8 荒川区の教訓

目次

1 フェミ=公明党戦略の全体像

2 「ジェンダーフリー」の欺瞞的使い分け

3 浸透し暗躍する朝鮮勢力

4 自民党の甘さ

5 デマ・キャンペーンとの戦い ─『信濃毎日新聞』の場合

6 丹頂鶴のフェミ陣営に分裂の兆し

7 朝鮮人のウソをどう理解し、どう対処するか

8 反道徳的なマスメディアに対抗するには

9 改革と再編が急務の保守政治

 

1 フェミ=公明党戦略の全体像

  (平成16年7月16日初出)

 忙しくて荒川区問題について論ずることができなかった が、少し余裕ができたので、何回かに分けて、荒川区問題について総括しておきたい。まずフェミニストと公明党の戦略の全体像を掴んでおく必要がある。

 その戦略は二つの部分から成っており、第一は懇談会、特にその会長で あった私に対する個人攻撃が、いろいろな手段によって執拗になされた。第二は公明党による裏切りであり、具体的には与党会派の合意を破って、賛成から反対に回るという形でなされた。

 今になって振り返ってみると、第一の部分は、第二の公明党による裏切 りを正当化するために、前もって工作されていたものであった。

 第一の部分としてヘ、次のような宣伝が使われた。(いずれも出鱈目な言い分であることは、すでに詳細に反論してある。)

1 張學錬氏の辞任。(懇談会の結論が「基本法」に反するものになるからという理由。また会長の司会が独裁的で、少数意見を圧迫という理由)

2 六人の委員の「要望書」。これは「乱用防止」項目について「要不要の議論が全くなされなかった」「きちんとした合意過程がなかった」と主張。

3 一委員の「意見書」。審議が終わったのち、「事務局から意見を提出するようにFAXをもらったが、時間がなくて提出できなかった」という抗議と、「報告書」とともに会議録を一緒に渡してほしかった、という内容。これは全くの単純な誤解によるもの。事務局が督促したのは、会議録について間違いがないかどうか確認したものであり、意見を述べてくれというものではなかった。また会議録は報告書とともに区長に渡してある。こんに簡単な誤解(事務局に確かめれば簡単に氷塊するもの)について、わざわざ意見書を提出するところに不自然さが目立つ。

4 偏向新聞を使った悪宣伝。これについては、今までに詳しく論じた。辞任や「要望書」が出ると、ただちに報道された。

5 「JJネットニュース」による呼びかけ。区長に「乱用防止」項目に反対するFAXやメールを送るように呼びかけた。

6 反対集会。条例案に対する反対の集会を組織し、反対派の元委員が、議事運営に対する不満という形で歪んだイメージをふりまいた。

 

 いろいろと具体例を示したが、嘘とデッチ上げ、裏工作、新聞を使って の歪んだ宣伝、裏のネットや集会を使っての人格攻撃と、まさに魑魅魍魎の世界であった。これらの作戦の中で、首尾一貫して宣伝されたのは、私個人に対する誹謗と中傷であった。その典型が「JJネットニュース」の号外。林道義という人間とは「『女性は政治家になるべきではない』と公言している人」だとか、林の議事の進め方は「独善的かつ強引で、反対意見を恫喝」したとまで書かれていた。これと大同小異の宣伝がいたるところでなされた。嘘も大勢が繰り返し宣伝すると、聞く人々は本気にする。まさにナチスばりの恐ろしい宣伝方法であった。

 ここまでやるか ! というほどの悪辣なやり口であるが、これらは単な る悪宣伝ではなかった。すべては公明党の裏切りを正当化するための動きだったのである。

 これらの一連の嘘は、いつかはバレるはず。かえって信用を落とすし、 長い目で見ればマイナスのはず。なのに、なぜそういう馬鹿なことをしたの か。

 これらの一見愚かな芝居は、フェミニストの目的が条例化を阻止するこ とであったと考えれば、すべて説明がつく。条例化を阻止するためには、最後の瞬間(本会議での採決)において、公明党に反対に回ってもらわなければならない。公明党が反対に回ったときに、それに正当性を持たせ、援護射撃になるように仕組まれていたのである。あとで嘘がバレようが、信用が落ちようが、とにかく条例化を阻止するのが目的であった。

 これらすべての異常な「仕掛け」や嘘を私は逐一ホームページ上で暴露 し、公明党の裏切りを正当化する手段をことごとく無効にし、公明党の裏切りを予言した。フェミニストと公明党は手詰まりに陥った。強引に裏切れば、「やはり」「それ見よ」と言われ、「与党間の合意を破った」とのちのち非難される。このジレンマを逃れるために、フェミニストと公明党は荒っぽい強引な手法を使って、賭けに出たのである。

 すなわち、すでに述べてきたように、私が批判したという理由によっ て、賛成から反対に変わるという、赤子が駄々をこねるに等しい芝居を打ったのである。数々の悪宣伝はあげて、この下手な芝居を正当化する役割を背負っていたのだ。

 つまりフェミニスト指導者たちと公明党は初めから荒川区の条例を葬る ために作戦を練り、用意周到に組織化してきていたのである。

 

2 「ジェンダーフリー」の欺瞞的使い分け

  (平成16年7月26日初出)

 

 「ジェンダーフリー」という名の「性差否定」運動に対する批判が全国的に高まっている。それに対して、フェミニストたちは、例によって汚い手を使って批判をかわそうとしている。

 すなわち、「ジェンダーフリー」の元の意味は「性差別意識の解消」という意味であり、それを「性差解消」という意味にとるのは誤解である、という言い訳をしている。

 まずはっきりしておかなければならないのは、ここ10年くらいのあいだに、 「ジェンダーフリー」という用語は全国的に「性差解消」という意味で使われ、多くの自治体でも参画条例や啓蒙パンフレットによって「性差解消」という意味でのジェンダーフリーを推進することが唱われてきたという事実である。とくに東京都女性財団は「ジェンダーチェック」のための冊子を作り、男女の差を細かくチェックしてなくそうという運動を展開し、それを多くの自治体が右へ倣えをして同様の「ジェンダーチェック」表を作り、男女の区別そのものを否定する運動を行ってきた。

 その間、フェミニストから、「それは誤解である」という批判や異議は皆無といってよいほど、出されたことはなかった。むしろフェミニストたちは性差否定を「いいこと」として奨励し、それを煽ってきたと言っても決して言い過ぎではない。

 つまり「ジェンダーフリー」を「性差否定」と受け取って運動をしてきたのは決して単なる誤解ではなく、フェミニストのほとんど全員が承知の上でのことであった。それを今さら「誤解」だと言うのは、卑怯な責任逃れにすぎない。

 この卑怯な言い逃れの手段を知らないで、ただ「ジェンダーフリー」を批判しようとすると、次のようなやり方でごまかされるだけである。

 たとえば、これまでフェミニズム一辺倒であった『読売新聞』が、一転してジェンダーフリー批判を展開し始めたときに見られた現象である。この新聞がジェンダーフリーを問題にする特集を行ったときに、冒頭に「ジェンダーフリー」という言葉にカッコをつけて(性差別の解消)という説明(?)を付け加えた。記事の内容は明らかに「性差解消」としての「ジェンダーフリー」批判なのである。しかしこれを読んだ読者は「どうして性差別の解消が悪いことなのか」という疑問を持っただろう。

 私が推理するに、これは書いた記者が入れたのではなく、「ジェンダーフリーの本来の意味は性差別解消だから、そういう言葉を入れるべきだ」というフェミニストの要望またはアドバイスによって(よく分かっていない)デスクが勝手に入れたものであろう。フェミニストというのは、こういう欺瞞的な手を使うのを常としている。

 『読売新聞』は一時ジェンダーフリー批判を社説に掲げたこともあったが、フェミニズム批判勢力はフェミニストの逆襲に会って「粛清」(?)されてしまったのか、最近は再びフェミニズム路線に戻ってしまった感がある。たとえば、最近は「基本法策定に携わった」という元総務事務次官の古橋源六郎氏の評論を載せて、「ジェンダーフリーという言葉の使い方が混乱している」「本来の意味は性差別解消だ」として、「冷静に議論」すべきとしている。いかにも高見から「諭す」ような言い方であるが、まったくの欺瞞的な評論である。

 議論が混乱しているのでも、感情的な議論がなされているわけでもない。ジェンダーフリーを実践しているフェミニストのあいだで混乱があり、性差否定運動が実際に多くなされているからこそ、ジェンダーフリーに対する批判が出てきているのである。混乱は実践者の中にこそあるのだ。

 同様の典型的な手を使ったのが、荒川区の問題を特集した『東京新聞』の7月1日付の記事である。この記事を書いたのは例の出田阿生という記者。そこには大きな見出しで「性差別解消へ強まる逆風」と書かれている。いかにも荒川区の男女共同参画社会懇談会の『報告書』が「性差別解消」を否定しているかのような印象を与える扱い方である。その記事はさっそく古橋氏を使って、「冷静に議論して」と締めくくっている。しかし、もう一度言うが、我々はじつに冷静に議論している。彼が批判すべきは、フェミニストの中の「性差否定」を実践している者たちではないのか。

 

 じつは、われわれ荒川区の懇談会では、「ジェンダーフリー」という用語が「性差否定」と「性差別否定」という両方の意味で使われている現状を考えて、『報告書』では「ジェンダーフリー」という用語を使わないで、明確に「性差否定」をやめるようにという「乱用防止」を提案したのである。「性差別解消」に反対するのではないことを、予め明瞭に表現していたのである。それでも『東京新聞』のように、「性差別解消」への反動の動きであるかのように宣伝するのがフェミニストの汚いやり口なのである。

 もし「ジェンダーフリー」が「性差別(意識)の解消」だと言うのなら、「性差を否定する教育は行ってはならない」という「乱用防止」条項は本来の正しい「ジェンダーフリー」に反対してはいないのであるから、この条項に反対する理由はないはずである。

 以上のことから出てくる教訓。ただ「ジェンダーフリー」という用語を批判しても、フェミニストの巧妙でずるい言い逃れを許すだけである。「ジェンダーフリー」が実際の現場では「性差否定」という意味で使われていることを暴露し、われわれが批判しているのは「性差否定」であることを明確に表現していかなければならない。

 

3 浸透し暗躍する朝鮮勢力

  (平成16年8月1日初出)

 

