父性

1 河合隼雄氏への反論

(1) 父性なき教育論の偽善

    ─ 「父性の復権」はできないのか

(『諸君!』平成9年12月号に掲載、のちに『父性で育てよ!』PHP研究所に収録)

 

「復権」の意味とは?

  『文藝春秋』平成9年10月号に河合隼雄氏の「『父性の復権』などできない」という一文が載っている。題名だけ見ると、「父性の復権」に真っ向から否定的で、今の日本では父性は不可能だと言っているかのようである。

 ところが中身を読んでみると、父性は今の日本に必要だという意見である。必要だという認識の点では、基本的には拙著『父性の復権』(中公新書)と違っていない。

ではなぜ「『父性の復権』などできない」のかというと、日本の過去には「父性」はなかった、だから「復権」と言うべきではなくて「創造」と言うべきだという御意見なのだ。なんというケチなケチのつけ方であろうか。もし今の日本に父性が必要だと言うのなら、「復権」なのか「創造」なのかという言葉のあげつらいなどする必要はない。大切なのは、今の日本に父性が決定的に不足しているという認識と、どうしたら父性を持つことができるのかということである。

 河合氏だけではなく、最近「父性」の意味についてよりも、「復権」という言葉に異論を唱える人が多くなってきた。彼らは過去の日本には父性などなかった、あるいは「強い父」などいなかった、だから「復権」という言い方はおかしいと言う。じつは彼らは「復権」に難癖をつけることで、ひそかに「父性」そのものを否定したいのである。

 彼らの根本的な誤りは「復権」という言葉の意味が分かっていない点にある。もし私が父性の「復興」とか「再興」と言ったのなら、過去に父性があったか否かが問題となる。しかし「復権」とはそのものの価値評価に関わることであり、そのものが存在したか否かとは別のことである。父性の「復権」とは、父性の価値評価が低くなっているのに対して、もう一度高い評価を与えよという意味である。したがって過去にあろうがなかろうが「復権」を言うことはできるのである。

 もちろん過去の日本に父性がどのような形で、どの程度あったかという問題も大切であり、十分に議論しなければならない。しかしその問題を考えるためには、なによりもまず父性という概念について十分に納得のいく考察を加えておかなければならない。父性とは何かということが明らかでないのに、父性があったかなかったかを論ずることはできないからである。

 父性とは単に「強い父」とか「厳父」という意味ではない。父性とは父が持っている性質のことである。「父性の復権など必要ない」とか「できない」と言う人のほとんどは、父性を単なる父の「強さ」や「厳しさ」だと勘違いしていたり、もっと単純な人は昔の「父権」のことだと思っていたりする。「父性」と「父権」を混同している人は非常に多い。河合氏はさすがにそんな愚かな間違いはしない。父性とは父が持つべき性質のことだとは理解している。

 

父性概念の矮小化

 しかし、彼が持っている父性概念ではあまりにも狭い。河合氏は「私の言う父性とは『個』というものを大切にする性で、母性は『包み込む』性だと考えてください。母親は『みんな一緒にやりましょう』『みんな同じに』ということを大事にします。これに対して、父性は『これとこれは違う』といった『個』の厳しさを持っている」と、父性とは「個」の原理であり、区別の原理だと言う。つまり西洋的なものだと言っている。

 河合氏はいろいろな著作の中で、父性とは「切断する原理」だとも言っている。「区別する原理」をもう少し厳しい言葉で言ったものである。ではなぜ「切断」が父性なのか。「切断」はロゴスの原理であり、ロゴスは父性だからというのが河合氏の考えである。ロゴスは普通「男性原理」だと言われているものだが、そのロゴスが父性だというのなら、男性原理と父性原理の違いはどこにあるのか分からなくなってしまう。

「個」「ロゴス」「父性」。河合氏はこれらを明確に区別しているとは思えない。近代ヨーロッパの「個」の原理と、男性的なロゴスの原理と、父性原理とは、(密接に関連しているとはいえ)それぞれ異なる原理である。それらを混同して、父性とは「個」の原理、ロゴスの原理だと言ってしまうと、父性はかぎりなく矮小化されたものになってしまう。

