父性

12 「父性」と「父親」の関係について

  ── 伊藤公雄・鈴木りえ子氏の批判に答えることを通して、「父性」概念の正しい理解をはかる

 

 拙著『父性の復権』が話題になってから、執拗に繰り返される批判の一つに、「父性は母親でも発揮できるのなら、父性という言葉を使うのはおかしい」という理屈がある。たしかに表面的に言葉尻を捉えると、「父性」は母親でも持てると言っておいて、それに「父」性という名前をつけるのは、論理矛盾のように思えるであろう。そこでフェミニスト系統の人々は、鬼の首でも取ったように、「父性」概念の「矛盾」を宣伝している。しかしそれは浅はかな理解による、見当はずれな批判である。

 

 この問題を考えることは、「父性」概念の理解のために非常に有益であると思われるので、以下その種の批判に答える形で、「父性」と「父親」との結びつきについて考察してみたい。

 この種の批判の典型が、鈴木りえ子『超少子化──危機に立つ日本社会』(集英社新書)の中の第7章、著者と伊藤公雄氏との対談「『父性』・『男らしさ』を分析する」である。この本自体は、少子化の原因をただフェミニズムの観点から公式主義的に強引に論じているだけの、きわめて偏ったものであり、論評する気にもならないつまらない本である。

 ただ、私に対する批判の箇所だけは、ちょうど「父性」概念について深く考えるためには格好の教材になっている。すなわちこの二人の「父性」理解の間違いがたいへん典型的で、世間ではよく見られるので、そのどこがどう間違っているのかを明らかにすれば、正しい「父性」理解のために役立つと思われる。

 

 まず、彼らの批判を引用する。

 

鈴木 一時期、「父性」が話題になりました。父性とはいったい何でしょうか。これは男性にしかないものでしょうか。父親不在で、男の子が父親モデルを身近に見ることができないから、父親モデルが必要だということはわかります。でも、父性とは、家庭の外の社会のことを子どもに教える機能だとすると、それを父性と呼ぶ必要があるのでしょうか。私の場合、長年働いていて、子どもがいれば母性といわれているもの、父性といわれているもの両方を子どもに教えることができるような気がします。父性を復権することで、日本の家族が抱えているさまざまな問題が解決できるものとは思えません。たとえば、男性が、父親に絶対的な権威があった家制度の時代を懐かしんでも、女性がこれだけ自由になった世の中では、男女の意識の乖離が広がるだけではないでしょうか。精神科医の斎藤学さんが、「復権」というものは、すごく人権を損なわれた人、本当に人間性を蔑まれた人には必要だけれど、もともと家庭内で強い立場にいた父親に対して、「父性の復権」の必要はない、とおっしゃっていました。

伊藤 父性という言葉はやはり「秩序を作り出すもの」というイメージなので、別に男であろうが女であろうが関係ないのです。それをなぜ父性と呼ばなければならないのか。林道義氏の『父性の復権』の一番の疑問がそれですよね。確かに社会的な秩序の枠や、人と人とのつながりや、コミュニケーションなどが崩れてしまっているのは事実だと思います。しかし、それを作るものは「父性」であり、父性をもつのは別に男に限らないとはいっても、父性という言葉を使ってしまったら、それはやはり男親のことを指してしまいますよね。それはすごくおかしいと思います。

鈴木 父性は父親に備わったもので、今の家庭には父性を伝授する父親がいないから、父親が弱くなった。だから、日本社会はおかしくなっているといわれます。この説によると、女性がいくら社会進出してもそこから子どもに教えることができるものは少ないわけで、これでは働いている女性は自信を失ってしまいます。伊藤先生のご意見では、「秩序を作り出すもの」は父親でなくてはいけないということではないのですね。

伊藤 そうです。社会性や公的なものを子どもに教えるというのは、結局お父さんたちが社会活動をしているから持ち込めるということでしょう。お母さんたちが社会活動をし始めたら、同じことではないですか。社会規範を教えるというのは、女性にだって十分できます。

