フェミニズム

 

29 (1) 方法論的思考と読解力の欠如 (「牧波」への反論 )

        (平成18年1月7日初出)

 

 拙著『家族を蔑む人々 ──フェミニズムへの理論的批判』は多くの注目を集め、各方面で取り上げられている。その一方で批判や攻撃もまた多くなってきた。それだけ風当たりが強いということは、この本がフェミニストにとって大きな打撃となっていることをうかがわせる。

 私が本書で指摘したフェミニストに共通の欠陥は次の三点である。

1 方法論的思考ができない。

2 テキストを正確に読むという基本が欠けている。すなわち、相手の言っていることを正しく読んだ上で批判するということができていない。

3 論争において、テクニックにばかり走るので、内容がおろそかになる。

 私がせっかく指摘してやったのに、反省もしないし参考にもしないで、依然としてこの三つの欠陥を合わせ持ったままの論が現れた。「牧波昆布郎」と名乗る者の「レイマー氏を蔑(さげす)む林道義氏」という文章である。

http://d.hatena.ne.jp/makinamikonbu/20051229/1135874031

 この者の論は、本書で私が指摘したフェミニストの三大欠陥を典型的に示していて、格好の教材になるので、ここで取り上げてみようと思う。

 

闇討ちのような匿名批判

 その前に、「匿名批判」について述べておきたい。「牧波昆布郎」という名前は、本名ではないであろう。プロフィールなど、本人を特定できる情報は公開されていない。つまり覆面の刺客のようなものである。

 もし私が傷付いたとしたら、私の権威や信用は落とされる。一つでもミスをするとはやしたてて、バカにする。しかし逆に「匿名」者がどんな大きな間違いを何十回暴露されようが、背後にいる本人は痛くもかゆくもなく、なにくわぬ顔で通常どおりの生活を社会人または学生として続けるわけである。仮名での批判は卑怯な精神を肯定し育てるという意味でも、禁止にすべきである。

 内部告発など、匿名を必要とする事情がある場合を除き、学問的な論争においては、批判をする者は実名で、本人を特定できる情報を公開して行なうようにルールを確立すべきである。

 インターネットの現状では、私のように正々堂々と実名で議論する者は、匿名の批判者に対して常に不利な条件で闘うことを余儀なくされている。

 しかし、こういう「匿名」者と何度か論争してみて分かったことは、「匿名」が必ずしも有利とは言えないということである。匿名者は論争でどんなに負けても、本人はまったく傷付かないので、どうしても緊張感に欠ける。杜撰になり、内容がおろそかになるようである。

 この「牧波」という者も、上で私が指摘した三大欠陥のすべてを露呈している。「匿名」者の油断であろうか、それとも、もともと能力がないせいか。さっそく吟味してみよう。

 

方法論的思考の欠如

 まず、方法論的思考の欠如を示す典型的な例を出してみよう。

 問題になっているのは、男女には(生物学的に)原理的な区別があるかどうか(フェミニストの用語では「セックス」としての男女に原理的区別があるかどうか)という論争点である。

 男女には原理的に区別があるというのが私の主張だが、「中間があるから連続体であり、境界がはっきりしていない、したがって原理的区別はない」と主張しているのが上野千鶴子氏や大沢真理氏等のフェミニストたちである。しかし、「中間と言っても例外的な少数であり、例外があることは境界・切れ目があるということだ」というのが私の主張である。

 それを説明するために示したのが p.62 の図である。これは男女の分布を示した模式図である。両側の円が男性と女性の集団を示しており、中間の細い部分は男女の特徴がはっきりしない人々を示している。

    

 この図に対して、「牧波」は

 ごめん林氏。私にはどうしても「切れ目のない連続体」にしか見えないよ。

と書いている。

 前後の関係をぬきにして、この図だけを見せられたら、「真ん中は細くなっているだけで、続いている図だから、切れ目はないじゃないか」と誰でもが思うだろう。本書を読んでいない人なら

 ごめん林氏。私にはどうしても「切れ目のない連続体」にしか見えないよ。

と書いてあるのを読んで、「ワハハ」と笑って、「林という人間はなにをバカなことを言っているんだろう」「自分で切れ目のない図を作っておいて、切れ目があるとはどういうことなんだ」と思うだろう。「どう見たって、切れ目などないじゃないか」と。これで私は完全にバカにされたことになる。

