フェミニズム

 

29 (2-1)「生物学的根拠説」に立ちながら「ジェンダーフリー教育の弊害」を言うのは「矛盾」か ( macska への反論 1-1)

        (平成18年1月15日初出)

 拙著『家族を蔑む人々』(PHP研究所)の第一章で「ジェンダー」概念の徹底的批判を試みたが、一般読者が対象なので、フェミニストの言っている屁理屈、ごまかし論理をすべて網羅して批判できなかった。そこで「補遺」として、ここでフェミニストのフェ理屈を取り上げて批判しておきたい。

 

「生得的性差」と「社会的・文化的性差」の関係をどう理解するかが問題

 フェミニストの「ジェンダー」概念の最大の間違いは「セックス」=「生物学的性差」と「ジェンダー」=「社会的・文化的性差」をまったく別物と理解しているところである(人によってはセックスがジェンダーによって規定されると考えている。いずれにしてもジェンダーは独立変数である)。そのことを例えば、上野千鶴子氏は「セックスとジェンダーは端的にべつのものである」「セックスとジェンダーは連続しているのではなく、切断されている」とか「身体的性別とはまったく独立に性自認が成立する」と表現している(『差異の政治学』)。

 私は「生得的性差」と「社会的・文化的性差」とは関連しており、前者を基にして後者が発達すると捉えている。すなわち「社会的・文化的性差」は独立変数ではなく、「生得的性差」によって規定され、それを際立たせ洗練させたもの(中には差別を含むようになったものもある)が「社会的・文化的性差」であると理解している。

 そもそも「生まれつきの性差」と「文化的な性差」をはっきりと分けることは不可能である。「文化的にのみ作られた性差」と思われてきたものも、じつは「生まれつきの性差」を基にしていることは、今日脳科学の発達によって科学的に証明されている。つまり男女は、単なる身体的な違いだけではなく、脳の構造そのものが異なっていることが分かっている。その結果、身体や生理といった生物学的な違い以外にも、男女の心理的な違いや感覚的な好みの違い、またそれらに基づく行動様式の違い、そして「男らしさ・女らしさ」といった「文化的な性差」と考えられてきたものも、「生まれつきの性差」を基盤にして発達しているのである。要するに、「生得的な性差」と「文化的な性差」は分ち難く結びついているのである。

 ところが、こうした捉え方を「矛盾」であると批判しているのが「macska」なる者の「生物学基盤論を唱えながらジェンダーフリー教育の弊害を叫ぶ矛盾」という論考である。その論考のURLはhttp://macska.org/index.php?p=93。これはフェ理屈の典型であり、方法論的思考の欠如を示しているが、一部では「バックラッシュ批判の模範」であるかのように持ち上げる傾向も見られるので、それがいかに低劣なものであるかを明らかにしておく必要がある。

 その批判の要点は、私が「性差が生まれつきだ」と言いながら、「育て方によって弊害が生じる」(性同一性障害になる)と言っているのは矛盾だというのである。「性差が生まれつき」なら、どんなにジェンダーフリー教育をしようが、関係ないはずではないか(ジェンダーフリー教育の弊害など生ずるはずがない)、というのが、この者の主張なのである。一言で言えば、「生物学的根拠説」に立ちながら、「教育によっても左右される」と言うのは、「矛盾」だと言っているのである。

 

誤読には必然的な原因がある

 私の理論が「矛盾」だという理由をこの者は次のように論じ ている。

 もし男らしさ・女らしさといった男女の社会的特徴が生まれつきほぼ決定されているならば、わざわざ区別を教えずとも(極端に反対方向の洗脳教育でも行わない限り)自然と学ぶはず。名簿が混合であろうがどうであろうが、その程度で生物学的に強く方向付けられた差異が無くなってしまったり、性自認が反対の性同一性障害になったりするわけがない。ジェンダーが生まれつきだという主張は、その前の育て方次第によっては性自認が逆になるという主張と明らかに矛盾している。育て方次第で性同一性障害になるのであれば、それは生物学的な「基礎」があやふやな物であるということになるはずではないか。