 

「切断」するだけでは意味がない

 父性を「切断」というイメージで理解するのは、いわば消極的な捉え方であって、決して積極的な規定の仕方ではない。すなわち「母子一体性を切断する」と言っただけでは、切断してさてどういう内容を与えるのか、という積極的な規定がいっこうに明らかにならない。ただ「切断する」というだけでは無内容なのであり、何も定義していないに等しい。「切断」すれば、「個」が確立すると言うのかもしれないが、ただ切断しただけで、自動的に「個」が確立するわけではない。

 私は「父性」とは「母子結合を支え」「母からの分離を促進し」「秩序感覚と現実感覚を与え」「構成力を与え」「倫理と社会規範を教え」「文化を伝える」と明確で積極的な定義の仕方をしている。私の発想は、切断をしてから、さあ何を与えましょうか、というのではない。独自の内容を与えることによって、自然に母(両親)から自立できる力を与えるのである。それは決して「切断」というような力ずくのイメージではなく、「徳」によってプラスのものを与えるというイメージである。したがって「母からの分離を促進」するのも、自らが対象(最初の他人)となって母子関係とは異なった人間関係を経験させ、自然に「母のみ」との関係から離れることを可能にするのである。決して力ずくで「切断」するのではない。

 河合氏は、「切断」というイメージは西洋の父性の特徴を言ったまでで、自分のイメージではないと言うかもしれない。しかし西洋の父性も、決して「切断する」のが目的ではなく、独自の価値観を教えることが、すなわち母子一体性を破る結果になるにすぎない。「はじめに切断ありき」では決してないのである。

 

あいまいな「日本的父性」

 西洋の父性を見て「切断」というイメージを持つということは、河合氏の中に「父性=強さ=切断」というイメージがあるからである。つまり河合氏は父性を強いというイメージで理解しているのである。そうすると、「昔の父は強かった、だから父性があった」ということになってしまい、「過去の日本には父性がなかった」と言っている河合氏の論と矛盾してしまう。

 そこで彼は独特の論理を使うことになる。いわく「昔の日本の父は強かったといいますが、戦争に行って戦う強さはあるが、『戦争はおかしいんじゃないか』と言い切るような強さはありませんでした」(『毎日新聞』1998年1月19日付)。

 これこそ論点のすりかえである。なぜなら、戦前や戦中の父たちに「戦争はおかしいんじゃないか」と言い切る強さがあったか、なかったかは、一度も試されたことがないからである。父たちだけでなく、圧倒的大部分の日本人は、戦争に反対だとは思っていなかった。この戦争は日本を守るための最低限必要な戦争だと思わされ、他の情報や考え方の余地はなかったのである。もし戦争に反対すべきだという考えがあったのならば、そのときには実際に戦争に反対する勇気があったかなかったかが問題となる。当時はそもそもこの戦争は正義の戦争だと思いこまされていたのである。そういう状況の中にいた人々をつかまえて、「お前は戦争に反対する強さがなかった」と言うのは言いがかりであり、ひどい侮辱である。

 河合氏は、日本人はそういう西洋的な父性ではなく、日本的な父性を「創造」しなければならない、と言っている。しかし、その「日本的な父性」とはどういうものか、いっこうに示したことがない。

 要するに河合氏は以上のように「父性」とは西洋的なものだと言っておきながら、つづいて「西洋的ではない、日本人の父性を創造していかなければならない」とも言っている。しかしどちらも「父性」と言うかぎり、「日本人の父性」にも「西洋人の父性」にも共通の何かがあるはずである。それをきちんと定義した上で「日本人の父性」について論じてくれないと、何を言いたいのか理解できない。

