フェミニズム批判

 

8 バックラッシュは正義なり
  ──フェミニスト(女性学会)の反論への再批判

        (平成15年10月31日初出)

 (本論文は、フェミニストのマニフェストとも言うべき、『誰もがその人らしく 男女共同参画』(岩波ブックレットNo.593)(二〇〇三年四月)と、『男女共同参画をめぐる論点』(日本女性学会 学会ニュース号外)(二〇〇三年三月)への再反論です。この二つは我々のフェミニズム批判に対する反論として書かれたものです。
 それに対して、『正論』平成15年11月号の高橋史朗氏との対談によって再反論しましたが、その中の私の発言をまとめて論文の形にしました。とくに後半の理論的な部分を詳しくしたと同時に、新しい論点を加筆しています。
 フェミニストの理論的・方法論的誤りを詳しく反批判したものです。反フェミニスト運動の理論武装のために使ってください。)


 フェミニストたちが戦略を転換した。拙稿「男女平等に隠された革命戦略」で明らかにしたとおり、フェミニストたちの戦略は、八十年代までは理論学習と草の根の組織化を図り、九十年代になると急に権力の中に入りこんで立法化を図り、上からの意識改革(文化革命)を押し進めるという方法に変わった。男女共同参画社会基本法がその典型であり、男性の議員たちがお人好しにもその意図を見抜けないで「単なる男女平等を進める立法だろう」と高をくくっている隙に、きわめて極端な男女区別撤廃を進めるための法律を作ってしまった。
 それに対して私が『主婦の復権』や『フェミニズムの害毒』『家族破壊』を出版して果敢に批判したのをはじめ、多くの人たちがフェミニズムの害毒に気づき、反ジェンダーフリーの運動を始めたため、各地の男女共同参画条例がフェミニストたちの思惑どおりの内容にならなくなっている。
 この事態を彼女(彼)らは「バックラッシュ」(反動・逆襲)と捉え、危機感を募らせ、反撃に出ている。彼女(彼)らの新しい戦略は、理論闘争にシフトしてきている。すなわちわれわれの批判によって理論的正当性を奪われたと感じて、理論面での立て直しを図っているのである。フェミニズムと反フェミニズムの戦いは、今や理論的正当性をめぐる戦いに突入したと言わなければならない。
 フェミニストたちの反撃の代表的なものが『誰もがその人らしく 男女共同参画』(岩波ブックレットNo.593)(二〇〇三年四月)と、『男女共同参画をめぐる論点』(日本女性学会 学会ニュース号外)(二〇〇三年三月)である(以下、前者を『ブックレット』、後者を『論点』と略称)。前者は「男女共同参画」のさまざまな論点について包括的に整理したものであり、いわば公式説明文書といったものである。後者はわれわれの批判に対して二七の論点にわたって逐一反論を試みたものである。
 両方とも、論点整理や反論というよりも、詭弁と欺瞞とゴマカシを多用し、「そんなつもりではありません」というウソの弁解をし、国際会議による正当化という権威主義に頼るやり方をとるという、例によって例のごとき汚い論法に満ちている。
 以下、それらの内容を吟味し、卑劣なゴマカシを逐一暴露する。


一 スウェーデンはどこへ行った?

 まず内容に入る前に、是非とも指摘しておかなければならないことがある。それはスウェーデンについて一言も書かれていないことである。ほんのこの間まではあれほどスウェーデン、スウェーデンとどこを見てもスウェーデンをお手本のように扱っていたのに、パタッとスウェーデンのスの字も言わなくなってしまった。われわれの批判に答えるというのであるならば、スウェーデンの悲惨な現状についての批判に答える義務があろう。
 正確に言うと、スウェーデンという言葉は『ブックレット』に一回だけ出ている。ただし女性の国会議員がスウェーデンで四二・七%、ノルウェーで三六・四%だということだけ。われわれが批判してきた、「犯罪率が異常に高いということは、それは離婚が二組に一組という状況に象徴される家庭崩壊のせいだということ、また家庭育児を消滅させ社会で育てるという原理に変えた政策が失敗した証拠ではないか」という批判には、まったく答えていない。
 高福祉による経済の破綻についても、一言もふれていない。スウェーデンをバラ色の天国のように宣伝して国民を騙してきたことに対する反省と自己批判と謝罪があってしかるべきではないのか。
 しかし彼女(彼)らは、自分らにとって都合の悪い事実には一言もふれない。『ブックレット』にも『論点』にも、スウェーデン批判に対する答えはまったく書かれていない。臭い物には蓋、ほおかむりを決め込むつもりのようだ。無責任体質ここに極まれりと言うべきだ。

二 地上の楽園が出現する?


  『ブックレット』を通読すると、おかしくて笑えてくる。なにもかも、いいことづくめが書いてある。男女共同参画社会が実現すると、曰く「地方分権が進む」「日本経済は再生する」「企業は活性化する」「日本の可能性は倍増する」「生産と雇用が増える」「農産漁村も活発になる」「科学技術立国が進む」「家族の絆が深まる」「少子高齢化も解決する」。
 無責任な政治家でも、こんな空手形のような公約の連発はしないだろう。まるで地上の楽園が実現すると言わんばかりである。政治家なら公約違反で責任を問われる。経営者なら「過当広告」として告発される。フェミニストだと、どうしてこんな空手形を連発しても問題にされないのか。
 男女共同参画が進んでいるスウェーデンで、そのような「地上の楽園」が実現するはずだった。いやすでにしているとしきりに宣伝された。しかし現実は地獄になっている。現実の例を持ち出すと、天国ではなく地獄だということがバレるので、実際には存在しない空想を語ることにしたのか。
 男女共同参画が進むと、それらの理想が実現するということがいかに嘘であるかを、これから明らかにしていこう。

三 汚い卑劣な論法

 理論的な反論に入る前に、フェミニストが多用している卑劣な論法を明らかにしておきたい。

1 調査・統計の(意図的な)悪用・誤用
2 言葉の詐術(価値観をしのばせた言葉で暗示にかける方法)
3 実際にやっていることとは反対の理想を語る詐欺

 この三点について、まずフェミニストの卑劣さを明らかにする。

『ブックレット』の「まえがき」に当たる第一頁の文章を読んでみよう。原文でたった十行の文章の中に、ゴマカシが五つも六つも発見される。

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 男女共同参画は、女性も男性も、性別にかかわりなく、誰もがその人らしく伸びやかに生きられる社会をめざします。近年、各人が互いの人格を認め合うだけでなく、「みんな違って、みんないい」と考えるのです。型どおりの「男らしさ・女らしさ」を当てはめられて窮屈だ、という人が多数になってきました。たとえば、「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考え方に、二十代から四十代までの人の大半が反対するようになりました(二〇〇二年九月発表の男女共同参画社会に関する内閣府世論調査結果)。二〇〇三年二月に実施された読売新聞社の世論調査では、「男は仕事、妻は家庭」という考え方について、「そうは思わない」という人が73%にのぼり、二十代と三十代では八五%の人がノーと回答しました。誰もが型にはめられず、伸びやかに活躍できる社会をつくることは、まさに時代の要請です。
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1 統計結果のごまかし

 言葉や内容のゴマカシは後回しにして、まず統計数字のゴマカシについて指摘する。

 「型どおりの『男らしさ・女らしさ』を当てはめられて窮屈だ、という人が多数になってきました」と書かれているが、その統計的根拠はまったく示されていない。
 ところが、そのあとに引用されている二〇〇三年二月に実施された読売新聞社の世論調査によれば、
「あなたは、『男らしさ』や『女らしさ』という言葉に抵抗を感じますか、感じませんか」という質問の結果が出ている。結果は

両方に抵抗を感じる 22.1%
「男らしさ」に抵抗を感じる 1.9%
「女らしさ」抵抗を感じる 2.2%
どちらにも抵抗を感じない 72.0%
答えない 1.8%

