村上春樹とモンゴル もうひとつのオリエンタリズム

芝山 豊

 

(以下は、モンゴル研究会発行『モンゴル研究』第17号に掲載したものの原稿です。印刷校正前の原稿ですので一部に誤記があるかも知れません。引用などをされる場合は、印刷物の方によって下さい。)

「これまでに誰かにこの話をしたことはない。考えてみれば奇妙な話ではあるはずなのに、おそらくはその遠さゆえに、僕にはそれがちっとも奇妙なこととは思えないのだ。」

『レキシントンの幽霊』

[目次]

はじめに

T 羊をめぐる冒険

U 蒙古人とモンゴル人

V 遥かなるノモンハン

おわりに

 

 

はじめに

E.サイードは、「簡単に言えば、オリエンタリズムとは、オリエントを支配し、威圧するための西洋の様式である。」と定義したが、脱亜入欧を目指して近代化を成し遂げた日本の社会においては、オクシデンタル・西洋的なものとオリエンタル・東洋的なものの衝突は単純ではない。自らのオリエンタルなものをオクシデンタルなものによって解釈し直す過程で、他者は、オクシデンタルな他者と、オリエンタルな他者に分裂し、それぞれの他者に自己同化を求めながらも、結局は、どちらでもない状況を作りあげてきた。

そこには、西洋のスタイルと同じ根を持ちながら、やや様子の異なるもうひとつのオリエンタリズムを見いだすことができる。いわば、この日本型のオリエンタリズムについては、サイード紹介の時点から問題にされてきた。例えば、「在日」の立場から、姜尚中は、「ヨーロッパの歴史をなぞるように「日本的」オリエンタリズムの知的支配は、アジアを自国本位の「規律=訓練秩序の分類体系」の中に封じ込めようとしたのだ(1)。」と説明している。しかし、これまで、朝鮮や中国に対して論議されてきた日本的オリエンタリズムが日本とモンゴルとの関係から本格的に論じられた例はない。

本論では、作家村上春樹のテキストにあらわれたモンゴルとモンゴル人を通して、日本的オリエンタリズムを考察してみたい。

 

 

T 羊をめぐる冒険

「日本の近代の本質の愚劣さは、我々がアジア他民族との交流から何も学ばなかったことだ。

羊のことも然り。日本における緬羊のことも然り。」

『羊をめぐる冒険』(下58)

村上作品の愛読者にとって、1995年に完結した『ねじまき鳥クロニクル』であきらかになった村上春樹とモンゴルという組合せは、必ずしも唐突ではなかったはずだ。村上の小説の中に登場した最初のモンゴルは『ねじまき鳥クロニクル』の「ノモンハン事件」ではなく、ノモンハン事件に4年先立つ1935年のできごとである。それは、『羊をめぐる冒険』(1982年)での羊博士と羊の遭遇であった。

 まず、村上春樹のモンゴルについて語る前に、モンゴルとのファース・トコンタクトである羊について考えてみたい。[以下、『ねじまき鳥クロニクル』『羊をめぐる冒険』の両作品の引用個所は( )内に鳥、羊の略号と文庫本の巻と頁数、また『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』は河合、『辺境・近境』は辺境と略記し、頁数を示す。]

人間の中に入るというこの奇妙な羊という動物について、小説の登場人物は極めて象徴的な発言をしている。

「そして今日でもなお、日本人の羊に対する意識はおそろしく低い。」(羊・上177)

登場人物の指摘の通り、近代以前の日本人は羊の認識は極めて低く、山羊からの類推でかろうじてなりたってきたものである。漢文の「三才図会」からの引き写し程度の知識しかなかった。そのことは、南方熊楠の『十二支考』の羊の項目を「羊に関する民俗と伝説」を読めばよく分かる。熊楠自身が羊の項目をまず山羊の伝説から書き出すのである。南方の論中には、日本に固有の伝説は語られないが、羊が死を恐れないとされる点と犠牲獣の関係に言及しているのは興味深い。羊の知識の欠落は、実はキリスト教およびその文化圏への理解の欠落につながっている。聖書や典礼に登場する「神の小羊」とは何か。そのようなことは、羊のいない文化では思い浮かびようがないのである。

キリスト教の理解だけではない。儒教の認識さえ、実はおぼつかないのである。南方熊楠があげる漢籍の例でわかるように、漢字文化圏(少なくともその北部)では羊には大きな意味がある。羊のつく漢字を思いうかべるだけでもそれが分かるはずである。美や義という字の構成要素を想像する場合でも、日本人のイメージは貧困にならざるを得ない(2)。

  村上自身も勿論、一般の日本人の例外ではなく、羊の文化から切り離されている。おそらく彼の羊の原風景は、北海道のそれというより、せいぜい六甲山牧場に寝そべる羊ではなかったろうか。もっとも、それでも、ジンギスカン鍋用の羊肉ではなく、遊歩道に横たわる羊の実感があるだけまだましというべきかも知れない。従って、彼の描く羊とは、日本的な羊であり、極めて概念的な存在である。日本語には、羊には羊ということばしかなく、家畜に対して「出世魚」なみの複雑な語彙をもつモンゴル語はもとより、英語のram, ewe, lamb, muttonといった言葉による実体さえない。

『羊をめぐる冒険』の英語訳のタイトルはA Wild Sheep Chaseとなっていて、日本語のただの羊が喚起する抽象性にほんの少し具体性が色づけされているのだが、英訳タイトルにはもうひとつ大きな問題が潜んでいる(3)。