鈴木 男性にも父性と母性があって、女性にも父性と母性があるということですね。  

伊藤 社会のしきたりを女性が家だけにいるから教えられないというのならば、むしろ女性が社会に出るという社会、男性が家に帰るという社会を作ることで、解決されるでしょう。男女ともに「仕事も家庭も」という仕組みを作れば、お母さんも社会を子どもたちとつないでいくことができるし、お父さんもできるわけで、よりよくなるのではないかと思います。(p.157-159 下線-林)

 

 

「父性」を単語によって表面的に理解している

 

 まず声を大にして言わなければならないのは、彼らが「父性」を「機能」としてしか理解していないこと、きわめて表面的な言葉によってしか理解していないことである。彼らは「父性」をこう言い換えている。

 

 父性とは「家庭の外の社会のことを子どもに教える機能」だ

 父性とは「秩序を作り出すもの」だ

 父性とは「社会性や公的なものを子どもに教える」ことだ

 

 このような、「父性とは秩序、社会性、社会のしきたりを教えることだ」という理解は、あまりにも狭すぎる。それは「父性」の実践的な一部であり、「父性」とはもっと根本的・原理的な「父親が持っているべき性質」のことである。

 「父親が持っているべき性質」の中で、とくに大切な「構成力」と「権威」について、この二人はまったく理解できていないらしく、一言も触れていない。拙著『父性の復権』の第三章「父性の条件」と第四章「父性の権威」とをもっと丁寧に読んでいただきたいものである。

 中でもとくに「権威消失の悪影響」という箇所をよく読んでほしい。そこには、単に社会のルールを教えるというハウツー的な問題ではなく、深く子どもの心の発達に影響を与える問題が提起されているからである。そういう性質は母親ではなかなか代わりができないものなのである。それは男の迫力とでも言う性質である。これが欠けると子どもの生きる力や「構成力」がなくなってしまい、無気力症状や人格崩壊のもとになるのである。それは「社会のルールを教える」といった簡単なことではないのである。

 もちろん、誤解のないように言っておくが、「社会のルールを教える」ということも「父性」中に含まれている大切なものだが、それにしたところで、本当に母親だけで教えるとなると、なかなか困難なものである。

 要するに私は父親の独自の働きがないと、子どもの構成力をはじめ、大切な心のある部分が育たないと言っているのである。彼ら二人は、この「構成力」と「権威消失」という最も大切な部分については、まったく注意を払っていない。

 

 彼らのような狭い理解が次の誤解と連動すると、とんでもない間違いとなる。次の誤解とは、「父性とは、社会進出している人が教えるもの」という理解の仕方である。

 

父性とは「社会進出している人が教えるもの」というとんでもない誤解

 

 伊藤氏はこう言っている。「社会性や公的なものを子どもに教えるというのは、結局お父さんたちが社会活動をしているから持ち込めるということでしょう。」これはとんでもない大間違いである。

 この言葉を言い換えるなら、「社会に出て働いている人は、公共性を教えられるが、働いていない人は教えられない」ということになる。ここには度し難い差別意識が見られるが、もちろんご本人たちは気づいていないであろう。

 この言葉をはっきりと言い直せば分かるであろう。すなわち彼らの「父性」理解によると、「家庭にいる専業主婦は公共性を教えられない」ということになる。

 もちろん、私は「父親は外に出て働いているから公共性やモラルを教えられる」「だから専業主婦は教えられない」などという馬鹿なことは一言も言っていない。

 そもそも父性があるかないかについても、また社会性を持っているか否かについても、外に出て働いているか否か (「社会進出」しているか否か) はまったく何の関係もない。働いている女性の中にも、社会性がなく、公共のモラルを守らない女性がいることは、よく指摘されるところである。もちろん働いている女性でもモラルの高い女性もいる。また専業主婦でも高い社会性とモラルを身につけている女性もいるし、そうでない女性もいる。社会進出をすれば自動的に父性を身につけ、公共性を子どもに教えられるようになるというわけでは絶対にない。公共性や道徳心は、その人の育てられ方や、自らの心構えによって身に付くものであり、外に出て働いているか否かは関係ないのである。