フェミニズムに浸透する北朝鮮

 荒川区の教訓として肝に銘じなければならないのは、至る所に北朝鮮の触手が延びているということである。

 北朝鮮は日本を「金の成る木」とみなし、またいくらでも自由往来(やりたい放題)できる国として、工作の対象にしてきた。工作といっても多種多様であるが、拉致や麻薬密輸、密入国などの違法な工作の他にも、有力な政治家や政党のなかに食い込んで、食料援助などの政策に影響を与えたり、外国人参政権獲得のための運動を起こして日本の中で在日が活躍しやすい環境を作る、韓国に対する迂回工作の拠点とするなどである。フェミニストと在日朝鮮人は、被差別意識と反体制的な心情という共通点があり、両者は結びつきやすい。というより、両者では活動家がダブっている場合が多いと推測される。

 なぜフェミニズム運動を北朝鮮が工作の対象にするのか。

 日本の共産主義化、「北朝鮮化」のためには、男女が同じように働き、子供は社会が育てなければならない。つまり男女の差をなくすことが絶対の前提になる。日本のラディカル・フェミニズムこそ、その前提を主張してくれている、まさに「同志」なのである。今まで私はフェミニズム運動は共産主義運動であると主張してきたが、フェミニストと北朝鮮が結びつくことは、まさにこの主張を裏付けるものであろう。

 北朝鮮の工作は、昔は日本共産党を対象にしていたが、日本共産党が中国共産党と袂を分かち朝鮮労働党をも批判するに及んで、社会党および社民党を工作の対象にしていた。土井たか子氏がパチンコの愛好者のごとくに振る舞い、パチンコを奨励したのは、朝鮮系統の多いパチンコ業界とつながりが強かったからである。まさにパチンコ業界の広告塔の役割を果たしたのであり、献金を受けていたであろうことは想像に難くない。

 社民党も没落してしまったので、今は公明党とキリスト教左派とフェミニストを工作の対象として最も重視している可能性が高い。それらの中に入り込み、すでに乗っ取っているに近い状況もあるだろう。たとえば、キリスト教系の団体が北朝鮮への食料支援に熱心なのも、そういう背景から理解できる。

 要するに、それらの団体の中には全国至る所に北朝鮮の影がちらつくことになるのである。荒川区の今回の男女共同参画条例の問題をめぐっても、そこにフェミニズムがからんでいるかぎり、つねに朝鮮勢力の存在が浮かんできていたのである。

 

役所内の抵抗勢力

 時間にそって具体的に見ていこう。

 今まで黙っていたが、じつは『報告書』の文案を作成する過程で、たいへんな抵抗に出会ったのである。それは区役所内の役人の抵抗であった。

 懇談会の実質的な審議は3月26日の第七回会議までで終わっていた。内容はすべて確定し、対立のあった重要な部分は具体的な文章まで決定されていた。

 対立がなく、全員の賛成が得られた部分の文案は、会長と副会長に任された。 その文案は数日後には出来上がり、役所の法規課とのすりあわせも4月半ばにはほぼ終わっていたのである。4月中には最終回の会議ができるスピードであった。

 ところが、それから事務がまったく進まなくなってしまった。事務局からは、幹部たちが会議中だという説明で、延々と半月も待たされた。一体どうして役所の中の会議が必要なのか、不可解に思っていると、まるで別物のような文章が案として提示されてきたのである。いま思うに、それこそ、いわゆる抵抗勢力というものの圧力ではなかったかと推測される。

 その抵抗勢力なるものが、いったいどういうものか、我々懇談会にはまったく知らされていない。フェミニスト勢力なのか、野党の関係者なのか、公明党の関係者なのか、朝鮮勢力なのか、誰がどういう理由で懇談会の内容に干渉しているのかも分からない。ただ待たされるだけであった。そもそも懇談会の結論が出てから、文章化の段階で、懇談会の外から異論が出ること自体が異例である。

 懇談会としては、主要な対立点については「論点整理」として厳密に文章化されており、『報告書』文案の作成にさいしては、その部分は絶対に変更しないということが確認されていた。そこを「役所の中の役人の会議」によって修正され変えられてしまったのでは、懇談会の独立性はなくなってしまう。

 すったもんだのあげく、最終的には区長におでましいただいて、やっと懇談会の独立性を守って、審議の内容どおりの文案が出来上がったのが、4月の終わりであった。最終回の日程を5月の連休明けに決定するところまで漕ぎ着けることができた。

 

辞任劇 ──明かな連携プレー

 その時点で、思いもかけぬ動きが出た。委員の一人である張學錬(チャン・ハンニョン)氏が「抗議の辞任」をしたというのである。

 おかしな話であった。内容に抗議して辞任するというのなら、内容が決められた第七回が終わった時点で辞任すべきはずである。『報告書』文案をめぐる水面下の攻防が続いている間は何の動きもなく、文案が懇談会の決定どおりに決まった時点で突然辞任がなされた。つまり役所内の抵抗勢力による『報告書』文案の改竄が不成功に終わった時点で辞任劇が演じられたのである。

 役所の内部での抵抗と修正の動きが、私と副会長の高橋氏の懸命の努力で排除され、審議どおりの文案ができて最終回の日程が決まった直後に、辞任騒ぎが起こされた。役所内の抵抗勢力と張氏の両者は相呼応していた。明らかに連携プレーである。張氏には役所の内部の状況が知らされていた、つまり報告書が変えられる可能性を知っていたとしか考えられないのである。そうでなければ、それまで辞任しないで一ヶ月も静かに待っていたはずがないのである。

 

ちらつく北朝鮮の影

 この張學錬氏とは、既に何度も述べてきたように、在日朝鮮人で、朝鮮人学校の大学受験資格取得や在日外国人参政権取得でも北朝鮮の代弁者の役割をしている人物である。つまり区役所の中に張學錬氏と連動して動く者たちがいたとしか考えられないのである。その者たちの画策が失敗したときに、今度は自分の出番だとばかりに張氏が辞任劇を演じたのであろう。そう考えると、そもそも張氏を懇談会の中に入れたこと自体が偶然だったとは考えにくくなるのである。

 この辞任をいち早く報道したのが『毎日新聞』であったが、その後最も悪質で出鱈目な報道を繰り返したのが『東京新聞』の出田阿生記者であった。この記者は『北陸中日新聞』に朝鮮人学校に対する「理解」を促す記事を書いている。

 さらに荒川区の区議の中にも、朝鮮とのつながりを持つ者がいて、懇談会に対するウソのキャンペーンをさかんに行った。たとえば、すでに批判した瀬野喜代氏。金大中派の朝鮮人を支援する団体「在日韓国民主統一連合の名誉回復と自由往来保障を求める韓日共同声明 賛同者一同」の中に「せの喜代を応援する会」も名を連ねている。金大中政権が金正日の傀儡のような存在だったことは、今では公然の秘密のようなものである。

 さらには斎藤ゆうこ区議(元気クラブ)にもまた北朝鮮との関係が見られる。条例案が公明党の寝返りで取り下げざるをえなくなったとき、議会で取り下げ賛成の意見を述べた一人が斎藤ゆうこ氏である。その発言をわざわざ日本労働党の機関紙『労働新聞』7月5日号が詳細に収録した。日本労働党とは、日本共産党から分裂した親中、親北朝鮮の政党である。『労働新聞』を見れば、たとえば日朝平壌宣言を反古にしたのは小泉首相の方であるとか、日本が北朝鮮に圧力を加えているから悪いとか、北朝鮮の言い分そのままである。

 

 要するに、懇談会の中にも、区役所の中にも、区議の中にも、マスコミの中にも、外から干渉したフェミニストたちの中にも、どこにも北朝鮮の影がちらついていたのである。

 

 以上、私が知り得た具体例を挙げたが、これは恐らくほんの氷山の一角であろう。

 これらの者たちは日本名を名乗っているが、もともと日本人かどうか分からない。教条的なラディカル・フェミニストの中には、思いがけず隠れ朝鮮人が多いのかもしれない。

 フェミニスト、公明党、北朝鮮関係者、これらがどこでどうつながっている か、具体的には分からない。私が荒川区にほんの少し関わっただけでも、これだけの事実が出てきたのである。しかし、ここで私が指摘した事実などは、当事者や裏の事情に詳しい人から見たら、ほんの初歩的な情報に違いない。朝鮮人ネットの全貌が分かったら、日本国民は大きな衝撃を受けることだろう。

 

北朝鮮のやり口とそっくり

 これまで私が論争するなど、関わってきたフェミニストは汚いことは汚かったし、詭弁でごまかすことは常だったが、今回の荒川区ほどに悪辣で荒っぽい方法は取らなかったように思う。

 今回のフェミニスト陣営の戦術はきわめて乱暴で、事実無根のウソ(会議録のような証拠があってすぐにバレるようなウソ)を言いふらす、ドギツイ人格攻撃をす る、強引で荒っぽい動き(委員を辞任するとか、公明党が賛成から反対に急変したよ うに)をするなど、明らかに今までのフェミニストの戦略・戦術とは違っていた。指 導的な役割を果たした橋本ヒロ子氏がこれらの荒っぽい戦術にどのくらい関わっていたのか、知りたいところである。

 この荒っぽいやり口と、詭弁を弄し平然とウソをつく神経は、北朝鮮のやり方とそっくりである。日本人の感情を逆撫でする乱暴なやり口は、今やフェミニストの中に北朝鮮勢力が広く深く浸透していることを暗示している。このことをわれわれは深刻に受け止めておかなければならない。今後悪性フェミニズムと戦うときには、北朝鮮工作との戦いでもありうることを覚悟しておかなければならない。

 これが荒川区から得られた第3の教訓である。

 

4 自民党の甘さ

  (平成16年8月11日初出)

 

楽観的見通し

 荒川区の政権側である区長・助役と自民党は、「男女共同参画社会懇談会」の『報告書』とその条例化について、当初かなり楽観的な見通しを持っていたと思われる。

 第一は「懇談会」の構成や審議、結論の出し方について。「懇談会」は当然、保守派が多数を占めるように構成されているだろうから、審議の内容から結論まで、比較的すんなりと進むだろうと、自民党側は予測していたのではないか。私も当初そのように予測していた。なにしろ日本各地の懇談会や審議会は、ほとんどすべてラディカル・フェミニストが多数を占めるように作られている。荒川区の場合は逆に、私の他にも高橋史朗氏や八木秀次氏を委員にしたくらいだから、同様の傾向の委員が多数になるように作られているのだろうと私は予測していた。

 第二に、『報告書』が出てから、それが条例化されるまでに、困難はないのかどうか、反対勢力の抵抗はどの程度のものか、端的に言うと議会対策は大丈夫か、私たちにはまったく分からなかった。