 要するに河合氏の「父性」概念は混乱している。私は『父性の復権』の中で、父性とは「価値の中心」であり、集団を「まとめる」リーダーシップであり、「秩序感覚」「現実感覚」「構成力」を養うものであり、「文化を継承する」原理であり、「社会規範」を作り教えるものだと定義し、詳しく説明している。私はそういう内容にのっとって、今の教育に父性が必要だと主張しているのである。

 

過去の日本に父性は存在した

 父性を私のように内容的に見るなら、過去の日本にも父性が存在したことは誰の眼にも明らかであろう。およそ社会と名のつくもので、「価値の中心」「まとめあげる力」「秩序感覚を与える」「文化の継承」「社会規範の担い手」という意味の父性がまったく存在しない社会などありえない。日本にももちろんいつの時代にも存在した。ただし、それが十分に存在したのかと言えば、つねに十分に存在したとは言いきれないというだけである。十分にあった時代や社会もないし、ぜんぜんなかった時代や社会もありえない。「あったか、なかったか」という問題の立て方そのものが安易なのである。

 いつの世にも、まがりなりにもあった父性が、今の日本で極端に不足しているという現状認識から私は「父性の復権」を唱えているのである。

 河合氏は父性は戦国時代にしかなかったと言っている。しかし、たとえば江戸時代であろうが明治時代であろうが、武士の家でも商人の家でも、父親は大黒柱として家の中心にいて、司令塔の役割をはたし、家の方針を決め、社会の秩序を維持し、子弟の教育に責任を持ち、文化を子孫に伝えようとしていた。子どもの教育は後継者を育てる大切な仕事であり、父親自らなすべき重大任務であった。まがりなりにも父性なしに父親が子どもを教育できたわけがないのである。

 もちろん私は「健全な父性が十分にあった時代などは存在しない」と「あとがき」で書いた。「しかし父性が高いもの、必要なものという観念はあった」とも書いた。だから「復興」ではなく「復権」と言うのだとも書いた。そういう言葉の意味をきちんとふまえた上で、「復権」という言い方についても論じてほしいものである。

 いくら過去に父性が足りなかったと言っても、過去に立派な父たちがいたことは誰でも知っている。多くの庶民の父たちは、地道に自分の技やコツやノウハウを子どもに伝え、地道に家業を守ってきた。人格的に立派な人も、いくらでもいたはずである。その疑問に対しては、河合氏は、「あれは父性として偉かったんじゃない。父親を偉く思わせるような仕組みが世の中にあったというだけでね」と言い逃れる。あるいは別の人はこう言っている。「戦前までの父親は、母親や女房に立ててもらっていたから偉く見えただけだ」と。これらの言い方はごまかしである。なぜなら父親が偉いということと、その偉さを支える仕組みとを分離して、別物のごとくに言っているからである。「女房に立てられている」男性は、みな本当は立派ではなく、偉くもなかったかのようである。女房に立てられているいないにかかわらず、立派な人は立派だし、立派でない人は立派でなかったのである。日本は「母性社会」だという先入観があるので、こういうことを言われると誰もがその通りだと思ってしまう。

 そもそも「父性は母性に立てられて存在する」と言うが、それは一般論としてはあまりに当然のことである。母性もまた父性によって支えられて初めて正しく機能することができる。父性も母性も単独では子どもにとって望ましいものにはなりにくい。それぞれが支え合い、補い合って初めて子どもを正しく育てることができるのだ。父性と母性とは本来ペアーの存在であり、互いに「立てられ合って」いくべきものである。「立てられている」ということ自体は、弱いとか程度が低いということの証拠にはならない。

