フェミニズム批判

 

5 林-田中論争

  資料1 主婦を惑わすカルト的勧誘

  (初出『諸君!』平成11年6月号、のちに『フェミニズムの害毒』草思社の6章)

 

 自治体の生涯学習課や公民館主催の女性セミナーには、たとえば10回連続ならその中の少なくとも2、3回はかならずフェミニストが講師として招かれる。聴講者はほとんどが専業主婦。そこでなにが話されているか。フェミニストは「専業主婦は夫や子どもに仕えるだけの、生きがいのない、つまらない存在だ」「家の外に生きがいを探せ」と扇動しているのである。この思想に洗脳されると、夫との対立が深まり、子どもへの関心が薄れ、家の中の仕事がばかばかしくなり、外で仕事をもつ女性たちを羨ましく思うようになる。

 健全な社会の基礎である健全な家庭の維持にとって、主婦のあり方は決定的とも言える影響力をもっている。とくに専業主婦の存在は家庭のあり方や子どもの育ち方にとって、大きなプラスの意味をもっている。

 しかるに、フェミニストたちが主婦の不満を煽り、洗脳していくさまは、宗教的カルトの手口に似ている。ちょうどカルトにまず主婦が引きずりこまれ、夫が抵抗すると夫婦分裂となるか、夫も引きずりこまれて家庭崩壊にいたるかのどちらかになるのに非常に似ている。似ているのは、そうした現象だけではない。主婦を引きこむ手法も、じつによく似ているのである。

 世の男性たちをはじめ、主婦向けの講座に関心のない人びとは、そういう現実をご存じないであろう。日本の男性の中には、政治や経済に関することにくらべて、「女、子どものこと」を軽視して、あまり関心をもたない傾向も一部にはあるが、それではいけない。まさに「女、子ども」の傾向が、つまりは子どもにとっての環境が、日本社会の未来に重大な影響を及ぼすからである。以下、フェミニストによる洗脳の典型的な例を紹介しよう。

 

主婦の不満を煽(あお)って誘(さそ)う

 

 私の手元に1998年9月に行なわれた、大宮市立公民館主催の講演会の録音記録がある。講師は「主婦の投稿誌」『わいふ』の編集長、田中喜美子である。この録音を聞いて私は正直、驚いた。

 支離滅裂な話だから、なにを言いたいのか論理的にはまったくわからないが、感情に訴える手法で、確実にあるメッセージを彼女は伝えている。それは、専業主婦などはつまらないから、専業主婦をやめて他の生きがいのある生き方を探しなさい、というメッセージである。

 

田中喜美子の異常な反応

 この講演会に田中は『主婦の復権』を持って現われて、それを振りかざしながら次のように批判した。フェミニストの「批判」なるものがいかに異常であるかを知ってもらうために、その部分をテープから忠実に再現する。

 田中喜美子は私に対してこう批判している。

 子どもを産んで育てることをおろそかにしていいと思っている女性は一人もいません。男女平等のためには、いちばんラディカルに考えれば、子どもはいらないわ、子どもなしで働くわ、自立するわというのがいちばん簡単です。そう思っていらっしゃる方、手をあげてください。一人もいませんね。そう思っている女性など日本には一人もいません。ところが、女性はそう思っていないんじゃないかと思っているバカな男たちはいっぱいいます。っていうのは、林道義さんという人がいる。この方、最近『主婦の復権』という本を出した。この人は前に『父権の復権』という本を出して、『父権』というのは『父親の権利』と書くんです、いいことを言ってくれる方が出たと喜んでいたんですが、今度は『主婦の復権』という本を出した。

 この本に私はご縁があるんですね。『週刊読書人』から電話がかかってきて、『主婦の復権』の書評をしてくださいと言ってきたんです。どんな本って聞いたら、こういう本と電話口で言ってくれた。聞いたとたんにムカついちゃって、そーんな本なんか絶対いやーよ、ジョーダンじゃない! しない! って断っちゃった!  しかしそこが私のばかなところで、ある日、本屋に行ったら、この本が平積みになっていた。パラパラとめくったら、ひっどい本なんですね、ひっどい本(笑い)。あんまりひどいんで怒っちゃって、怒りのあまり買っちゃったんです(爆笑)。ばかですよねー。なにーしろ、ひどい本!  この中で林さんが言っていることは、女は子どもなんかどうでもいいと思っている。みんながフェミニストに煽られて家庭を放棄し子どもを放棄して外に出ようとしている。だから世の中がこうなっちゃったんですって。ほーんとに学者ってのはしょーがないですね。事実がぜーんぜんわかっていない。ここへ連れてきたいです(爆笑)。ほんとに誰一人、子どもなんてどうでもいいと、家庭などどうでもいいと思っている人などいやしないんです。いないんです。もう黒めがねかけて、色めがねかけて世の中見てるからね。学者の欠点なんですね」。

 これが私の『主婦の復権』に対する批判である。批判ではなくて、悪口、いや悪口でさえなくて、ただの罵倒である。ただ「ひっどい本、ひっどい本」とヒステリックに叫び、「学者の悪いところ、事実がわかっていない」「宙に浮いた議論だ」と言っているだけである。内容的にはなに一つ批判をしていない。いや一箇所だけ内容にふれていた。「女は子どもなんかどうでもいいと思っている。みんながフェミニストに煽られて家庭を放棄し子どもを放棄して外に出ようとしている。だから世の中がこうなっちゃったんですって」というところ。

 私は「女は子どもなんかどうでもいいと思っている」と言っている「バカな男」呼ばわりされている。この反応は異常である。私が言ってもいないことをでっちあげて「バカ」だとののしり、『父性の復権』を『父権の復権』と間違えて「父権」はいいと言い、「主婦の復権」はいけないというのは、田中が本来言うべきことと反対ではないのか。「父権」などというものは、男性の私でさえ男女平等の立場から反対しているのに、それをいいことだと言い、本来賛成すべき「主婦の復権」に反対する。まるで逆さまであり、無茶苦茶である。

 こういう支離滅裂な感情的な反発の裏には、たいていなにか秘密が隠されているものである。

 