 この点について不安を持っていたのと、とくに「乱用防止」項目が数人の委員から文書で提案され、『報告書』の中に入る見通しになってきた時点で、私と高橋氏はわざわざ二度も区長・助役を訪ねて、「これこれの内容になる見通しだが、その内容で条例案を作ってくれるかどうか、また議会に出された場合に大丈夫か」と確かめた。すると区長の返事は、もちろん懇談会の『報告書』に沿った条例案にするし、議会の方は問題ないということであった。議会では自民党と公明党の与党が過半数をとっているし、その他にも保守会派がいるので、まったく問題ないという態度であった。

 

実際は甘くはなかった

 実際はそんな甘いものではなかったのである。

 まず「懇談会」の委員の構成が、蓋を開けてみたら思っていたのとはかなりかけ離れていた。絶対安定多数ではなかったのである。私を支持してくれる人が3分の1。フェミニスト系統が3分の1。他の3分の1は是々非々主義というか党派性のない人たち。しかもフェミニスト系の人たちは皆専門家やプロの活動家といった感じで、弁も立つし場慣れしていて討論の駆け引きも心得ているという感じ。ところが私を支持してくれる人たちや中間派の人たちは場慣れしていなかったり、弁舌が不得意という感じで、まったくの素人が多かった。

 なぜそういう構成になったのか、まったく分からない。委員の選定は実際には「事務局」と称する区役所の役人が当たり、区長や助役はほとんど関与していなかったらしい。

 二回目の会合が終わるころまでには、私にはこの構成が見えてきていた。正直言って「これはたいへんなことになる」と思った。絶対多数が確保されていれば、型どおりに議論をして、頃あいを見て採決すれば済んでしまう。しかし是々非々の人が3分の1を占めていては、その人たちが納得のいく形でなければまとめることはできない。

 ここから私の苦心と苦労が始まった。大部分の委員が納得して賛成してくれる内容と表現を探り、話し合いでまとめあげていかなければならない。細かいことは省くが、審議は毎回2時間の予定が大幅に延長され、私の声は涸れ、委員全員が疲労困憊という状態であった。

 私の支持者が必ずしも過半数でないということは、最後から2回目の第7回会合ともなると、フェミニスト系の委員にも分かってきたらしく、採決すれば勝てるかもしれないと思ったのか、例の張委員が修正案を連発して、採決を迫り、事実一回は修正案が多数決で可決されるということさえあった。

 

公明党への甘い読み

 もっと決定的だったのが、公明党の本質に対する甘い認識であった。荒川区の自民党は正直これほど公明党が頑強に『報告書』の内容に反対するとは思っていなかったのではないか。実際には『報告書』どおりフ条例案にすることに対して、公明党は当初22項目にも及ぶ修正を要求してきたそうである。もちろん党内のラディカル・フェミニストの要求そのままであったろう。

 自民党と公明党の折衝の中で、自民党はよく『報告書』の内容を守りぬいてくれて、非常に多くの内容が条例案の中に生かされていた。ただし「逸脱防止」条項だけはきわめて抽象的な文言だけが残されたにすぎない。「これを入れるなら条例案そのものに反対する」とまで強硬姿勢を示されたそうである。こうして何カ所かで、重大な修正を受け入れざるをえなくなった。私が骨抜きと不満をもらした所以である。しかしそれでも、フェミニストたちには大いに不満で、全体としては「許してはいけない」条例として、全体を葬る画策が続いていた。

 荒川区内の自民党と公明党の折衝では、今までの協力関係の歴史があるので、自民党が頑張ってくれたおかげで、『報告書』の内容の多くが残っていた。しかし公明党は上意下達の政党だということを自民党の側がどれだけ認識していたか、疑問である。

 公明党は党内のフェミニストの圧力によって条例案を葬りたいが、どういう口実で合意を破るか、その口実が見つからないで苦慮していたに違いない。

 私が裏切りをできなくさせようと思って、HPで公明党が裏切る可能性を予測したのを、口実にするには「これしかない」とばかりに、怒ったふりをして全面反対に態度を急変させたことは、すでに詳しく述べてきた。

 残念だったのは、自民党議員の中にさえ「人選を誤った」(つまり林を会長にしたのは間違いだったという意味)と口走った者がいたということである。それはつまり公明党が口実にした「懇談会の会長が批判したから反対に回る」という幼稚で非常識な口実を認めた(あるいは反対に回るのも無理もないと思った)ことを意味する。少なくとも、私の「公明党裏切り」予測がなかったなら、条例案が通っていたと思っていたことを意味している。私の発言がなくても、公明党は確実に採決で反対票を投じていたであろう。それが中央部をフェミニズムに握られている上に、上意下達の性質をもつ公明党の本質なのである。今までいくら荒川区だけで協力関係を積み上げてきてもどうにもならない、公明党の本質なのである。  自民党の側に、この公明党の本質に対する認識の甘さがあったことは否めない。「議会は大丈夫」と受け合った区長に少なくとも計算違いがあったことは確かであ る。

 

タイミングよすぎた助役逮捕

 自民党の油断は、それだけではなかった。ちょうど張委員の辞任劇とほぼ同じ時に、助役が汚職容疑で逮捕されたのである。この助役は反ジェンダーフリーの懇談会を作り条例化を促進する上で、指導的な役割を果たしていた。

 容疑が真実であるかどうかは私などには分からないが、真実であろうがなかろうが、その逮捕があまりにもタイミングがよすぎるのが、ひっかかる。この種の発覚はたいてい内部告発によるものだが、以前から疑惑を掴んでいて、告発するタイミングを狙っていて、今回の条例案を妨害する意図を持っていたという可能性も考えられる。

 この私の推測が正しいとすると、ラディカル・フェミニストは一筋縄ではいかない、政治的駆け引きに長けた者たちだということを意味している。

 誤解のないように断っておくが、ここで述べたことは自民党一般に当てはまることであり、荒川区の自民党だけの問題ではない。むしろ荒川区の自民党は、全国的な問題をたまたま体現してしまっただけである。荒川区の自民党は以上に述べた悪条件の中でじつによくやってくれた。公明党の「これを入れたら反対に回る」という恫喝にも屈せず、『報告書』の基本的な性質を守り抜き、「逸脱防止」項目をはじめ『報告書』の内容を非常に多く条例案の中に盛り込んでくれた。そのために公明党の中のフェミニストたちがあまりにも不満だというので、口実をでっちあげて全面反対に転換しなければならかったほどである。

 今回の荒川区の事態は、荒川区自民党の手にあまる巨大な問題であった。荒川区の政治地図だけの問題ではなく、日本の政治の問題点を体現してしまったのである。公明党が「ダメ」と言えば、何も進まない。選挙でも公明党に依存しすぎたために、弱みを握られている。

 荒川区はこの自民党の足腰の弱さを典型的に顕わにしたと言える。その構造の中で、公明党が荒川区だけで動くのではなく、上意下達の組織であったことが、決定的に作用してしまった。自民党はこういう党と連立を組んでいることを、肝に銘じておかなければならない。

 

 荒川区の例は、男女共同参画条例化の中で公明党の本質がもろに現われた初めてのケースである。だからいろいろと思惑違いが生じたのも仕方ない。公明党がこのように悪政フェミニズムに牛耳られている政党だということが分かっただッでも、大きな収穫であり、今後の実践にとって大きな教訓を残してくれたと言える。今後の運動の中では、公明党の本質を織り込んだ戦略・戦術を考えていかなければならない。

 

5 デマ・キャンペーンとの戦い ─『信濃毎日新聞』の場合

  (平成16年8月13日初出)

 

 荒川区から得られたもう一つの教訓は、どんなに程度が低い議論でも、馬鹿にして放っておいてはいけないということである。

 何度か言ってきたが、今回の荒川区男女共同参画問題の特徴は、見え透いたウソやニセ情報が飛び交ったことである。それらのウソ(張學錬氏のウソ、「6人の要望書」のウソ、「JJネットニュース」のウソ、せの喜代氏のウソ等)に対して私は丁寧に反論してきた。

 しかし、取るに足らないものとして放って置いたものもいくつかある。その中の一つが東京大学助教授・北田暁大氏のホームページである。北田氏は荒川区に住んでおり、今回の荒川区男女共同参画についての「ウォッチング」を自らのホームページに発表している。私は知っていたが、あまりにも粗雑・稚拙で馬鹿らしいので「こんな幼稚な小僧っ子の言うことなど誰も取り上げないだろう」と放っておいたのである。

 たとえば、こんな調子である。

 

でも林先生はいったいどんな社会構想を描いているのだろう。ここまで少子化が深刻化しているのに、「とりあえず女は家に帰れ」と言って何が解決するというのだろうか。

 

と書いてある。もちろん私をはじめ誰一人「とりあえず女は家に帰れ」などと言っている人はいない。北田氏の言論には、客観的に理解した上で批判しようという姿勢は微塵も見られない。ろくに読みもしないで、「どうせこういう悪いことを言っているのだろう」程度の理解で書いている。というより、こうした場合にありがちなことだが、何か個人的なコンプレックスが作用して冷静な判断や議論ができないのかもしれない。もちろん、いかなる個人的事情があろうが、客観的に理解し語ることができるように訓練するのが学問に携わる人間の職業倫理である。

 しかし、党派性さえあれば、どんなに間違った議論でも、必ず仲間が利用す る。ましてや東大助教授という肩書きを持っていれば、利用しないはずがない。

 どんなに相手を歪めて描こうが、幼稚な間違いを犯していようが、それに拍手喝采する受け手が多ければ、調子に乗って踊る者が出てくるものである。フェミニストの群は、そういう特徴を持っているので、北田氏のような杜撰な議論をする者でも活躍できる素地があるのだろう。

 はたせるかな、北田氏の言い分をまともに取り上げる新聞が現われた。

 『信濃毎日新聞』である。8月2日付「文化」欄で「現代を読み解く」の一つとして「反ジェンダーフリー」をテーマにしている。とくに荒川区問題を取り上げて、反ジェンダーフリーという全国的な流れの中にあると位置づけている。なんと大きな見出しには「男女平等・家族の多様性 否定」、小見出しには「荒川区の混乱」「驚くべき条文」「少子化と女性」とある。記事全体の趣旨は「ジェンダー(社会的・文化的な性差)による差別をなくそうというジェンダーフリーの理念」への攻撃が噴出している、その動きは「男女平等・家族の多様性を否定する」のが特徴だというものである。信じられないほど「反ジェンダーフリー」の実態とかけ離れている。というより正反対である。ジェンダーフリー批判者で「男女平等・家族の多様性を否定する」人など一人もいないだろう。あまりにもひどいデッチ上げである。

 このデタラメ、何を根拠にデッチ上げたのかと思ったら、どうやら北田氏の「条例案はとにかく女性はおうちにいなさいという内容」だなどという理解をもとに書いているのである。

