フェミニズム批判

 

4 フェミニズムの陰謀

  (1) 男女共同参画社会基本法の危険思想

 

 法律の条文はすべからく意味が明瞭でなければならず、恣意的な解釈の可能性ができるだけ排除されていなければならない。これは法律学の常識というより、基本中の基本である。いくらでも勝手な解釈ができるというのでは、法律を作る意味がないどころか、法律を悪用しようとする者に対抗できないからである。

 言葉の意味を明瞭に規定するという、法律としての要件を満たしていないものは法律とは言えない。この法律とは言えない法律が平成11年6月に施行された。「男女共同参画社会基本法」と呼ばれる法律である。この法律の中には、肝心のところに意味不明の言葉が使われており、厳密に考えると具体的には何をなすべきか分からないのに、政府と地方自治体に「実行」を義務づけている。「何を」「どのように」実行するかを決めるのは誰なのか。それがはっきりしていない法律というのは、よく考えてみるとたいへん恐ろしいものではないであろうか。

 曖昧さからくる恐ろしさは、将来どんな意味を持たせられるか分からないという恐ろしさである。しかしこの「男女共同参画社会基本法」の恐ろしさは、単なる曖昧さからくる恐ろしさではない。ここに使われている曖昧な言葉の意味は、じつは特定の人々のあいだでは明瞭なのである。すなわちフェミニストのあいだでは、ここに使われている法律的に不明瞭な言葉は、イデオロギー的には明瞭な含意をもって了解されている。一般的にはどういう意味にも取れる抽象的な言葉が、じつはこの法律作成を推進した人々のあいだでは明瞭な意味と動機を持たされている。その問題に日本人の大部分が気がついていない。そのことが恐ろしいのである。

 以下、この法律の一見曖昧な用語の背後に隠された動機の危険性を明らかにしていきたい。

 

1 曖昧な言葉に隠された本音

共産主義思想

 まず第一に、この法律は「男女共同参画社会」を形成することを目的としているが、その「男女共同参画社会」という言葉の意味について、第2条の1において次のように定義されている。

 「男女共同参画社会の形成 」とは「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会を形成することをいう。」(下線筆者、以下同じ)

 わざと難解にしたとしか思えないような悪文である。この条文を読んで、どういう意味かすぐに分かった人がいたら名乗り出ていただきたい。「男女が均等に利益を享受する」とはどういう意味か。前段に述べられている「社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され」というのは、いわゆる機会均等の原理が述べられているのであろうと理解することはできる。もしこの条文で、「均等」という言葉が個人の営みの「機会」について述べられるのなら(たとえば「教育の機会均等」のように)、理解可能な言葉である。しかしそれにしたところで、機会は個人のあいだで均等に与えられるとすれば事足りるのであり、男女の間で均等だという言い方をする必要はまったくないのである。

 男女のあいだであろうが、個人のあいだであろうが、「機会」が公平に与えられることは必要である。しかし、そのことと「実際に利益が与えられること」とは同じではない。たとえば、教育を例にとれば、教育の機会は全員に「均等に」与えられているが、実際に希望の高校なり大学に合格して、そこで教育を受けるという「利益」を享受できるか否かは、各人の能力や努力によって異なる。「利益」まで「均等に」与えなければならないとなると、それはすでに共産主義の原理である。マルクスによれば、「働きに応じて(利益を)分配する」のが「社会主義」の原理で、「必要に応じて分配する」のが「共産主義」の原理である。

 この条文では、「均等」という言葉は明らかに「利益享受」について使われており、利益を均等に分配することを政府と地方自治体の義務だと言っている。すなわちこの法律は、社会主義どころか共産主義の原理を、目的として謳っていることになる。これは機会の均等と公正な自由競争を旨とする憲法の精神に違反する法律と言わざるをえない。「男女共同参画社会基本法」は憲法違反の法律である。 

 とくに、この「利益の均等分配」の要求の中で重要なのが、男女均等の政治参加の要求、具体的には議員の数を男女同数にせよという要求である。政治参加については、戦後いち早く、男女を問わずすべての成人に機会の均等が認められている。それでは満足できないで、法律という形で「政治的利益の均等な享受」という要求をするほどに、フェミニズムは共産主義化しているのである。

