フェミニズム批判

 

5 林-田中論争

  (1) 林−田中論争の意味するもの

      ──家庭破壊と母性否定

 

 田中喜美子氏と私との間でなされた論争は、私の『主婦の復権』に対して田中氏が『「主婦の復権」はありうるか。』で批判し、それに対して私が『諸君!』誌上で反論し、そこから激しい論争に発展した。この論争は田中氏の側からの一方的な人格攻撃が激しくなり、内容的な論点が曖昧になる恐れがあったので、私の方からやめにして、一時冷却期間をおくことにした。

 しばらくして、この論争を冷静に眺めてみると、その本質が次第にはっきりと見えるようになってきた。

 田中喜美子氏一人をとって見れば、フェミニズムの取るに足らない矮小なエピゴーネン(亜流)であり、人格劣等、論理は支離滅裂、まともに相手をすべき人物ではない。多くの友人や知人が「林さんが相手をするほどの人物ではない」と言い、論争をやめるように忠告してくれる人も多かった。私もまったく同感である。

 しかし、田中喜美子氏はフェミニズムに忠誠を誓い、先兵になって手柄をあげようとする姿勢を持ち、そのために極端に走っているので、フェミニズムの悪しき本質をモロに出している。その意味では田中喜美子氏と私の論争を振り返って整理してみることは、フェミニズムの本質を明らかにするためには、きわめて有益だと思われる。

 私のフェミニズム批判に反発する者の中には、「林道義はフェミニズムの一部を批判しているだけであり、それで全体を批判したことにはならない」と言う者もいるが、それは私のフェミニズム批判の方法的構造が分かっていない者のたわごとである。私が批判したフェミニストはすべてフェミニズムの典型的な代表者であり、典型的な思想と理論を主張している。それらは「一部」ではなく「典型」である。

 私はフェミニズムの理論体系のモデル(理念型)を『フェミニズムの害毒』の序章の中で(p.15)次のように図式化している。田中氏はこの図式にそのままぴったりと当てはまるのである。

 経済的自立の優先 → 「働け」イデオロギー

この「働け」イデオロギーがフェミニズムの中心思想であり、それは一方で

 「働け」イデオロギー → 性別役割分担の否定 → 近代家族の否定 → 専業主婦の否定

という系列となり、他方では 

 「働け」イデオロギー → 母性本能の否定(母性神話説、三歳児神話説) → M字型就労形態の否定 → 保育所賛美

という系列となる。

 田中喜美子氏はこのモデルのすべての特徴を備えている。その意味では田中氏はフェミニストの害毒を典型的に示しており、改めてその論理のごまかしと、そのごまかしが意味するところを明らかにする価値があると考える。

 

1 論争の基本的特徴

 この論争には目立った特徴がある。第一は、激しい人格的な批判の応酬がなされた点。第二は、田中氏が私に対して最初から最後まで「現実誤認」「現実を知らない」「現場を知らない」という批判をし続けた点である。この批判に唱和し援護射撃する者も多かった((2)「画一的援護射撃の意味」参照)。これはフェミニストたちの徒党を組むという性質、ネットワークの広さをよく示している。

 このような論争の仕方には、論争の内容を不毛なものにする可能性がつねについてまわる。田中喜美子氏が自覚的に意図したかどうかは別として、田中氏の人身攻撃と「事実誤認」攻撃とは、私に対する信用を失墜させ、それによって私が指摘している大切な問題から世間の目をそらすという効果をもたらしている。

 大切な問題とは、論争の経過を見ればおのずと浮かび上がってくる。論争は最初「専業主婦をどう評価するか」という問題として始まったが、田中喜美子氏の二回の論稿のほとんどは「母性不足の否定」「母性過剰と母子密着の弊害の強調」と「保育園賛美」に終始した。これを見れば、田中氏の私への執拗な人身攻撃が何を隠そうとしていたかが明らかになる。それは私が批判しているフェミニストによる「母性解体」「家庭破壊」という事実である。この事実を隠すために、私が「事実を知らない」と宣伝し、私の指摘する真実から世間の目をくらまそうとしたのである。

 この論争の本質はこれにつきているが、本当にそう言えるのかどうかを、以下くわしく論証していきたい。

 

2 田中喜美子氏の「人身攻撃」の意味するもの

 この論争の目立った点は第一に、田中喜美子氏が激しい人身攻撃をした点である。この論争を評して「泥沼」とか「どっちもどっち」という表現を使った者もいたが、そういう言い方をする者は、じつは両者をともに落としめたいという動機を持っているのである。田中氏は私が人身攻撃をしているとつねに言い続けたが、しかし人身攻撃をしかけたのはつねに田中喜美子氏の方であったということである。私は常にその攻撃に対して「それは違う」と防戦をしてきただけである。その点を次に事実経過から示しておく。

 

「人身攻撃」をしたのは田中喜美子氏の方である

 田中氏はしきりに林が「人身攻撃をした」と非難しているが、事実経過を見れば、つねに田中氏が人身攻撃を加え、私がそれに反論するという経過を辿ったことは明瞭である。この点は重要なので、煩雑を厭わず論争の経過を示しておきたい。

 まず最初に私個人の名を挙げて人身攻撃をしたのは、田中喜美子氏が平成10年9月に大宮公民館で行った講演の中においてである。そのとき彼女は私の『主婦の復権』を批判したが、内容的な批判はほとんどなく、まさに彼女の言う「人身攻撃」に終始した。すなわち「バカな男」呼ばわりをし、「ひっどい本」とののしり、あげくのはてには「ほーんとに学者ってのはしょーがないですね。事実がぜーんぜんわかっていない。ここへ連れてきたいです!」と言うと、聴衆がどっと笑うという雰囲気の中で、完全に愚弄するという、まさに人身攻撃の見本のような講演であった。これが税金を使った公民館主催の講演だというのだから、あきれてしまう。(こういうことを許した大宮公民館の責任も重要だと思うので、ここに公民館の名前を公表しておく。)