である。
 「どちらにも抵抗を感じない」がなんと七二パーセントである。『ブックレット』の著者はその世論調査を引用しているのだから、当然この結果も目に入っているはずである。それなのに、どうして「型どおりの『男らしさ・女らしさ』を当てはめられて窮屈だ、という人が多数になってきました」と書いたのであろうか。信じられないような杜撰さというべきか、厚顔無恥というべきか、いったいこれは何なのか、その精神構造は理解を絶している。
 次を読むともっとあきれる。その根拠として「たとえば」とくる。例として「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考え方に、「二十代から四十代までの人の大半が反対するようになりました」として、(二〇〇二年九月発表の男女共同参画社会に関する内閣府世論調査結果)と書いてあるが、その具体的数字は書かれていない。その次に「二〇〇三年二月に実施された読売新聞社の世論調査」を出して、これについては具体的数字を出している。それによると「男は仕事、妻は家庭」という考え方について、「そうは思わない」という人が73%にのぼり、二十代と三十代では八五%の人がノーと回答しましたと書かれている。
 どうして「男らしさ、女らしさ」についての抵抗感の数字が、「夫は仕事、妻は家庭」についての反応に置き換えられてしまうのか。それを平気ですりかえるという神経は何なのか。無茶苦茶としか言いようがない。
 しかも、内閣府世論調査の結果では、「男は仕事、妻は家庭」という考え方について、二〇代と三〇代のノーという解答は五四から五七パーセントである。これは過半数とは言うが「大半」とは言わない。一方の結果は八五パーセント、他方の結果は約五五パーセント、たいへんな違いである。これだけを見ても、世論調査なるものの信憑性が疑われる。
 じつは以前に指摘したように、夫婦別姓に関する世論調査で、内閣府と朝日新聞の調査結果が、ちょうど正反対になったことさえある。(この問題と、内閣府が平成十三年五月に実施した夫婦別姓についての世論調査の結果について、「別姓賛成が反対を初めて上回った」とウソの宣伝を官民問わず繰り広げた詐欺については、本HPの「家族論」「2 夫婦別姓」の(4)(5)を参照されたい。)
 そういう信憑性のない世論調査の結果を第一頁目に麗々しく掲げる。しかもある命題の証明として別の項目の結果を例として出すという、滅茶苦茶なやり方をしている。この不可解な文章に対して、関係者が誰も疑問を抱かず印刷出版するとは、書き手もさることながら、岩波の編集出版の担当者もどうかなってしまっているとしか考えられないのである。
 ついでに、実際にあった、統計に関する詐欺まがいの行為について述べておきたい。
 千葉市の男女共同参画条例の制定のさいに、 「男らしさ女らしさを一方的に否定してはならない」という意味の文言を、条例の前文に入れることに対する是非を問うアンケートを行い、結果は賛否が半々だったにもかかわらず「反対が多数を占めた」と嘘の公表をし、結果として「男らしさ女らしさを一方的に否定してはならない」という意味の文言は削除されたまま条例が成立したという事件があった。そういう犯罪を犯した犯人は今までお咎めを受けたという話を聞いていない。ひどい話である。
 こういう汚いやり口は、いたる所で行われている。介護保健についての審議会が公開されない秘密会でなされ、国民的な議論なしに決められてしまったのも有名な話。ために家庭介護に対しては冷遇的な扱いしかしてもらえなくなってしまった。
 どうして、このようにこそこそと秘密にしたり、ごまかしたりしなければならないのか。後ろめたいところがあるからとしか考えられないのである。
 以上のように、フェミニストたちは繰り返し統計結果をごまかすというやり方をしてきているが、それはすべて自分たちを多数派だと見せかけたいという心理の現われである。ということは、つねに自分たちが社会の少数派だという意識があるためである。少数派にもかかわらず、国の権力を握り社会の主導権を握りたいという権力欲だけは人一倍ある者たちであることを示している。

2 言葉の詐術(価値観をしのばせた言葉で暗示にかける方法)

 次に、フェミニストが言葉の詐術を多用するという特徴を指摘しておきたい。自分たちが貶めたい言葉や事柄に対して、マイナスイメージを与えるような形容を付ける。たとえば、「固定した」性別役割分担、男らしさ・女らしさという「乱暴な二分法」の「ステレオタイプ」の「鋳型に押し込む」といった表現。
 分担や分業というものは、ある程度は固定しなければ分業にならない。固定性のない分業というものはありえないのである。ところがフェミニストに言わせると、「男は仕事、妻は家庭」という分担だけが「固定した」性別役割分担でよくないが、逆の「女は仕事、夫は家庭」という分担は「固定した」ものではないからと拍手する。日本語が滅茶苦茶である。
 フェミニストの言い分としては、「男は仕事、妻は家庭」という人々の観念が固定的なのだと言いたいのであろうが、「観念が固定的だ」と見えるのはそうしたいという人の考えが根強いというだけの話であり、そう考えるのはまさにその人たちの自由であり、固定的であろうがなかろうが、大きなお世話ではなかろうか。人々の観念が自分たちの思うようになかなか変わらないからといって、その観念に「固定的」という悪いイメージの言葉をくっつけて否定しようというのは、姑息なやり方である。
 代わりに、よい印象を与えようとする事柄には、プラスイメージを与えるような形容をつける。男らしさ・女らしさに「とらわれないで」「のびやかに」「その人らしく」生きよう、「みんな違って、みんないい」という社会は「一人ひとりが多様に違う楽しい社会」だなど。自由放任で育った者たちに媚びた言葉だが、その内実は具体的にどういうことなのか、放縦や我が儘とどう違うのか、さっぱり分からない。
 そうかと思うと、やたらと「何々はいまや世界の常識だ」、(母性神話は)「すでに反証されている」、「何々は時代の要請だ」と言う言葉が出てくる。「反証された」ということも「常識」であることも、まったく証明されていない。自分らに都合のいい御用学者のずさんな研究だけをもってきて、それで証明されたことにしてしまう。あるいは国連の機関を乗っ取った西洋の極左フェミニストたちが出しているテーゼを「世界の常識」だと宣伝しているにすぎない。
 「時代の要請」とはどういうことかも、さっぱり分からない。自分たちの主張が多数派になりつつあるということか。しかし多数派であるという外観は統計をごまかすことによって成り立っているにすぎないのである。
 要するに彼女(彼)らのやり口は、理性に訴えるのではなく、感情・感覚に訴えるというデマゴギーの手法であり、言葉を使って暗示にかける詐欺・詐術であると言わざるをえない。

3 批判をカリカチュアライズするという手口(劣等化批判)

 『論点』は批判に答えるというスタイルを取っているが、そこに登場する「批判」はすべて「バカらしい」ものへと戯画化されていたり、愚劣化されている。相手を劣等化して描くというのは、フェアなやり方とは言えない。相手の最も良質な(自分たちにとって「痛い」)批判を取り上げて反論すべきである。以下に具体的に引用・反論するので、いちいち例は挙げないが、一つだけ挙げよう。
 たとえば、次のような批判があると言っている。

・ 批判6 男女共同参画政策は「トイレや風呂を男女共用にしろ」というような、人々を困惑させるような主張をしている。

 いかにも批判者がフェミニズムを滑稽なほどに誤解しているように描いている。汚いやり方である。どこの誰がそんな馬鹿な誤解をしているのであろうか。どこかで誰かが言ったことを誇大に取り上げて、戯画化して紹介したものであろうか。一般性のない誤解である。
 批判に答えるというのであれば、社会の大きな流れとしてなされていたり、有力な論者が出している批判に対して答えるべきである。個別的に馬鹿なことを言ったのを(本当にあった話かどうかも分からない)、さも一般的な現象であるかのように扱うのは、卑怯なやり方である。
 じつはこの種のことを言っている批判者は、フェミニストが「トイレや風呂を男女共用にしろ」と主張していると誤解しているのではない。正確に聞いてみると、ジェンダーフリーの主張を論理的に押し進めていけば、「トイレや風呂を男女共用にしろ」という主張になるはずだ、と言っているのである。
 性差にこだわらず衣服の違いや色の違いもなくせといっているのなら、トイレや風呂を男女共用にしろと言わない方がおかしい、と批判しているのである。性差は作られたものであり、男女の違いは観念的なものだと言うのなら、トイレや風呂が男女一緒だと恥ずかしいだの困ることがあるなどと言うのは、ジェンダーにとらわれた感覚や感じ方だと批判すべきではないか。トイレや風呂だけは別にせよと言うのは論理的矛盾である。フェミニストは、なぜトイレや風呂だけは男女別にしなければならないかを説明すべきである。というのが、批判者のいい分である。
 よく聞いてみるともっともな疑問であり、フェミニストはこの疑問に答える義務があろう。「そんなことは言っていない」というだけでは、答えになっていないのである。この例だけでなく、「批判」とされているものの多くは、極端に単純化されていたり、戯画化されている。はじめからフェアに論争するという姿勢が欠けている。
 このように、相手を故意に劣等に描いておいて、その劣等な姿を批判してみせるのを、私は「劣等化批判」と名づけた。女性学会の『論点』の手口は、この「劣等化批判」である。少なくとも私の批判には答えていない。私の『主婦の復権』や『フェミニズムの害毒』『家族破壊』の批判にはまったく答えていないのである。