 今回の荒川区問題の特徴は、じつにアンフェアな言論が飛び交ったことである。その中の「極め付き」が『東京新聞』であったが、なぜか今ごろになってもっとひどい北田氏と『信濃毎日新聞』のコンビが登場した。 

 以下、北田氏と『信濃毎日新聞』のそれぞれについて、問題点を少しくわしく整理しておこう。

 

 まず北田氏のホームページの「note」がいかに馬鹿馬鹿しいか指摘する。

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 でも林先生はいったいどんな社会構想を描いているのだろう。ここまで少子化が深刻化しているのに、「とりあえず女は家に帰れ」と言って何が解決するというのだろうか。「子どもが増えたほうがいい」という考え方には必ずしも賛成しないけれども、たとえ「子どもが増えたほうがいい」という命題をデフォルトとしたとしても、「女は家に帰れ」で問題が解決するはずもない。

 

 私も『報告書』も条例案も、「女は家に帰れ」とは言っていない。どこをどう探しても、そんな言葉も内容も出てこない。どこをどう読めば「女は家に帰れ」という意味に取れるのか、不思議な頭脳である。これで東大の学者だというのだから、あきれてしまう。

 何度も言ってきたが、懇談会の『報告書』は、「共働きの家庭も、専業主婦の家庭も、どちらの子育ても平等に支援されなければならない」と書いてある。また専業主婦についても、一生家にいるのがよいとは誰も言っていない。「乳幼児期の子供にとって母子関係が大切」だとは書いてある。その部分については全委員が賛成したのである。

 公式主義フェミニストと私の対立点は、子供を育てるために、どういう女性の働き方がベターなのか、どういう社会制度がよいのかという所にある。その点についての私の『家族の復権』における提言をまったく知らないで議論をしているようだ。おそまつで、話にならない。

 学者のはしくれなら「いったいどんな社会構想を描いているのだろう」と疑問に思ったら、ちょっとは調べてみたらどうか。相手の書いたものを一つくらいは読んでみたまえ。とくに『家族の復権』の第5章を読めば、私の「社会構想」が詳しく書いてある。まずそれを読んでみることだ。

 

2 こんな文章も書かれている。

 何でも、「家族の絆」を取り戻すために、保育所への女性削減を提言したとのこと。内部にとどまり、どうにか方向修正しようとしている委員さんの苦労がしのばれます。

 

 懇談会の審議の中で、「保育所への女性削減」が提言されたのだそうである(「女性削減」は「助成削減」のことだろう)。しかし、審議の中では、「保育所への助成削減」などという話は一度も出たことはない。どうしてこういう出鱈目が流れるのか理解に苦しむ。このニセ情報を基にしてだろうが、『信濃毎日新聞』でも北田氏は「お金持ちの家族像を基に、保育など社会的支援を削減すれば、多くの家族を苦しめるだけだ」と、まるで懇談会や条例案が「保育所への支援の削減」を提言しているかのように述べている。完全なデマである。そんな話は誰からもただの一言も出たことはない。詳細な会議録が公表されているので、それがデマだということは誰でも確かめることができる。北田氏も記者も確かめなかったということになる。学者としての職業倫理も、新聞記者としての職業倫理も、持ち合わせていないということだ。

 これを読んだ読者は、「なんてひどい条例案なのか」とあきれるという仕掛けである。「ひどい」のはどっちか。これで、どうして東大助教授になれたのか。

 あまりにも幼稚で粗雑、唖然とするような認識と論理なのだが、それに全面的に依拠して書かれたのが、前記の『信濃毎日新聞』8月2日の記事である。

 

『信濃毎日新聞』のデマ

 

 『信濃毎日新聞』の記事は、「教訓2」で述べた、「ジェンダーフリー」という言葉の理念と実態とのズレを悪用している、典型的な確信犯である。

 冒頭から「差別をなくそうという」「理念への攻撃が噴出」したものが「反ジェンダーフリー」だという書き出しである。ひどいデマ・キャンペーンである。

 現在の反ジェンダーフリーと言われる人たちは、ジェンダーフリー運動の実態が性差別撤廃という理念からはずれて、丸ごとの性差否定にまで暴走していることに対して、批判しているのである。ところが『信濃毎日新聞』の記事は、反ジェンダーフリーが「差別をなくそうという理念」に反対するものだと書いている。ジェンダーフリーという言葉をめぐる「理念と実態のズレ」を悪用したデマ宣伝である。

 そして条例には「典型的な反ジェンダーフリーの思想がうかがえる」として、「とにかく女性はおうちにいなさいという内容」だという北田氏の批判を紹介している。まるで「女性はおうちにいなさい」というのが「反ジェンダーフリー」であり、その典型が私(および条例案)だという認識、──というより、そう見せかけたい、少なくともそう思いたいのであろう。新聞記者ならば、本当に条例案の中にそういう内容が書かれているのかどうか検証する義務があるだろうに。

 また「驚くべき条文」という小見出しがある。何に驚いたのかと思うと、「男女の区別を差別と見誤って否定の対象とすることなく」という文章だそうだ。

 それについて、次のような北田氏のコメントを載せている。「男女平等の理念は、区別の中にある差別を取り除いていくこと。『区別はいい』という論理が、これまでいかに差別的なものを生んできたか認識していない」。北田氏が代表しているフェミニストは「区別はいいという論理」が「差別的なものを生んできた」という認識らしい。「論理」が「差別を生んだ」とは、粗雑な認識である。この誤った認識から、非常識な「区別狩り」がなされているということは「認識していない」らしい。

 また「驚くべき条文」という見出しの最初に「乳幼児期における母子関係の重要性を認識し」「家庭における育児と社会的な育児への支援が偏ることなく」が挙げられ、「"専業主婦"の役割が強調されている」と書かれている。乳幼児期における母子関係の重要性の問題は、専業主婦に限ったことではない。働く母親の問題でもある。家庭育児と社会育児双方に対する支援が「偏ることなく」という文章の、どこをどうとれば「"専業主婦"の役割が強調」になるのか。話にもならない。

 引用されている北田氏の捉え方のうち、決定的に間違っているのが、「お金持ちは専業主婦」で、「貧乏人は共働き」という認識である。しかし、収入が多いのに共働きをしている者もいれば、貧乏なのに「自分の手で子供を育てたい」と専業主婦をしている者もいる。

 北田氏は「お金持ちの家族像を基に、保育など社会的支援を削減すれば、多くの家族を苦しめるだけだ」と言う。しかし条例案は「保育など社会的支援を削減する」などということは、一言も提言していない。家庭保育に対して、社会的保育と同等の支援をすべきだと言っているのである。家庭保育に対する支援を否定し、平等を否定してきたのはフェミニストたちではないのか。

 報告書も条例案も、家族の多様な形態を認めた上で、どちらの育児にも手厚い支援をすべきだと提案しているのである。北田氏は、「家族システムの多様な変化を受け、より痛みを軽減する方法を考えるしかない」と言っている。まさにそれが我々の提言した社会育児と家庭育児への偏りのない支援ではないか。家庭育児を「お金持ち」のしていることだとして切り捨てるのならば、それこそが専業主婦の痛みを増幅させることになるのである。

 

データで崩れる議論 ? ──「客観性」を装う統計のニセ解釈

 

 北田氏と『信濃毎日新聞』が拠り所にしているのが、データや統計である。最近では少子化をめぐる統計があちこちで喧伝されている。

 すなわち日本より出生率の高い北欧・西欧では、婚外子の割合が高い。またスウェーデン・イギリス・フランス・ノルウェーなど女性の労働力率が高い「旧連合国」は出生率も比較的高い。それに比べると日本・ドイツ・イタリアといった「旧枢軸国」は家族の多様性を認めない(婚外子も少ないし、「男は仕事、女は家庭」という意識が強い)ので、出生率が低い。(最近ではフェミニストはこの「旧連合国」「旧枢軸国」という表現はやめている。)

 要するに客観的なデータ・統計は、事実婚や婚外子を認め、女性の労働力化を進めるほど、出生率が高まることを示しているというわけである。

 こういうエセ客観性のウソを、すでに私は何度も指摘している。面倒をいとわず、もう一度説明しよう。

 問題はこれらの数字の解釈である。(当時のフェミニストの「旧連合国」「旧枢軸国」という表現を使っている。)

 

 問題は「保育所を作って働く女性を優遇すれば子供を産むようになる」などという単純なことではないのである。旧枢軸国でも保育所はあるが、それを使いたくないという親が多いのだ。それらの国々では、女性たちがいまだに自分の手で子供を育てたいという考えを持っているからである。(日本でパート労働形態が多いのは、子供が帰ったときに家にいてやりたいという考えの母親が多い証拠なのである)。そうした親たちは、働く女性ばかりを優遇する政策のもとでは、子供が産めないと感じているのである。

 旧連合国では子育ての外注が進みすぎて、皆が疑わないでその体制に順応してしまったが故に、摩擦が少ない形で女性が子供を産んでいる。しかし旧枢軸国では「子育ての外注」に抵抗する人たちが多く、それが「フルタイムで労働=子供を保育所に預けて働く」という方式に抵抗しているために、摩擦が多く、家庭育児が不利になっている分だけ出生率が下がっているのである。

 専業主婦形態の家庭育児に対して、それは「男は仕事、女は家庭」という古い間違った意識だと宣伝され、家庭育児を選んだ女性たちが自信をなくしたり、やる気を失ったりしていることが、「二人目を生む」ことを躊躇させる一因にもなっているのである。

 家庭育児をもっと手厚く支援するようにすれば、必ず出生率は上がるであろ う。しかしそういう多様性を認めないで、「女性がフルタイムで働き続ける」コースしか選択できないように思想誘導しているという不寛容(多様性への不寛e)こそが、少子化を促進しているのである。

 こういう問題を無視して、単純に結果の数字だけを比較するのは、あまりに単純かつ一面的な見方である。

 

子育てを終えた女性が労働市場に戻る場合、パート労働にしかつけないという現状をそのまま肯定した上で、女性は「働き続けよ」という方針を打ち出してきたのがフェミニズムであった。子育てのために一旦仕事をやめるというライフコースをとるのは、「社会にとってマイナスだ」という発想には、子供にとってどうなのかという視点が決定的に欠けている。さらに言うなら、「子育てのために一旦仕事をやめる」ということは、そのライフコースを不利にしないような施策をフェミニズムが要求しさえすれば、マイナスにはならない。フェミニストたちがその要求を一貫して無視してきただけである。

