囲碁 エッセイ 2

 

囲碁と攻撃性

  ── 大学の授業に囲碁をとり入れて

 

 昨年 (平成4年) 4月に、「哲学」の授業で囲碁を教えるという試みを始めて、碁打ちの皆さんからは、快挙だとたいへん喜んでいただきました。碁を知らない人の反発を買うかと心配しましたが、反対という声はまったくなく、ほっとしています。

 当の学生たちはどうかというと、初めはかなりとまどっている様子でしたが、1年間で立派に19路盤で打てるようになり、石運びも碁の形をなしています。一番上達した人で、9級ぐらいにはなっていると思います。

 寮に盤石を寄贈したところ、授業を受けていない学生までが打つようになり、「個室に持っていって独占してしまうので、個室に持っていくことを禁止しました」と寮母さんが言っていました。そのくらい利用してもらえるとは、うれしいかぎりです。

 学生に教えてみて、今まで気づかなかったこと、あまり気にとめていなかったことで、改めて気づかされたことがあります。その最大のことは、碁の持つ攻撃性の問題です。

 可愛い女の子といえども、それぞれ相当な負けん気と攻撃性を持っているものです。とくに、勝ちたいという欲は相当なもののようです。対戦表を渡して、勝ったら点が2倍になるというようにしたせいもありますが、負けてばかりいて、落ち込む人が出てきたのには弱りました。たかが碁と思っても、負け続けると、そのショックは大きいようです。

 もともと碁には相当な攻撃性が含まれています。攻撃性に関する用語を挙げてみますと、「切る」「攻める」「いじめる」「脅す」「封じこめる」「殺す」など、たくさんあることが分かります。とくに、「殺す」という言葉は、碁の用語だからいいようなものの、ずいぶんと物騒な言葉を私たちは平気で使っているものです。加藤正夫九段に『石の攻め方、殺し方』という著書がありますが、その英訳がattack and killとなっているのを見たときは、いささかギョッとしました。

 碁の本などでうまい打ち方として教えられるのは、「相手の弱い石を攻める」ことです。まさに「弱い者いじめ」が碁では奨励されるのです。普通の市民的なモラルの感覚をさかなでするようなところが、碁には確かにあるといえます。このように碁は強い攻撃性を持っているので、攻撃性を否定している人は碁を嫌います。平和で上品なゲームのはずが、平和主義者から嫌われるという矛盾が起きてしまいます。この問題を、私たちはどう考えたらいいのでしょうか。

 人間は生まれながらに一定の攻撃性を持っているので、それをあまりに否定しすぎるのは問題があると思います。自由競争の原理も攻撃性を基礎にしていますが、競争が公正なルールにのっとって行なわれるかぎりは、それは社会の活力になります。それがないとどんなに社会が駄目になるかは、ソ連や東欧の社会主義の失敗が証明してくれました。

 ですから、攻撃性そのものを否定するのではなくて、攻撃性を公正なルールのもとで、適度に発揮させることを考えるべきなのです。そのように適当に発散させることによって、攻撃性は危険な形で噴出することを免れるでしょう。

 そういう意味では、碁というゲームは、攻撃性を最も公正な形で発揮することのできるゲームだということができます。フェアープレーの精神においては、他の追随を許さないゲームです。その点が、紳士淑女のゲームといわれるゆえんではないでしょうか。

 ですから、碁には攻撃的なところがありますが、それ以上に強調すべきは、その攻撃性を公正なルールによってコントロールする性質もまた強いということです。決して攻撃性が生の醜い形で出ているわけではないのです。

 攻撃性を極度に嫌う人や、極度に負けず嫌いの人は、じつは攻撃性を抑圧しているのです。自分の攻撃性を否定したい人ということができます。しかし、それは実は自分を偽っているとも言えます。攻撃性のない人はいません。自分の攻撃件を素直に認めた上で、それをどうコントロールするかということを考えた方がいいのです。

 攻撃性を、他人を傷つける形で使うのではなく、建設的な方向に使えないものでしようか。他人に勝ちたいというのは、それ自体悪いことではありません。汚いことや違反をしないで、フェアーに競争することは、むしろ社会を活気づかせるためには必要なことです。

 碁はいたずらに攻撃的なのではありません。攻撃性を適正な形で発揮することを学ぶことのできる、非常に有益なゲームなのです。この点に注目すれば、碁の攻撃性に対しても肯定的になれるのではないでしょうか。

(NHK学園「囲碁教室」機関誌『囲碁』平成5年4月号)