4 実際にやっていることとは異なる理想を語る詐欺

 非常識な運動を批判されると、「そんなつもりではありません」とマイルドな表現にして、タテマエを発表する。しかし実際にやっていることは、極端に非常識なことだという例は枚挙にいとまがないくらいである。
 たとえば、ジェンダーフリー運動を批判されると、男らしさ・女らしさに「とらわれない」生き方を求めているだけだと弁解する。しかし実際にやっていることは、男女の区別をにおわせるような言葉や扱いをくまなく探しだして(「ジェンダー・センシティブ」に基づく言葉狩り)、それを壊滅させようという運動である。
 たとえば、港区が作った、区の刊行物のイラストについてのガイドライン「ちょっと待った! そのイラスト」には、差別を助長するイラストとして、例を挙げて事細かに指定している。まさに排除の論理である。
 具体的に言うと、成人式を彩る女性の晴れ着姿の集団のイラストについて「成人式には男性も参加しているのに描かれていない。片方の性をないがしろにしている」偏った表現だとされている。
 あるいは、保育園の送り迎えで女性だけが描かれているのは「固定観念にとらわれている」と批判し、男性を加えたものに差し替えるよう求めている。また女性がほほえむポスターも「性の商品化につながる」として否定し、「セクハラや性暴力を招く影響も懸念される」と批判している。
 さらに男性がみこしをかつぎ、女性が飲み物を運んでいる地域の祭りの光景に対しては「伝統的な習慣は男女の役割が固定化しているものが目立つ」として問題視している。
 もう一つ例を挙げよう。神奈川県が作った冊子には、「好ましくない表現」として次の言葉が挙げられている。「師弟」「女流作家」「女医」「女教師」「老女」「キャリアウーマン」「主人」「亭主」「奥さん」「家内」「内助の功」「女々しい」「雄々しい」。
 「内助の功」は「協力」と、「女房役」は「補助役」と、「嫁」は「息子の妻」と、「婿」は「娘の夫」と言い換えよ書かれている。
 これらの例は氷山の一角にすぎない。こうした言葉狩りが全国の至る所で行われている。まるで戦争中の憲兵隊か社会主義圏の秘密警察のように、ちょっとでも規則に違反している者は摘発するという態度である。しかもその規則が極端に偏ったものだから、あきれてしまう。
  こうしたヒステリックな思想統制がどうして単なる「男女の区別にとらわれない」生き方を求めているだけだと弁解できるのだろうか。

 もう一つ例を挙げれば、「フェミニズムのたくらみ」「陰謀」「乗っ取る」という言い方は「意図的な言いがかり」だと反発している。男女共同参画審議会委員は「多様な立場・見識が反映されるように選ばれることになっており」(『論点』26)と弁解しているが、タテマエ上は「ことになって」いても実際にはほとんどの委員がフェミニズム寄りであるという事実はごまかしようがないのである。
 また「男女共同参画会議」に与えられている「監視機能」は「モニターするもの」で、「市民生活を監視することではありません」として、「市民の権利を守るための行政の活動を監視する機能を、市民の権利を制限するための全体主義的な監視機能であるかのように意味をねじ曲げて伝えるのは、悪意に基づく行為でしょう」(『論点』27)と憤慨してみせる。しかし、埼玉県の苦情処理委員会は、高校の男女別学を男女共同参画に反するものとして、共学化を勧告し、あわや県下の全高校が共学化されそうになったのは記憶に新しい。「モニターする」だけのものだと弁解しているが、まったく嘘であり、勧告し、実際に一定の政策の実現を求めたのである。

 こうした、言っていることとやっていることが違っているもう一つの例として、専業主婦に対する態度がある。
 フェミニストは「専業主婦という生き方を否定しているのではありません」と言う。

 「回答25」「個々の人が、人生のある時期に就労をせずに家事労働に専念するのはもちろん自由です。そういう選択を含めて、女性も男性も、生活に関わる活動について多様なやり方が認められ、選んでいけるような条件整備をしようというのが男女共同参画社会の理念です。」

 結構なタテマエだが、しかし実際に言ったりやったりしていることは、まさに専業主婦いじめである。専業主婦という「選択」だけを悪く言っている。曰く「専業主婦というのは人に頼った生き方だ」「亭主が失業すれば収入がなくなるからリスクが大きい」「働いている女性と比較して、専業主婦は子供を虐待する率が多い」「子育てのストレスが多い」「税金を払っていない」「年金や健康保険の保険料も払っていない」「働く女性に比べて出生率が低い」と言いたい放題である。
 これらの批判はすべて間違いかつ不公正な批判だが(たとえば、専業主婦の子育ての条件を悪くしておいて結果が悪いと批判したり、夫の名前で夫婦の分を支払っているのを専業主婦が支払っていないと批判したりと、きわめて不公正な批判だが)、さらに不公正なのは、専業主婦のよいところは一言も言わないところである。これで、「専業主婦の存在も認めている」と言えるのだろうか。おもて向きは「多様な生き方を認める」と言いながら、本音では専業主婦を否定しているとしか思えないのである。
 これだけ貶められている専業主婦の人たちから見たら、フェミニストが目指している社会がどうして「その人らしく伸びやかに生きられる社会」「誰もが型にはめられず、伸びやかに活躍できる社会」なのか、理解に苦しむだろう。「働く女性」という型にはまらない女性は肩身の狭い思いをして生きなければならない、なんと息苦しい社会であろうか。
 こういうごまかし言葉を使って人を騙すというやり口を取る人間たちは、絶対に理想を実現したいのでも、社会をよくしようとしているのでもなく、ただ自分たちの歪んだ心理的欲望を満たそうとしているにすぎないのである。
 そのために、彼女(彼)らは、方法論的な重大な間違いをたくさん犯している。次にいよいよ本論に入って、その理論に含まれている根本的・方法論的間違いを明らかにしたい。
 
四 方法論の間違い

 1 型に「はまらない」「とらわれない」はよいことか?

 『ブックレット』の冒頭に、「誰もがその人らしく伸びやかに生きられる社会を目指します(中略)誰もが型にはめられず、伸びやかに活躍できる社会をつくることは、まさに時代の要請です」とあり、「型にはまらない、とらわれない」ことがよいことであるかのように書かれている。
 逆に「性別を、乱暴な男/女のステレオタイプの二分法で捉え、その一方の鋳型に自分を押し込んでいくことは成熟ではなく、むしろ幼稚な思考でしょう」(『論点』3)と書かれていて、男女の区別をすることは「鋳型に押し込む」というひどく悪いことのように書かれている。
 本当に「型にはまらない、とらわれない」ことはよいことなのか。本当に「型にはまらない」と伸びやかになれるのか。男女という区別をして、自分が一方の性だと自認することは、本当に幼稚な考え方なのか。
 そのことを考えるために、まず事態を客観的な表現で言い表す必要がある。「とらわれる」「押し込む」と言われると、男女の区別を意識して行動することはすべて悪いことのような気持ちにさせられる。この言葉を使うこと自体が、すでに一定の方向に考え方や行動を誘導する意図を持っている。言葉の使い方自体がすでに誘導的・支配的なのである。
 われわれはまず「型にはめられる」「鋳型に押し込む」という価値観の入った表現でなく、中立的な表現で事態を表わすことから始めよう。たとえば「男であること、女であることを意識する」と表現してみよう。そして、その意識に「縛られる」と言わないで、「その意識によって行動をコントロールする」と言ってみよう。この方がよほど事態を客観的に表現しえている。
 さて、内容的な考察に入るが、そもそも自分を型に当てはめないでおけば伸びやかになれるというのが間違いである。人間が生きていくためには型が必要である。一定の枠や秩序も必要である。生活の仕方にしても、男女の付き合い方にしても、社会のルールにしても、またスポーツや武道にしても、まず基本の型があって、それを習得したときに、初めてそのうえに個性や伸び伸びとした人格が生まれ得るのである。
 型がないとのびのびできるというのは錯覚であり、型があると窮屈だと感ずるのは自由放任で育った我がままな人格に特有の歪んだ感じ方にすぎない。
 型をなくしてしまった社会は、ルールもマナーも何もない社会である。それが誰のために都合のよい社会かといったら、子育てや家事が面倒だという働く独身女性たち、おしゃれをして、デスクワークをして、帰りには一杯やって、そして出来合のおかずを買って帰っていく女性たちである。子育てが嫌いで家庭を壊してしまった連中にとって住みやすい社会になるにすぎないのであって、家庭と子供を大切に守っていこうとする人間にとっては、伸びやかな社会になることは絶対にあり得ないのである。
 話が一般的になりすぎたので、男女の型に話を戻そう。

 2 男女の違いと個人の違い──類別はなぜ必要か

 もう一度、『論点』を引用する。

・ 批判3 思春期の頃に「男であること/女であること」を強く意識して自らに課して引き受けていくことを通じて、人間は社会的な自分を形成し成熟していくことができる。しかるに、ジェンダーフリー教育は「男であること/女であること」を否定している。

・ 回答3 思春期に必要なのは、一人ひとりが、性別ということと自分の気持ちにていねいに付き合っていくことです。性別を、乱暴な男/女のステレオタイプの二分法で捉え、その一方の鋳型に自分を押し込んでいくことは、成熟ではなく、むしろ幼稚な思考でしょう。


 男女を区別することは「乱暴な」「ステレオタイプの」二分法であり、「幼稚な思考」だと言われている。このように否定しようとすることがらに感情的な評価をくっつけるのがフェミニストの特徴だが、しかしたとえば「幼稚」だという評価の理由はまったく述べられていない。
 「成熟ではなく幼稚だ」という評価が、どのような思考回路または論理によって下されたのか分からないので、私なりに推測してみた。彼女(彼)らの思考様式のヒントになるものが、『ブックレット』の中に見つかった。
 その七頁目に「性」の「境目ははっきりしない」として、次のように書かれている。

