父性

2 賀茂美則氏への反論

反「父性」論の危険な体質

何故に「父性の復権」を怖れるのか          

(『諸君!』平成10年3月号掲載)

 

 拙著『父性の復権』が出版されて二年近くになるが、その反響は衰えるどころかますます注目を集め、講演の依頼も依然として多い状態である。「父性」をめぐる動きは社会現象となり、ありとあらゆる、と言ってもいいほどに多様なメディアによって取り上げられた。

 その一方で、バッシングや陰険な攻撃も目立つようになってきた。それらは、申し合わせたように「父性の復権」論を「父権の復活」を狙う保守反動として描きだし、父親の権力や支配を復活させようとする運動のごとくに見せかけるという特徴を持っている。これは、自分の気に入らないものに意図的に悪いイメージを押しつけて、葬り去ろうとするフェアーでない悪辣な方法である。そうした批判の最初は、私の知るかぎり、斎藤学『「家族」はこわい』(日本経済新聞社)である。彼は「父性の復権」論は新保守主義であり、「父親は厳然たる権力を持つことがいいのだという論理です」「何よりも政治運動だということを念頭に置く必要がある」(8頁)と述べた。最近はこの手の宣伝が組織的になってきた感じで、たとえばNHKの教育テレビで「プロミス・キーパーズ」についての番組「男と女の社会学」(平成10年1月10日、午後8時より)の中で、伊藤公雄氏は「日本でも『父性の復権』が流行っていて」、それは「男性が古い権力をもう一度取り戻して、家庭内をコントロールしなければならないというものです」と述べた。

 父性復権論者の中で、「男性が古い権力を取り戻せ」などと言っている者は私の知るかぎり一人もいない。すくなくとも私はただの一言もそんなことは言っていない。彼らは何か意図的に「父性復権論」を歪めて、反民主主義的で「反動的」なものとして描きだそうとしているかのようである。

 そして極め付きが『論座』(朝日新聞社)本年1月号の「『父性復権』論の危うさ」という特集である。背表紙には「『父性復権』論の罠」とある。すなわち「父性復権」論は危険であり、何か悪い人間のしかけた罠だとでも言いたいらしい。危険だという判断の根拠がまるでいい加減なのに、ただ「危険だ危険だ」と叫ぶという、こういうバッシングのやり方こそ反民主主義的でありファッショ的ではなかろうか。

 特集の二論文の一つ、妙木浩之氏の「父親たちの居場所をどこに求めるか」は、一見冷静に解説的に発言しているようだが、じつは「父性復権」論が危機のたびに繰り返される「権威探し」だとか、その権威のモデルが明治天皇だとして、非常に特殊政治的なものとして描き出そうとしている。彼は「権威」というものを初めから「悪」として扱い、その「権威」の意味を考えないまま、「権威」や「リーダー」を求める人々を危険視している。もう一つの、賀茂美則氏の「いいかげんにしてくれ『父性の復権』論」という一文は、拙著『父性の復権』に対して「まやかし」だの「ちゃんちゃらおかしい」だの「いいかげんにしろ」だのと、子どものけんかのような悪態をつくという、品の悪い低俗なものである。

 賀茂氏の文章がただ品が悪いというだけのものならば、また妙木氏の文章が単に誤解をしているというだけのものならば、相手にするのも馬鹿らしいと放っておくところである。しかし二人の文章の中には、「父性」論に反感を抱く人々の精神構造とその危険性とが典型的に表現されている。「危うい」のは彼らの方なのであり、「罠」をひそませているのは『論座』の編集方針の方である。その意味では、彼らの文章を分析し、その中にひそむ危険性を明らかにしておかなければならない。以下、真の民主主義と健全な市民社会に反する彼らの危険な精神構造をあばき、警鐘を鳴らしておきたい。

 

序 問題のありか


 二人の文章を読んでみて、最初に私は不思議な感じを持った。次に詳しく論証するように、彼らは相手(父性復権論者とくに私)の言っていることを正確に理解しないで、批判をしている。それどころか、すりかえや歪曲を多用している。また現実認識も世の中の実態から大きくズレている。

