2 『報告書』のどこが素晴らしいか ──『国際婦人年連絡会の意見書』および北田暁大氏への反論

 

  目 次 

一 北田氏の基本的方法論の間違い

二 「強引」「異常」な議事運営というウソのキャンペーンについて

三 『男女共同参画社会基本法』との関係

四 「男女の特性」と「性別役割分担」

五 「家庭の尊重」と「職場の環境整備」

六 少子化と出生率

七 統計でウソを言う常習犯

八 西洋フェミニズムへの絶対服従

九 日本文化への嫌悪と敵意 ──「女性の自己決定権」と「文化的遺産」について

十 フェミニズムのダブル・スタンダードへの根底的批判 ──「乱用防止」規定が意味するもの(完)

 

略称一覧

 『報告書』=『荒川区男女共同参画社会懇談会の報告書』

 『基本法』=『男女共同参画社会基本法』

 『意見書』=『国際婦人年連絡会の意見書』(江尻美穂子、杉森長子、平松昌子)

 『基本的考え方』=『男女共同参画に関する基本的考え方』(内閣府男女共同参画局)

 『論点』=『男女共同参画をめぐる論点』(日本女性学会)

 『将来像』=『男女共同参画は日本社会の希望』(男女共同参画社会の将来像検討会報告書)

 

  はじめに 

 荒川区男女共同参画社会懇談会から平成16年5月24日に荒川区長藤澤志光氏に提出された『報告書』の内容は、これまで全国で例を見ないほど素晴らしいものであると思う。

 以下、この『報告書』のどこがどういう意味で素晴らしいのかについて、そしてその『報告書』に対して北田暁大氏等がいかに見当はずれの批判をしているかを明らかにする。なお、この『報告書』は「男女共同参画社会基本法」に反するところは一か所もないが、『基本法』よりも優れている点はいくつもある。その点にもふれていきたい。

 北田氏は自身のHPで荒川問題について論じ批判している(http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/)。北田氏が全面的に依拠しているのが、「国際婦人年連絡会の意見書」(江尻美穂子、杉森長子、平松昌子)であり「論点はここで挙げられていることに尽きている」と言っているくらいであるから、理論的にはこの『意見書』を批判すれば事足りるはずである。

 『意見書』は、要するに内容的には国連に巣食う西洋派のラディカル・フェミニズム教条主義であり、国連の決議を「国際的動向」と僭称しているものにすぎない。「国連」『基本法』を錦の御旗にかざして「上から」物を言う尊大な態度(お上意識)は鼻持ちならないが、これに対してはフェミニズム批判のいくつかの拙著で基本的には批判してあるので、後回しにする。

 それに対して、北田氏の議論は会議録や「元委員」たちの文書をふまえたとして、いかにも信憑性がありそうに偽装しているので、だまされる人が多くなることが予想され、その意味で先に論ずる。

 

一 北田氏の基本的方法論の間違い ──論争の作法がまるで出来ていない

 論争には守らなければならない作法(方法論)というものがある。これを守らないと、論争がすれ違いになったり、無意味になったり、非生産的になってしまう。

 作法の第一は、自分に対する論争相手の批判をきちんと読んでおくこと。そこで批判されている論点を繰り返し主張するのならば、相手の批判に対する反論をしてからにすること。これをしないと、相手は再び前回の批判を繰り返すことになる。これでは論争は成り立たないし、進んでいかない。

 たとえば北田氏のコメント

 →元委員の一人にうかがったところでは、懇談会では資料は配布されたものの、男女共同参画社会基本法を読み合わせ理解を深める機会は与えられなかったという。条例案に大きな影響を与えうる公的な懇談会のあり方としては奇妙と言わざるを得ない。

 これは張學錬氏の「辞任届」という文書に出てくる「証言」と同じ趣旨だが、この点については、すでに私が「懇談会は子供のお勉強会ではない。委員は各自前もってそのくらいの勉強と準備をしていることを前提にしている」という反論をしている。「審議の中でいちいち読み合わせをせよ」という要求の方が、委員を子供扱いしているという意味でよほど「奇妙」であり、非常識である。そういう私の反論を無視して、再び同じ批判をするのは、論争の作法のイロハを逸脱していると言うべきである。他の例については、以下の各論の中で逐一指摘するが、とくに目立つのが張氏の「証言」についてである。これを次の問題として指摘する。

 第二に、今述べたことに関連するが、北田氏の資料の使い方があまりにも杜撰(ずさん)である。たとえば、懇談会の審議のあり方(私の司会のあり方)を批判するさいに、北田氏は張學錬氏の「証言」に全面的に頼って論を進めているが、張氏の言っていることは皆嘘ばかりだと私が批判しているばかりか、懇談会の委員全員が嘘だと怒って全会一致で抗議文を決議したのである。この事実は私が何度も指摘している。また張氏の嘘の数々については、私が詳細に指摘している(本HPの「荒川区」「3 張學錬氏の辞任問題」)。これらの経緯から見て、張氏の証言の信憑性はきわめて疑わしいと見るのが常識であり、それを証拠として取り上げるのは、よほど慎重にすべきである。こういう経過を無視して、張氏の「証言」に頼るのなら、張氏の「証言」の信憑性について改めて証明しなければならない。もちろん北田氏はそんな手続きは取っていない。ただただ張氏の証言と意見を無批判に踏襲しているだけの主体性のない態度である。

 第三に、これも資料の使い方に関することだが、「会議録」の使い方がきわめて不公正である。自分に都合がよさそうな所だけを恣意的に抽出し、それに勝手な解釈をほどこして、論証のつもりになっている。一部を恣意的に抽出するというやり方は、客観的な全体像を歪曲するために、よく使われる方法であるが、その悪い方法を多用しているのが北田氏である。あるいは「会議録」を正確に読まないで、意図的に(?)間違った読み方をしている。

 目立つ例では、「乱用防止」規定について、「議事録をみても「入れるかどうか」についての結論はなしに、どこに入れるかという議論にすりかわってしまっている」と書いているが、こういう言い方の方がよほど「すりかえ」である。

 たしかに「会議録」の字面(じづら)だけを見ると、議長が「では入れることを確認しました。次にどこに入れるかについて議論します」とは言っていない。しかし日本的な会議の慣行によれば、とくに疑問が出されないかぎり、その件は承認されたものとみなされる。この日の会議では、誰一人「入れる」ことに関しては疑念を出す者はいなかった。「入れる」必要性についての意見が数人から出され、それに対する反論は皆無であり、防止規定を入れるのは当然の前提として、ただし入れる場所としては「基本理念」の最後よりも「基本施策」の最後が適当だという議論になったのである。「入れるかどうか」の議論が「どこに入れるか」という議論に「すりかわった」のではなく、「入れる」ことは確認されたものとして、「どこに入れる」かの議論に移行したのである。

 たしかに、後からしたり顔で論評する人は、議長は「入れることにはご異議ありませんか」と確認すべきだったと批評するだろう。それは理論的には正しい。しかしその場の成り行きの中ではそうした確認をする暇がなかったというのも事実である。じつは「どこに入れるか」という議論へと勝手に移行したのは(「すりかえ」たのは)、後に「乱用防止」規定に反対だと言い出したフェミニスト系の委員なのである。反対しそうな委員が反対の意思表示をしないで、「基本施策の最後に入れるべきだ」と主張しはじめ、それに対する異論が出されなかったので、私が「では施策の最後に入れることにします」と結論したのである。これは「入れる」ことについての最終的な結論であり、「入れることについての結論はなかった」というのは完全に間違っている。

 以上のことは、すでに私のHP(「6人の要望書」への反論)で、まったく同じ趣旨で説明してある。こういうことをきちんと読んだ上で議論をしてくれないと、何度も繰り返さなければならなくなる。論争の相手として「不足」だし、子供の相手をしているようで、馬鹿らしくなってくる。

 第五に、北田氏は張氏の「辞任届」なる文書を引用している(「一部抜粋」と言うが、ほとんど全体の引用である)が、この文書は公開されていない。個人的ツテによってしか入手しえないものである。しかもその文書は嘘と中傷に満ちており、後に委員全員から抗議を受けた代物である。張氏はこれとまったく同じ内容を新聞社に語り、それに対して私が詳細な批判をしていることを、私のHPを読んでいる北田氏が知らないはずがない。もし辞任届を引用するならば、それに対する私の反論に対する反論を書くべきである。これだけを読まされる人たちは、張氏のとんでもないニセ情報を信ずるかもしれない。きわめてフェアでない論評の方法である。(なお張氏の「辞任の理由」に対する私の批判は、張氏の辞任届が出された直後に区長および委員と陪席者宛に提出されている。本HP「荒川区」「3 張學錬氏の辞任問題」の中の「9 張氏の「辞任の理由」への批判文」を参照のこと。)

 以上、北田氏の論争・論評の仕方がいかに方法論的に出鱈目であり、アンフェアであるかを明らかにした。次からは具体的な論点について反論する。

 

二 「強引」「異常」な議事運営というウソのキャンペーンについて

  (平成16年9月28日初出)

 北田氏の議論の仕方が方法論的にみて重大な欠陥があることを指摘したが、それがモロに出ているのが、「会長の議事運営が強引であった」「異常であった」という宣伝である。このキャンペーンは『報告書』が出てから一斉になされた。それらに対しては、その都度反論してきたが、北田氏は性懲りもなく、同じウソの宣伝を繰り返している。今までのキャンペーンと違う点は、北田氏が張氏の「辞任届」や「会議録」という新しい資料を使っている点である。ところが、その資料の使い方には、重大な欠陥がある。

 北田氏は張氏の「辞任届」と「6人の委員の要望書」を引用した箇所に、次のようなコメントを挿入している。

(※※[辞任届]、※※※[要望書]に書かれている会長の議事進行の強引さについては、元委員の方々へのインタビューでも確認。「異常」というしかない議事運営であったことは事実である)

 「異常」が「事実である」という断定を、ずいぶんと軽はずみに言うものである。

 まず「異常」とはどういう事態を指しているのか、まったく明らかでない。文脈から想像するに、どうやら「議事進行が強引だった」ということを指しているようだが、「強引」(という判定そのものが間違いだが)だというだけで「異常」呼ばわりする方がよほど異常ではなかろうか。

 次に、「異常というしかない」ほどに「異常」であったことが「事実である」ということを、実証しなければならない。しかし「異常」であったという北田氏の証明は、あまりにもお粗末である。「事実」である根拠としては単に「元委員の方々へのインタビューで確認」したということが述べられているだけである。

 あきれるほどの杜撰さである。「元委員の方々」というが、おそらく張氏と要望書を提出した6人の中心人物であろう。(これほど重大なことを証言するのであれば、まずはその「元委員の方々」の名前を挙げるべきである。)もともと党派的である彼等に対して、「会長の議事運営は強引でしたか」と問うて「イエス」と答えたというだけでは、「事実」であったことの何の証拠にもなっていない。子供だましのような論理である。これで学者だと言うのだから、あきれてしまう。学者の風上にも置けないとはこのことだ。

 誰かがそうだと言っている、というだけで「事実」であることの証拠とされるのでは、人権もなにもあったものではない。イデオロギー的に偏向しているとか、多くの嘘を言ったとして本人以外の16名の委員全員から抗議された人物の「証言」を平気で証拠扱いするとは、あまりにも無神経と言うほかない。そもそも反対派の証言は、証言としての信憑性が一段劣ると見なければならない。こんな論証のやり方では、気に入らない人間はすべて「異常」にされてしまうだろう。

 次に、北田氏が「会長の議事進行の強引さも読み取れる部分」だとして引用している会議録を見ておこう。

 まず、北田氏の「会議録」に対するコメントがいかに恣意的で「汚い」かを示している例。ここは「育児や介護などをできるだけ家庭の中でやる」ことがよいかどうかを議論している場面である。引用はかなり長くつづくが、その中の下の「会長発言」

会長 ここは、現状がどちらでもなるべくどうしたら良いのかという理念について言っている。どうしても家庭の中でできないことが多いということであれば、そちらを増やすということであって、なるべく家庭の中でやるのが良いという理念は間違いではない。

について、北田氏は次のようにコメントしている。

(※報告書には「現状では、社会的育児に関しては多大な支援がなされているのに対して…」とあり、「現状」なるものを引き合いに出している)

 このコメントの意味は、私が現状についての議論を封じて理念についてだけ論ずるべきだと言っているくせに、『報告書』では「現状では」と「現状」について述べており、そこに矛盾があるという意味であろう。

 意地悪なコメントである。じつに汚い、というより陰湿な貶め方をするものである。このコメントの欺瞞性は、懇談会8回の全体の議論の流れと、『報告書』全体の構成について精通していないと見破れない。

 『報告書』の構成について説明すると、大きく二つの部分、すなわち「基本理念」と「基本施策」から成っているのである。上に引用されている会議の場面は、「基本理念」について討論しているのであるから、現状はひとまず置いて、「理念」について話し合ってください、というように議長として私が交通整理をした場面である。

 それについて、北田氏は「現状について議論しないと言っていたのに、『報告書』では現状のアンバランスについて述べているのは、矛盾ではないか」と言いたいのであろう。ところが、その「現状」について言及しているのは「基本施策」の中である。当然、実際の「施策」のあり方について述べる部分では、「現状」についての認識が前提になる。「施策」の中に「現状」のアンバランスを正すという視点が入るのは、なんら矛盾ではない。「基本理念」について述べている部分とは視点が異なるのは当然のことである。

 このように、「基本理念」と「基本施策」の区別をしないまま会議録の一部分を抜き出し、私が会議では「現状」について語らせないでおいて、報告書でいきなり「現状」が出てくるかのような印象を持たせるとは、なんとも汚い議論のやり方である。ちなみに、「現状」のアンバランスについては第4回の会議で話し合い、そののち「基本施策」の中に入れることに決まったものである。議論されていないことを勝手に入れたわけではない。

 

 次に「会長の議事進行の強引さも読み取れる部分」として引用されている部分を見ておこう。(興味深いことに、北田氏が引用するところは故意か偶然か必ずといっていいほどに張氏がからんでいる箇所である。)([ ]内は私の加筆)

会長   その点について、まず第1は性別役割分担一般について基本法は何一つ言っていない。これは現実にはっきりしてる。

[張]委員   性別役割分担については第4条に書いてある。

会長   4条は固定的性別役割分担について述べており、性別役割分担一般については述べていない。固定した役割分担、固定というのは男は仕事、女は家庭ということを意味しているというのは99%確かだが、そのような形態に固定したという形容詞をつけて否定的に扱うことは信条の自由を規定した憲法に違反するものであると考えている。もし、基本法第4条が固定した役割分担と呼んでいるものを否定する意味であるならば、基本法第4条は憲法の精神に反するのではないかと考える。

[張]委員   懇談会は、法律に基づいて集まっている。

委員   基本法の下に集まっているのではない。区長の委嘱によって荒川区で男女共同参画に関する条例をつくるということで集まっている。(*注 もちろん「条例を作る」ことは懇談会の役目ではない)(注に対する注─林。これも言葉尻を捕まえた意地悪な注である。「条例をつくるということで集まっている」という言い方は舌足らずな言い方だが、当然「条例のもとになる『報告書』を作る」という意味であり、懇談会がいきなり条例そのものを作るという意味であるはずがない。その場では誰もがそういう意味に受け取っていた。その場の話し言葉は舌足らずでも、意味は皆にとって明かだという場合はままあること。あとから意地悪に揚げ足取りをしようと思えば、いくらでもできる。)

[張]委員   条例を作るということは、基本法が予定していることではないのか。

委員   条例を作ることは予定していない。各自治体の義務でもない。

[張]委員   義務化はされていないが、作っていいということにはなっている。どこの区もつくっている。

会長   基本法を受けてはいるが、1から10まで基本法どおりということではない。

[張]委員   基本法に反してはいけないということは常識である。

会長   解釈が違っているため意見が分かれている。解釈の仕方によっては憲法の精神に違反する恐れがあるという見方ができる。

[張]委員   基本法が憲法違反なんてことありえない。

会長   全然でたらめではない。

[張]委員   基本法の解釈が憲法違反になるわけがない。憲法学者である○○先生いかがですか。基本法が憲法違反という解釈は導き得るんですか。

会長   法律議論は辞めるが性別役割分担の一般を否定しているという文言はどこにもないということだけははっきりしていると思うので、○○委員の主張は懇談会のこれまでの了解に反している。全員の皆さんの意見を聞きたいと思う。専業主婦をしたい人も共働きをしたい人も両方認めるというのがこれまでの了解である。(第6回会議録より)

 議事運営について「強引」と言われような部分は見当たらないが、強いて言えば最後の部分がそう見えなくもない。この引用の仕方だと、私が議論の流れを断ちきって(法律論議を止めると言って)、基本法には「性別役割分担の一般を否定しているという文言はどこにもないということだけははっきりしていると思う」「専業主婦をしたい人も共働きをしたい人も両方認めるというのがこれまでの了解である」と「結論」して「強引に」議論を終わらせてしまったように見える(見せかけたい?)であろう。

 しかしこの議論はじつは延々と3ページも続いているのであり、ここに北田氏が切り取ったのはほぼ3分の1程度である。この前には基本法が「性別役割分担」をどう考えているかについての議論があり、そこから法律問題に議論がやや逸脱してきたので、私が本来の議論に引き戻したところである。つまりは交通整理をしたものであり、「強引に」意図的に議論を誘導したり終わらせたりした、というものではない。むしろ審議の中で今までに了解し合ったことを確認し、議論をもともとのテーマに引き戻すための議長としての当然の発言である。

 さらに重要なことは、北田氏の引用だとこの私の発言によってこの議論が「強引に」終わりにされたかのような印象を受けることである。しかし、じつはこのあとも「固定的役割分担」をめぐって第6回会議の最後まで延々と議論が続くのである。私が強引に議論を終わらせたとか、一定方向に「強引に」誘導したという事実もない。むしろ、私は議論がまだ不十分でありもっと続けるべきだと考えて、最後にこの論点は「継続審議にする」ことを提案したくらいである。

 (なお、ここで「会長」と「張委員」が二人だけでやりあっているのが、会議としては異様であると感じられるかもしれないので、説明しておく。この場面は張氏が前二回の会議のときに確認されている了解事項を無視して「強引に」発言し、問題を蒸し返している場面であり、それを私が議長としてたしなめているところである。それでもなお張氏は執拗に食い下がり、時間を空費させた。まさに「強引に」ルールを無視して発言しつづけたのは張氏の方であったのだ。これと同じ状況は北田氏が引用している、私と張氏のやりとりの大部分に当てはまる。)

 要するに北田氏の引用の仕方は、張氏の「強引」証言を正当化するために、何が何でも私の議事運営が強引だったという結論へと、まさに「強引」に誘導しようとしている。こうした議論の仕方は、少しでも「会長」を「悪者」にできそうだと思える所に飛びつき、意図的に悪い意味を押しつけるというやり方であり、とうてい客観性を重んずる学問的態度とは言いえない。

 北田氏は「異常」が存在しない所に「異常」を作り出した。これまで私がさんざん言ってきた「異常キャンペーン」に対する反論には一言も言及せず、恣意的な引用と偏向した「証言」に基づくコメントによって「強引」と「異常」を作り出し印象づけるだけとは、学者としての良心も資格もないと言わざるを得ない。悪性フェミニストの代弁者としての素質は十分に備わっていると言えるだろうが、このような無法を絶対に許すわけにはいかない。

 

三 「男女共同参画社会基本法」との関係 

  (平成16年10月4日初出)

 これより内容の議論に入る。最大の争点は『基本法』との関係である。『報告書』の批判者たちは『報告書』が『基本法』から逸脱・違反していると、しきりに非難している。しかし『報告書』は決して『基本法』に違反していないと断言できる。会長である私が、『基本法』に違反しないように、きちんと注意していたからである。しかし、違反しているかいないかを論ずる前に、『基本法』とはどういう法律であるのか、それほど金科玉条のものとして、そのまますべてを真似して自治体の条例を作るべきものかどうかを、吟味しておかなければならない。もう少しはっきりと言うならば、『基本法』とは何の問題もない模範的なものなのかどうか、批判的に吟味して欠陥を正すような形で地方の条例を作ってはいけないのか、という問題である。