 「この二十年ほどのあいだに、不妊や性同一性障害への対応なども契機として分子生物学が発達し、人間の性は性染色体だけでは決まらないことが判明しました。雌雄のいずれかにまぎれなく決められるとは限らず、外生殖器、内分泌、染色体、遺伝子というように複数の判定レベルを通じて、必ずしも一貫しているわけでもないということです。境目ははっきりしない『性』に、男女いずれかであるように迫るのが、社会的・文化的に構築されているジェンダーです。それは、人間の多様な可能性を『男らしさ・女らしさ』などの鋳型にはめコミュニケーション、可能性を抑えることがあります。」

 いかにも科学的らしい難解な言葉を使って、煙に巻いている。「分子生物学」「人間の性は性染色体だけでは決まらない」「外生殖器、内分泌、染色体、遺伝子というように複数の判定レベルを通じて、必ずしも一貫しているわけでもない」と、客観的な真理であるかのように述べている。
 こういう論理を基にして、男女を分けるのは幼稚な思考法だと言っているのであろう。もしそうだとしたら、方法論的に幼稚なのはフェミニストの方である。
 じつは彼女(彼)らが言っていることは、最近とくに男女の区別がはっきりしない人々が出てきた、その人たちについて見ると、「外生殖器、内分泌、染色体、遺伝子」のすべての点で男性または女性というようにはっきり分けられない場合が見られる、ということにすぎない。正常な場合には、これらのすべての特徴が男性的または女性的なのであり、決して「性の境目」は曖昧なのではない。
 平たく言えば、『ブックレット』の言っていることは「男」あるいは「女」にはっきり分けられない場合(性同一性障害)があるというだけのことなのである。この人たちについて見ると、「外生殖器、内分泌、染色体、遺伝子」のすべてのメルクマールについて男性とか女性という特徴を持っているとは限らない、という意味なのである。つまり例外的に障害を与えられたケースでは、はっきりと男性または女性だと言えない場合があるということである。
 要するに、男女にはっきり分けられない例外的なケースについては「はっきり分けられない」と言っているわけで、馬鹿馬鹿しい同義反復を、こけおどしの「科学的用語」を使って言ってみただけの話である。圧倒的大多数の人たちのあいだでは、男女は科学的にはっきりと区別できるのである。
 科学の発達によって本当に分かってきたことは、同性愛や両性具有は胎児のときのホルモン異常や化学物質等によってもたらされた例外的なものだということである。フェミニストらはそうした例外を一般化して、それを基準に社会の制度を作り直せと言っていることになる。社会の制度は普通の正常な形態を基準に作られていなければならない。それを崩すことは公序良俗の崩壊を意味する。
 ただし例外の人たちも差別されることなく、幸せを追求できる保証をしてあげることは必要である。その保証をすることを、男女の区別をなくしてしまうことによって実現しようとするのが間違っているのである。
 フェミニストは同性愛や両性具有を、男女の区別をなくすための道具に使っている。同性愛者や性同一性障害者を道具に使い侮辱しているのはフェミニストたちである。

 3 「大多数」と「例外」

 「大多数」と「例外」という用語が出てきたので、この言葉についての論争も取り上げよう。この点についての『論点』の論理は、ひどいゴマカシ論理である。
 まずそのまま引用しよう。

・ 批判4 例外的な存在はあっても、大多数の人々は男/女のどちらかであるから、そちらが規準になるべきである。人は男/女の2群に分けてとらえる「男女の二分法」に対する批判は、どちらでもない少数の例外的な人が在る、ということの方を規準に置き換えようとする考え方である。

・ 回答4 問題は、「例外」の話ではありません。分かりやすく、身体の大きさを例に考えてみましょう。男女一万人ずつの身長分布は、およそ下記のグラフのような正規分布になっています。この場合、大多数とは誰のことで、例外とは誰のことでしょう?どこに明確な線が引けるのでしょう?このような現実を「男は女よりも体が大きい」と二分法で理解してしまうことがどんなに乱暴なことであるかは、すぐに理解できるでしょう。多くの精神的特徴についても同じで、人間を特徴によって二つに分けるなどということはそもそもできないのです。「大多数/例外」という区別自体も乱暴な二分法にほかなりません。


 乱暴なのは、君たちの方ではないのか、と言いたくなるような粗雑な論法である。身体の大きさを例に取って「分かりやすく」したつもりのようだが、少しも分かりやすくなっていないで、かえってごまかしてしまった感じがする。
 「問題は例外の話ではありません」と言うが、相手が「一般と例外」又は「平均と例外」の話をしているのだから、例外をどう考えるのかについて話すのが「回答」というものであろうに。回答は、「大多数/例外」という二分法は乱暴だから、してはいけないと言っているだけである。
 してはいけない理由を説明するために、身体の大きさを例にとっている。身体の大きさは平均では男性の方が大きいが、男性でも小さい人もいれば女性でも大きい人もいる、だから「男性の方が大きい」と言ってしまうのは乱暴だという論理である。
 たしかに個別的に見ると、男性の方が大きいという法則からはずれる人がいるのは当然である。だからといって、平均では男性の方が大きくて力が強いという特徴が無意味になるわけではないし、乱暴だとは限らない。社会の仕組みがその特徴を考慮して(たとえば体の小さい力の弱い女性をかばうように)作られるのは当然である。そういう場合には二分法は必要であって、いつでもけしからんわけではないのである。身体の大きさを例にとってみても、男女の二分法は決して乱暴ではないのである。
 では精神的区別についてはどうであろうか。『論点』は、精神的に男女の区別をするということ、「人間を特徴によって二つに分ける」ことは、「そもそもできない」と言っているが、それがまったくの間違いであることは今日では脳科学によって完全に証明されている。男性と女性では、脳の配線とも言うべき構造や仕組みが違うのである。科学的に明らかになっていることを、「そもそもできない」などとなんの根拠もなく否定するのは、自らが愚かで不勉強であることを白状したようなものである。
 男女の脳は生まれつき異なっているので、当然、男女は心理学的にも異なるし、行動様式も異なる。つまり「男らしさ・女らしさ」は生得的なものである。したがって社会全体では男女の傾向が異なっているのだから、社会的仕組みや行事もその違いを考慮して作られるのは理の当然である。
 それからはみ出す特徴をもった女性なり男性なりをどう救済したり保護するか(差別をなくすか)ということは、もちろん充分に配慮しなければならないが、例外の人たちを基準にして社会の仕組みを作れというのは無理な要求なのである。

 4 伝統・習慣(祭り)と性別シンボリズム

 その仕組み、とくに伝統・習慣(祭り)を性別とは関係ないものにせよとフェミニストは要求している。その点について、『論点』は次のように書いている。

・ 批判5 男女共同参画政策は、鯉のぼりやひな祭りなどの伝統や慣習を破壊するものである。

・ 回答5 伝統や慣習は不変ではなく、時代とともに取捨され改変され、今日にいたっているものです。例えば、明治初期にチョンマゲや帯刀などの伝統は破棄されてしまいました。鯉のぼりとひな祭りに含まれていた「男は強く元気に/女は優しく美しく」と、性別と人のありかたを結びつけるシンボリズムは、今日では適切とは言えません。現在、5月5日は、すべての子どものための祝日とされています。ひな祭りも、性別と関係づけないお祝いにするのが良いと思われます。なぜ、そうしないのでしょう?


 チョンマゲや帯刀と、鯉のぼりや雛祭りを同列に論ずるとは、「乱暴な」話である。「どちらも時代とともに変わる」から、鯉のぼりと雛祭りもいずれなくなるだろうという意味を込めているのだろう。チョンマゲや帯刀は一種のファッションである。それに対して鯉のぼりや雛祭りは「男らしさ・女らしさ」のシンボルであり、「男らしさ・女らしさ」が必要だと人々が思っているかぎりなくならない。
 その「男らしさ・女らしさ」をいま日本人がどう思っているかというと、大部分の人たちが当然と思っているのである。今日では、「男らしさ・女らしさ」を表すシンボルとして鯉のぼりや雛祭りというシンボルを当たり前のことと思っている。
 しかるに『論点』は「性別と人のありかたを結びつけるシンボリズムは、今日では適切とは言えません」と書いているが、「適切でない」理由はまったく明らかにされていない。「今日では」というのが唯一の理由である。恐らく性別にとらわれないという考え方が広まってきた「今日では」という意味なのであろうが、自分たちの考えだけを普遍化して、「今日」を代表させるという思い上がり以外の何物でもない。
 「性別と人のありかたを結びつけるシンボリズム」は、男児なり女児が自分を男性または女性として自己同一化するために心理的に必要なものである。すなわち自我(アイデンティティー)の確立のためには、自分が男であるか女であるかという自己同一化は非常に大切なものであり、そのためには性別のシンボリズムが必要になるのである。
 鯉のぼりやお雛様は、そうした「男らしさ・女らしさ」のシンボルとして、性別を適切に意識化させる役割を担っている。

 5 色を選ぶ権利?