田中にぴったり当てはまっていた私の批判

 じつは種明かしをすると、『主婦の復権』に書いた私のフェミニズム批判は、ぴったりそのまま田中喜美子の理論と活動に当てはまっていたのである。

 私は『主婦の復権』の序章で、フェミニストたちが「専業主婦とはつまらない存在であり、子どもにとってもよくない影響を与えるので、なるべく外に出て、もっと有意義な人生を送れ」と言っていることが、主婦たちをよけいに悩ませ、彼女らを浮き足立たせて、家庭や子どもの躾をおろそかにさせているという事実を指摘した。

 その批判したとおりのことをやっているのが田中喜美子であり、『わいふ』誌なのである。田中は、私が事実でないことを本に書いているとか現実を知らないとか言っているが、私が告発していたことはたしかな事実であった。そのことは、田中の講演記録そのものが証明している。

 その事実をいままで私は主婦たちからの聞き取りによってしか知らなかった。しかしこの度、実際に田中の講演のテープを聞いてみて、私が批判していたのとまったく同じ心理誘導を、私の批判を読んだのちもそのまま実行している田中の姿が浮かび上がってきた。その心理誘導の手口は、フェミニストたちがなにをやっているのかを知る上でたいへん重要な資料であるから、その内容を広く知らせたいと思う。ふたたびテープを忠実に再現する。なんと、彼女の心理誘導の仕方は、私が想像していた以上に巧妙で悪辣なものであった。ただ壇上からアジテーションをするだけかと思っていたら、田中の手口はそんな生易しいものではなかったのである。

 

主婦とは「夫の妻」 ?

 彼女はまず、「私は主婦の投稿誌を23年もやってきた」と自らを権威づける。しかし「あなた自身は家事をやってこなかったのだから主婦でないでしょう」と言われるのを恐れて、「主婦」の定義を勝手に歪める。彼女は主婦を定義して、「 主婦とは、夫と婚姻によって結ばれている女性のことです」と言う。

 こういう主婦の定義を私ははじめて聞いた。珍説である。ふつうフェミニストの本においてさえ、「主婦」の定義はだいたい決まっていて、「近代に生まれた、自分で家事・育児をする妻」と定義している。だから専業主婦という存在は近代にのみ特有の現象なのである。つまり封建時代の貴族や上級武士の妻は、自分では家事をしないで召使いにさせていた。ところが召使いを雇うことができなくなった近代社会では、奥様が自分で家事をしなければならなくなった、というわけである。こうして近代に特有の専業主婦という存在が生まれた。この主婦の定義を田中はあっさりと捨てて、「 主婦とは、自分で家事をしなくてもいいんですよ、夫と婚姻によって結ばれていれば、主婦なんですよ」と言う。

「夫と結婚している女性」のことは、日本語では「妻」と言うのではないのか。それでは「妻=主婦」ということになってしまい、近代でなくても、いつの時代にも専業主婦がいたことになってしまう。妻と区別される意味での専業主婦とはなにか、なにも説明されない。

 はじめから滅茶苦茶である。こんな無理な「主婦」の定義をするのには、じつは理由がある。というのは、彼女は自分が主婦でない、あるいは主婦落第だと言われるのをなによりも恐れているのである。それでは主婦の味方だとか、主婦問題について発言する権利が半減すると思っているのである。だから彼女はこう言う。「 家事をするというだけでは主婦とは言えません。私は家事をしていません。私が取ってくる給料を、私より高給取りのお手伝いさんに渡して、やってもらっています。でも私は主婦です。なぜなら、私には夫がいるからです」。彼女はフェ理屈によって、強引に自分は主婦の仕事をしていないけれども主婦だと言いくるめる。( 自分の給料より高い給料をお手伝いさんに渡せば、赤字のはず。その赤字はどうして埋めるのか?  夫の給料から? それなら彼女は夫に依存しているのでは? )

 これはじつは自分の弁解だけでなく、あとで私を貶めるための伏線なのである。つまり林という人はもちろん主婦ではないが、その『主婦の復権』は主婦の現実を知らない学者の「宙に浮いた議論」だと言いたいのである。それに対して自分については「私は頭は悪いし、学者ではないが、現場を知っているから本質を理解している」と言う。「現場」とは、『わいふ』に投稿された主婦のナマの声を「読んでいる」ことだと言う。

 彼女が本当に主婦についての「現実」をつかんでいるのか、「学者」の私より本質を理解しているのかどうかは、あとで明らかにする。ともあれ、まず彼女の心理誘導のやり口を見てみよう。

 

サクラを使って誘導

 さきの前置きのあとで、田中はいよいよ本題に入る。まず最初に質問をする。

私、専業主婦でよかったわー、って思ってらっしゃる方、手をあげてください。えーと、一人か二人ですね。えっ、いっぱいいる! 半分近いかな、いや半分ぐらいですね」。一人か二人を予想していたのに、半分もいるのに驚いた様子。「 では専業主婦でいやだと思っている人。えっ、一人もいない? あっ、一人いた」。

 専業主婦でいやだったという主婦が一人しかいないという状況に対して、当てがはずれると同時に、ちょっと困った様子。

 彼女は、「よかった」という人の意見を聞かないで、強引に「専業主婦でいやだ」というAを指名する。じつはこの主婦は『わいふ』の会員であり、田中とは親しい間柄である。つまりサクラである。田中は「 じゃあ、あなたは希少価値だから(?)、あなたの意見を聞いてみましょう」と強引な理由をつけてサクラを引っぱりだす。

 驚いたことに、このサクラを演ずる女性も田中も、彼女がサクラであることを隠そうともしない。むしろそれをひけらかす。はじめこの女性がサクラであることを隠して、「Aと言います」と他人行儀に自己紹介しようとすると、田中は「わかってますよー、『わいふ』の会員でしょ」と、自分からバラしてしまう。以後、この講演は、二人の掛け合いを軸に進められていく。驚くべき公私混同であり、依怙贔屓である。露骨な依怙贔屓をして、『わいふ』の会員はこんなに私にかわいがってもらえるのよ、ということを誇示しているかのようだ。