 子供を保育所に預けて働き続けるという選択の他に、子育ての三年間は休業できるとか、ワークシェアリングによって夫婦が半日ずつ働くなどという方策を追求すべきであった。

 日本の女性たちのあいだでは、「子供は自分の手で育てたい」という要求が非常に強く、だからこそ子供が帰ってくるときには家にいてやりたいとしてパート労働が増えたのである。この気持ちをくみ取ることができなかったところに、日本のフェミニズムの失敗があった。日本女性の「自分の手で子供を育てたい」という気持ちを認めないで、がむしゃらに「働き続ける人生」を押しつけてきたことにこそ問題があったのである。その反省もしないで、欧米の形態をそのまま輸入すれば少子化も解決すると考えているから、いつまでたっても少子化はストップしないのである。

 

 かつて私は「教えてあげよう人気の秘密 ──広田照幸氏への反論」( 『中央公論』平成12年12月号)で同様のことを丁寧に書いた。当ホームページの「フェミニズム」の7として収録してあるので読んでほしい。

 論より証拠で、東京都江戸川区では、家庭育児に経済的な支援をしたところ、出生率が増えたのである。フェミニストはこういうデータは決して取り上げない。

 もう一つの大きな問題は、ただ子供の数が増えればいいのかという問題である。スウェーデンなどは犯罪大国になっているが、それは暖かい家庭がなくなり、家庭育児がなくなったことが大きく関係しているのである。これについては、『家族の復権』の第5章と、当HPの「フェミニズム」の11と12を読んでほしい。

 

 以上、詳しく私の所論を紹介した。要するに統計数字の字面だけを見ても、 真実は見えてこないということである。我々「反ジェンダーフリー」派は決して「データで崩れる」ようなヤワな議論はしていない。私の批判によって、「データ」を掲げたフェミニストの側こそ、「崩れて」いるのである。もう少し相手の議論を知った上で議論をすべきである。

 『信濃毎日新聞』の記事の結論はこうである。

 

 荒川区の例は全国的な流れの中にある。男女平等と多様性の否定がなぜ支持を得るのか。厳しい視線で見つめなければなるまい。

 

 どうもこれを書いた記者は、本気で「ジェンダーフリー批判派」が「男女平等と多様性を否定している」と思い込んでいるようである。実態とあまりにもかけ離れた認識にただただあきれるばかりである。事実関係を確かめることは、ジャーナリストにとって基本中の基本であるはず。その基本がまったくできていないで、こういう事実誤認を書き立てるとは、『信濃毎日新聞』とはどういう新聞社なのか。常識ではとうてい理解できないのである。

 ちなみに北田氏の所属する東京大学情報学環では、信濃毎日新聞取締役編集局長、猪俣征一氏が講師として「新聞論」の講義をしている。よそへ行って「新聞論」の講義をする前に、部下に対して基本を教えるのが先決ではないのか。

 客観的な状況を捉えることも、相手の言い分を客観的に理解することもできないで、誤解の上に立って人を「悪者」として指弾するような、こんな連中がジェンダーフリーを進めているから、逸脱や歪みが生ずるのであろう。

 こういう悪性フェミニズムのウソや認識の間違いが明らかになっていくにつれて、いずれ国民の支持がなくなるのは必定である。早くフェミニズムの陣営にも良識派が現われて、自らの手で逸脱を批判し、正常化していかないと、本当の男女平等も後退しかねない。良識あるフェミニストよ、立ち上がれ。

 

6 丹頂鶴のフェミ陣営に分裂の兆し

  (平成16年8月27日初出)

 かつて日教組は丹頂鶴(頭頂だけ赤い)と言われた。幹部だけが共産党(アカ)で、一般組合員はそんなにイデオロギー色がなかったからである。その間にミゾがあり、そのために一般組合員に愛想をつかされた日教組は凋落したと言える。

 フェミニスト勢力も丹頂鶴である。指導部は公式主義的な極左フェミニズムに毒されているが、一般の活動家や支持者はそんなに公式主義でも、極左でもないのである。

 丹頂鶴の赤い頭に当たる部分の思想は、「女性はなにがあっても働き続けろ」「そのために保育所を拡充せよ」「女性の議員や役員を増やせ」「男女の役割分担をなくせ」「性差をなくせ」「男性に育児休暇を取得させよ」「夫婦別姓を認めよ」である。そんなことが実現しても、女性も子供も幸せにはならないことは、普通の感覚を持った女性なら、とっくにお見通しである。

 この極左フェミニズムの支持基盤は、離婚した女、子供を犠牲にして働き続けた女、女らしさに欠ける女、家事・育児を自分ではやりたくない女たちである。

 その公式主義的なフェミニズムに対して、普通の働く女性たちは、あまり共感していない。それどころか、そのアクの強いヒステリーに対して、嫌悪感すら感じている。普通の女性たちは、むしろ私の主張の方に強い共感を示してくれる。すなわち「子供を大切にする働き方」「自分の手で子供を育てながら無理なく働く制度を実現してほしい」という女性が圧倒的に多いのである。だから私が「M字型就労帥@度化せよ」(再就職の保証)とか「オランダ型ワークシェアリングによって、父母単位の就労方式を制度化せよ」(短時間労働の正社員並み待遇)と言うと、強い関心と支持が集まるのである。(この点については当HPの「フェミニズム」の「7 教えてあげよう人気の秘密 ── 広田照幸氏への反論」で詳しく論じている。)

 大学の講義でも、育児との両立は単に保育所方式だけではなく、「M字型」や「オランダ型」があると紹介すると、学生たちは非常に強い関心や賛意を示す。それに対して、公式主義的な「女性学」の授業は人気がない。「女性学」の授業を一年間受けた学生も、私の授業を一回か二回受けただけで、極左フェミニズムのどこが間違っているか、簡単に理解してしまう。このように、一般大衆や一般活動家の多くは、凝り固まった指導部とは明らかに違うのである。

 

フェミニズム系委員との一致

 こうした一部の極左的指導部と一般女性とのミゾは、荒川区の男女共同参画社会懇談会でも、はっきりと存在していた。

 懇談会の委員になったフェミニスト系の女性たちは、会合が始まる前に、私の著書やHPを読んでかなり研究したようである。そして、その結論は「そんなに悪い人ではない」「案外話せる人じゃないか」というものであったそうである(委員の何人かから直接に聞いた話)。いわゆる「反フェミニズム」の「反動」「バックラッシャー」ではないと「評価」「理解」されたわけである。拙著の『フェミニズムの害毒』も、実際に読んだ女性は、「行き過ぎを批判しているだけじゃないの」と、とくに反発を示さないのが普通である。

 三回目の会合の後だったと記憶しているが、フェミニスト系の女性委員たちと歓談していると、どちらからともなく「一緒に食事をしよう」ということになり、楽しく友好的に食事をともにしたこともあった。

 高橋史朗氏や八木秀次氏も、「話にならない反動」ではなく、優しく温厚な人柄であることも分かってきて、やはり「話にならないほど悪い人ではない」ということになってきたらしい。

 我々の方でも、偏向したフェミニストだと思っていた女性が、じつは家族や子育てを大切だと考えていることが分かってきて、一致できる点が多く見いだせることを喜んでいたのである。あるフェミニスト系女性委員が作ったカラーの図は、家庭と女性の就労と子育ての関係を描いてたいへん秀逸であり、保守派の委員でさえこれを『報告書』の中に入れたいという意見も強かったくらいである。

 さらには私が「地元の委員同士のあいだにしこりが残らないように」と最初から発言し、強引なことは極力避けるという方針が全員に支持されていたので、後にでっち上げられた「強引な議事進行」などということは皆無に近かったのである。またそんな強引なことは必要ないほどに話し合いでほとんどが解決した。『報告書』の内容のうち、9割くらいは全員一致で決められたほどであった(具体的に言うと「基本的な考え方」と「基本的な施策」の部分については、ほとんど百%と言えるくらい、全員一致に近かった)。

 要するに、我々保守派の委員と、フェミニスト系の委員とのあいだには、超えられない絶対の線はなく、非常に多くの点において意見の一致を見たのである。

 委員の中には保育所・幼稚園の経営者が3人。子育てや母親に関するサポートをしている人が3人もいたのである。この6人の委員たちは、口々に子育ての大切さや、いま子育てが危機にあるので、最大限の支援が必要であることを訴えた。それには全委員が諸手を挙げて賛成だったが、残念なことに「子育て条例」ではないので、その点を『報告書』の中に充分には盛り込めなかった。懇談会の雰囲気としては、もっと「子育て条例」にしたかったのである。

 ところがフェミニスト指導部や理論家たちは、その『報告書』ですら「子育て条例のようだ」と非難したのである。子育てを重視するか否かという点では、明らかにフェミニスト指導部と一般の活動家のあいだには対立と亀裂がある。

 もちろんこの亀裂は今までのところは顕在化していない。というより、荒川区のその後の経過が示しているように、公式主義的な指導部が、大学教授などの肩書きのせいか、今までの経歴からくる権威からか、または裏の指導部の序列が作用しているのか、一般の活動家に対して指令・指導する権限か習慣があるのか、裏の指導が入ったとたんに懇談会のフェミニスト系の委員たちの態度ががらっと変わってしまった。

 すなわち私を極悪の反フェミニズムまたは反ジェンダーフリーとして扱う、ありとあらゆるウソや人格攻撃に利用されてしまったのである。いままでのところは、指導部が活動家を洗脳し、指令したり動員したりしている。指導部が見せかけている呪縛を解かなければならない。

 ただし委員の中には多少とも帥Eな感覚を持っていた人もいて、例の6月16日の反懇談会集会でも、懇談会の会合がそんなに強引ではなかったと発言した人もいた。しかしその勇気ある公正な発言は無視されてしまった。

 

極左指導部と一般の女性ちとの乖離・ズレ

 懇談会を構成していたフェミニスト系の委員たちは、全員「普通」の女性ではなかった。皆なにがしかの活動をしている一種の専門家であり、いわゆる活動家である。その人たちのうち例の張委員を除いて全員が『報告書』には基本的に賛成であり、反対の少数意見は会合が終わってから出してきたものであり、それも内容に関するものではなく、「合意形成過程」や手続きに関するものであった(しかもそれは事実として間違っていた)。このことは何度でも強調しなければならない。要するに、中央指導部以外の一般のフェミニスト活動家たちは、本心では『報告書』の内容には反対ではなかったのである。

 極左フェミニストたちは、自分たちが女性の利益代表者のような顔をして、女性たちを騙している。その構図を利用して、自分たちが女性の味方のような宣伝をして、偏向した思想を持つ極左フェミニストが大挙して議員になり政治の世界に進出している。官僚の世界でも、学問の世界でも、ジャーナリズムの世界でも、同じ構図が支配している。

