フェミニズム批判

 

3 フェミニズムの変質
    『フェミニズムの害毒』(草思社)の序章

 

 フェミニズムは女性の味方ではなくなった。フェミニズムは真の男女平等を目指すものではなくなり、歪んだものへと狭隘化し、硬直化してしまった。フェミニズムは男女が平等に協力し合える関係を築くのを妨害する働きさえしている。

 私は女性の味方である。というより、男女が愛情によって結ばれ、平等に協力し合える関係をつねにもとめてきた。

 家庭にあっては40年間、妻とともに愛情によって対等に結ばれた家庭を築いてきたし、職場にあっては30年間、女子教育を通じて女性の地位の向上に努めてきた。卒業後の教え子たちが、女性として少しでも幸せになってほしいとつねに願い、アドバイスをしながら見守ってきた。

 そういう立場から昨今の世相を見るに、フェミニズムが女性を、いや女性だけではなく男性をも子どもをも、少しも幸せにはしていないと言わざるをえない現象に出会うことが多くなっている。

 フェミニズムの影響を受けた女性たちのあいだでは、「男なんて利用すればいいのよ」「だまして使えばいいのよ」となかば公然と話されていたり、実際にもそういう手段によって地位を得たり、活躍できたりするのを自慢にする風潮さえ見られる。そういう女性たちのあいだでは、フェアな競争という観点はとっくの昔に失われている。

 

愛情を敵視するフェミニズム

 私がフェミニズムに根本的な疑問をもつようになったのは、妻からこんな話を聞いたときからである。もう十年も前のことだが、ある女性たちの研究会に出かけていった妻は、そこで不愉快な経験をしたという。会が終わって、仲間たちから食事に誘われたが、彼女は「夫が待っているから」と断った。すると仲間たちの何人かから「あなたは自立していないのねえ」と嫌みを言われたそうである。「夫のために早く帰る妻は自立していない」という公式を当然のように信じている女性たちがいるということを、妻は身をもって体験したのであった。

 妻は夫の世話をいやいややっているのではない。私の口から言うのは気がひけるが、言わないとわからない人びとがいるからあえて言うと、妻は主婦の仕事に価値を見いだし、愛情から進んで家事や育児をやってくれている。しかし家事をやるのは強制されているからだとか、良妻賢母という観念に「縛られている」からだと考えている女性たちが、いまやなんと多いことか。家事・育児を真面目にやるのは夫に従属している印だと女性たちが考えるようになってしまったのは、明らかにフェミニズムの悪影響のためである。彼女たちは愛情からなにかをやるということが考えられないような心理になってしまっている。

 ただ一人、そのときに、こう言ってくれた女性がいたそうである。「あなたのご主人はきっととてもいい人なのよね、だから一生懸命なにかをしてあげたいと思うのよね」と。こう言える女性はきっと、すてきな夫婦関係をもっているのであろう。少なくとも、もちたいと思っているのであろう。

 愛情で結ばれた関係の中では、どちらが支配するとか、どちらが自立しているのかということは問題にならない。愛情という観点を「縛るもの」とか「自立を妨げるもの」と規定したときから、そして『愛という名の支配』などという本が出て、愛はすべて支配の道具であるかのように思う女性たちが増えたときから、フェミニズムは狂いはじめたのではないだろうか。

 そういうフェミニズムの悪影響は、次のような投書の中にはっきりと見てとれる。最近のある新聞の投書欄に、こういう投書が載っていた。投書者は小学校の先生である。ある日、教室で子どもが「今日はオヤジが帰ってくるので面倒くせえ」と言った。この子の父親は単身赴任で、週末だけ家に帰ってくる。その先生は「働いて疲れて帰ってくるお父さんに対して、そういう言い方はいけないよ」とたしなめた。すると、その子は「お母さんだっていつも面倒くさいと言っているよ」と言ったそうである。

 この母親の言葉の背後には、「亭主の世話をするなどは、女性の生きがいとすべきことではない」とか「女性の仕事としては程度の低いことだ」という考え方が、すけて見える。こうした心理こそ、まさにフェミニズムが広めているものなのである。

 

「青い鳥コンプレックス」を助長する

 このように、日常の仕事を軽蔑し、外の「文化的な活動」のほうに大きな価値があると思い込む心理を、私は「青い鳥コンプレックス」と名づけた。これはメーテルリンクの童話『青い鳥』の兄妹チルチルとミチルの心理からヒントを得て名づけたものだが、1980年代前半に使われた「青い鳥症候群」(blue bird syndrome)とは意味は異なる。後者は当時の若者たちの夢想的で地に足がついていない心理や、そうした社会風潮を指した言葉であったが、この「青い鳥コンプレックス」とは、母親が日常生活には幸せがないと思い込んで、生きがいや幸せや「自己実現」などを、家庭の外に探しもとめるという心理を指すものである。この心理に取りつかれると、女性たちは母を捨て妻を捨てて、「生きがい」を手に入れたいと思い、外へ外へと駆りだされていく。夫の世話や子どもの世話は価値の低いもの、ばからしいものと感じられ、外の世界の「仕事」や「文化」や「芸術」などがバラ色のすばらしい世界だと感じられる。