 もしそれらの歪曲やすりかえが意図的でなく、単純な誤読だとすると、二人とも唖然とするほどに知的能力が低いということになる。しかし二人ともなかなかに文章力がある。いっぱしのオピニオンリーダーの資格があると言えるほどに雄弁である。だからこそ父性論批判の論客として選ばれたのであろう。だから知的能力がそんなに低いとは思えない。しかし父性論に関するかぎり、彼らの理解力はあまりにもおそまつである。その間のギャップが私にはどうにも納得がいかなかった。

 もし歪曲が意図的だとすると、なお不思議な感じがする。というのは、彼らは歪曲された姿に対して批判しているのだから、もとのものは「悪くない」と思っているはずである。もとのものは(少なくともそれほど)「悪くない」と思っているのに、なぜ歪曲してまで批判しなければならないのか。これも不思議な話である。

 こういう不思議な現象が起きるときには、必ずといっていいほどに無意識の動機が働いている、というのが、私の専門である無意識心理学(深層心理学)の教えるところである。つまり、歪曲された側から言うと「汚い」と言いたくなるような読み間違いや誤解は、じつは歪曲する本人にさえ無意識の心理的動機が働いていることが多いのである。つまりそれは単純な誤解ではないということである。誤解をした上で激しい批判をする人は、たいてい危険な無意識的動機を持っているものである。

 彼らの本当の動機とは何かと考えていたとき、私は彼らの誤解や現実認識のズレが、必ず一定方向を向いていることに気がついた。彼らの内にある何かの力が働いて、彼らの思考に一定の方向性を与えているという印象を受けた。それを明らかにするために、まず彼らの歪曲が、いかになされているかを分析してみよう。

(以下、妙木氏に関する箇所を独立させて、次の「妙木浩之氏への反論」とした。従って以下では賀茂氏に対する批判が主になっている。)

 

一 一定方向を向いた歪曲とすりかえ


 そこでまず賀茂氏が「父性復権」論をどのように描き出しているかを見てみよう。

 

「読んでいない?」と思えるほどの読み間違え

 まず賀茂氏の理解力を見てみよう。賀茂氏は批判する対象を曖昧にぼかしたりはしない。はっきりと拙著『父性の復権』を名ざしで批判している。その意味では気持ちがよいくらいである。ただし本を読む能力はまるでないと言わざるをえない。

 彼は私の本に対して、「父性」の定義と由来をはっきりさせていないので「学術的とは言いかねる」と批判し、総じて「学問的裏付けがほとんどない」と結論している。しかし拙著の第一章「父性はどのようにして生まれたか」は父性の由来とその遺伝的根拠について霊長類研究をふまえて書いてあるし、第三章「父性の条件」はすべて「父性」の定義とその説明にあてられている。第二章「子どもの心理的発達と父性」は心理学の分野での多くの研究をふまえて書かれているし、第三章の構成力の研究は私自身の研究成果をふまえている。第四章「父性の権威」では、権威についてのフロムやアドルノらの社会学的研究をふまえている。しかも後者はきちんとした実証的統計的研究である。そういう点をわざと無視して「学問的裏付けがほとんどない」「まやかし」だと断ずるのは、許しがたい名誉毀損である。というより、「本当に読んだの?」と聞きたくなるほどの杜撰な読み方である。

 さらに彼は私の「父性」概念が、昔アメリカで流行った機能主義の「道具的役割」と「非常に近い」と言っている。彼は「父性を道具的役割」「母性は表出的役割」として父性と母性を区別する人々は「時代遅れの家族観に縛られている」とも言っている。まるで父性と母性を区別する人が皆アメリカの機能主義的な考えを持っていて、しかも「時代遅れ」であると言わんばかりである。

 しかし私の「父性」概念は機能的実務的な役割についての概念ではなく、父親(および父親的な人物)が持っているべき「性質」「人格」「要件」といった抽象的な次元で論じているものであり、アメリカ的な機能主義とは似ても似つかぬものである。このように異なるものを、賀茂氏はどうしてこうも単純に同一視できるのであろうか。彼の分類や区別の能力は、学問をやる人間としてはまるで落第である。だから父性と母性を区別することもできないし、また区別する必要性も理解できないのだ。区別と同定がきちんとできない人間というのは、父性不足で育った人間に多い特徴である。