 しかしその指導部は、じつは大衆の気持ちや願いを反映していないのである。本当に真面目に考えている女性たちに訴える力を持っているのは、我々「バックラッシャー」などとレッテルを貼られている者たちの方である。

 しかし、今までのところは、極左フェミニストが女性の味方だと思い込ませることに成功してきた。極左フェミニストが女性一般の味方であるかのように見せかけ、政治家たちがその見せかけに騙されて、極左的フェミニズム政策を採用してきたのが、これまでの構図であった。そのようにして「基本法」が生まれ、性差否定のジェンダーフリーが闊歩している。

 この構図が続くかぎり、日本の女性は幸せにはなれないだろう。日本の政治もよくはならないだろう。フェミニスト指導部と一般の女性たちのあいだには、明らかにミゾと対立がある。むしろ、私の主張や政策の方が、よく聞いてもらえば、専業主婦であろうが働く女性であろうが、本当に女性のためと子供のためを思っていることが分かってもらえるのである。その構図を顕在化し、今のフェミニスト指導部が女性と子供の敵だということを明らかにしていくことが、日本の男女共同参画を正常化していく第一歩になるだろう。

 私は荒川区の懇談会のフェミニスト系女性たちとのわずかであったが貴重な付き合いを通じて、このことを強く確信するに至ったのである。

 最近では、フェミニスト女性政治家が女性の利害を代表していないことは、ますます認識され始めている。たとえば、一昨年の長野県知事選挙では、女性候補が女性であることを強調する作戦を展開したが、落選した。

 そして今年の東京都狛江市の市長選挙でも、女性候補者がビラに女性ばかりが群がる写真を掲げて、候補者が女性であることを「売り」にして選挙運動をしたが、やはり落選した。

 「女性」「女性」と騒ぐのは、男女平等感覚をもった人たちには、かえって不平等だと感じさせるのではないであろうか。丹頂鶴の極左的指導部と一般大衆が乖離しているという自覚は、女性たちのあいだにさらに広がっていくはずである。フェミニスト政治家たちが「女性の利益を代表していない」ということが明らかになり、化けの皮が剥がれれば、ますます極左的悪性フェミニズムは退潮していくだろう。いや、させなければならない。

 

7 朝鮮人のウソをどう理解し、どう対処するか

  (平成16年9月9日初出)

 本日はたいへん微妙で難しいテーマを扱う。しかし、この問題は現在の日本人にとって避けて通れないきわめて重要なテーマである。大は日朝間・日韓間の政治外交問題にも関係しているし、歴史認識の問題とも関連があり、また国内の政治問題や、日常生活において在日の人たちとどう付き合うかという問題にも関係してくる。

 初めに断っておきたいことが二つある。第一は、本稿では「朝鮮人」「在日朝鮮人」という言葉を、北朝鮮と韓国の両方を含んだ意味で使う。これはここだけの用法だと思っていただきたい。通常北朝鮮系を「朝鮮人」、韓国系を「韓国人」と呼ぶ習わしである。両方を合わせて「朝鮮人」と呼ぶことには、恐らく反発があるものと予想される。もちろん両者には多くの違いがある。しかし本稿で論ずることに関しては、共通性があり、その共通の特徴について論ずるので、共通の呼び名が必要になる。もちろん両者では、その共通の特徴に関しても強い弱いがあり、濃淡もある。また同じ韓国人でも、この特徴を持っている人と持っていない人の違いもある。しかしここで論ずるテーマについては、共通の呼び名が必要なのである。

 第二に断っておきたいことは、本稿では在日朝鮮人について論ずるが、ここで述べる特徴に当てはまる在日はもちろん一部であり、この特徴に当てはまらない在日の人も多いであろうと思われる。当てはまるのはたいていサヨク・反体制派の人々であり、他の人々はノンポリであったり日本人と仲良く暮らしていたり、仲良くしたいと思っているはずである。ただし、目立った動きをしたり、論壇に派手に登場するのは、反日思想と被差別意識を持った人たちなのある。(この特徴は、フェミニストが強い被差別意識を持っているのに似ている。だから両者は重なりあったり、協力関係を持ったりしているのであろう。)

 

最初の疑問・問題意識

 本論に入ろう。まず私が持った疑問・問題意識を述べよう。「教訓3」(8月1日付)でも述べたように、朝鮮人が関係した場合には、あまりにもあくどいウソが飛び交い、それが簡単に信じられ(彼らの話をいわゆる「大新聞」や多くのフェミニストたちが真実であるという扱いで引用した等)、宣伝された。

 それに対して、初め私は怒り反論した。しかし、そのうち、次のような疑問が生じてきた。「なぜある種の朝鮮人はそんな見えすいたウソを平気で言うのか」(委員会の中の他の16人の委員と、オブザーバーの10人くらいの区役所の役人は、皆ウソだということを知っている)。長い目で見たら、信用を落とし、差別を助長しかねない所業である。また「なぜある種の日本人はそれを容易に信じてしまうのか」。すなわち、いくら事実に即して反論しても、ウソが訂正されない、という理不尽なことがなぜ通用するのか。

 この不可解な構図、「ある種の朝鮮人がウソを言い、それをある種の日本人が信ずる」という構造は、荒川区の問題にだけ現われた特徴なのか、それとも一般的なものなのか。もし日本中に見られる一般的なものだとしたら、その構造はどうして成立したのか、どのようにしてはびこったのか。

 このような問題意識を持った私は、さっそく勉強してみることにした。私が知りたかったのは、「こうした特徴をもった在日とは何なのか」という問題である。たまたま最近出版された鄭大均氏の『在日・強制連行の神話』(文春新書)に注目した。以前に同氏の『韓国のイメージ』『日本(イルボン)のイメージ』(中公新書)を読んだことがあり、この人はものごとをできるだけ客観的に見ようとしているなと感じていたからである。

 同氏は以前に『在日韓国人の終焉』(文春新書)という本も出している。「在日とは何か」という問題意識をもった私にはぴったりの題名・テーマである。さっそく読んでみることにした。

 読んナみて、びっくりしたことに、私の疑問に対するぴったりの答えが書かれていたのである。まずその内容を紹介しよう。(もちろん網羅的な紹介ではない。私の問題意識から見て必要な内容だけを紹介する。またその理解の仕方は私によるものであり、責任は私にある。全部の内容を知りたい人は同書を読んでほしい。とくに日韓・日朝の問題に関心のある人には必読の書だと思う。日中の問題にも当てはまる。 )

 

鄭大均氏の著書の中に答えがあった

 まず鄭大均氏が明らかにしていることは、「在日とは強制連行によって日本に連れてこられた人々とその子孫だ」ということは事実ではない、ウソだということである。氏はまず、現在の在日とその子孫のほとんどは自由意志で日本にやってきて、そのまま在住しているという事実を明らかにする。この事実を氏は「強制連行」という言葉の定義の問題から始まって、在日の人々の証言などの資料に即して証明している。

 要するに「強制連行」説は「作られた」ウソ、「神話」なのである。このウソは、「日本は朝鮮を植民地支配し、苛酷な収奪と苦しみを与えた」というウソと同根・同種のウソなのである。(この事実に関して疑問のある人は、同書を直接読んで検討してほしい。私は鄭氏の論証は十分に検証に耐えうるしっかりしたものだと判断している。)

 「強制連行」説や「植民地苛酷支配」説がウソだとすると、そのようなウソを言い出したのは誰か(いかなる勢力か)が問題となる。またそのウソを信じた人々とはいかなる人々なのか。この疑問にも、鄭氏は明解な答えを出している。

 「強制連行」説は金日成とその息がかかった者たちによって主張されてきたのである。そのバイブル的な書が、朴慶植『朝鮮人強制連行の歴史』(未来社、1965)である。そこにはたとえば、「日本帝国主義は」「夜中に農家を襲撃し、白昼にトラックを横付けして畑で働いている朝鮮の青壮年を手当たりしだいに拉致していくなど」の、「朝鮮人狩り」をおこなった、その数「約五百万にのぼる」「一九三九年から一九四五年までの期間だけでも百十五万余名の朝鮮の青壮年を徴兵、徴用などで強制的にひきたてていった」と書かれている。

 これが事実でなく、単なる政治的プロパガンダにすぎなかったことは、今日では十二分に実証的に明らかにされている。それを証明することがここでの目的ではないので、鄭氏の本や、その他の類書にゆずるが、要するに朝鮮併合から戦時中に至るまで、朝鮮半島から日本にやってきた朝鮮人のほとんどは貧しさから逃れるために、職を求めて海峡を渡ってきたのである。

 

「被害者=告発者=正しい」という図式の呪縛

 さて、次に問題になるのは、何故そんなウソの政治的プロパガンダをしたのかということである。この答えは簡単である(ここからは鄭氏の説というより、鄭氏に教わりながら私独自の理解を述べる)。一つには金日成一派が「そういう悪い日本帝国主義を追い出し、朝鮮を救った救国の英雄だと見せかけ、人民を苦しめている自らの独裁政権を正当化するため(まったく同じことをしたのが中国共産党、なかんずく江沢民政権の反日教育)。第二は日本を悪者に描き、日本人に謝罪させ、賠償を少しでも多く取るため。第三に精神的に優位に立ち、劣等感を補償するため。

 日本人に「無理矢理〜された」と言わなければ、日本の「協力者」と見なされ、断罪されかねない雰囲気がある。この精神的圧力はもともと北朝鮮の特徴であったが、このごろでは韓国で強烈になり、過去の日本への協力者を今になって弾劾するいわゆる「反日法」が成立して、ヒステリックなまでになっている。これもフェミニストのヒステリーに似ている。

 では、なぜ日本人は「強制連行」のようなウソをほとんど無邪気に信じたのか。自分を不利にするようなことを、充分に検証しないまま、自虐的に信じ、謝罪してしまうとは、どういうことなのか。

 第一には、日本人の生真面目さ、誠実さ、人の良さがある。「戦時中に悪いことをした」と言われると、「申し訳ない」と恐縮してしまう。「どこまで本当か」と疑問に思ったり、確かめるという作業が必要だとは思ってもみない。東京裁判や占領軍による洗脳によって「戦争を始めた日本が百%悪い」と思いこまされた日本人の大部分は、「日本が朝鮮半島や中国で悪いことをした」と言われると、「さもありなん」と百%信じてしまうのである。

 第二に、サヨク特有の心理がある。当時は社会主義国が「輝いて見えた時代」(鄭氏)であった。金日成はすばらしい指導者で、立派な人格の持ち主だと信じられていた。その指導者と国がウソを言うはずがないと思われた。さらには、サヨクは体制側や政府を批判したい心理を持っていた。日本が悪い事をしたと指弾したいという心理を持っていた人々にとっては、これは政府体制派を批判し追い詰めるには恰好の材料であった。

