フェミニズム批判

 

1 なぜフェミニズムを批判するのか

 

 私がフェミニズムを厳しく批判する動機については、私のフェミニズム批判の4著書の至るところに書いているにもかかわらず、なんとか個人的な動機に過小評価したがる人々がいる。

 たとえば「フェミニズムへのルサンチマンでもあるのか?」とか、「フェミニズムからトラウマ(心的外傷)でも受けたのか?」と言われる。

 これらの質問は、私が私憤でフェミニズムを攻撃しているという前提に基づいている。

 私憤・公憤という言葉を使うなら、私のフェミニズム批判はほとんど百パーセント公憤から出たものである。

 私はフェミニストたちとは個人的にはまったく付き合いもなければ、論争をしたこともない。ましてや直接攻撃されたことはなかった。トラウマやルサンチマンは皆無と言っていい。

 人の発言の動機をまずもって個人的動機から考えるのは、自分の発想に似せて他人の動機を推測するという誤りを犯している。

 では、なぜ私はかくも激しくフェミニズムを批判するかというと、『主婦の復権』の最初に書いたとおり、妻を含めて専業主婦の訴えを聞いたことが最初の動機である。

 その後、前々から気づいていた子どもたちの母性欠如の病理の背後にフェミニズムがあると気づいたのが、第二の動機である。私は心理療法の実践の中で、子どもたちへのフェミニズムの悪影響を肌で感じているのである。私は弱い者いじめが大嫌いであり、反論する手だてがない専業主婦たちがいわれなく攻撃されたり、絶対的に弱い立場にいる子どもたちが被害者にされているのを許せないだけである。

 私が個々の人たちの癒しを援助していて、いつも痛切に感じてきたのは、個々の対症療法では限界がある、それらが発生する根源を絶つのでなければ駄目だという思いであった。元凶は父性不足、母性不足、家庭崩壊である。そしてその欠如を助長している元凶の大なるものとして私はフェミニズムを批判しているのである。

 そうした私の批判に対して、「フェミニズムというものは少数派としてならいた方がいい」程度の認識しか持っていない者もいる。そういう者は、昔自分もフェミニストと論戦したなどと、いかにも先輩顔で「そうむきになってやらなくてもいいじやないか」とか「まだやっているのか」と言わんばかりの調子である。

 じつは彼らがフェミニストとの論戦に負けて(あるいは辟易して?)ひっこんでいた間に、フェミニズムをめぐる現実は大きな変化をとげているのである。

 すなわちフェミニズムは今や多数派であり、体制派である。彼女らはあらゆる地方自治体と官庁に入りこみ、ジャーナリズムの多くの部署を占領して、いわば権力とマスコミを握っている権力者である。最近のフェミニストたちの戦略は、法律を制定し、また政治に打って出るという形で、完全に政治化し、権力を狙っているのである。(その点については「6 フェミニズムの陰謀」の「(1) 男女共同参画社会基本法」の項と、「(2) 介護保険法」の項参照)。単なる少数派の思想運動ではないのだ。この現実を見据えて私は言論を展開しているのであり、この現実が見えていない者に偉そうに批評してほしくないものだ。

 フェミニストを名乗っていなくても、その思想・行動がフェミニズムだという者も無数にいる。フェミニズムが少数派だなどという認識は、それこそ現実認識が80年代でストップしていると言わざるをえない。

 田中喜美子氏との論争についても、議論が「何行多いか少ないか」という「小さい問題」になっているとか、「人格攻撃の泥沼になっている」と批評する者もいるが、それは「矮小化批判」「劣等化批判」というものである。いかにも論争当事者の人物が小さいかのように見せようという意図が見え見えである。

 論争の当事者が「何行多いかどうかを争っている」というのは、不正確というより、すりかえである。問題になっているのは、平気で約束を破る人格、また他人を嘘で中傷する人格である。「何行」というのは題材であり、題材が小さいからと言って、問題になっていることまで小さいと言うのは、不当な矮小化である。

 嘘で中傷する人間を「人格下劣」と反論するのは当然の権利である。両方が相手を人格下劣と言い合うのを日本語ではよく「泥沼」と表現するが、それは水掛け論になって、どちらの言うことが真実か見分けがつかなくなった場合のことである。私と田中喜美子氏の論争では、嘘を言っている方は明瞭であり、「泥沼」というのは不当な性格づけである。

 もし人格攻撃をし合うのを「泥沼論争」と呼ぶのであれば、必ず最初に汚い批判を始めた犯人がいるからであり、それを明らかにすべきである。

 私が主張していることは、フェミニストと論争すると、必ず汚い反論に合うということである。その典型が田中喜美子氏との論争であった。その論争の意味についても、あとで再論する。

 とりあえず、これまで発表したものから掲載していく。

 「2 専業主婦の歴史的意義」は『婦人公論』に「専業主婦救国論・『青い鳥コンプレックス』への警鐘」として発表したものであり、『主婦の復権』(講談社)の要約のようなものである。

 「4 フェミニズムの変質」は、フェミニズムの誤りを概観しているので、フェミニズム問題を考える人には便利であろう。

 「6 フェミニズムの陰謀」シリーズは、『フェミニズムの害毒』がフェミニズム自身の主張(理論)の不当性を告発したのに対して、より客観的にフェミニズムの社会運動的・政治的意図を暴露するものである。

 「7 林−田中論争」は、『フェミニズムの害毒』に収録した論争のあとで、しばらく時をおいて、より客観的に論争の意味を総括したものである。