 田中喜美子のごときは、人格は二の次でよいから、ともかく女性の政治家を増やせと主張している。そこまではっきり言う者は他では見かけないが、それがフェミニストたちの本音であろう。これなども「機会の均等」と「利益享受の均等」を混同した、途方もない要求と言うべきである。この法律はそういう理不尽な共産主義的な要求に裏打ちを与えるものである。

 ソ連・中国型の社会主義が行き詰まったのは、公正な競争を廃止して、結果の平等、分配の平等という悪平等主義の立場に立ったからである。フェミニズムは同じ過ちに陥っているが、その根元は「区別は差別」という考えにある。「男女差別撤廃条約」の第1条には「区別は差別」と明瞭に記されている。この考え方に立つかぎり、結果の違いはすべて差別とされ、競争も認められない。

 この考え方こそ、戦後の教育を歪めてしまった張本人である。たとえば、徒競走では結果の差がつかないように予めタイムごとのグループを作っておくとか、ゴール前でみんなが手をつないでゴールするなどという漫画のような話は、みなこの結果平等主義という悪平等主義=共産主義思想から出た考え方である。このような思想がはびこれば、その国は必ず停滞し、社会の活力がなくなって落ちぶれていく。

 

「固定的」役割分担とは?

 次に問題なのは第4条「社会における制度又は慣行についての配慮」である。

 「第4条 男女共同参画社会の形成に当たっては、社会における制度又は慣行が、性別による固定的な役割分担等を反映して、男女の社会における活動の選択に対して中立でない影響を及ぼすことにより、男女共同参画社会の形成を阻害する要因となるおそれがあることにかんがみ、社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものとするように配慮されなければならない。」

 理解を阻むかのような悪文なので、この条文の意味を理解するためには、注釈が必要であろう。この条文の意味は、「固定的な役割分担」の思想を反映した制度や慣行があるために、「固定的でない役割分担」をしたい個人に不利になるから、そういう制度や慣行の影響を「中立なもの」にするように(なくすように)「配慮」せよと言っているのである。「中立に」するように「配慮」せよと持って回った言い方をしているが、要するに「固定的な役割分担」をなくすような政策を実施せよと言っているのである。具体的には、邪魔になる「制度又は慣行」の影響を「中立」にせよ、はっきり言えばなくすか無効にせよ、と言っているのである。

 

「固定的」という言葉のごまかし

 もし誰かが「男は仕事、女は家庭」は固定的だ、しかし「女は仕事、男は家庭」は固定的でない、と言ったら、誰でも笑うだろう。しかしフェミニストたちはみなそう考えているのである。その証拠に、「男は仕事、女は家庭にいるべきだ」と言ったら、それは「固定的性別役割分担だ」と批判されるが、「女は仕事、男は家庭」という役割分担を実行している夫婦を、フェミニストは「固定的性別役割分担だ」とは批判しない。むしろ女性たちは「偉い偉い」とほめる。

 では「男も女も、仕事も家事も」という、いわゆる「半分っこイズム」を主張する人は、分業を固定的に考えていないのであろうか。それもまた固定的な分業の考え方ではないのか。どんな形態にせよ、当事者にとっては固定的である。すべての分業は多かれ少なかれ「固定的」なのだ。「固定的」でなくするためには、一週間なり一ヶ月ごとに分業の形態を変えなければならない。

 もうお分かりだろう。フェミニストたちが「固定的」性別役割分担と言う場合には、「男は仕事、女は家庭」という形態だけが考えられているのである。そのことは、もっとはっきりと言えば、専業主婦をなくせという意味なのである。そしてそれをなくすことだけが、「固定的役割分担」をなくすことだと考えられているのである。

 結局、男に家事や育児をさせようという思想である。それを法律や政治の力によって促進させようという思想なのである。これは家庭内のあり方まで法律で強制しようという思想であり、ファッショ的な共産主義の思想である。結局、この法律はすべて「働く女性」の利害関心から出ている法律だということは明瞭である。女性すべてを「外に出て働く人間」にしてしまおうという思想から作られた法律なのである。

 

「制度又は慣行」とは?