 サヨクでなくとも、自分を良心的で誠実な人だと見せたい人々は、こぞって「加害者」として懺悔し、自分にむち打って見せた。平身低頭謝るという感じであった。

 そこには「良い人ぶる」という偽善に加えて、「被害者・告発者=正義の人=ウソを言うはずがない」という先入観が抜きがたくはびこっていた。よく考えてみればおかしいはずなのに、ほとんどの人はよく考えてみなかった。そこには「被害者=告発者=正しい」という図式ほど人間を呪縛するという心理的な法則もまた働いていた。しかも告発者が、「輝いて見えて」いた社会主義国の指導者だったということも、この方程式の絶対性を強めていただろう。

 この方程式から導き出された「強制連行」「虐待」「虐殺」といった反日宣伝は、科学的に確かめられもせず、日本の多くの教科書に当然の真実のようにして書かれ(入試にまで出題され)、子供たちを洗脳していったのである。

 

朝鮮人への「負い目」「やましさ」の感情

 このように、存在しない(または誇張した)加害事実を信ずるということは、心理的に見ると、自らの心の中にわずかでも朝鮮人への差別感情を持っている場合に、とくに強まるものである。そのために必要以上に自らを責めて、日本が加害者だと言われると、事実を確かめる前に頭から信じてしまうという傾向があった。

 あるいは戦争中に朝鮮人への差別感情を持っていた人で、とくに誠実だとか良心的だという人は、ことさら思想性がなくても、戦争中の差別感情に対して「申し訳ない」という感情を持っていた。つまり朝鮮人への「負い目」「やましさ」の感情を持っていたのである。

 そのために、中国や北朝鮮のプロパガンダに出会うと、それが史実であると簡単に信じて謝罪の心を持ってしまったのである。

 

「差別」告発への恐れ

 戦後人権教育によって「差別は悪」という認識が強烈に教えこまれてきた結果、朝鮮人を差別することは非常に少なくなった。隠れた差別意識は別として、表向き差別する扱いは「できなく」なっている。最近では「民族差別反対運動」の材料がなくなってしまい、「差別」の事実をほじくり出して運動を作り出さなければならないほどである。

 たとえば、『在日韓国人の終焉』には、こんなことが書かれている。「なかなか差別事件が起きないので、運動の側が事件を "仕掛ける" という現象が見られた」。その典型的な例が「指紋押捺拒否運動」であった。「押捺拒否運動が社会的認知を得た八〇年代半ばは、在日が制度的な差別から解放された時期であると同時に、文化的異質性を失った時機でもあったが、活動家たちやそれに連帯する人々は、在日の「被差別性」や「異質性」をあたかも現在形のように語ったのである。」「たとえば、ある金融機関に在日の誰かがパーソナル・ローンの借り入れを申し込む、当該金融機関が国籍条項を理由に断れば民族差別であるとして反対運動を展開するというものである。」(『在日韓国人の終焉』p.99-102)要するに「差別」「差別」と騒いで、自らを「被害者」のように見せかけることによって、精神的優位性やなんらかの利益を得ようという態度である。

 このやり方は、日本人の側の「びくびくした」態度によって成功を収めてきた。いわゆる「はれものに触る」態度である。この「及び腰」の態度は、日本中の官僚の中にもはびこってきた。とくに地方自治体の官僚の中には非常に強く浸透し、外国人から「差別」だと非難されるのをたいへん怖れるという雰囲気が支配している。

 この「恐れ」の感情は、外国人に限らず、「うるさい」相手には「長いものにはまかれろ」式の態度となって定着している。たとえば、フェミニストのヒステリックな告発から逃れるため「言うことを聞いておけ」という態度としても、よく見られるものである。

 

張學錬氏への抗議文はついに公表されず

 たとえば、この態度は、荒川区問題でも張氏への抗議文が絶対に公開されなかったという事実の裏に、確実に存在していたと思われる。抗議文が決議されたとき、これを区のホームページに載せてほしいと要請したときに、区の総務部長は「区のホームページなのだから、載せる載せないは区が決める」と言って、載せることを拒否した。おかしな理屈である。議事録の公開について、区が勝手に取捨選択するのは、越権行為以外の何物でもない。区のホームページは懇談会の議事内容を、懇談会が希望すれば自動的に掲載すべき性質のものである。

 その後、懇談会として、区のホームページに、他の議事録と同様に載せてほしいという要望を何度もしたが、区は絶対に載せようとしなかった。張氏の嘘の談話を載せた新聞への抗議文についても、まったく同様である。懇談会が「非公開」だとさんざん非難した者たちは、この不当なu公開拒否」に対して、誰一人批判した者はいない。

 これは恐らく、16名もの委員、つまり張氏以外の全員によって張氏が批判された文書が明るみに出ると、朝鮮人を皆でいじめていると思われたり、差別の疑いをかけられることを怖れたためと思われる。

 こういう腰の引けた態度は、日本中至るところに見られるのであろう。

 

偽善・弱腰・お人好しは相手をも堕落させる ──「習い性」になった甘え・図々しさ・なめるという態度

 真実かどうかを確かめないで、相手の言うことをそのまま信じて懺悔し、謝罪するという態度は、日本人に非常によく見られる(少なくとも今まではよく見られた)態度である(敗戦後の一億総懺悔)。この、よく言えば誠実・良心的、悪く言えば馬鹿なお人好しは、相手に何をもたらしただろうか。それは相手をも堕落させる作用を持ってしまったのである。

 すなわち、ウソを言えばそれが簡単に通用するばかりか、ある方向性を持った(つまり日本の植民地支配の苛酷さ、日本人の差別等々を訴える)ウソを言えば言うほど相手は信用するし、相手を恐れ入らせることができる、また道徳的に優越感を持つことができる、ということが分かってしまったとき、「告発者」たちにどういう心理的影響を与えたか。

 そういう経験が積み重なっていけば、人格的に堕落しないわけがない。堕落と言うのが言い過ぎだとしても、それが習い性になり、罪意識がなくなっていったことは確かであろう。それどころか、むしろ英雄気取りになっていったのである。つまり、ウソを言えば言うほど、拍手され、褒められるということになれば、人格が悪くなるのは避けられない。

 この傾向は、ある種の図々しさ、甘え、相手をなめた態度となって現われる。すぐバレるウソでも平気で言うようになる。批判されたら、「差別だ」と叫ぶと、相手はひるんでしまうので、咎められるということがなくなる。たとえば、荒川区で、張氏への全会一致の抗議文でさえ絶対に公表されなかったように。これはまさに逆差別、というより不当な優遇、特権者扱いと言うべきである。

 こういう構図が社会的に出来上がってしまうと、それが不正や横暴の温床になるのは見やすい道理である。北朝鮮による拉致等の犯罪がいとも簡単に行われてきたのも、日本社会のこうした状況が基礎になっていたのである。

 

同じ態度を取る北田暁大氏

 被害者や告発者というポーズで発言すると、いくらウソを言っても、咎められないどころか褒められ、マスコミで使われて寵児になることさえ可能である。張學錬氏などはその典型である。「右翼・反動」に対して告発し抗議し辞任したのだというポーズを取ったウソを言うことによって、いくつもの新聞に、あたかも英雄のごとくに登場させてもらった。

 この張學錬氏を無条件に擁護するのが、いま私が問題にしている北田暁大氏である。北田氏は「朝鮮」が関係してくると、とくにバイアスがかかった物言いをする傾向があるようだ。自身のHPで、「懇談会の議事進行をめぐっては様々な問題が出で(ママ)きたようだ。会の運営に異議を申し立てて委員を辞任した人もいる。ごくごく当然のこと(ママ)思う。しかし林道義さんは辞任した張學錬さんを懇談会とは関係のない張さんの「属性」情報に照準してご自身のHPで批判されている。」と書いている。私のHPを読んだのなら、批判の「照準」にしているのは「懇談会に関する」張氏の「ウソ」「デマ」であることは明白である。「照準」の対象を「ウソ」から「属性」へとすりかえ、まったく正当性のない辞任を全面擁護する背景には、何があるのだろうか。「荒川区は韓国料理好きにとっては天国」と言い、夏休みには韓国に行って来た北田氏が張氏と同じ「属性」なのか単なる「韓国好き」なのかは知る由もない。しかし北田氏の「朝鮮寄り」の姿勢が、朝鮮人のデマを信じ広めたという行為の根底にあることは間違いないだろう。

 

朝鮮人に対する間違った態度

 朝鮮人に対するこうした態度、「びくびくした態度」「はれものにさわる態 度」「特権を許す態度」「及び腰の態度」は、差別問題に対する間違った態度である。相手が間違っていたり、ウソを言っている場合にも、批判しないという態度も同様である。この態度はウソや欺瞞を許すという意味でも間違っているが、それ以上に相手を増長させ、人格的に堕落させ、ひいては堕落した人格に対する不信用と差別感情を育ててしまう。日朝・日韓の関係にとって、もっとも望ましくない、不幸をもたらす態度と言わなければならない。

 日本人に対しても、朝鮮人に対しても、まったく区別をしない態度、誰がウソを言うおうが、間違ったことをしようが、同じように批判するというのが、正しい態度である。

 自分で言うのもおこがましいが、私はこれまでのl生の中で、そういう公正な態度を貫いてきた。相手が誰であろうと、「悪いことは悪い」という態度である。

 荒川区の懇談会においても、誰であっても議事妨害は断固として許さなかったし、結果として張氏に対して強い態度を取ることになった。それは張氏だけが突出して不当に多く発言しようとしたからにすぎない。朝鮮人であろうが、誰であろうが、不当な攪乱や議事引き延ばしは許さないという態度である。(それに対して張氏はのちに、私が「委員を恫喝した」と宣伝した。)

 こうした本当の意味で公正な態度を取り、たとえば朝鮮人の反道徳や悪いマナーを注意すると、必ずといっていいほどに激しい反発を受けてきた。彼らは全存在を否定されたかのように、敵対行為を受けたかのように、強い敵意で向かってきた。昔から不思議で仕方なかったが、この不思議が鄭大均氏の著書を読んでかなり解消した。そうした彼らの態度は、じつは日本人の彼らに対する遠慮や弱腰によるところも大であったのだ。ちょうど叱られたことのない子供を叱ると、すぐにキレるのと似ている。「びくびくした態度」「はれものにさわる態度」「特権を許す態度」が培ったものである。

 もちろんそうした解釈に対して、彼らは「差別を受け続けてきたからだ」(「差別を受けたことのない者に分かるか!」)と抗弁するだろうが、差別を受けたことがあろうがなかろうが、自分が悪い場合に批判を受けたら素直に反省する態度をとるべきである。「差別を受けてきたからだ」という弁解そのものが「甘え」と言うべきである。

