【寄稿-1】

   あのころのこと(小田高山岳部雑記)

                  土岐博也(昭和29年度卒業/7回生)

 「ちっくしょう!」誰からとも無くため息混じりのつぶやきが漏れると黒い頭が皆
一斉にうなずいた。OBが持ち込んだ、当時かなり高価であり珍しくもあったポータ
ブルラジオの雑音の中から、ジョン・ハント率いるイギリスのエベレスト登山隊のヒ
ラリーとテムジンの世界最高峰登頂成功を報じるニュースを聴き取ったのである。

 1953年5月小田高山岳部丹沢合宿、熊木沢出合の腐れテントの夕べ、一日中沢登
りをして帰って来た私達は腹と背中がくっつくほど空腹でありポロポロで途方もなく
汗臭かったのだが、世界に冠たるヒマラヤ遠征隊をさえ身近に感じるはど意気軒昂、
二年生十七歳の青春真っ盛りであった。

 戦後八年、世情は朝鮮戦争の特需景気もあって僅かながら明るさが見えて来ていた
ものの、未だ高校生が山登りに余裕を持って使えるほどの食糧事情ではなかったから、
当然ながらそれはひどいもので主食の米はどうにかなったのだが、副食は専ら海苔の
瓶詰め福神漬けに梅干し僅かな中身のみそ汁、たまのご馳走は鮭の缶詰め、むしろ入
山途中の畑で頂いてきた?芋類その他が貴重な存在であったりした。詰まるところ量
的にも質的にも常にハラペコだった。

 我らの宿りのテントも戦時中の大日本帝国陸軍の野戦用幕舎が主体で、これは三枚
一組の綿シートを周囲に約10センチおきにあけられた穴とリング状のひもの組み合
わせで三角形を作り、これを三本つなぎの支柱で立ち上げ、いわば三月形のトンネル
を連ね前後の入りロは適当にシートをぶら下げて塞ぐ、と説明するのさえ何がなんだ
か分からなくなるような代物だったから住み心地は歌の文句そのもので、テントの中
でも月見は出来る雨が降ったら濡れればいいさとさっぱり諦めていた.ぼつぼつ復興
し始めていた山小屋に泊まることはまず外道とされたから、降ろうが晴れようが着の
身着のままの野宿が当たり前で、その余韻は当時の眩いばかりの星空の記憶として鮮
やかに残っている。

 当今流行の中高年登山では、六十・七十の爺さん婆さんでさえスイスやらイタリー
の登山靴をお履きになっている世の中だが、地下足袋が基本で濡れたり凍って滑りや
すい岩場では草鞋掛けで飛んだり跳ねたりしていた我々にとって冬山の深雪の中でも
高価な登山靴なんぞ夢のまた夢、早稲田の学生であったT先輩が鋲の音も高らかに
新品の山靴で私たちの山行にお出ましになった時には現役部員全てが心の底から羨望
のため息をついたものである。何れにせよ厳冬期の登山に草鞋掛けではいくら若くて
も凍傷で指をなくすのは目に見えているから、お互い無い知恵を絞って考え出したの
はこれまた第二次大戦名残の帝国陸軍歩兵用軍靴の利用であった。軍隊経験者の家を
手分けして回り、うまく程度の良い靴が手に入ると皆万歳、近所の肉屋さんから頂戴
したラードやらヘットをしこたま塗り込んで校舎の目立つところに威張って飾ってお
いたら、金蝿銀蝿が真っ黒にたかって油を嘗めていた。

