父性

20 論理的でないという批判

      (平成19年11月27日初出)

 

  『父性の復権』に対して、「論理的でない」という批判をする者が少なくない。「父性」に反感を持っている者に限って、内容に対してまともに批判しないで、搦め手から「推論や論理が杜撰だ」というケチのつけ方をする。

 もともと私の文章は飛躍が多い。私はユングの言う直観型に属しているので、離れたことをパッと結びつけてしまい、その間のいくつかの論理的な輪を飛ばして、両極のみを示すというようなことをしてしまう癖がある。分かる人には分かるのだが、誤解をまねくことも多い。

 論理がトンでしまうもう一つの理由に、私が面倒くさがり屋だということがあろう。前の方で述べたことを前提にして論ずるときには、前の内容をもう一度丁寧におさらいしてから述べるということをしない。ところが読者というのは、前の内容を覚えているとは限らない。悪い場合には、前の方を読まないで、関心のあるその部分だけを読む人もいる。それらの場合には、私の論理が飛躍していると判断してしまうのである。

 こういうわけで、部分的に見ると、私の文章は非論理的だと即断される危険を蔵しているのである。そういう間違いの典型的な例をお目にかけよう。

 最近、私のところに、『父性の復権』の文章を問題集の題材として使いたいので許可してほしいという手紙が、ある出版社から届いた。著者は横尾清志、書名は「日本語力を鍛える論理思考トレーニング」、目的は「『論証』をテーマにした演習問題」だそうである。

 同封されていた原稿を読んでみてびっくりした。私の文章は悪い見本として使われているのである。要するに、私の文は「単純な循環構造」になっており、しかもその例示は不適切だというのである。

 つまり、私の文章を題材にして、その論証の欠陥を探し出す訓練に使いたい、と言うのである。堂々と「あなたの文章を悪い例として使いたい」という大胆な申し出である。私がよほど寛大な人間だとなめているのか、それとも「欠陥があるから欠陥だと言うのが何が悪いか、それを題材にしてどこが悪いのか」とよほど自信があるのか、よく分からない。

 ここで初めに種明かしをしておくと、当該の私の文章には、論理的欠陥などありはしないのである。この著者が論理的欠陥だと思い込んだのは、彼の理解力が足らないせいなのである。しかし、一部分だけを取り出して次のように分析されてしまうと、私の『父性の復権』の全体を読まないままこの問題集を勉強する生徒や学生たちは、『父性の復権』は論理的に幼稚な作品であるという先入観を刷り込まれてしまうであろう。

 使われる予定の文章は、「人間の父性」と「ゴリラの父性」に関する箇所である。「人間の父性」を「ゴリラの父性」と比較して論じた部分は、意表をついたせいか、常識に反していたからか、誤解が絶えなかった部分である。「またか」という感じである。「問題文」は以下の通り。

  次の文章を読んで、(1)中心主張 (2)例示  (3)中心主張の反復、をそれぞれ指摘し、例示の使用法について考えるところを説明せよ。 とあり、教材としての私の文章が提示されている。はっきり言うならば、例示の使用法が不適切であるということを学ばせるための教材ということになる。使われるはずの私の文章は

  父は全体の利益を考え、全体の進むべき道について思案し、全体のバランスや利害調整について意を用いる存在である。ゴリラの父が、全体を見回していて、喧嘩があるとすぐに駆けつけ中に割って入り、引き分けるか、いじめている方をこらしめるのは、父の態度の原点を示している。

 つまり父は俯瞰的な視点を持って全体を眺めており、問題があればすぐに駆けつけて解決に当たるのである。

 その下に「解説」が示されている。つまり模範解答というわけである。

    解説

(中心主張)

父は全体の利益を考え、全体の進むべき道について思案し、全体のバランスや利害調整について意を用いる存在である。

(例示)

ゴリラの父が、全体を見回していて、喧嘩があるとすぐに駆けつけ中に割って入り、引き分けるか、いじめている方をこらしめるのは、父の態度の原点を示している。

(中心主張の反復)

つまり父は俯瞰的な視点を持って全体を眺めており、問題があればすぐに駆けつけて解決に当たるのである。

 

 と、このように例示を挟んだだけの単純な循環構造を取っており、父親の父性の象徴を論ずる際に、父親ゴリラの行動から例証している。しかしながら、人間の父親の父性に対して、ゴリラの本能的な行動を持ち出しているこの例示は適当ではない。ゴリラの本能と人間の父性とは「父性」におけるそれを履き違えている。人間の父性は理性に基づくものであり、ゴリラのそれは本能に基づく。それゆえ、この例示では説明項と被説明項における話題共通性があるとは言い難い。

 

 えらく自信満々に切って捨てたものである。しかしこの「解説」には根本的な欠陥がある。私は『父性の復権』の最初の箇所で、「人間の父性には、ゴリラの父性に見られるような本能的な基盤がある」ことを論じている。すなわち私は、人間の父性には本能的な基盤があるという立場である。つまり、私の論理に従えば、「人間の父性」と「ゴリラの父性」には「本能的基盤がある」という「話題共通性がある」と言えるのである。

 この著者が「話題共通性がない」と判断したのは、彼が勝手に自分の考えを挿入したためである。すなわち「人間の父性は理性に基づくものであり、ゴリラのそれは本能に基づく」という、それこそ単純な「理性」対「本能」という二分法を人間とゴリラに割り振ったために、私の例示には「話題共通性がない」と判定してしまったのである。論理の輪の中に、本人が考えていることとは逆のことを勝手に挿入したのでは、どんな文章も論理性がないことにされてしまう。いわば他人の文章に対して暴力をふるったに等しい。私の文章に対して「非論理的だ」と判断する人の中には、この手の間違いを犯している者が多いのである。問題は論理性うんぬんではなく、内容の理解力にあると言うべきである。

 この男は、他人の著作を全体として正確に読み取る能力または良心を欠いている。全体として理解するのではなく、部分だけを読んで正確に読んだと思い込むとは、まさに父性の欠如を示していると言える。他人の文章を正確に読み取る能力もない人間が、生徒に「日本語力を鍛える論理思考トレーニング」をほどこそうというのだから、恐れ入る。

 私は、私の文章を使用することを許可しない旨、返事をした。この著書には使われないであろうが、この者が授業でこうした批評を加えて、私の悪いイメージをまき散らしていても、阻止しようがない。困ったものである。

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