 さらに田中喜美子氏は平成11年3月末に『「主婦の復権」はありうるか。』という本を出版して、拙著『主婦の復権』を批判した。それには、私の名前を侮辱する内容に始まって、私が現実を知らないという(これも一種の人格攻撃だ)デッチ上げまでも含んでいた。「現実を知らない」という非難も一種の人格攻撃であることは、田中氏がその講演で私のことを「現実を知らない」「バカな男」と言っていることからも明らかである。

 これらの一連の人格攻撃に対して、私はまず雑誌『諸君!』同年6月号(同年5月1日発行)で、大宮公民館での田中氏の批判に反論をした。それは『フェミニズムの害毒』(草思社)の中に収録してある(6章「主婦を迷わすカルト的勧誘」)。この論文では私は「人身攻撃」と言われるようなことはまったくしていない。ただ内容的、理論的な批判に終始している。

 それに対して田中氏は同年8月号で反論したが、それは嘘による中傷をまじえて、私の人格を落としめようとする、汚い人格攻撃であった。それに対して私は『諸君!』同年9月号(同年8月1日発行)で反論した。その論文も『フェミニズムの害毒』の7章として収録してある。ここにおいて初めて私も田中氏に対する人格批判を行い、田中氏は「平気で嘘を言うヒステリー性格であり、人格破綻の徴候がある」と指摘した。

 この論文の中では、また私は田中氏らの著書『「主婦の復権」はありうるか。』の「事実誤認」という批判に対して理論的にきちんと反論している。

 それに対して田中氏はすぐさま反論を書いて、『諸君!』同年10月号(同年9月1日発行)に発表した。これは前回を上回る下劣な人格攻撃であった。

 それがいかに悪質な人格攻撃であるかを示すために、ここでその攻撃の仕方について、ある程度くわしく検討しておきたい。

 

田中喜美子氏の人格攻撃の手口

 田中氏は嘘をついているのは私の方であり、私が「下司のカングリ」をはじめ、人格攻撃をつねとする攻撃スタイルをこととしている人間のように描いている。自分に都合の悪い人間の人格を貶める、じつに巧妙な論法を用いている。本当は、嘘をついているのはどちらであり、人格攻撃をしているのはどちらかを、ここでハッキリしておきたい。

 田中氏は新聞の原稿の行数の問題で嘘を言っていると私から批判された事実(自分に都合の悪い事実)については口をつぐみ、新たに私が嘘を言っているという「事実」を持ち出す。

 すなわち田中氏は、私が「私は彼女に対して、直接にも間接にも、なんの要求もしていない」と書いているが、それは嘘だとして、その証拠として信濃毎日新聞のM記者の次のような証言を出してくる。彼はこう言ったそうである。「当時林氏から田中さんの文章の分量が多すぎるとの電話があり、それについて自分から田中さんに電話した」。この証言は、私が田中氏に対して何事かを要求したから、M氏がそれを受けて田中氏に要求したのではないことを、じつに明瞭に述べている。彼は私に要求されて田中氏に電話したのではなく、「自分から電話した」とはっきり述べているではないか。私は田中氏の文章の分量が多いという事実を指摘し、それに対する対応は彼に任せた。論争を公平にするのは担当記者の責任だからである。それを受けて彼は自主的に田中氏に注意をした。私が間接にもなんの要求もしなかったことは、田中氏が持ち出している彼の証言から、あまりにも明瞭である。私が嘘をいっている証拠として田中氏が持ち出したM氏の証言は、逆に私が嘘を言っていない証拠になっている。しかるに、その証言を、自分に有利なものと思いこんで書いている田中氏の頭はどうなっているのであろうか。

 次に田中氏は、私が田中氏を「離婚経験者」だと書いたことを槍玉に挙げて、「選挙運動の最中に、敵側候補者のあることないこと中傷する人間」と同じだと批判している。本人が言っているのだから、私の情報が間違っていたのであろう。私のミスである。(私はミスに気がついて、田中氏が指摘する前に、離婚云々の部分を『フェミニズムの害毒』に収録するにさいして削除した。)

 田中氏は私のミスを鬼の首でも取ったように攻撃することによって、田中氏が離婚のマイナス面について無視しているという私の批判には、まったく答えていない。論点をずらす技術にかけては天才的である。

 はっきり言っておくが、私のミスは人格攻撃ではない。本人も「恥ずべきことではない」と言っているのだから、離婚したことがあろうがなかろうが、たいした問題ではないはずである。恥ではないと言いながら、その問題にえんえんと関わっているのは、離婚のマイナス面についての議論から読者の目をそらすためと言われても仕方ないであろう。

 次に田中氏は、私の批判が人格攻撃であるかのように見せかけるために、次のような論法を考え出した。すなわち私の論法に一定の型があるというのである。それは「下司のカングリ」という型だそうである。