 同様に賀茂氏は今アメリカで流行っているプロミス・キーパーズの運動と『父性の復権』論を「うりふたつ」だと認定しているが、これも乱暴な決め付けと言うべきである。彼はプロミス・キーパーズについて、女人禁制でやっているという理由だけで「夫と妻の協力という視点がまったく欠けている」とか「家族は父親に服従しなければならないという本音が見え隠れしている」(なんの根拠も示されていない)と勝手な解釈をした上で、それと『父性の復権』論が「うりふたつ」だと言う。

 プロミス・キーパーズの本質については私なりの見方があるが、それをここで述べる紙数の余裕がない。百歩ゆずって、プロミス・キーパーズが賀茂氏の言うとおりのものだすれば、私の説はプロミス・キーパーズとは対立している。なぜなら、私は父親が家庭の中で支配していいとか、家族は服従すべきだなどとは一度も言っていない、逆に夫婦は平等に協力し合うべきであり、家族の価値観を決めるさいにも完全に平等に話し合うべきだと言っているからである。

 私は賀茂氏の文章を読んだとき、よほど杜撰な頭脳の持ち主かと思い、こんな頭脳の持ち主がどうして学者になれたのか摩訶不思議だと思ったが、しかし彼の誤解に一定の方向性があることに気がついて、問題はもっと根が深いことに気づかされた。プロミス・キーパーズをめぐる彼の誤解を見れば明瞭なように、彼の誤解ないし歪曲は「権威」と関係している。「権威」が出てくると、彼は冷静な判断力をなくしてしまうのである。

 このように賀茂氏は、「権威」を単純に「悪者」の中に入れてしまうばかりでなく、「権威」という言葉は彼の判断力を狂わせる性質を持っているらしいのである。

 

二 現実認識のズレ


 「父性復権」論が注目をあびる社会的背景についての賀茂氏の現実認識もまた、社会の実態から大きくズレている。

 

社会の現実を知らない社会学者

 賀茂氏の現実認識を見てみよう。

 彼は拙著『父性の復権』が共感を呼ぶのは、「現代の親たちが感じている漠然とした不安感」のせいだと分析している。また『父性の復権』を、「父親像の真空地帯に突然現れた」もので、「父親が強かった古き良き時代への回帰を目指すかのような」「硬直した父親像」だと理解している。そんな「まやかし」がこれほどに社会に受け入れられていることに、彼は我慢がならないようである。

 『父性の復権』の内容に対するあきれるほどの無理解は別としても、それがかくも支持を集める背景をなしている現実社会の問題性が、彼にはまるで分かっていない。現実の日本社会に対するこれほどの無神経と無理解には、最近お目にかかったことがない。しかも賀茂氏は社会学者だという。

 社会学という学問は、ややもすると新しい現象をそのまま肯定してしまったり、問題の本質に対する深い切りこみが不十分だとはいえ、社会の動きに対して鋭敏な触角を持っているのがメリットであった。しかし年令としては少壮気鋭ともいうべき賀茂氏に、そうした鋭敏さがみじんも感じられず、鈍感さばかりが目立つのはどうしたことだろうか。

 

問題の質は変化している

 今の日本社会の問題の質は、10年前とは大きく変わっているのである。そのことを私は『父性の復権』の出版以前から、声を大にして訴えてきた。何度も言ってきたことだから簡単におさらいすると、ここ10年来の子どもの問題、家族の問題は、子どもたちの無気力、秩序感覚や現実感覚の欠如、人格崩壊型の犯罪や心の病という形を取るようになっている。その背後には、感覚的な次元での欠落があり、その背後には「父性の欠如」がある。それは「理想の父親像が不確かなものになっていることへの不安」などという漠然としたものではない。「理想の父親像が不確か」なのは、なにも今に始まったことではなく、戦後50年間ずっとそうだった。また「強い父」を待望する声も今までにずっと存在した。そんな一般的な原因しか思いつかないのは、社会学者としての無能を示す以外のなにものでもない。

 今とくに父性が関心を引くのは、それなりの具体的で確かな理由があってのことである。今の日本では、若者の間ではルール感覚も、マナーの感覚も、美的感覚も、なにもかも音を立てて崩れている。昔だって弊衣破帽があったではないかというが、それはまったく違う。精神構造が正反対である。弊衣破帽は誇り高く、精神に張りがあった。今のズリ落ちズボンとルーズソックス、それにジベタリアンには秩序感覚や美的感覚の欠落が反映されている。この底辺での欠落が裾野となって、いじめ、不登校という中腹と、覚醒剤、少女売春、異常殺人という頂上をささえているのである。すべてに共通なのが感覚的な次元における秩序・ルール・美意識などの欠落である。そしてその欠落の最大の原因が「父性の欠如」である。