 「男の子はブルー、女の子はピンクや赤」という、性別による色のシンボリズムも、同様の意味を持っているので、一概に否定すべきではない。この点について『論点』は次のような問答を想定している。
 
・ 批判7 「男の子はブルー、女の子はピンクや赤」ということを否定すると子育てや教育現場で混乱が起こる。ふつう、女の子はピンク、男の子はブルーを選ぶ。

・ 回答7 「男の子にはブルー、女の子にはピンクや赤」という性別に基づいた固定的な考え方や決め付け、選択の余地のない押し付けを問題にしているのです。ブルーや寒色系が好きな女の子に、女の子はピンク・赤だからとピンクや赤の持ち物ばかり持たせることは、本人の意思や感情を尊重しない強制です。ピンクや赤が好きな男の子にとっても同じです。また、自分がどのような色が好きなのか、似合うのかを本人が考え、選ぶ余地なく、機械的に男の子にはブルー・女の子にはピンクのものが与えられるという経験の中では、色彩について考える習慣も、自分で選ぶ力も身につきません。


 「本人の選択・意思や感情を尊重せよ」という主張の中に、子供を完成した主体とみなす誤りが顔を出している。
 色は男らしさ・女らしさのシンボルであり、男らしさ・女らしさを育てるために必要なものである。子供は人格を(この場合は「男らしさ・女らしさ」を)形成する途上にあるということである。したがって男児にブルー系統の色を着せ、女児に赤・ピンク系統の色を与えるのは、正当な理由があると言わなければならない。
 子供の好みや選択というと聞こえがいいが、まだ好みが育っていない乳幼児の好みを尊重するということ自体が矛盾である。色を利用して「男らしさ・女らしさ」を育てるという観点を持たなければならない。
 往々にしてフェミニズムの影響を受けた親たちは、故意に男児に赤を着せ、女児にブルー系統を着せるという逆のことを強いたり、暗示にかけて実行させるが、それは男女の区別をなくそうという「崩しの思想」から出ている。それは子供の自我形成を乱したり、歪ませる原因になり、かえって自主性を犯し、混乱させるもとになり、とくに男児の自我形成にとって望ましくない結果をもたらす。すなわち弱々しい、消極的、腑抜けといった特徴が出てくる。女児は逆に下品、野蛮になりやすい。
 親の特殊なイデオロギーによって子供の心の発達を歪ませてはならない。

五 前提の間違い

 次に、議論の前提そのものが間違っているので、議論がどんどんおかしな方向にそれていく例を見てみよう。

 1 母性のミニマム化

 「男性は仕事、女性は家事・育児」という分担をなんとしても変えたいというのが、フェミニストたちの強い動機になっている。要するに「家事・育児」が嫌いだとか不得意な女性たちが、仕事をすることを正当化したいために、理屈を言っているにすぎない。
 その理屈とはこうである。

「女性のみを子産み・子育てと結びつける考え方は、社会的活動(とりわけ仕事)と妊娠・出産、育児や介護を含む家事など生活活動を二者択一的に分け、前者を男性、後者を女性と結びつける、これまでの社会の慣行に基づいています。男女共同参画は、男性にも女性にも、そうした二者択一の選択を強いる社会を変えていこうという考え方です。」(回答9)

 男女の完全平等を求める人々に受け入れやすい主張である。しかしその主張は、保育には母親が向いているという事実、また子供の方もそれを求めている(必要としている)という事実を無視している。これらの事実は充分に科学的に証明されている(拙著『母性の復権』等参照)。
 科学的に証明されているこれらの事実はもちろん全体としての傾向であり、それからはずれる個体が存在するのは当然である。またはずれる人を差別しないで社会でどう対応すべきかということは、課題としてもちろん考えなければならない。ただしその人たちを救うために多数の人たちに不都合をもたらすようなやり方(社会の仕組みを変えてしまう)を取るべきではないのである。この議論は「一般と例外」のところに戻る。
 母親が中心になって保育をする体制をなくし、父親にも保育をさせようというのが、フェミニストの主張なのである。そのために男性にも育児休業を取らせるように、いま必死で画策している。
 理論面では、母性のミニマム化を一生懸命宣伝している。曰く「女性に固有の経験は、妊娠・出産・母乳授乳のみであって、子産み・子育てに関するそれ以外の経験は性別と関係ないはずです。子どもが産まれ育つこと、子育てに関する男性の喜びは、なぜ語られないのでしょう?」と。
 こういう間違った考えに従って、「少子化社会対策基本法」では、「生み育てるもの」という表現が「生み、育てるもの」へと変えられた。句点が一つついただけで、意味が正反対になる。「産み育てるもの」と言えば、母親が生んで育てるという意味になる。しかし「産み、育てるもの」と言えば、産む人と育てる人は別だから、母親が育てなくてもいいのだという意味になる。
 母親が育てなくてもだけが育てても同じだということが科学的に間違いであることもまた、今では完全と言っていいほどに証明されている。母子に特有の経験が「妊娠・出産・母乳授乳のみ」ではなく、母子関係全般にわたること、また父子関係全般にも母子関係とは違う特有な部分があることも、充分に研究されている(拙著『母性の復権』『父性の復権』参照)。
 フェミニストは「男は仕事、女は家庭」という図式を否定したいがために、男女の分業を否定し、そのために母性を「妊娠・出産・母乳授乳のみ」へとミニマム化したり、母性本能を否定するという無理な理論化に狂奔している。
 たとえば、「回答14」「子供への愛が母に固有のものであるとか、あらゆる母が自動的に備えるものであるといったことは、もはや反証されています」と言うが、「自動的」という言葉の意味が問題なのである。母性本能は生得的に備わっているが、それは出産と同時に「自動的」には出てこない。出るためには、いくつものスイッチが押されなければならない。その一つでも失敗すると、母性愛が出ないことになる。だから女性は子供を産んだだけでは母性愛が出るとは限らない。その事実を見ただけで、母性愛を否定するのは大きな間違いである。母性愛を否定したいのは、女性が出産しても働き続けるべきだという主張を正当化したいがための強弁にすぎない。
 子供が生まれても働き続けるという無理を制度化するのではなく、育児のあいだは安心して子育てに専念できる制度を作るようにエネルギーを使うべきである。

 2 専業主婦への差別的な偏見

 すでに述べたように、専業主婦への不当な偏見を助長することも、大きな特徴である。

・ 批判8 男女共同参画は、専業主婦という生き方を軽視し否定している。

・ 回答8 これまで、一見専業主婦という生き方は褒められ、税制などは制度上も優遇されていたかに見えます。しかし、それは被扶養の妻である限りでのことです。夫と死別したり離婚したりしたら、専業主婦という足場はたちまち消失します。また、年金保険料の拠出義務免除は優遇されているとも言えますが、その結果、65歳以上になって受給する年金は月に6万円ほどの基礎年金のみです。一人の人間の生活費としてはむしろ冷遇と言えるでしょう。男女共同参画は、女性たちが他人に頼らなくては生きていけないのではなく、しっかりした生きる足場を持てるような社会の仕組みを作り出していこうという考え方です。専業主婦という生き方をしている個人のあり方・生き方を軽視したり否定したりする、などと、個人を問題にする次元の話ではありません。


 そのとおり、個人の話ではなく制度の話である。フェミニストは専業主婦というあり方が不利だとしきりに言っているが、それは現行の制度を前提にした話である。それは制度が悪いのであり、制度を専業主婦に有利なように変えれば済む話である。制度の話をするなら、その制度がよいのか悪いのかという話をすべきであり、悪い制度を前提にして、専業主婦は不利だと言うのは、専業主婦というあり方を否定したいがための「ためにする」議論である。
 専業主婦を不当に悪く言う典型が次の例である。

・ 批判10 働く女性が増えると出生率が低下する。

・ 回答10 データはそうなっていません。子育て期の30歳から39歳の女性が働いている割合の高い県の方がむしろ、出生率が高いですし、「実際に産み育てている子供」の平均人数も就業女性は1.98人、専業主婦は1.91人と就業主婦の方がやや高くなっています。25−34歳女性の労働力率が高い国ほど出生率も高い傾向にあるという国際比較調査の結果もあります。


 これも現行の制度を無視した議論である。すでに述べたように、今の制度は働く母親に圧倒的に有利なように手厚い支援がなされているのに対して、家庭育児にはゼロに近い支援しかなされていない。その格差を無視して、出生率という結果だけを比較してもまったく無意味である。「25−34歳女性の労働力率が高い国ほど出生率も高い傾向にあるという国際比較調査」なるものも、それらの国でも同様に働く母親に圧倒的に良い条件が与えられているからである。
 こういう詐欺まがいの不当な議論によって、不当に専業主婦というあり方を貶めていて、よくもまあ「専業主婦というあり方も認めている」と言えたものである。