 たとえば、

 「田中氏が林の著書を批判するのは、株式会社『グループわいふ』の社長である田中氏の商売にとって、自分の主張がこの上なく都合の悪い営業妨害であるからだ」とか

 「田中氏が離婚のマイナス面という『現実』に面と向き合うことを避けているのは、自分自身が離婚経験者だからだ」とか

 「田中氏がテープを自分にわたそうとしなかったのは、それを闇に葬りたいからだ」などなど。

 これらはすべて「下司のカングリ」だそうだ。私が下司かどうかはとくかくとして(下司という罵倒も下品な人格攻撃だが)、カングリだと言うからには、カングリでない説明をしてもらいたいものである。たとえば、田中氏が離婚のマイナス面について全く何も言わないのはなぜなのか。私を批判した講演テープを渡すことを拒否したのはなぜなのか。専業主婦をあれほどに執拗に攻撃するのはなぜなのか。

 私の解釈が「下司のカングリ」だと言うのなら、正しい理由をきちんと説明すべきである。それをしないまま、相手の解釈を「下司のカングリ」と決めつけるのは、じつは痛い所をつかれた人間がそれを隠すためによく用いる手である。

 このように、田中氏の人格攻撃の手口は、私がやってもいない人格攻撃をデッチ上げるというやり方である。

 しかし、そういう手のこんだ手口ばかりでなく、田中氏はストレートな人格攻撃もやっている。たとえば、私がブントの出身だから、「人格誹謗をこととする攻撃スタイルは、ブントの伝統なのだろうか」と書いている。これはひどい中傷であり、ブント出身者全員に対する侮辱である。ある人の攻撃スタイルと、過去にどういう組織に属していたかとは、なんの因果関係もない。そういう意味のない相手の特徴を持ち出して、相手に悪い印象を押しつけるという攻撃スタイルこそ、田中喜美子氏に特有の攻撃性ではないのか。

 田中氏はさらに「林氏はかつて全学連で革命を夢想した。それは途方もない空想であった。」と書いている。これは事実無根の中傷であり、不当な人格攻撃である。私は確かに40数年前に全学連の指導者であった。しかし革命を夢想したなどということは、ただの一瞬もない。われわれの運動は社会をよくしようという運動ではあったが、革命ができるなどという夢想とは無縁の現実感覚をもった者たちの集まりであった。田中氏はブントとは何かを正確に知っているはずがないのである。ブントの中にいた者でさえ、ブントとは何であったのかを簡単に論ずることなどできないのである。田中氏がブントのことをいかにも知っているかのように、それも悪い人間の集団だったかのように印象づけようとするのは、ただ相手の何かの特徴をつかまえて悪いレッテルを貼るという卑怯卑劣な論争スタイルを取っている証拠である。

 田中氏が離婚したというのが事実無根の間違いだったというのなら、私が革命を夢想したというのも事実無根の間違いである。田中氏は相手に対して人格攻撃だと批判しているそっくり同じことを、その相手に対してしかけている。どういう人格なのであろうか。

 ちなみに田中氏がこういう昔の話を持ち出すのは、自分の「調査能力」とやらを誇示したいからかもしれない。田中氏は私の「調査能力が乏しい」と攻撃しておいて、そのかわりに自分の「調査能力」を誇示したいのだろう。いかなる場合も「勝った」と思いたい負けん気にはまことに恐れ入る。しかしその事実とやらを知るためには、たいした「調査能力」を必要としていない。私と小浜氏の対談『間違えるな日本人!』(徳間書店)で、私が自分の思想遍歴について自ら語っているにすぎないからである。その本の存在を知らない読者を感心させる効果を持つというだけの、こけおどしである。

 以上見てきたように、田中氏の方が一貫して人格攻撃をしかけ、私はそれに反論するという、いわば防戦一方であった。一度だけ「ヒステリー性格」で「人格破綻」と反撃したが、それも田中氏の攻撃の仕方を性格づけただけであり、正当防衛の範囲内である。

 

差別のデッチ上げ

 さて、田中氏のもう一つの人格攻撃は、私に対して「差別感覚に満ちている」と非難しているところである。田中氏は、私が一人親の子どもは犯罪を犯す率が、両親揃っている子どもより約10倍も多かったという事実を指摘したのに対して、「両親の揃っている中流家庭が犯罪少年を生み出す比率が増えてきているということなので、離婚家庭にのみ批判の矢を向ける林氏のセンスは、差別感覚に満ちている上に、まったくのピントはずれなのである」と述べている。

 これも田中氏がよく使う統計の意図的操作であり、すりかえ議論の典型である。両親の揃っている家庭の子が犯罪を犯す割合が増えているといっても、依然として一人親の子が犯罪を犯す比率は非常に高いのである。田中氏が使っている統計数字を鵜呑みにすると、両親の揃っている子の犯罪を犯す比率は、平成元年で71%、一人親の子は27%と読める。「両親の揃っている子の方が多いじゃないか」と思った人は、すでにしてだまされているのである。じつは一人親の比率は、親全体の中の5%前後である。つまり5%の親から27%の犯罪少年が生まれているのである。田中氏の使った統計の方が新しいので、少なくはなっているが、一人親の子が犯罪を犯す割合は、それでも7倍以上である。つまり私が「一人親の子が犯罪を犯す確率は非常に多い」(かつては約10倍だった)と言ったのは、田中氏の使った統計からも正しいことが証明されているのである。これは大きな社会問題であり、その原因を冷静に客観的に調べてみることは、われわれ大人にとっての必須の課題である。「差別」とか「ピントはずれ」などという、それこそピントはずれの批判をしている暇があったら、その数字の深刻な意味を考えてみたらどうか。「差別」「差別」と叫ぶのではなく、その数字の意味を正しく受けとめ、本当の対策を考えるのが、正しい大人の態度というものである。田中氏のように、数字のごまかしを使って他人の差別感覚をデッチ上げるやり方こそ、差別を作り出すもとだと言うべきである。