 

方法論に関する注意

 ここで内容に入る前に、方法論について一つ特に注意しておかなければならないことがある。『報告書』が『基本法』に反していると批判する者たちの中に、私個人の意見と『報告書』を同じものとして議論をしている者をときどき見かける。たとえば、私のHPから引用した「基本法否定」の意見を持ち出して、それで『報告書』の「基本法違反」を証明したと思いこんでいたり、『報告書』の(「反動的」)本質を証明するために私の論文を引き合いに出したりしている。この態度は方法論的に根本的に間違った議論の仕方である。

 第一の間違い。私は懇談会の会長としての立場と個人としての立場を明確に区別していた。すなわち会長として意見を言うときには、個人の考えとは異なる立場で行動していた。たとえば、問題になっている『基本法』について、私は個人としては厳しく批判をしてきたし、かなり否定的な評価をしてきた。しかし会長としての立場からは、『報告書』の内容が『基本法』に反することのないように気を配っていた。私は基本的には『報告書』は「基本法にのっとっている」と考えている。(「それにしては『報告書』は基本法に違反する内容が多いではないかと、すぐに言いたくなる人もいるかと思うが、違反しているか否かは解釈の違いであり、その解釈についてはこれから述べる。)

 第二の間違い。『報告書』は私個人の考えを反映させたものだという理解の仕方。懇談会は会長独裁ではなく(あまりにも当たり前すぎる話だが)、委員全員の意見を集約しつつ(ほとんどは採決ではなく話し合いによって)まとめられたものである。私の意見が採用された場合もあるが、それは委員の大多数の賛成を得られたからである。全体として見ると、私の個人的意見と『報告書』の意見とでは、必ずしも一致していないのは当然である。

 『基本法』の問題以外にも、たとえば家庭育児と社会的育児についても、私個人としては子供が6歳くらいまでは母親は家にいて育児に専念するのが望ましいと考えている。しかし懇談会の会長としては、乳幼児に関しても家庭育児と社会的(保育所)育児の両方を認めるという立場をとり、両者が公平に認められるべきだという立場を表明した(第4回会議録参照)。これは全委員から支持を得て、「社会的育児と家庭育児の違いにかかわらず、社会による支援は充分になされなければならない」という形でまとめられ、その立場から『報告書』が作られた。

 これらの代表的な例からも明かなように、私個人の意見と『報告書』の立場とは異なっている。こんなことは、言うまでもないくらいに当たり前のことだが、よく混同して議論している人を見かけるので、特に注意を促しておきたい。

 

前代未聞の「異常な」法律

 では内容に入る。まず問題にすべきは、『基本法』がどういう特徴を持っているかという点である。

 1999年に制定された「男女共同参画社会基本法」は法律としてはまことに異例で異常な法律である。じつにきめ細かに、国から地方自治体まで、都道府県から市町村までの、あらゆるレベルの行政当局に対して、施策の基本計画を策定することを義務づけている(正確には都道府県は「定めなければならない」、市町村は「定めるように務めなければならない」)。そればかりか「総合的かつ計画的」(第1条)な推進のために、細かい網の目で細大漏らさず統括し、縛りをかけ、監視しチェックするという、特有の支配体制を強制するものである。この法律を受けて、各自治体では「積極的改善措置」を督促され、数値目標を決めたり、きめ細かな「ジェンダーチェック」を行ったり、学校の中のあらゆる場面で性差を否定する教育(男女まぜこぜ教育)がなされるようになった。

 フェミニスト指導者たちは各地方自治体の条例についても、きめ細かな監視をしており、自分らの気に入らない用語が「前文に入ったか本文に入ったか」「基本理念に入ったか施策に入ったか」という調子で、こと細かに査定している。「本文、それも基本理念の中に入ったら重大なマイナス評価、前文ならまあ仕方ない」といった調子である。例えば、橋本ヒロ子「男女平等条例制定の状況とその成果」(『都市問題』第95巻代2号、2004年2月号)は、各地の条例について、どの言葉がどこ(名称、前文、基本理念、責務、積極的改善措置)に入っているか詳細に分析・評価している。

 このように、都道府県から市町村までのあらゆるレベルの行政に対する義務づけを定めた法律は、前代未聞と言うべきものである。こうしたきめ細かな支配体制は、オンナ的な支配体制に特有のものである。と言うと、すぐに「それっ、差別的な言葉だ ! 」と金切り声を発するだろうから、もう少し学問的な表現をすると、ユング心理学で言う「太母的支配」のあり方を示していると言うことができる。

 「太母的支配」とは、母親が子供の独立を妨げて、いつまでも干渉し支配する形態であり、その支配は例外を許さないほどに、こと細かに干渉するという性質を持っている。その典型的な形態は、かつて起きた高校生が祖母を殺害した事件に見られた。その祖母は孫を自分の手で育てたが、高校生になっても依然として生活のあらゆることに干渉し命令し、「今日はこのハンカチと靴下にしなさい」という調子であった。その「きめ細かい」支配に高校生はついてキレて、祖母を刃物で刺し殺してしまったのである。

 

民主主義とは相容れないスターリニズム型の法律

 この例外を許さない支配の仕方は、共産主義国家の秘密警察の監視を連想させたり、中国文化大革命のときの紅衛兵を思わせるし、またナチス独裁をも連想させる。(それらよりも、『基本法』はきめ細かい点において、いっそう恐ろしいものを感じさせる。)これらの連想は決して的はずれではない。『基本法』はそれらと共通の特徴を持っているからである。

 『基本法』の根底には、国民の思想信条の自由を重んじる民主主義的な考え方に反する思想が存在している。そこがスターリニズムやナチスを連想させるのである。

 民主主義国の法律には、二種類の法律がある。一つは基準を定めておいて、その基準によって当事者間の調停をする法律であり、民法がその典型である。いま一つは基準を定めておいて、それに違反したら罰を与える法律であり、刑法がその典型である。しかし国民の意識の中にまで入りこんで、そのあり方にまで干渉することは憲法違反であり、そういう法律は存在してはならないはずである。ところが『基本法』はその「してはならない」ことをしようとしているのである。

 すなわち『基本法』は国民の意識を変革しようとしている。男女共同参画という美名のもとに、特定の思想を国民に押しつけようとしているのである。たとえば、「男女のあいだには生物学的な違いしかなくて、それ以外の社会的・文化的性差は作られたものであり、見直していかなければならない」とか「固定的性別役割分担意識は克服されなければならない」といった思想である。

 もちろん、そうした思想を個々人が持つのは自由であり、またそれを広めようという運動をするのも自由である。しかしそうした特殊な思想を法律を使って強制的に広めようとするのは、自由と民主主義に反する考え方であり、日本国憲法に反すると言わなければならない。

 『基本法』はそうした思想を基盤にして作られ、その思想によって国民の意識を洗脳し、伝統的な文化を変革することを目指している。意識を変革するためであるから、異常とも言えるきめ細かな監視体制を必要とすることになったのである。『基本法』の基本的性格は、国民の意識と思想を一定方向に変えようという独裁政治への傾向を含んでいるのである。民主主義の国においては、あってはならない型の法律であると言わざるをえない。

 このような性質の法律や統治方式は、歴史的にはスターリン支配のソ連・東欧や共産中国と北朝鮮等の共産主義国に特有のものであり、いまではほとんどが破綻して地球上から消えている。それを日本に実現させようというのは、まさに(マルクス主義者やフェミニストが好む表現を使うなら)歴史の歯車を逆行させようとするものでしかない。

 

『基本法』には重大な欠陥がある

 このように『基本法』は基本的に危険な性格を持っているが、その危険性をさらに増大させているのが、条文の難解さと曖昧さである。つまりいろいろな解釈の生じる余地が大きく、ために多くの混乱を生むもとになっている。

 さらに危険なのは、立法者やフェミニストたちが、特定の解釈や説明を一方的に押しつけて、この法律の実行を特定の方向にますます押し進めていることである。

 とくに解釈をめぐる混乱の大きいのが、第4条と第6条についてである。この二つの条項をめぐって解釈が大きく分かれている。これらの条項が何を意味しているのか、はなはだ不明確であるばかりか、差別的な内容であると解釈される余地が残されているからである。そうした曖昧性という重大な欠陥があるとすると、基本法に忠実に「のっとって」条例を作らない方が「見識」だという見方もできるくらいである。問題点を具体的に示そう。

 

第4条の欠陥

 まず第4条を見てみよう。この条文はかつて私が「希代の悪文」と評したことがある。何を言いたいのか、容易には分からない。わざとわかりにくくして、本当に言いたいことを隠したのかとかんぐりたくなるような、理解を拒絶するような悪文である。念のため全文を掲げる。

 第4条「社会における制度又は慣行についての配慮」

 男女共同参画社会の形成に当たっては、社会における制度又は慣行が、性別による固定的な役割分担等を反映して、男女の社会における活動の選択に対して中立でない影響を及ぼすことにより、男女共同参画社会の形成を阻害する要因となるおそれがあることにかんがみ、社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものとするように配慮されなければならない。

 この条文について、政府の公式見解が出されている。内閣府男女共同参画局の「男女共同参画基本法執務提要」の「第 II 編男女共同参画社会基本法逐条解説」によれば、第4条について以下のような解説がなされている。

   (1)「社会における制度又は慣行」

 社会におけるあらゆる制度又は慣行が含まれる。制度には、法制度や社会的に定められた仕組みなどが該当する。 慣行を法律で取り上げた例は数少ないが、男女共同参画社会の形成において無視することはできないので規定されてい る。なお、社会制度、慣行であって、性別による差別に該当するようなものについては、本条よりも第3条の基本理念に反 するものと言える。

  (2)「性別による固定的な役割分担等」

 男女を問わず個人の能力等によって役割の分担を決めることが適当であるにもかかわらず、男性、女性という性別を 理由として、役割を固定的に分けてしまいがちである。「男は仕事・女は家庭」、「男性は主要な業務・女性は補助的業 務」等は固定的な考え方により男性、女性の役割を決めている例である。「等」には、女性蔑視等の偏見等が含まれる。

  (3)「男女の社会における活動の選択に対して中立でない影響を及ぼすこと」

 「中立」とは、男女が「社会における活動の選択」を行うに当たり、影響を与えないことであり、換言すればある方向に誘 導したり、ある選択をしにくくしたりしないことを言う。個別の制度・慣行が「活動の選択に対し中立でない影響を及ぼす」か 否かについては、男女の社会における活動の実態に関する調査、各種制度等の目的・適用関係等を踏まえ、男女いずれ か一方に特別の影響を及ぼしているか否かとの観点から、個別に判断するものである。

  (4)「男女共同参画社会の形成を阻害する要因となるおそれがあることにかんがみ」

 社会における制度又は慣行が、性別による役割分担等を反映して、男女の社会における活動の選択に対し、中立でな い影響を及ぼすことにより、男女共同参画社会の形成を阻害する要因となるおそれがあることが、本条を設ける趣旨であ る旨が明記されている。したがって、単に男女異なる取扱いを明記していないからといって、直ちにそれで本条の規定に照らし て問題にならないということではない。

  (5)「できる限り中立なものとするように配慮」

 社会における制度又は慣行が男女共同参画社会の形成を阻害する要因とならないよう、それらの目的・意義との関係 も踏まえつつ、活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものとするように配慮することである。社会における 制度又は慣行は、必ずしも男女共同参画社会の形成を直接的な目的とするものではないし、また、制度を作った目的を 追求すれば、男女共同参画社会の形成について完全な中立を保つのは難しい場合もあることから、「できる限り配慮す る」ことを規定している。

 一見いかにも詳細な逐条的な解説のように見えるが、そのじつ少しも明確になっていない。

 まず「社会における制度又は慣行」について「社会におけるあらゆる制度又は慣行が含まれる。制度には、法制度や社会的に定められた仕組みなどが該当する」と書かれている。「社会的に作られた仕組み」と抽象的に規定した上で、それらの「あらゆる」ものが含まれると言っている。恐ろしい考え方である。これだと「すべての」ものが槍玉に挙げられる恐れがある。

 次に「性別による固定的な役割分担等を反映して」という文章について、「男女を問わず個人の能力等によって役割の分担を決めることが適当であるにもかかわらず、男性、女性という性別を 理由として、役割を固定的に分けてしまいがちである。」「男は仕事・女は家庭」、「男性は主要な業務・女性は補助的業 務」等は「固定的な考え方により男性、女性の役割を決めている例である」と書かれている。

 この説明では、私がかねてより言っている「固定的」とはどういう意味かという疑問に答えていない。分かりやすく言えば、「意識的自覚的に選択している場合」はどうなのか。それも「固定的」の中に入るのか、入らないのかという疑問である。「男は仕事・女は家庭」という考え方を取っている人たちはすべて「固定的な考え方により男性、女性の役割を決めている例」と決め付けていいのか、という問題である。

 「固定的」という言葉の意味が、「初めから有無を言わさず決めてかかっている」という意味なら、自覚的に選択している人たちの考えを「固定的」と言うべきではない。「男は仕事・女は家庭」という考え方を取っている人たちの中には、非常に多くが意識的自覚的に選択しているのである。したがって「固定的役割分担」の例として、「男は仕事・女は家庭」を出すのは、はなはだ不適当だと言える。ましてや、『基本法』が「男は仕事・女は家庭」という分業を否定しているのだとすれば、主体的な選択をしている人たちを否定することになり、憲法に言われている思想信条の自由を侵すものと言わざるをえないのである。

 次に「中立」という言葉について、「中立」とは、男女が「社会における活動の選択」を行うに当たり、影響を与えないことであり、換言すればある方向に誘導したり、ある選択をしにくくしたりしないことを言う。と説明している。しかし「影響を与えているかいないか」という判断を客観的に行うことは原理的に不可能であるか、少なくともきわめて困難である。たとえば、大相撲の賜杯を土俵上で女性が授与することや、端午の節句やひな祭りといった「制度や慣行」が、男女の「社会における活動の選択」に対して、「影響を与えない」とは言い切れない。「答弁」では「子どもの祝い事(鯉のぼり、雛祭り)のような慣行の中立化ま で求めるものではな い」が「大相撲の賜杯を女性が土俵で授与すること」については「慣行の見直し、検討がなされていくと期待している」と答弁されている。双方の評価の違いをもたらす基準はまったく明らかにされていない。いつでも変わりうる。もし「影響を与えている」と判断されたら、「中立でない」とされ、「中立化」の対象にされ、否定されかねない。これでは、ある日突然「中立化」の対象にされかねない。たいへんな息苦しい思想統制の国になってしまうだろう。

 結局、第4条は全体として何を意味しているのかが問題となる。言い換えれば、「制度・慣行の影響を中立化すること」によって、何を実現しようとしているのか。

 表向き批判の標的になっているのは「固定的性別役割分担」であるが、その場合必ず例として持ち出されるのが「男は仕事、女は家庭」という分担様式である。つまりこれこそフェミニストが否定したいものの本命だということが分かる。しかしこの思想は特定の生き方を否定せよということだから、人権侵害だし、差別に反対する法律にしてはあまりにも差別的な思想が盛り込まれているということになる。思想信条の自由を侵すという意味では憲法違反の考え方だと言わざるをえない。

 われわれの『報告書』がこのような差別的な条項を忠実に採用せず、「固定的性別役割分担」という言葉を使わなかったのは、誇りにしてよい『報告書』の立派な見識であったと思う。

 

第6条の欠陥 ──「社会進出」の「社会」とは何か

 次に第6条を見てみよう。

 第6条「家庭生活における活動と他の活動の両立」

 男女共同参画社会の形成は、家族を構成する男女が、相互の協力と社会の支援の下に、子の養育、家族の介護その他の家庭生活における活動について家族の一員としての役割を円滑に果たし、かつ、当該活動以外の活動を行うことができるようにすることを旨として行われなければならない。

 この条項は「家庭生活以外の活動もできるようにしましょう」というだけの、なんの変哲もない文章に思えるかもしれない。しかし、この条文は、よく読みよく考えてみると、法律としてははなはだ奇妙なのである。

 主語は「家族を構成する男女」であり、「子の養育」というのであるから大人が想定されている。大人で「家庭生活」だけをやっている人間は稀であり、仕事その他の「家庭生活以外の活動」もやっている。しかし「以外の活動」として何をやろうとそれぞれの自由であり、もちろんやらない自由もある。

 この条項が「家庭生活以外の活動」として想定しているのは、内閣府の「逐条説明」によれば「仕事、学習、地域活動、ボランティア活動等」だそうである。条文には、男女がこれらの活動も「できるように」し「なければならない」と書かれている。自由主義の民主主義社会において、これは不可解な発想である。「仕事、学習、地域活動、ボランティア活動」は「できるようにしなければならない」などと国や政府から言われなくても、各自の責任と判断で自由に行うべき事柄である。

 じつはこの条文を入れた人たちが考えているのは、「女性が」「家庭生活以外の仕事もできるようにしなければならない」ということであろう。しかしそれでは露骨で偏っていると考えて、主語を「男女」とし、「以外の活動」として「仕事」のほかに「学習、地域活動、ボランティア活動」を付け足したのであろう。

 したがって、この条項を「女性の社会進出」を勧める意味だと理解し、「社会進出」を「職業進出」という意味に理解している人がいたとしても、あながち的はずれな理解とは言えない。むしろ立法者たちの意図を正確に理解しているとさえ言えるのである。彼らはさらには「社会の支援の下に」という箇所を強調してたとえば保育所を作るという意味に取り、ついには「仕事と家庭の両立」を推奨する意味だと理解するに至っている。

 もちろんこの文章には、そのように特殊な意味に受け取られる言葉は入っていない。そのような解釈はもちろん過剰解釈であり、勝手な意味を読み込んだものと見なされるべきである。しかし「家庭生活以外の活動」とは「仕事」「職業」への「社会進出」であると理解している人は多いのである。

 そうした理解の仕方は懇談会の議論の中にも明確に出ていた。ちょうど北田氏が引用している箇所である(この中で「委員」とあるのはすべて張委員である)。ここに見られるように張委員は『基本法』が「女性の社会進出」を進めるためのものであると理解している。([ ]内は私の加筆)

[張]委員  男女共同参画社会の推進の基本は、女性が社会に進出していくことを前提としていると思う。ある程度は男性が家庭の中の仕事を担い、女性の社会進出後の家庭を埋めるような形になるかと思う。文脈的には、家庭の担い手が抜けるため、女性の社会進出がなくても家庭の絆が強まるように共同参画社会を作るというのは無理な話ではないのかという気がする。

会長  男女共同参画社会は女性の社会進出を前提とするようなものではない、と理解している。

[張]委員  会長がそう言っただけなのではないのか。

会長  これまでの会合でも、皆さんは異論なく認めている。女性が社会に進出しようが、家庭に留まろうが、どちらも尊重する、ということは全員で確認している。

[張]委員  この懇談会では、女性の社会への進出については特に促進する考えは持っていないということを確認した、ということか。

会長  社会に進出することも、そうでないことも両方尊重するということで、女性の社会進出のことだけを考えているのではない、ということは確認されている。基本法には、女性の社会進出を促進するための法律だということは書かれていない。

[張]委員  そういう理解でいいのか。

会長  それでいい。女性の社会進出を前提とする法律だとは受け取れない。

[張]委員  社会進出が足りないという認識も持たないでいいのか。

会長  足りるとか足りないというのは人それぞれの価値観である。一方的な価値観を押し付けてはいけない。

[張]委員  この基本法はそのような価値観を前提に作られているのではないのか。

会長  それは違う。(第5回会議録より)

 このように張氏の理解では、『基本法』は「女性の社会進出」を推奨するためのものである。しかし『基本法』をいくら読んでも、「女性の社会進出」を促進せよとは書いてないのである。懇談会の中では、私の「女性が社会に進出することも、家庭に留まることも、どちらも平等に尊重する」「それが基本法の立場だ」という理解は、張氏以外の委員全員に支持されていた。前の回、第4回の会議の中でも、私は次のように発言した。