 じつは私をバカにできるのは、この図を視覚的にのみ見ている者だけである。しかし、この図は視覚的な切れ目を示しているのではない。ある「意味」を示すための模式図である。それをこの者は視覚的な図として読み(読ませ)、「どう見ても切れ目は見えない」と言い、「何を言っているのか理解できない」と笑いものにしているのである。

 私が言っている「切れ目」とは、視覚的な「切れ目」ではない。意味的・質的な「切れ目」である。すなわち、上野・大沢氏らが「中間があるから連続している」と言っているのに対して、その「中間」とは両側の男女とは質的に異なる「例外的な少数者」であり、したがってその存在があるからと言って「続いている」とは言えない、と主張しているのである。この図の細くなっている真ん中は「例外的な少数者」を示している。「中間にあるものが質的に例外的なものならば、そこは連続しているとは言えない、切れている」と私は言っている。つまり「例外的な少数者」が「切れ目」を意味しているのである。そういう意味だということを私はよくよく説明しているので、この者が本当に私の著書をきちんと読んでいるなら、すでに理解しているはずである。すなわち、

 胎児の成長過程が研究されるにつれて、半陰陽が生まれるメカニズムが明らかになり、人間の性別が生まれつきのものだということが明確になった。半陰陽はそのメカニズムが狂った例外的な場合である。科学の発達によって本当に分かってきたことは、同性愛や両性具有は胎児のときのホルモン異常や化学物質等によってもたらされた例外的なものだということである。

 男女の区別がはっきりしない中間があるという事実を、マネーは「スペクトル」と表現し、それを上野氏や大沢氏は「グラデーション」と言い換えただけである。色に喩えれば確かに紫外線と赤外線の中間にはいろいろな色がある。だが男性と女性の中間はそんなに多くの個体があるわけではない。両極に男性と女性の集合があり、中間の集合は例外的なほど数は少ないのである。つまり「例外のない法則はない」のであり、中間という例外があっても、男女の区別が無効になるわけではないのである。(P.33-34)

 「牧波」がこの部分を理解していさえすれば、この模式図を単なる視覚的なものと受け取るはずがないのである。マネー・上野・大沢説のように、男女の混合形態を色や明暗の混合とのアナロジーで論ずるのは間違いである。というのは、色や明暗の中間は両側の混合にすぎないが、男女の混合形態と見える現象は、じつは単に男女の特徴を混ぜ合わせた結果ではなく、男性または女性になる過程で阻害要因が働き、男性または女性になりきれなかった結果だからである。つまり色や明暗の中間形態とは質的に異なるものである。したがって、その存在が両側を「連続させている」とは言えないのである。そのことを私は次のように説明している。

 「連続体」「連続性」と言われると、色のスペクトルのように本当に切れ目なく「連続」しているように思わされる。本当はただ「中間のものが存在している」という意味にすぎないのである。(中略)しかも、その「中間」は遺伝子やホルモンの本来の働きが狂ったり少なくなったりした結果にすぎないのである。男女の原理的区別はたしかに存在しているのである。「中間があるから原理的区別はできない」というのは方法論的に間違いである。(P.62-63)

 私がわざわざ「方法論」という言葉を使っているのは、この図を方法論的に見よ、という意味である。この問題を方法論的に考えよ、と言っているのである。しかし、そのことを理解できない「牧波」は、視覚的に見てしまい、「細くなっているだけで、切れ目など書いてないよ」と、からかっているのである。

 この者、方法論的思考において、たいへん幼稚な頭脳しか持っていないことが分かる。

 

 次にこの者がテキストを客観的に正確に読む能力を著しく欠いていることを多くの具体例をもって示しておこう。

断片的な引用で、逆のことを言っているように見せかけている例

 記憶だと確か林氏は、「文化的性差〔……〕が、〔……〕生得的な性差に基づいていることが明らかとなった。」という証拠に、新井康允氏の1994年の文献を挙げていました。 しかしid:makinamikonbu:20051126にて提示したように、新井康允氏は1999年の時点で「社会的・文化的要因のほうが重視される」と述べています。