 妻が、母親が、この心理に取りつかれると、家事は手を抜かれ、家庭は殺伐として、子どもは愛情不足になる。この心理がいまいかに蔓延しているかを示したのが、平成10年の11月から12月にかけて『朝日新聞』が特集した「専業主婦の憂うつ」という記事である。

 この特集に対して、約2000通の投書があったという。はじめは「憂うつ」という題名に誘われて「憂うつ」を訴える手紙が圧倒的だったのが、後半は「専業主婦で幸せ」という手紙が多くなり、最終的には半々になったそうである。

 興味深かったのは、最終回の担当記者のまとめの部分である。「取材した『憂うつ』な主婦の方々が、異口同音に『本来の私』『自己実現』を訴えていました。単調な家事や育児は、『本来の私がすべきことではない』ということのようなのです。『家事の手伝いなんかしなくていいから、勉強しなさい』。小さいころから、母親にこう言われて育った方が多いのにも驚きました」。

 このまとめは、カウンセラーとして私が経験していることと、ぴったり一致している。専業主婦というあり方に憂うつだったり、不満を述べる女性は、かならずといっていいほどに、家事や育児といった「本能・生活・日常・身体」の領域を軽蔑したり、低い価値をおいているのが特徴的である。それに対して「文化・芸術・社会・仕事」という領域が対置され、価値の高いものと考えられている。

 母親の言葉でいえば、「お手伝いなんかしなくてもいいから、勉強しなさい」となる。家事と勉強を比較して、勉強の方が上だという価値観を小さいときから刷りこまれて育った世代なのである。こういう女性が専業主婦になると、「社会から切り離されてしまった」とか「文化的に取り残された」と感じ、イライラするのである。

 どうやら現代という時代は、女性が大地から根こそぎにされて、宙に浮いてしまっていると言えそうである。心理的に浮き上がった女性たちが、専業主婦というあり方に対して違和感をもつのである。

 このような「青い鳥コンプレックス」に取りつかれているのは、なにも女性たちだけではない。同じコンプレックスに取りつかれた男性たちは、外での仕事にばかり価値を見いだして、家の中の仕事を軽蔑し、ある者は家父長主義的な夫になるか、ある者は妻も外で働くべしという、一見フェミニズムの理解者になる。しかし、これはどちらも近代思想の誤りにからめとられているのである。

 日常の生活の外になにかすばらしいもの、意義のあるもの、幸せがありそうに思えるというこの心理、「本来の私」を「日常生活の外に」探すという心理は、思想史的に見ると近代思想に特有の理性偏重・文化偏重・仕事偏重(本能蔑視・日常蔑視)とつながっている。

 この心理は子どもに対してたいへんな悪影響を及ぼしている。育児にイライラする母親の圧倒的大多数が、この心理をもっている。この心理の持ち主から見ると、家事・育児という次元の営みは、もっとも価値の低いことに思えるから、あせったり、イライラするのは当然なのである。イライラはしばしば虐待にまでエスカレートする。幼児虐待の一つの原因は、この「青い鳥コンプレックス」だと言ってもけっして言いすぎではない。

 

「働け」イデオロギーへの狭隘化

 もっとはびこっているのが、「働け」イデオロギーである。最近のフェミニズムは、完全に「働け」イデオロギーに凝り固まってしまい、「女性はすべからく働くことを目指すべし」という思想になってしまった。この思想は、「フルタイムで働きつづける女性」を当然のように前提にしている。いまやフェミニズムは「働きつづける女性」のイデオロギーへと矮小化されている。

 フェミニズムは変わってしまった。フェミニズムとは本来、男女の平等を目指す思想のはずであった。男女の平等を実現するには、いろいろな方法やいろいろな形態があったはずである。しかしフェミニズムは多くの可能性の中から、ただ一つの結論を引きだした。

 現在のフェミニズムは単線化し、一つの公式にはまっている。すなわち男女平等を妨げているのは女性に経済力がないからだ、したがって女性は働いて経済力をつけねばならない。こうして女性の「働く」ことがなににもまして価値があるという観念が支配することになった。私が命名した「働け」イデオロギーの成立である。

 いったん「働け」イデオロギーが成立すると、そのために邪魔なものはすべて価値を落とされ、捨てられていった。人間には母性本能はないので、母親は子育てをしなくても働いていればよい(母性本能があると思うのは「母性神話」にすぎない)とか、「三歳までは母の手で」というのは「三歳児神話」にすぎないと批判され、かわって「社会が育てればよい」と言われるようになった。