会長 ○○[張]委員からの意見[書]について何かありますか。意見がないようなので申し上げるが、「女性の社会進出を促進することが前提となるこの懇談会」という文章があるが、これは間違いであると思う。基本法もこの懇談会も女性の社会進出を促進することを前提としているものではない。女性が社会進出しようが家庭に留まろうが、分担の形態が異なるだけで共同参画であることに違いはない。性別役割分担についても共同参画の一つの形態として基本法は否定していないと思う。社会進出を支援することはいいが、家庭内で役割分担をして子育てする人に対しても同じように支援しなければならない。このような観点から議論してきているので、「これまでの議論が基本法から逸脱している」というのは当たらない。

 この私の発言は全員に支持され、誰からも異論は出なかった。それなのに張氏は次の回で上のような議論を蒸し返したのである(張氏のそうした態度は議事進行上のルール違反であるから、発言を停止させるのが議長としての正しい態度のはずである。しかし私は丁寧にこれまでの経緯を説明し、すでに懇談会としては決定済みであるという説明をしたのである。「強引」どころか、反対に親切な対応を表わしている箇所と言うべきである)。

 このように、懇談会の中では私の『基本法』理解は圧倒的に支持されていたが、しかし張氏のような理解(基本法は女性の社会進出を推進するためのものという理解)は、フェミニストの中ではむしろ多数派なのである。

 以上で見たように、第6条から「女性の社会進出」あるいは「職業への進出」を進めるという意味をくみ取るのは明らかに過剰解釈である。もしこの過剰解釈が正しいとなると、「仕事も学習も地域活動もボランティア活動もしていない」専業主婦は「社会」に「進出」していない、「社会」の構成員ではない(社会的存在ではない)と考えられていることになる。しかし男女共同参画社会とは、職業を持っている男女も持っていない男女も、ともに共同して社会を作っていくという意味のはずである。

 この場合、「社会」を「市民社会」と考えるかぎり、専業主婦も立派に社会の構成員である。もちろん「男は仕事、女は家庭」と考えている人たちも立派に社会の構成員である。しかし「社会」を「職業社会」と考えると、「家庭生活以外の活動」をしないと、男女共同参画社会にはならないと考えられてしまう。悪くすると専業主婦を保護している税制や年金制度は「中立化」すべき悪しき「慣行」だとして、否定の対象になってしまう。事実いま政府が遂行しているのは、そうした方向での専業主婦いじめなのである。この場合、『基本法』の差別的解釈(というより『基本法』そのものに含まれている思想)が専業主婦を差別する働きをしていると言うことができる。

 以上、第6条を例に考察してきたように、あまりにも抽象的な規定は、何も意味していないか、恣意的な解釈を可能にするという意味で、法律の規定としては欠陥を持っていると言うべきである。張氏のような偏った理解が後を絶たないのも、条文の曖昧さという欠陥のせいだと言うべきである。

 

「のっとって」作るとはどういう意味か

 以上の例でも分かるとおり、『基本法』には意味不明の箇所や、どうにでも解釈できる箇所や、差別的な解釈が可能な箇所がある。各自治体が条例を作るさいには、当然のことながら、そういう欠陥をもった箇所をそのまま踏襲するのではなく、主体的に判断して、不当な解釈の余地のない、より正当性のある内容にした方がよいに決まっている。そんな欠陥条項を真似して、『基本法』の言葉や文章をそのまま金科玉条のように使わなければならないという義務も決まりもないのである。もし基本法の文章そのままの条例を作れと言うのなら、地方自治は有名無実になってしまうだろうし、各自治体で条例を作る必要もなくなる。

 条例は『基本法』に「のっとって」作られなければならないと言われているが、「のっとって」とはどういう意味かも曖昧である。「趣旨にのっとって」という意味だと言われても、その「趣旨」について多様な解釈がなされているのが現状である。とくに第4条や第6条については、各自治体の条例を作るさいに、この訳の分からない条項の真似をしないで、独自の考えで条例を作成することが望ましい。ところがフェミニストたちは、憲兵か秘密警察のように、「どこがどれだけ基本法と違っている」とばかりに、こと細かに査定し、『基本法』と同じにするように迫っている。「オンナ的支配の網の目の細かさ」という感じである。

 我々が荒川区で作った『報告書』は『基本法』よりも、文章の平易さといい内容の妥当性といい、数段よいものになっており、それでいて男女平等を進めるという『基本法』の趣旨に反している所などまったくないのである。

 『報告書』が基本法に違反しているかいないか、という問題については、さらに以下(次回以降)で扱う具体的な論点に即して検討していく。

 

四 「男女の特性」と「性別役割分担」

  (平成16年10月11日初出)

 フェミニストの「男女共同参画」概念の最も基礎になっている見方は、

1 「男女の生まれつきの違いは生物学的な違いだけだ」

2 「男女の違いより、一人一人の個性や能力の違いに注目すべきだ」

3 「性別にかかわりなく、個人の能力を 十分に発揮できることが大切だ」

というものである。

 これらの命題は一見もっともに聞こえる。一般の受けもいいので、フェミニストはしきりに宣伝している。しかし、こられの命題は方法論的・科学的に間違っているのである。どこがおかしいのか、一つ一つ検証しておこう。

 

1 男女の違い

 男女の違いをできるだけ小さいものと見たい、「ミニマム(極小)化」したい、というのがフェミニストの基本的動機である。同じ発想から「母性のミニマム化」などという言葉も使われる。

 生まれながらの男女の違いはただ身体の構造や生理的な部分などの「生物学的な違い」だけであり、「社会的・文化的な違い」(ジェンダー)は「作られたもの」であるというのが、彼らの見方である。たとえば、「母性」と言われているものは、ただ「産む」ということだけであり(これに授乳を付け加える者もいるが、それさえ不要として捨てる者もいる)、子供を育てる性質は男女まったく同じだと主張している。

 この見方が間違っていることは、今日では脳科学の発達によって完全に科学的に証明されている。生まれつきの男女の違いは、単に身体構造や生理だけでなく、脳の仕組みと働きに基づくものであり、したがって精神的・心理的な性質や行動様式にまで及んでいるのである。たとえば、母性についても遺伝子が発見されているし、本能的なものだということも科学的に証明されている。

 したがって、男女の社会的・文化的な違いは、脳の構造に由来する生得的な違いを基盤にして発達したものであり、彼らの用語を使うなら「生物学的な違い」と「社会的・文化的な違い」(ジェンダー)をまったく別のものとして対立させる見方は間違いなのである。

 (以上の脳科学の知見の詳しいことは、本HPの

「父性」

16 脳科学から見 た「父性」

および「母性とフェミニズム」

10 脳科学から見た 「男らしさ」「女らしさ」

29 バックラッシュは正 義なり ──フェミニスト(女性学会)の反論への再批判

を参照のこと。とくに最後の論考の中の

四 方法論

 1 型に「はまらない」「とらわれない」はよいことか

 2 男女の違いと個人の違い──類別はなぜ必要か

 3 「大多数」と「例外」)

 

 われわれの『報告書』の「男女の違い」「特性」という言葉は、こうした最も進んだ脳科学の知見を基にして書かれており、旧態依然たる教条にしがみついているフェミニストたちの非科学的な公式とは段違いである。

 旧式フェミニストたちは『報告書』を批判して「特性とは何かが不明確である」「性別特性論は差別を再生産する要因」であるとか、「特性論の強調は男女共同参画社会の基本理念とは相入れないもの」であり「差別を助長するもの」だと述べている(『意見書』)。

 「男女の特性」という言葉を使っただけで、「強調した」と言われ、「男女共同参画社会の基本理念とは相入れないもの」とか「差別を助長する」と批判されるのでは、冷静に男女の違いについて議論することさえできなくなってしまう。こういう一律の決め付けをしてしまうと、反対論を封殺しつつ、性別否定がのさばり、ついには「ジェンダーフリー」を「性別全否定」のように理解して実践するという弊害を生むようになる。現在問題になっている「ジェンダーフリー教育」の弊害に道を開いたのは、こういう教条的な「特性否定論」である。

 われわれの『報告書』は男女の特性の違いだけをことさらに強調したことはなく、男女の違いを科学的にきちんと見定めた上で、それに基づいて男女の分業のあり方や協力のあり方を考えていこうという姿勢である。懇談会のメンバーは、その問題についての資料を読んだり討論したりする中から、男女の「違い」や「特性」について共通の認識(もちろん理解の濃淡はあるが)を持つに至っている。

 『意見書』はそうした知見をふまえているとは思えない。『意見書』が依拠しているはずの『基本的考え方』の中では男女差について「生物学的特徴」についてのみ肯定され、それも単に「動物実験」によって確かめられているとしている。

 「動物実験」を持ち出すあたりに、不勉強がはっきりと見られる。今では動物実験によらなくても、脳波測定、血流測定やMRAなどの方法によって脳の働きと部位との関係が人間の脳そのものについて確定できるのである。人間の脳について、男女差ははっきりと確かめられている。

 「脳の構造と機能」の男女差について『基本的考え方』には

「空間把握能力については男性が女性より優れている」、「言語能力については女性が男性より優れている」など の相違点についても言われているが、対応する脳の構造が未だ特定されているわけではない。個々人を見れば、空間把握能力に優れた女性もいれば、言語能力に優れた男性もおり、こうした能力は個人差が大きいものである。

と書かれている。

 このように男女差は個人差へと解消されてしまう。個人差があるのは当然であるが、しかし男性と女性を全体として調べてみれば、有意な差が見られるのである(上記の本HPの拙論にある参考文献を参照のこと) (なお、この「平均と個人差」の問題については、後述)。

 

「特性」とは何か

 まず「特性」という用語の意味について明らかにしておこう。

 辞典類によれば、「特性」は次のように説明されている。

 「その人(物)だけがもっている、すぐれた性質」(『新明解国語辞典』第5版)

 「そのものだけが有する、他と異なった特別の性質」(『広辞苑』第5版)

 どちらもかなり限定された意味である。その人(もの)「だけ」が持っている「すぐれた」「特別の」性質だと述べている。

 しかし世間一般では、こんなに強く限定した意味で使っているだろうか。もう少し曖昧な意味、たとえば「そのものに特有の性質」というほどの意味で使われることが多いのではないであろうか。われわれも「男性に特有の性質」「女性に特有の性質」というほどの意味で使っている。たとえば、「やさしさ」という性質について、男性も当然「やさしさ」は持っているが、しかし「女性特有のやさしさ」「男性特有のやさしさ」というものがあるという立場である。「男らしさ」(女らしさ)と言われているもろもろの性質にしても、女性(男性)にまったくないわけではないが、とくに男性(女性)に多く強く見られるのである。

 辞典類が述べているような「そのものだけがもっている」「すぐれた」性質という意味だとすると、『報告書』に書かれている「特性」という言葉は不適当だと言われても仕方ない。つまり男性「だけ」が持っていて女性は持っていない、または女性「だけ」が持っていて男性は持っていない性質ということになり、おかしなことになってしまう。

 しかし、そういう意地悪な意味にとる人はそんなに多くはないと思う。『報告書』でも、そこまで限定的な意味ではなく、もう少しやわらかい意味で使われている。すなわち、この言葉は「男女の違い」という言葉の代わりに導入された経緯からも分かるように、脳科学の成果をふまえつつ、男女には異なった特有の性質があるという意味である。男女には違いがあることを前提にして、その違いを素直に認めるところから出発しましょう、という意味である。

 「男女の違い」があると、そこから必然的に差別が生じるのでもないし、違いが必ず「差別的要因」になるわけでもない(もしそうなら、男女の違いは生得的なものなのだから、人類は永遠に差別から解放されないことになってしまう)。違いから差別が生じないように気をつけながらも、違いに基づいた合理的な分業のあり方を考えていこう、という意味である。

 

感情誘導的アジテーション

 しかるに、すでに科学的に明らかになっている男女の違いを頭から否定して、たとえば『論点』には

 性別を、乱暴な男/女のステレオタイプの二分法で捉え、その一方の鋳型に自分を押し込んでいくのは、成熟ではなく、むしろ幼稚な思考でしょう

と述べられている。この文章には、フェミニズムがファシズムへと傾斜していく危険を示す特徴がはっきりと出ている。すなわち、客観的論理的な言い方でなく、感情誘導的なアジテーションを主要な武器にしているという特徴である。自分が否定しようとする事柄をことさらに「乱暴な」「ステレオタイプ」「一方の鋳型に自分を押し込んでいく」といったマイナスの意味をもつ形容語をつけるという手法を使っている。これは物事を理性的に判断させるのではなく、情緒的な嫌悪感を持たせてしまおうという作戦である。こういう感情に訴えるアジテーションとデマゴギーで人々を一定方向に誘導するのが、ヒトラーの手法であった。感情的なアジとデマを使っているフェミニストは、まさしくヒトラーの手法を使っているという点で、たいへん恐ろしいと言わなければならない。

 同様のことは「男らしさ」「女らしさ」についても言える。「男らしさ・女らしさより自分らしさ」という標語は、「男らしさ・女らしさ」と「自分らしさ」をことさらに対立させて理解させ、前者をなにかつまらない遅れた捉え方だと思い込ませ、その代わりに「自分らしさ」がよいものであるかのような錯覚を起こさせる。これもフェミニストが多用する情緒に訴えるやり方である。

 大事なことは、男女の違いがどうして生まれ、どのようにして発達するのかという問題を、科学的・理性的に明らかにすることである。男女の違いが生まれつきのものだという、すでに明らかになっている科学的真実を素直に認め、そこから出発して、差別的でない性別役割分業のあり方を考えていくべきなのである。

 要するに、『意見書』が「特性論は基本法と相入れない」とか「差別を助長する」と言っているのは、『女性差別撤廃条約』の「性に基づく区別は差別である」(だから男女の区別そのものをなくせ)という主張を踏襲しているからである。つまり区別に反対しない者(男女の違いを認める者)は、差別にも反対していないと解釈されてしまう。こういう公式主義を基にして評価するから、『報告書』が「男女の違い」を認めたり、「男女の特性」という言葉を使ったというだけで、「男女共同参画に反対する者」だと烙印を押され、ひいては「男女平等に反対する者」だ断定されてしまうのである。共同通信が配信した記事の中に、われわれを「反ジェンダーフリー」と断定し、「男女平等に反対している」と指弾しているのも、そういう論理によって出てきた結論なのである。

 元凶は『女性差別撤廃条約』にあり、その思想を基に作られている『基本法』にある。これらを「撤廃」しないと、根本的な解決にはならないのである。

 

2 「男女の違いより、一人一人の個性」 ?

 次に第2の命題「男女の違いより、一人一人の個性や能力の違いに注目すべき」について考えてみよう。これは方法論的に言うと、古来「普遍概念(類概念)の否定」と言われてきたノミナリズム(唯名論)の考え方である。この考え方によれば、「人間」とか「男」「女」というものはそもそも存在しない。存在するのはただ「個物のみ」ということになる。この考え方を「男女共同参画」に適用すると「男だの女だのというより、一人一人の個性の方が大切だ」となる。

 同じ発想は、「日本女性学会」が発表した、フェミニズム批判に対する反論『男女共同参画をめぐる論点』にも見られる。そこには「男女を区別すること」は「乱暴な」「ステレオタイプの」二分法であり、「幼稚な思考」だと書かれている。

 「女性学会」の主張はこうである。

 分かりやすく、身体の大きさを例に考えてみましょう。男女一万人ずつの身長分布は、およそ下記のグラフのような正規分布になっています。この場合、大多数とは誰のことで、例外とは誰のことでしょう?どこに明確な線が引けるのでしょう?このような現実を「男は女よりも体が大きい」と二分法で理解してしまうことがどんなに乱暴なことであるかは、すぐに理解できるでしょう。多くの精神的特徴についても同じで、人間を特徴によって二つに分けるなどということはそもそもできないのです。「大多数/例外」という区別自体も乱暴な二分法にほかなりません。

 これに対して私は次のように反論した。

 乱暴なのは、君たちの方ではないのか、と言いたくなるような粗雑な論法である。身体の大きさを例に取って「分かりやすく」したつもりのようだが、少しも分かりやすくなっていないで、かえってごまかしてしまった感じがする。

 回答は、「大多数/例外」という二分法は乱暴だから、してはいけないと言っているだけである。してはいけない理由を説明するために、身体の大きさを例にとっている。身体の大きさは平均では男性の方が大きいが、男性でも小さい人もいれば女性でも大きい人もいる、だから「男性の方が大きい」と言ってしまうのは乱暴だという論理である。

 たしかに個別的に見ると、男性の方が大きいという法則からはずれる人がいるのは当然である。だからといって、平均では男性の方が大きくて力が強いという特徴が無意味になるわけではないし、乱暴だとは限らない。社会の仕組みがその特徴を考慮して(たとえば体の小さい力の弱い女性をかばうように)作られるのは当然である。そういう場合には二分法は必要であって、いつでもけしからんわけではないのである。身体の大きさを例にとってみても、男女の二分法は決して乱暴ではないのである。いくら「個人差」があっても、「平均」が無意味になることは決してないのである。

 では精神的区別についてはどうであろうか。『論点』は、精神的に男女の区別をするということ、「人間を特徴によって二つに分ける」ことは、「そもそもできない」と言っているが、それがまったくの間違いであることは今日では脳科学によって完全に証明されている。男性と女性では、脳の配線とも言うべき構造や仕組みが違うのである。科学的に明らかになっていることを、「そもそもできない」などとなんの根拠もなく否定するのは、自らが愚かで不勉強であることを白状したようなものである。

 男女の脳は生まれつき異なっているので、当然、男女は心理的にも異なるし、行動様式も異なる。つまり「男らしさ・女らしさ」は生得的なものである。したがって社会全体では男女の傾向が異なっているのだから、社会的仕組みや行事もその違いを考慮して作られるのは理の当然である。

 それからはみ出す特徴をもった女性なり男性なりをどう救済したり保護するか(差別をなくすか)ということは、もちろん充分に配慮しなければならないが、例外の人たちを基準にして社会の仕組みを作れというのは無理な要求なのである。

 なおこの論点については

29 バックラッシュは正 義なり ──フェミニスト(女性学会)の反論への再批判

の中の

四 方法論

 1 型に「はまらない」「とらわれない」はよいことか

 2 男女の違いと個人の違い──類別はなぜ必要か

 3 「大多数」と「例外」

を参照してほしい。

 要するに対立点は、「男性」「女性」という区分をできるだけなくそうとするか、その区分に意味があると考えるかの違いである。「男性」と「女性」では生得的な違いがあるかぎり、「男性」「女性」という区分が必要であることはあまりにも当然のことである。

 

3 「性別にかかわりなく、個人の能力を 十分に発揮できることが大切」?