『羊をめぐる冒険』は確かにアメリカのハードボイルド小説の形式を巧みに模倣した追跡劇である、しかし、英語タイトルには、「羊をめぐる」の「めぐる」が訳しだされていないのではないだろうか。羊を「追う」冒険ではなく、あくまで羊を「めぐる」冒険なのである。英語タイトルと違い、日本語の題では、羊は述部の目的語ではない。『羊をめぐる冒険』の主題は決して羊ではないのである。

この冒険譚は羊の「ものがたり」ではないということに十分に留意しておかねばならない。これは、羊を探しもとめる人と、羊に抜けていかれた人と、羊に憑依されているが、まだ羊に支配されていない人の語る物語である。大団円をむかえた鼠の告白においてでさえ、羊つきは羊によらない自己を告白しているのだ。「ものがたり」が「もの」の語りであるとすれば、これは日本の伝統的な「ものがたり」の構造をもっていない。その点では、羊が人間の中に入るこの話は、決して悪霊憑きの話ではない。悪霊祓いの儀礼の中で重要なのは、憑依された人物の物語ではなく、とりつく<もの >のものがたりである。狐がつけば、まず語る主体は狐である。 三国伝来の金毛九尾の狐の化身で、鳥羽天皇を悩まし、安倍泰成の法力で正体を現し、下野国那須野に飛び去り殺生石となったと伝えられる玉藻の前などは、スケールとしてこの羊なみと見てよいだろう。もし、玉藻の前が狐としての立場を語らなければ、日本文学史を彩る一群の物語は成立しなかったであろう(4)。しかし、『羊をめぐる冒険』の中で、羊は決してもの語らないのである。

「わからんのだ。羊は私にそれを教えなかった。しかし、奴には大きな目的があった。それだけは私にもわかった。人間と人間の世界を一変させてしまうような巨大な計画だ。」(羊・下59)

羊博士がわからんといっているのは、羊の目的である。小説の登場人物の誰にとっても、羊は絶対の他者性の中にある。羊は自分たちの文化の外のものであり、理解不能なものなのだ。羊をめぐっての議論は、『ねじまき鳥クロニクル』第3部「羊を数える、輪の中心にあるもの」の中でも繰り返されている。絶対の悪、綿谷ノボルの意図も「僕」には全く理解不能であって、彼もまた絶対の他者であり、羊につながっている。

「なんだかこうしてみると日本人て戦争のあいまに生きていたみたいね。」(羊・下86)

日本人と戦争は『羊をめぐる冒険』、『ねじまき鳥クロニクル』でも、もっとも重要な問題のひとつであるが、戦争もまた、主人公たちにとっては、理解不能な他者の中に閉じ込められている。戦争は自分たちの外側にあるもの、そして遠く離れたものへとなっていく。

ただひとつ羊の目的が人間の目に明らかであるのは、過去の歴史においてである。それは、チンギス・ハーンによって達成されたものなのである。ここで持ち出される、外から押し寄せる野蛮、不合理で、理解しがたい絶対の悪、戦争機械としてのチンギス・ハーンの軍団という図式は、『ミルプラトー』を例に出すまでもなく、オクシデンタルなものの見方である(5)。

『羊をめぐる冒険』の羊をめぐる考察で、モンゴルと日本を結ぶ『ねじまき鳥クロニクル』のあの井戸は、文明と未開といった二項対立によるオリエンタリズムにもつながっているらしいことが見えてきた。

 

 

U  蒙古人とモンゴル人

僕には理解できない。それはみんな僕やクミコが生まれるずっと前に起こったことなのだ。」

『ねじまき鳥クロニクル』 (第3部 286)

 村上春樹が明確にモンゴルについての関心を小説の他の場所でも表明するようになるのは、自から「転換点となった作品」と呼ぶ長編小説、ノモンハン事件を扱った『ねじまき鳥クロニクル』を発表してからである。

 どれほど自覚的であったかは別にして、『羊をめぐる冒険』や『ねじまき鳥クロニクル』を構想するはるか以前から村上はモンゴルに関心があったらしい。「小学生の頃に歴史の本の中で、ノモンハン戦争の写真を目にしたことがあった。・・・それ以来どういうわけかノモンハンの戦争の情景が鮮烈に焼きついてしまったようだ。」(辺境138-139 )と村上は書いている。

 作家と前後する世代なら、子供の頃、テレビで「豹(ジャガ−)の眼」を見ていたことを思い出すだろう。それは、「ジンギスカンの秘宝」への手がかりの争奪戦を描く現代活劇であった。「豹の眼」や「怪傑ハリマオ」等のテレビ活劇の登場人物が示すように、戦後生まれの(1950年代の中ごろまでの)子どもたちの頭に、旧植民地、満州やモンゴルが知らずしらずに組み込まれていく素地があった。それは、その父母がまだ旧植民地をひきずっていたためでもあり、戦後のオピニオンリーダー、知識人たちが、その旧植民地での経験をもとにして、自分たちの思想をつくりあげてきた人々であったためでもある。例えば、加藤秀俊、小松左京によるインタビュー『学問の世界』(講談社現代新書)や鶴見俊輔対談集『語りつぐ戦後史』(講談社文庫)に登場する何人が大陸と関係していたかを調べればすぐわかるだろう(6)。

 羊が羊ということばでしか登場し得ないのに対して、英語で Manchuria-Mongolia borderとしか表現し得ないものに、日本語では「満蒙国境」、「中国北部・モンゴル地域」(鳥・1部187-8)という具合に、蒙古とモンゴルのふたつの言葉を使うことが可能になる。

