第1楽章の第2主題にさりげなく暗示されているのと同じである。確信犯と見て良いだろう。再現部では調までもハ長調となり文字通りシドレ。さらには、第2楽章の第1主題の最後に、非常に印象的に繰り返されて確保される楽句もまた、調は違うが「シドレド、シドレど、シドレど、」という旋律でできている。オーボエの印象的な装飾音、フィナーレのコーダに入ってなお、ヴァイオリンやフルートに展開される装飾音もまた「シドレ」で出来ているのだ。

いわゆる「運命の動機」が意識的に全曲を、主として威圧的、不安な場面で統一しているという説を承認するのであれば、この旋律的な動機もまた、開放的、勝利的な場面に必ず登場している存在であり、全曲を統一していると見なすことに反対する理由はない。ほとんどの場合がアウフタクトから半音下がって、アウフタクトより高い音に至るところから、うがった見方をすれば(この曲について頻繁にされてきたように)「普通の人生から出発し、不幸に見舞われ、そして不幸を乗り越えて以前より高い場所に至る」という不屈のモットーと考えることもできるだろう。運命のリズム動機、上昇の旋律動機のふたつによってこの音楽は統一されている、という新説をここに提唱するものであります。

まあ、先生本人に聞いてみたら「あら?そう?ワシ、全然意識してないんじゃよね。そーゆーこと!」とか、あっさりけっ飛ばされるのかもしれないが、そうだとすればそれは偶然の、あるいは潜在意識の中での出来事なのであり、その可能性は「運命の動機」とて同じことなのだ。

(音楽の友社ポケットスコアの分析で土田英三郎氏は、第2楽章の23,25小節でクラリネットに現れる上昇の形を「希望の動機」と呼んでいるが、僕はこの音程関係は半音ー全音で上昇するもの:聴覚的に類似を認識できる:に限っているため、この場所を含めていない)

2004年3月:茂木大輔

禁:無断転載

参考資料:

・べートーヴェン第5交響曲自筆総譜ファクシミリ(Laaber)

・ノッテボーム:「ベートヴェニアーナ」(日本語版)

・シェンカー:「ベートーヴェン第5交響曲の分析」

・作曲家別名曲解説ライブラリー「ベートーヴェン」

・交響曲読本

・朝比奈隆:ベートーヴェンの交響曲を語る

・土田英三郎:本交響曲ポケットスコアにおける分析

(以上音楽の友社)

・フォーブス編:べートーヴェンの交響曲第5番ハ短調(東海大学出版)

・ソロモン:ベートーヴェン

・ロマン・ロラン:「ベートーヴェンの生涯」(以上岩波書店)

・ダールハウス:「べートーヴェンとその時代」(西村書店)

・青木やよひ:「べートーヴェン:(河出書房)

・木之下晃、堀内修:「べートーヴェンへの旅」

・阿部牧郎:「地球交響曲」(文藝春秋)

・平野昭:「べートーヴェン」(新潮社)

・べートーヴェン事典(東京書籍)

・クライブ・ブラウン:本交響曲に関する原資料対照表(Breitkopf.u.Haertel)

・同上、およびデル・マー:ガーディナー:べートーヴェン交響曲全集のライナー・ノーツ、Baerenreiter ausgabeの校訂に関するノート

*貴重な資料を御紹介下さった指揮者田久保裕一様、音楽の友社:大高達夫様、また未発表の論文の参照をお許し下さった音楽学の大崎滋生様に、深く感謝の意を表します。