 そこに問題の根っこがあると敏感に感じとった人々が、私の『父性の復権』論に共鳴したのである。それを単に古くさい「強い父」へのノスタルジーからだと見るのは、日本の現実をまるで理解できていない。賀茂氏は日本を離れてアメリカ生活が10数年に及ぶために日本社会の認識が昔のままでストップしているのかもしれないが、日本社会について論ずるのならば、もう少し日本社会の現実について認識を深めてから発言してもらいたいものである。

 

ストレス原因論の間違い

 現代日本の少年犯罪を頂点とする子どもたちの歪みを、偏差値教育や管理教育などのストレスに原因を見いだす評論は、あまりにも見当はずれである。子どもたちは学校にあがる前にすでに間違った教育をほどこされているのである。それは自由放任という間違いである。子どもたちは、人間が生きていくために最低限必要な秩序感覚や現実感覚を与えられないままに、勝手気ままな状態に放置され、そのためにほんのちょっとしたストレスにも「むかつく」人格になっているのである。

 問題はストレスが大きすぎることではなく、ストレスに耐えられない人格になっているということである。

 そうなってしまった原因は、親たちが仮面をつけすぎたせいでも、子どもたちにニセの自分を見せようとしたためにそのメッキがはげて起きたというものでもない。まさに逆。親たちが自分のしっかりした価値観を持てず、子どものしつけにも自信が持てないことの結果なのである。それに対して、自信や確固とした価値観を持ってはいけないとか、権威を捨てて「ありのままになれ」と言うのは、まさに正反対の間違いを犯している。

 賀茂氏の「登校拒否、いじめ、拒食症、心身症」は親が子どもを「あるべき姿」に当てはめようとした結果だなどという言い方は、流行の自由放任主義に立った診断である。そんな診断では、にっちもさっちもいかなくなっていることは、現場の先生たちなら誰でも痛切に感じていることなのだ。流行の言説に無批判に寄り掛かった物言いだけは「いいかげんにやめてくれ」と言いたくなる。それらの現象は、まさに逆に「子どもの(わがままや無気力という)ありのままの姿」を受け入れた結果として起こっているのである。とくに家庭内暴力をふるいつづける子どもを父親が金属バットで殴り殺してしまったという不幸な事件は、父親が権威も力もすべて捨てて無抵抗を貫いた結果として起きたという現実を、賀茂氏はどう見るのか。

 

「らしさ」は仮面か?

 妙木氏も賀茂氏も、まったく同じ表現を使う。「あるべき姿」を押しつけるからいけない、「こうあるべきである」という言葉が使われると、神経症的循環に陥ってしまう、と。モデルを与えてはいけない、「ありのままでよい」のだそうだ。子どもにモデルを示さない方がいいのと同様に、親の方も「らしさ」を捨てる方がよいとされる。「らしさ」もまた「権威」という問題と深く関係している。

 賀茂氏は「らしさ」を単なる仮面だと言う。「父親らしさ」も「母親らしさ」も、「男らしさ」も「女らしさ」も、すべて仮面だと言う。だから「無垢で敏感な」子どもから見れば、たちまちメッキがはげる代物だと言う。だからいっそのこと、はじめから「ありのままの姿」をさらけ出すのがいいのだと言う。こうして父と子は完全に対等になり、上下関係のない「一人の人間」対「一人の人間」の「真剣勝負」をすべきだと言う。「仮面を演じるのはしんどい」からと仮面を捨てた人間は、「真剣勝負」をしなければならないと言われる。親子で真剣勝負をするのは、もっと「しんどい」ことではないのか。なぜ親と子が「真剣勝負」をしなければならないのか、私には分からない。親子の関係とは、「お前はまだありのままを見せていないぞ」といって裸で相手の弱みや痛いところをつつき合うような「真剣勝負」などではない。親子の関係とは、まずなによりも愛情の関係であり、親が子に何を与えることができるのかが大切となるような関係である。親は子にしつけを与えなければならないし、貴重な体験を与えたいし、感動も与えたいし、能力も伸ばしてやりたい。裸を見せればいいだけなら、じつに簡単なことであり、なにもわざわざたいへんな「真剣勝負」などしなくてもよかろう。