 上の私の命題は新井康允氏の1994年の文献に依拠しているが、それより新しい1999年の文献では、新井氏は逆のことを言っている、という意味であろう。これは新井氏の言っていることを自分に都合のいい方向に恣意的に解釈している例である。

 まず最初に明確にしておくが、新井氏は1994年の『ここまで分かった ! 女の脳・男の脳』でも、1996年の『男と女の脳をさぐる』でも、1999年の『脳の性差 男と女の心を探る』でも、基本的にはまったく同じことを述べているということである。最後の本だけが違うことを述べているのでは決してないのである。すなわち、新井氏の研究は、男女の脳は生得的に異なっていること、その性差は単に身体的・生理的な部分に止まらず、行動様式や心理的な部分にまで及んでいることである。私が拙著の中で前二者しか紹介しなかったのは、前二者が読みやすく求めやすいのに対して、1999年の著書がたいへん専門的で詳しい上に、値段もかなり高いので、一般の読者には必要ないと思ったからである。後者が私の論にとって都合が悪いからでは決してない。

 さて、「牧波」は新井氏の「社会的・文化的要因のほうが重視される」という片言隻句を引用して、「文化的性差が、生得的な性差に基づいている」という私の命題に対するアンチテーゼであるかのように見せかけようとしている。

 しかも、知らない人が読むと、新井氏はこの命題について、いろいろと研究したり、論じた上でこう結論したかのように錯覚する可能性がある。しかし、新井氏がその書で述べているのは、脳の「ハードウェア」に関する部分についてであり、つまり「ヒトの脳の構造的な性差」についてである。新井氏の基本的立場は「脳は心のハードウェアであり、このちがいが男らしさ、女らしさ、男の心、女の心に何らかのかたちで投影されている」というものである。つまり「文化的性差は生得的な性差に基づいている」という私の命題と基本的に一致した見方を示している。

 そして、その書では論じていない「人間の性役割の成立」については、「まえがき」の中で一言ふれているにすぎない。すなわち「人間の性役割の成立には、生物学的なものばかりでなく、社会的・文化的要因が加わっており、いわゆるジェンダーの役割を考える場合には、社会的・文化的要因のほうが重視される」と書かれているのである。

 この新井氏の文章は、じつはかなり曖昧である。すなわち、この文章が新井氏自身の意見を表現しているのかどうか、分からない。「重視される」という言い回しは、普通自分が「重視している」というよりは、世間一般で「重視されている」という意味で使われる。もしそうだとすると、新井氏の意見ではなく、「フェミニストなどが重視している」という意味で使われている可能性もある。

 新井氏の意見でないことは、「のほうが」という表現からも推測できる。「生得的要因に比べて」という意味であろうが、どちらの影響が多いか少ないかを断定することは、科学的にはほとんど不可能である。科学者である新井氏が、そんな曖昧な言い方をするとは思えない。「ジェンダーの」という言葉を使っているところからも、これは氏の判断ではなく、「フェミニストなどがそう言っている」という意味ではないか。

 以上のように、この新井氏の発言は、氏の著書の本題ではない問題について、「まえがき」の中で一寸だけコメントしたというものであり、その意味も、もう一つ曖昧な文章なのである。少なくとも、私の「文化的性差が生得的な性差に基づいている」という命題をくつがえす根拠にはならない。新井氏は、「生得的な性差が基にある」という前提の上に立って、その上で「文化的な要因がどの程度関わるか」ということを問題にしているにすぎない。「牧波」は、新井氏の言葉を部分的に引用することによって、いかにも私に対する反証であるかのように見せかけたのである。

 私もジェンダーの成立に対しては社会的・文化的要因「も」大いに重視している。新井氏のこの文章を、私に対する反論として持ち出すのは的外れである。生得的要因と社会的・文化的要因のどちらがより重要かとか、より影響が大きいかは、私の論点に関しては問題ではない。両方がかかわっていること、両者の関係が重要である。だからこそ、私は「適切に社会的・文化的性差を洗練させ、涵養していかなければならない」と主張しているのである。「四 ジェンダーの必要性」「八 日本の性別文化を守ろう」をよく読んでもらいたい。次に批判を出すときには、この部分についても是非言及してもらいたいものだ。