 

差別感覚は田中喜美子氏の方だ

 むしろ差別感覚を持っているのは、田中氏の方である。その証拠に、そのすぐあとで、田中氏はこう言っている。「基本的に、林氏ばかりでなく、心を病む人たちと接することの多い心理学者や医学者は『ふつうの人々』との接触が少ない。」そして自分は『わいふ』を通じて、この「ふつうの人々」と「接触する幸運に恵まれた人間である」と言っている。こういう言い方が、どれほどの差別意識を前提にしているかを、田中氏自身が気づいていないところに、田中氏の差別意識の病根の深さが現われている。

 そもそも「心を病む人」と「ふつうの人」とを区別することなどできないのである。「ふつうの人」が心を病むのであり、心を病んでいる人は「ふつうでない人」なのではない。「心を病んでいる人」は「ふつうでない人」だという見方は間違いである。このように「心を病んでいる人」と「ふつうの人」を不当に区別することは、差別感覚を持っていなければできないことである。

 田中氏は「心を病む人たちと接することの多い心理学者や医学者は『ふつうの人々』との接触が少ない」と断定しているが、そんなことを一般的に言うことは不可能のはずである。「心を病む人たちと接する」職業の人で、「心を病んでいない人たち」(田中氏の言う「ふつうの人」)と多く接している人は山ほどいる。私自身も「心を病んでいる人」との接触よりも「ふつうの人」との接触の方がはるかに多い。一般的には言えないことをさも一般的な真理であるかのように断定する裏には、自分の方が優越していることを誇示したい心理が働いている。『わいふ』編集長であることの優越性を高く売り込みたい心理である。

 しかし、どんな雑誌でも、その読者には一定の傾向というものがあり、『わいふ』に投稿する女性たちにも一定の傾向がある。その意味で『わいふ』の編集長をやっていることが、彼女の現実認識にむしろ一定の歪みをもたらし、マイナスに働いていることは、すでに『フェミニズムの害毒』の中で詳しく指摘した(248〜255頁)。

 このように自らの優越性をことさらに誇示したがるところにも、田中氏の権力欲と自己顕示欲が強く顔を出していると言うことができる。

 もう一つ、田中氏の差別感覚を示す言葉を示しておこう。田中氏は私に対して「下司のカングリ」という言葉を投げつけた。「下司」とは「身分のいやしい者」という意味から転じて、「心のいやしい者」という意味である。これは差別言葉そのものではないか。いくら論争の相手が憎らしいからといって、こういう下品な差別語を投げつける方がよほど「下司」ではないのか。

 

田中喜美子氏の論争スタイルの特徴

 以上見てきたことからも分かるように、田中喜美子氏の論争のやり方には、一定の特徴が見てとれる。それは嘘による中傷と、デッチ上げや見せかけによる人格攻撃である。自分が嘘をついているのに、相手が嘘をついていると言い立てる。自分が人格攻撃をしているのに、相手が人格攻撃をしているかのように見せかける。また自分が事実誤認をしているのに、相手がしていると非難する。自分が差別意識を持っているのに、相手が差別していると非難する。

 このような攻撃の仕方は、負けず嫌いな人間の特徴である。田中氏は負けん気だけで論争をしている。論争をフェアにしなければならないなどという精神はみじんも持ち合わせていない。

 田中氏のように、自分がやっている罪を、相手がしたと宣伝するのは、過去においては、たとえばオウム真理教がサリンをまきながら「毒ガスで攻撃されている」と宣伝した例が思い出される。

 田中氏の論争の仕方を見ていると、悪態をついて相手を人格的に貶めるテクニックや言葉ばかりが発達している。この論争の中で田中氏が使った罵り言葉や嘲笑言葉は「バカな男」「学者ってのはしょーがない」「天然記念物」(私のことを天然記念物だと言うので、大切にしてくれるのかと思ったら、じつは「古い」という意味の軽蔑言葉であった)「猫がはだしで歩くのも、郵便ポストが赤いのも、みんなフェミニズムのせいか」「下司」「あわれむ」「革命を夢想」「人格誹謗はブントの伝統」「現実無視の学者は消えゆくのみ」「(日本の)滅亡に拍車をかける」(ついでに言えば共著者の鈴木由美子氏は私の「所業」という言葉を指して「老人語」だと嘲笑った)(『母性崩壊』PHP研究所、153〜6頁)。彼女たちはずいぶんと下品な言葉で相手の人格を攻撃するのが得意なようだ。

 田中氏の論争の技術は、意地悪で負けん気だけ強い女の特徴を示している。すなわち悪態をつく技術だけは発達している。支配欲、権力欲の強い女によくあるタイプである。

 今回の論争は、フェミニストに特有の権力欲と支配欲を、図らずもあぶり出したということができる。

 さて、論争のスタイルについてはこのくらいにして、次に内容を見ていきたい。

 

3 一貫した家庭破壊の心理


本質の第一は女女差別 ─ 始まりを見れば本質が分かる

 ものごとの本質は始まりを見ると明らかになる場合が多い。この論争は、フェミニズムが専業主婦を不当に差別していると私が批判し、その復権を提唱したのに対して、田中氏が批判したのが始まりである。

 田中氏をはじめとするフェミニストたちの専業主婦批判の要点は、専業主婦という存在形態そのものに向けられている。すなわち、専業主婦という存在形態は生産的でなく、女性の自立を妨げるものだという認識を基礎にしている。