 さて、このサクラのAは、主婦がいやだという理由を次のように述べる。

わたしが後回しにされるんです。たとえば本を読んでいると、夫や子どもが帰ってくる。このまま本を読んでいたいのに、夫の都合で動かされる。人にサービスしなければならない

 ただのわがままではないか、と言いたくなるようなひどく幼稚な話である。専業主婦というのは家事をするという役割を引き受けているということであろう。夫や子どもが疲れて帰ってくる。帰る時間もだいたい見当がつくはずである。なぜわざわざ夫や子どもが帰る時間に本を読んでいなければならないのか。ところがこの女性は「私は本を読んでいる途中なのだから、夫や子どもは待つべきだ」と言いたいらしい。なんでも「不満を言えばほめられる」という状況の中にいて、それに慣れてしまうと、こういう感覚になってしまうのか、というような話である。もし夫が「俺も本を読んでいたいから、仕事に行くのはやめた」と言ったら、彼女はなんと言うのだろうか。

 さて田中が「 主婦であることは、あんまりうれしくないことは確実にありますよね。ここはいやだ、主婦でいることのマイナス点、これをどんなことでもいいですね、出してみてください」と言うと、例のサクラが間髪を入れず「ハイ」と手をあげて、「24時間営業」と言う。

「他にはありませんか」と促しても、誰も手を挙げない。しばらく沈黙が続く。田中は「なにかあるでしょう」と何度も促す。無理矢理不満を出させようとしているかのようである。ようやく出てきたのが「社会から取り残されていくような気がする」「減点方式だ。きれいにして当たり前、おいしくて当たり前と思われている」「夫の給料を自分のために使うのが、ためらわれる」「家族の都合にあわせるので、行動の自由がない」という不満である。

 それを聞きながら、田中は「その程度の苦労や不自由は、なにも主婦でなくても、どんな職業にも、どんな生き方にも、ついてまわるものよ」とは言わない。「ああ、そういうこともあるわね、そうよね、そうよね」と不満が出てくることを喜んでいる様子だ。

「そうよね、そうよね」と不満を聞いてもらうと、誰でも親しみがわく。味方のような気がしてくる。そこで田中は駄目を押す。「女は結婚、出産と、わりを食う現実を抱えているのよね」と。

 こうしたやりとりの中に、田中が「専業主婦は不満をもっている」というイメージを無理にも押しつけようとしている姿が明確に浮かび上がっている。

 

歪められ作られる「現実」

 田中は私を「事実を知らない学者」だと批判している。学者とは現実を知らない机上の空論をもてあそぶものというイメージを植えつけようとしている。そして自分は「現実を知っている」と宣伝している。はたしてそうであろうか。

 たとえば私が「フェミニストは専業主婦を扇動 (せんどう) して働きに出そうとしている」と批判するのに対して、「フェミニズムが主婦を扇動して働かせるから子どもがおかしくなっている」というのは「事実に反している」として、田中は次のように反論する。

「日本の母親は働いてなんかいませんよ。M字型といって、子どもが生まれたら女性は家庭に入って、子どものいる母親は一割しか働いていない」「母親が子どもを捨てて外に出ているなんていうのは、事実に反している。学者は事実がわかっていない」と。

 私が言っているのは、母親の何割が働いているかということではない。フェミニズムの影響のために関心が外に向いていき、子どもや家庭のことが煩わしくなる傾向があると言っているのである。事実、田中は、母親は子どもを保育園に預けて外に出よと言っているではないか。フェミニストが母親たちを「外へ外へ」と扇動しているのは厳然たる事実である。私はそういう事実を指摘しているのである。

 彼女の言う「現実」とは、じつは「主婦が不満をもっているということ」である。自分は『わいふ』誌への主婦の投稿から、主婦についての現実を「知っている」と主張している。しかしそれは現実の一部である。もし一部しか知らないとしたら、それは現実を「知っている」とは言えない。もし一部のみをすべてのように言うとしたら、それはすりかえであり、詐欺である。

 しかも「主婦が不満をもっている」という事実は、『わいふ』によって誘導され拡大された「事実」であり、「不満を言うことはほめられることだよ」と誘われて出てきたものである。その誘導によって、たしかにいままで言えなかった不満が言えるようになったという側面もあるだろう。しかし、不満だけに注目しても、現実を正しく見ていることにはならない。専業主婦であるということのプラス面にも同じだけの目配りをしてはじめて、正しく「現実」を見ることができるのである。田中が強調している「現実」は現実の一面であり、そういう意味で「現実」を正しく写しとっているとは言いがたいのである。

 事実の一部だけを強調したり、拡大したり、歪めたりすることは、「現実」を捏造するということである。私は田中の見ていない現実を指摘したのである。その現実とは、フェミニストたちが専業主婦の価値を貶めているために、主婦たちが自信を失い、浮き足立ち、家庭や子どもを大切にすることがなにかうしろめたく感じるようにさせられているという事実である。こういう事実を、私は投書などによるのではなく、主婦たちに面接し、その相談にのるという過程を通じて切実につかんできたのであり、また子どもたちのカウンセリングを通じてその弊害を痛切に感じてきたのである。

 田中が「自分は事実の上に立っている、林は事実を知らない」と決めつけているのは、私の『主婦の復権』をきちんと読んでいない証拠である。読みさえすれば、私が主婦たちの現実をどれだけ認識しているか、感じとることができるはずである。ただし田中の気に入るようには認識していない、というより、むしろ正反対の捉え方になっているだけの話である。なぜそれほど違うかというと、価値観が違うからである。人は自分の眼鏡に従って現実を見る。彼女は私に対して「色めがねで見ている」と批判しているが、自分もまた「色めがね」で見ているという自覚はないようだ。

 私は田中が言いたてる「主婦の不満」の現実を否定はしない。主婦たちがいろいろな不満をもっていることは事実である。しかしそれだけが主婦たちの「現実」だとは思わない。不満もあるが、満足しているところもある、そして全体としては満足しているというのが、だいたいのところである。その証拠には、田中の講演のさいに、「専業主婦でよかったと思っている」人が半分、あとの半分はどっちとも言えないという態度であったことを思い出してみればよい。