英語翻訳者からの作中の時制に関する質問に、「そうじゃなくて、それはただ言葉のひびきのために変えているのだから、考えなくてもいいんだ。(河合49)」と答えたと村上は対談の中で述べている。果たして、モンゴルと蒙古もことばの響きだけで選択されているだろうか。

「山本さんは民間人で、軍に依頼されて満州国に住むモンゴル人の生活・風俗を調査なさることになっている。そして今回はホロンバイル草原の外蒙古との国境地帯の調査をなさることになっている。」(鳥・1部250)

 この『ねじまき鳥クロニクル』の間宮中尉の発言には、特に意識的な使い分けはないのように見える。もっとも、間宮中尉のような人物なら、モンゴル人とはいわず、蒙古人という言葉を使うのではないかと思うが、1950年代の半ば以降、差別的な用語に対する意識の変化で、支那や蒙古が使われる頻度は少なくなり、蒙古を使わずにモンゴルを使おうとする傾向が強い。戦後ながくたってからの発言なら、間宮中尉が引用のような話し方をしたとしてもさして不思議ではないかもしれない。さらに、満蒙はひとつの歴史的なタ−ムである。「満蒙」は日本の生命線という言葉を「中国東北地方と内モンゴル」と言い換えることはできない(7)。

 しかし、蒙古ということばが一般的な語彙として日本人に定着したのは、古いことではない。文永の役の際、朝鮮経由でもたらされた元の国書には大蒙古國皇帝奉書とあり、蒙古襲来という言葉や、「ムクリコクリ」の言葉は日本語に入ってきたが、それらは、なんらかの実体をともなう言葉ではなかった(8)。その証拠に、江戸時代になって、新井白石の『西洋紀聞』の中に韃靼はあっても、蒙古の文字は見えないし、桂川甫周は『北槎聞略』にロシア語のモンゴリツを蒙古のことだと示してはいない(9)。

 日本人にとって蒙古という言葉が実質的な意味をもってくるのは、実は19世紀になってからのことであって、それは、一種の翻訳語であったと言える。

 日本語の中の日常的な語彙としての蒙古の出現は、西欧諸語の中でモンゴルが頻繁に使われだす頃と大きな時間差はなかった(10)。西欧諸語の中でのモンゴルという言葉の登場は、進化論、人類学、民族学、あらゆるコンテキストで興味深いものであるが、18世紀末から19世紀初頭のブルーメンバッハによるコーカサス人種、アメリカ人種、モンゴリア人種、エイチオピア人種、マレー人種の5分類によるところが大きい。リンネは人の分類にモンゴルという言葉を用いなかったが、ビュフォンの博物誌の中の頭骨にもモンゴル人のものが見られる。ブルーメンバッハのモンゴル人種という語を英語にすればMongolianであって特別、人種という名詞が付随するわけではない。従って、日本人がその大人種に含まれるという場合、日本人はMongolianと表記されることを覚えておく必要がある。

ブルーメンバッハが人種の分類が高等、下等といった序列を意味しない点を強調したにもかかわらず、この分類法は価値的な方向づけを容易に引き起こすものであった。まもなく悪名たかいコビノーの『人種不平等論』につながってことになる。ブルーメンバッハがなぜこの名前を選んだのかはおくとして、コーカサス人として概念されるのは、グルジア人であったらしことがわかっている。彼は理想的な白人からの環境要素による退化として、他の人種を考えていた。原型であるアイデアルタイプの白人を、グルジア人によって代表させ、黄色人種の代表としてモンゴル人を選んだとすれば、結果的には、グルジア文化の繁栄を導いた集団と、その繁栄を蹂躪した集団、理想の白人と文化破壊者、いかにもウイルヘルムU世ごのみの図式ができあがってしまう。

日本人が自らを、蒙古人種として自覚するのは、まさに、その黄禍論のただ中であった。三国干渉が日本に与えた影響は強烈であり、その後の日本に大きな影響を与えることになる。

こうした背景で西欧の語彙の中に登場したモンゴルの訳語としての日本語の蒙古は原語から微妙なズレを生じはじめることになる。

「日本人は白人に非ず。日本人と生まれたる上は蒙古人種を以て自ら甘んぜざるべからず。それも蒙古人種と云えば原来劣等人種にして、才幹、力量、白人に劣ったりと額上に極印を捺されたるものならんには多少は悲観すべけれども、蒙古人種の長短、必ずしも白人の下に在らず、古今の歴史に於て却て白人を圧倒したる先例乏しからざるを知るときは、我等は却て蒙古人種たるを誇るべきに非ずや。此自負心の上にたちて蒙古人種の特色を発揮すること、白人偏重の権衡を破り人類の間に平等の観念を樹立すべきは日本人民の使命なるべき歟。(11)」

大ナポレオンも一皮剥けば韃靼人とするこの歴史学者がこの後に開陳するモンゴル帝国への評価は、今の基準にてらして、それなりに、妥当なものではあるのだが、「さりながら蒙古人種の白人種に対して最も優勝を自覚すべきは他の点に在り。他なし、蒙古人種の生まれながらの武人たること是なり。」となるところで、日露戦争時にイギリス人の賞賛した武士道をもつ大日本帝国が、元、清に続くことが納得される仕組みになっている。この山路愛山の評論は、19世紀的な科学的な装いの民族や人種に対する言説が日本人に如何に深く入り込んでいたかをよく表わしている。