 このような傾向はフェミニストについても同様に指摘しうる。「差別」がからんでいるところも似ている。同じことは同和問題についても、かねてより指摘されてきた。「差別だ」と叫ばれるとひるんでしまう、「戦争の加害者だ」と言われるとすぐに謝るという態度が、「横暴」「つけこむ」「甘える」「なめる」「ウソを言う」という態度を育ててきたのである。これらは「甘え」から派生する態度である。

 

毅然とした態度から成熟した関係が生まれる

 日本人は、差別や戦争加害をめぐるこれまでの間違った態度を反省克服し、本当に公正な正しい態度を取ることができるように、根本的に改めていかなければならない。そうした真に公正な態度を取ることによって、中国とも、朝鮮とも、互いに成熟した関係を持てるようになるだろう。

 最近、中国に対してはっきり物を言うようになった傾向に対して、「中国に敵対する」「反中国」だとして批判する人々がいるが、やっと正面から中国の無理無体に対して物が言えるようになったのである。今までの反日一辺倒の中国の態度を改めさせる動きが始まったのである。北朝鮮や韓国の反日についても同じことが言える。まず日本人自身の歴史認識の間違いを正し、それからウソは許さないという毅然とした態度を堅持することである。

 

8 反道徳的なマスメディアに対抗するには

  (平成16年9月24日初出)

 共同通信からは結局返事は来なかった。文化部長の黒沢恒雄氏に電話で催促し、「返事は文書でお願いします」と言ったら、「文書でですか!?」と言うので、「もちろんですよ」と言い、「分かりました」と言ってから、もう一月以上経つのに、なんの音沙汰もない。

 『信濃毎日新聞』の文化部長・水越渉氏も、「公開質問状は共同通信の方にまわしました」と言うだけ。さらに抗議すると「掲載した責任は認めます」と言い「すみません」と繰り返すが、では訂正記事・謝罪記事を出すとは言わない。

 結局、あれだけの名誉毀損をしておきながら、いわゆる「ほうかむり」を決め込むつもりなのだ。新聞の「切り捨てごめん」と言われる体質である。昔から間違った記事を書いて個人や関係者の人権を傷つけても、絶対に訂正も謝罪もしないというのが新聞の通り相場である。泣き寝入りしてきた人々はゴマンといるのである。

 松本サリン事件の河野義行さんの冤罪の場合は、あまりにも明白な人権侵害だし、事件が大きくて目立ったので、仕方なしに謝罪した。しかし普通の人がかかわる小さな事件の場合は、誤報を認めて謝罪することはまずない(名前の誤記など、小さなミスは新聞の片隅に載せる)。

 とくにイデオロギーが関わるような場合には、左翼マスコミは絶対に間違いを認めない。今回のような明々白々たる間違い(我々反ジェンダーフリー派が「男女平等を否定し」「家族の多様性を否定している」という記事)を載せて、抗議されても無視して、だんまりをきめこむ。事実それで済んでしまうのである。我々のような弱小な個人には、なんの対抗手段もない(正確に言うと「なかった」)。今だってHP上でささやかに抗議できる程度である。名誉毀損で訴えようにも、カネとヒマがないのが実情である。向こうは専属の弁護士を抱えているから、痛くもかゆくもない。

 最大の問題は、マスコミの横暴を裁き罰する第三者機関がないということである。だから、どんな人権侵害をしても罰せられない。どんな反道徳的な態度を取っても、それに対抗する手段がない。たとえば、経済における「公正取引委員会」のような監視機関や、スポーツ裁定委員会のような第三者機関、あるいは消費者センターのような救済機関が、ジャーナリズムの横暴に対して存在していないのである。

 したがって、いくら嘘の報道をしても、それを罰する法律もなければ、救済を義務づける法律もない(ここで言っているのは、名誉毀損を対象にした一般法ではなく、ジャーナリズムを監視するための特殊法のこと)。河野氏などの場合もせいぜい謝罪しただけである。だから「報道の自由」とか「報道の使命」という美名の蔭で泣き寝入りを強いられる人々があとをたたない。とくに左翼マスコミは「右翼反動」とレッテルを張った人物を悪く描けば左翼読者から拍手されるので、間違いだと承知の上で書くのだろう。いわゆる確信犯である。日頃「人権」を呼号しているのに、「右翼反動」にたいしては人権を侵しても平気なのだ。

 これがテレビだと「視聴率」という怖いものがあるし、誰でも見られるから、反発も出やすい。しかし新聞というメディアは、たいていの人は一紙しか取っていないので「おかしい」と気付く人が少ない。たった一つの記事が少々「おかしい」と思っても、購読を止める人はまずいない。なにより怖いのが、一定の見方で「飼いならされて」いるので、「おかしい」とはなかなか気付かない。

 マスコミの情報(判断・見方)独占に対抗する手段は、今までは存在しなかった。しかし今やインターネットの世界が大きく成長している。これは政治に喩えれば、中央集権的な独裁政府に対する、民主主義的な自治政府のような存在である。今はまだマスコミと対等というところまでにはなっていないが、今後はマスコミよりも力を持つようになるだろう。

 その予兆はすでに現れている。たとえば、サッカーW杯での審判不正事件のように、マスコミがいかに「日韓友好」を演出しようとしても、インターネットの世界では圧倒的な不満と韓国批判が噴出した。またイラク人質事件でも、人質たちを戦争批判の英雄に仕立て上げようとした左翼マスコミに対して、一人よがりで思い上がった人質たちに対する批判がインターネットの世界で乱れ飛んだ。

 明らかにマスコミの世論操作は急速に力を失いつつある。とくに左翼的な地方紙はもちろん朝日などの大新聞も軒並み部数が減っているそうである。『東京新聞』も経営が困難になっており、『中日新聞』に吸収合併されたくらいだ。「貧すりゃ貪す」の言葉どおり、道徳的な退廃が起きているのであろう。未来への希望がなく、なげやりになっている者たちに、道徳を説いても仕方ないのかもしれない。

 しかし、そういうアン・モラル、アン・フェアな態度ばかり取っていると、ますます転落していくばかりであろう。我々としては、公正な審判監視機関を作ることを要求するとともに、インターネットの世界で、ますます発信者として実力を磨き、相互に連携し、不正で横暴なマスコミに対抗していかなければならない。

 

9 改革と再編が急務の保守政治

  (平成16年9月25日初出)

 荒川区の男女共同参画条例をめぐる結末は、現在の日本政治の歪みをそのまま露呈するものであった。それは自民党と公明党の連立のぜい弱性と無理を白日のもとにさらけだしと言える。

 自民党中心の政権とはいえ、公明党が「ウン」と言わなければ何ごとも進まない。選挙でお世話になっている自民党議員が多数いるので、公明党の言うことを聞かざるをえない。

 それでも主張・政策が近ければ問題ないのだが、公明党の主張は野党のそれとまったく同じのものが多い。愛国心という言葉を使ってはいけないとか、外国人参政権の問題、夫婦別姓などフェミニズム関係の政策など、公明党のそれは野党となにも変わらない。

 対して、民主党の中の保守派の議員は、自民党と同じ政策なのに自民党とは連携しない。民主党の中にいても、彼等の主義主張はまったく民主党の政策に反映されていない。存在意義がないと言える。というより、彼等が自民党を分裂させ、弱体化させたが、それを補うだけの力を持ちえていないところに問題がある。

 このようにして保守派が弱体化してしまった結果は、地方に行くともろに政治に影響を与えている。こんどの荒川区の問題は、その典型であった。男女共同参画条例案が挫折した原因は、直接には公明党の裏切りにあったが、最大の原因は、保守派が分裂し、良識ある区民を一つに結集して多数派になりえていないところにある。今回の区長や助役の汚職逮捕に見られるように、自民党は古い体質を払拭しえないできた。理論と政策の正しさで勝負するという、近代化への改革を怠ってきたのである。その体質のままで、支持を増やすのには限界があるということなのだ。

 しかし、希望はある。自民党改革は十分に可能なのだ。なぜなら、自民党の支持者の中にこそ、自民党の改革と脱皮への願いが強いことは、小泉氏が総裁に立候補したときに「自民党をぶっこわす」(抜本的に改革する)という主張に圧倒的な支持が集まったことを見ても分かる。(もちろん小泉人気は総裁選挙にだけ示されたわけではなく、無党派層の中にも野党支持者の中にも多かった。)自民党は都市部の無党派層を引き付けるだけの魅力を持たなければならない。自民党の改革が実現すれば、不満をもって自民党を出ていった保守派の人々と手を結ぶことも可能になるのではないか。

 自民党の改革は進んでいないわけではない。中国や北朝鮮のロビーのような野中広務氏の退陣や、橋本派の凋落に現れているように、徐々に進みつつある。しかし旧田中角栄氏の流れを汲む金権体質の払拭は今や焦眉の急を要する。徐々にでは遅いのである。利権を基盤にした旧政治家を追放し、政策を訴える都市型の保守派への脱皮をもっと意識的に進めないと、旧来の政治家が退場したと同時に自民党が弱体化してしまう。新旧交代を進めると同時に、分裂している保守派を一つにまとめる再編を進めなければならない。

 政界を再編して、もっと分かりやすい構図にすべきである。民主党の中の保守派と自民党が合同し(ついでに自民党の中で夫婦別姓を唱えているような社民的・フェミニスト的な部分を排除し)、公明党は野党になる。それで党派と政策が合致した構図になる。その上で、どちらがよりよい政治をするか国民の選択を問う。そういう構図になってはじめて、保守と革新が政策を争う二大政党制と言えるのだ。

 今のままでは、たとえ民主党が躍進して勢力伯仲になったとしても、それぞれの側に保守と革新がいるというだけで、保守と革新による二大政党制では決してないのである。

 自民党は金権汚職体質をさらに徹底して払拭し、クリーンな政策中心の保守政党に脱皮しなければ、早晩弱小政党に落ち込むだろう。地方政治の場では、保守派同士のみにくい争いに愛想をつかされて、市長や知事の座を野党に奪われるという事態がいたるところで起きている。そのために悪性フェミニスト的な条例が全国に広がっている。良識ある市民たちの活躍で巻き返しが起きてはいるが、権力を取られているので、結果が出ないでいるのが現状である。その典型が荒川区の今回の推移であり、苦労して立派な案を作ったのに、残念ながら日の目を見なかった。

 この無念と反省を糧に、保守派の奮起を願わずにはいられない。改革と再編、これを合い言葉に、さらに前進しなければならない。