 男女特性論に反対する根拠として言われているのが、「性別よりも個人の個性や能力が大切」という命題である。

 もしこの命題が本当に正しいと言うのなら、クオータ制を要求するのは矛盾である。また「女性が政治に参画すると政治がよくなる」という言い方は間違いのはずである。正しくは「すぐれた個人が政治に参画すると政治がよくなる」と言うべきであろう。(事実、女性政治家が増えても政治はよくならなかった。政治を悪くした女性はたくさんいる。社民党の女性議員をはじめ多くの女性議員が秘書給与をめぐって醜態をさらけ出した。「女性はクリーン」だというのはまったくウソだったことが明らかになった。)

 そもそも個人の個性や能力は性別と無関係に存在しているのであろうか。無関係だと考えるのは根本的に間違っている。

 個人の個性や能力は男女それぞれの特性を基礎にして発達しているのであり、両者は決して無関係ではない。

 能力を評価する場合にも、性別を無視して、単に個人別にのみ評価したら、かえって不公平になる場合もある。スポーツの場合が典型だが、男女別にしなければならないのは、個人の能力といっても、生まれつきの男女の違いを基礎にしているからである。

 体力や身体の特徴ばかりでなく、芸術や学問の能力の特性も男女では異なっている。異なっていることを前提にした上で、両者をいかにしたら平等に扱えるかを追求するのが合理的かつ正当な考え方である。

 もし性別関係なしに男女混合で競争したら、かえって女性に不利になり不公平になってしまう場合もある。男女の違いを認めた上で、分業した方が両方の利益になる場合もある。男女という類概念を無視して、単に「個人」のみを単位として考えることには無理があるということなのだ。

 青少年のアイデンティティー確立の場合にも、確立の仕方が男女でどこがどう異なっているのかをきちんと見定めた上で指導するという観点が必要である。単純に「性別よりも個人の個性が大切だ」という観点だけで見ていくと、かえって「男子特有の問題」「女子特有の問題」といった大切な問題点を見落とすことになりかねないのである。

 フェミニストは二言目には(性別という)「型にはまらない」「型にとらわれない」ということが良いことのように宣伝しているが、その発想がそもそも間違いなのである。これも『論点』に対する反論の中で述べたことだが、重要なのでここに引用しておく。

 そもそも自分を型に当てはめないでおけば伸びやかになれるというのが間違いである。人間が生きていくためには型が必要である。一定の枠や秩序も必要である。生活の仕方にしても、男女の付き合い方にしても、社会のルールにしても、またスポーツや武道にしても、まず基本の型があって、それを習得したときに、初めてそのうえに個性や伸び伸びとした人格が生まれ得るのである。

 型がないとのびのびできるというのは錯覚であり、型があると窮屈だと感ずるのは自由放任で育った我がままな人格に特有の歪んだ感じ方にすぎない。

 

「固定的性別役割分担意識」は「個性と能力を発揮するうえで抑制的に働く」?

 『基本的考え方』に戻ると、その中には、見逃すことのできない重大な差別的発言が見られる。すなわち性別意識が、個性や能力の発揮に対して抑制的に働くと非難されているのである。ここまでくると、区別すること自体が差別だとされ、区別する人間が不当な差別を受けることになりかねない。いや事実、「男は仕事、女は家庭」という意識と生き方そのものが否定の対象にされている。『基本的考え方』にはこう書かれている。

 「男は仕事、女は家庭」が当たり前といった固定的な性別役割分担意識は、女性にとっても男性にとっても個性と能力を発揮するうえで抑制的に働く場合があり、その意味において問題である。

 「男は仕事、女は家庭」が当たり前といった意識は「個性と能力 を発揮するうえで抑制的に働く場合がある」という認識が示されている。これはきわめて重大な差別的問題発言である。「……の場合がある」というだけで「問題である」と言われたら、どんなことでも抑制的に働く「場合がある」のだから、すべてのものが「問題あり」といって弾劾される恐れがある。日本版「文化大革命」と言うべきだ。

 実際には「抑制的に働く場合」として想定されているのは、「男は仕事、女は家庭」の意識が、女性が外で働く形態に対して抑制的に働くという場合である。しかし、そういう見方をしたら、専業主婦形態を取っている人々は、ただ存在しているだけで、共働きをしている人々に対して「抑制的な」生き方をしていることになり、存在してはいけないと言われているに等しいではないか。

 このように自分が「よし」とする生き方だけを基準にして、他の生き方や意識を「問題である」と言い切る意識とは何であろうか。ずいぶんと思い上がった、自分中心の価値観と言わざるをえない。それでは彼らの主張する「価値の多様化」などどこにもないではないか。

 こういうことを平気で主張するフェミニストには、「外で働く=個性と能力の発揮」という度し難い思い上がりが隠れている。しかし同じ論理から逆のことも言うことができる。「男は仕事、女は家庭」という分業の中で個性と能力を発揮したい人たちにとっては、分業否定論(女も働けイデオロギー)は「個性と能力を発揮するうえで抑制的に働く」と言える。「その意味において問題である」から、「女性に外で働くことを勧めてはならない」とも言えるのである。

 もうお分かりと思うが、フェミニストの思考様式は、自分たちのライフスタイルにとって都合の悪い意識を「個性と能力を発揮するうえで抑制的に働く」ものと決め付け、否定の対象にしているにすぎない、きわめて差別的な見方なのである。その自分たちの見方こそが、異なるライフスタイルを取りたい人から見たら、抑圧的に感じられるという問題は、まったく意識されていない。事実、いまどきの若い専業主婦たちは、外で働かない者は「間違ったことをしているのではないか」という追い立てられるような感じを持たされている者が多い。そのストレスから子供を虐待してしまう人も多いのである。不当なイデオロギー的圧迫を加えているのはどっちなのかと言いたくなるのである。

 

「適切な」「主体的な」性別役割分担について

 同様の問題は「適切な性別役割分担」という『報告書』の言葉についても、まったく同じように当てはまる。『報告書』を批判する人たちは、しばしば「適切な」とはどういうことかを問題にしている。

 しかし『報告書』は単に「適切な分担」がありうるという前提に立っているだけで、具体的にどういうものが「適切」かについては、考えを押しつけてはいないのである。具体的にどういう程度や種類の「分担」が「適切」かについて、条例が決めるべきものではないからである。いや、決めてはいけないものである。

 どういう分担が「適切」なのかについては、各家庭や職場、また社会全体で考えていくべき事柄である。大切なことは、男女にはもともと違いがあるという前提に立ち、その違いに応じた(必要に応じた)分業のあり方を公平に探っていくことである。どういうのが「適切」かについて、フェミニストのように一方的に決め付けていない点こそが、『報告書』の素晴らしい所である。

 この問題については『報告書』はさらに一歩踏み込んで、「乱用防止」規定の中で、「いかなる性別役割分担といえども、それが主体的選択に基づくものであるかぎり否定されてはならない」と述べている。ごく当然のことだが、これに対して『意見書』は次のように批判している。

2. 女性の「自らの選択」は、社会意識や社会的条件によるとの認識が必要

 自ら子育てに専念する女性の生き方も、職業を持つ女性の生き方もある。しかし、過去においては、ほとんどの女性が子育てに専念する生き方を選び、又は選ばざるを得なかった。現状においてはやや変化し、子育ての社会的支援を得ながら、仕事を持つ女性が増えている。自らの選択に見えるものも、社会意識による圧力の元(ママ)での選択であったり、社会的条件の貧困さの中でのやむなき選択であったりすることを忘れてはならない。

 この短い文章の中に、二つの重要な間違いが入っている。この文章は、最初に一般命題が示してあり、それを具体的状況に適用している。しかしその一般命題も間違っているし、その適用の仕方も一方的な偏りを示している。

 まず第一に、「自らの選択」は「社会意識や社会的条件による」という一般命題が間違っている。「自らの選択」は必ず「社会意識や社会的条件による」とは限らない。たしかに、自分では主体的選択をしたつもりでも知らず識らずのうちに社会的条件によって規定されているという場合もあるが、しかし「社会的意識」に対して意識的に批判する立場に立ち、それと反対の選択をする人もいる(それでもじつは大きく歴史的に見れば社会的意識に規定されているのだと言えなくもない。しかしここでは、そこまで大きく見るのでなく、そのときの主流の考えに批判的に行動する人は自覚性と主体性が高いと想定している)。要するに、「自らの選択」の中にも、その時代の主流に無意識のうちに従う選択もあれば、主流に批判的な意識的自覚的選択もあるということである。もちろん主流の意識と同じ選択をする人でも、高い主体性をもっている人もいる。

 したがって、この命題は正しくは次のように言うべきである。「自らの主体的選択だと思っている場合でも、知らず識らずのうちに社会意識や社会的条件に影響されている場合もある。」(『意見書』はわざわざ「女性の」と限定しているが、もちろんこの命題は女性だけに当てはまるのではなく、男性にも当てはまる。)

 さて、この訂正された一般命題を、具体的なケースに適用する場合を考えてみよう。

 『意見書』は「過去においては、ほとんどの女性が子育てに専念する生き方を選び、又は選ばざるを得なかった。現状においてはやや変化し、」と言うので、文脈としては次に「状況に強制されるのではなく、主体的に子育て専念の生き方を選ぶ人も増えている」と続くのかと予想した。ところが実際の文章は「子育ての社会的支援を得ながら、仕事を持つ女性が増えている」と続いている。この後半部分は、「選ばざるをえない」例として書かれているのか、本当に主体的に選んだ例として書かれているのか不明である。文脈からすれば、「現状はやや変化し、」「仕事を持つ女性」もまた「社会意識や社会的条件による選択」を余儀なくされているのだという皮肉な意味にも取れる。

 もちろん『意見書』はそんな意味はみじんも込めてはいないだろう。『意見書』は専業主婦の生き方についてのみ「社会意識や社会的条件による選択」だと言っておいて、「仕事を持つ女性」については頭から「社会意識や社会的条件に左右されない真に主体的な選択」だと考えているのではないか。「専業主婦は縛られてやむをえず専業主婦をやっているのだから、解放してやろう」という度し難いエリート選民意識、「お上」意識がかいま見られる。

 しかし「仕事を持つ」女性についても、「自らの選択に見えるものも、社会意識による圧力の下での選択であったり、社会的条件の貧困さの中でのやむなき選択であったりする」場合がありうる、と言うべきではないか。いや、このごろではむしろ、専業主婦を選ぶ人の方が自覚的意識的であり、「仕事」を選ぶ人の方が「社会意識」に無批判に従っている場合の方が多いと言えるのではないか。今や「社会的意識」の主流は「女性は職業を持つべき」となっているからである。

 要するに、「適切な性別役割分担」という言葉を批判する人たちは、「男は仕事、女は家庭・育児」という特定の選択だけを「伝統的」「(社会的意識に)捕らわれた」「固定的」役割分担意識と決め付けて否定し、その人たちだけについて「主体的選択ではない」かのように言って貶めているのである。

 こうした『意見書』の差別的な姿勢とは反対に、『報告書』はいかなる分担の形態を選ぼうが(「男は仕事、女は家庭」であろうが共働きであろうが)、同等に認め、それぞれの育児や介護のあり方に対して平等に社会的支援を考えるべきだとしている。どちらが妥当であるかは明かではないであろうか。

 以上をまとめると、『報告書』はまず男女の特性の違いを前提にし、その上で、適切な性別役割分担をするのが男女共同参画のあり方としてはよりよいという立場に立っている。この特徴は『報告書』の真に素晴らしい所であると私は考えている。

 

五 「家庭の尊重」と「職場の環境整備」

  (平成16年10月19日初出)

 『報告書』の最も素晴らしい箇所は「家庭の尊重」と「職場環境の整備」の部分である。これは『基本法』以下、全国各地の諸条例の中にもまったく例を見ない優れた内容であり、『報告書』が最も誇りにしてよい部分である。

 

「家族の多様性」というゴマカシ概念

 家族に関する『報告書』の内容について考察する前に、「家族の多様性」という概念について考察しておく必要がある。『意見書』も北田氏も、しきりに「家族の多様性」についての配慮が足らないと『報告書』を批判しているからである。「家族の多様性」という概念については、私はこれまで度々批判してきたが、ここでもう一度整理しておきたい。

 問題点は三つある。第一は、本当にそんなにいろいろな家族が存在するのか、という点。第二はそれらのいろいろな家族が増えているという事実から必然的に何か結論が出てくるのか、という点。第三はいろいろな家族形態をすべて同価値として対等に扱うべきか否か、という点。

 

「多様な家族」の例は「欠落家族」ばかり

 第一の問題点について。「家族の多様性」という場合に重要なのは、多様性をどのように分類整理するかという問題である。「家族の多様性」は次の二つの観点から分類整理することができる。一つは分業の仕方に着目した区分の仕方である。すなわち「夫は仕事、妻は家庭」という専業主婦型の家族と、共働き型の家族の違いといった区別ができる。この違いは、子供への影響や家族関係のあり方にとってきわめて大きな違いと言うべきである。

 二番目は「基本家族」と「欠落家族」(註)の違いに注目した区別。「基本家族」とは父母子の3要素がそろっている家族であり「欠落家族」とはそれらの要素の一つが欠けている家族のことである。たとえば、両親がそろっている「基本家族」と、離婚や親の一方の死亡による母子家庭・父子家庭などの「欠落家族」との違いも、子供に対する影響という点できわめて重要な違いと言うべきである。フェミニストが「多様な家族」という場合に挙げる例は、たいていは母子家庭(シングルマザーの家庭)・父子家庭等の「欠落家族」がほとんどである。(この問題については拙著『家族の復権』p.115以下をも参照されたい。)

 (註 「欠落家族」という用語に反発を感ずる人がいる──場合によっては「差別的だ」と批判する人もいる──と予想されるので、簡単に説明しておく。この用語は価値中立的に使われている。したがって用語自体に差別的な意味あいは込められていない。家族の一要素が欠けている形態を表現する必要があるので、学術用語として私が作った言葉である。10年くらい前までは、この概念を表現するために「欠損家族」という用語が使われており、法務省など政府の文書に頻繁に見られた。そのころは誰も問題にしなかった。しかし「欠損」という言葉は価値中立的な感じを与えないので、「欠落」という用語を使うことにした。その変更によって飛躍的によくなったとは言えないが、より価値中立的な感じになったと思う。いずれにしても、内容に対応した用語は必要である。もっと適切な用語があれば提案してほしい。)

 しかし、同じ「欠落家族」といっても、不可抗力で家族の一要素が欠けた場合と、自分の意思で進んで選んだ場合とでは、扱いに区別をする必要がある。すなわち、社会的支援をする場合にも、まったく同じ扱いをすべきかどうかという問題がある。たとえば、児童扶養手当についても、もともとの趣旨は父母の一方が不幸にして病死や事故死をした場合に児童が健やかに成長できるためのものであった。それを自ら望んでシングルマザーになった母親に同様に与えてもいいのか、という問題がある。しかしフェミニストはそうした区別をしないで、皆一律に支援をすべきだという意見の人が多い。

 「家族の多様性に配慮すべきだ」と言う場合に、この二つの類型の区別への配慮と同時に、それぞれの類型の中の違いにも注目しなければならない。しかるにフェミニストたちは、分業の違いによる家族の多様性を重んじないで(どちらも公平に支援すべきという問題を無視し)、「多様な欠落家族」ばかりを問題にし、しかもどんな事情の「欠落家族」をも同等に扱うべきだと言う。

 面白いことに、このフェミニストの傾向を押し進めていくと、珍奇なものを例としてあげるようになる。かつて「犬も家族の一員だ」と言った者がいた。日常の気持を言ったのなら話は分かるが、学問的な概念としては馬鹿げている。それについて私が「それなら(人間以外でも同居しているというだけで家族の一員だと言えるのなら)ノミやシラミの方がもっと家族らしい、なぜなら血のつながりがあるから」とからかったことがある。

 

「家族」でないものを「家族」に入れるバカらしさ

 同じくらいバカげたことを、すなわち家族の概念に入らないのに「家族」と名付けて数え上げているのが江尻美穂子氏らの『意見書』である。

 『意見書』は『報告書』を批判して次のように述べている。

 今日の家庭像は夫婦と子供2人というような政府の「モデル家族」では対応できない。1人家族、障害者家族、独身家族、外国人家族等々、多様な家族の形態が増えている社会であり、一律に育児、介護、家事を家族で負担すると規定するのは誤りである。現実の認識が不足している。

 家族が多様化しているという命題を証明するために、彼女らが持ち出したのは、「1人家族、障害者家族、独身家族、外国人家族」である。これが「現実の認識」だそうである。あきれるほどの偏った現実認識である。そして無茶苦茶と言いたいほどの「家族」概念の混乱を示している。「家族」というのはそもそも集合体を表わす言葉である(註)。したがって「1人家族」は概念矛盾である。「一人暮らし」は存在しても、「1人家族」は存在しない。

 (註 「家族」とは「夫婦の配偶関係や親子・兄弟などの血縁関係によって結ばれた親族関係を基礎にして成立する小集団。社会構成の基本単位。」[広辞苑第五版])

 もっと分からないのが「独身家族」。「独身者」だけの「一人家族」のことか、それとも独身者を含んでいる家族のことか。前者なら概念矛盾だし、後者ならそれはどこにでもある姿であって「家族の種類」ではないから、「家族の種類がいろいろある」ことの証明にはなっていない。

 「障害者家族」も同様であって、「障害者を含んでいる家族」という意味なら、それは「独身者を含む家族」と同様で「家族の種類」による分類ではない。それとも父母子のすべてが障害者という場合をそう呼ぶというのなら、そういう特別な場合はそんなに増えてはいない。「外国人家族」というのも、「家族のあり方」に関する類別ではない。「外国人家族」の中にいろいろな家族の種類があるのであって、「いろいろな家族の種類がある」例としては珍妙な例と言うべきである。

 要するに、これらの例は「家族が多様化している」という命題をまったく証明していない珍奇な例と言うべきである。こういう馬鹿馬鹿しい議論を平気でできるというのは、とにもかくにも「家族にはいろいろある」と言いたいために、なんでもいいから「家族」という名がつきそうなものを並べたからである。結果は、障害者だけから成る「障害者家族」というきわめて特殊な場合以外は、家族の種類として挙げることができないものであり、結局「家族」というのはそんなに「多様」ではない、ということを証明してしまったようなものである。

 

「多様な家族」に配慮していないというウソ

 第二に、「いろいろな家族が増えている、だから……」という論法の矛盾について述べる。私の分類のうち、「共働き家族」と「欠落家族」は「専業主婦型家族」と「基本家族」に対して増えていることは確かである。そんなことは誰でも知っている。この点に関して「現実認識」が不足している人などまずいないだろう。問題はその先である。「増えているからどうなのか」。「増えているからすべてを平等に扱え」というのでは、「平等に扱わなければならない」ことの理由にはなっていない。あるいは、増えている形態の方を優遇せよと言いたいのか。もしそうなら、それは差別である。それとも少数になりつつある方を保護せよと言うのか。それなら少しは話が分かるが、フェミニストがやっていることは専業主婦保護ではなく逆に専業主婦いじめだから、そんな意味でないことは確かである。

 要するにフェミニストが「多様な家族」と言っているものの中で、概念矛盾のものを除くと、妥当なものは私の言っている(1)分業型と共働き型の違い、(2)基本家族と欠落家族の違い、の二種類に集約できる。

 この違いについて、『報告書』が配慮をしていないというのはウソである。前者については、『報告書』は両方を対等に認めるという立場である。後者については、家事の内部化に困難のある家族は「必要に応じて社会の支援を得つつ」と明記している。「現実の認識が不足している」という批判は見当はずれであり、その非難が当てはまるのはむしろ江尻氏らの方である。真の「現実の認識」とは「家族形態の子供に対する影響」についての認識でなければならない。この点について、江尻氏らの文章にはなんの問題意識も表現されていない。

 

「多様な家族」をすべて同等に扱うべきでない

 第三に考えなければならないのは、家族の多様性といっても、野放図にどんな家族形態も同等に認めていいのか、という問題である。この点については北田氏が引用している会議録の中の私の発言でも言及している。すなわち、未婚の母や同性愛カップルといった「家族」が子育てをすることは望ましくないということは、明確にしていかなければならないと私は考えている。少なくとも、親の一方が死亡した場合と、初めから父親がいない状態を選んだ「未婚の母」とをまったく平等に扱うことには問題がある。さまざまな形態を同等に扱うことは、それらの形態間に存在する違いを隠蔽する働きをしてしまう。「家族の多様性」とは、存在するすべてを無批判に認めよということであってはならないのである。

 

「家族の多様性を否定」という言いがかり

 なお、「家族の多様性を否定」という「共同通信」の無体な言いがかりが、北田氏の次のような認識から出たものであることも、明かである(両者にはよほど強いつながりがあるらしい)。

 報告書の文面は「母親が育てるべき」「当然分業すべき」という会長の意図を見事に反映したものになっている。

 もちろん、専業主婦を選択する女性の価値観は尊重されるべきであるが、上記条例、報告書のような表現は、多様な家族形態への配慮に欠けるものと言わざるをえない。

 何度も言ってきたように、『報告書』はいかなる役割分担を取る家族も平等に扱うという立場である。「多様な家族形態への配慮に欠ける」というのは言いがかりである。ただし子供が乳幼児期には母親が家にいることが望ましいという立場である。したがって