また、ここでは西欧諸語では同じ語である蒙古人種と蒙古人を分けていることに注目しなければならない。勿論、この分離は文脈上当然必要なのだが、蒙古人種に共通の特性のうち、否定的なものを時として自己から排除し、その否定的な属性をその分類の原型である蒙古人の属性であると見ようとする方向へと進んでいくことになる。そこには、常にアンビヴァレントな感情がある。世界を席捲した大モンゴルの栄光を自分たちにつなげたい、「義経は成吉思汗也」的な思いと、西欧的なモンゴル=タルタル人、地獄から這い出した未開の悪魔的なイメージがないまぜになっている。この感情は、現在まで、根強く残っている。ブルーメンバッハが何故にアジアに支配的な一定の形質をもった集団にモンゴルという名前をつけたのかを説明した日本語のテキスト類をみたことがないのだが、黄色人種、アジア人種、モンゴロイド(モンゴリーデ)といった名称の中でモンゴロイドという名称が日本人に一番好まれているらしいことは、最近のモンゴロイド関連の出版ブームでもあきらかである。

ここで、蒙古人についての、記述を『ねじまき鳥クロニクル』から抜き出してみる。

「蒙古兵たちの体はまるで長いあいだ掃除していない家畜小屋のような臭いがしました。・・・彼の多くはきわめて粗野な顔をしており、歯は汚く、髭は伸び放題でした。」

(鳥・1部 277)

「こっそりと後から忍びよった蒙古兵に喉をナイフで裂かれたようでした。」

(鳥・1部 278)

「蒙古人の兵隊たちは一様に押し黙って、じっとその作業を眺めていました。彼らはみんな無表情でした。・・彼らはまるで、私たちが散歩のついでに何かの工事現場を見物しているときのような顔つきで、山本の皮が一枚一枚剥がされていくのを眺めておりました。」(鳥・1部 290)

「蒙古人は無表情にうなずきました。」

(鳥・1部 292)

 以上の引用箇所のモンゴルの兵士に対しては、すべて蒙古兵というこ言葉が用いられていて、最初に引いた間宮中尉の発言に見られたようなモンゴルとの混在はない。

 さて、次ぎに示すのは、アンドリュー・ヴァクスのハードボイルド小説からの引用である(12)。

Max the Silent didn't get his name because he moved so quietly. A Mongolian free-lance warrior who never spoke, Max made his living as a courier moving things around the city for a price. (Blue Belle p.19)

「音のなしマックスの名の由来は、マックスが音もたてずに動くからではない。このモンゴル系のフリ−ランスの戦士は決して口をきかないのだ。…(ハヤカワ文庫 27頁)」

Max the Silent stepped into view, his Mongol face expressionless, nostrils flared, eyes on the target.( Sacrifice p.8)

「いかにもモンゴル人らしい顔に表情はなく、鼻孔は開き、目は目標を見据えている。」(ハヤカワ文庫17頁)」

マックスという人物の描写と村上の蒙古兵の描写がほとんど同じステレオ・タイプによって描かれていることが分かる。やや、トリッキーな引用なのだが、ヴァクスの翻訳者のモンゴルという単語をモンゴル系とモンゴル人と訳してわけていることに注意して貰いたい。実は小説の中で、このマックスという人物はモンゴル人ではなくチベット人という設定になっているのだ。例え、マックスが日本人であっても(事実、作中、主人公の白人は最初その可能性も考えていたことになっている)、モンゴル人らしい無表情という描写は変わらないのはずである。

村上は『ねじまき鳥クロニクル』を書き終えた後、実際にモンゴルを訪れて、次のように記している。

「中国東北部の人たちはどちらかというと色黒で、目がくぼんで顔がほっそりとした人が多いのだが、このあたりになると少しづつモンゴル系の顔になってくる。全体に丸こくて、頬骨が張っていて、ちょっとぺったりした感じの顔が多くなる。」(辺境154)

さらに、新巴爾虎左旗に到着し、中国「本土」からモンゴル自治区のハイラルにきた時以上に、その「シェーン」の町の人々の顔を「この町を歩いている人々はどうみてもカタギじゃない。彼らの顔はこれまで旅先でみてきた農民系の顔とはまったく違う世界に属している。これはまぎれもない、採集遊牧系の土地であり、そこに住む人たちなんだという実感がそこにはある。」(辺境162)

 村上はモンゴル人の顔が中国人や日本人とは異なると主張しているのだが、モンゴル人を定義することは、ユダヤ人を定義することとほとんど同じなのである。村上の得意なハリウッド映画の例をあげて言えば、『紳士協定』の中のユダヤ人のように、相貌からモンゴル人を見分けることはできない(13)。日本の特務機関がモンゴル人やチベット人になりすましたことはそれを十分に実証している。モンゴル人は、local raceや micro raceという範疇に収まる単位ではない。長い時間にわたって様々なタイプの人間がモンゴルの文化の中に入り、モンゴルを名乗りできあがってきたのである。典型的なモンゴル的相貌は、モンゴル人顔を見つけようとする態度が引き起こす幻想に過ぎない。なにしろ蒙古皺襞という言葉はモンゴル人の相貌からではなく、ベルツによる日本人の観察によって作られた言葉であって、その発現率は日本人よりはるかに低いのである。

『ねじまき鳥クロニクル』の中のモンゴル人、すなはち、蒙古兵は、『羊をめぐる冒険』の中の印のある羊のような抽象的で、理解不能な存在である。勿論、彼らはその物語の主人公ではない。物語の主要なトポスがノモンハンであっても、その場所の主人公は彼らではないのだ。そして、蒙古兵のイメージは、第3部の狂暴なモンゴル人の渾名が「タルタル」(勿論、ラテン語の地獄を連想させる)であることが示すような人種主義的な時代のオクシデンタルなモンゴル人観に依拠している。それが、例えば、その無表情さが、ダウン症候群の発現と同義に用いられるような価値の方向性をもった、モンゴル人観のステレオタイプであることは明白である。