 この認識そのものが間違っていることは、論争の中で私が詳細に論破したとおりである。専業主婦の仕事はきわめて生産的であり、経営の能力や、多種の仕事を組み合わせて行う高度な能力を必要とする。また自立に関しても、外で働いて給料をもらうことだけで自立が達成できるわけでもなく、専業主婦だからといって自立できないわけでもない。専業主婦が自立していないという認識は、自立イコール経済的自立と思い込んでいる者の単純な間違いにすぎない。

 ただ論争の中で十分に明らかにできなかったことがある。それは専業主婦否定が明らかに女女差別であるという側面である。フェミニストたちは男女差別をなくすのだと言いながら、実際には露骨な女女差別をしているのである。非生産的でもなければ、自立していないわけでもない女性たちに対して、「非生産的だ」「自立していない」と非難するのは、明らかに不当な差別と言わなければならない。

 またフェミニストたちは性別役割分担そのものを否定するので、性別役割分担を前提にする専業主婦形態を否定しなければならないことになる。しかしそうすると、フェミニストたちが唱える「多様な家族形態を認めよ」という主張と矛盾してしまう。これもまた専業主婦という家族形態を選んだ女性たちに対する差別を意味している。この矛盾にはフェミニストたちは一貫して目をつむっている。

 こうした女女差別を浮かび上がらせたことが、今回の論争の思わぬ副産物であった。

 

田中氏の専業主婦への差別意識の源泉

 フェミニストたちの中でも田中氏はとくに専業主婦への差別意識が強いが、そういう強い差別意識がどこから出ているかを、彼女が自ら語っている箇所がある。これを読むと、フェミニズムへの道がいかなる心理から出ているかが実感としてよく分かる、貴重な資料である。彼女はこう語っている。

 「思えば私の周囲に自分から相手を愛して結婚した女性は誰一人ありませんでした。」(『エロスとの対話』新潮社、47頁 ─ 下線筆者、以下同じ)

 結婚した「当時私は、まだ学者になるつもりでしたから、結婚生活と学業を両立させるためにはげしく努力しました。といっても、家事は大嫌いでしたからもっぱら勉強に集中していたのです。」「夫は平然と、私のしたい放題にさせていました。別に私を深く愛していたからではありません。ただ単にそれは夫にとって『どうでもいいこと』だったのです。彼にとって守るべき男性の『沽券』は、そんなところにはなかったのです。」「こうして私の結婚生活は『男女平等』の外見をまとってスタートしたのでした。」(同右、105頁)

私が世間並みの女性だったら、夫の社会的成功を誇りとし、『内助の功』を自分の生きがいとしたかもしれません。しかし私は、そこまでおろかではなかったのです。夫の社会人としての成功は、(失敗はまた別ですが)妻とは何の関係もありません。とりわけ学者の業績などというものは。」(同右、119頁)

 「夫婦の真の平等と、対等な人間同士の愛情は、妻が夫に依存する存在ではなく、社会的な仕事を持つ人間となる以外には生まれ得ないのです。

 現代の日本で、とりわけもう若くない世代の夫婦において、それは超人的な? 努力なしには手に入りません。それゆえ大多数の妻たちは、主婦である身分にとじこもったまま、趣味や、おけいこごとや、市民運動や、パートの仕事に日を送っています。そうした日常が、夫婦の仲をますます遠ざけ、夫に『粗大ゴミ』の運命を用意するものであることに気付かずに・・・。

 私の結婚もまた、その運命をたどるところでした。しかし何事においてもとことんつき進む私は、40代の半ばになったとき、知らず知らずのあいだに、この構造の外に出る道を選んだのです。

 それは夫との鮮(せん)烈な戦いなしにはあり得ませんでした。」(同右、133〜4頁)

 ここには、愛のない結婚の結果として、関心を家庭の外へ外へと向けていく心理が赤裸々につづられている。愛のない家庭から逃れる道は、がむしゃらに学問への道を突き進むことであった。そのような夫婦にとって、なるほど「夫婦の真の平等と、対等な人間同士の愛情は、妻が夫に依存する存在ではなく、社会的な仕事を持つ人間となる以外には生まれ得ないのです」と感じられてしまうのであろう。しかし彼女が外に自分の世界を持った結果、本当に夫婦間に「人間同士の愛情」が生まれたのであろうか。ここまで詳しく書いているのに、その後のことは一切書かれていない。夫は初め「鮮烈な戦い」をしたそうだが、しかし離婚の道を選ぶのでないかぎり、しまいにはただあきらめて、見せかけの平和に甘んじるほかなかったのではないだろうか。

 一般的に言うと、母性を欠いて育ち、したがって自らも母性を持たない女性は、出世欲・権力欲・名誉欲にとりつかれる傾向がある。そこから「世間並み」の専業主婦を「おろか」だと低く見る差別意識が育つのである。田中氏はこう言っていた。「私が世間並みの女性だったら、夫の社会的成功を誇りとし、『内助の功』を自分の生きがいとしたかもしれません。しかし私は、そこまでおろかではなかったのです」。「『内助の功』を自分の生きがい」とする生き方は「おろか」だと言われている。これほどの差別意識に私は出会ったことがない。私は内助の功を自分の生きがいとする人生も立派だと思う。口では価値観の多様化を唱えておきながら、ある価値だけは「おろか」と軽蔑するのは、許し難い差別である。

 

4 母性解体を隠蔽する「事実誤認」キャンペーン

 さて、この論争において第二に明らかになったことは、田中氏の子育て論がきわめて偏向したものだということであった。田中氏は、母親による家庭保育を一貫して否定し、母親は育児に向いていないとまで極論する。そのかわりに無条件で賛美するのが保育園である。母性が子どもに対して持っている大切な意味については無数の科学的・実証的な研究があるのに(拙著『母性の復権』参照)、それを無視して母親による保育のマイナス面ばかり強調するのは、「母性」という言葉に対する強いトラウマないしコンプレックスがあるとしか考えられない。