 伊藤氏は「社会のしきたりを女性が家だけにいるから教えられないというのならば」と言っているが、ずいぶん偏見に満ちた、いい加減な「父性」理解をしているものである。そんなおかしなことは、私はもちろん、私を支持している人たちだって、誰一人言っていないはずである。

 また鈴木氏は「この説によると、女性がいくら社会進出してもそこから子どもに教えることができるものは少ないわけで、これでは働いている女性は自信を失ってしまいます」と言っているが、「働く女性の自信」とは、「働いていることによって子どもに教えるものが増える」という程度の、そんなに安っぽいものだったのであろうか。

 子どもに教えるものを持つということは、自分の心構え、人格を磨き教養を積む努力、自分がどういう生きざまをしているか、等々によって決まるのであり、外に出て働いている、いないは関係ないのである。

 

半分こイズムの悪影響

 

 では、「女性も父性を持つことができる」という命題は正しいであろうか。

 鈴木氏は「男性にも父性と母性があって、女性にも父性と母性があるということですね」と言っている。

 この言葉自体は間違っていない。しかしこの言い方は、誤解をまねきやすい表現である。どのような誤解かと言うと、これは「男性には父性と母性が半分ずつあり、女性にも父性と母性が半分ずつある」という意味に取られかねない。

 「半分こイズム」という思想を持っているフェミニストとしての二人ならば、「男性も女性も、父性と母性を半分ずつ持っている」という意味で言っている可能性が高いであろう。厳密に「今半分ずつ持っている」という意味でなくても、「可能性としては半分ずつ持っているはず」とは考えているであろう。

 フェミニストが主張している「半分こイズム」は、男女の区別をなくしたいという心理の現われであるが、男女の区別がすべて「作られたもの」だということには、なんの科学的な根拠もないのである。むしろ生まれつき男は男らしさを、女は女らしさを持っている可能性の方が高いのである。(この点については、次の「13 男らしさについて考える」で詳しく論ずる。)

 それでは、逆に男性のなかに母性が、また女性の中に父性が、まったくないのであろうか。そういう見方もまた間違いである。たしかに男性の中にも母性と言いたいような性質があるし、女性の中にも父性がある。ただし男性の中の母性が女性の中の母性と、また女性の中の父性が男性の中の父性と、まったく同じ性質として、まったく同じ分量だけあるのであろうか。もしそう言えるのなら、私が父親だけを思わせる「父性」という言葉を使ったことはたしかに「疑問」だと言える。しかし、もし父親の中にはより多く父性があり、母親の中にはより多く母性があるとしたら、私が女性の中にも父性があると言いながら父親を連想させる「父性」という言葉を使ったことは矛盾ではないことになる。

 私は「父親の中には母親よりもより多く父性がある、またはあるのが望ましい」「母親の中には父親よりもより多く母性がある、またはあるのが望ましい」と考えている。

 男性も女性も父性と母性の「両方を持っている」と言っても、その意味によっては、まったく反対の結論が出てくる。

 すなわち「半分ずつ持っている」という考えからは、「子どもを育てるためには母親だけ、または父親だけで十分だ」という結論になる。たとえば、シングル・マザーを肯定する結論になる。あるいは、子育ては夫婦半分ずつ分担せよ、という結論になる。

 しかし「より多く持っている」という見方に立つと、家庭には父親と母親の両方がいた方がいいという結論になり、また父親と母親の分業が望ましいという考え方になる。

 しかし、そうは言っても、世の中には母子家庭、父子家庭があるのも事実である。その中でも、わがままで離婚してそうなった者もいるが、伴侶が病死してやむをえず片親になった家庭もあるだろう。そういう家庭の人に対して、「父親と母親の両方が必要だ」というのは酷なので、私は『父性の復権』の中で次のように書いた。