 青春期はとかく冒険心が先立つものだが、私たちの取り敢えずの目標は少しでも高
いところへ上ることであった。それも長い休みを取っての縦走合宿など簡単に出来る
わけがないから手近の山へ行き、とにかく早く高いところを目指すことにトレ−ニン
グの重点を置いた。一番手っ取り早いのが岩登りである。岩登りイコール危険と言う
図式は今も昔もあまり変わらないのだが、安全確保のための道具らしい道具も殆ど無
く、ただ若さに由来する平衡感覚の良さと馬力に物言わせ、かなり危ない、とても親
には見せられぬ文字通りの綱渡りに嬉々として挑戦し競い合った。最も手近な岩登り
は丹沢山塊での沢登りなのだが、沢での滝登りは全身濡れネズミが当然であるから厳
冬期の雪氷を踏みしだいての登攀は、栄養状態の悪い当時の高校生にとっては正に苦
行そのものであった。けれども何時の日にかヨーロッパアルプスへヒマラヤへの高揚
した心持ちは私達を上へ上へと駆り立てて、殊に日々のトし−ニングのためには場所
も手段も選ばなかった。先生達ににらまれながらの校舎の屋根登りから始まって当時
再建中であった小田原城の石垣に石工達の声援を背に受けながら挑んだりもしたが、
今や国際的火山学者になっているT・Sや札幌の脳外科のI・Tたちと連れだって
ザイルを肩に、熱海の錦ヶ浦やら湯河原の幕山などにぶら下がってはさらなるゲレン
デ探しを試みた。私達が小田高ロックガーデンと名付け開発した湯河原の幕山は、そ
の後岩登り練習ゲレンデとして主に京浜地区の同好の中でいつしかその名が広まり、
今でもかなり頻繁に登山雑誌にその記事を見る。手がかり足がかりのない岩場では人
工登攀と称し様々な道具を使うのだが、当時はせいぜいザイル・カラビナ・ハーケン
と自分たちなりに工夫した道具があるだけ、しかも市販されていたそれらはかむり高
価で、例えばハーケンは1枚50円!したからそうそう簡単には使えず、一旦使用し
たものも引っこ抜いては叩き直して何度も使うようなことで、これ又安全と言う字句
とは縁がないことであった。命の綱のザイルにしても古いマニラ麻製のものが一本あ
ったのだが、一旦濡れるとワイヤーロープのごとく固まって、体を縛る前に既に使い
ものにならなくなってしまう難物であった。私達が三年になった項、同期のT・Tの
父上の協力で当時最新のナイロン製ザイルを人手出来たのだが、当時は未だ紫外線に
よってナイロンなどの高分子化合物が早期に劣化する事がはっきり認識されて居ら
ず、未着色の手で触るのさえもったいなくなってしまうような純白のザイルに有頂天
になった。以上のような事情が重なり、結局もっとも愛用されたザイルはこれまた先
輩のどなたかが小田原駅の貨物集積場から頂いてきたトラック用の麻ロープで、これ
は濡れようが乾こうが全くのくたくたよれよれで何時ぶっちぎれても不思議ではなか
った。

 前述したようにとにかく体に応えたのが食い物の貧しさで、只でさえ喰い盛り育ち
盛り、スポーツの中でもっとも体力精神カを消耗する山登りで食糧不足は常にデンジ
ャラスな気分になった。したがって、山麓の道ばたの畑でお芋なんぞ頂いていて後ろ
から“そんなはじっこのいもほっていねえでもっといいとこもっていけよう”なんぞ
と村のぱあさまにどやされるとただただ有り難く頂戴し、煮ても焼いても生でかじっ
てもまことに美味であった。蛇なんぞどう見ても食い物が這っていると映っていたか
ら見つけ次第に争って捕まえては丸めてザックの中に放り込んだ。余談だが青大将な
る大人しい蛇がいるが、体色の青っぽさから青大将と呼ぶのかと思っていたら、青は
その臭いから由来すると知ったのもその項で、たまたま丸めて放り込んだザックの中
の全てが妙な青臭さになって閉ロしたことがある。蛇の肉は種類に関係なく透き通る
ように美しく、引き剥いて内臓を取ってしまってもクネクネする気味悪さと、しっか
り火を通さないとゴムの如く噛み切れないしたたかさがあったが、醤油と酒で付け焼
きすると何とも食欲をそそる香ばしさに皆気が遠くなるほどうっとりした。

 酒・たばこの類を覚えるのもこの年項だろう。郷土史家で知られたN先生は生徒を
可愛がるあまり、山の中では一年生にさえ茶碗酒を振る舞ってくれたが、夜中に“水
持ってこい”とやられるのが困りものであったし、先輩の中には後輩を可愛がるあま
り、たばこに火を付けて手渡し吸い方を事細かに伝授下さる親切な方もおいでだった
が、夜っぴてエロ話を聞かされたのも辛い?思い出の一つである。

 物質面の全てが貧しかったあのころだが、俗に言う“ひとつ釜の飯を食った仲間”
の心持ちはいつまでも豊かで変わりようが無い。半世紀近くも過ぎて、顔を見れば六
十過ぎのおっさん同士でも、会って話せば昔のままの無邪気さや燃え立つほどの青春
の想いがよみがえる。

 僅か三年間の小田高山岳部生活が全ての基点とさえ覚えるのは私だけでは無い筈
だ。OB会の仲間にも恵まれて、今でも小田高山岳部を山でも町中でも背負っている
ような気分がある。つい七・八年前までは3、40Kgのザックをもいとわず現役最
年長を誇示していたのだが、正に年に勝つことは出来ない。歩くには歩いても若い人
のスピードに付いていけない、荷物が担げない、そうした悔しさが故に、未だかなり
の距離を走ったりしてなんとかかんとかを目指しているのが我ながらいじましい。け
れども、いつかある日、あのころのように、再び雪氷の山々を仲同達と馳せ巡る悦び
を目指し頑張るのである。

 1999/6
『小田高創立百周年/七期生の24000日〜山上凱歌あがったか』(小田高七期会)にも収録