 

 さて「牧波」の文章には、テキストを正確に読む能力がないと、どんな間違いを犯すかという見本が、他にもいくつも見られる。というより、私に対して理論的に間違いだと言っているすべての論点で、じつはこの者の方が間違っているのである。その間違いはほとんどすべて、私の論を読み間違えた結果なのである。この者はテキストを正確に読むという訓練をしたことがないのであろうか。

言っていないのに言ったことにされた例

第一の例

 マネー氏の「心理的・社会的な性別」の仮説を「 双児の症例」だけで完全に破綻させることは不可能です。

 私は「双児の症例」だけでマネーの仮説全体が「完全に破綻」したなどとは一言も言っていない。人の言っていることを正確に読んでから批判すべきである。私は「性の自己認知は生まれつき決まっているのか、それとも育て方によって左右されるのか」という論争に決着がつき、(この点についての)マネー理論は「完全に破綻」したと書いている。

第二の例

 現在ダイアモンド氏は「性の自己認知は生まれつき決まっている」と主張していません。

 ダイアモンド氏が「性の自己認知は生まれつき決まっている」と主張していない根拠としてあげられているのは、氏が東京新聞の取材に対して「人間の性別は生物学的な資質と社会、文化的な力が働きあった混合体。個人において、その混合がどう現れてくるかは、だれも予想できない」と答えたということだけである。これは「自己認知は」ではなく、「人間の性別は」となっている。「自己認知は」と「性別は」では意味が違ってくる。後者なら、それはごく常識的なことを言ったもので、私に対するなんの反論にもなっていない。私も以前から「性別は生物学的な資質と社会、文化的な力による混合体」だと主張している。ただし、両者が反対を向かされると弊害が生じるから、後者は前者に合致させた方がいいと言っているのである。(この点については、次回の「macskaへの反論1」で詳しく論ずる。)

 ダイアモンド氏に関しては、両陣営が自分の味方にしようと綱引きをしている状態であり、いろいろな人が「自分にはこう言った」と勝手に主張している。氏の片言隻句(へんげんせつく)を取り出して、恣意的に利用すべきではない。

第三の例

 レイマー氏の自殺の原因を「実験によるもののみ」と決めつけることはできません。

 私は「実験によるもののみ」と決めつけてはいない。それが最初の決定的で根底的な原因だと言っているのである。この者が引用する「ニューヨークタイムスの記事」には「デイヴィッド・レイマ−氏は仕事を失ったことや離婚したこと、弟のブライアン氏が自殺してしまったことなどに落胆していたようです」と書かれているそうである。自殺の原因としていろいろと並べているが、この者はそれらを「実験」と同じレベルで並列して、「いろいろあります」という結論に導きたいのであろうか。

 この者には、何が根本的か、という観点が欠けている。最も根底にあったことは、理不尽な性転換手術によって心理的に常に混乱させられてきたこと、人生がめちゃくちゃにされてしまったことである。記事が並べていること(失職、離婚、弟の自殺)も、すべてその手術の失敗から出てきたと言える。不当な実験が最初の根底的で主要な原因であることは明白ではないのか。

 

いい加減な誤読で私を「いいかげん」と言っている例

 次は少し長いが、私が「いいかげん」だと言われている箇所なので、全文引用する。本当に私がいい加減なのか、じつはこの者の方がいい加減なのか、判断するための証拠物件のようなものである。

 マネーは一九七二年、論文「双児の症例」を書いて、その実験が成功したと発表した。この症例は「ジェンダーは育て方によって決まる」「男の子でも女の子として育てれば女の子になる」というフェミニズムの教義を実証するものとして、「ジェンダー」理論を補強する役割を果たした。

あれ?はじめの段階で林氏は「ジェンダー」を「文化的性差」と定義していましたよね。 でもここでは「ジェンダー」を「性の自己認知」(ジェンダーアイデンティティ)と定義していますね。いいかげんだなぁ。

ただこの引用箇所からは、林氏が「フェミニズムの教義」を「性の自己認知は育て方によって決まる」と定義していることが理解できます。これはid:makinamikonbu:20051202にて提示したように、現代の「ジェンダーフリー」の概念とは異なっています。ジェンダーフリーは「『女/男とはこういうものだ』という通念を元にした男女の区別」を問題にしており、「性の自己認知は育て方によって決まる」という主張ではありません。もちろん「男の子を女の子として育てて女の子にする」という主張でもありません。