 結局、村上にとって、蒙古兵=イメージとしてのモンゴル人は、印のついた羊、そして、アメリカ人にとって、アメリカの小説の中にいるアジア人と同じように、絶対の他者である。このことは、村上文学がアメリカ文学の揺籃に育ったというより、モンゴル観においては、植民地文学、石塚喜久三の『纏足の頃』の延長線にあることを示しているのかも知れない(14)。

 だとすれば、「いまの日本の社会が、戦争がおわって、いろいろつくり直されても、本質的には何も変わっていない、ということに気がついてくる。それがぼくが『ねじまき鳥クロニクル』の中でノモンハンを書きたかったひとつの理由でもあるのです。」(河合59)という彼の主張は彼自身のオリエンタリズムについてもあてはまっていると言うことができるかも知れない。

 

 

V 遥かなるノモンハン

本田さんの語る戦闘の一部始終はなんだかおとぎ話のように現実味を失って響いた。」

『ねじまき鳥クロニクル』(第1部 101)

  『新潮社日本文学辞典』(CD−ROM版 1994年)によると、「むらかみはるき 昭和24・1・12−(1949−)小説家。神戸生れとあるが、日外アソシエーツの『作家・小説家人名事典』(1990年)には京都生まれということになっている。

 村上自身によれば、彼は戸籍上は京都生まれで、西宮の夙川から芦屋に移り、十代のほとんどをそこで過ごしたという。

 作家の出生地についての情報というのはえてしてこういうものであるが、彼の生まれが、夙川でも、芦屋生でも、あるいは神戸でも大差はない。ただ要は、彼のルーツが阪神間にあるということが問題なのだ。阪神間という場所は、行政区分とは別の空間である。阪急神戸線、JR(国鉄)、阪神が南北に分かれて東西に平行に走る西宮から三宮にかけての地域は、西宮市、芦屋市、神戸市東灘区、灘区、中央区(葺合区、生田区)と行政区分は別れるが、実際には、電車で20分以内のひとつの文化圏である。そこは、東の尼崎や西の兵庫区とでさえ、カルチャーの異なる地域である。同じ地域を自分のルーツとする人間として考えるのだが、そこは、日本の中でも、一番、コンテキストフリーな地域の一つではないかと思う。大阪や本来の兵庫ほどの地域としての強い「民」の意識がないし、東京ほどの権力指向性もない。芦屋の業平橋が明確に示すように、とても古くからの町でありながら、フワフワとした感じでとらえどころがない。都会的でありながら、ぎらぎらしたエネルギーをほとんど感じさせない。その微妙さはその言語によく反映されている。

 阪神間で話されている言葉は、大阪弁でも、兵庫弁でもない関西弁である。それは、阪神間語とでも呼ぶしかないものである。この社会言語学的一方言は、共通語の中の東日本方言のアクセントや終助詞を意図的に取り込んでいながら、あくまでも畿内方言のニュアンスを維持しているので、大ざっばに関西弁とよばれる、京都、奈良、大阪諸方言(船場ことばや河内弁を含む)のどれをしゃべる人にも理解可能でありながら、関西という地域性の密度のもっとも薄い、それだけに現代の日本語の中で、関西弁のもたらす婉曲さをもっとも効果的に発揮する言葉である。しかし、それ故に、阪神間の関西弁を文字だけで転写することは不可能である。文字に転写された瞬間、それは共通語か、おかしな大阪弁のようなものになってしまう。

 興味深いことに、村上春樹は関西弁で小説を書かないし、対談の中で、整理された彼の発言は常にニュートラルな共通語である。関西弁には強い同化力があり、日本語の話者は常に相手に同化してしゃべろうとする傾向がつよいので、普通、相手が関西弁でしゃべると関西弁のネイティブはつられてしまうものなのだが、河合隼雄との対談で、河合の発言が独特の京都弁らしく転写されているのに、村上の発言には関西弁が出てこない。

 例えば、『ねじまき鳥クロニクル』に登場する人物の中で、間宮中尉の発話の中に広島の田舎を感じさせるものは一切ない。他の小説でも具体的な土地の名前があがっていても、その方言や地方の語彙が示されることはないのである。言葉が土地と切り離されているのだ。それは、言葉が土地、あるいは固有の文化というコンテキストを離れていることを示している。このことは、大森一樹監督による『風の歌を聴け』の映画化作品(1981年、シネマハウト ATG)を見ればよくわかる。画面に写し出される西宮や芦屋や神戸の本物の風景の中で、主人公たちは、原作通り、一切、土地の言葉を喋らない。それは極めて奇異な印象を与える。しかし、大森監督(脚本を兼ねる)は敢えて一個所だけ、関西の声調を用いている。女子大事務職員の電話の応対である。その一瞬だけが映画を固有の土地と結びつけ、一層、コンテキストを離れていく主人公たちを際立たせている。

 村上の文学の無国籍性は実はこのコンテキスト・フリーな言語感覚にあると言えるだろう。コンテキストのなさは、つまり、普遍性、近代性ということであり、西欧的ということでもある。それは、同時に自らのもつエスノセントリズムを見えにくしている(15)。 

