エッセイ

 平成14年午年元旦

 あけましておめでとうございます。

 日ごろからご愛読いただきありがとうございます。

 昨年はアメリカでの同時多発テロから、愛子さまご誕生、北朝鮮の工作船事件と、ビッグニュースがたくさんありました。夫婦別姓問題も年を越し、通常国会に提出されることは確実であり、早々に正念場がやってきそうです。そのせいか、本ホームページも時事評論が多くなりました。

 振り返ってみると、本ホームページが発足したのは一昨年の夏であり、そのころは「不当な批判」に対する反論のためという動機が強かったのですが、このごろでは反論というより、自分の主張を積極的に出していく内容に変わってきています。

 読んでくださる人も増えて、つい先日アクセス数が10万を超えました。

 今年は新たに「テーマ」の中に家族論を加え、ますます充実していきたいと考えています。どうぞご支援よろしくお願い致します。

 さて、今年も年頭エッセイを書きました。どうぞお読みください。

 

8 理想は馬

 (平成14年・午年・年頭エッセイ)

 

 私の理想は馬である。馬のようになることが私の願い。昔から馬を見習いたいと思ってきた。

 馬を見習うという人は、あまり聞いたことがない。馬を理想にしているという人の話も聞いたことがない。だから「馬が理想」と言うと、「えっ?」という顔をされる。

 馬は昔からあまり尊敬されてこなかった。「馬の耳に念仏」とか「馬耳東風」と言われて、馬鹿扱いである。そう言えば「馬鹿」という字も馬と鹿だ。

 これは馬が昔から人間に使われる存在であったせいであろう。人間が乗ったり、馬車を引かせたり、農耕に使ったり、ずいぶんと役に立ってくれているのに、奴隷と同じような地位だというので軽蔑の対象になったのであろう。

 もっとも、他方では馬はずいぶんと親しまれ、可愛がられてきた。馬が格言などに使われるのも、身近な存在だったからであろう。可愛いという人は、優しい目がたまらないと言う。私も馬の目は大好きだ。私は残念ながら飼ったことはないが、一度飼ったら、かわいくて止められないという。

 子供のころに愛唱した歌にこんなのがあった。(記憶が薄れているので、不正確、あるいは一番と二番がごちゃまぜになっているかもしれない)

 

  濡れた子馬のたてがみを

  なでりゃ両手に朝の露

  呼べば答えてめんこいぞ

  おりゃ

  駆けていこうか岡の道

  ハイドハイドー駆けていこう

 

こんな軍歌も記憶に残っている

 

  昨日落としたトーチカで

  今日は仮寝の高いびき

  アオよぐっすり眠れたか

  今日の戦さは激しいぞー

 

子供と歌ったのが

 

  おんまの親子は

  なかよしこよしー

  いつでも一緒に

  ポックリポックリあーるーくー

 

どれも懐かしい。

 

 話がそれてしまったので、「馬が理想」という話に戻ろう。

 理想と言っても、馬車馬のように働くことが理想ではない。むしろ逆である。逆といっても、「働かない」ことが理想だというのでもない。「働く」ことと「働かない」こととの、けじめがはっきりしているのが理想という意味である。

 馬は動かないときには、脈拍が50くらい。ずいぶんゆっくりしている。しかし一旦走りだすと、とたんに300くらいに跳ね上がる。心臓が全速力で働く。そして走るのを止めると、すぐにまたもとの脈拍50に戻るそうである。

 人間のように「ハアハア、ドキドキ」が当分続くということがない。ただちにもとに戻る。うまくできている生物なのだ。優秀な機能を持っている。そこを利用されて人間にこき使われてしまったと言える。

 私は馬の反対であった。一旦興奮したり緊張すると、それがいつまでも続く。だから昼間興奮することがあると、その夜は眠れない。下手をすると2、3日も眠れない。子供のころからである。

 緊張型の人は、神経質とか神経症の人に多い。私も子供のころから神経質だと親から叱られていたくらいで、生まれつきなのか、育てられ方のせいか、とにかくひどく神経質で、また神経症の症状もいろいろあった。

 私の場合は、自律訓練法を自分で練習し、電車の中ででもできるようになったので、かなり楽になった。少々の興奮はそれで収まる。夜寝るときまでに興奮が続いているときでも、ベッドの上で座禅を組んで、腹式呼吸をすれば、割と簡単に興奮が収まるようになった。寝たままでやるよりも、体を起こした方が頭に血がいかない分だけ、早く興奮が収まるようである。

 10年くらい前に、自分で自分のアルファ波を測る簡単な器具を買って、どのようにしたらアルファ波が出るのか研究したことがある。やはり座禅(ヨーガ)の型をして腹式呼吸をするのが一番効果があった。

 いろいろと試してきたが、このごろはそういう「方法」に頼る必要があまりなくなっている。年を取ったら、興奮しても自然に収まるようになった。

つまり理想の「馬」の状態に少しだが近づいたと言える。

 そもそもあまり興奮や緊張をしなくなった。興奮しそうなところに近づかない智恵も出てきた。

 年を取ってきたら、神経が鈍くなる。普通の人だと、ぼけたり、反応が衰えたりするが、私の場合はちょうどよい加減になってきた。もっとも記憶力の方はどんどん衰えている。しかし記憶力など衰えても、なにほどのことはない。対策はいくらでも立てられる。「塩爺」のように「忘れたねえ」ととぼける手を使えるメリットもある。

 問題は神経の緊張度である。こちらの方は、ほどよくなってきた。ちょうど近眼の人が老眼が進むとちょうどよい加減になるようなものだ。私の場合は目の方もちょうどよくなって、もちろん近くを見るときは眼鏡が必要だが、遠くは眼鏡がいらなくなった。テレビを見るのも、車を運転するのも、テニスをやるのも、眼鏡がいらない。これはずいぶんと楽なことである。

 私は近眼と乱視がひどく、それぞれ左右でかなり違うので、たとえ眼鏡で調節してもたいへん見にくかったのが、60歳くらいから近視も乱視も両方ともなくなってしまった。不思議なこともあるものである。それでずいぶん楽になった。

 不必要な緊張や興奮をしなくなったので、無駄なエネルギーを使わないせいか疲れない。むしろ若いときより疲れないくらいである。そのために仕事もたくさんできるようになった。

 神経質な人や神経症の人は、年を取れば取るほど楽になるものである。私は年を取るにつれて、理想である馬の状態に近づいている。ほどよい緊張と、うまい緊張緩和、これを心がけて、だんだんボーッとしてきて、しだいに恍惚の人に近づいていき、死ぬころには仙人のようになって、知らぬ間に死ぬのが願いである。

 もっとも恍惚の状態にも、暴れるタイプと、穏やかになるタイプとがあるそうだから、心の状態をよくして、穏やかに枯れていき、世話をしてくれるはずの娘や孫たちになるべく迷惑をかけないことを目指したいものである。