 いい加減なのはどっちだと言いたいような、混乱ぶりである。そもそも私はどこにおいても、

「ジェンダー」を「性の自己認知」(ジェンダーアイデンティティ)と定義して

はいない。もちろん見れば分かるように、この「引用箇所」でも、そんな定義はしていない。また私は

「フェミニズムの教義」を「性の自己認知は育て方によって決まる」と定義して

はいない。私は

「ジェンダーは育て方によって決まる」というフェミニズムの教義

と述べている。私が「ジェンダーは」と言っているのに、どうして「性の自己認知は」に変えてしまうのか。

 どうしてこういうデタラメが言えるのか、不可解である。人の言っていることを勝手に変えておいて「いいかげんだなぁ」と評するのは、犯罪的でさえある。

 正確に言うと、「性の自己認知は育て方によって決まる」という定義は私がしたのではなく、マネーがしたと私が述べているのである。私は、そのマネーの教義がフェミニズムの「ジェンダーは育て方によって決まる」という教義を「補強する役割を果たした」と書いている。この者が言うように、私は「ジェンダー」をあるときは「文化的性差」と定義し、別の箇所では「性の自己認知」(ジェンダーアイデンティティ)と定義した、というような「いいかげん」なことはやっていない。

 また、私はこの部分では「ジェンダーフリー」という言葉は使っていない。この者は「ジェンダーフリーは性の自己認知は育て方によって決まるという主張ではありません」とむきになって言っているが、私はこの部分ではジェンダーフリーについては何も述べていないのである。自分ではこれだけ「いい加減な」ことを言っておいて、相手を「いいかげん」と言えるとは、どういう神経をしているのだろうか。

 

マネーの「ジェンダー」用語について

 この論点と関連して、「牧波」が私の用語の使い方が「間違い」だとしている点にもふれておこう。

それと、ジョン・マネー氏の実験などに関して、「ジェンダー」という言葉を「文化的性差」とするのは間違いです。id:makinamikonbu:20051202にて提示したように、マネー氏の「ジェンダー」概念は「自分自身を男性または女性として認識すること」、「男性または女性としての自己認識を表現しているあらゆることがら」を指します。 マネー氏の「ジェンダー」概念を指す場合は「文化的性差」では無く、「ジェンダーアイデンティティ(性自認)」や「心理的性差」と呼ぶのが適切です。

 マネーの理論からすれば、「性自認」も「心理的性差」も父母や家族を中心とした「社会」の影響で「作られる」。つまり今日のフェミニストの言う「文化的性差」と同様の考え方によっているのであるから、それを「文化的性差」と言い換えるのは間違いでも不適切でもない。私はマネーの用語の意味に従って言い換えているのである。もしマネーが「性自認」も「心理的性差」も生得的なものと捉えているのならば、そういう言い換えは「間違い」だと言える。

 「牧波」は

マネー氏の「ジェンダー」概念は「自分自身を男性または女性として認識すること」、「男性または女性としての自己認識を表現しているあらゆることがら」を指します。

 と言っているが、「男性または女性としての自己認識を表現しているあらゆることがら」とはまさに「文化」ではないのか。マネーの言っていることが「文化」に当たるから、私は「文化」という言葉を使ったまでで、その言い換えは決して「間違い」ではないのである。

 この者は、「この時点で私の主張はボロボロ」だと言っているが、いま見たように、すべて私の主張を歪めているだけで、むしろ「牧波」の方が「ボロボロ」であることが明らかになったと言うべきだろう。人を批判するなら、まず相手を正確に理解してからにするのが、基本中の基本である。この者はその基本がまるでできていないのだから、話にならないのである。

 