 父親が偉いということと、その偉さを支える仕組みとは、けっして別物ではない。父親は偉くなければならないという観念があるからこそ、偉くするための仕組みもできあがるのだ。そういう仕組みがあるということは、父親は偉くなければならないという観念が強いことを示しているし、また実際に偉い父たちがいたことをも示している。仕組みというものは、ただ空疎な仕組みだけがあり、内実はない、というような簡単なものではないのである。そういう仕組みがあれば、父親は実際にも偉くなろうとするし、偉い父親だってたくさん出るはずである。偉くもないのに、仕組みに支えられて偉く見えていただけだと言うのは事実に反している。そんなだらしない父親ばかりではなかったはずである。もちろん形式が形骸化して、内実が薄くなっている仕組みというものもありうる。日本の父性にはそういう問題もあったことは確かである。たとえば仕組みに甘えて、ただ権威主義的に威張るだけの父親が多かったのも事実である。しかし仕組みだけで、内実はまったくなかったかのように言うのは間違いである。

 日本的な家制度の中で、父親たちは、それぞれに立派な後継者を作ろうと努力していたし、社会の規範を子どもたちに教えこもうとしていた。それぞれの時代にそれぞれの父性というものはあったのである。それがまったくなくなったら、社会として成り立っていかないはずである。私はそれぞれの時代に存在した昔の父性をそのまま復興せよと言っているのではない。父性が大切だという観念を復権せよと言っているのである。

 河合氏は父性の内実を矮小化してヨーロッパ近代の個の原理にまで縮小するので、過去の日本にはなかったと考えてしまう。父性について論ずるなら、そして父性という観点から教育を論ずるのなら、もう少し父性とは何かという問題について、真剣に取り組んでもらいたい。

 

問題児は問題を提起している?

 河合氏の教育論の基本的な姿勢を示すのが、「問題児は問題を提起している」という言葉である。「問題を起こす子どもは我々に問題を提起している。考え直せということだ」。いかにも謙虚で良心的に聞こえる言葉である。同じ種類の言葉に「教師は生徒から学べ」「心理療法家は患者から学べ」「親は子育てをしながら子どもから学ぶ」というのがある。児童文学者は「子どもから学べ」などと言う。

 親が子から学んでいけないと言うのではない。学ぶことだってあるだろう。しかし毎回毎回親が子どもから学ばなければならないとか、教師が生徒から学ばなければならないというのは、おかしいのではないか。教師はプロである。教えるプロが、教わる子どもからいちいち学ばなければならないのなら、子どもが授業料をよこせと要求するようになる。生徒から授業料を取ったり、自治体から給料をもらっているのは、それなりのプロだからではないのか。教師と生徒の関係は上下関係である。それを捨てては、教育というものは成り立たない。

 今起きている、子どもをめぐる由々しい現象は、大人が子どもから学ばなかったから起きているのか。と考えてみれば、河合氏の言葉が大きなすりかえだということが分かるであろう。なにかが問題だから考えろということぐらい、誰でも分かっていることである。だから皆が議論しているのだ。考え直せということは、子どもから教われとか、子どもの言い分を尊重しろということではない。ましてや子どもに媚びるということではない。

「大人よ反省しろ」「もっと子どもを理解しろ」式の指摘なら、今まで何百回、何千回も繰り返されてきた。そういう「もの分かりのいい大人」を演じてきた結果が、今の教育の行き詰まりをまねいたという「反省」は河合氏にはまったく見られない。

「もの分かりのいい親」をすすめる教育論の結末が、家庭内暴力の子どもを金属バットでなぐり殺してしまった父親を生んだのだという認識がまるでない。父親に無抵抗をすすめたカウンセラーは、暴力をふるう子どもの立場に立ったつもりだったのか、父親が反省すべきだと言うつもりだったのか、「すべて受容すべきだ」という誤った理論を信奉していたせいなのか、いろいろと理由はあろうが、「問題児は問題を提起している、大人はそれを理解し反省すべきだ」という考えの延長線上にいたことは確かである。そういう認識はすべて単なる母性原理に立った議論である。父性原理が抜け落ちてしまっている。

 そういうアプローチで子どもに対するから、子どもたちは「俺たちはムカついているんだ」「学校が悪いからだ、先公が悪いからだ」と居直ることになる。あげくのはては、悪いことをした子どもを叱ると親が怒鳴りこむ、ちょっと体にふれただけで弁護士を立てて訴訟まで起こす、という世の中になってしまったのだ。先生が悪いことをした子どもを叱れないというのでは、教育が成り立つはずがないのである。