 

 家庭の中での役割分担については、私は基本的にはあった方がいよいと考えている。(中略)

 

 そのことを確認した上で、父性をめぐる役割分担について言うと、父性については、基本的には父も母も両方が持たなければならないと考えている。どちらかが一方的に担うべきものとは考えていない。(中略)

 

 したがって、もし家庭の中で父親に父性が足らない場合には、母親が父性を発揮して子どものしつけにあたるということは可能であるし必要でもある。祖父が代わりを務めることができるのはもちろんである。(中略)

 

 もちろんその性質を父性と名づけているということは、父性を体現する者は父親がなるのが適切だという考えがあることは確かである。(p.207)

 

 こういう言い方で、私は父性の不得意な父親の場合とか、不幸にして父親がいない家庭でも、父性を補うことは「可能」だと述べたのである。つまり父親がいないとか、父親が父性機能を果たさない場合にも、それだけで絶望ではないということを述べたのである。ところが、ここを持ち出して、「父親でなくてもできることを父性と名づけるのは矛盾だ」と難癖をつける者たちがいる。それは一般的な命題と個別的な場合とを混同するものである。

 私はあくまでも、一般的には「父性を体現する者は父親がなるのが適切だ」と述べているのだから、「父性」という命名に矛盾はないのである。

  

得意機能と不得意機能という視点

 

 それでは、「父性を体現する者は父親がなるのが適切だとなぜ言えるのか」という疑問が出てくることと思う。その疑問には、C・G・ユングの言う「優越機能・劣等機能」という見方を応用すると、わりあい分かりやすく答えることができる。ただ「優越」「劣等」という言葉を使うと差別だなどと反発する人がいて、肝心の言葉の内容への理解を邪魔する恐れがあるので、ここでは「得意機能」「不得意機能」という言い方をしておく。

 すると、大部分の父親にとっては、母性を発揮するよりも父性を発揮する方が得意で、または向いている、と言えるだろう。同様に大部分の母親にとっては、父性を発揮するよりも母性を発揮する方が得意だ、または向いている、と言えるだろう。もちろん少数ながら個別的には逆のケースもありうる。ただし父性と母性を半々持っていて、どちらも同じように得意だというケースは現実にはありえない。

 というのは、人間というものは二つの対立する心的機能のうち、一方を得意にし、他方が不得意になるという性質を持っているからである。人間は得意な方の機能を主に使って人生を生きているものである。もし現実に、対立する両方を同じくらいに得意としている人がいるとしたら、その人はノイローゼになるか、混乱して心の病になってしまうかもしれないが、じっさいにはそのようなことはありえない。というのは、幼児期のかなり早い時期から、人間の得意不得意が決まってくるからである。

 もちろん、男性にとって父性の方が得意だといっても、父性をどのくらい意識的に磨いて洗練させているか否かとは別問題であり、この場合「得意」というのは、いま現在すばらしく上手にやれるという意味ではなく、潜在的な能力も含めて言っているのである。

 

「厳父慈母」はすばらしい智恵だ

 

 このように考えて見ると、日本には古来「厳父慈母」という言葉があったことに気づく。すなわち「厳しい父、優しい母」の組み合わせが、子どもを健全に育てる上で一番よい組み合わせだという意味である。この言葉には長い間に経験され蓄積されてきた人間の智恵が隠されているとさえ言えるだろう。

 伊藤公雄氏と鈴木りえ子氏は、「秩序や社会規範を教えることは女性にだってできる」と言うが、たしかに個人を取れば「できる」女性はいるだろう。しかし「厳父慈母」という言葉が意味しているのは、個別的にできるできないではなく、男性と女性の全体としての得意不得意や、そのあいだの分業のあり方を言っているのである。