 報告書の文面は「母親が育てるべき」「当然分業すべき」という会長の意図を見事に反映したものになっている。

というのも間違いである。『報告書』は「乳幼児期には母親の役割が重要」という認識であり、それは会長の意図を反映したものではなく、大多数の委員の意見を集約したものである。何度も言ってきたように、懇談会は会長独裁ではなく、民主的に運営されていた。

 

まだ言っている「女は家に帰れ」

 次に北田氏の「家族・家庭」問題についての考えを検証しよう。まず順序として、北田氏の言い分を聞こう。

 北田氏は『報告書』の「家庭の尊重」の部分に対して否定的なことを言おうとして、「とりあえず女は家に帰れ」と言っているだけだと批評して、私から厳しく咎められた。『報告書』にはそんなことは一言も書いてないのだから、普通の常識をもっていれば、ただちに謝罪すべきところである。しかし北田氏は謝るどころか、むしろ開き直って、改めてHP上で「女は家に帰れ」を見出しにして挑戦的な態度に出た。『報告書』の内容が「女は家に帰れ」という内容になっていると、どこまでも強弁しようという姿勢である。それが間違っていたと認めてしまうと、謝罪しなければならなくなるので、とことん抵抗しようという方針のようだ。悪あがきというより、鉄面皮と言うべきだ。その部分を引用する。

 家族の絆 「女は家に帰れ」

 懇談会に提出された元委員[張委員のこと─林]の「論点補充」には次のような文章がある。「本懇談会は、荒川区における計画策定の前提となる議論の場であるにもかかわらず、社会的性差と分業の論点においては、子育てに関する性役割分業かせいぜい家庭内介護程度の話しかなされておらず、法が本来議論を予定している一般社会(家庭の外の社会)における性別に基づく役割分業や家庭の中にあっても上記以外の役割分業など[に]ついては、ほとんど議論されてきておりません」。まさしくそのとおりで、この懇談会は男女共同参画社会の基本理念を素通りする形で、過剰なまでに「家族の絆」や「育児」といったテーマに時間を費やしている。条例案では育児・介護などの「外部化」を二次的(例外的)なものと位置づけ、育児における「母子関係の重要性」が強調されている。報告書にいたっては、「育児、介護その他の家事について、家族の構成員の間で負担が偏らないように適切な分担を行い、かつ、必要に応じて社会の支援を得つつ、なるべく家族の中で行うようにすることが有益である」とまで記されている。条例案では多少弱められた形だが、育児・介護の「内部化」を推奨し、しかも育児等における女性の役割を強調する文章であることには変わりない。

 

育児問題の軽視

 「過剰なまでに」という言い方は、北田氏や張氏がいかに育児問題を軽視しているかを示している。この問題について真剣に討論した(張氏以外の)委員たちは、この問題がきわめて大切な問題だと認識しており、だからこそ時間をかけて一生懸命に討論したのである。「過剰なまでに」という認識は、育児問題の重要性に対する認識不足(というより欠如)を見事に示している。

 「家族の絆」「育児」についての討論を「過剰」と評価するのは、単なる主観的感想にすぎず、なんら客観的な基準があるわけではないが、そのように感ずる心理には、二つの大きな誤りが含まれている。

 第一の誤りは、家族や育児のあり方に関する問題を、男女共同参画の基本理念とは異なる問題であるかのように言っている点である。家族の中での(とくに育児に関する)男女の分業や協力の仕方に関する問題は、男女共同参画にとってきわめて重要な問題であり、これについてはいくら議論しても足りないくらいである。北田氏と張氏はこの問題を男女共同参画の基本理念に関わる大切な問題ではないと考えているらしい。けっきょく、北田氏や張氏は、家族や育児は男女共同参画社会の外の問題と考えているのだろうか。あきれた認識である。 

 第二の誤りは、議論された時間を単純に比較して、長い時間をかけているほどそのテーマを懇談会が重要視している(時間をかけていないから重要視していない)という見方である。北田氏は「この懇談会は男女共同参画社会の基本理念を素通りする形で」家族や育児についてばかり論議していたかのように見せかけようとしている。「素通りする」とはどういう意味か曖昧だが、基本理念について議論しないで、という意味であろう。

 このような言い方は懇談会に対する誤ったイメージを与え、懇談会に対する評価をミスリードする意図を持っていると言わざるをえない。北田氏は張氏の文書を証拠に引いているが、張氏の意見書がいかに事実を歪めているかについては、すでに何度も書いている。

 その際にも説明してきたが、懇談会の審議のやり方としては、「最初に対立しそうな論点について議論し、合意を目指す」という方針であった。この事情を知らない人が、張氏の「法が本来議論を予定している一般社会(家庭の外の社会)における性別に基づく役割分業や家庭の中にあっても上記以外の役割分業などついては、ほとんど議論されてきておりません」という非難を読むと、懇談会がそれらの問題を軽視していたかのように誤解するであろう。じつは張氏が「議論されなかった」と指摘している問題は、委員のあいだで意見が分かれなかった部分であり、討論の必要がなかったのである。事実、『報告書』の文案をまとめる第7回と最終回において、その部分についてはなんら異論は出なかった。議論が少ないから軽視しているという見方は根本的に間違っているのである。

 これらの事情について張氏は百も承知なのに、単純な議論の分量の問題にすりかえて、懇談会についての間違ったイメージをふりまくのは、意図的にウソを宣伝していると言うしかない。そういう説明を私がさんざんしてきているのに、またもや張氏のウソを利用するとは、北田氏に客観的な実証研究は所詮無理ということなのだ。廃業せよと言った所以である。 

 

詭弁を使った開き直り

 このように、懇談会に関する間違ったイメージをふりまいておいて、その上でいよいよ自己正当化のための強弁にとりかかる。なかなか手のこんだやり方である。

 さわりの部分をもう一度引用する。

 条例案では育児・介護などの「外部化」を二次的(例外的)なものと位置づけ、育児における「母子関係の重要性」が強調されている。報告書にいたっては、「育児、介護その他の家事について、家族の構成員の間で負担が偏らないように適切な分担を行い、かつ、必要に応じて社会の支援を得つつ、なるべく家族の中で行うようにすることが有益である」とまで記されている。条例案では多少弱められた形だが、育児・介護の「内部化」を推奨し、しかも育児等における女性の役割を強調する文章であることには変わりない。

 育児・介護等の「外部化」「内部化」の問題については後で述べる。ここでは、この文章の中の、自己弁護の伏線になっている文「育児等における女性の役割を強調する文章である」に注目したい。

 この文章は間違いである。『報告書』は「育児等における女性の役割」一般を強調してはいない。むしろ父親と母親の両方が必要であると強調している。すなわち、こう書かれている。

  父親と母親が責任を持ち協力し合って子育てに関わることは子供の自我を確立し、その健全な発達を促す上で重要である。

 このように『報告書』は育児に関しては父親も母親もどちらも関わるべきだと主張している。その上で 

  特に乳幼児期における母子関係は重要である

という認識を示しているのである。決して女性一般の役割だけを強調しているのではない。介護についても、「家族の構成員の間で負担が偏らないように適切な分担を行い」と書かれているのであり、「女性の役割を強調」などしていない。思いこみで読むと、こうも誤読できるものかと呆れかえる。 

 この意図的な(?)誤読は、次の「女性は家にいたほうが望ましい」という結論を導き出すための伏線になっている。すなわち、北田氏は次のように結論している。(『条例案』と『報告書』を引用した上で) 

  相当に問題を孕んだ「条例案」「報告書」である。「乳幼児期における母子関係の重要性」を殊更に強調し、かつ育児、介護などを「なるべく家族の中で行うようにすることが有益である」と「提言」している以上、ここで前提・推奨とされているモデル家族の形態は、「子どもの乳幼児期に「子育てに専念」することのできる女性」、すなわち専業主婦を1構成員とする家族ということになる。要するに「女性は家にいたほうが望ましい」という価値観を表明するものと受け取ることができる。

 無理矢理「女性は家にいたほうが望ましい」という一般論へと導きたいようだが、私たちは「女性は誰でもいつでも家にいた方が望ましい」とは考えていないし、そういう文章は『報告書』の中には存在しない。直接言っていなくても「そういう価値観を表明するもの」だという逃げ道を用意しているが、私たちはそういう価値観も表明していない(むしろ女性が働く場合の労働条件の改善を訴えている──後述)。

 「なるべく家族の中で」と言うと、すぐに「女性だけでやる」(専業主婦形態)という意味に受け取ってしまうのは、北田氏が育児や介護は女性がやるものという先入観にとらわれているからであろう。われわれはそうした先入観を持っていないので、育児や介護その他の家事を家族の全員が分担して行うという前提で考えている。そのために男女ともに働き方を工夫しようという立場である(後述)。

 われわれが母親は家にいることが「望ましい」と考えているのは、子供が乳幼児期にかぎってである。すなわち一生家事育児を専門にするという意味での専業主婦をモデルに考えているのではない。子供が乳幼児期に限って、育児に専念できる体制を社会全体として作ることを理想と考えているのである。それを「女は家に帰れ」と言い換えるのは、無法な言いがかり・歪曲以外の何物でもない。

 「女は家に帰れ」とは、既婚女性も未婚女性も、子供のいる女性もいない女性も、すべての女性は家に帰れ、という意味である。誰がどう読んでも、「女は家に帰れ」などということは、報告書にも条例案に出てこない。愚にも付かない歪曲した解釈に基づいてさらに強弁するなど、学者なら恥を知れと言いたい。

 

「なるべく家庭の中で」について ──「外注化」と「空洞化」を防ぐために

  北田氏への反論を離れて、『報告書』そのものの素晴らしさについて述べておこう。『報告書』は育児や介護その他の家事を、できるだけ家族が分担して、家庭の中で行うのが望ましいという価値観を表明している。

  北田氏の表現を使うならば、「女だけ」に「家に帰れ」と言っているのではなく、「人は皆、家に帰れ」と言っているのである。父も母も子供も家に帰って、家のことをしよう、一家団欒を大切にしよう」という価値観を表明しているのである。

 この点が最もフェミニストの気に入らない点なのである。フェミニストたちの目指す社会は、家事はなるべく家庭の外に出して(外注して)、女性も外に出て働くことができるような社会である。まさにエンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』とベーベル『女性論』が理想とした共産主義の家庭のあり方が理想と考えられているのである。それは子供が生まれようが親の介護が必要になろうが、何があろうが女性はフルタイムで働き続けるのが良いとする思想である。

 しかしその思想を忠実に実践すると、家庭はホテルのようになり、家族の絆は希薄になるか消滅してしまい、家族は空洞化して有名無実になってしまい、家族の心はすさんでいく。その背後には、家族を大切な単位と考えない、個人単位思想が隠されている。

 その弊害を防ぐには、家庭の中の仕事をできるだけ家族が分担し、家庭の中で行うことが、むしろ家族の絆を強める働きをするという見方を『報告書』は取っているのである。

 この点について『意見書』は次のように批判している。

 多様な家族の形態が増えている社会であり、一律に育児、介護、家事を家族で負担すると規定するのは誤りである。現実の認識が不足している。

 まったく見当はずれの批判である。『報告書』は「一律に」「家族で負担すると規定」してはいない。どうしてこうも歪めて言い換えるのであろうか。フェアでない批判の仕方である。また、われわれは多様な家族があるという現実を認識していないのでもない。ここは基本理念について述べている箇所であるから具体的描写こそしていないが、社会的支援を必要とする家族があるという現実認識を踏まえていることは当然である。すなわち『報告書』は「家族の中で」を基本にしつつ、それができない家族も存在するという現実認識に立って、「必要に応じて社会の支援を得つつ」という文を入れたのである。「一律に」「家族で負担」せよなどとは、どこでも言っていないのである。

 さらに、われわれは「介護保険法」の問題点とスウェーデンなどの「福祉国家」の失敗(拙著『家族の復権』第5章の1 参照)を念頭に置いていた。家庭介護を否定する「介護保険法」ができて介護を家庭の外に出してしまった結果、我も我もと社会的介護を受ける風潮が出てきて、人に頼る癖がついた結果さらに介護が必要な体になってしまうという弊害や、予算が年々増え続け、赤字も増え続けるという問題である。年金にしても、健康保険にしても、いや国家財政そのものが、すでに破綻しており、日本はすでに膨大な赤字国だという現実を見据えた政策を考えなくてはいけない。これも必要な「現実認識」であるが、この厳しい現実については、江尻氏らはあまり「認識」していないらしい。

 これらの問題点を解決するためには、育児や介護を基本的に(なるべく)家庭の中で行うことにして、必要に応じて社会的支援を取り入れるという形にすべきである(北田氏の言葉を使えば、「外部化」を二次的に考え「内部化」を中心に考えるということである)。もちろんその場合に成人女性にだけ負担が偏らないように、家族全員で分担するという体制を確立していかなければならない。

 以上、要するにわれわれは「女は家に帰れ」などという低劣な発想とは無縁の、もっと高い視野に立った議論を積み重ねてきているということである。

 

「仕事と家庭生活の両立支援の観点が欠けている」の間違い──「家庭の尊重」と「職場の環境整備」はセットで理解されるべき

 じつは「女は家に帰れ」「女性は一生家の中にいるべきだ」などと誰も考えていなかった証拠が、『報告書』の中にはっきりと存在している。それは「家庭の尊重」のすぐ次にある「職場の環境整備」という項目である。これは男女で行う家事育児と職業生活の両立を可能にするための方策を念頭に置いて書かれた項目である。この二つの項目はセットで考えられている。その証拠に、当初の文案では、両者は同じ項目の中に入れられていた。しかし一項目としてはあまりに長くなることと、内容的には区別されるから別の項目とした方がいいということになったのである。そうした経緯を反映して、「職場の環境整備」の最初の文は前の項目を受けて「男女がともに家庭責任を十分に担えるためには」で始まっている。

 重要なので全文引用しよう。

  (5)職場の環境整備

 男女がともに家庭責任を十分に担えるためには、家庭における躾など父母が家庭教育に十分な関心と時間を確保し、かつ、家族の構成員が家庭の仕事を共同して担えるような社会環境、とりわけ労働環境の整備が図られなければならない。その際、女性に対して求められがちな家庭と職業の二重負担、男女に関わりなく求められる長時間労働、そのような親の労働実態に起因する子供の長時間保育などの弊害についても、その解消に特段の配慮が払われるよう、できる限りの努力が必要である。

 加えて、各職場においては、男女共同参画を妨げる直接的・間接的な差別や慣行、男性優位の意識を改めるような努力がより強く求められる。そのためには、男女ともに快適に働ける職場環境が整備されなければならず、とりわけ、育児、介護等の休暇取得の推進と職場復帰の保障については充実させる必要がある。

 誰が見ても(フェミニストが見ても)文句のつけようがない、「仕事と家庭生活の両立」についての基本的考え方を示している。(フェミニストを自認する人で、これに文句を言いたい人がいたら名乗り出てもらいたいくらいだ。)

 ところが『意見書』は「仕事と家庭生活の両立支援の観点が欠けている」と非難している。どこを見て言っているのか「お前の目は節穴か」と言いたいくらいである。こういう読み間違いは、じつは彼女らが先入観を持っているから起きたのであろう。すなわち彼女らは「両立」と言ったら「保育所を作る」ことしか念頭にないので、「保育所の拡充」を言っていないと、両立について書いてないと思い込んでしまうのだろう。頭の固さを示している例である。

 『報告書』の優れている点は、「仕事と家庭生活の両立支援」として単に保育所拡充だけに特定するのではなく、もっと一般的に「女性の二重負担の解消」「親の長時間労働とそれに起因する子供の長時間保育の解消」「職場において男女共同参画を妨げる直接的・間接的な差別や慣行、男性優位の意識の改善」「育児、介護等の休暇取得の推進と職場復帰の保障」を挙げている所にある。この項目はただ一人の異論もなく、全会一致で承認された。

 『意見書』はさらに、「長時間保育の弊害」という言葉に対して

 荒川区は長時間保育を必要とする家庭が多くある。それらへの対策が必要な現状に対し、弊害と断じているのは保育行政が後退するもので現実に合わない

 と批判している。なんとも奇妙な批判の仕方である。一体「長時間保育」が弊害があるということ自体を否定しているのか、それとも弊害はあるけれどもそれを言うと保育行政が後退するから言ってはいけないと言いたいのか、どっちなのか。何を言いたいのか分からない文章である。

 この人たちは「長時間保育を必要とする家庭への対策」として、直接的な保育行政による対応しか考えていないらしい。しかし、われわれが考えているのは、もっと根本的・長期的な対策である。すなわちここは「基本理念」(長時間労働などに対する根本的・長期的対策)を考えている箇所であるが、『意見書』は「具体的施策」についての提言だと思いこんで、「保育行政が後退する」ことを心配している。まるでかみ合っていない。かみ合わない原因は『意見書』が「基本理念」と「施策」とを混同しているからである。

 長時間保育がさまざまな弊害を生んでいる事は確かである(それについてここで論じている余裕がないので、さしあたり共励保育園理事長・長田安司氏の長時間保育に対する批判を読んでほしい。http://www.kyorei.ed.jp/とくに「保育問題小論集」の中にある「保育園のパラドックス」。また本HPの「母性とフェミニズム」の中の「14 託児時間長い子は攻撃的」)。その弊害の解消のために、われわれはなにも目の前の保育行政をどうこうしようということを考えているのではない。もっと全社会的な働き方やライフスタイルの問題として考えているのである。すなわち国民の労働形態のあり方、とくに「長時間労働の解消」を提言しているのである。いまある保育所の予算を増やすか減らすかという問題ではないのである。もちろん親の長時間労働が解消すれば、長時間保育も必要なくなり、結果として保育所の予算は少なくてすむようになるだろう。しかし必要性がある予算を今すぐ減らせというような提言ではないのである。

 

子育て支援の公平について

 この点について、『意見書』を書いた人たちの歪んだ理解と差別意識を如実に示しているのが、次の文章である。

 [『報告書』は]社会的育児への支援が大きすぎることを指摘しているが、大きすぎると指摘するほど荒川区の子育て行政が進んでいるか客観的に見るべきである。

 家庭育児と社会的育児が国と自治体で折半となると、自治体における財政逼迫で保育行政が後退する。

 まず前半の文章は、彼女らがいかに『報告書』を正確に読んでいないかを示している。『意見書』は『報告書』の文章を「社会的育児支援が絶対量として大きすぎる」という意味に取って、「荒川区の子育て行政」はそんなに進んでいるのかと批判しているつもりになっている。

 しかし、素直に『報告書』を読めば、家庭育児と社会的育児への支援がアンバランスであるから、是正すべきだと書いてある。もし「大きすぎる」という言葉を使うのならば、それは家庭育児支援に対して社会的育児支援が「相対的に」大きすぎるという意味である。ところが『意見書』は「絶対的に大きすぎる」という意味に取って、「折半にすると」「保育行政が後退する」と心配している。

 『報告書』は今ある予算を両者で分配せよなどとは言っていない。全体の予算を増やすのか、今ある予算でやりくりするのかは、行政が決めることであり、『報告書』は公平にせよとしか言っていないのである。

 ところで、そのこと以上に大きな問題なのは、『意見書』が「保育行政が後退する」ことばかり心配して、家庭育児への支援がゼロに近いことはなんら問題を感じていないことである。もしこれが逆であったなら、彼女らは金切り声を上げて抗議することだろう。

 このことは彼女らの意識がいかに差別的であるかを示している。「後退する」とか「予算が少なくなる」ことを心配するくらいなら、最初からゼロに近い支援しか受けていない人たちについて、なぜ問題にしないのか。

 こんな差別意識を持っているくせに、どうして偉そうに差別反対を唱えられるものか不可解である。

 念のため『報告書』の当該箇所を以下に掲げる。

 家庭育児と社会的育児の双方への支援が偏らないよう公平になされなければならない。しかし、現状では、社会的育児に関しては多大な支援がなされているのに対して、家庭育児への支援は非常に少ないので、このアンバランスは早急に是正されなければならない。