 鬼の首でも取ったように、私の「矛盾」をあげつらったつもりになって得々としているが、自分がいかにいい加減であるかを白状しているようなものである。この短い文章の中に、大きな間違いが四つもある。というより、私が言っていないのに言ったことにしている例が四つもあるのだから驚かされる。その歪曲を基に、私が矛盾を犯していると言っているにすぎないのである。

 第一の間違い。(混合名簿くらいで)「生物学的に強く方向付けられた差異がなくなってしまったりするわけがない」。私はそんなことは一言も言っていない。

 第二の間違い。同様に私は「性自認が反対の性同一性障害になったりする」などということも、もちろん一言も言っていない。

 第三の間違い。また「育て方次第によっては性自認が逆になる」とも言っていない。

 第四の間違い。また「ジェンダーが生まれつきだという主張」もしていない。

 本人の私が言うのだから間違いないが、私はどこでもこんな馬鹿げたことは言っていない。「言った」と主張したいなら、 macska は、それに当たる箇所を明確に指摘し、私の文章から正確に引用してみせたまえ。

 これらの間違いは、単に頭が悪いからとか、人の書いていることを正確に読み取る能力が不足しているから起きたというような、単純なものではないだろう。それなりの原因があって起きたと思われる。その原因とは、結論を先に言うと、次の三つである。

1 「性同一性障害」についての理解の混乱。

2 生得的な部分と文化・教育・学習との関係が分かっていない(方法論についての無理解)。

3 相手を劣等なものと思い込みたい心理。

 以下、それぞれについて詳しく検討してみよう。

 

「性同一性障害」の理解が混乱している

 第二と第三の誤読は、「性同一性障害」についての間違った(あるいは不明瞭な)理解と関係がある。第一の誤読もそれを基にして起きている。

 この者は「性同一性障害」とは「性自認」が逆転することだと思い込んでいるようである。だから私が「性同一性障害」になる危険があると言うと、「育て方次第によっては性自認が逆になる」という主張だと思い込み、(性別が生得的なら)「そんなことがあるはずがない」と言って批判できたつもりになっているのである。

 第二と第三の誤読が可能になるためには、次の二つの条件が必要である。すなわち、この者は

a 「性同一性障害」と言えば「先天的性同一性障害」のことだと思い込んでいる。

b 「性同一性障害」とは「性自認が(身体の特徴と)逆になっているもの」と思い込んでいる。

 この二つの前提がある場合にのみ、私が「性同一性障害になる危険がある」と言ったのに対して、「性自認が反対の性同一性障害になったりするわけがない」とか「育て方次第によっては性自認が逆になる」はずがない、という反応が出てくる。

 この者はどうやら「先天的性同一性障害」と「心理的(後天的)性同一性障害」の区別もできていないらしい。というより「心理的(後天的)性同一性障害」について知らないのではないか。両者の区別を簡単に説明しておこう。

 「先天的性同一性障害」とは、生まれながらにして身体的な性別と脳による性自認が一致していないケースである。身体的特徴と逆の性自認になっている場合が多い。このケースについては、障害者本人たちも、また世間でも、ほとんどが身体的特徴と性自認が逆になっているものだと思っているが、それは正確ではない。そういうケースは本人たちにとっても明白であり、自己申告しやすいから、目立つだけである。しかし、先天的な場合がすべて逆になるわけではなく、どっちつかずの中間的な性自認もある。この場合、先天的なものか、後天的・心理的なものかの判定は容易ではない。このように、性同一性障害が「性自認が反対になっている」ものだと決めつけることは間違いである。

 「心理的(後天的)性同一性障害」とは、生得的な性差を否定されたり、あるいはそれと反対の性の特徴を持つように圧力がかけられて育つと、性自認に混乱が生ずるものであり、必ずしも反対の性自認が生ずるわけではない。むしろ、自分は男か女か分からなくなって悩んでいるケースが多い。

 先天的でかつ「逆の性自認」であることがはっきりしている場合は、対応は可能であり、最近では性自認に合わせて性転換手術をするという方法が社会的法律的にも認められるようになりつつある。しかしとくに心理的性同一性障害はむしろ性自認がはっきりしないことに悩みを持つことが多いのである。