旧連合国・旧枢軸国という差別語的分類のまやかし
 関連する論点として指摘しておきたいのが、出生率が旧連合国では高く(アメリカ2.13、イギリス1.65、フランス1.89)、旧枢軸国では低い(日本1.33、ドイツ1.39、イタリア1.23)(ちなみに中立国のスウェーデンは1.54)という事実に対する解釈の違いである。フェミニストは、この違いは、旧連合国では「女性が働いても子供を産み育てやすい政策・制度が進んでいるのに対して、旧枢軸国では後れているから」だと主張している。
 まず指摘したいのは、「連合国=善=働く女性に有利な制度」「枢軸国=悪=働く女性に不利な制度」という差別的なシンボリズムを使っていることである。「フルタイムで働くこと=善」「子供を保育所に預けて働くこと=善」という前提に立った上で、旧連合国ではその方向が進んでいるから出生率が高いのだと結論している。
 そんな単純なことではない。旧枢軸国でも保育所はあるが、それを使いたくないという親が多いのだ。それらの国々では、女性たちがいまだに自分の手で子供を育てたいという正しい考えを持っているのだ(日本のパート労働形態が多いのは、子供が帰ったときに家にいてやりたいという正しい考えからの母親が多い証拠)。そうした親たちは、働く女性ばかりを優遇する政策のもとでは、子供が産めないと感じているのである。
 旧連合国では子育ての外注が進みすぎて、皆が疑わないでその体制に順応してしまったが故に、摩擦が少ない形で女性が子供を産んでいる。しかし旧枢軸国では「子育ての外注」に抵抗する人たちが多く、それが「フルタイムで労働=子供を保育所に預けて働く」という方式に抵抗しているために、摩擦が多く、家庭育児が不利になっている分だけ出生率が下がっているのである。
 家庭育児をもっと手厚く支援するようにすれば、必ず出生率は上がるであろう。
 こういう問題を無視して、単純に結果の数字だけを比較するのは、単細胞的と言われても仕方ないであろう。 

専業主婦への否定的言辞
 口では「専業主婦という生き方を否定しない」と言いながら、じつはマイナス評価を滑りこませている例は多い。たとえば、

1 「夫が失業したり死んだ場合には、働いていないと困る。専業主婦はリスクの大きい選択肢だ。」
 話が逆である。妻たちが働くようになればなるほど、夫たちは失業する確率が高くなる。もちろん妻たちの就職率は低くなる。これは宿命的な経済法則である。妻たちが働くという選択は、個人レベルでのみリスクが低くなるように思えるだけで、社会全体として見ると、失業リスクは増えるのである。
 また妻も働くと、家族の健康・栄養・衛生などのケアが不足しがちになり、夫(や家族の誰か)が病気になったり死ぬ確率も増える。単純に夫が死んだらという仮定の前に、死ぬ確率が高いか低いかという問題も入れて考えなければならないだろう。
 
2 生活が苦しくなるから、妻も働かざるをえなくなるだろう。
 逆である。妻が働くから、賃金水準が下がって、夫婦二人が働かざるをえなくなる。家族の生活は全体として苛酷になり、条件は厳しくなる。家族全体が搾取され、疎外されることになる。 

3 専業主婦とは「他人に頼らなくては生きていけない」哀れな存在である。
 上で引用した「回答10」には、「男女共同参画は、女性たちが他人に頼らなくては生きていけないのではなく、しっかりした生きる足場を持てるような社会の仕組みを作り出していこうという考え方です」と述べられている。専業主婦を「他人に頼って生きている」と決め付けるほど差別的な言い方もないだろう。「他人に頼る」とは何を意味しているのか。専業主婦は少しも他人に頼ってはいない。家族の中で大切な役割を担って共同生活しているのであり、家族の一員は誰も他人に頼っているのではなく、それぞれの役目を果たしているのである。
 女性学会は専業主婦に対してこれほどに差別的な見方をしている証拠として、記憶にとどめておきたい。

 3 母親の就労

 共働きの母親に比べて、専業主婦の母親の方が子供に悪い影響を与えているというニセの情報を流し続けているのも、許せない犯罪行為である。

・ 批判11 子育て期の母親が、子育てに専念せず、就労をすることは、子どもの発達に悪影響を及ぼす。

・ 回答11 そのようなことは実証されていません。母親の就労と子どもの発達の関係を調べたある調査では、0歳から5歳までに「異常行動」がみられた割合は、母親が専業主婦である子どもの方が高いという結果が示されています。また、別の調査では、育児不安や、虐待にもつながりかねない過度なしつけをしている人の割合は、専業主婦の方が高くなっていました。専業主婦に様々な人がいることは言うまでもありませんが、子育てや家事と両立する良い条件の就業機会を整えていくことは、それがないために専業主婦を選んでいる人の不満を解消し、結果的に育児不安や子どもに対する不適切な対応を減らすことにつながります。人間の子育ては多くの要因の複雑なかかわり・影響によって成り立っている、つまり、特定単一の要因が決定的な影響を及ぼすとは考えにくい、複雑な営みなのではないでしょうか。ライフスタイルの選択、働き方、子育てのしかたはもちろん個人の自由です。が、男女共同参画社会基本法の基本理念の一つ、第6条は、女性も男性も、家庭生活の役割と就労等社会的活動の両方ができるよう社会的条件を整えていくべきことを定めており、そのもとに施策が進められています。


 じつに汚い議論の仕方である。
 「ある調査では」「0歳から5歳までに「異常行動」がみられた割合は、母親が専業主婦である子どもの方が高いという結果が示されています」と言うが、具体的にどういう方法でなされた調査かを明示しない。だから反論のしようがない。たとえば、今では有名になった菅原ますみ氏の調査を指していると想像できるが、「異常行動」の定義も問題だし、調査方法も客観性がなく、でたらめなものである。
 また「別の調査」をもちだして「育児不安や、虐待にもつながりかねない過度なしつけをしている人の割合は、専業主婦の方が高くなっていました」と一方的な結果だけを宣伝するというやり方を取っている。「育児不安や、虐待にもつながりかねない過度なしつけをしている」ということを、どうやって判定したのかという方法論的な批判ができないような命題は、無効であるはがりか、欺瞞であると言わなければならない。
 次から次へと出される「母親の就労は子供の発達に悪影響がない」という調査研究は、すべてと言っていいほどに、方法論的に杜撰かつ欺瞞的なものばかりである。
 現実には、母親が働いていると、母親の精神状態は余裕がなくなり、子供との関係がぎくしゃくするし、家庭生活は「戦争のよう」で潤いがなくなるとは、働いていた多くの女性が告白しているとおりである。母親が家にいないために多くの子供が夜遅くなっても街を徘徊したり、犯罪を犯したり被害者になる確率が高くなる。
 「人間の子育ては多くの要因の複雑なかかわり・影響によって成り立っている、つまり、特定単一の要因が決定的な影響を及ぼすとは考えにくい、複雑な営みなのではないでしょうか」という一般論でごまかすのは犯罪的である。母性の重要性は、他の「多くの」要因とは比べものにならないくらい大きいのである。
 母親の就労は母子関係にとって大きなマイナス要因になりうる。母親がいない場合、子供が犯罪を犯す可能性は、私の概算によれば7倍から10倍である(『フェミニズムの害毒』参照)。母親の就労が子供の発達に悪い影響を与えるということは、いろいろな方面から実証・論証されている。「実証されていない」というのは、無知か怠慢である。(拙著『母性の復権』『母性崩壊』『フェミニズムの害毒』を参照せよ)
 母親の就労が子供に影響しないと無理な取り繕いをするよりも、むしろ家庭育児を支援する体制をもっと強化すれば、子供をめぐる環境もよくなるし同時に少子化対策にもなる。
 家庭育児に対する支援に力を入れている外国は多い。たとえば、ドイツやイギリスやデンマークでは、家庭育児をしている人に対しては直接援助したり、点数として将来の保険料を支払ったことに見なしたりと、いろいろな形で援助している。ノルウェーでも一、二歳児を保育所に預けない場合には月三万円の補助金が支給される。片や日本では家庭育児をする人への援助はゼロに等しい。
 これでは専業主婦は子供を産むなと言っているに等しい政策であり、そういう条件の違いを無視して出生率だけ比較するというのは、きわめて欺瞞的であり、汚い議論の仕方と言わざるをえない。

 4 個人単位思想

・ 批判12 男女共同参画は、夫婦別姓、世帯単位ではなく個人単位の諸制度、離婚における破綻主義、“事実婚”等を導入し、社会の基本単位である家族や家族に関する制度を破壊し、社会的安定・公序良俗・安寧秩序を破壊する「崩しの思想」である。

 回答12「社会を構成しているのはあくまでも個人です。」「家族は……その個人の共生のしくみ」である。その「共生には多様なあり方があり得るはずです。」


 はっきりと個人単位思想に乗っ取っていることを白状している。「家族」とはその「個人」が「共生」するための「仕組み」にすぎない、というのである。
 わけの分からない「共生」を持ち出して、それには「多様なあり方」があるとして、すべて肯定してしまおうというのである。いろいろな家族の形態を、片親家族も、離婚家族も、シングルマザーも、すべて同等・同価値のものとして肯定したいという考えである。
 そこには子供の養育という視点が欠けている。子供を育てる条件として、望ましいものと望ましくないものとがあるという問題は無視される。フェミニストの考え方には、つねに子供という視点が欠如している。だからいかなる「多様な」家族形態もすべて同等に「みんないい」と言えるのである。