 そういう「現実」を無視して、無理に不満を拡大させようとするのはなぜか。その理由は彼女らの言動を分析する中から浮かび上がってくるだろう。

 

カルトと同じ手口

 

 田中は「現実」を捏造し、不満を煽っておいてこう結論する。「自分の人生の意味を考えましょう。充実して生きていきたい。後回しになるのはやめましょう。他のメンバーのサービス係になるのはやめましょう」と。自分のように、家事などは他人にまかせて、有意義な活動に打ちこむのがよいのだと羨ましがらせる。なにか灰色の日常から逃れて、バラ色の人生を送ることが可能であるかのような幻想をちらつかせる。

 彼女の手口を整理すると、こうなる。まずサクラを使って不満を誘導する。不満が出たところで、「女はわりを食う存在」だと結論する。その不満は夫(男)に向けられる。そして次に不満を解決するためには、専業主婦をやめて外に出るのがよいという教義が注入される。そして組織に入れるという過程が次に続くはずである。

 カルトもまったく同じ手口を使う。まず勧誘者が近づいて、優しく誠意をつくして親切にして友達になる。巧みに世の中に対する(または人生に対する)不満をくすぐる。とくに「息苦しい社会・家庭」とか「生きがいがほしい」という心理や、将来に対する不安をもっている人の漠然とした不満をくすぐる。こういう人たちは「自分を変えたい」とか「いまの生活から離脱したい」という願望をもっているので、不満を聞いてくれる人は魅力的に思える。親切にしてくれる人の誘いを断るのはもうしわけないという心理にさせる。とりあえず、その主張を聞いてみようという気になる。

 こうしてまず「あなたの味方よ」という感じで近づいていき、心理的に親しい感情をもたせておいて、次にその不満を一挙に解決するために必要とされる、価値観の逆転が注入される。この価値の逆転によって、健全な常識のスイッチが切られ、荒唐無稽な理論が注入される準備が完了する。これがカルトの勧誘の常套手段である。

 田中喜美子の場合にも、これらの要素がすべて備わっている。主婦の味方であるかのような顔をして、専業主婦たちの不満をくすぐり、引きだし、拡大させる。それを通じて専業主婦に対する価値観をプラスからマイナスに切りかえるのである。専業主婦がよいと思って結婚した女性たちに対して、専業主婦はつまらない存在だというメッセージをつねに注入する。そのために、仲間たちによって専業主婦生活に対する不満や批判が『わいふ』誌上でつねに語られる。こうして価値観の逆転がなされ、新しい教義が注入される。

 

飛躍した論理で教義へと導く

 では、田中が注入しようとしている教義とはなにか。じつはこの講演の少し前に、『信濃毎日新聞』紙上で、専業主婦について私は彼女と四回にわたって論争をした。論争と言っても討論をするのではなく、いくつかの主題についてそれぞれの意見を並べて掲載し、読者に比較してもらおうという趣向である。その中の初回のテーマ「子育て中は家にいるべきか?」について、田中はこう結論している。

 

 お説教では何ひとつ変わらない。

 早ければ早いほどよい。授乳期間がおわったら、母親は「子どものために」こそ家を出るべきである。保育園には本物の子ども仲間がいる。子育てを支えてくれる複数の大人がいる。保育園育児の母親は、孤独な家庭育児の母親より幸福である。そして幸福な子どもは、幸福な母親からこそ育つのである。(『信濃毎日新聞』1988年9月1日付)

 

 手ばなしの保育園賛美である。早ければ早いほどよい。子どもを保育園に預けて、母親は家を出るべきだと言っている。家族のことなど放っておけと言っているのである。その方が親も子も幸福になれるのだそうだ。こういう言い方は、まるで教祖の言うとおりにすれば、ステージが上がって幸せになれるよというカルト宗教の言い方と、そっくりではないか。

 教義を受け入れれば、すべてがバラ色になり、救われる(解脱できる)と説くのがカルトの特徴である。保育園に預ければ、親も子も幸せになれるかのような幻想を振りまく。保育園に預けられた子どもたちが大人になって「淋しかった」「不良になりそうだった」と言っている「現実」に対しては耳をふさいでいる。また保育園が地獄のように感じられ、ついに家庭内暴力をふるうようになり父親の手で殺された少年の悲劇を前にしてもなお、彼女らはまだ保育所神話を振りまきつづけるのか。自分の教義にとって都合の悪い「現実」を無視するのが、彼女らの流儀である。

 田中に言わせれば、母親というものは子どもを自分で育てない方がいい。なぜなら「母の愛は理不尽で盲目である」からだそうだ。

 

 子育てには、愛とルールの両方が必要である。どちらが欠けてもうまく行かない。

 ところが母の愛は理不尽で盲目である。その双方を使いわけることなどは子育ての天才でなければできない。(『信濃毎日新聞』同前)

 

 つまり母親というものは自分では子どもを正しく育てられない。だから他人にまかせた方がいいと言うのである。いくつもの論理の飛躍があり、最後に「天才でないと子育てはできない」とされ、一挙に「他人にまかせろ」となる。

 ここには信じられないような無理な論理が積み重ねられている。わけのわからない言葉も頻繁に使われる。「保育園には本物の子ども仲間がいる」とはどういう意味か、「本物」とはどういう意味か、分かる人がいるのだろうか。「保育園育児の母親は、孤独な家庭育児の母親より幸福である」と言うが、一方を美化し、他方を歪めて悪く描けば、当然一方が限りなく善だということになる。

 

母は昔から躾などしなかった!?