 では、「固定的役割分担」を守っているとして敵役と目されている「制度や慣行」とは、いったい何者であろうか。名指しはされていないが、フェミニストたちの年来の主張を見れば、それはあまりにも明らかである。

 たとえば、まずやり玉に挙げられそうなのは、税制における専業主婦の配偶者控除、年金制度における専業主婦の保険料徴収免除である。また老人介護を家族でするべしという考え方も、「悪しき慣行」だとされそうである。それは実際には子による介護になり、結局は専業主婦の、とくに嫁による介護になり、女性だけが犠牲になるからだと言われる。「嫁だけ介護」はもちろん理不尽だが、その理不尽をなくすために「家族主体の介護」という美風を否定していいわけがないのである。

 もう一つ考えられる重大な問題が、夫婦同姓の廃止と、夫婦別姓の導入である。夫婦同姓にすると、圧倒的に夫の姓にする者が多いという「慣行」がやり玉に挙げられそうである。夫婦別姓は国会で成立しそうな勢いだったが、反対が強くて通らなかった。しかし法案は廃案になったわけではなく、いつでも生き返る可能性がある。

 さらにフェミニストたちが目の敵にしているのに戸籍制度がある。結婚した者は届け出なければ、法律上の保護を受けられないという「制度」は、「愛情にのみもとづく結婚」に反するとされ、「事実婚」や「シングル・マザー」を否定する「悪しき制度」だと認定される可能性がある。その「悪しき制度」の影響を「中立」にするために、事実婚や同棲のカップルや同性愛のカップルにも法的保護を与えるような「措置」を審議会が答申する可能性もある。

 このように廃止すべきと目されている「制度又は慣行」の中には、家族の一体感と共同性とを守っている大切な原理が含まれている。それらが「性別役割分担」やその他の「差別」の廃止に反対する悪玉として、「中立化」の対象にされる危険が大きいのである。

 

戸籍制度の否定を隠し持つ

 第6条もまた、危険な思想を陰険にすべりこませている。

 「第6条 男女共同参画社会の形成は、家族を構成する男女が、相互の協力と社会の支援の下に、子の養育、家族の介護その他の家庭生活における活動について家族の一員としての役割を円滑に果たし、かつ、当該活動以外の活動を行うことができるようにすることを旨として、行われなければならない。」

 冒頭近くに出てくる「家族を構成する男女」という言葉は、なんの変哲もない言葉に見える。しかしよく読んでみると、この「男女」は「子の養育」をするとあるから、両親すなわち親の夫婦を意味しているはずである。それをなぜ「夫婦」とか「両親」という言葉を使わないで、ごく一般的な「男女」を使ったのか。ここには立案者の明確な思想が反映されている。その思想とは、子どもを養育する者は、法律上の婚姻した夫婦でなくてもよいという思想である。はっきり言えば、戸籍上の夫婦でなくとも、いわゆる同棲者(このごろでは「事実婚」という)でもいいと言う意味である。この裏には夫婦別姓を是とし、戸籍制度を否定する思想が隠されている。 

 

女性を全員働かせようという思想

 この第6条の表題は「家庭生活における活動と他の活動の両立」である。

条文には、夫婦(家族を構成する男女)が家庭生活を営むさいには、「当該活動以外の活動を行うことができるようにすることを旨として、行われなければならない」と定められている。「当該活動」とは家庭生活のことだから、「当該活動以外の活動」とは、外に出て働くことを意味している。 

 これは要するに、家事や育児を男女に半分ずつやらせて、女性が外に出て働ける社会にせよと言っているのである。共働きが当然の社会にするために、男性も女性と同じように家事と育児をさせようという思想である。当然、専業主婦の存在は否定されている。

 専業主婦という分業形態は、人間らしい生活にとってむしろ有利だということについては、すでに私は『主婦の復権』(講談社)において論じたので、ここでは繰り返さない。また育児についても、母親の特別の必要性について『母性の復権』(中公新書)と『母性崩壊』(PHP研究所)で詳しく研究したので、参照していただきたい。この法律はそうした母性の重要性についてはまったく「配慮」していないと言わざるをえない。おそらく「母性など神話だ」という理論によって影響されているのであろう。