 じつは彼が「一人の人間」対「一人の人間」の「真剣勝負」などという大げさな言い方をするのは、彼がいかにも子どもと真剣に向かい合っているのだと思われたいからにすぎない。賀茂氏は昔流行ったキャッチフレーズが今も日本で通用すると思って、「子どもに理解のある」「権威ぶらない」「友達のような」「よい大人」を演じろと説教しているにすぎないのだ。戦後50年間、そういう父親像が流布されてきた結果として、今日の日本社会の問題が出てきたのだという反省が始まっているのに、「子どもに『あるべき姿』を押しつけるな」とか「生身の人間として子どもと付き合え」などという昔ながらの歌をうたっていれば事足れりという態度は、あまりに安易で無責任と言うほかない。時代錯誤でアナクロニズムなのはじつは賀茂氏の方なのだ。

 

「らしさ」は必要である

 「父親らしさ」は単なる仮面などではない。「らしさ」とはそもそも一種の理想であり、社会の中でその集団に属する人々の目標であり、また義務でさえある。「父親らしさ」や「母親らしさ」は子どもを育てる場合に必要な性質を表現しているのであり、決して仮面「にすぎない」ものではない。それをある個人が「しんどいから降りる」というのは仕方ない。しかしその集団の全員がそれを捨てるべきだと言うのは、人間は全員「人間らしさ」を捨てよと言うのと同じくらいに乱暴なことである。政治家には政治家らしさが、警官には警官らしさが必要である。政治家が興行師らしくなったり、警官が泥棒らしくなっては困るだろう。

 「父親らしさ」とは父親が持っているべき性質であり、それは父親の存在意義に関わる問題である。だから「これこれの性質は父親らしさの中に入れるべきか、べきでないか」という議論は大いにしたらいい。しかし「父親らしさ」そのものがいけないというのは、子育てにとって父性が不要だ(あるいは父親と母親の区別が不要だ)と言っているに等しい。子どもが育つ過程で、それぞれ異なる父性と母性の影響を受けて育つ方が、よほど豊かな個性に育つことができる。父性と母性の区別が不要だなどというのは、本当にすばらしい父性と母性の協力を受けて育った経験のない人間の言うことである。

 さんざん「父親らしさ」を批判した末に、賀茂氏は最後に服部君(アメリカで射殺された高校生)の父親が「あんまり父親らしいことをしてやれなかった」と悔やんでいたと紹介した上で、「子供が死んでからでは遅いのである」とコメントしている。つまり子どもが死ぬ前に「父親らしいことをせよ」と言っているに等しい。賀茂氏も心のどこかでは、「父親らしさ」というものが必要だと認めているのでなければ、否定したはずの「らしさ」という言葉がこんな形で出てくるはずはないのである。

 

三 反権威主義の危険


 以上、賀茂氏の批判は、相手を意図的に歪曲して攻撃するキャンペーンの一環であり、その歪曲にははっきりとした方向性のあることが明らかになった。その方向性はじつは権威に対する態度によって根本的に決定されている。彼の間違い、歪曲、すりかえは、すべて「権威」に対する反発によって方向づけられているので、必ず一定の方向性を持っているのである。

 彼は、「権威」を持っていると思われるものや、「権威」を主張しているものに対して、無条件で「悪い」ものと判断し、批判しなければならないものとみなしてしまう。「権威」というものについて冷静で客観的な研究をした上で評価するという態度ではなくて、ただやみくもに否定するという態度である。そこには、権威にも望ましいものと、望ましくないものとがあるという発想はまったく見られない。次にその問題を考えてみよう。

 賀茂氏は、権威やリーダーシップという言葉を聞いただけで反発を感ずるような心理の持ち主らしい。このように権威を単純に否定して、権威が大切だと言っているというだけで危険視し攻撃するというやり方は、それだけでもフッァショ的である。しかしそれだけではない。その精神が本物のファッシズムを招きやすい本質を持っているという、さらに重大な問題がある。その点を次に考えてみよう。

 健全な権威、正しいリーダーシップは、いかなる社会においても必要なものである。ところが、そもそも権威がどのような意味で必要なのか、どのようなときに悪い危険な働きをするのかということについて、冷静で理性的な議論をすることが、いまの日本には決定的に欠けている。