 田中はもっと無茶苦茶なことを言いだす。「昔は母は躾などしなかったんです」。その証拠としてもちだされるのは、天皇家では、昔は子どもの躾は他人にまかされていた、という事実である。「美智子さんの代になってはじめて子どもを自分の手で育てるということにしたのであって、その前は他人に育てさせていたんです」。無茶苦茶なフェ理屈である。天皇家の子育ての仕方が、一般人の子育てのあり方とすべて同じという前提がなければ、こんな理屈は成り立たない。昔の天皇家や大名の跡取りには、リーダーとしての資質を養う(帝王学)ために、特別の教育係がつけられたのである。そういう特殊な例を出して、庶民までもが、みな子どもを他人にまかせていたかのように思わせる。「子どもは母の言うことなど聞かないものですよ。子どもに責任を取る存在としては、母はもっとも不適格です」と言って、母親の子どもに対する責任をはずそうとする。

 子どもが母の言うことに耳を傾けるか、傾けないかの違いは、子どもが母の愛情をどのくらい感じているかによって大きく左右される。とくに幼少期には、子どもは愛情を注いでかわいがってくれる母の言うことは、たいてい素直に聞くものである。しかし愛情の感じられない母の言うことは聞かない。その違いを認めたくない田中は、一般化して「子どもは母の言うことなど聞かない」とか「母は子どもの躾などできない」と決めつける。

 理不尽でも盲目でもない愛を子どもに注いでいる母親はゴマンといる。母親の言うことを素直に聞く子どももたくさんいる。しかし田中の手にかかると、母親「というものは」、全部子どもの躾ができないことにされてしまう。こういう無理な一般化の背後には、たいてい個人的な動機が隠されているものである。それはなにか。

 歪めた形での過度の一般化は、なにかを隠したい場合によく人間がする行為である。「母親は自分で育てない方がいい」という彼女の教義は、じつは自分が家事でも子育てでも失格だったということを隠蔽しようとしているのであろう。自分が子どもの躾をできなかったことを弁護するために、「女というものは盲目だから、自分では子どもを躾できない」という、女性自身を貶めるような理論を押しつける。

 田中の言うことは、すべて自分の不適格を弁解するための教義なのである。その背後には、自分で子どもを育てることがいやだとか、失敗したという女性たちの心理的利害が隠されているのである。

「母は外へ」というキャンペーンをしている者たちは、多かれ少なかれ、主婦失格、母親失格の者たちである。だから彼女たちにとって保育所は必需品である。しかし保育所育児によって「現実に」弊害が出ていることに対して、彼女たちはどう責任をとるというのであろうか。

 自分が失敗したことを弁護し、あまつさえそれが一般的だと強弁し、他人に押しつけてみながそうだと強弁する。こういう無茶苦茶な内容が、公の機関が頼んだ講師の講演内容として、権威をもって聴衆に注がれる。

 たいていの公民館では企画委員を公募する。すると『わいふ』の会員が一人もぐりこむ。その者が田中喜美子を講師にと希望する。こうして、国民の税金で、この無茶苦茶な理論が主婦たちを惑わすというしかけである。

 

公私混同の組織活動・政治活動

 こうして画一的教条的な教義を注入し、洗脳すると、次は組織化である。これもカルトの常套手段である。講演が終わるころに田中は、「『わいふ』の会員になってください、会員になる人は、ここに名前を書いてください」と勧誘している。公民館という公の機関での講演の席で、私的な組織の勧誘をするということが公私混同だということはまるで念頭にないようだ。

 カルトでも、こんな露骨な公私混同のPR作戦はしない。だいいち、公民館などの公の機関なら、そういう私的なPRをさせないだけの見識を備えているはずである。これが明らかにカルト的な宗教教団ならば、そんなPRは許されないであろう。しかし主婦のためと名のっている雑誌の編集長だとなると、誰も公私混同に気づきもしなければ、咎めもしない。フェミニストは「よいこと」をしているのだからなにをしても大目に見てよい、という感覚が全社会に蔓延しているからである。

 そればかりではない。講演の中で、田中は民主党と社民党をさかんにPRしている。その部分はまるで選挙演説のようである。推奨する理由は、「夫婦別姓に賛成しているから」。公の機関である公民館での講演で、特定の政党の宣伝をするということが、法律に違反しているかどうかという前に、そういう偏った思想を宣伝し、政党の宣伝をするということのモラルが問われるだろう。

 

主婦の不満を食い物に

 要するに田中喜美子のやっていることは、主婦の不満を誘い出してそれを食い物にし、そのことを商売にしているようなものである。つまり家事をやりたくない心理(この心理はすべての主婦が多少とももっている)につけこんで、その不満を言う代価として、なにがしかの金銭を払わせる。ちょうどカルト教団が不満をたねに組織に誘いこむのに似ている。善良な主婦たちを不満のかたまりにして、「本を読んでいたいのに、夫が帰ってきて中断される」などというわがままをほめて、家庭不和のもとを作っている田中の商売は、まさに反社会的だと言わざるをえない。

 田中が『主婦の復権』を天敵であるかのごとくに口ぎたなくののしるのは、『主婦の復権』によって主婦が主婦であることの意義を見いだし、自信と誇りをもってしまったら、彼女の商売があがったりになるからである。

 田中喜美子の商売はいままで金銭的にもなにがしかの利益があり、精神的には多大の満足感を得られ、それなりの支持者もあって23年間も続いてきた。しかしこのところ陰りが出てきた。専業主婦でよかったという人が増え、若い女性の主婦願望も確実に増え、「フェミ離れ」という現象も顕著になりつつある。あせっているところへ、私の『主婦の復権』が出た。私が「専業主婦は歴史的にもっとも進歩的で人間的な形態だ」「主婦よ、フェミニズムにだまされるな!」と言ったのは、彼女にとっては営業妨害になる。田中にとって『主婦の復権』は「ひっどい本」、にっくき敵なのは当然である。

 

隠された動機は家庭破壊!