 また「問題児は問題を提起している」などと持ち上げるから、進歩的文化人とかいわゆる人権派が便乗して「学校には規則が多すぎる」とか「自由がなさすぎる」と言い出して、「規則はなぜ必要か」とか、「なぜ自由が制限されなければならないのか」ということを生徒に教える場が失われてしまうのである。

 

父性欠如の教育

 子どもを理解することも大切だが、とりあえず悪いことは悪いと言うことが父性的な教育の第一歩である。

 まず悪いことを悪いと伝えなければならないが、それがなかなか伝わらない、「悪いことを悪い」と説明しても通用しない子どもたちが増えているというのが、今の教育現場の悩みなのだ。「悪いことを悪い」とどうしたらうまく伝え説明できるのかに、皆が苦労しているのである。それは大人が反省することとは別の原理である。

 もちろん、大人が自分のことを省みているか否かは、子どもに何かを伝えるときの説得力の違いとして現われたりするので、大人の反省と、子どもに悪いことを悪いと説明することとは、まったく関係がないなどと言うのではない。しかし大人がいくら反省したからといって、子どもに悪いことを悪いことだと教えたことにはならないのである。

 そう言うと、すぐにこう反論が返ってくることだろう。「大人の社会が悪いと思っていることで、子どもの眼から見ると悪くないということだってある。悪いことが本当に悪いのか、という問題を子どもは提起しているのだ」と。たしかにそういう問題もある。たとえば子どもは「子どもはかならず学校に行って勉強しなければならないのか」とか、「勉強だけが人生か」とか、本質的な問題をつきつけることもある。そういう場合に「問題児」は、「問題」だとか「悪い」という言葉の意味を相対化しているのだと言うだろう。

 しかし私がここで「悪いこと」と言っているのは、誰が見ても、どんな社会でも「悪いこと」、たとえば人を傷つけたり、殺したりすることである。そういう意味での「悪いこと」を「悪い」と感ずる感覚そのものが欠けている子どもが育っているのはなぜか、どうしたらよいか、というのが今問題になっているのだ。「問題児」は当たり前に思われている常識を根本から疑うトリックスターの役割をしているのだというような、牧歌的な子ども賛美では捉えられない現象が出てきているのである。河合氏は新しい問題を理解していないまま、昔ながらの「子どもの賛美論」を語っているにすぎない。

 もちろん私は父性的教育が「悪いことを悪いと教える」だけで済むなどという単純なことを言っているのではない。その他にも、人間が生きていくために必要なルールや規則を教えることも父性的教育の中に含まれている。つまらなくても、一定の知識や社会的訓練を受けることも必要である。

 ところが父性なしで育った子どもに多いのは、自分が考えた理想だけを主張し、その「理想」がまわりとのどういう関係の中で主張できるのか、という問題にまったく関知しないという人格になってしまっているタイプである。

 あるいは自分の好きなこと、興味のあることしかできなくなっている子どももいる。規制ということをまったく受けつけない子どももいる。そういう子どもは、ちょっとした規制や障害に出合っただけで学校に行きたくなくなるし、自分の好きなことができないというだけで学校への興味をなくしてしまう。困難や退屈に耐える力が養われていない。こういう子どもが不登校になりやすいのだ。不登校の背後には家庭での深刻な父性不足がひかえているのである。

 こういう大きな問題に対して、学校は、先生は、何をすることができるのかに、皆が悩んでおり、手探りをしているのが現状である。

 

「問題児」自身に問題がある

 こうして「問題児は問題を提起している」という言い方は、問題の焦点をずらしてしまう役割をはたしている。関心を「問題児自身」からずらして、「他の原因」へと向かわせてしまう。「問題児の問題とは何なのか」という本質的な問題を考えるのを妨げてしまう。