 (もちろん先天的と後天的の違いは概念的・理念型的なものであり、実際にはこのように截然と区別できない場合が多い。)

 この違いをよく理解していれば、ジェンダーフリー教育によって「先天的性同一性障害」になるはずがないので、私が「性同一性障害になる危険がある」と言っているのは、「心理的性同一性障害」の意味だということは、簡単に理解できるはずである。

 ただし、それが分かるのは、「先天的性同一性障害」の他に「心理的性同一性障害」というものがあるということを知っている人だけである。この者は恐らくそのことを知っていなかったのではないか。だから「性同一性障害」という言葉を見ただけで「先天的性同一性障害」のことだと早合点してしまい、さらに単純に「性自認が反対になるもの」だと思い込み、「性自認が反対の性同一性障害になったりするわけがない」と早とちりするはめになったのではないか。

 「育て方次第で性同一性障害になるのであれば、それは生物学的な「基礎」があやふやな物であるということになるはずではないか」という言い方は、「性同一性障害」を頭から「生物学的な基礎」に基づくものと決めてかかっていることを、つまりは「先天的な性同一性障害」のことだと決めてかかっていることを示している。

 しかし、ジェンダーフリー教育の危険との関係で私が「性同一性障害」と言う場合には、心理的な「性同一性障害」の方だということは、

教育 9 警告・ジェンダーフリー教育の害毒

の註3でも明確にしている。

 しかしここで問題にしているのは、後者の心理的な原因から生じる性同一性障害である。これはたとえば女児がマイナスのマザーコンプレックスを持っているなどのために、女性に同一化できないで男性に同一化したいと思ってしまう場合である。

 もちろんコンプレックスのためばかりでなく、無理な教育によって自分の性に同一化できなくなった場合にも、同じ障害が現われる危険がある。

 この者の読み違いが、一つには、じつに簡単なことの無知から来ていることが明らかになった。

 

生得的な部分と文化・教育・学習との関係が分かっていない

 しかし、この者の間違いは単なる読み間違いではなく、じつはもっと根の深い欠陥がひそんでいるのである。

 この者は "性差が生まれつきならば、育て方による差は生じないはず" または "どんな間違った教育をしても微動だにしないはず" (「名簿が混合であろうがどうであろうが、その程度で生物学的に強く方向付けられた差異が無くなってしまったり、性自認が反対の性同一性障害になったりするわけがない」)、つまり "教育は必要ない" (「わざわざ区別を教えずとも自然と学ぶはず」)、と理解している。要するに、生得的な部分と教育される部分とはなんの関係もなく、別々に存在していると考えている。ここが根本的に間違っているのである。

 ちょうど「ある行動が本能行動だというのならば、学習は必要ない」と言うのと原理的に同じ考え方である。「本能」についてはさんざん述べてきたが(『主婦の復権』『母性の復権』『母性崩壊』など)、念のため復習しておこう。人間の本能行動は、何も教わらなくても自動的に出てくる昆虫の本能行動とは違って、「学習する」ということも含んでプログラミングされている。「学習が本能行動の一環に組み込まれている」と言ってもいい。

 例えば「母性本能」の場合には、子供の抱き方、乳の飲ませ方、世話の仕方など、身近な育児を見たり手伝ったりしながら、覚えていく。本能行動といえども、何も教わらなくても自動的に出てくるというものではないのである。また、いくつものスイッチが入れられて行く必要があり(リリーサー=解発因子)、陣痛の痛みに耐えて我が子を産んだという満足感、子供の笑顔、乳を吸われる刺激、等が脳に伝わって母性本能を引き出すのである。逆に、ストレスなどの阻害要因によって母性本能が出て来なくなることもある。母性本能を司る遺伝子も発見されており、この遺伝子はいくつものリリーサーによって働き出すのである。

 さて、一般的に言って、生得的な部分は具体的な内容のない抽象的な型やパターン、または基本的な性向・傾向だけであり、細部の具体的行動は文化によって象られる。母性を例に取れば、可愛いという感情、世話をしたいという感情は生得的だが、どういう方法で可愛がるかは周囲の人々から学びとるのである。