 5 性と生殖の自己決定権

・ 批判17 性と生殖に関する女性の自己決定権を認めようというのは、フリーセックスの推進である。

・ 回答17 性と生殖についての女性の自己決定権という考え方は、最終的には、妊娠・出産をその身に担う女性の意思が尊重されなければ、女性の、個人としての尊厳、生命の安全は保障されない、という認識に基づくものです。つまり、妊娠・出産を身に負う人々である女性の人権を守る考え方で、結果的に女性が不利になるフリーセックスの推進とは結びつきようがありません。


 性の自己決定権に対するわれわれの批判に対して、「妊娠・出産をその身に担う女性の意志が尊重される」ということだから「フリーセックスの推進とは結びつきようがありません」と言っている。しかし女性の意志が尊重されるということと、自分一人で決定してよいということとは全く別である。ところが「自己決定権」と言うと、「産む産まないは私が決める」と言われているし、『売る売らないはわたしが決める』という本も出版されているように、多くの人は女性ひとりの独占的な意思決定と理解している。もしそういう理解に反対だというのなら、女性学会は明瞭にそうした考えを批判しなければならない。しかし「尊重される」ということと「選一的な決定権」との違いについて、『論点』は一言も論じていない。
 そもそも「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」と言われる「産む、産まないを決める権利」をめぐる議論は、望まない妊娠や出産をさせられている開発途上国などの虐げられた女性たちをどうするかという問題意識から生まれた。その権利を先進国の、とくに若年女子に与えたら、わがままと乱れが生ずるだけである。
 自分たちの意志決定が重んじられると言われたら、教えられた性知識を悪用する可能性は十分にある。いや可能性ではなくて、若者の実際の意識がすでにそうなっている。たとえば、平成15年1月に警察庁が発表した意識調査によれば、「同年代の女子が見知らぬ人とセックスをすること」を容認する中高生が67.7パーセント、「見知らぬ人とセックスして小遣いをもらうこと」つまり売春を容認する中高生は50.7パーセント。
 セックスのやり方を教え、セックスは気持ちよいものだと教え、あとは本人の自由意思でやりなさいと教えるのが、フェミニストの主張する「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」であり、自己決定権という性教育である。
 女性と生殖に関する性の自己決定権を認めると、次に課題となるのは子供に対する性知識教育である。というのは、自己決定するためには、性交の仕方から、それによって生ずるリスクを回避する知識を教えておかなければならない、と彼女(彼)らは考える。そこで小学校の一年生から、徹底的な性知識を持たせようとする。性器の名前から始まって性交の仕方まで人形を使って教え、避妊の仕方を教えると称して器具を使ってコンドームの装着の練習までさせる。性への羞恥心をなくすためと称して、小学生に「セックス、セックス」と叫ばせるなどという、気違いじみたというか常軌を逸した例も報告されている。
 これらの異常な即物的性知識教育は、すべて子供に対して性に関する自己決定権を与えるべきだという前提から出てきている。しかし自己決定ならなんでもいいというわけではあるまい。正しい健全な自己決定ができるように、性と生殖の人類的意義、異性を尊重することから始めて、異性との関係の作り方のルールを教え、そのあとで必要な知識を教えるというのが物の順序というものである。教育は順番が大切であり、順番を逆にして知識から教えたら、その知識を悪用したり誤用する子供が出てくるのを防ぐことができなくなる。
 健全な意志決定ができるように導くのが正しい性教育であって、即物的な知識を与えるだけで自動的に正しい性行動ができるとは決して言えない。意思が尊重されるというなら、その意思を正しく使えるような適切な教育や啓蒙をいかにするかということも同時に論ずるのでなければ、無責任のそしりを免れないであろう。

 6 議員・管理職の男女比

・ 批判23 フェミニズムは、個人の問題を、男女間の敵対の問題にすり替えている。

・ 回答23 フェミニズムは、性別にかかわらず一人ひとりの個性や可能性が大切にされることこそをめざしており、男性を敵視するなどというものではありません。人を男性と女性に分け、この2群を違って扱ってきたのは(そのような慣行を性別分業といいます)、むしろこれまでの社会の方でした。たとえば、今なお、家事労働の大半は女性によって担われている、一方、就労の場では、日本の女性雇用労働者の平均賃金は男性の半分あまり、管理職の男女比は93:7、国会議員の男女比は9:1、というように、「性別にかかわらずひとり一人の個性」どころか、人が性別によって異なって扱われている現実があります。フェミニズムは、そうした、人を男/女と分けて違う扱いをする社会秩序・社会慣行を問題にしているのです。


 「人を男/女と分けて違う扱いをする」という性別分業を認めない前提から論じられている。しかしわれわれは初めから性別分業は必要だという考えである。ただしその場合、分業の一方が他方より価値が高いという考え方には反対している。
 分業を認めれば、男性が専業主婦の代理人として、社会で働いたり発言するのは当然であり、管理職に男性が多くなったり、議員に男性の比率が多くなるのは当然のことである。
 むしろ問題なのは、議員などの「女性の代弁者」の中に、今まで働く女性の代理人ばかりで、専業主婦の代弁者が少なかったことである。議員の男女比率よりも、女性議員の中に働く女性の代弁者ばかり多かったことをこそ問題にすべきである。
 このごろフェミニストは作戦を変えて、しきりにクオータ制を主張している。機械的に男女比を同等にせよという要求は、男女の分業を否定する思想から出ている、根本的に間違った要求である。
 クオータ制でなくても、すでに日本においても、組織の中に女性を登用して女性に媚びる風潮があり、お飾りのように女性を一人、二人入れることが流行っている。それによって有能な男性が排除されるばかりでなく、無能なくせに地位を得た女性が威張る弊害を生みだしている。
 
 なお、「日本の女性雇用労働者の平均賃金は男性の半分あまり」と、いかにも不当なように言っているが、これも欺瞞的数字である。同一労働で格差があるのは不当であるが、職種も違うすべての労働の賃金を機械的に比較するのは、いかにも不当な差別があるように見せかける汚いやり方である。
 女性は多く小綺麗なデスクワークを好み、秘書・店員・事務員等の軽労働につく。それに対して汗と油にまみれた重労働、警察官や消防士のような命をかけた職種についている男性がより高い給料を得ているのは当然である。また女性は多くパート労働についており、そのために女性の賃金水準が低くなっている。これらの問題を無視して機械的に賃金の男女比較をするのはナンセンスというものである。

 7 少子化対策

 『ブックレット』によれば、フェミニストの言うとおりにしていれば、経済もよくなり少子化も解決し、日本はバラ色の天国になるそうである。たとえば「女性の能力を生かして日本の可能性倍増」という項目の冒頭にはこう書かれている。

 「二十代後半から三十代にかけて、女性の就業率が大幅に下がることが、諸外国(先進欧米諸国・発展途上国)と比較した場合の日本の特徴です。これは結婚・出産・育児のためです。子育てが一段落したあと、女性たちは再び労働市場に戻ってきますが、かつて正規雇用されていた人も、そのときはほとんどが「パート労働者」として働くことになります。
 こうした女性の働き方は、社会にとって大きなマイナスです。なぜなら、教育を受け能力も高い女性たちが、結婚・出産・育児というライフコースをとる限り、その教育や能力を生かした職業につけないということになってしまうからです。」(三四頁)


 子育てを終えた女性が労働市場に戻る場合、パート労働にしかつけないという現状をそのまま肯定した上で、女性は「働き続けよ」という方針を打ち出してきたのがフェミニズムであった。子育てのために一旦仕事をやめるという
ライフコースをとるのは、「社会にとってマイナスだ」という発想には、子供にとってどうなのかという視点が決定的に欠けている。さらに言うなら、「子育てのために一旦仕事をやめる」ということは、そのライフコースを不利にしないような施策をフェミニズムが要求しさえすれば、マイナスにはならない。フェミニストたちがその要求を一貫して無視してきただけである。
 子供を保育所に預けて働き続けるという選択の他に、子育ての三年間は休業できるとか、ワークシェアリングによって夫婦が半日ずつ働くなどという方策を追求すべきであった。
 日本の女性たちのあいだでは、「子供は自分の手で育てたい」という要求が非常に強く、だからこそ子供が帰ってくるときには家にいてやりたいとしてパート労働が増えたのである。この正しい気持ちをくみ取ることができなかったところに、日本のフェミニズムの失敗があった。その反省もしないで、欧米の形態をそのまま輸入すれば少子化も解決すると考えているから、いつまでたっても少子化はストップしないのである。
 『ブックレット』はこう結論している。

 「『これまで』の『男は仕事、女は家庭』という生別分業の家族のあり方は、企業レベルの長期安定雇用と年功制とともに業界レベルの『護送船団』方式を前提として可能になっていました。
 しかし、男性世帯主の収入に家族全員が依存する家族のあり方、それを前提とする社会のあり方では、大胆な挑戦は不可能です。失敗したときのリスクが大きすぎてチャレンジ精神を発揮することができないのです。」(三五頁)