 そして妙木氏や賀茂氏に代表されるように、権威についてきちんとした検討なしに、いかなる権威もリーダーシップも拒否するという風潮は、じつは戦後日本の時代精神とも言えるほどに強かった。しかしそのように、権威否定があまりに強く社会を覆ってしまうことは、きわめて危険なのである。なぜなら、その反動として必ず権威やリーダーを求める心理が出てくるが、それがしばしば不健康で危険な形で噴出するからである。

 

危険扱いするという危険

 反動として出てくるものは、必ずといっていいほどに無意識的な現象として出現する。そして無意識的な願望として出てくるものは、たいてい非合理的で危険な形で現れる。つまり、あまりにも一面的に否定されすぎたものは、無意識的で危険な反動として現われやすいと言えるのである。

 つまり本来は危険でもないのに、「危険だ、危険だ」と攻撃し抑圧すればするほど、そのものは実際にも危険なものになっていく。いわば、危険視することによって危険な方に追いやっているのである。

 彼らは、リーダー待望論はよくないものだと思い込んでいるようだが、よいリーダーを必要だと感ずることは、本来健康で正当なことである。むしろ大切なのは、その欲求を認めた上で、よいリーダーの条件を考えたり、よいリーダーの選び方を研究することである。リーダーを単純に否定してしまうと、よいリーダーについて考える方にエネルギーがいかなくなってしまう。するとニセモノのリーダーを本物と間違える者たちが多くなる。

 リーダー待望の心理は、社会の中に必要なリーダーシップがないときに現れるものであり、それ自体は健康な印である。したがってそれを意識的に健全な形で実現できるようにしてやらなければならないのである。

 しかるに今の日本で、権威やリーダーの待望論が危険な性質を持っているとしたら、それは今までの、そして妙木氏や賀茂氏に代表されるような、権威全面否定の論調こそが、むしろその原因になっているのである。つまり権威への拒否反応こそが、むしろ逆に健全な権威待望論を危険な権威主義待望論にしてしまう元凶なのである。

 

ナチスの教訓

 じつはナチズムの運動とヒットラーの成功は、そのような大衆的な心理の機微を利用する形で実現した。ワイマール文化の価値の多様性、確かな価値観の喪失と頽廃、ドイツ国民の劣等感、権威の喪失、リーダーシップの欠落、これらに対する反動として、権威と秩序と強力なリーダーへの期待が生まれた。しかし既成の知識人も政治家も、その無意識的な期待を意識的に洗練して、その期待に答える見識も力量もなかった。その間隙をぬってファシズムが台頭したのである。

 この教訓を間違って理解して、秩序志向そのものや、リーダー待望そのものがナチスを台頭させたと考える人々は、現代の日本における「父性復権」論そのものが反動的であり危険であると考えるのである。事実は逆である。健全で必要なものを含めて、権威や秩序やリーダーシップをやみくもに否定すればするほど、それに対する無意識の反動が強くなり、ヒステリックで偏った言動が支持を集めやすくなり、群衆心理が支配しやすくなるのである。健全な権威や秩序やリーダーを求める気持ちを認めた上で、それを意識的に正しい姿に育てることが大切である。

 ただ「悪玉」視して否定するだけの態度は、むしろファシズムに道を開いているようなものである。

 

酷似する日本の状況

 その意味では、今の日本は、ワイマール時代のドイツと恐ろしいほどに似ている。価値の多様性、確かな価値観の喪失と頽廃、健全な感覚の欠落、健全な権威の喪失、リーダーシップの欠如。これらに対する反動を、不健全な独裁待望論の方向にではなく、健全なリーダーシップの実現の方向に理性的に導いていくのが、ファシズムへの道を防ぎ、民主主義的なよりよい社会を維持発展させる道である。私の『父性の復権』はまさにそうした健全で理性的な方向で、真のリーダーシップを実現しようとする方向を指し示している。リーダーの必要性を認めた上で、よりよいリーダーの選び方をどうしたらよいのか考えたり、リーダーシップの使い方を訓練することにエネルギーを使うべきである。