 私たちは「問題児」という言葉が本来持っていた意味に立ち帰るべきだ。「問題児」に「問題」があることを確認した上で、その「問題」とは何なのかを正しく探っていくべきである。

「問題児」の「問題」は、彼らが必要なルールを守れないところにある。かつての「反抗型」の「問題児」は、ルールを意識的に破っていた。あるいは「このルールはよくないルールだから、守らなくてもよい」と考えていた。いわば確信犯である。授業に出なかったり、授業を妨害する者は、「授業に出られない」のではなく、出ることの意義に対して「ノー」を言っていた。あるいは授業の質ややり方に対して批判を投げかけていた。こういう意味の反抗や批判ならば、たしかに古くさくなった常識を見なおすというトリックスターの役割を果たす可能性も持っている。しかも彼らは授業そのものが必要ないとか、授業そのものを否定する者は少なかった。一般的に言えば、ルールそのものが必要でないとか、ルールそのものを否定しようという者は少なかった。

 しかし最近の「問題児」は、ルールそのものが重荷であり、規則そのものを牢獄のように感ずる感覚になってしまっているのだ。ルールそのものがなくなってほしいという人間なのである。だから簡単な規則でも、体を縛られたような重圧を感じてしまう。大学生になっても、たった一時間、無駄なおしゃべりをしないで講義を聞くということが苦痛な人格になっている。そもそも人格というべきものがなくなりつつある。人格崩壊型が増えている。「問題児」の「問題」の質が本質的に変わっているのである。そのことの深刻さが河合氏には分かっていないのではないか。

 幼稚園の先生たちの話を聞くと、このごろ皆と一緒の行動が取れなくて、自分だけ勝手なことをする園児がクラスに必ず一人や二人いるということである。自分の好きなことしかできない。世界が狭い。周囲と協調できない。先生から「折紙をしてみましょうね」とか「お歌の時間ですよ」と言われても、自分の興味を優先させてしまう。他人から働きかけられたことに対する反応や興味を持てない子どもである。

 これがそのまま小中学生になると、学校に行っても授業に出ないで、保健室にいたり、廊下を散歩していたりする生徒になっていく。世の中には退屈でも、つまらなくても、しなければならないことがあるのだということを、教わらなかった子どもたちである。

 

最大の問題は「問題児」の親にある

 こういう「問題児」がなぜでき上がるかは、もはや明らかであろう。ルール感覚そのものがない子どもは、親に父性がないから生まれるのである。幼いころから、規則正しい生活習慣をつけられなかった。いつ寝ても、いつ起きてもいいという躾の仕方。いやなことはしなくてもいい、得意なことだけ(あるいは勉強だけ)していればいいという親の態度。「自由が一番」「規則などというものは悪いものだから、守らなくてもいい」という親の態度、こういう自由放任と「もの分かりのいい」親の態度とが、今どきのルール感覚や現実感覚のない「問題児」を作りだしているのである。

 ある教頭先生に聞いた話では、授業中に廊下を「放浪」している女生徒に話しかけた。「何をしているの?」。生徒は無言でプイと横を向いている。「人が話しかけているのに、横を向いているのは失礼だよ」と先生は手で彼女の顎をこちらに向かせた。翌日、生徒の親が警察に告訴した。「子どもが先生に暴力をふるわれた」と。警察でも承知していて、「このごろこういうのが多いんですよ」と、もちろん先生が暴力をふるったなどということは信用していない。しかし訴えがあったかぎり、一応は調書を取らなければならない。それに半日かかってしまう。そういうくだらないことにばかり時間を割かれていて、どうしていい教育ができるのか。

 ある学校では、生徒を先生が叱ったら、親が弁護士を雇って分厚い書類とともに、「子どもの人権をどう考えているのか」と抗議してきた。いわゆる人権派の親と弁護士である。こういうわけで、今の学校では、生徒を叱るということさえなかなかできない状態がある。先生が悪いことをした生徒を叱れないで、どうして教育が成り立つのか。