「ただぼさぼさとした草の繁った低い丘陵が続き、地平線がどこまでも広がり、空に雲が浮かんでいるだけでした。・・・そのような荒涼とした風景の中を黙々と進んでいると、ときおり自分という人間がまとまりを失って、だんだんとほどけていくような錯覚に魘われることがあります。まわりの空間があまりにも広すぎるので、自分という存在のバランスを掴んでいることがむずかしくなってくるのです。おわかりになりますでしょうか?風景と一緒に意識だけが膨らんでいって、それを自分の肉体に繋ぎとめておくことができなくなってしまうのです。それがモンゴルの平原の真ん中で私の感じたことでした。」(鳥・1部 254)

 これは個人的な述懐でありながら、普遍的なことを語っているわけだが、その草原に住むコンテキスト志向型の人々には当てはまるわけではない。村上が登場人物に語らせるモンゴルの空間は、彼がノモンハンを書くきっかけとなったA.D.クックスの『ノモンハン』の中に紹介される西欧特派員の発言「なんという荒野原だ。こんな土地に5ドルだって払うつもりはないね(16)。」に通じている。しかし、モンゴル人は決して土地を売り買いしたりしない。そもそも彼らには土地を所有するという概念自体がなかったのだ(17)。しかし、かれらはその土地を使って生活しており、彼らにとっては、荒涼としているわけでも、広すぎるわけでもない。その証拠に現在モンゴルでは家畜の増加に対して牧草地が不足しているのだ。村上のモンゴル認識は、与謝野晶子が、「曠野なる 蒙古の家よ 一隅に 物見作れど 見んものも無し」「人の住む 地はそこばくの秘密をば 納めたれど 蒙古然らず」と詠んだ日本的なオリエンタリズムから自由ではない(18)。

モンゴル訪問記に、ジープからモンゴル人が狼を撃つ、その銃声を聞いて村上は、「むしろそれは非現実的に聞こえる。どこかずっと遠くの世界で行われている、僕には関係のない物事の営みのように感じられる。」(辺境184)と記している。

前節で見たように、小説の中のモンゴル人は抽象的な、他者である。不思議なことに、この他者だけが、小説の中で、任意性とでも呼ぶべき性格をもっていない。『ねじまき鳥クロニクル』の中の主要な登場人物は誰であっても、名前が違っても、(実際、登場するものの中には名前をかえるものもあるのだが)極端なことをいえば、例え、日本人でなくてもかまわないのだが、理解不能な他者は他者のままでなければならない。つまり、『風の歌を聴け』の主人公が神戸にいようと、横浜にいようと、小説の本質は全く変わらないのだけれど、観念の世界の蒙古兵は蒙古にいなければならない。主人公の家のすぐそばの井戸は遠い所の井戸とつながっている。そこは限りなく遠い場所であり、ほとんど非現実の世界なのである。その距離は、飛行機で4時間ほどの距離ではなく、それは、ちょうど、『風の歌を聴け』に登場する火星の井戸ほどの距離なのかも知れない。

「ノモンハンで死んだのは2万足らずだが・・・」(辺境139)と村上が言うとき、それは大東亜戦争の戦死者と比べていっているのであって、ベトナム戦争における米軍戦死者と比べているわけではないし、当時80万ほどの人口の国の国民が祖国防衛のために流した血の犠牲に比べているわけでもない。これこそ姜のいう日本的なオリエンタリズム、自国本位の体系に相手を押し込めようとうする態度の現れだといえるだろう。国家と個人と効率がキーワードである。ノモンハンの問題は、他者であるモンゴル人の土地を侵したことではなく、日本兵が「効率悪く」殺されたこと(辺境 139)なのである。

 1998年、第二の敗戦という言葉が囁かれる中で、「ノモンハン事件」に関する本の書名がベストセラ−ズに顔を出していた。

 「優秀」な参謀の机上の空論に導かれ、権力闘争と責任の隠蔽のために、無意味に、注入される続ける軍隊。兵士たちにはろくな武器も、敵に対する情報も与えられていない。そんな状況が、経済戦争の中で、反省のない「優秀」な官僚のもとで、際限なく繰り返される公費の投入が重なりあって見えたのかもしれない。1990年代、日本では、「優秀」な人々がいかにあてにならないものか思い知らされる事態がつづいている。阪神大震災の折、末端の公務員の中にはそれこそ命を削って奮闘した人々が多くいた。しかし、所謂「復興」が早かったのは、「優秀」な官僚がいかに頼りにならないかを痛感したからに他ならない。そして、弱者はその「復興」の蚊帳の外に置かれることになったのだ。だから、「いつまでたっても、ノモンハンの教訓は生かされていないのだ」という「ノモンハン」の読まれ方は、日本人にとって、必ずしも間違いではないのかも知れない。

しかし、半藤一利の『ノモンハンの夏』を一読した迂闊な読者は、その戦争が一体誰の国で行なわれたのかわからないのではあるまいか(19)。主役はスタ−リンと関東軍であり、日本の戦った相手はソ連機甲部隊。戦場はあくまで無人の荒野。そこには、モンゴル人も、モンゴル人の生活もない。

『ノモンハンの夏』の帯には「司馬遼太郎氏が描こうとして果たせなかった「ノモンハン事件」をいま壮大なスケールで蘇らせる!」とある。司馬遼太郎という作家に日本的なオリエンタリズムを見つけることができないとは言わない。彼の描くモンゴルについては、稿を改めて書かねばならない。しかし、もし、彼がノモンハンを書いたなら、モンゴル人の立場をも含めて構想したに違いない。それは、「ノモンハン事件」を描き切ることの困難と、あるいはそれ以上に面倒な、日本的なオリエンタリズムを突き抜けていく困難を伴うものとなったはずだ。彼にとって、ノモンハンは火星のように遠い所ではなかったし、モンゴルを他者の中に閉じ込めることもできなかった。それこそ、司馬遼太郎が生涯「ノモンハン」を書かなかった本当の理由ではなかったろうか。