 

 専業主婦の不満を煽るという、こういう活動の裏には、フェミニストたちの隠された動機が二つある。一つは幸せな家庭を破壊したいという動機であり、もう一つは男性を支配したいという動機である。

 田中喜美子の言動が家庭不和をもたらすと私は言った。これはけっして言いすぎではない。なぜなら夫婦が役割分業するという了解で始められた結婚生活の中で、一方が役目をおろそかにしたら、他方が責めるのは当然だからである。離婚にまでいたる夫婦の不和のあり方は、共働きタイプと専業主婦タイプとでは異なっている。共働きの場合には、家事も半々という約束だったのに、夫が家事をやらないという不満が妻の側から出される。

 それに対して専業主婦タイプの場合には、妻が専業主婦をいやになって、働きたいと言いだすことによって、不和が顕わになることが多い。妻は、「専業主婦とはこんな退屈な、または生きがいのないものとは思っていなかった」と言い、夫の側は「約束がちがう」と言う。

 専業主婦の妻が専業主婦であることに誇りも意義ももてない心理状態になれば、専業主婦をやめて外に出て働きたいと思うようになる。専業主婦に誇りをもてない理由は、一つは夫をはじめ家族が自分の仕事を評価してくれないこと、いま一つは、フェミニズムの波が周囲のあらゆるところから押し寄せて、「なぜ働かないの?」とか「大学まで出て、働かないなんてもったいないわねえ」とか「夫に従属していて、自立していない」という目で見られることである。

 こういう風潮の中にいると、不満をもたない女性は遅れているという気がしてきたり、「社会とつながりがなくなる」というあせりの心理が生まれる。不満をもった主婦はまず家事をさぼりたくなる。これが家庭崩壊の第一歩になるのである。

 たとえば、夫が帰ってきたときに専業主婦の妻が、「私はいま、本を読んでいるところだから、食事の支度はできません。理解のある夫なら、もう少し我慢してください」などと言ったら、骨ぬきにされている男性でない限り怒りだすだろう。喧嘩になるのは目に見えている。夫や子どもが帰ってくるときに「本を読んでいたい」というのは極端だとしても、どんな立場の人間にもありうるような不満を、とくに主婦だけの専売特許のように言うのが、「進んでいる」とか「自立」だとか「女性解放」だとか言われたのでは、夫は頭にきて、家庭が不和になるのは当然である。

 

夫婦関係を力関係として見る

 フェミニズムは男性と平等になろうとする運動だと思われているが、じつはひそかに男性を支配したいという動機がはたらいている場合が多い。そういう女性たちは、「夫」や「男」を敵とみなす。彼女たちの活動は男性への対抗心を原動力にしている。

 彼女らにとっては、男性との関係は、どちらが勝つか負けるかという問題であり、どちらがどれだけ譲るか、押すか引くかという問題なのである。そこには愛情によって助け合うとか、つくし合うという発想はみじんも見られない。

 したがって田中が主婦たちにアドバイスすることは、どうしたら夫婦が円満に対等に助け合うことができるかではなく、どうやったら夫に家事を半分やらせることができるかといった、力関係を有利にする方法である。田中は「ある共働きの女性が、夫に家事をやらせるコツを教えてくれました」として、こういう話をしている。「彼女は夫より仕事が早く終わるので、家に帰るとつい家事をしてしまう。洗濯や食事の支度が終わるころに夫が帰ってくる。結局、家事はいつも彼女がやることになっていました。そこで、彼女は家に帰ったら、ソファーに寝っころがって新聞を読んでから、夫が帰る十分前ころから猛然と仕事をやりだします。すると夫が帰ってきて、必然的に手伝うということになります。こうして夫は家事をやるようになりました」。

 このように田中はだますという方法を推奨している。この程度のだましは女の知恵というものよ、とでも言いたいのであろう。男というものはまともに正面から理屈を言っても聞くわけはないから上手にだますのがいいのよ、と言うのであろう。そういう男もいるであろう。しかし私はそういう手口は好きになれない。まずは正面から、きちんと話をすべきだと思う。そうすれば夫の方は、「ぼくは遅くまで働かされる。早く帰ってくる君がしてくれよ」と言うだろう。そうして話し合っているうちに、日本のような苛酷な労働慣行の中で夫婦ともに働くことの無理が浮き彫りになってくる。その無理の中で、無理をどちらがどれだけ背負うか、という争いになっているという問題点も明らかになってくるのではなかろうか。そういう話し合いを抜きにして、夫をだまして手伝うようにさせれば、問題は解決するのだろうか。

 田中喜美子は男性を、夫を、「敵」と呼んでいる。「敵に家事をやらせるには、どうしたらよいか」、作戦をさずけるという調子である。彼女は「ユーモラスに敵と呼んだだけよ」と弁解するであろう。ユーモアかどうかは別として、「敵」という言い方には、フェミニストたちの無意識の心が反映しているように思えてならない。すなわち、男性との関係を敵か味方かという力関係でしか見られないという彼女たちの本質を示しているのである。フェミニストたちはよく「家族は支配関係だ」と言う。家族を支配・被支配という関係でしか見られないのが、フェミニストの特徴である。

 支配関係で見ても、「その支配をなくして平等になりましょう」と言うのならまだ賛成できるが、とかく支配関係で見る人に限って、支配をくつがえして、今度は自分が支配者になろうとするものである。ちょうどマルクス主義者が、ブルジョアジーの支配を転覆して、プロレタリアートの支配を確立しようとしたように、支配・被支配の関係で見る者は、支配・被支配の構造からいつまでたっても逃れられないものである。

 フェミニストはいま男性にも家事をさせようとして、やっきになっている。「男女共同参画社会」は、男性も家事を半分するという前提で考えられている。彼女らは父親に育児も半分やれと言っている。彼女らの言う「育児」とは乳幼児の「保育」のことである。つまり男性も赤ちゃんの世話をやれと言っているに等しい。

 男性に家事も保育もやれというのは、男女の違いをなくさせ、男性を女性化し去勢化しようとするものである。男性が女性化し、去勢されれば、男性支配がなくなり、女性が支配しやすくなるだろう。

 分業体制を認めた上で平等になろうとするのでなく、女性を男性なみに働かせ、男性をドメスティケイトし女性化するという形での平等を要求するのは、無意識のうちに男性を去勢化し、女性の支配を実現させようという動機がはたらいているからである。

 

