父性

18 『父性の復権』アマゾンの書評(本多亮凱氏と植村恒一郎氏)について

             (平成16年3月10日初出)

 『父性の復権』についてのアマゾン書店の書評欄に、ひどい悪口が書いてあると知らせてくれた人がいるので、さっそく覗いてみた。署名入りで、たしかに悪態と言えるほどの悪口が書いてある。とくに悪口雑言と言える一つは、2002年10月2日の日付けになっており、ずいぶん昔から出されていたことになる。もう一つは本年2月20日だから、最近のものだ。

本多亮凱氏の書評

 一人目は鎌倉市の本多亮凱と名乗っている。他にも独和辞典などの書評をしているところを見ると、独語・独文学の関係者らしい。こういう文章である。

「○○の一つ覚え」という言葉があるが、「復権」をむやみやたらに振り回したがる人物である。小林よしのり等と同様に「本質的な影響力の無い」論客であるから放っておいても問題は無いが、この種の似非インテリに跋扈されると何かと日本人が誤解される危険があるので一言述べておくこととする。

 一言でいうならば「可哀想な浪花節」なのである。本人は理論武装しているつもりであろうが、到底インテリと言えるレベルとは思えない。私は必ずしもフェミニズムに賛同しているわけではないが、こういうどうしようもないものを読むとフェミニズムの方がまだマシであると思えるのが情けない。

 論理的な反論は岸田秀が既に行っているので、それで十分であろうが、多少心理学に関わっている者として言わせてもらうならば、「心理学」という現在それなりに力を持っている権威の傘を着て出鱈目な論理を展開されるのは迷惑至極である。

 この種の書物の持つ危険性は、「まともなインテリは滅多に相手にしない」「十分な教養の無い者がたまたま読むと、似非科学に騙されてかぶれてしまう」という特殊な狭間に位置するという特性であろう。

 現在の大学では学者の権威も十分に暴落していることであるから、『学者の復権』でも実践してみては如何か?

 この人物は自分をインテリだと思っているらしい。それにしては感情(反感)丸出しの、およそ論理性も知性も感じられない、インテリらしからぬ文章である。

 「本質的な影響力の無い」と過小評価したかと思うと、「日本人が誤解される危険がある」と一挙に過大評価してくれている。私は日本人を代表しているらしい。というより、悪口を言いたいという動機が先にあり、それを正当化するために、こんな屁理屈を考え出したものであろう。

 「可哀想な浪花節」であり、「到底インテリと言えるレベルとは思えない」「どうしようもないもの」「フェミニズムの方がまだマシ」「出鱈目な論理」などと、悪態のつき放題である。

 こういう悪口雑言に頼ろうとするのは、マザコン男の特徴である。この男は小林よしのりが嫌いらしいが、皮肉なことに父性欠如で悪態が得意なマザコン男・小林よしのりと同じ特徴を示している。「父性」という言葉を聞いただけで虫酸が走るのであろう。

 内容に関しては「論理的な反論は岸田秀が既に行っている」として何も書いていない(岸田氏の批判をご存じの方、教えてください)。ただ悪態だけの文章で、書評と言える代物ではない。どんな悪口でも載せてしまう、アマゾン書評の盲点をついて、個人的な反感をさらけ出したか、うっぷん晴らしをしたものであろう。醜い所行と言うべきだ。

植村恒一郎氏の書評

 ついでに、もう一つ辛口の書評が載っているので、それについても一言。こちらは「父性」概念についての「致命的矛盾」を批判している。和辻哲郎文化賞をおもらいになった偉い哲学者だそうだ。

 題名は「魔法のような父性概念だが?」とあり、

「すべてを説明する原理は、実は何も説明しない原理である」と格言にもあるように、複雑な問題を一刀両断に片付ける「父性」という概念は、実はきわめて疑わしい

 と述べて、批判した気持ちになっているらしい。お粗末な批評である。私は「父性」概念で「すべてを説明した」ことはないし、そのように僭称してもいない。「一刀両断に片付け」てもいない。そう言っただけで、この批評は力を失う。そもそも「一刀両断に片付ける」という表現は、何を意味しているのか不明である。「魔法のような」といういい方も同様、じつは意味不明な言葉である。この男は意味不明の言葉で他人を一刀両断にしたつもりになっているらしい。

 もしかすると「魔法のような」と言いたいほどに、彼には「父性」という概念が無意識のうちで魅力的に思えたのかもしれない。「すべてを説明している」ように思えたのだろう。しかし冷静に客観的に読めば、「すべてを説明している」と読めるはずもないのだ。

 さて、肝心の「致命的矛盾」とは、

「父性」のジェンダー性を否定して、その「生物学的本性」を言うためにゴリラの生態学を援用する。この矛盾は致命的だ。男女にかかわらず人間としてそうありたい優れた徳性を「父性」と呼んで、それを生物学的男女に曖昧に重ね合わせて、もっともらしく見せている。だがそうした擬似説明では、事柄の真の因果関係を認識して問題を解決することにはならない。

というところにあるのだそうだ。  

 相手の「致命的矛盾」を言うわりには、自分の方の論理や言葉の使い方にはあまり神経を使わない人らしい。

 「父性のジェンダー性を否定」するとは、どういう意味か、その「生物学的本性」というものが何を意味しているのか、私には分からない(もちろん私はそんな言葉を使っていない)。用語の使い方については厳密でなければならないはずの哲学者が、フェミニストの用語を無批判に使うとは、不可解である。フェミニストの意味では、「父性のジェンダー性」とは父性が「社会的・文化的に作られたもの」という意味になるはずだが、私は父性という性質がまるまる遺伝的に決められるとも言っていないし、逆にまるまる社会的に作られるとも言っていない。ただ今まで後天的にのみ形成されると思われていたのに対して、遺伝的な側面もあると言ったまでである。したがって、もし植村氏がフェミニストが使う意味で「ジェンダー」という言葉を使っているのなら、私は「父性のジェンダー性」を否定してはいない。つまり私が「父性のジェンダー性を否定」しているという彼の読み方は間違っているのである。「致命的な」読み間違いをしているの植村氏の方である。

 さらに彼は「男女にかかわらず人間としてそうありたい優れた徳性を「父性」と呼んで、それを生物学的男女に曖昧に重ね合わせて、もっともらしく見せている」と批判しているが、自分の考えがいかに深く近代主義的なフェミニズムに影響、いや毒されているか自覚していない。その考えの底には、男女が人間として同型であり、持っている性質も同型であるという思想が隠されている。つまり私が父性と呼んだ性質は、女性にもあるはずであり、男女に関わりなく人間ならば持つべき「人間としての優れた特性」だと言うつもりなのであろう。

 もちろん私も、それらの特性を女性が持つことができないなどと言っているのではない。そういう特性を父親が持つことが、子供に対して重大な影響を持つという不思議な事実について指摘したのである。ただ机上の論理だけで、「その性質は男女ともに持つことができる」としたり顔で言っただけでは、表面をなでただけの批評にしかならない。人間の心理に肌で接し、その中から人間心理の深いなぞに挑戦する中から生まれた指摘だという面を見落としているところに、彼の批評の底の浅さがすけて見える。

 彼のいう「矛盾」とは、彼の視点の浅さや間違いのために、ただそう見えるというだけのものにすぎない。他人の著作を批評するだけの勇気を持つのなら、それをよく理解する心を養ってからにすべきである。でないと、この場合のように、「まったく理解していない」という反応をいただくだけに終わるであろう。