 たしかに「悪いこととは何であるか」「これこれのことは悪いことか、悪くないか」というような議論も必要だろう。たとえば「学校にマンガを持っていくこと」「教科書を学校に置いていくこと」は本当に悪いことか、といったことを議論することも必要である。なんでも規則を守らないことが「悪いこと」だと言っているのではない。しかしきわめて単純な、たとえば授業中に騒いで授業を妨害するというような、誰が見ても「悪い」ことでさえも、先生はなかなかストレートに叱れない現状があるのだ。

 

偽善で教育を論ずるな

 子どもが「問題」を起こしたときに、それを「理解してあげる」ことが大切だと言われる。たしかに「理解」することは必要である。しかしそれは子どもに媚びるということでもないし、ただ肯定するということでもない。「問題」の根源がどこにあるかを見抜いて(たいていは親にあるのだが)、それにどう対応するかを考えるのが、本当の「理解」ということである。

「いい子」を演じた末に爆発する子どもが増えていると言われるが、「いい大人」を演じる教育評論家ほど始末に悪いものはいない。「子どもを分かってあげましょう」「悪い子にも悪くなるわけがある」「大人の社会が悪い」「受験戦争、偏差値教育が悪い」等々。子どもが「問題」を提起しているのを「理解」せよとだけ言うのは、「いい子」ならぬ「いい大人」を演じているだけの偽善である。

 誤解のないように断っておくが、子どもを理解することが必要でないなどと言っているのではない。子どもを理解し受け入れるという母性原理と、子どもを鍛え、ルールを教え、悪いことを悪いと言う父性原理とは、教育における車の両輪であり、両方とも大切なことである。しかし必要な強さや道徳的判断力を身につけさせないでおいて、理解してあげましょう、大人は考え直せということばかり言うのは、子どもへの媚び、良心的に見せかけている偽善ではないのか。そういう「もの分かりのいい大人」が子どもを増長させ、善悪の判断力を奪う結果になるのだ。

 河合氏は別の本の中で、「不登校の子どもについて、何が『原因』か、と考える人が多い。」しかし「親か教師か誰かが『悪い』からだ、と考えて『悪者探し』をするのはナンセンスなことが多い」「過去をふり返って悪者探しをするよりも、未来に向かって、よくなる道を探し出すためにともに努力してゆきましょう」と述べている(『子どもと学校』岩波新書、149〜150頁)。

 しかし、「原因を探す」ということは、「誰かが悪い」と考える「悪者探し」のことではない。その子どもにとって何が問題なのか、またはその子どもが育つ過程で何が欠けていたのかを考えるということである。河合氏は過去をふり返ることと、未来の道を探すこととを、別々のこととして無理に分離している。「悪者探し」でない、本当の原因を探すことが必要である。それなくして、未来への道も見つからない。

 河合氏は、そんな「原因探し」をしなくても、ただじっと待っていれば「さなぎは蝶になる」と言うが、今はいくら待っていても蝶にならない「さなぎ」がどんどん増えている現状である。「子どもを信じて待つ」と言うと聞こえがいいが、そんな「もの分かりのいい大人」的言辞では通用しない新しい現象が起きていることを直視すべきである。

 新しい現象とは、蝶になる力を持っていない「さなぎ」が増えているという現象である。この場合、なぜ蝶になれないのかという「原因」を明らかにすることが必要になる。そうすれば、毛虫のうちに蝶になる力をつけてやる父性的な教育が、対策として必要であることが分かってくる。誰かが悪いという間違った原因のさぐり方ではなく、正しい原因の探し方が必要なのである。原因を探すこと自体をナンセンスと否定することは、非常に危険なことではないであろうか。

 教育論の中に偽善を持ち込んではいけない。偽善が教育においては最も悪い結果をまねく。すなわち子どもたちを甘やかし、いい気にならせ、開き直らせるばかりである。「いい子」を演じさせる弊害を批判するなら、もの分かりの「いい大人」を演ずる弊害も反省すべきだ。