 

 

おわりに

 ものごころつくか、つかぬかの頃、私も神戸の空低く、駐留米軍の双胴のプロペラ飛行機が飛んでいくのを見上げていた。同じ頃、同じ地域に住んでいた作家について語ることは、結局、自分とその時代を語ることを意味している。

 モンゴルを研究し始めた頃、私はモンゴル人を見たことがなかった。モンゴルは限られた人しか入国できない国であり、私にとって、モンゴル人は本の中にしかいなかった。

やがて、少しづつモンゴル人に会う機会が増えはじめた。1982年に、初めて、モンゴル人民共和国を訪れたが、その時も、いまのような変化がやってくるとは想像できなかった。

 1990年代後半、日本とモンゴルとの国交樹立から30年近くが経過し、毎年、驚くほど多くの観光客がモンゴルを訪れ、日本政府による援助は1996年までの累積で600億円を越えている(20)。 物や人の交流は、果たして日本人のモンゴル観を大きく変えただろうか。

私は村上作品のファンであり、ウランバートル滞在中にも『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』読んだ。日本的オリエンタリズムをもって作家を断罪しようというつもりはない。しかし、『ねじまき鳥クロニクル』を読んだとき、面白い映画の最中に、突然、いかにもハリウッド的なステレオタイプのアジア人がスクリーンに写し出された時のような、なんともいえない居心地の悪さを感じたことを告白しなければならない。ハードボイルド的な装いの中で二項対立の彼方へ飛翔するはずの想像力が、モンゴルに関しては、つり目の「フーマンチュー」をなぞるような役割しか与えられなかったことに失望を禁じ得なかった。

――中国や朝鮮は、日本に文化を輸出した国である。そこには、西欧の文明と対峙する文明がある。しかし、モンゴルには何もない。あるのは広々とした空間であり、そこには「カタギでない」文明の対極の生活をする人々がいるに過ぎない。――といった日本人のモンゴル観は根強い。中国や朝鮮半島について日本的なオリエンタリズムが語られることはあっても、モンゴルについて語られない理由がそこにあると言えるだろう。あれこれ教化し、あれこれの施設を作ってあげなければならないと思う人々や、あるいはルソー風の「聖なる野蛮人」をエコロジカルな文脈の中でモンゴル人に見ようとする人々が出てくるのも無理からぬことなのだ。

また、どこかで、日本的オリエンタリズムの「ねじ」が巻かれ、多くの人々がモンゴルを訪れては、自分が見たいと思っているモンゴルを見て帰ってくるのである。

 

 

本論で使用した村上春樹作品テキストは以下の通り。

『風の歌を聴け』 講談社文庫、1982年 (単行本1979年)

『羊をめぐる冒険』上・下 講談社文庫、1985年 (単行本1982年)

『ねじまき鳥クロニクル』第1部、第2部、第3部、 新潮文庫1997年(単行本1994-1995)

『レキシントンの幽霊』文藝春秋、 1996年

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』岩波書店、1996年、

『辺境・近境』新潮社、1998年

 

 

(1)姜尚中『オリエンタリズムの彼方へ』 岩波書店、1996年、129頁。姜によって提起された「東洋学」の問題を、その中に占めた蒙古学の役割についても、もう一度問い直す必要があるだろう。

(2)聖書世界での羊については、谷 泰『神・人・家畜』、平凡社、1997年等に詳しいが、岡倉天心が『東洋の理想』(初版1903年、講談社学術文庫版 63頁)の中で、孟子に関する注に、「我が羊」すなはち義という解釈あげているのも興味深い。尚、白川静は、「我は鋸の形象。羊に鋸を加えて犠牲とする意で、牲体に犠牲として欠陥なく神意にかなうものとして「義しい」の意が生れる (『辞統』)。」としている。

(3)Haruki Murakami , Translated by Alfred Birnbaum , A Wild Sheep Chase,

Kodansha International ,1989.

(4)憑きものの定義については、小松和彦『憑霊信仰論』講談社学術文庫、1994年に詳しい。また、悪霊と物語の関係については、同じく小松和彦「悪霊祓いの儀礼、悪霊の物語悪霊信仰の一断面」、『悪霊論』ちくま学芸文庫、1997年を参照。

(5)「遊牧論あるいは戦争機械」、ジル・ドゥルーズ フェリックス・ガタリ 宇野邦一他訳 『千のプラトー』河出書房新社、1994年、 407-479頁。ノマドという言葉を流行させたこの著作について、所謂モンゴリストが正面から論じたことはないように思える。彼らのノマドは分析概念であって、実体概念ではない。従って、アイデアルタイプのノマドは実際には存在しない。また、彼らの主張のなかには明らかなオリエンタリズムを見ることができる。

(6) よく知られている民族学領域や、今西生物学だけでなく、他の自然科学領域や農政、経済学、法学などの領域に満蒙調査に加わった人々が多かったことについて吟味する必要がある。