 この文章は、『意見書』に比べてきわめて公平な見方を示している。どちらが優れているか、あまりにも明瞭である。

 

 以上、「家庭・育児」問題に関する『意見書』と北田氏の批判がすべて見当はずれであり、『報告書』の誤読に基づくものであることを明らかにしてきた。これほど多くの誤読や見当はずれの誤解をするということには、それなりの理由がある。すなわち彼らは『報告書』に対して、なんとかして欠点を見つけようとやっきになっており、最初から予断を持ってあら探しをするという姿勢であり、客観的な理解や評価を目指していないからである。とくに北田氏の場合は、自分の間違った発言を正当化するのが主目的となっているから、屁理屈によって自己弁護するという醜悪な結果となっている。この特徴はまだまだ続く。他の論点について、さらに吟味していこう。

 

六 少子化と出生率

  (平成16年10月29日初出)

 「性別役割分担」および「家庭育児」「社会的育児」の問題に関連して、常に論争になるのが「少子化」と「出生率」に対してどう関係しているのかという問題である。すなわち「働く女性」に対する育児支援をすれば、女性は子供を産むようになる、とフェミニストたちは主張し続けている。単純化すれば、「保育所をたくさん作れば、女性は働くようになり、出生率は上がる」という主張である。つまり少子化の原因は働く女性を支援しないからだということになる。この命題はすでに事実として否定されている。

 

1 少子化に関するフェミニストの二つのウソ

 フェミニストのウソの命題を整理すると、次の二つになる。

 第一の命題。働く条件をよくする(保育所を多くし、かつ延長保育・夜間保育・病時保育等々)と出生率は上がる。

 第二の命題。働く女性が増えると出生率は上がる。

 第一の命題について。日本の保育行政は年々「進んで」おり、保育所の数も増えている。しかし出生率は上がっていない。個々の行政単位でも、たとえば岩国市では20年前から保育所を増やしたが、子供の数は増えなかった。

 第二の命題について。フェミニストは「出生率」と「女性の労働力率」の「相関図」なるものをでっち上げてしきりに宣伝している。たとえば、『男女共同参画は日本社会の希望』(男女共同参画社会の将来像検討会報告書)(以下『将来像』と略称)は、その相関図を掲げて「女性の労働力率が高まるとともに、出生率の回復につながることが期待され」と書いている。いかにも、両者のあいだに因果関係があるかのように思い込ませる作戦である。

 しかしこの相関図を使った命題には、二つのウソが隠されている。

 第一のウソ。この相関が成り立たない例を意識的に落としている。たとえば、メキシコとトルコは出生率が非常に高い(OECDの中では一位と三位)。しかし労働力率は非常に低い。すなわちフェミニストの言う相関関係が成り立たない例である。この二つの国を、くだんの相関図は載せていない。作為的な図であり、客観的なデータではないのである。

 そもそも「相関図」は太い斜めの線を引いて、いかにも相関関係があるかのように印象づけ、感覚に訴える心理的誘導を意識的に使っている。これは客観的なデータの中に主観的な見方をしのびこませた作為と言える。つまり政府が客観的なデータを提示するさいに、一方的な見方をするように強制していることになる。これは政治権力を使っての偏向思想教育である。

 「相関図」をよく見ると、その線から出生率で0.5ポイント上下する国が半分くらいある。上と下では、1ポイントも違う。つまりあまり相関はしていない国が半分もあるということなのだ。これで「相関」があるというのは、強弁というものである。

 第二のウソ。『将来像』は「女性の労働力率」と「出生率」のあいだに因果関係があるとは言っていない。それでいて、因果関係を匂わせて、女性が働くようになれば、出生率が回復すると宣伝している。一種の詐欺である。

 

2 少子化の真の原因

 少子化の真の原因は、決して働く女性に対する支援が少ないからではない。真の原因は専門家によって、とうの昔に解明されている。その代表格が古田隆彦氏の論文「『スウェーデン・モデル』の失敗」(『中央公論』2000年12月号)である。(ちなみに、この論文は川本敏編『論争・少子化日本』中公新書ラクレ、には収録されていない。フェミニストに都合の悪い論文は入れないというところに、党派的な編集の仕方が現われている。)

 少子化の第一の原因は「生活水準の高まり」である。言い換えれば文明化である。すなわち子供を取るか生活水準の維持を取るかという選択において、人々が生活水準を落とさない方を選ぶ傾向が強いのである。

 さらに文明化のもう一つの特徴である都市化も、同様に少子化の原因となる。仕事、趣味、遊び等、楽しいことがたくさんあり、必ずしも結婚しなくても暮らしていかれる。その結果、晩婚化や独身者が増大し、その分、子供の数が減少する。

 さらに、都市化と文明化が進み女性が働くようになればなるほど、男性の理想の女性像(家にいて家事育児に専念してほしい)と女性の理想の男性像(働く自分を助けて家事育児をしてほしい)が乖離していき、独身者が増える(「結婚したい相手がいない」ということになる)。

 少子化の第二の原因は、特殊日本的な意識にある。すなわち日本の女性たちは依然として「自分の手で子供を育てたい」という願望が強く、そのためにフェミニストの必死のマイナス評価にもかかわらず未だにM字型就労形態を示している。(「特殊日本的」と言ったが、この意識はじつは普遍的な意識のはずである。しかしいわゆる欧米先進国のあいだでは「特殊」と言わざるをえないようになっている、という意味である。)

 この女性たちの健全な願望を支援しないで、逆に全面的な拒否回答を与え続けてきたのがフェミニストである。家庭育児支援に対してはゼロ回答に等しい態度であった。それでも専業主婦形態を選んで女性たちは、少ない収入のため、二人目を生みたくないと考えている。これこそ日本で急速に少子化が進んだ一つの有力な原因である。言い換えれば、フェミニストがかたくなに家庭育児を否定してきたツケがまわってきているのである。

 

3 北欧・西欧で増えた原因は?

 では、一部の北欧や西欧の諸国で、わずかながらも出生率が増えたのはなぜか。

 第一は、総合的な育児支援。とくにノルウェーやドイツ、フィンランドのように、家庭育児に対する支援をしているのが特徴的である。

 第二は、膨大な予算をつぎ込んだから。各国の出生率の長期的推移を見れば明瞭なように、出生率が高まったときには必ずといっていいほどに多くの予算がつぎ込まれている。しかも単純に(やみくもに)予算をつぎ込んでいるのではない。家庭育児への配慮をはじめ、総合的できめ細かな育児支援をしているのである。

 日本も同じことをすれば出生率は高くなる。保育所にだけ予算をつぎ込んでいたのでは、いつまでたっても出生率は低下するばかりだろう。「働けイデオロギー」の呪縛から脱却し、自分で子供を育てたいという大多数の女性たちの気持ちを大切にする政策へと、フェミニストたちが思い切って転換することが今こそ求められているのである。

 

4 厚生労働省の「2003〜2004年 海外情勢報告」の「初めに結論ありき」

 平成16年9月24日に厚生労働省大臣官房国際課海外情報室が「2003〜2004年 海外情勢報告」を公表した。全文を引用する余裕がないが、結論の部分「まとめ」には次のように書かれている。

4 まとめ

 ドイツでは、経済的支援は比較的手厚く、育児休暇制度も整備されているものの、イタリア同様保育所の整備が遅れている。前述したとおり、両国では母親の就労に関する理想と現実が乖離し、子育てと仕事の両立が困難な状況にあることがうかがわれるが、保育所整備の遅れもその要因の一つと考えられる。こうした国では乳幼児向けの集団託児施設の整備が急務となっている。

 フランスでは、経済的支援制度や休暇制度は整備されている一方、保育所の整備は十分に進んでいるとはいえないが、認定保育ママ制度の拡充に取り組んだ結果、現在は認定保育ママが保育サービスの主流となっている。また、近年は保育所の受入能力の拡充にも努めている。

 ノルウェーでは、次世代育成支援策が全般的に充実している。手当を伴う各種休暇制度が整備され、仕事を持つ母親の育児が容易になっているばかりでなく、父親の育児参加も進んでおり、パパ・クオータ制による休暇の取得率は9割程度に達している。また、集団託児施設の整備も進んでおり、乳幼児の施設利用が一般的になっている。

 オランダでは、育児休暇の取得可能な期間は比較的短いものの、ワークシェアリングの推進もあり、女性のパートタイム労働が積極的に受け入れられ、育児をしながら働くことが容易になっていると考えられる。

 このように、フランス、オランダ及びノルウェーにおいては、仕事と子育ての両立が可能となるような環境整備が進んでいると評価できる。これら3カ国の合計特殊出生率が比較的高い水準にあることは、子どもを出産しても女性が働き続ける環境を整備することの重要性を示唆するものといえよう。

 あきれたレポートである。いかにも客観的な情報をまとめたような外見を繕いながら、そこに主観的な偏見を入れ込んで押し売りするという犯罪的なレポートである。政府の一機関が、こういう偏見による間違った世論誘導をするとは、由々しい事態である。

 事実についても主観的な取捨選択(および重点の置き方)がなされているが、ここでは最後の結論だけを問題にしよう。最後にこう書かれている。

 これら3カ国の合計特殊出生率が比較的高い水準にあることは、子どもを出産しても女性が働き続ける環境を整備することの重要性を示唆するものといえよう。

 あいも変わらぬ旧態依然たる公式を繰り返しているだけである。すなわち「子どもを出産しても女性が働き続ける環境を整備すれば、出生率は増える」と。

 上の「海外事情」からは、そんな結論は決して出てこない。女性が出産後働き続けようが、一時辞めようが、手厚い支援をすれば出生率は上がる(可能性がある)ということが言えるだけである。言い換えれば、女性が出産時に仕事を辞めてもよいような環境を整備しても、出生率は上がるのである。

 どうしてこうも、女性を働き続けさせたいのであろうか。こういう「働け」イデオロギーを前提にした施策をいかに積み重ねても、決して出生率は上がらないだろう。それにもまして子供たちの幸せは実現しないだろう。あいも変わらぬ「子供からの視点」の欠如である。

 

七 統計でウソを言う常習犯

  (平成16年11月8日初出)

 フェミニストの悪癖は、統計を使ってウソを言うことである。常習犯だと言ってよい。今までに数限りなく、この種のウソをついてきた。とくに政府の部局が、いかにも客観的で実証的なように見せかけてウソをつく場合は、国民をだます国家的犯罪と言える。

 困ったことに、日本人は「統計」とか「アンケート調査」と言われると頭から無批判に信じてしまう傾向が強い。一般庶民なら仕方ないとも言えるが、北田氏のような社会学の専門家(社会学にとって統計は命と言えるほどに重要)が、どういう方法で行われたのか分からない統計を頭から信じて論拠にしている、その無神経と無邪気さにはあきれてしまう。

 

1 統計を使ってウソを言う代表的な方法

 統計を使ってウソを言うのはじつに簡単である。その代表的な手口をいくつか紹介しよう。

(ア) 質問項目の作り方を細工する。たとえば──

 選んでほしくない項目を狭い(限定的な)文章にし、選んでほしい項目を廣い意味に取れる文章にする。

 誘導尋問型。前置きとして誘導的な文章を置く。

 肝心のことを質問しない。都合の悪い事実を隠す効果。

 用語(または文章)の意味を曖昧にする。たとえば、「あなたの職場では男女が平等に扱われていると思いますか」という質問。全体としてなのか、平等でない場面があるかという質問なのか、よく分からない(結果としてちょっとでも差別があると思うと、これに○をつける人が多くなる)。あるいは「あなたは育児にストレスを感じますか」という質問。正確に良心的に答えようとすると答えられないような質問である。受ける方は自分で適当に解釈して答えざるをえない(結果としてちょっとでもストレスを感じていると○をつける人が多くなる)。

(イ) いい加減な対象選択とサンプル収集。

 質問をどういう方法で誰に(どういう範囲の人たちに)配ったか。調査対象を客観的に分散しないで、偏った人たちにだけ配ったのなら、偏った結果がでる。

 サンプル母体が少ない。これは客観的な傾向が出ないことを意味している。

 回収率が少ない。これは偏向した人だけが回答した可能性があることを意味している。

(ウ) 集計を公正にしない。結果をごまかす(改竄)。これは偏った傾向の人たちだけで調査する場合にありがちなケース。不正行為である。

(エ) 恣意的な意味をつけて解説する。

 結果に対して、イデオロギーによる勝手な解釈をつける。この典型的な例が、前章で取り上げた内閣府男女共同参画局が作った(「出生率」と「女性の労働力率」の)「相関図」である。この図には、斜めの太い線が勝手に描き込まれているが、それは特定の解釈の押しつけであり、政府刊行物の中立性と客観性に反する行為である。この図は「当てはまらない」場合を削除するという改竄と、解釈の押しつけという二重の犯罪を犯している。公務員としての倫理違反である。

 

 このように、統計には、あらゆる場面でごまかしが入る可能性がある。したがって、統計とは、よほど学問的な統計学を身に付けた人々からなる客観的な機関で、第三者の監視の目が届く範囲でなされないと、とうてい信用することのできない代物なのである。

 この難しい統計を、フェミニストたちはいとも簡単に安易に使ってきた。それも自分たちの主張を裏付けるように手を加えて。結果は、ごまかしの山である。フェミニストが使ったごまかしの代表例をお目にかけよう。

 

2 過去の代表的なウソの例

 第一の例

 あまりにも有名になった、夫婦別姓の賛否を問うた内閣府の世論調査。その調査によって、「夫婦別姓賛成が反対を初めて上回った」と宣伝された。これが大ウソなのである。

 この世論調査は平成13年(2001年)8月4日に発表され、翌日の新聞やテレビはその結果を

夫婦別姓「賛成」42%

初めて「反対」を上回る 

と大きく報じた。

 この調査は質問の仕方も、結果の読みとり方もゴマカシであった。

 すなわち、この調査の項目は(「わからない」を除けば)次の3つである。

 1 夫婦別姓を認める法改正をしても構わない(42.1%)

 2 夫婦は同姓を名乗るべきだが、旧姓を通称として使えるように法改正をしても構わない(23%)

 3 夫婦は同じ姓を名乗るべきで法改正の必要はない(29.9%)

 このうち「夫婦は同姓を名乗るべき」と答えた2と3の人たちが別姓に反対なのは当然である。これを合わせると52.9%になる。1の「構わない」42.1%は厳密に言うと「賛成」とは限らない(別姓には反対だが、したい人には認めてもいいという人も含まれている)(註)が、それを仮に「賛成」だと考えても、賛成が反対を上回っていないことは明瞭である。「賛成が反対を上回った」という結論は大ウソである。

(註) 1の設問は非常に廣い意味を含む曖昧な表現である。上で述べたゴマカシ手口の冒頭の(ア)「選んでほしくない項目を狭い(限定的な)文章にし、選んでほしい項目を廣い意味に取れる文章にする」にそのまま当てはまる例である。単純に質問すれば「賛成」は20%台なのに(下の「第2の例」を見よ)、この質問だと40%台となった。これは「賛成」ではないのに、内閣府や新聞は「賛成」と言い換えた。何重ものゴマカシを使ったのである。

 (以上についての詳しい分析は下記。本HPの「家族」の中の「2 夫婦別姓」の)

(1) そんなに家族を壊したいのか(『正論』平成14年1月号)

(4) 朝日新聞は別姓問題でいつまでウソを言い続けるのか

 

 第二の例

 これも夫婦別姓に関する世論調査の例である。1994年9月の『朝日新聞』の調査によると、別姓賛成が58%、反対が34%。この結果はじつは奇々怪々なのである。というのは、どう考えても賛成と反対の数字が逆になっているとしか考えられないからである。

 じつは同じ時期に同様の世論調査が4回なされている。すなわち

総理府の世論調査

1990年9月 賛成29.8% 反対52.1%

1994年9月 賛成27.4% 反対53.4%

 『読売新聞』の世論調査

1991年5月 賛成36.7%  反対59.5%

1996年3月 賛成37.1%  反対56.7%

 すべて『朝日新聞』の結果のちょうど逆になっている。『朝日新聞』の世論調査なるものが、いかに信用できないかを示している。なんと『朝日新聞』の手にかかると、結果が逆転してしまうのである。恐ろしいことである。

 おまけに、この結果のあまりの違いについて、あわてた『朝日新聞』はこう言い訳した。

 総理府調査はいきなり法改正の賛否を問うている

のに対して

 朝日調査は「結婚すると夫の名字を名乗るのが普通ですが、あなたはこれを当然と思いますか。そうは思いませんか」「あなたは夫と妻がそれぞれ結婚前の名字を名乗る夫婦がいてもいいと思いますか」といった選択的別姓制度の理解を深める質問の後に、導入の是非を聞いた

からだと弁解している。「理解を深める質問」とはよく言ったものである。別の言い方をすれば「誘導質問」ということである。前置きに「理解を深める質問」を置けば、結果が逆転すると白状したようなものである。

 アンケート調査とか世論調査というものは、それほどに「お軽い」ものなのである。

 以上は以下に詳しく論じている。

(5) 『朝日新聞』 世論調査の怪、後日談 語るに落ちた『朝日新聞』の言い訳 ──世論調査を操作し ましたと白状したも同然

 

 第三の例

 専業主婦をめぐる統計操作の例を二つ。一つは「専業主婦が減少し、働く女性(雇用者)が増えている」としきりに宣伝された。その場合に「雇用者」の中には必ずパート労働者も含ませる。少しでも働いている女性は「働く女性」の範疇に入るという解釈である。しかしそれは「専業主婦がパートでアルバイトをしている」とも解釈できる。

 両方の解釈を分ける一つの重要な基準は、その動機である。たとえば、理由の第一が「子供が帰ってくるときには家にいてやりたい」が主ならば、それは意識としては専業主婦をやっている動機と同じであり、専業主婦の範疇に入れてもおかしくない。パートで働いている女性の全員がそうした動機だとは言わないが、非常に多いことは確かである。

 ところが、そういう調査は、私の知るかぎり存在しない。動機を質問した調査はあるが、たいてい「生活のため」「外に出たい」「自分の都合のいいときに働ける」等の理由は書いてあるが、端的に「子供が帰ってきたときに家にいられる」という理由は項目の中には見られない。すると子供を大切にしたいと考えている女性たちは、「自分の都合のいいときに働ける」に○をするだろう。これは上の「手口」の中の「肝心のことを質問しない」に当たり、「事実を隠す」働きをする。

 もし「子供が帰ってきたときに家にいられる」という項目を入れて調査し、これが多くなったら、「女性はフルタイムで働き続けるべきである」というフェミニストの考えは打撃を受けるだろう。それは困るというので、この項目を入れないのである。

 

 第四の例

 「専業主婦の方が子育てのストレスが大きい」。この調査結果も大いに喧伝された。さる東大助教授らが調査したそうだが、「客観的な調査」とはとうてい言えない欠陥だらけの調査である。

 まず「ストレス」という概念について何も明らかにされていない。調査者にとっても明かでなかったと思われるが、なによりも質問された被調査者に明瞭に示されていなかっただろう。意味が明かにされないまま「あなたはストレスを感じますか」などと質問される。きわめて主観的な方法であり、答える方も主観的な「感じ」で答えるよりない。

 結果は「専業主婦の方が子育てのストレスが圧倒的に大きい」と出た。当たり前である。専業主婦の母親は、働いている母親よりも5倍から10倍くらい長い時間を子供と一緒に過ごすのである。ストレスの総量も感じ方も圧倒的に多いに決まっている。自分で世話をしない者がストレスを感じないのは当然である。調査などしなくても、分かり切ったことである。しかしこの調査を受けて、「専業主婦の方が子育てのストレスは大きい」「だから子供は保育所に預けて働く方がいい」と解釈されてしまった。

 ついでに言うなら、「子育てによって得られる喜び・幸せの総量」も比較してみないと、公平とは言えない。

 