 そう言うと、すぐにフェミニストは、「そういう得意不得意は今までの役割分担によって文化的に作られたジェンダーにすぎない」と言うであろう。しかし作られたものでもいいではないか。そういう組み合わせが子どもを育てるのによいとしたら、むしろそういう得意不得意を意識的に作り出すべきではないか。すなわち母親が父親を立てて、父性を発揮しやすいようにする、また逆に父親が母親を立てて母性を発揮しやすいようにする「仕組み」を作ることは、よいことである。なんでも「半々」にすることによって、物事がうまくいくと思うのは、浅はかである。

 女性には父性的なしつけをできない人が多いと言ったからといって、少しも女性を軽蔑したことにはならない。それは男性の中に家事が不得意な人がいると言っても少しも男性を軽蔑したことにならないのと同様である。

 じつは私は『父性の復権』の中に「厳父慈母」でなくても、「慈父厳母」でもいいのではないかという意味のことを書いた。それに対して鈴木榮氏 (名古屋大学名誉教授・小児科医) からお手紙と論文を送っていただき、その間違いに気づかされた。鈴木榮先生は50年来小児心身症の研究をなさってきて、その臨床例も多く経験されている。先生は小児心身症の子どもの両親につとめて会うようにしてきたが、その両親は圧倒的に「慈父厳母」型が多かったそうである。つまり母親は前に出て医師との受け答えから何から何まで采配を振るうという感じなのに対して、父親は優しい感じの人で、後ろに黙って控えているという組み合わせである。こういう組み合わせは子どもの心にあまりよい影響を与えないということが分かる。

 もたろん、私が「母親でも父性的なしつけをできる」と言ったのは、家族の中に父性の原理があることが大切だという意味である。それはそれで、父親のいない家庭での父性の可能性を肯定したのであり、決して間違っていたわけではない。

 しかし鈴木先生の話を聞くと、古来から言われてきた「厳父慈母」がいかに意味深長な言葉か、今さらながらのように感心させられるのである。

 

「慈父厳母」が駄目な理由

 

 鈴木先生が多くの事例で経験されたように、父親は父性、母親は母性というのを反対にして、父親が母性、母親が父性という役割分担にするとうまくいかないのは、なぜであろうか。

 その理由は、子どもの立場に立ってみると、分かるような気がする。子どもは母親のお腹の中にいるときから、母親には「優しい包み込んでくれる」慈愛を感じている。この原体験によって、母親から優しい母性を与えられるときに最も心が安定し、穏やかな気持ちになれる。ところが、その母親が厳しく怖い顔を見せたら、子どもの心は混乱してしまうし、不自然さや不満を感じて、子どもの心は不安定になってしまう。

 やはり母親は基本的には優しい慈しみ深い存在でなければならない。その代わりに、父親が厳しい面を分担しなければならない。だから、どんなに柔和な男性でも、父親として行動するときには、がんばって厳しさを持たなければならないのである。

 このように書くと、母親は厳しくしつけをすべきでないとか、父親はやさしい顔をみせるべきでないと誤解をされるかもしれないが、そうではない。一言で言えば、母親はやさしさの中に厳しさを、父親は厳しさの中にやさしさを持つのが望ましいのである。毅然としたやさしさや、深い愛に満ちた厳しさは不可能ではない。

 こういう分担は、たしかに「作られた分担」と言えないこともない。しかしこの「作られた文化」は子どものしつけのためには大切で必要な文化である。

 この意味では、やはり父親は父性、母親は母性という自然な組み合わせに則った「厳父慈母」の伝統を大切に守り、それぞれの役割を磨くのがよいのである。

 

 もちろん母親だけで子どもを育てている家庭では、母親が父性的なしつけもしなければならない。母親がしっかりしていれば、父性不足にならないことは可能である。しかし、それはそれで、母親が相当に奮闘努力しなければならないことも事実である。母親が父性を持とうと奮闘した結果、今度は母性が足らなくなったという、笑えない例も少なくない。一人二役というのは、口で言うのは簡単だが、実際にはなかなかたいへんなことである。

 

 鈴木りえ子氏は

 

 私の場合、長年働いていて、子どもがいれば母性といわれているもの、父性といわれているもの両方を子どもに教えることができるような気がします。

 