 田中氏の母性コンプレックスのもとは、幼児期に母性に裏切られた体験が

あるからかもしれないという問題については、拙著『母性崩壊』において明らかにしている。その中で私はこう書いた。

 「(田中氏は)一貫して母性の意味を軽視し、矮小化しようとしている。母のしつけも、母が遊んでやることも、母とのコミュニケーションも、母子一体化も、それらがいかに必要でありいかに大切かということに対する認識がまったくないままに、母親など必要ないということしか言っていない。こういう異常な偏りは、自分が母性崩壊者であり、自分の間違った子育てを正当化したい者によく起きる現象である。

 田中氏自身が書いているところによると、彼女が5歳のときに、両親がイギリスに言ってしまい、姉妹は別々に3年間親戚に預けられたという(『働く女性の子育て論』新潮社、64頁)。私が親なら、なんとかして子どもも連れていく。もしそれができないときは、父親が単身赴任する。5歳の子と母とを引き離すようなことはなんとしてでも避ける。姉妹を別々にすることもなんとか避ける。そんなことができるとは、田中氏の母親の母性はすでに崩壊していたと言うべきである。

 また田中氏は、自分の子どもはいろいろな人が育児に参加してくれたので、楽だったと書いている。自分も母性を十分に受けていない可能性がある上に、自分の子どもにも母性を十分に与えていない可能性がある。そういう人だからこそ、『母親が自分の手で育てる』方式を平気で否定できるのかもしれない。」(『母性崩壊』PHP研究所、167頁)

 このような心理を持っている者は、現実認識についても著しい偏向を示すものである。田中氏は一貫して、たとえば「日本の子育ての最大の問題は、ゼロ歳から一、二歳の乳幼児期に、子どもをすっかり甘やかしてしまうことにある」(『諸君』平成11年10月号、231頁)と主張している。そして、あいも変わらず「専業主婦の密室育児」が子どもをだめにしてしまう原因だと言い続けている。

 これこそ現実をまったく理解していない言葉である。今の子育ての最大の問題点は、母親たちの中に「子どもを可愛がることができない人」がどんどん増えていることである。しかし田中氏はいつまでたっても古い色眼鏡でしか世の中を見ることができない。頭が固くなっているので、「子どもを甘やかす」という一方の現実しか理解できなくて、「子どもを可愛がれない」という他方の現実を理解できなくなっているのであろう。

 田中氏は私の主張に一箇所だけ賛成だと言っている。田中氏の引用する私の文は次のとおりである。「この人たちは(母親のこと ─ 田中氏注)一見『密着育児』のためにイライラしているように見えるが、しかし実態を調べてみると、ぜんぜん『密着』などしていないのである。(中略)子どもからリビドー(心的エネルギー・心的関心)が引き上げられている感じである。」これに対して田中氏は「これは本当のことだと思う」と書いている。しかしこの私の文章の本当の意味を彼女は理解していない。彼女が「中略」として飛ばしてしまった箇所に大切なことが書かれている。そこには「『子どもに正しく密着できない』病とでも言うべき状態なのである」と書かれている。この「子どもに正しく密着できない病」という状態こそ、私が「母性不足」どころか「母性解体」とか「母性崩壊」と呼んでいるものなのである。この肝心の箇所を「中略」しては、正しい理解とは言いかねるのだ。ここを理解していないからこそ、田中氏は「ほんとうのことだと思う」と言いながら、続いて母性不足を否定し、むしろ母と子を引き離すことばかりを推奨するのである。

 事実を正しく見ていないのは田中喜美子氏の方である。それなのに、事実を正しく指摘している私を「事実誤認」と宣伝し、「現実を知らない」ために「国を亡ぼす」とまで非難するのは、じつは「母性崩壊」という本当の事実が明らかになると「働け」イデオロギーにとっては都合が悪いからである。母性解体を隠蔽し、子どもたちの虐待の本当の原因を歪めて示す田中氏たちフェミニストこそ、「国を亡ぼす」元凶と言うべきである。

 

 以上、要するに、林 - 田中氏論争は、田中氏の母性論の歪みを引き出すことを通じて、フェミニズムの母性論の歪みをもまた明らかにしたのである。

 

5 無反応と過剰反応が意味するもの


反論しなかったことが物語るもの

 以上の主要な特徴のほかに、この論争を振り返ってみて、非常に目立った特徴がある。それは重要な論点の中で、田中氏がまったく反論しなかった論点がいくつもあるということである。田中氏が反論できなかった点を見ると、田中氏の本質が見えてくる。

 この論争を通じて、田中氏には二度も反論のチャンスが与えられたにもかかわらず、まったく反論しなかった事柄がある。それも「重大な中傷だ」「人権侵害だ」と金切り声を発してもいいような、私の根本的な批判に対してもである。

 内容的・理論的にまったく反論がなかった点を列挙してみよう。

1 「カルト的勧誘」とまで言われたことに対して

2 「人格破綻のヒステリー性格」とまで言われて

3 「事実誤認はデッチ上げ」に対して

4 「専業主婦は非生産的でない」に対して

5 「離婚のマイナス面」について

 いずれの問題も論争の主要な論点であり、田中氏には答える義務のある問題である。とくに「事実誤認」と「専業主婦は非生産的」という問題は、自分の方から言い出した問題である。それに対する私の反論に、再反論することができなくなったとしか言えまい。