 第五の例

 GEM(ジェンダー・エンパワーメント指数)が日本は世界のうち44位で、先進国の中では最低だとフェミニストたちは騒いでいる。GEMは男女共同参画の進み具合を測る指数とされ、これが日本は「途上国以下」で、たいへん遅れていると、ご不満のようである。

 GEMとは、国会議員に占める女性割合,専門職・技術職に占める女性割合,管理職に占める女性割合,男女の推定所得を用いて算出される。

 あまりにも馬鹿馬鹿しい統計の出し方であり、これで女性がどれくらい重んじられているかを評価できると考える頭脳とは、そら恐ろしいと言うしかない。西洋の頭の固いフェミおばさんの考えそうな数字偏重主義である。

 数字で表わせない男女の関係はいくらでもある。家庭内の夫婦の関係などは、とうてい他人には分からない。西洋では、財布の紐を握っている妻は数えるほどしかいないが、日本では圧倒的な多数である。

 「社会進出」にしても、議員になったり管理職になるばかりが「社会進出」ではない。地域のボランティアの大部分は専業主婦の女性たちであるとか、PTAの役員も専業主婦ばかりである。これはGEMには反映されない。

 子育て支援も専業主婦が圧倒的に多い。子供を母親(子供の祖母)に預けて働いている女性も多い。しかし子供を預かっている祖母は「社会参加」をしているとは評価されないし、もちろんGEMには反映されない。目立つところで指導者になることしか、指標に入れてもらえないのである。

 要するに、GEMとは、現実の男女関係を反映していない指数なのである。こんないい加減な指数で評価されたり、何かを督促されたり、強制されたら、たまったものではない。

 

3 統計を使ったウソの見破り方

 以上の考察を整理して、統計を使ったウソの見破り方を箇条書きにしておこう。

 1 質問項目の作り方は公正かどうか。誘導尋問を前置きとして置いてないか。(例・『朝日新聞』の世論調査)

 肝心のことを質問しないという形で、都合の悪い事実を隠していないか。(例・内閣府の「相関図」でメキシコとトルコの例がはずされていた)

 用語(または文章)の意味が曖昧でないか。

 2 対象選択とサンプル収集は適切かどうか。回収率を明示しているかどうか。

 3 集計が公正になされたという保証があるかどうか。

 4 恣意的な意味をつけて解説していないか。(例・内閣府の「相関図」で、解釈を示す斜めの線が書き込まれている)。

 以上の基準を、北田氏が使っている統計調査に当てはめて、吟味してみよう。

 

4 統計に対する北田氏の無神経・無邪気な態度

 北田氏は、荒川区についての私の現状認識が間違っているとして、懇談会における次のような私の発言を持ち出す。

会長   家庭においては、役割分担がなされているのは分かるが、職場において固定的役割が強制されているというようなことは聞いた事がない。(反論の声有り)荒川区においては存在していないという委員の発言もあった。

 この私の発言について、北田氏はこう批判している。

→「家庭においては、役割分担がなされているのは分かるが、職場において固定的役割が強制されているというようなことは聞いた事がない」などとは絶対に言えない。

 私の「職場において固定的役割が強制されているというようなことは聞いた事がない」という認識に対して、「絶対に言えない」と断言するのであるならば、「職場において固定的役割が強制されている」具体例を示すなり、状況証拠になりうるような統計を示すなり、その根拠を示さなければならない。それも、単に男女で役割分担している例でなく、それを固定し強制している例を示さなければならない。私の認識は、男女で役割を区別している場合でも、それはケースバイケースで「男性により適しているか女性により適しているか」(個人差も考慮しながら)決めているだけであり、固定し強制しているのではないというものである。

 ところが、北田氏が証拠として引き合いに出すのは、具体例ではなくて「平等意識」についての調査である。なんとも不可解なすりかえである。どうして「平等意識」についての調査結果が「職場において固定的役割が強制されている」証拠になりうるのか、私には理解できない。

→懇談会でも引き合いに出されている「荒川区女性団体の会調査(2000.3)」には次のように記されている。「男女平等意識ですが、意識調査によれば、「社会全体」として「平等」は8%にすぎず、「男性が優遇されている」と思っている人が、64.9%に達しています。/特に「政治の場」「しきたり、習慣」「職場」での男性優遇が目立っています。この結果を総理府による「男女共同参画社会に関する世論調査」(2000年、以下、総理府調査)と比較しますと、「平等」の意識は全国(17.7%)よりかなり低いことがわかります」。同調査では、「男は男らしく、女は女らしく」に「そう思う」と答えた人の割合は男性で58%、43%と出ているが、「男は仕事、女は家庭」について「そう思う」と答えた人は21%にすぎない(「そう思わない」が43%)。

→ちなみに、荒川区は生産年齢女性の就労率がきわめて高い地域である。そうした地域において上記のような数字が出ていること、これは深刻に受け止めなくてはならない。

 このように北田氏は長々と数字を挙げるが、肝心の私に対する批判にはぜんぜんなっていないのである。

 第一、その「荒川区女性団体の会調査(2000.3)」なるものが、どういう方法でなされたものか、まったく分からない。どれだけの人数を対象にした調査なのか、どのような質問文なのか、アンケート用紙をどのように配布したのか、面接によるのか、等なにも分かっていない。北田氏もその点についてはまったく関心を示していない。それでいて、決定的な論拠として使っている。方法論に対して無邪気というより幼児的なレベルであると言うよりない。

→会長は、……「世論調査はどの程度客観性があるかわからない」と答えている。

と非難がましく引用しているが、まさに正しい答えであり、間違っているところはまったくないのである。その「荒川区女性団体の会調査(2000.3)」なるものが、どの程度客観的なものか、「分からない」と答えるのが正しい答えである。もしそれを何かの根拠にせよというのなら、どの程度信用できるものかを、調査方法を示しながら証明して見せるのでなければならない。それをしないまま、「どの程度客観性があるかわからない」という答えを非難することはできないのである。

 客観性も信用性も分からないものを「証拠採用」できないという態度は、懇談会の会長としては、完全に正しい。

 さらに繰り返し言うが、百歩譲ってその統計に充分な根拠があったとしても、それは荒川区の職場で「固定的な役割分担」が「強制されている」ことの証拠にはならない。それはあまりにも馬鹿馬鹿しいすりかえである。

 以上で分かるとおり、ここには北田氏の統計や情報に対する杜撰な感覚が露呈している。私が「北田、廃業せよ」と言ったのは、決して感情にかられて言ったのではないことが分かるだろう。どこを見ても、学問の府をまかせられる人間ではないのである。こんな人間に「最高学府(?)の助教授」の権威を与え、税金を払っている国がどこにあるだろうか。

 

八 西洋フェミニズムへの絶対服従

  (平成16年11月16日初出)

「顔向けできないほど恥ずかしい」!?

 江尻美穂子氏らの『意見書』には、驚くべき文言が書かれている。「荒川区にこのような報告が出されたということは、国際社会に顔向けできない恥ずかしいことである。」こんな恥知らずのせりふを、よくも恥ずかしげもなく言うものである。恥の感覚があるのなら、理性的でも論理的でもない、こんな感情的な言い方をこそ、恥ずかしいと感ずるべきである。

 「顔向けできない」という言葉は、ふつう「世間に顔向けできない」というように、外に基準を置いた感じ方を示している。この言葉によって、江尻氏らが、外に基準を置いて考えていることが分かる。

 クリスチャンであり、YWCAの会長まで務めた江尻氏が、内ではなく外に基準を置く日本的な「恥の文化」特有の「顔向けできない」という言葉を使うのは、いささか滑稽に感ずるが、もちろん外に基準を置いていけないと言うつもりはない。外の基準が正しくまっとうであれば、それを基準にして行動することは、道徳的水準を高める働きをする。かつて日本には「世間に顔向けできない」という行動基準があり、「世間」の道徳的水準が高かったので、「顔向けできない」という恥の感覚によってモラルが維持されていたのである。

 したがって、重要なのは「外の基準」の質である。それがどの程度正しいのか、基準にするに値するのかが問題である。

 

「国際社会」とは何か

 江尻氏らが基準にしているのが「国際社会」である。「国際社会に顔向けできない」という場合の「国際社会」とは何なのか。「国際社会の動向」として具体的に挙げられているのはすべて国連関係の会議や文書ばかりである。「国連加盟国191カ国によるコンセンサス」だと書かれている。しかしそれを主導しているのは西洋キリスト教社会のラディカル・フェミニストたちであることは周知の事実である。そうした一部の急進的フェミニストが国連の機関を占領して、「国連加盟国191カ国」による合意という体裁を作りあげたにすぎない。

 ちょうど日本でも、「単なる男女平等」を謳ったものだろうとお人好しの男性議員たちがよく読みもしないで男女共同参画社会基本法に賛成してしまったのと同じ構図である。そのようにして、本当のコンセンサスを得てできたとは言えない決議やら、「条約」と勝手に名づけたものを「国際的動向」だと僭称しているにすぎない。

 たとえば、「区別は差別なり」という思想を基礎にしている「女子差別撤廃条約」と名づけられたものは、厳密に言えば「条約」ではない。「条約」とは国と国のあいだの権利・義務の関係を定めた約束・合意であるが、「女子差別撤廃条約」と名づけられたものはそれぞれの国の中で差別をなくすことを目指すということを各国が確認したというものにすぎない。国と国のあいだの関係を定めた本来の意味での「条約」ではないのである。それを「条約」「批准」という名を使って、いかにも強制力があるかのような体裁を作ったものである。いわばカモフラージュを使ったものであり、言葉のあやで強制力があるかのように見せかける一種の詐術である。フェミニストがよく使う「上から強制して意識革命を進める」という戦略から出た砂上の楼閣にすぎない。

 

法的拘束力はない

 確認しておくが、日本の男女共同参画社会基本法にせよ、国連の諸決議にせよ、法的拘束力はないのである。日本の地方自治体の中には、男女共同参画社会基本法によって自治体が男女共同参画条例を作ることが義務づけられているかのように誤解している人も多いが、法的強制力はないということを確認しておきたい。はっきり言えば、作るべきではないと考えれば、作らなくてもいいのである。あるいは自治体独自の考えでもっと立派なものを作ればいいのである。基本法に違反しているなどと非難する権利は誰にもないのである。

 荒川区の『報告書』には「国際社会の動向を参考にしながら」とは書いてあるが、一部の特殊なイデオロギーによって作られたものを参考にするとは書いてない。百歩譲って、「国際社会の動向」と国連が一致しているとしても、それを無批判に押し頂いてコピーするのでは、まったく主体性のない態度だと言わざるをえない。「参考にする」とは「服従する」ことではない。

 しかるに『意見書』は『報告書』をこう批判している。

 「国際社会の動向を参考にしながら、国際的な強調を促進する必要がある」ことはそのとおりである。しかし、国際社会の動向をまったく無視するような報告書の中にこの文言があることは滑稽である。

 「そのとおりである」と言うが、そう簡単に「そのとおり」と言ってほしくないのである。というのは、江尻氏らと私たち懇談会とでは、「国際社会の動向を参考にする」という言葉の理解がまったく異なっているからである。彼女らにとっては「国際社会の動向を参考にする」とは、国連の決議に従うことである。しかし懇談会の『報告書』の立場は、文字通り「参考にする」のであり、参考にしながら主体的に自らの立場を決めることである。

 

居丈高な態度

 『意見書』はさらにこうまで言っている。

 荒川区男女共同参画社会懇談会のメンバーは、日本も批准している「女子差別撤廃条約」の精神をどこまで理解しているのか疑わしい。むしろ理解していながら故意にこれを無視しているとしか考えられない。

 これは懇談会のメンバーに対する侮辱である。われわれは「理解していない」のでもなければ、「故意に無視」してもいない。会議録を読めば分かるとおり、われわれはジェンダー概念について討論したさいに、「区別」と「差別」の違いについて討論し、「女子差別撤廃条約」に見られるような「区別」と「差別」の混同を自覚的に排除したのである。

 われわれは国連の動向を無視などしていない。充分に意識した上で、それを選択しなかったのである。国連の決議に無批判に従わないからといって「滑稽」呼ばわりする方がよほど滑稽である。

 以上のように、『意見書』は「国連」という「虎の皮」をかぶって「虎の威をかる」居丈高な態度を取っており、鼻持ちならない思い上がりと権威主義を示している。この西洋フェミニズムと国連を手本として日本を「遅れている」と見下す態度は、『意見書』だけに見られる孤立した現象ではなく、フェミニスト全体の特徴であり、今後克服していかなければならない根本問題である。

 

九 日本文化への嫌悪と敵意 ──「女性の自己決定権」と「文化的遺産」について

  (平成16年11月21日初出)

『報告書』の(6)「母子の生命と健康の尊重」、(7)「文化と伝統の尊重」の部分に対する『意見書』の批判には、二つの困った特徴が認められる。一つは「女は弱者」「男は敵」という前提から「女性の権利」をことさらに強調するという特徴。これは男尊女卑の社会の中で腹を立ててきた古い世代の女性たちの恨みつらみが反映しているが、現状を反映していないので、同じ歌ばかりを聴かされる方としてはいささか辟易するという困った特徴である。いま一つは『報告書』の内容が右翼反動が作ったものだから悪いものに決まっているという予断から、よく読みもしないで「男女差別を助長する」などと決め付けるという特徴である。

 

「女は弱者」「男は敵」という教条主義的な前提

 「女性が弱者」であり、「女性を虐げてきた男から守らなければならない」という教条主義的な前提から全ての見方や政策が出てくるという特徴が顕著に見られる。たとえば、

 女性の性はつねに女性の意思が無視され男性の性に従属するものであり、女性の性の自己決定権は女性の人権問題であるという認識が確立された。そのため子どものときから、性に対する正しい知識と、お互いの性を尊重する性教育を実施することの重要性と、女性は自分の身体と性についての知識を持ち、望まぬ妊娠を避けることや、いつ何人子どもを生むのか、自分で考えて決めることを権利としている。

 この意見の前提は「女性の性はつねに女性の意思が無視され男性の性に従属するもの」だという認識である。「つねに」というところが間違いである。もちろん、そういう社会があったし、今もある、という程度のことは懇談会のメンバーは百も承知している。そういう初歩的なことさえ分かっていないと『意見書』の筆者たちは捉えているようだが、そうした初歩が分かっていないから『報告書』の文面が出てきたのではないのである。

 女性が虐げられてきたから、女性の権利を強調したい気持は分かるが、しかし男女共同参画社会の理念を述べるさいには、ただ女性の自己決定権を強調すればいいというものではないのである。産む・産まないについても、女性だけで決定するのではなく、男性も共に参加することが必要だとの認識をわれわれ懇談会のメンバーは共有していた。「女性だけの自己決定」と言ってしまうと、男性の責任は消えてしまう。そういう危険をも考えて、「出産については、両性(未成年の場合は親権者を含む)の対等な話し合いによって決定するのが望ましい」という文面になったのである。男性の責任も織り込んだ内容になっているのである。この文面が提案されたときには、大きな拍手が起こり(とくに女性委員が熱烈に拍手してくれた)、全員一致で採択されたのである。古いフェミニズムが金科玉条にしてきた「女性だけの自己決定権」というよりは、数段進んだ考え方を表明しているのである。

 「女性は弱者」「男性は敵」という認識から、なんでも女性だけの権利を強調するというのは、古臭い教条主義というものである。男女共同参画社会にふさわしい理念とは、男女が対等に話し合うという姿である。『報告書』はそういう姿を理想として高らかに宣言したものである。どこが悪いというのか。

 

見当はずれの誤解、杜撰な読み方

 悪いことを言っているに決まっているという予断から読むと、こうも誤解をするものかという標本みたいな所がたくさんある。典型的な例を挙げよう。

 「妊娠・出産や性に関連して、子供たちに対して精神的・道徳的及び発達段階に即した適切な情報が与えられ」と性教育への偏見がある。

 きわめて常識的な、ごく普通の、性教育に関する考え方である。どうしてこれが「性教育への偏見がある」とされるのか、理解に苦しむとはこのことである。

 もう一つ例を挙げよう。

 女性特有の病気や健康についての政策が求められているを全く理解していない報告である。……全ての中絶禁止を主張する「プロライフ」の主張と立場を取るなど、女性の健康権と女性の性を人権として認めていない点で、性差別撤廃の理念に反する。

 とんでもない、いいがかりである。『報告書』にははっきりと「男女の生涯にわたる健康が確保されなければならない」と書かれている。女性だけの健康でなく、女性も男性も全ての人の健康が大切だという立場である。男女共同参画の理念を謳う場合に、女性だけのことを言えばよいという『意見書』の立場より、よほど正しい観点を示している。

 また『報告書』は「全ての中絶禁止を主張」しているというのは、大きな間違いである。『報告書』には「出産については、両性の対等な話し合いによって決定するのが望ましい」とはっきりと書いてある。この場合の「出産について」の中には、当然、中絶をするか否かについても含まれている。それを話し合いで決めるべきだというのは、中絶するのもやむを得ない場合もあるという前提に立っている。どこを見れば「全ての中絶禁止を主張」していることになるのか。あまりにも杜撰な読み方と言うほかない。「悪い」に決まっていると思って読むと、こういう反対の受け取り方をする。怖いものである。

 

文化遺産には「良い」ものと「悪い」ものがある? ──恐ろしい選別の論理

 次に「文化と伝統の尊重」に関して、こう書かれている。

 文化的・民族(ママ)的行事というだけで「よき文化遺産」と断定して保存に務めというのはおかしい。

 文化的・民族(ママ)的行事については、これまでも時代の変化とともに変わってきたが、今日、男女の区別や分離などの内容を含み、結果的にその子の個性が充分に発揮されることを阻むものは、男女共同参画の観点から問題があると考えるべきである。

 重大問題発言である。文化的・民俗的行事の中には、「良い文化遺産」と「悪い文化遺産」とがあるらしい。そして「悪い」文化遺産は排除されるらしい。

 「良い」「悪い」の基準は「その子の個性の発揮を阻むか否か」である。しかも、「男女の区別や分離」を含んでいると、「結果的にその子の個性が充分に発揮されることを阻む」とされてしまう。

 しかし「男女の区別や分離」を含んでいる文化的、民俗的な行事は無数にある。すると、男女共同参画の立場からは、無数の文化的・民俗的行事が否定されなければならないことになる ! こういう恐ろしいことをこの『意見書』は主張しているのである。

 だいいち「男女の区別や分離」含んでいるから個性の発揮が阻まれるのではなく、男女の区別を無理矢理なくしてしまうという不自然なことをする方が子供の個性の発揮を阻む場合もある。

 いったい誰がどういう基準で「その子の個性の発揮を阻む」と判定し、決めるのか。まったく主観的で恣意的な思想統制への道を開く思想である。

 文化的・民俗的行事は、すべて貴重な文化遺産であり、その意味で保存に値する文化遺産である。文化はそれぞれの民族の歴史の中で培われてきたものであって、文化遺産に「良い」「悪い」という区別はないのであり、「良い」「悪い」の選別をするなどということは許されない。ましてや、その中に男女の区別や分離を含むというだけで、「悪い」と決め付けるなどは、もってのほかの思い上がりと言うべきである。

 ラディカル・フェミニズムがいかに文化破壊をもくろむものか、よく表われている。「区別は差別」という思想がすべての元凶だということも、よく分かる。こうした悪性のフェミニズムから日本の文化遺産を守っていかなければならない。

 

日本文化理解を援助するのは「思い上がり」!?