 同じ言い方をすれば、働く女性の人生がバラ色に見えたのは、性別分業と長期安定雇用と年功制のおかげであった。働く女性の先駆者たちは独身や離婚した人が多く、年功序列型賃金を安定してもらえる大学教授や官僚などの恵まれた地位にいた。家族を養える分ぐらいの高給をもらいながら一人で生活していた。だから高級マンションに住んで、おしゃれをして、毎晩お酒を飲んだり美味しいものを食べたり、海外旅行をしたり、宝石を買ったりできた。まさに性別分業と年功制があったから、彼女たちは優雅な生活が送れていたのである。しかし、彼女たちの主張が通って、世の中のすべての夫婦が共働きになれば、賃金水準は二人働いて一人分になるのは経済法則上当然である。また計算上は人口の半分は失業する。
 そうなれば、二人で働いても、今までの一人分の収入しかなくて、しかも家庭生活に余裕がなくなり、子供の心が荒れてくる、おまけに失業率も増えるということで、「言葉では天国、現実は地獄」というスウェーデンのようになるのは目に見えている。
 二人が働いていれば大胆な挑戦ができる、失敗してもリスクが小さいと言うが、二人で働いてやっと一家が食べていかれるという条件になっていることを見逃している。一人働けば一家を養えたときの感覚で考えてはいけない。収入が半分になれば、一家が生活していけなくなるという条件のもとでは、大胆な挑戦をして失敗することが許されないのは同じことなのである。
 だいいち、夫婦の一方だけがチャレンジができて、他方は安全弁の役目を担うというのは、差別ではないのか。
 二人が働いていればバラ色の家族になれるなどというのは、いいくるめ、ごまかし、詐欺のたぐいである。

 8 「働け」イデオロギー

・ 批判25 男女共同参画社会は労働を至上価値とするマルクス主義に基づく「尊い家事労働を担っている専業主婦も含め、みんな働け!」イデオロギーである。

・ 回答25 貴族社会では蔑まれた労働に高い評価を与えたのは近代資本主義であり、マルクス主義の労働観もその延長線上にあるということは広く共有されている認識でしょう。男女共同参画社会はむしろ、労働に至上の価値をおく近・現代の産業社会で軽視されしわ寄せを受けてきた家事・育児・介護など生活に関わる活動の意義を、高く評価し直そうとする社会です。が、それらを特定の人(専業主婦)の役割にするような「慣行」がつづいてよいとは考えないのです。個々の人が、人生のある時期に就労をせずに家事労働に専念するのはもちろん自由です。そういう選択を含めて、女性も男性も、生活にかかわる活動について多様なやり方が認められ、選んでいけるような条件整備をしようというのが男女共同参画社会の理念です。


 「個々の人が、人生のある時期に就労をせずに家事労働に専念するのはもちろん自由です」と言いながら、「家事・育児・介護」を「特定の人(専業主婦)の役割にするような「慣行」がつづいてよいとは考えないのです」と述べている。
 専業主婦という形態は「慣行」なのであろうか。不思議な言葉、いや理解の仕方である。
 専業主婦をやっている人たちは「慣行」としてやっているのであろうか。主体的選択としてやっているのではないのだろうか。専業主婦を「慣行」として捉える精神とは、専業主婦を主体的選択としてやっている女性たちを見くだした、ずいぶんと思い上がった言葉ではないだろうか。
 「女性も男性も、生活にかかわる活動について多様なやり方が認められ、選んでいけるような条件整備をしようというのが男女共同参画社会の理念です」と言うが、専業主婦という生き方を「選んでいけるような条件整備」はまったく考えられてこなかった。専業主婦を一方的に貶め、不利にしようとしてきたのがフェミニズムであった。言行不一致とはこのことである。よくも、いけしゃあしゃあと、こんな嘘が言えたものである。
 「働け」イデオロギーという言葉はそもそも私が言いだした言葉である。その意味は、子供が生まれようが何があろうが、女性が一生「働き続けること」を理想とするイデオロギーだという意味であった。それを歪めて、自分たちはただ「すべての労働が貴重だと主張しているにすぎない」と、批判をすりぬけている。ずるい論法である。

9 「陰謀」「乗っ取る」「全体主義」は言いがかりか

・ 批判26 国の男女共同参画会議や地方自治体の男女共同参画審議会はフェミニストに乗っ取られ、いまやフェミニストは体制派とあいまって、フェミニズムという全体主義をおし進めている。

・ 回答26 回答22で述べたように、フェミニズムは、社会に、性別による不平等や女性に対する差別が存在すると認識し、それらを撤廃しようとする思想や運動で、個人の尊重と平等、公正な社会をめざすヒューマニズムの一種です。全体主義とはまったく相容れないものです。男女共同参画政策は、1980年ころからの、フェミニズムの視点で取り組まれる学問である女性学(近年では男性学も)の発展を背景に、その成果を採り入れながら整備推進されてきました。それは、フェミニズムの視点に基づく女性学(男性学)が、現代の性別に関する問題の解明と解決、人の平等と社会の公正をめざすうえで有効性をもっていたからです。一方、男女共同参画会議議員の半数は大臣ですし、残る半数の有識者も、また、地方自治体の男女共同参画審議会委員も、あくまで人の平等と社会の構成を多様な立場・見識が反映されるように選ばれることになっており、フェミニズムであれ何であれ、特定の思想をもつ人々が意図的
に「乗っ取る」ことができるようなものではありません。「フェミニストのたくらみ」「陰謀」「乗っ取る」「全体主義」などという描き方は、フェミニズムに反感をもつ立場からの、それこそ意図的な言いがかりと考えざるを得ません。


 言っていることとやっていることが、まったく違っているという典型である。
 「フェミニズムはヒューマニズムの一種」で「全体主義とはまったく相容れない」そうだが、やっていることは思想の押しつけ、洗脳、審議会の乗っ取り、監視と、まさに全体主義そこのけであることは、これまで指摘されてきた多くの事実が証明している。
 「多様な立場・見識が反映されるように選ばれることになっており」……。「ことになって」いても、事実はまったく偏った人選がなされ、大部分がフェミニストによって占められていることは周知の事実である。
 「フェミニストのたくらみ」「陰謀」「乗っ取る」「全体主義」などという描き方は、「フェミニズムに反感をもつ立場からの、それこそ意図的な言いがかりと考えざるを得ません」と言うが、決して意図的な言いがかりではなく、事実にのっとった性格づけであり、決して不当なものではない。
 たとえば、かずかずの統計のごまかし、国民に知らせないで秘密会でこそこそと決めるやり方(介護保険法を決めたとき)、埼玉県で明るみに出た、たった三人の監視機関が男女共学を勧告してあわや全県が共学にさせられそうになった例など、枚挙にいとまがないほどである。
 ファシズムやスターリニズムと酷似しているのが、思想統制である。「男女共同参画社会基本法」の第四条には、「固定的役割分担を反映」した「制度や慣行」を「中立化」するように配慮すべきと書いてある。これは事実上、「男は仕事、女は家庭」という分担を否定し、それをよしとする考え方を否定するものである。「中立化する」とは、なくすか無効にせよという意味である。
 私は『家族破壊』の中で、次のように批判した。

 フェミニストたちが「固定的」性別役割分担と言う場合には、「男は仕事、女は家庭」という形態だけが考えられている。「固定的」の代わりに提案されているものは、男女のすることが何もかも半分ずつという安易な悪平等主義であり、「異質なものを同等に評価する」という真の平等からはかけ離れたものである。この条文は、「男は外、女は内」という形態は「男女共同参画社会」ではないと言っているに等しい。つまり専業主婦を社会の一員と認めていないのである。子育ても大切な社会生活の一環であるという観点がまったく欠落している。家庭の意味を完全に無視し、家庭生活を社会生活の一環として認めない重大な悪法としか言いようがない。
 結局、この法律の基礎にあるのは、女性をすべて仕事の場に駆り出し「外に出て働く人間」にしてしまおうという思想、男性に家事や育児をさせようという思想である。「半分こイズム」を法律や政治の力によって強制しようという思想である。これは家庭内のあり方まで法律で強制しようという思想であり、ファッショ的な思想統制である。


 こうした批判に対して答えるのが「回答」の役目である。しかも基本法は各地方自治体に対して、監視機関の設置を義務づけている。これが思想統制でなくて何であろうか。
 しかしこうしたわれわれの批判に対して、女性学会はただ抽象的なタテマエを述べるだけである。批判に対してまともに答えないで、「言いがかり」だとは、片腹痛いと言うべきである。

 以上、女性学会と岩波ブックレットの反論がいかに出鱈目で杜撰なものであるかを明らかにした。
 この程度で「学」を名乗ってきたのかと思うと、あきれてしまう。女性学の現状は学問の水準をひどく下げている。この程度で「学」を名乗るのはやめてほしいものである。「学」の名に値するように、とくに理論的・方法論的水準をもっと上げてもらわないと、学問全体の水準低下につながりかねない。
 女性学の程度がいつまでたっても低いのは、決まった公式が入っていれば仲間うちで評価されるので、他者の目が入りにくく、厳しさに欠けるからである。そしてこの女性学の担い手の大半が女性であることを考えれば、単に女性の大学教授の数を増やせばよいというものではないということも明かであろう。
 仲間うちで「そうだ、そうだ」と言い合っているうちは、党派性だけが発達して、公正と客観性が犠牲になってしまう。もっと他者の批判を謙虚に聞く姿勢が必要だろう。