(7)満蒙という造語は、満韓あるいは満鮮という語とともに、日本から見た場合の恣意的な空間認識から出ている。明治20年代から参謀本部編纂になる『蒙古地誌』(明治26年)などが出版され始めるが、その頃には、満蒙という空間認識はなかった。佐藤種治編『満蒙歴史地理辞典』昭和10年発行(復刻 国書刊行会 昭和51年)には、満蒙の範囲という項目がある。「満蒙とは満州と蒙古との総称で、支那本部の北及び北東で、その地形は東西に伸び、南北に縮まって、東南部は朝鮮に接し、東北二方面は露領に連なり、西は甘粛省及び伊犂に境し、南東部一帯は萬理の長城で支那本部に接してゐる地」という定義である。これは、決して満州国と内蒙古の自治政府のことではない。この広い範囲をひとつの空間として、日本と結びつける見方が形成されたのは、「ノモンハン事件」よりはるかに古いわけではない。

(8)網野善彦『蒙古来襲』上 小学館ライブラリー、1992年、283頁。

(9)桂川甫周『北槎聞略』岩波文庫、1990年、103頁。

(10)The Oxford English Dictionary Second Edition ,Clarendon Press, Oxford,1989等を見ると、極めて限られた時期にモンゴルに意味が加わったことが分かる。ブルーメンバッハは、コーカサス人からの退化が劣等化でないことを強調していたが、西欧諸語における人種区分の用語が英語として定着する頃から、問題はかなり複雑になる。黄禍論といえば、ドイツが通り相場であるが、辞書の例文から英語にもはっきりとした差別意識を読み取ることができる。また、アメリカ語での用法として、白人と黒人の結婚による子どもにモンゴルということばが使われていることに注目しなければならない。「モンゴル化」という言葉が、20世紀後半の公民権擁護に対して盛んに使われていたし、最近でも、黒人側からも使用されることが、スパイク・リー監督の映画の台詞等からも分かる。

(11)山路愛山「我は蒙古人種たるを恥ぢず」『中央公論』29-1、1914年。山路愛山は「支那思想史」(『独立評論』1906年12月-1907年1月)の中で、「支那思想史に於ける蒙古人の功績」という節を独立にたてている。愛山のモンゴル観と東洋学の中でのモンゴル観との比較研究は今後の課題である。

(12)Andrew Vachss, Blue Belle, Pan Books, 1989, p.19.

アンドリュー・ヴァクス 佐々田雅子訳『ブルー・ベル』ハヤカワ文庫、1995 年、27頁。

    Andrew Vachss, Sacrifice , Ivy Books, 1992, p.8.

アンドリュー・ヴァクス 佐々田雅子訳『サクリファイス』ハヤカワ文庫、1996年、17頁。 勿論、ここで、ヴァクスを取り上げたのはアメリカ小説の中のモンゴル人観を任意に取り出すためであって、特別、村上春樹とヴァクスの作品の間に影響関係があるわけではない。

(13)『紳士協定』Gentleman's Agreement 1947。エリア・カザン監督作品。取材のために、グレゴリー・ペック演じるジャーナリストがユダヤ人であるという偽の告白をして周囲の反応をする話。日本では制作時には公開されていない。ユダヤ人はその鼻の形で分かるといった言説と同じように、日本人と韓国・朝鮮系の人や中国人が相貌で見分けられると主張する人は意外に多い。

(14)川村湊 『異境の昭和文学 -「満州」と近代日本 -』 岩波新書、1990年、166-170頁に紹介されているこの作品は、黒川 創編『<外地>の日本文学選2 満州・内蒙古/樺太』新宿書房、1996年にも収められているので読むことができる。モンゴル人の血に関する意識に、日本的オリエンタリズムの人種観が色濃く反映している。尚、今日のモンゴル人の純血思想については、拙論「モンゴル文学と「純血」 ある詩人の娘の死によせて」、『グリオ』vol.10 平凡社、1995年等を参照。

(15)フレッド・ダルマイヤーは、 Fred Dallmayr, Beyond Orientalism , New York, 1996の中で、インドの近代化とオリエンタリズムについて、ラマヌジャンのコンテキスト志向型と脱コンテキスト,(コンテキストフリー)型という概念をとりあげている。例えば、モジュールと取り替え可能な部品からなるテクノロジーやコンテキストを越えた普遍的な法則と事実を求めたルネサンス以降の科学は脱コンテキスト、すなわち、コンテキスト・フリーへの強い傾向をもっている。一方、インドのジャーティは人間社会の様々なコンテキストのうちにあり、インド伝統社会はコンテキスト志向型である。村上自身、外部的な価値を取り払らうデタッチメント的なものに主に目をむけてきたが、『ねじまき鳥クロニクル』のあたりから、コミットメントに関心が向いてきたのだと河合隼雄との対談の中で語っている。

(16)アルヴィン・D・クックス、 岩崎俊夫訳『ノモンハン』(1)朝日文庫 、1994年、28頁。

(17)島田正郎『北方ユーラシア法系通史』創文社 1995、 159-162頁

(18)与謝野晶子「満州と蒙古の旅」『改造』昭和3年9。彼女のモンゴル観については拙論「与謝野晶子とモンゴル」、『モンゴル研究』No.5 、1982年を参照。

(19)半藤一利『ノモンハンの夏』文藝春秋、1998年 。

(20)『我が国の政府開発援助ODA白書』 下巻 のデータは外務省のホームページ、www.mofa.go.jp/mofaj/b_v/odawp/index.htmlによって容易に入手できるが、果たしてどれだけの国民がこの数字を知っているだろうか。また、それらがどのようにモンゴル人にとって役だっているか、あるいは、役だっていないのかに関心を払っているだろうか。

政府開発援助だけでなく、ゴルフ場建設への反対運動やその後の経緯等をフォローしているマスコミ報道も少ないのが現状である。

 

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