「母性」と「子ども」は捨てられ、男性と同じ条件で働くことが理想とされた。近代を批判することが好きなフェミニズムは、近代イデオロギーにすぎない「働け」イデオロギーだけは批判しないで、理想にしている。

 その結果、フェミニズムは「働く女性」のための利益団体化、族議員化し、その理想は「保育園の増設」「ゼロ歳児保育、24時間保育の確保」「育(児)休(業)父さんに拍手!」というところまで矮小化してしまった。

 この矮小化と単線化によって、フェミニズムはいまや害毒を流す存在へと変質した。フェミニズムが害毒を流す存在になったのは、それが真の理想を見失い、世のため人のための思想ではなくなったからである(「働け」イデオロギーについては、拙著『主婦の復権』〔講談社〕で詳しく批判した)。


母性と子どもの切り捨て

 フェミニストたちは「多様な生き方」や「多様な家族形態」を認めよと言いたてているのに、女性の生き方としての専業主婦という形態だけは全面的に否定し、汚い言葉で貶め、軽蔑を隠そうともしない。

 専業主婦形態を選んでいる女性たちの最大の理由は、「自分の手で愛情豊かに子どもを育てたい」というものだが、それは「保育園に預けるべし」という言葉によって、あっさりと否定されてしまう。なにしろフェミニストに言わせれば、女性に「母性」を押しつけるのは、女性を家庭に縛りつける男の陰謀なのだ。

 こうしてフェミニズムからは、母性が大切なものだという考えは消え去ってしまった。逆に「母性神話」「三歳児神話」という言葉が喧伝され、乳幼児にとってさえも母親は必要ないという理論が振りまわされる。

 じつは、乳幼児にとって母親の存在がたいへんに重要な意味をもっているという実証的な研究は、世界中に非常に多く蓄積されているのである。たとえば簡単に手に入る本を挙げれば、『母と子の絆』(宮本健作著、中公新書)がある。その本には実証的な生理心理学の研究を紹介しながら、乳幼児期の母と子の絆について詳しく述べられている。

 だが、そうした研究をすべて無視して、『厚生白書 平成10年版』は「三歳児神話には合理的な根拠はない」と書いた。たった一人の愚かで不勉強な女性官僚が書いた間違いを、厚生省の誰もチェックできなかったというところに、日本の官僚体制の堕落と腐敗が象徴されている。それをまた、各新聞が英雄的な快挙であるかのようにもちあげたのは、マスコミがいかに無批判にフェミニズムに媚びているかを示している。

 

家族を破壊するフェミニズム

 フェミニズムの中で最近台頭してきたのが、個人単位思想である。少し前までは、フェミニズムの家族論といえば、かならず近代家族批判と相場が決まっていた。曰く、性別役割分担や専業主婦という存在は近代の産物である。家父長制は資本主義とあいまって、男性支配と女性の従属をもたらし、近代国民国家の基礎になっている、云々。こうした議論の中で、フェミニズムの家族論はしだいに個人単位思想に傾いている。家族を単位と考えるのは個人を縛るものだ、家族単位思想は男性による女性支配の構造を助長する、といった具合である。ひどいものになると、家族とは支配機構だとさえ言っている。

 個人単位思想が最近の悪しき個人主義と並行関係にあることは容易に見てとることができる。フェミニズムの主張する「個の自立」は、家族や夫婦といった単位をすべて否定し、さまざまな共同体を否定する傾向を生んでいる。彼らは「伝統的な共同体」を否定すると称しながら、しかし実際には共同体一般を否定したいのである。

 人間が生きていく上で、共同体や公という場が必要なことは言うまでもない。共同体一般や公共という観念もまた必要なものである。そうしたものと個の自立とはけっして対立するわけではなく、両立できるのである。個の自立のために家族や地域共同体や国家といった共同体原理を否定するのは間違いである。


女性の社会進出を阻むフェミニズム

 フェミニズムは女性の社会進出を進めるためのイデオロギーだと思われているが、それは間違っている。フェミニズムはいまや、女性の社会進出を妨げるものになりさがっている。なぜならフェミニズムは女性が働きつづけることだけを称揚するイデオロギーになっているからである。

 ところが女性の多くは、一生のあいだ働きつづけることを望んではいない。むしろ出産と育児の期間は家にいて、子どもを自分の手で育てたいと考えている。だから子どもが生まれると働くことをやめ、家庭に入る女性が多いのである。この女性たちは、やがて子どもが大きくなったときに再び社会に出て働きたいと思っても、働きつづけた人たちと同じ条件で働くことはできない。ましてや、子どもの世話と両立できるような労働形態はない。そこで彼女たちはやむをえず一生専業主婦として過ごすことになる。