 同じことは「性差」についても言える。例えば、「男らしさ」の基になる基本的性向、積極性や攻撃性や行動性という傾向は生まれつきだが、それがどのような具体的性質を持つかは育てられ方(一般的には文化)によって分かれてくる。例えば「男らしさ」の一つの要素である「強さ」も、育て方によって、野蛮で残酷な「強さ」になるか、洗練された精神的な「強さ」になるかに分かれるのである。

 こういう簡単なことが分かっていないと、「性差は生まれつき」ということと「性差は育て方や教育によって際立ったり洗練されてくる」「具体的に彫琢されていく」ということとが「矛盾」に思えてしまうのである。「矛盾」に思えるのは、思考様式が単純な二分法だからにすぎない。「生得的」な事柄については「教育」や「学習」は必要ない(あるいは両者は無関係または対立的関係である)かのように思い込んでいるのが間違いなのである。

 この点については、『家族を蔑む人々』第一章の「四 ジェンダーの必要性」「八 日本の性別文化を守ろう」をよく読んで勉強したまえ。「生まれつきの性差をベースにして、文化的性差が発達する」という命題を理解しやすくする例として、私の友人は次のような例を示してくれた。なかなかうまい例である。

 日本の自然 → 日本で手に入る食材 → 日本料理

 フランスの自然 → フランスで手に入る食材 → フランス料理

 「日本の自然」と「 日本料理」とは関係はない(別ものである)、なぜなら「 日本料理」は「文化的に作られたものだから」、などということを本気で言う人はまさかおるまい。

 

言ってもいないことを言ったことにする詐術

 次に、この者は、私の「矛盾」が私の「亜流ユング主義」から来ていると言っている。私が「ユング的な思い込み」を前提にしているので、支離滅裂になっているのだそうである。

  林氏のこうした矛盾は、彼が亜流ユング主義者であることを考えに入れれば理解できるようになる。すなわち、彼には「男とはこうあるべき、女とはこうあるべき」という政治的な立場があり、その立場の正しさは「そうでない男女は精神的に不安定になり心理的な問題を抱えるから」というユング的な思い込みによって補強されている。そういった思い込みを無言の前提として、彼は男女がその「本来あるべき正しい姿」に成長するよう導くことこそを教育に求めているのだけれど、前提であるところのユング主義(の、林氏オリジナルの解釈)を共有していない読者から見ると、無根拠に政治的な立場を押し付けているように見える。あとから取って付けたかのように「科学的にこれは証明されている」と言い出すのは、そうした付け加えでもしなければ自分の議論全体が無根拠であることを林氏は自覚しているのかもしれないけれど、残念ながらより支離滅裂な印象を与える。どうせなら、「ジェンダーは社会的に構築される」という立場に完全に立った上で、伝統文化としてのジェンダー保存を唱えた方がマシだったかも知れない。

 林氏が「男らしさ」「女らしさ」を守るべきだとする理由が彼なりのユング解釈に基づくものであるのであれば、それを明らかにした上で、それらがどうして「正しい」のか彼の解釈を共有しない人にも通じるようにきちんと主張するべきだと思う。そうすれば、彼の主張も多少は説得力を増すかもしれない。

 私の考えを思いっきり歪めてくれたものである。相手の内容を歪曲して批判するやり方は最も卑怯な論法である。私には「男とはこうあるべき、女とはこうあるべき」という「政治的な立場」があると勝手に決めつけた上で、「その立場の正しさ」は「そうでない男女は精神的に不安定になり心理的な問題を抱えるから」という「ユング的な思い込みによって補強されている」ことにされてしまった。

 しかし、これは間違いである。私は「男とはこうあるべき、女とはこうあるべき」という「政治的」主張はしていない。どうして「べき」という言葉を勝手にデッチ上げるのか、理解に苦しむとしか言えない。ましてや、「べき」という基準からはずれる男女が「精神的に不安定になり心理的な問題を抱える」などとは私は一言も言っていない。また、そんなユング解釈をどこでもしていない。他人の考えを勝手に妄想しないでほしいものである。

 私はただ「男らしさ」「女らしさ」といった性差には生得的な基礎があり、それを文化的に際立たせ洗練させるのが望ましいと言っているのである。「林道義は男とはこうあるべき、女とはこうあるべきと考えている人間だ」と嘘の宣伝をすることこそがまさに「政治的」と言えるのではないか。