 と簡単そうに言っているが、実際に母親が父性的なしつけと母性的な優しさを与えることを両方とも上手にやろうとすることは、原理的に不可能なのである。それこそまさに観念論というものである。私は多くの失敗例を見てきているので、鈴木氏のようには楽観的にはなれないのである。鈴木氏は「子どもがいれば」と話しているところを見ると、まだ子どもがいないらしい。実際に子どもを育ててみれば、そういう楽観的なことは言えなくなるはずである。

 

 日常的には母親がしつけをするが、背後に父親のどっしりした存在が感じられるかどうかが、母親のしつけの成否を決める。

 たとえば、平成12年12月14日のTBS「スパスパ人間学」という番組の中で、典型的な「自己チュー」の四歳児のケースが出ていた。この子は、ご飯の前でもお菓子を勝手に食べ、母親の制止ををきかない、寝る時間は夜中の1 時、2 時という有様である。このケースでは、父親がルールを作って子供に紙に書かせ、それを守るように言っただけで、母親のしつけができるようになった。母親がいくら父性を発揮しようとしてもできなかったことが、父親の父性によって簡単にできるようになるのである。父性をもった父親の存在意義がいかに大きいかは明瞭である。

 母親だって父性を持つことができるから、「父性」という命名はおかしいという議論は、まさに机上の空論だと言わざるをえない。

 母親も父性を持つことは可能ではあるが、それはあくまでも補助的なものにとどめるべきであり、母親が父性を得意機能にしてしまっては、逆に母性が不得意になってしまい、子どもにとってはかえってよくない結果になってしまうのである。このことがおそらく「慈父厳母」ではうまくいかない最大の原因なのではなかろうか。

 

伊藤公雄氏の根本的な間違い

 

 伊藤公雄氏は父性を「秩序を作る」機能というように狭く理解した上で、それは「別に男であろうが女であろうが関係ないのです。それをなぜ父性と呼ばなければならないのか。林道義氏の『父性の復権』の一番の疑問がそれですよね」と語っているが、この言葉こそ伊藤氏の間違いを最も端的に示しているのである。

 それは人間の両性具有という性質を、単純に男性性と女性性を半々ずつ持っているという意味に取っているという、人間に対する無知をさらけ出している。たとえば、男性は女性性を持ってはいるが、それは不得意機能として持っているのである。それをできるだけ開発し洗練するのはもちろん望ましい。しかしそれを得意機能にしようとしない方がいいのである。そんなことをすると、本来の得意機能であるはずの男性性が阻害されたり、歪んでしまったりするのである。むしろ一番大切なのは、本来の得意機能をますます磨いて、洗練させることである。不得意機能を磨くのは、そのあとのことと考えるべきである。 ( この問題は田村毅氏への反論でも述べたことである。また斎藤学氏の「乳房をもった父親」というイメージにも当てはまることである。それぞれへの反論を参照されたい。)

 伊藤氏は自分は家事も育児も半分分担して、女性性も開発しているのだと自慢しているが、しかしそのために男性性や父性が劣等機能になっていないであろうか。たとえば、アメリカに行った時は私の『父性の復権』が昔の父権を復活させようとするものだと宣伝していたが、この本の中では、私の『父性の復権』が「父権の復活」ではなく、単に「秩序を作り出すもの」だと (狭隘化はしているが) 正しく理解している。もし「父権の復活」という意味だと本当に理解しているのなら、まさか「女性にもできる」とは言わないであろう。

 伊藤氏は、「父性」をある時は「父権」と言い換え、ある時は「女性にだって同様にある」と言う。こういう無節操、無原則なところが、劣等機能としての父性や男性性の特徴なのである。伊藤氏は、女性性を開発しすぎて、父性や男性性が劣等になってしまった好例である。

 

 以上によって明らかなように、「父性」という言葉で私が表わした内容はやはり父親と最も密接に結びついており、その意味で「父」性という命名は適切なのである。