 また「離婚のマイナス面」についても、「マイナスはない」とはついに言えなかった。「離婚経験者」だと言った私のミスを責めることによって、肝心の「離婚のマイナス面」については意見を述べることを免れたと思っているらしい。都合の悪いことには「知らんぷり」という態度なのであろう。無反応は、私の批判を認めたと同じことである。

 

激しい反応が物語るもの

 それと違って、田中氏が激しく反応した論点がある。それを同様に列挙してみよう。

1 「商売にしている」という批判に、田中氏は一番ヒステリックに反応し、「下司のカングリ」と反発している。

 「下司のカングリ」という言葉は、じつは一番痛いところをつかれた者が、反論できないときに使う言葉である。このことは「商売にしている」という私の批判が的を射ていたことを自ら白状しているようなものである。

2 「嘘つき」という批判に対して

  田中氏のような「事実を重んじ」、相手を「事実誤認」だと批判している人間にとっては、証人・証拠という事実に関する反証が一番痛いことを示している。信濃毎日新聞をめぐる論争では、田中氏は完全に負けている。田中氏が嘘を言っていたことは誰の目にも明らかである。     

 焦った田中氏は、再び証人を持ち出したが、その証言はむしろ私の言っていたことが正しいことを証明する結果となった。

3 田中氏は離婚と保育園の批判に対して、もっとも強い反発を示し、しきりに「差別だ!」といきまいている。いくら「差別だ」と言っても、なんの反論にもなっていない。そのマイナス面がないことを証明してみせる以外に有効な反論はありえない。しかし、そういう反論を彼女はまったくしていないのである。

 離婚と保育園の問題に、田中氏がヒステリックに「差別だ」と叫ぶのは、田中氏が「働け」イデオロギーの持ち主たちの利害を代弁していることを示している。すなわち、「働け」イデオロギーの強い女性は離婚する確率が高いし、また働く女性にとって保育園は絶対の必需品だからである。

 田中氏は「働けイデオロギーは無力だ」と繰り返し、そんなものには専業主婦たちは動かされていないと言っている。彼女は「日本の主婦が・・・心からの充足感を見出すことができないのは、人間の本質的欲求である『労働』の場に正当に受け入れられない現実から来ている」とフェミニズムの公式を述べているが、これこそが「働け」イデオロギーの真髄なのである。母性本能が壊れてしまった者、家事や育児が嫌いな者から見たら、労働の場だけが人間の本質的な欲求に思えるのであろう。それはマルクス主義の考え方でもある。こういうイデオロギーで煽られるから、主婦たちは家にいることに対して不安になり、自信をなくしてしまい、「心からの充足感」も感じられなくなってしまうのである。

 「働け」イデオロギーによって家庭の中に不和がもたらされたり、離婚などの家庭破壊が結果することもある。「働け」イデオロギーの悪影響はまことに大きいのである。「働け」イデオロギーが無力だなどと言いつくろうのは、ごまかしと言うほかない。

 

論じられなかった問題

 論争というものは、相手の程度によっても水準が決まってしまうところがあり、相手が愚かな誤解をしていると、それに対する反論にエネルギーを割かれてしまい、問題が深まらない場合がある。この論争はそうした傾向が多分にあり、私の論の多くは田中氏の間違いや嘘に対する反論に多くを費やされてしまった。そのために大切なテーマまで深められなかった問題がある。その中の最大のテーマは、家族のあり方と専業主婦との関係というテーマである。すなわち家族・家庭のあり方の質や、家族の存続にとっての専業主婦の意義という問題である。簡単に言うと、専業主婦がいると家族の質にどういうプラスの影響があるかという問題である。

 専業主婦というものは、歴史的に見ると、貴族社会や武家社会における「奥方」「奥様」の家政を司るというマネージメントの役割と、召使いや家僕がやっていた直接的な家事労働の両方の部分を、近代家族において一人で背負うようになった存在である。会社で言えば、社長や取締役会の役割と、社員の役割の両方を一人でこなしているようなものである。

 直接的な肉体労働の部分は機械化によって急速に楽になったということが、家事と家政を一人でこなすことを可能にしたと言うことができる。この主婦の仕事を肉体労働の部分だけで捉えると、田中喜美子氏のようにこの部分は機械化や外部産業化によって必要なくなったので、主婦の仕事は非生産的になったと思ってしまう。それは主婦の仕事の精神的な部分を評価していない誤りである。

 この精神的なマネージメントの部分に専門的に携わる人がいるということは、しかもそれを家族以外の人の手にゆだねるのではなく、家族の内部の信頼できる人の手に任せられるという原理は、家族の存続にとってたいへん有利な条件と言うことができる。こういう意味で、私は『主婦の復権』において「専業主婦は歴史的にもっとも進んだ形態だ」と言ったのである。

 近代家族においては専業主婦が家政の中心であり、専業主婦をなくして、夫婦共働きになることは、専門に家政に携わる人がいなくなるということを意味しており、家族の存続を質的に高い水準で維持していく上では不利になる。とくに子どもを育てるという点では決定的に質が落ちるのである。それは家事という肉体労働の面で半分ずつやればいいとか、子どもを保育園に預ければいいという物質的な問題ではないのである。家庭のマネージメントという精神面、子どもの情緒的な発達という心の面、家族の心理的な満足や安定という重大な意味を見失ってはならないのである。

 この精神的な専業主婦の仕事の質を高くするためには、専業主婦の精神的な評価と待遇とをよくする必要があるということこそ、私が専業主婦についてつねに主張してきたことであった。