 逆に、単純にすべての権威を拒絶し、すべてのリーダーシップを否定することばかりにエネルギーを使っていると、それに対する反動が非合理的で暴力的な形で噴出するものである。真のリーダーを望む心理をやみくもに否定してしまうと、大衆が盲目的にリーダーを求めて、悪しきリーダーを真のリーダーと取り違える危険が増大する。リーダー待望は、それ自体で危険なのではなく、その中には健全で必要な要素も含まれている。それを反「父性」論者たちのように全面否定したのでは、かえってファシズムへの動きを増幅させる役割をしてしまうであろう。

 

隠された権威主義

 賀茂氏は表面的には徹底した反権威主義者である。父親の権威や権力も、「父親らしさ」も、なにもかも捨てて裸になれと言う。この手の人間たちが、ただ権威主義に反対してきただけでなく、健全な権威そのものまでも否定してしまう過ちと危険については、すでに述べた。だからその点については繰り返さない。ここでは、反権威主義の背後にある、もっと恐ろしい危険について警告しておきたい。それは反権威主義者の中にある、隠された権威主義のことである。

 賀茂氏もご多分に漏れず、強い権威主義を内に隠し持っている。その例をいくつか示してみよう。

 まず第一はなにごともアメリカを基準にして、アメリカを引き合いにだしたり、それと比較したりして、日本の現象を評価しようという態度。アメリカでは「過去の遺物」とみなされていることと同じだから「時代遅れだ」と断定するやり方。アメリカでは悪いと評価されたものと同じだから悪いものだという論法の背後には、アメリカ権威主義がひかえている。

 第二は、学会(学問)権威主義。彼はこう書いている。「僕が知るかぎり、『父性の復権』が現代日本の諸問題の解決につながると論じている心理学、社会学、家族研究のまともな論文は一つもない。97年夏、東京で開かれた日本家族社会学会でも話題にする学者は皆無であった。」

 もし論じている論文があっても、それは「まとも」でないと言われそうである。学者が父性について研究していないとしたら、それは学問が社会の現実から解離してしまっているからかもしれないという反省がみじんもない。事実は違っている。父性についての心理学や家族研究の本や論文はたくさん出ている。賀茂氏が知らないだけである。それらはすべて父性が現代社会の諸問題の解決に関係しているという問題意識から書かれたものである。

 「話題にする学者は皆無であった」という物言いは、こけおどしである。全員に一人一人確かめてまわったのか、と質問してみれば、それがハッタリであることが分かる。こういうハッタリは自信のなさを隠している場合が多い。そういう表現は、学会の権威に頼ろうとする、賀茂氏の隠れた権威主義を示しているのである。

 第三は河合隼雄氏の権威に頼った物言いである。「ユング心理学の大御所である河合隼雄氏によれば、日本社会の根底にあるのは古くから『母性』であり、『父性』など存在しなかったという。」「ユング心理学の大御所」のおっしやることは無条件で正しい、と言わんばかりの物言いである。自分なりの論証は何もない。ただひたすら権威に頼って物を言っているだけである。これが度しがたい権威主義であることは、誰の目にも明らかであろう。(河合隼雄氏の「父性は過去になかった」という主張の誤りについては、1河合隼雄氏への反論」を参照されたい。)

 第四は、その時に最も流行っている思潮、イデオロギーに乗っかるという態度。「らしさを捨てて(父親であることを捨てて)裸になって子どもに正面から向き合え」とか、「生身の人間として付き合え」という、すでに社会で認められている流行の意見にしたがっていれば、「自分は正しい側」であり、それがなぜ正しいかという論証は不要だという態度。それに反対する者は悪者だから、どんな下品な罵倒を投げかけてもよいという態度。これも一種の権威の側に身を置いて、他を否定しようという態度である。

 以上、賀茂氏が権威主義を隠し持っていることは明瞭である。しかもそれを彼は自覚していない。自分は反権威主義者だと思いこんでいて、自分の中に権威志向があるなどとは思ってもみない。このように無意識のうちに持っているものが一番悪い危険な働きをするものである。

 

権威主義的パーソナリティ

 賀茂氏は一方で権威を否定しながら、他方で別の権威に依拠する。こういう人格こそ、エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で明らかにした、ナチスの支持者に最も多かった典型的な「権威主義的パーソナリティ」である。その原型はフロムによればルターである。ルターは一方で父親や修道院の院長の権威に反抗し、他方で法王や皇帝の権威に依拠した。同様にナチスを支持した人々は一方で既成の権威を破壊しながら、他方でヒットラーの権威に絶対的に服従した。このパーソナリティは、単純な善玉‐悪玉論の立場を取る傾向をもち、コンプレックスの裏返しのファッショ的権力志向的な体質を持っている。