 いったん専業主婦になった女性たちが再び社会進出することを妨げているのは、「女性は働きつづけるべし」というフェミニズムの公式主義である。もしフェミニズムが女性の再就職権を要求して活動を続けてきたならば、事態はもっと違っていたのではないだろうか。

 いわゆるM字型就労形態(子どもが生まれたら仕事をやめ、子どもが大きくなったら再び働く方式)は、母親としての役割をきちんと果たしながら働きたいと思っている女性にとっては理想的なかたちであるはずだが、しかし日本ではそのM字型は完全なM字型を描いてはいない。日本では子どもが生まれると仕事をやめる女性は多いが、しかしM字の右半分の上がり方が不十分である。それは再就職を支える社会の支援体制が完備していないからである。

 最近では、公務員をはじめとして育児休業が1年とれる企業も出てきているが、じつは一年の休業では決定的に不十分であり、むしろ弊害さえ考えられる。1年という期間は、乳幼児が母親と心理的に結びつくのに必要な期間だが、結びついたとたんに引き離すということが、子どもの心に傷を残す危険性があるからである。

 子どもの心が健全に発達するためには、母親が家庭の中にいるという状態は最低でも5、6年は必要である。つまり育児休業は最低でも5年から10年は必要なのである。そうした長期の育児休業という考え方をとるなら、いっそのこと、同条件での再就職を保障する方がよほど目的にかなっていることになる。

 要するに、M字型就労形態を否定したことで、フェミニズムは女性の社会進出を逆に妨害する結果になったのである。

 

家父長主義的男性も反省せよ

 誤解のないように断っておくが、私はフェミニストだけに反省せよと言うつもりはないし、女性だけが反省すべきだとは思っていない。むしろもっとも反省すべきは家父長主義的な意識をもった男性たちである。彼らは「俺が働いて食わせてやっているのだ」という論理で家族を支配しようとする。「働いて」稼ぐことがもっとも価値のあることであり、したがって「働いて」いるものが支配していいと考えている。

 このように、力、とくに経済的な力によって支配しようとする男性は、私が『父性の復権』(中公新書)で述べたように「権威主義的な父」のタイプであり、そうした父の子どもも同様に権威主義的な「力」を信奉する人間になりやすい。子どもだけではなく、妻もそれに対抗するために「力」の信奉者になりやすい。

 すなわちこの種の男性を夫にもつ妻は、夫の「稼いでいる者がえらい」という論理に対抗しようとして、「では私も働いて自立しよう」となる。フェミニズムの中心思想である「働け」イデオロギーはこうして生まれるのである。つまり悪しきフェミニズムをたえず再生産しているのは家父長主義的な男性なのである。

 私が大学で女子学生に接していて、いつも感じるのは、親夫婦のあり方が娘の考え方に決定的な影響を及ぼすということである。たとえば母親が専業主婦で、父親がその母親を対等に扱っている家庭では、子どもは絶対にフェミニストにはならないで、「私も専業主婦になって、子どもを大切に育てたい」と言うようになる。ところが父親が家父長主義的な態度をとり、「俺が稼いでいるのだ」と威張る場合には、母親が気が弱くて従属している場合であれ、気が強くて「それなら私も稼いで自立する」と言って働くようになった場合であれ、かならずと言っていいほどに娘もフェミニストになっている。

 このようにフェミニストを大量生産した元凶は、家父長主義的な日本の父親たちなのである。彼らは戦後の社会でがむしゃらに働くことによって、経済的な成功をおさめ、それによってかろうじて権威を保ってきた。フェミニストたちが中心にすえている「働け」イデオロギーとは、大きく見れば近代に特有の思想であるが、特殊日本的には政治軍事の支配権をアメリカに奪われた戦後の日本男性たちの唯一の存在意義だったのである。

 フェミニストたちは、その日本的な男性に対抗しようとして、その男性的な価値観を自分たちのものとして選びとり、日本的な男性と同じになることで対等になろうとした。批判する相手と同じになろうとしたという、この根本的な戦略の間違いが、現在の日本の乱れの一つの大きな原因になっているのである。

 要するにフェミニズムの禍根は、「日本的な」男性と、それと同じ価値観をもってしまった女性たちによって生みだされたのである。この間違いの根源をまず正確に認識することによって、われわれは正しい道にたち戻らなければならない。そのためには、フェミニズムのどこが間違っているのかを、徹底的に検証しなければならない。

 フェミニズムが袋小路に入ってしまったのは、女性に「すべからく外に出て働くべし」という一律のライフスタイルを強要するものになったからである。フェミニズムの正しいあり方とは、女性一人ひとりの多様な生き方を尊重し、その生き方に合った男女平等のかたちを認めることである。フェミニズムがそういう正しいかたちにならずに歪んでしまったのはなぜなのかを以下において明らかにし、フェミニズムが壊しつつある健全な母性と家族の再生に役立てたいと思う。