家族を破壊したい心理

 田中喜美子の話の中には、さらに驚くべき内容が出てくる。一つは、シングル・マザーを推奨している箇所。彼女は著者の名前も本の題名も忘れたと言いながら、「とにかくフランスに行ってシングル・マザーになった人が、その体験談を書いた本」だと言って、「自由に生きている女性」の例として「すばらしい」と推奨し、力をこめて推薦している。シングル・マザーになることが、どうしてそれほど「すばらしい」のか、なんの説明もない。「自由だからいい」としか言っていない。そこには幸せな家庭や健全な家族を破壊したい心理が見え見えである。

 第二に、梅棹忠夫の家族解体論をもちだして、これも嬉しそうに紹介している。

「梅棹忠夫さんは家族などなくなるのだ」と言ったと、さも愉快そうに言う。よほど家族をなくしてしまいたいらしい。

 いずれも家族を破壊したい心理を隠そうともしない、露骨なアジテーションである。その背後には、健全なものを崩したいという隠されたニヒリスティックな動機が働いているのである。

 田中喜美子の講演なるものは、体系も理論もない、とりとめのない主観的感想を思いつくままにとめどもなく垂れ流しているだけの、井戸端会議の延長のような話であり、偏ったフェミニズムのアジテーションにすぎない。こういうくだらない、健全な社会秩序を破壊せよと主張する歪んだ内容の「講演」が、公の税金を使ってなされているのである。こんなことが許されていてよいのか。しかもその種のセミナーや講演会がいま日本中で無数になされているのである。自治体の主催する「女性セミナー」を根本的に見直すべきである。

 

古いタイプのフェミニズムの典型

 心理的動機に着目すると、フェミニズムは二つのタイプに大別することができる。一つは現在もっともはびこっている「働け」イデオロギーから来ているものである。これはすでに論じたように、近代的な心理とイデオロギーを基盤にしている。第二は男性を敵と見るものであり、これは近代よりももっと古いタイプであり、家父長主義的な男性を前提にしている。すなわち父や夫が家父長的で支配的であったために、男性一般に対して不満や敵意をもっている女性に特有の心理を基盤にしている。

 男性に対する不満や恨みを基本動機にしているフェミニズムは、田中喜美子に典型的に見られるように、井戸端会議よろしく女性同士の仲間意識を巧みに利用しながら、男性への不満や恨みを拡大し、男性対女性という図式にはめこみ、そうすることで女性を組織化しようとする。

 このタイプはとくに恨みつらみを動機にしているので、破壊衝動が強いという特徴をもっている。すなわち幸せな家族を破壊しようという隠された動機をもち、「多様化」の名のもとに欠損家族を正当化し、シングル・マザーを美化し、離婚を奨励する。

 このタイプのフェミニズムはすでに過去のものになりつつある。いまやかつての横暴な父や夫は少数派になりつつある。戦後生まれの若い世代の男性たちは、支配的というよりも男女平等主義者の方が多数派である。しかし女性たちのあいだには、依然として不平等感が根強く残っている。したがってこの古いタイプのフェミニズムにも、まだまだ出番があるというわけである。

 社会の雰囲気として不平等感があるあいだは、古いタイプのフェミニズムも、一定の存在を主張できる。フェミニストたちの動機の中に、家族を支配・被支配の関係で見て、男女の力関係を逆転させ、幸せな家族を崩壊させようという心理がある限り、家父長主義的な男性を前提とするこのタイプも、つねにフェミニズムの一翼を担いつづける。しかし男女平等が当然のことになる21世紀には、このタイプは完全に前世紀の遺物となるであろう。

 

反論になっていない反論

 

 以上の私の田中批判が『諸君!』に掲載されたのが1999年6月号、それに田中は8月号で反論した。

 しかし田中はその中で、私の批判内容に対して、重要なことについては何一つ反論していない。私の主要な論点は、「主婦を惑わすカルト的勧誘」への批判であり、さらに田中らが見ていない「もう一つの現実」があるという指摘である。すなわち田中らが「満たされていない主婦が多い」と言っているのは事実に反しているという点、また子どもが母性不足に苦しんでいるという事実を指摘した。

 それらの問題について、田中は反論らしい反論をしていない。とくに「公の機関でカルト的な勧誘をした」という批判に対しては、完全に黙して語らずである。自分に都合の悪いことには、ほおかむりをする。それはとりも直さず、私の批判を認めたということである。

 

現実認識を変えざるをえなくなった田中

 内容的には、田中の言っていることは、これまで言ってきたフェミニズムの公式をまたもや繰り返しているにすぎない。「役割分担という夫婦のシステムでは妻たちは幸福にはなれない」。これだけである。

 でも専業主婦でよかったという人の方が多いではないか、と私に批判されたとき、専業主婦の不満に期待する田中の論理は瓦解したはずである。「専業主婦が不満をもっている」という田中の「現実認識」(『「主婦の復権」はありうるか』の帯のキャッチフレーズは「心の底では満たされない主婦が、なぜこんなに多いのか」である)は、間違いであると私は指摘した。田中は1998年9月の時点では、依然として専業主義は不満をもっているという事実認識を前提に「主婦獲得作戦」をしていたのである。

 ところが、さきにあげた公民館での当てはずれ(「専業主婦でよかった」と思っている人が半数で、「いやだったと思っている」人が一人しかいなかった、しかもそれはサクラだった)を私に指摘されて、「主婦問題専門家」の田中の面子は丸潰れになった。田中は間違いを修正しなければならなくなった。そこで田中はなんと、「そんなことは、とっくに知っていた」という態度をとったのである。

 田中は「フェミニズムの主張」が「意味をもつ」のは、「多くの主婦が自分の労働が正当に支払われていないという憤りを抱いていればこそ」だと言い、「とくに夫が横暴な態度をとれば、その憤りは倍加する」、しかしいまどきの主婦は「豊かな生活」を満喫しており、しかも夫は「やさしく」なって、彼女たちは「主婦ほど結構な身分はない」と考えている、「現にO公民館の講座でも『主婦でよかったか』という私の問いに否定的に手をあげた主婦はわずか一人しかいなかったではないか」と述べる(『諸君!』8月号)。それは私が指摘した事実なのに、臆面もなく、いかにも自分がはじめて言う事実であるかのようにふるまう。この強がりと開き直りは、田中の負けず嫌いをよく示している。