 田中喜美子氏の決定的な欠陥は、専業主婦の問題を考えるときに、この精神的・心理的なメリットをまったく考慮に入れていない点である。したがって、専業主婦を否定することがまっすぐに家族破壊につながっているということを、まったく理解していない、というよりは無意識の中に家族を破壊したいという欲求があるのかもしれないのである。

 田中氏は「林氏は・・・専業主婦のいる家庭形態を『もっとも進んだもの』と考えているようだが、歴史が停止・完成するということは絶対にありえない」と述べているが、頭が悪いせいなのか、意図的に相手の言う事を歪めているのか、理解に苦しむ。私が「もっとも進んだ」と言ったのは、これまでの歴史の中でという意味であり、それを「歴史が今のままストップする」という意味や、「専業主婦形態が歴史上最終的な形態だ」という意味に理解するのは、悪意ある曲解と言うべきである。

 その証拠に、私は『主婦の復権』の中で次のような「歴史的な見方」をはっきりと述べている(「歴史的な見方」とは、現在あるものが最終的形態ではなく、今後も歴史的に変化していくという見方である)。

 「女性が外に出て働くことができるという要素と、親の一人が家に子供と一緒にいて子供の情緒的発達にプラスの役割を果たすという要素(これは現在では主婦によって実現されている)は、どちらも大切な要素であり、歴史的に進歩的な要素である。この両方の要素が同時に実現されるような形態が、次の時代の社会で生まれることは可能である。」(203頁)

 これを見れば、私が「歴史は停止・完成する」などと馬鹿なことを考えていないことは明瞭であろう。批判というものは、相手の主張を正しく理解した上でしてもらいたいものである。

 この例に典型的に表われているように、田中氏は相手の言っていることを歪めて悪く描き、それを馬鹿にするという汚い批判のやり方を繰り返しやっている。

 

結 論

 以上、田中氏との論争の特徴を整理してみたが、これによって田中氏の論争の手口が明瞭に浮かび上がったと思う。論争のテクニックとしては、人格攻撃に終始し、相手の人格を貶めておいてから、論争を有利に進めようという戦略を使っている。そのやり方の中から、田中氏の負けず嫌いと権力意志という特徴が浮かび上がってきた。この特徴はフェミニストたちが多かれ少なかれ共有している特徴である。

 そして内容について言うと、母性の否定と、家庭破壊という特徴も明らかになった。これもまたフェミニズム一般に特有の思想傾向である。田中氏はその思想的特徴をいささか戯画的に極端に体現している人間なのである。

 フェミニストは「母性解体」「母性崩壊」という事実を認めたくない。それは「働け」イデオロギーにとって都合の悪い事実だからである。だから正しい事実を指摘している私を「事実誤認」だと言って攻撃し、真実から人々の目をそらそうとしている。私に対する「現実を知らない」という攻撃は、自分たちに都合の悪い事実を隠すための煙幕である。こうした戦略は、かつてマルクス主義が陥った過ち、すなわちイデオロギーによって事実や理論を歪曲するという過ちを、またもや繰り返すものである。

 田中氏という人物は、これらのフェミニズムの悪しき本質を、典型的に備えた人間であると言うことができる。彼女はフェミニストの中で、母性を否定し、専業主婦を攻撃し、外で働く方向へと誘惑する役目だったからこそ、私の『主婦の復権』がその邪魔をするものだと正しく察知して、私に対してあれほどにヒステリックな攻撃を加えたのである。私と田中氏との論争は起こるべくして起こったのであり、現在のフェミニズムをめぐる状況を見事に反映していたのである。

 

 

付論 「わいふ文章講座のおすすめ」について

『わいふ』には、毎号次のような宣伝文句が載せられている。

 

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 公民館、女性センター、社会教育課のご依頼で、しばしば「わいふ文章講座」を開いています。

 編集長田中、副編集長和田、「わいふ」から巣立ったライターたちを講師とし、5回から10回のコースがあります。

 その他に、「子育て」「教育」「女性」「高齢者」「社会参加」など、各種の問題について講演をいたします。老人ホーム情報センター主任研究員の水落も担当します。

 お住まいの地域で開きたい方は、お電話をください。資料をさし上げます。それを持って公民館、教育委員会の社会教育課などに開講を頼んでみてくだされば、引き受けてくれるところも多いと思います。

PTA主催の成人教育、家庭教育学級での講師としてもご依頼ください。 >>

 

 これは決して単なる中立の「文章を書く」技術を学ぶための講座ではない。

 これはフェミニズム注入のための昂然たるオルグ活動であり、「子育て」「教育」「女性」「高齢者」「社会参加」といったフェミニズム得意のテーマについての「文章を書く」訓練を通じて、フェミニスト活動家を育てようという活動である。

 それを「公民館、女性センター、社会教育課」といった公の機関を利用して進めようという、最近フェミニズムが取っている戦略を典型的に実践する活動である。

 一般の女性たち、とくに家庭の中だけにいたくないという心理を持っている専業主婦は、ふらふらっとこれに参加すると、いつのまにか洗脳されてしまう危険がある。

 上に述べたような人格とエセ理論を持つ田中喜美子氏とその一派が指導するこのような講座に参加しないように警告しておきたい。

 公民館によっては、職員がフェミニズムに洗脳されていて、進んで田中喜美子氏一派を講師に呼ぶ例もある。たとえ一般の市民からの「希望」という形を取っていても、その背後にはこうした『わいふ』誌上での呼びかけに呼応した「希望」である場合があるから、自治体の関係者は慎重に対処していただきたい。

 また市民の方々も、公の機関がこうした党派的な活動に場を提供しないように監視していただきたい。