 

教育論自体に父性がない

 父性不足で育った子どもにありがちな特徴として、言い逃れ、すりかえ、その場しのぎのウソを言うというのがある。悪いことをして咎められると、詭弁をろうして言い逃れようとする。

 すりかえ、言い逃れ、言いくるめ、屁理屈に頼るような人格は、親にしっかりした父性がなく、程度の低い屁理屈を許してしまうことが習慣になる中で作られていく。それらは父性欠如の証拠のようなものである。

 「問題児は問題を提起している」という言い方が、じつはこの父性欠如を示す「すりかえ」なのである。「問題児」とは子どもに問題があるという意味である。それをすりかえ逆転させて、子どもは問題を提起している側だとする。それは「見事な」発想の転換であるが、しかしそうすることで、子ども自身の問題点と子どもの親の問題点は問題にされなくなってしまう。

 このごろよく目にする「大人は子どもに学べ」式の評論も、同様のすりかえである。子どもが問題を起こしたら、子どもから学ぶことではなく、「なぜ子どもがそうなったか」をきちんと追究し、見定めることが大切である。大人のどこが悪かったのか、何が足らなかったのかを反省することも必要である。彼らは「それを子どもから学ぶと表現しているのだ」と言うかもしれない。しかしそれは「子どもから学ぶ」とは言わないし、また言うべきではない。「子どもから学んでいる」のではなく、大人が自分で調べ、考え、反省するのであり、子どもが教えてくれるわけではない。正確に言えば、子どもが起こした事件から学ぶのである。決して「子どもから学ぶ」のではない。「子どもから学べ」を結論にするような評論は、良心的で謙虚だというふりをしているだけである。その言い方は、大人が自分自身の責任で、自分で調べ考えるのだという覚悟をあいまいにしてしまう。それこそ父性の欠如した教育論だと言うべきである。

 客観的に現実をしっかりと見定める父性的な見方をすれば、宮崎勤も酒鬼薔薇も、親に問題があったことは確かである。そういう親の問題性を、人権の名によって目隠ししてしまうのは間違いである。まして「問題を提起している」などと子どもを持ち上げて他に問題を転嫁するのは偽善である。そういうすりかえは、父性欠如の教育論にしかできない愚行である。

 

教育に父性を!

「父性の復権」は可能である。教育において父性を取り戻せばよいのだ。親を教育し直すことはほとんど不可能である。しかし父性なしで育った子どもを教育し直すことは可能である。

 そのためにも現場の先生たちに頑張ってもらいたい。その場合、卑怯なすりかえ、言い逃れを絶対に許さないことが基本である。

 悪いことを悪いと伝えること、そして「なぜ悪いのか」「このルールはなぜ必要なのか」を丁寧に根気よく説明すること、この種の平凡なことの積み重ねによって、父性の復権は可能になる。

 そして大切なのは父性原理の出番のときは父性原理を使う、母性原理の出番のときは母性原理を使うという、正しい使い分けをするという、ごく平凡なことである。たとえば子どもを鍛えるという父性原理の徒競走について、「負ける子が可哀相」という母性原理を出して徒競走をやめたり、競争原理をなくしたりするのは、母性原理と父性原理を混同した間違いである。教育とは、負けることを経験させないようにすることではない。負けることに耐えうる人格にする、そのために父性が励ます、母性が慰める、負ける子を軽蔑しないで皆で支える、という経験をさせることである。それが正しい父性と母性の協力の姿である。

 教育の正しい姿を取り戻すためには、父性原理と母性原理とを正しく使い分け、その上で協力し合うという平凡なことでいいのだ。もっともこのことは原理は簡単だが、実際に実行するのはなかなか難しい。とくに片方の原理しか知らない人間には決して易しいことではない。しかし少なくとも今まで母性原理一本でやってきた戦後日本の教育の中に、父性原理を導入しなければならないということだけは確かなことである。