 拙著『フェミニズムの害毒』(草思社)や上記の母性論によって、安易に共働きをして子どもを他人や保育園に預けることによって、子どもがいかにスポイルされるかを明らかにしている。安易に「乳幼児の母も働ける社会に」を理想とする考え方は危険なのである。むしろ社会の理想は「乳幼児の母は働かなくてもよい社会に」でなければならない。その危険な間違った理想を前提にしているのが、この男女共同参画基本法である。

 

2 「何を」「誰が」実行するのか

 さて、以上は第1章「総則」の問題点である。「総則」は当然とはいえ、きわめて抽象的なことが述べられているにすぎない。総則が抽象的であることはやむをえないにしても、意味不明な用語が多く見られるのでは法律の名に値しないということを述べてきた。

 次に問題なのは、この「総則」と第2章の「男女共同参画社会の形成の促進に関する基本的施策」のトーンがまるで違う点である。「総則」はソフトで、「持って回った」と言いたくなるほどに慎重に言葉を選んでいる。それだけに文章の意味を理解するためには注釈が必要なほどであった。ところがそれを実行する「施策」の仕方を決めた第2章のトーンは、一転して強い口調になる。ここで第1章で言われていた「配慮」の意味がベールを脱ぐ。「配慮を」とくれば、普通なら「望ましい」と続くもので、「配慮を」と「しなければならない」はミスマッチと言いたいほどに、そぐわない感じがする。そのミスマッチがなぜ起きたかは、第2章で明らかになる。「配慮」という表現の方が「建前」で、「なければならない」の方が「ホンネ」なのである。その「衣の下の鎧」が、第2章で見えてくる。

 

ファシズム的な発想

 第2章第13条「政府は、男女共同参画社会の形成の促進に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、男女共同参画社会の形成の促進に関する基本的な計画(以下「男女共同参画基本計画」という。)を定めなければならない。」

 第14条 都道府県も市町村も「男女共同参画計画を定めなければならない。」

 ここには、何事かを実現するために「総合的かつ計画的に」推進せよという思想がむき出しに語られている。この思想はじつはこの法律の前文に「制定の目的として語られていたものであった。前文にはこう書かれている。「ここに、男女共同参画社会の形成についての基本理念を明らかにしてその方向を示し、将来に向かって国、地方公共団体及び国民の男女共同参画社会の形成に関する取組を総合的かつ計画的に推進するため、この法律を制定する。」

 その理想とするところが本当に正しいか否かは別として、ある理念を実現するために、権力を使って「総合的かつ計画的に推進する」とはじつに恐ろしい発想である。その恐ろしいことを今までにやったのは、まずヒトラー率いるナチスがユダヤ人600万人を「総合的かつ計画的に」殺害した。次にスターリンも反党分子粛正と称して罪なき人々を推計2000万人も「総合的かつ計画的に」殺した。さらに近代戦争は総力戦として「総合的かつ計画的に」遂行され、アメリカなどは日本の非戦闘員を原爆投下を含めた空襲によって「総合的かつ計画的に」何十万人も殺し、多くの人々の家と財産を焼き払った。

 殺人という行為でなく、平和的な権力を使うなら「総合的かつ計画的」な政策遂行は良い結果を生むであろうか。ソ連中国型の社会主義は、計画経済によって経済を破壊してしまった。あるイデオロギーを「計画的に」押しつけるという発想そのものの中に、危険な徴候が含まれているのである。たとえ良い意図を持っていたとしても、人間の営みを「総合的かつ計画的に」規制しようという発想が、そもそもファシズム的なのである。

 だいたい、第1章では「配慮」しなければならないと言っていたのに、急に「総合的かつ計画的に」推進せよとファシズム的な言葉が出てくるとは、まさに「君子豹変す」「初めは処女のごとく、終わりは脱兎のごとし」の感がある。「衣の下の鎧」とはまさにこのことである。

 