 賀茂氏も単純な善玉‐悪玉図式を持っていることは、すでに指摘した。「らしさ」を捨て、「一人の人間」として「ありのままをさらけ出す」人間は「新しくて善い人間」。「らしさ」を持とうとし、親子関係を上下関係として考える人間、権威を持っている人間は、たとえそれが健全な権威でも、「古くて悪い人間」。「権威、リーダー、エリートと名がつくものはすべて悪い。人が人の上に立って教えたり、指導したり、導いたりしてはいけない。」この悪平等主義が戦後日本の社会を歪め、頽廃させ、土台から崩してしまったのだという反省や問題意識はみじんも見られない。

 そして「悪玉」の側に分類された人間に対しては、どんな仕打ちをしても構わない、どんなに軽蔑的な言葉を投げかけようが、罵倒しようが構わない、という心理。身体的迫害こそしないが、言葉による攻撃ならしてよいという考え方。こういう政治的党派的な姿勢こそ、恐ろしいファシズム的な態度と言うべきである。

 とくに賀茂氏に忠告しておくが、自分の気にいらないものを、悪玉とみなしたプロミス・キーパーズと同じだという論理で否定しようとするのは、まさにファシズム的な論理であり、ファシズム的な迫害の実践である。「ユダヤ人」という悪玉を設定して攻撃するのが、ナチスのやり口であった。

 賀茂氏のような権威主義的なパーソナリティこそが、ファシズムの温床である。また権威をやみくもに否定することが、じつはかえって無意識的な権威を、ということは悪しき権威主義を生み出すことについても、すでに指摘した。妙木氏も賀茂氏も、そうした歴史の教訓をもっと学んでもらいたい。いまの局面が、歴史上のどの時代とどの点で似ているのかを、正確に認識してもらいたい。

 そして自分たちの言動が、「反動」を批判しているつもりで、じつは真の反動に道を開くものだという自覚を持ってもらいたい。妙木氏も賀茂氏も、他人のことを危険呼ばわりする前に、自分自身が危険な役回りを演じていることに、はやく気がつくべきである。

 

編集権の私物化・党派化

 ファシズム的な態度は、『論座』の編集部にも同様に見られる。妙木氏のような一方的な歪める論旨や、賀茂氏がしたような下品な罵倒を許す一方で、それに対する私の反論を載せないという態度、「論争誌」を名乗りながら、批判を載せておいて反論の権利を奪うやり方、フェアプレーの精神などみじんもない態度、こういう者たちが権力を取ったらどうなるかを考えてみるとゾッとする。

 編集長は「他の月刊誌とは異なる立場からの論を提供する」のが自分たちの仕事であり役割なので、それを発表させればそれで自分たちの役割は終わったと言う。しかし名指しの批判を載せておいて、反論を載せないのでは、ただの切り捨て御免である。一方の意見だけを発表させて、異なる意見は発表させないという姿勢には、自分の権力(雑誌の編集権)を私物化するファッショ的な姿勢がはっきりと見える。

 もっとも、一方的な見解のみを掲載するのが編集方針だと言うのなら、それはそれで一つの見識かもしれない。しかし、それならそれで、論争誌を名のるべきではないし、下品な雑言や歪曲だけという単なる党派的な文章ではなく、もう少し格調の高い論文を選んだ方がよくはないか。

 同じことは昨年の10月号に「父性の復権」に対する河合隼雄氏の批判を載せた『文藝春秋』の編集長についても言える。批判を載せておいて、「うちは論争誌ではないので、反論は載せられない」と言う。批判は論争ではないとでも言うのであろうか。ジャーナリストや編集者が持っていなければならない良識はどこにいってしまったのかと言わざるをえない。

 有名な新聞社や雑誌の権威をカサに着て、気に入らない者を歪曲したり下品な悪態をつく、また新聞や雑誌がそういう愚行を喜んでバックアップする、こんなことがまかり通るようでは、日本の行く末が案じられる。「いいかげんにしろ」とは、こっちが言いたいせりふである。いやしくも知識人のつもりなら、もう少しは知性と品性を持ち、公平な編集態度をとってもらいたいものである。