「すりかえ」でないのに「摺り替え」だと非難している例

 もう一つ、煩雑になるが、頭が悪いとしか言えない例を挙げておこう。

もし「中間があるから連続がある」と言うのなら、「男らしさ」「女らしさ」にも中間があるから、ジェンダーについても「男でなければ女、女でなければ男、と排他的なニ項対立」だとは言えなくなる。というのも、世の中には「男まさりの女」 「女より女々しい男」もいるし、そのようなジェンダー自認を持った人が現にいるし、世間も「中間」がいることを認識している。したがって「男らしさ」「女らしさ」も両極端として固定されたものではなく、無数の組み合わせによるグラデーションがあるからである。だから上野氏の論法でいけば、ジェンダーもまた連続体だと言わなければならない。しかし上野氏は同じ論法を一方にだけ適用し、他には適用しない。こういういい加減な論理が通用するのがフェミニズムの世界である。

林氏が引用した上野氏の記述は「生物学的な分類は文化的な性差によって規定される」という内容であるのに、林氏はこの段落では「ジェンダー自認」の話に摺り替えています。こういういい加減な論理が通用するのがバックラッシュの世界なんですね。こ ういうのを私は「ドギ屈」と名づけましょう。たとえうっかりしていても誰も騙されないでしょうけど。

林氏はこの段落で「『男まさりの女』『女より女々しい男』もいるから、ジェンダーもまた連続体だと言わなければならない」と言っています。でも、林氏は著書の中で「男らしくない男」や「女らしくない女」を徹底的に叩いていますよね。同じ著書の中ですら論理が矛盾しあっている。まさに「ドギ屈」ですね。

 私が言っていることは、「A」について言われている論理を「B」について当てはめてみるとどうなるかということである。一つのことにだけ使われている上野氏の論理を、別のことにも同様に適用すると、上野氏の矛盾が明らかになると言っているのである。こういう論の進め方は「すりかえ」ではない。論点をすりかえたのではなく、相手の論理を一般化してみせたのである。この例も、「人の言っていることを正確に理解できない」この者の欠陥を示している例である。

 議論の仕方もめちゃくちゃである。私が「男らしくない男」や「女らしくない女」を「徹底的に叩いている」と書いているが、「徹底的に叩く」とは何を意味しているのか、私の記述のどこを指しているのか、著者である私にもまったく分からない。百歩譲って、私が「男らしくない男」や「女らしくない女」を「徹底的に叩いている」として、それがなぜ矛盾なのか私にはまったく分からない。分かるように説明してほしいものである。

 

上野千鶴子氏と「双児の症例」とは関係ないのか

 次に批判の「第二章」では、上野千鶴子氏と「双児の症例」との関係が問題にされている。要するに、両者には関係がないのに、私が無理に結びつけたという批判である。

 「牧波」は、上野千鶴子氏は「差異の政治学では」「双児の症例」には「一切言及していません」と弁護に大わらわである(この者はなぜかジョン・マネーと上野千鶴子氏をむきになって弁護する)。そして、こう言っている。

ただ問題は、林氏が引用した上野氏の記述が「双児の症例」によって証明されたものではない上に、ジョン・マネ−氏が発見したものでもない、という点でしょうか。

 まず、後半の「ジョン・マネ−氏が発見したものでもない」という事実関係について言うと、上野氏が主張している「セックスの連続」の理論はスペクトル理論として『性の署名』の中に出てくる。マネーが初めて言い出した(第一発見者?)かどうかは別として、最もマネ−らしい、マネーの中心的な論点であることは確かである。その理論をマネーが最初に言い出したかどうかは、どうでもよいことである。

 さて、肝心の上野氏と「双児の症例」とはどんな関係にあるかを明らかにしておこう。私は「上野氏の記述が「双児の症例」によって証明されたものだ」とは書いていないが、上野氏の記述が(成功したはずの)「双児の症例」によって証明される関係にあることは確かである。

 上野氏は「マネーとタッカーの業績は」という言い方をしている。その「業績」の中に「双児の症例」は当然含まれているはずである。それどころか、「双児の症例」はマネー理論を(一般人にまで拡張して)実証するものとして、一つの重要な症例として扱われている。それを承知の上で、上野氏は「マネーとタッカーの業績は」「セックスとジェンダーが別物であること」を示した。そして「セックスは境界があいまい」だとしてマネーと同じ「セックス連続論」(ジェンダーは絶対的な二分法)を展開しているのである。