内容の具体性を誰が決めるのか

 ところで、その「総合的かつ計画的」な施策の具体的な内容はどこでどう決められるのであろうか。

 第13条の3「内閣総理大臣は、男女共同参画審議会の意見を聴いて、男女共同参画基本計画の案を作成し、閣議の決定を求めなければならない。 」

 都道府県や市町村も同様に「都道府県男女共同参画計画」「市町村男女共同参画計画」を作成しなければならないとされる。

 このように、「配慮」と言いながら、実際には政府と地方自治体に強い実行を義務づけている。それでいて「配慮」や「計画」の内容にはまったくふれていない。具体的には何も書かれていない。だから誰もが、「配慮」程度ならいいじゃないか、と思う。曖昧でソフトな表現だから危険が少ないと思うのは、すでにしてだまされているのである。曖昧だからこそ、具体的でないからこそ危険なのである。

 問題はその具体性を誰が与えるかである。具体的な内容を与えるのは審議会である。審議会の委員は内閣総理大臣が任命する(第23条)。各自治体も「計画」の策定にあたっては当然審議会を設置し、そのメンバーは自治体の首長が任命することになろう。

 その審議会の答申によって、具体的施策が、財政的な処置を伴って行われていく。その過程で参加する人はごく少ない。放っておけば、委員のほとんどがフェミニストによって占められることは目に見えている。フェミニズムに批判的な人が一人や二人入っても、ほとんどブレーキにもならないだろう。それはこの男女共同参画社会基本法や介護保健法の成立事情を見ても明らかである。

 この法律を作った人々の戦略は、表面は曖昧な理念を出しておいて、具体的内容は多くの人々の目にふれないところで決めてしまい、いったん決まったら大々的に宣伝しようというものである。なんとも姑息で巧妙な戦略である。

 以上見てきたように、この男女共同参画社会基本法は極めて偏った思想に基づいた、きわめて危険な法律である。それは「専業主婦」と「母による育児」を否定し、家族の基本形態を破壊し、いわゆる「多様な家族」という名の「欠落家族」(註)を増やす作用をするであろう。

 われわれはこの法律に定める審議会の構成に積極的に関わっていくとともに、監視の目を怠ってはならない。

 

 

註:「欠落家族」とは、「父・母・子」という三要素からなる「基本家族」の中から、一つないし二つの要素が欠けている家族のことである。

 かつては「欠損家族」という言葉があり、これは父か母が欠けている家族を指して言う言葉であった。10年くらい前までは、当たり前のように使われていた言葉である。たとえば、法務省あたりの官庁の文書にもよく登場していた。ところが今では「差別語」として葬られてしまい、まったく見られなくなった。しかしこの言葉は差別的な意味を持っていたのではなく、逆に父か母がいないと足りないところが出てくるから、それをどう補ったらいいかという問題意識から出てきた言葉である。ところが「父または母がいないと子どもに問題が出る」という発想そのものが差別だという論理が登場して、この言葉も差別語だという認識が支配的になって使えなくなった。

 しかし父か母がいないと子どもに問題が出る確率が高いことは確かな事実である。私の計算では、重大な犯罪に走る子どもの率は、片親の場合は両親のそろっている場合よりも10倍も多かったのである。(『フェミニズムの害毒』p.254参照、またこのHPの7「(1)林-田中論争の意味するもの」にも、この数字に対する田中喜美子の批判に対する反論がなされている。「1 人身攻撃の意味するもの」の中の小見出し「差別のデッチ上げ」を参照。田中喜美子が出している統計の方が新しいので、約5倍という数字になる。いずれにしても、片親の子どもの方に問題が非常に多く出るのは事実なのだ。)

 こういう事実に対して、それをどう解釈し、どう対策を講じていくかという問題を考え討論していくときに、その事実を表わす言葉が必要になる。その場合に私は従来の「標準家族」(これは子ども二人の場合しか入らない)の代わりに「基本家族」という言葉を使い、従来の「欠損家族」の代わりに「欠落家族」という言葉を使うようにしているのである。「欠落」という言葉も、それに当てはまる人たちから見るときつい感じがするとは思うが、「損」という言葉が入っているよりもましだろうと考えている。もしもっといい言葉があれば提案してもらいたい。

 しかしそういう事実を表わす言葉そのものがいけないという感情論では、事実そのものについて客観的に論ずることを禁止することになってしまう。それでは「臭いものには蓋(ふた)」という形で、言論そのものを封ずることになるであろう。