 『意見書』は『報告書』には思い上がりがあるとして、こうも批判している。

 「外国人が日本の文化や習俗を理解するための援助…」というくだりは、日本の文化や習俗は全て正しく価値あるものとの前提に立ち、これを外国人に理解させようとの思い上がりがうかがえる。

 あきれた言いがかりである。どこをどう読めばこういう曲解が生まれるのか、じつに不思議な精神の持ち主たちである。なにかの縁があって外国に住むようになった場合、私もそうだったが、その国の文化を少しでも理解し吸収したいと思うものである。もちろん言葉は真っ先に習得したいと思う。「郷に入ったら郷に従え」という諺もあるように、その国の習俗も知り、適応したいと思うものである。現に呉善花氏のように、そんじょそこらの日本人よりも広く深く日本文化のすばらしさを理解している人もいる。欧米人の中にも、日本文化に対する深い理解と尊敬を示す人も少なくない。

 そういう関心を持った人たちに対して、日本文化を理解するための援助をすることは、国際交流のためにも、また外国の人たちが日本社会に適応し定着するためにも必要かつ大切なことである。『報告書』には「日本の文化や習俗は全て正しく価値あるもの」だとか、それを強制したり押しつけたりするという考えはみじんも表明されていない。もちろん外国人が日本文化を理解する場合だけでなく、逆に「他の国の文化に対する理解を深める努力」も大切だと述べている。

 

日本文化への敵意

 『意見書』には日本文化に対する偏見どころか、むしろ差別を含む「悪い」ものだという嫌悪感や敵意さえも表明されているが、その中には日本文化を見下す態度が隠されている。

 文化的多様性の尊重は大切であるが、文化や習俗の中には男女平等と女性の人権にとって有害なものもあり、自国の文化や習俗を全て正しいものとする思い上がりは慎まなければならない。日本の文化や習俗の中には、男女平等に対する障害になっているものもあることは国連開発計画の人間開発指標、特にジェンダー・エンパワーメント測定が如実に物語っている。ジェンダー・エンパワーメント測定では、日本は先進国中最低という不名誉な地位にあることを深く考える必要がある。「女らしさ」「男らしさ」といったジェンダーにとらわれた(つまりジェンダーフリーでない)文化や習俗が、いかに人間開発を妨げているか、国際社会の要求にいかに反しているかを反省しなければならない。

 驚くべき認識が示されている。「女らしさ」「男らしさ」を良いとする(とらわれた)文化や習俗は、「人間開発を妨げ」「国際社会の要求に反している」というのである。たとえば、端午の節句や雛祭りは「男らしさ」「女らしさ」にとらわれているから「人間開発を妨げ」「国際社会の要求に反している」ということになる。端午の節句や雛祭りが、どのようにして「人間開発を妨げ」、どこのどういう「国際社会の要求に反している」というのか。こういう教条主義的な性差否定の目で見れば、全ての日本文化は「男女平等の障害」と映り、全ての文化と習俗は否定の対象になってしまう。まさに文化破壊の思想である。

 こうした日本文化への攻撃は、単に教条主義的な性差否定から出ているという単純なものではないだろう。その底には、西洋キリスト教思想の基準から日本文化を一段と低いものと見る偏見が隠されているのではないか。少なくとも日本文化への愛情はみじんも感じられない。中国の文化大革命に見られた幼稚な共産主義思想となんら変わりないものである。

 我々はこういう気違いじみた文化破壊思想から、日本文化の美しい伝統を守っていかなければならない。その意味で『報告書』の「文化と伝統の尊重」の項は、正しい道を指し示していると言うべきである。

 

十 フェミニズムのダブル・スタンダードへの根底的批判 ──「乱用防止」規定が意味するもの

  (平成16年12月7日初出)

『報告書』への猛烈な攻撃の主要な目標は「乱用防止」規定であった。これが付けられていたために、フェミニストたちは柳眉をさかだてて『報告書』に対するありとあらゆる卑劣な攻撃を企てた 。

 なにゆえにそれほど必死になってこの部分に反対しなければならなかったのか。不思議なことに、反対理由をいくら聞いてみても、説得力のあるものは一つもなかったのである。「条例になじまない」とか「具体的すぎる」とか「歴史の歯車を逆転させる」などという、およそ理由にもならないような情緒的な言葉しか出されていない。結局、反対する理由がないのに、無理矢理反対しているという印象を免れない。それとも本当の反対理由を言えない事情があったとしか考えられないのである。

 ためしに北田氏と『意見書』の反対理由を聞いてみよう。

 

ジェンダーフリー教育の事実は存在していない !?

 まず北田氏の反対理由を単純化すれば、「ジェンダーフリー教育の事実は存在していないから、歯止めは必要ない」という論理である。彼はこう書いている。

 「ジェンダーフリー教育」についての事実誤認、歪曲した理解が「ジェンフリ批判」の前提にあることを確認しておかなければならない。

 こうした「ジェンダーフリー教育」イメージがいかに誤ったもの、あるいは偏ったものであるか、については、『南日本新聞』2003.8.5号「“極端”現場どこに 鹿県議会採択の「ジェンダーフリー教育反対」陳情」が明らかにしてくれている。

 「事実誤認」とは、はっきり言えば「報道されたような逸脱(同室着替え、同室宿泊など)は存在しない」ということである。そうした事実があるという「会長」の認識は「歪曲した理解」だと言うのである。しかしその「逸脱したジェンダーフリー教育の事実は存在していない」ということを証明するために持ち出す根拠たるや、じつにお粗末なのである。

 挙げている根拠は『南日本新聞』平成15年8月5日付の記事だけである。この記事には、鹿児島県議会で指摘されたようなジェンダーフリーの「極端な」事実について「現場」に問い合わせたところ、それらの事実は「存在しない」という回答を得たと書いている。

 ジェンダーフリー派はこの記事を、鬼の首を取ったように取り上げて、ジェンフリ反対派がいい加減である証拠のように宣伝している。しかし杜撰なのはこの記事の方である。この記事には大きな疑問点が二つある。

 

『南日本新聞』の記事は問題を狭隘化している

 まず基本姿勢がおかしい。「"極端" 現場どこに」という見出しが示しているように、「極端な事例」があるかないかという問題へと、争点を狭隘化している点。ジェンフリ反対派は「性差否定」というジェンダーフリーのあり方に対して批判しており、その問題点を分かりやすくするために「極端」と言われている事例を挙げたにすぎない。したがって、「現場」の教師など関係者が「男女混合整列や混合名簿はやっているが、男女混合の身体検査・更衣・宿泊やランドセルの色の強制はやっていない」と答えれば問題は済んだという観点そのものが間違いなのである。「極端」な事例が存在していようがいまいが、性差否定の教育がなされていること自体が問題なのである。したがって「男女混合整列や混合名簿」そのものを問題にしなければならない。

 この記事には「男女混合整列や混合名簿」を実施している関係者が「豊かな人間関係づくりに役だっている」と語ったと書いてあるが、なるほどそういう欺瞞的な美辞麗句で正当化しているのかと感心したが、男女を混合にするとどうして「人間関係が豊になる」のか、そんなことは誰も証明しようがないのである。男女を混合にすれば人間関係が豊になるのなら、男女が同居している家庭には不和など存在することはありえない。こういう馬鹿な言い分が通用してしまう教育現場とは、じつに恐ろしい。

 

「事実」はいくらでも存在している

 さて、肝心の「極端事実」は存在するのか否かという問題を調べてみよう。

 第一は、ジェンダーフリー教育を勧めている当事者に質問して「していない」という回答を得たという点。これは言ってみれば茶番劇である。聞いた相手が「そんなことは知りませんねえ」「聞いたことはありませんねえ」と言うに決まっている。もともと弁護しよう(存在を否定しよう)と思っている偏った当事者に質問し、否定の答えを得たからといって、「ない」ことの証拠にはならないことは常識である。本当のことは児童や保護者に聞いてみないと分からないものである。私が暴露した「全裸の妊婦の水中出産のシーンを男女一緒に見せた」という事実も生徒から聞いたから分かったことであり、学校側に取材しても絶対に出てこなかっただろう。

 方法論的に言って、何かが「ない」ことを証明することは不可能に近い難事である。一つでも「あった」ことが出てくれば、「なかった」という結論はひっくりかえる。事実、「男女同室の宿泊」の事例は『産経新聞』の取材によって沼津市、山形市で確認された(平成15年9月1日、2日付)。それらの市の関係者たちは、事実を認めて、善処を約束している。『南日本新聞』の取材の仕方やの記事の書き方に問題があったことは、あまりにも明かである。

 第二は「強制」しているか否かというように、問題をすりかえている点。たとえば、「ランドセルの色を強制しているか」と問えば、「強制していません」と答えるに決まっている。色を強制しているはずがないのである。しかし「男女ということにとらわれないで、色を選びましょう」と言われれば、男子が赤い色にしたり、女子が黒い色にする子も現われる。だから全体としてみれば「自由」であり、カラフルに見える。指摘された国立市の教委は「色は自由」だから、「来て見ればカラフルなランドセルが見られますよ」と答えたそうである。完全にバカにされている。いや、ごまかされている。問題なのは「男女という区別をしないで色を選びましょう、学芸会の役を決めましょう」という指導をすること自体であり、その結果男女の役割を逆転させる色なり役割なりが選ばれ、「自由」の名のもとに横行することである。「男女にこだわらずに選びましょう」という指導もまた一つの思想教育なのである。そこを問題にしているのであり、「表面的に一定の色に強制しているかどうか」「結果としてカラフルになっているかどうか」が問題ではないのである。

 第三に、「事実」について、指摘された自治体なり学校なりに問い合わせているが、それ以外にも「極端事実」が存在しているという事実を伝えていない点。上で述べたように男女同宿の事実もいくつか出ているし、同室更衣の事実にいたっては、全国どこででも行われていたという事実がその後明らかになっている。決定的なのは、なんとその後、鹿児島県の中でも存在していたという事実が明らかになった。『南日本新聞』平成15年9月25日付によれば、鹿児島市内の小学校で、「全学年とも男女一緒に更衣している学校が約半数ある」という事実が市教委の調べで明らかになった。さらに10月5日付によれば、鹿児島県内の小学5、6年生の50%、中学生の8%が同室着替えをしているという事実も県教委の調査で明らかになった。

 以上くわしく分析したように、「"極端"現場どこに」という『南日本新聞』の記事は客観性という点でも、また事実を本当に検証していないという点でも、ジャーナリスト失格とも言うべき杜撰なものであった。ところがその記事を北田氏は「ジャーナリズムかくあるべき、と思わせる記事である」と持ち上げている。メディア論の専門家であり「情報学環」の助教授である者が、こんないい加減な記事を「かくあるべし」と評価するとは、あきれて物が言えない。自分の結論に都合のいい記事なら何でも恥知らずに利用するとは、あまりにも杜撰・軽薄であり、学者の態度とはとうてい言い難い。

 

区別否定のジェンダーフリー教育は蔓延している

 ジェンダーフリー思想に基づく悪しき「まぜこぜ教育」「密着教育」の例はたくさん知られている。たとえば、『正論』平成14年8月号で私が紹介した「家庭科の授業で、全裸の妊婦の水中出産のシーンを、男女高校生を一緒にしてビデオで見せた女性教師」の例。また体育の授業で、膝の上に異性の生徒を座らせる「人間椅子」というのもある。騎馬戦を男女一緒にさせるという体育は全国いたるところでなされている。性交の方法を人形を使って教える即物的な性教育も同様である。すべてに共通しているのは「男女密着強制教育」である。

 なにしろ「男女の区別をなくす」(ジェンダーフリー)教育を日教組が組織をあげて奨励しているのである。日教組の「ジェンダーフリーの教育を」というポスターには、「男と女を分けることをやめよう」として「名簿、出席簿、指導要領、グループ、整列、ロッカー、靴箱、色分け、トレーニングウェア、掲示物、男女別平均、「さん」「くん」の呼び方」が挙げられている。また「学校行事はジェンダーフリーで」として「入学式、卒業式の並び方、呼名、運動会の種目、並び方、応援、係、学芸会、文化祭の出し物、準備」などが挙げられている。

 これだけきめ細かいジェンダーフリーの指導が奨励されているのである。全国いたるところにジェンダーフリー教育の実践があって当然であろう。『実践 ジェンダーフリー教育(フェミニズムを学校に)』(編著・小川真知子+森陽子、企画・日本女性学研究会「学校と女性学」分科会、明石書店)という本が出版されたのが平成8年(1998年)のことである。その本の「はしがき」には「いろいろな習慣や文化を"区別は差別"という観点から一つひとつ問い直していかなければならない」「男女を区別していることを一つひとつ点検していくことから」始めようと言い、「女子には赤、男子には黒」となっていた卒業記念品を全部黒にした例があると書いている。このように隠れたところで「全部」黒にせよという圧力が不断にかけられているのである。

 また埼玉県嵐山にある旧「国立婦人教育会館」には毎年公費でフェミニスト教員たちを集めてジェンダーフリー教育を指南してきたのである。これでも「ジェンダーフリー教育は存在しない」と言うのは、黒を白と言いくるめるようなものだ。「極端なジェンダーフリー教育は存在しないから、歯止め規定は必要ない」という論理は完全に破綻している。

 

幼児にも劣る低劣な論理

 次に『意見書』の方を見てみよう。『意見書』は反対の理由を次のように述べている。

 報告書はわざわざ「乱用の防止と是正」の項目を設け、男女共同参画推進に当たっての留意事項をあげ、それに反した場合の速やかな是正を強調している。是正すべきは固定的役割分担によってあらゆる分野に見られる男女の偏りの現状であり、性による差別的取扱いであることを忘れてはならない。

 「乱用の防止と是正」の項は、この報告書全編に流れる考え方を象徴するものであり、いかに部分的に男女の人権の尊重と平等、差別の禁止をちりばめて記述しても、歴史の歯車を逆転させようとする意図は明白であり、削除すべきである。

 ゴチャゴチャ述べているが、要するに簡単に言えば、「是正すべきは性差別」であるから、「乱用や行き過ぎ」を是正してはいけない、という意見である。ぜんぜん理屈にも何にもなっていない、無茶苦茶な論理であり、幼児にも劣る屁理屈である。『報告書』にははっきりと性差別を禁止すると書いてある。しかしそれは「ちりばめた」だけとしか評価しない。そして逸脱や行き過ぎを是正するというだけで、「反動」(歴史の歯車を逆転させる=差別反対に反対する)とレッテルをはる。

 「行き過ぎを防止せよ」と言うと、「歴史を逆転させようという意図」を持っていることにされてしまう。それなら、行き過ぎや乱用をすればするほど世の中がよくなる理屈である。ならば、中国の文化大革命という滅茶苦茶な蛮行の結果、中国は天国のような国になっているはずである。カンボジアのポルポト派が大量虐殺をした結果、カンボジアの歴史は進歩したか。だいいち、歴史の進歩とは何かという問題はたいへん難しい問題である。自分らが進歩だと思っていることを他人に押しつけるのは、信じられない様な思い上がりである。

 子供でも分かる理屈だが、差別に反対することと、その反対運動の中に現われる行き過ぎに反対することとは、完全に両立しうるし、また両立させなければ差別撤廃運動そのものが反発や抵抗を受けてブレーキがかかるだろう。現実に今、フェミニストが「バックラッシュ」と呼ぶ揺り戻しが現われているが、それは単なる「分からず屋の反動派オヤジのまきかえし」(差別反対への反対)ではなく、フェミニズム運動そのものの中に良識に反する要素があるからである。そのことを反省しないで、単なる理不尽な反動と断定して抑えつけようとすればするほど、差別解消運動は抵抗に出会い、頓挫をきたすだろう。

 良識にそった「乱用防止」規定があることによって、むしろ多くの人々が安心して差別撤廃に賛成することができる。「乱用防止」規定は男女共同参画に反するものどころか、男女共同参画を進めるために必要なものである。

 

精神的・道徳的性教育は「本末転倒」!?

 屋上屋(おくじょうおく)を重ねるようだが、もう一つだけ『意見書』の中の馬鹿馬鹿しい例を紹介する。

 男女が対等平等にお互いを大切にしあうためには性教育の充実が欠かせない。国際的な到達目標になっているリプロダクティブヘルス/ライツ(生と生殖に関する健康と権利)の確立という視点を取り入れた科学的な性教育が学校現場でおこなわれなければならない。

 自分の性について科学的に認識することを通して、他者の性についても理解し、対等平等な関係をつくっていくことができるのである。性情報を精神的・道徳的に提供するというのは、人間の発達の順次性に逆行するものであり、本末転倒である。

 性教協を中心とするフェミニストたちの性教育論の中で、最も間違っている点は、「科学的な性知識を与えて他者の性について理解する」と、自動的に男女平等意識が生まれる(他者の性を重んじるようになる)と考えている点である。しかし知識だけを与えると、他者の性を軽んじたり、自らの欲望のために利用したり、また単に性交の低年齢化や、単なる好奇心からの不純異性交遊を誘発するばかりである。現に現今の知識偏重の性教育がそうした社会現象を助長する一因になっているのである。「科学的知識」は性に関する道徳的な教育とセットになっていなければならないし、子供の発達の程度に即して与えられなければならない。『報告書』が主張していることは、ただそれだけのごく常識的なことにすぎない。

 しかし『意見書』はそれに対して「人間の発達の順次性に逆行する」と批判する。その意味は、いくら考えても分からない。人間の心の発達について、まず知識の面が発達し、その後に道徳的な面が発達すると理解しているのでないと、こういう言い方は出てこないように思われる。そうだとすると、人間の発達について科学的でない奇妙な理解である。

 『報告書』の文言は簡単だが、その意味するところは「性情報の提供にあたっては、精神的・道徳的な面を重要視すべきだ」ということである。道徳的な指導は発達に即して行うのは当然であり、科学的知識も発達に即して行われるべきである。科学的な情報といえども、子供の精神的発達を考慮してなされるべきであり、一部に行われているような、小児に対して性器の名前から性交の技術までことこまかにすべての知識を教えるのは大いに疑問である。先に科学的知識を教えるという順序こそ、本末転倒と言うべきである。

 こういう愚かな理屈を言い続けるかぎり、「バックラッシュ」の動きはますます強くなるだろう。男女共同参画運動そのものが反対されるようにならないともかぎらない。

 

フェミニズムのダブル・スタンダードへの根底的批判

 『意見書』は「乱用防止」規定を置いたというだけで、「歴史の歯車を逆転させようとする意図は明白であり、削除すべきである」と断言している。「歴史の歯車を逆転させる」とは、差別に反対しない、差別を維持するという意味になる。簡単に言えば「行き過ぎはいけない」と言うと、差別反対に反対していることにされてしまう。こういう頭の固い連中こそが、差別反対運動に対する反感を助長しているのである。

 それでもフェミニストたちの態度は変わらないだろう。なぜか。ずばり答えを言おう。フェミニストたちは本心では性差を否定したいからである。そして「固定的役割分担」(男は仕事、女は家庭)を否定したいからである。そして「自発的な選択に反対するのか」という反論に対しては、「自らの選択」は「社会意識や社会的条件」によって強いられたものだとされてしまう。結局、女性が「仕事」を選ぶ選択(それも社会経済的に規定されている)は自発的だと認められるが、家事育児を選んだ女性の自発的選択は否定される仕掛けである。典型的なダブル・スタンダードである。フェミニストは「ジェンダーフリー」という用語についても「男女平等」という用語についても、「両義性」というダブル・スタンダードを悪用して、本心である性差否定を実現しようとしてきた。

 このダブル・スタンダードの秘密をあばいているからこそ、「乱用防止」規定は強硬な反対に出会ったのである。『報告書』は「ジェンダーフリー」という用語をあえて使っていない。明確に「性差を否定する教育を行ってはならない」と書かれている。こうはっきり書かれると、「ジェンダーフリー」という言葉の両義性を使ってごまかすことはできない。『報告書』が「ジェンダーフリーはいけない」ではなく「性差否定をしてはならない」と書いたことは、きわめて大きな意味を持っているのである。

 「乱用防止」規定は単に乱用防止がフェミニズム運動のブレーキになるという理由で反対されたのではない。じつはダブル・スタンダードというフェミニズムのごまかし論理そのものに対する批判を含んでいたために、必死の抵抗に出会ったのである。

 性差否定をはっきりと否定する「乱用防止」規定を提起したことは、フェミニズムのダブル・スタンダードという秘密をあばき、それを不可能にしたという意味で、今後の展開にとって巨大な意味を持つことになろう。

 ( 完 )

Back to Top Page