 さらに上野氏は「性転換手術」(もちろんその中には「双児の症例」も含まれる)が示したことは「身体的性別とはまったく独立に性自認が成立すること、そしてそれが臨界期の後も変わりうることであった」と書いている。この文章は、単に半陰陽の人にだけ当てはまることとしてではなく、正常人を含む一般化された命題として言われている。一般化された命題となるためには、正常人を対象にした「双児の症例」の方が「証明」としては一層役に立つ。こういう流れの中では、上野氏の理論が「(成功したはずの)双児の症例によって証明される」という関係にあることは明らかである。上野氏の記述の中に「双児の症例」という言葉が出てこないからと言って、上野理論が「双児の症例」となんの関係もないと弁護することはできないのである。

 大切なところなのでもう少し説明すると、「双児の症例」の手術は、そもそも男女の「セックス」の差は原理的なもので変えられないという理解があれば、絶対になされなかった。生得的・生物学的な特徴とそれに基づく性自認は原理的なものであり、身体的な部分を手術したくらいでは変えることは不可能だという理解があれば、手術によって身体的特徴を変えれば解決するなどということを考えつくはずがないのである。つまり「双児の症例」が存在することの前提として、今日で言う「セックスの連続性」の理論が存在しているのである。また逆に「双児の症例」が成功していたなら、「セックスの連続性」の理論が証明されたことになる。

 このように上野・大沢氏の「グラデーション」理論とまったく同じマネーの「スペクトル」理論と、「双児の症例」とは、切っても切れない関係にあるのである。つまり、「双児の症例」が失敗だったということは、「セックスの連続性」の理論にも重大な反省を迫るはずではないかと私は言っているのである。これだけ説明してもまだ、「上野氏の記述が「双児の症例」によって証明される関係にはない」と言えるのか。少なくとも上野氏の「セックスの連続性」の理論と「双児の症例」とはなんの関係もないとは言えまい。「双児の症例」が失敗だったことによって、上野・大沢理論は重大な打撃を受けているのである。

 

 以上、「牧波」が持ち出しているほとんどすべての論点を検討してみたが、いずれも「ひどい」としか言えないような、滅茶苦茶なものである。フェミニストたちの理論水準の低さを証明するような内容である。仲間内で「そうだ、そうだ」と気炎を上げてチェックもされないでいると、こうした低劣な理解を自信ありげに公表することになるのだろう。

 

論争は「ケンカ」ではない、テクニックでもない、内容だ

 この者は論争に、テクニックで勝とうとしているようである。その作戦の中心として、私が「いいかげん」であると印象づけるという方法を取っている。一つ一つの論点に「いいかげんだなあ」とコメントをつける。その中に私の凡ミスをたくみに折り込む。例えば『ブレンダと呼ばれた少年』の原題と訳本の題名が同じだと思い込んでいた私のミスをついて、他の論点も「いいかげん」に違いないと読者に思わせ、「いいかげん」を連発する。すると読者は他の論点についても、正確な吟味をしないまま、私のことを「いいかげん」だと思い込まされるという仕掛けである。

 確かに私としては珍しく凡ミスをしたものだが、開き直るわけではないが、一冊の中に一つや二つのミスもない本などというものは皆無に近い。とくにこのミスは、拙著の内容にはなんら影響しないミスである。

 ついでにバカバカしいことだが、方法論的には大切なことなので指摘しておくと、私が「欧米のファースト・ネームの語尾は女性にはaがつき、男性には子音がつく」と述べたのは法則を言ったのであり、例外がないはずがないのである。欧米では今でも圧倒的な大多数はこの法則に従っているが、例外があることくらい、私も百も承知している。例外を挙げれば批判になると思っているのは、あさはかと言うべきである。そういうレベルの低い揚げ足取りをしても、私を傷つけることにはならないで、己のバカさ加減を自ら宣伝しているようなものである。(なお、この問題については、『家族を蔑む人々』の p.262-265 の「大多数と例外」の項もよく読んで勉強したまえ。)

 上のミスを除けば、私が「いいかげん」だと言われている理論的問題はすべて、この者の方がいい加減であることは、これまで論証したとおりである。この者と私の論をきちんと付き合わせてみれば、「いい加減」で「ボロボロ」なのは「牧波」の方であることが明瞭になろう。