 

フェ理屈の上塗り

 さて、自身の現実認識を、専業主婦が「不満をもっている」から「もっていない」へと逆転させたのでは、専業主婦の存在そのものを否定するという田中の戦略は破綻する。そこで田中は次のフェ理屈を考えだす。

 田中は“主婦が不満をもたなくなったのはただ「ラクが何より」という価値観のせい”だと強弁する。主婦たちは「威張ってラクができる依存の構造」を望んでいるのだ、と。まるで日本の専業主婦たちはみな物質的で打算的な価値観に立っていると言わんばかりである。田中に言わせれば、「主婦が満足していると言っても、妻が夫に従属していることに変わりない」なぜなら「妻の家事労働がいかに評価されるかということは、ただ夫ひとりの胸三寸にかかっている」からだと言う。「夫は強者であり、妻は弱者」という関係は変わらない、と。

 田中が役割分担システムに反対する理由は、「妻の家事労働がいかに評価されるかということは、ただ夫ひとりの胸三寸にかかっている。その意味で、妻は夫に完全に依存している」ということである。そこから逃れるためには、妻は外に出て働け、というのが彼女の結論である。そして妻が働くための保育所を美化して、言うことは終わりである。

 私も日本の夫の中には、「オレが働いて食わせてやっている」と言って、妻を支配しようとする男性が多いことを、かねてより批判してきた。それに対する対策としては、妻が「では私も働く」というフェミニズム推奨の道と、「家事労働の価値を認めさせるため、税制・年金制度・財産への半分の権利など、法的・制度的な面で平等にするという運動をする」方法の二つがありうる。経済的平等ということを考えるだけなら、どちらの方法でも夫婦の平等は実現できる。

 問題は、どちらの道が夫婦ばかりでなく子どもにとってよりよい道なのかということである。私は後者の道の方がよりよい道だし、M字型就労形態の方がよりよい形態だと主張しているのである。

 田中も認めているとおり、いまどきの若い夫婦は、どっちが上だとか下だというのではなく、対等の関係を実現している者たちの方が多くなっている。ということは、家の外に出なければ対等になれないのではなく、家の中にいても平等を実現できる法的制度を作るための客観的基盤が存在していることを意味している。夫の稼いだものの半分は妻のもの、財産も誰の名義になっていようとも半分は妻のもの、という法律を作りさえすれば、なにも問題はないのである。それはすでに広範に存在している平等の関係と意識とを追認するだけのことである。そのことに反対する男性は現代の日本にはほとんどいないだろう。反対するのは皮肉なことにフェミニストだけかもしれない。

 しかしフェミニズムの運動は、どちらの道がよりよいかについて充分に議論しないままに、「では私も働く」という道へとほとんど百パーセント突き進んでいった。その結果が家庭の砂漠化であり、子どもの母性不足である。フェミニストたちが「密着育児の弊害」キャンペーンによっていくらだまそうとも、母親たちの母性解体と子どもの母性不足とは、見紛うべくもなく進行しているのである。

 その母性不足の現象に対して、「母親の顔を差し引いた女になれ」とか「母としてではなく女として生きよ」と言いつづけてきたフェミニストたちになんの責任もないと言いきれるのか。田中は、私がフェミニストに責任があると言うのに対して「この調子では、猫がはだしで歩くのも、郵便ポストが赤いのもフェミニズムのせいになる」とからかっているが、相手を茶化す前に少しは真面目に反省してみてはどうか。

 田中はいまの若い主婦たちは「フェミニズム、なにそれ」という感覚だと言っている。彼女はそれを若い女性たちがフェミニズムに無関心だとか、影響を受けていない証拠としてもちだしているようだ。たしかに若い女性たちの中にはフェミニズムという言葉に無関心な者もいるようだ。しかしフェミニズムという言葉を知らないからといって、その影響から免れることは難しいのである。というのは、「働く女性はカッコイイ」といった類のメッセージがテレビドラマでもファッション雑誌でも、ところかまわず流れており、女性たちは知らず識らずのうちにフェミニズムのメッセージにさらされているからである。

 田中は「システム自体が行きづまってきた」と言うが、その代わりとして提案されている「共働き」のシステムも、とうてい望ましいとか理想的だとは言えない代物である。フェミニズムの提案が本当に人間を男女ともに幸せにしてくれるものならば、私も諸手をあげて賛成する。しかし弊害や害毒が目立っている中で、そのマイナスをフェ理屈でごまかして突き進むのだけは許しておくわけにはいかないのである。

 フェミニズムが告発している家庭内での男性支配がまだまだあるという現状認識は私も同じだし、それについては私も批判してきた。しかし「それに対するフェミニズムの代案は間違っている」というのが、私の主張のすべてである。

 母性本能を「母性神話」だと言って否定したり、嘘を並べて保育園を美化する保育園神話など、フェミニズムにはすりかえやでたらめが多すぎる。そしてそれをまともに批判する「真の味方」に対して、人間的な中傷を加えて葬り去ろうとする。

 そんなことではフェミニズムは硬直化し堕落していくばかりだし、男女が本当の意味で対等に幸せになろうとするのを妨害しているようなものである。

 田中は、私が『「主婦の復権」はありうるか』に対して「徹底的な沈黙を守っている」と勝ち誇ったように言っている。こういうのを強がりと言うのである。その本が出たのが3月末、田中のこの論文が発表されたのが6月はじめ、田中がこの論文を書いたのが5月中ごろまで。つまり5月中ごろまでに私が反論を発表しないと(そんなことは物理的に不可能だ)、「徹底的に沈黙を守っている」(グーの音も出ない)ことにされてしまう。田中は支持者たちに対して、「勝った」という見せかけを作りたいのである。

 世の中には「見せかけ」や「強がり」は通用しない。次章において私は真っ向から田中への反論を試みるであろう。