 また「生まれつきの特徴」と反対のことを強制されると「男女は精神的に不安定になり心理的な問題を抱える」傾向にあるというのは、なにも(亜流であれ一流であれ)ユング心理学に限った見方ではなく、たいていの心理学者や心理療法家が認める常識と言えるほどの真理である。

 

この場合ユングは関係ない

 ついでに述べておくが、この者は私を「亜流ユング主義者」と呼んでいる。ユング心理学の世界、そして私のユング研究をどれだけ知った上で言っているのか。私は誰の亜流でもない。根拠も示さず人の研究を亜流呼ばわりするとは無礼極まりない。

 この者は、私のジェンダーに関する理論がユング心理学を前提にしているはずと思い込み、私の説を勝手に捏造した上で、「林氏が「男らしさ」「女らしさ」を守るべきだとする理由が彼なりのユング解釈に基づくものであるのであれば、それを明らかに」せよと言っている。だが、これまで私はジェンダーの問題をユングと関係づけたことは一度もない。ユングと関係あるだろうという想像や当て推量で物を言うべきではない。このことは、この者がいかに杜撰な議論をする者であるかを示している。

 ユング心理学はこの問題とは直接関係ないので、ここで私のユング解釈については説明しない。私のユング理解について知りたい人は、拙著のうちPHP新書の「ユング心理学入門シリーズ」三冊と、『ユング思想の真髄』(朝日新聞社)を読んでもらいたい。さらに私の編集執筆の雑誌『ユング研究』全10巻には、私のユング解釈がより鮮明に表明されている。相手のことをよく知りもしないで「亜流ユング心理学者」などとレッテル貼りをしたり、私のユング理解について一知半解でいい加減なことを言うのは、恥を天下にさらしているようなものである。

 

相手を劣等視したい心理

 この者は私の書いたことを読み間違えたり、私が書いてもいないことを書いたことにしたり、ユングとは関係のないことを関係あるように思い込んだり、私のユング解釈について一知半解でいい加減なことをいったりと、どこをとっても滅茶苦茶である。それらはすべて私を劣等視する方向で間違えている所が特徴的である。

 これは単にこの者がテキストを正確に読む能力が不足しているだけでなく、一定の心理的な動機に導かれていることを示している。つまり私を劣等視したい心理である。相手がバカなことを言っていると思い込みたい願望が強いのであろう。その願望にそって相手を見てしまう。

 私の主張が「ジェンダーフリー教育ぐらいで性自認が反対の性同一性障害になったりする」というものだと誤解したとしても、「待てよ、いくらなんでも、そんなバカなことを言うかな」と、もう一度読み返してみるのが普通だろう。しかし相手をバカだと思い込みたい心理的動機が強すぎると、「しめた、バカなことを言っている ! 」と飛びついてしまい、冷静な判断力が失われてしまったのであろう。結局は恥をさらす結果になってしまった。

 

方法論的思考の欠如

 最後に、この者は次のように結論している。

 どうせなら、「ジェンダーは社会的に構築される」という立場に完全に立った上で、伝統文化としてのジェンダー保存を唱えた方がマシだったかも知れない。

 この者のように単線的な思考しかできない人間にとっては、「生得説」か「社会構築説」のどちらかに立ってもらわないと、混乱して「目眩」を起こしたり、支離滅裂に思えてしまうのであろう。

 しかし、性差というものは、生得的な基礎を持ちながら、育て方によっても影響を受けるのである。ただし、生まれつきの性向に沿って教育し洗練させていくことが大切であり、それに反する育て方をすれば、問題が生じる、というのが私の主張である。こんな、ごく当たり前の主張が理解できないで、「矛盾」と誤認するのは、真の論理的な思考ができない人間の特徴である。見当はずれの批判をする前に、もう少し論理的・方法論的に考えることができるように、学問的訓練をきちんとしてから出直してきたまえ。

 (次回は「双子の症例」(ブレンダ事例)とジェンダー概念の関係について論ずる。)

Back to Top Page

 

s