 こういう「牧波」にとって悲惨な結果になったのも、この者がテクニックで論争に勝とうとしているからである。

 しかも、そのテクニックも幼稚である。例えば、相手の言葉をそのまま投げ返すという「ケンカの仕方」を取っている。すなわち、私の「フェ理屈」に対して「ドギ屈」と言う。「曲学阿世の徒」という私の批判を私に対しても使う。私の「こういういい加減な論理が通用するのがフェミニズムの世界である」に対して「こういういい加減な論理が通用するのがバックラッシュの世界なんですね」と返す。そもそもこの批判の題名「レイマー氏を蔑(さげす)む林道義氏」も「家族を蔑(さげす)む人々」を言い換えたものである。こういう「相手の言ったことを投げ返す」という「ケンカの仕方」は、負けん気だけは強いくせに実力や自信のない人間がよく使う方法である。

 そもそもこうした「ケンカのテクニック」を使うこと自体、遥洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(筑摩書房、2000年)の発想と同じであり、論争を「ケンカ」と捉えている証拠である。論争を内容でなく、テクニックでやる、それもあまり上品とは言えないテクニックでやる、という人間であることを示している。フェミニストたちは論争をテクニックで騙すことと心得ているようである。だからごまかしの世論調査や統計を多用することにもなるのだ。

 論争はテクニックではない。内容である。いくらテクニックを駆使しても、正しい内容には勝てないのである。内容で勝てない者がテクニックで勝とうとする。そう言われたくなかったら、堂々と内容で勝負したまえ。

 

主要な論点はこれだ

 私への批判をしたかったら、最も重要な論点に対して堂々と理論的に批判をしてきたまえ。参考までに教えておくと、本書の内容のうち、最も重要な論点は以下の命題で示される。

1 社会的・文化的性差は生得的な性差を基に形成される。後者を基にし、それにそって前者を洗練させていくことが大切である。したがって「ジェンダー」と言われているものの中にも貴重な文化的伝統があり、一概に否定するのではなく、取捨選択した上で、文化として大切にしていかなければならない。とくに「男性文化」「女性文化」への分化は最も発展した文化の型を示している。

2 男女共同参画社会基本法は悪法であるから、破棄した上で新たに作り直すか、または抜本的な改正が必要である。

3 内閣府男女共同参画局や朝日新聞等のマスメディアの統計調査は捏造・ごまかしが多い。

4 男性学・女性学を名乗るフェミニストは汚いレトリックを使い、また方法論的に幼稚な論理を使っている。とくに方法論的な間違いが目立つ。

 これらの主要な内容に対して批判できなければ、私を批判したことにはならない。本書だけでなく、今までの私の関連書などもきちんと研究してから、言葉尻をつかまえるのではなく、主要な内容に対する本格的な批判ができるものか、見てみたいものである。論点によっては今までの拙著も参考にしてほしいものである。例えば『主婦の復権』(講談社・含む上野千鶴子批判)、『フェミニズムの害毒』(草思社・とくに家族と母性)、『母性崩壊』(PHP研究所)、『家族破壊』(徳間書店・含む基本法への批判)、『家族の復権』(中公新書・含む夫婦別姓批判)などである。これらはすべてフェミニズム批判の書である。

 これから出すという「つづき」で、私の主要な論点をどう批判するのか、できるのか、見ものである。

 なお、この者は「macska」なる者の「生物学的基盤論を唱えながらジェンダーフリー教育の弊害を叫ぶ矛盾」を推賞している。私の「根本的矛盾」を明らかにしているのだそうである。次回はそれを取り上げて、「矛盾」と思えるのは、この者らの思考に方法論的欠陥があるせいだということを明らかにする。

 

        (平成18年1月19日加筆)

 牧波が反論を出したが、私の言っていることを、そのまま言い返すという芸のないスタイルを取っている。自分独自のスタイルを取れないとは、よほど独創性がないか、能力がないのだろう。このようなものは、反論とはみなせない。また内容的にも反論の必要を認めない。ただ、上で述べたことを、もう一度引用しておく。

こういう「相手の言ったことを投げ返す」という「ケンカの仕方」は、負けん気だけは強いくせに実力や自信のない人間がよく使う方法である。

 

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