囲碁 エッセイ 4

 

ヒカルの碁

 

 私がマンガ『ヒカルの碁』のファンだと言ったら、びっくりされるかもしれない。

 なんと私は『ヒカルの碁』の最初からの愛読者である。はじめのうちは『少年ジャンプ』を毎週買っては読んでいた。書店の店員がへんな目で見ているような気がして、「孫のおみやげだよ」という顔をして買っていた。さすがに毎週買うのは面倒になり、このごろでは単行本が出るとすぐに買って読んでいる。

 最近はテレビでも放映するようになり、全部知っているのに、ちゃんと見ている。

 このマンガ、なかなか設定がうまくできていて、思わず引き込まれるてしまう。つまり原作者の堀田ゆみさんのアイディアがよかったということだろう。いろいろ工夫がしてあって、楽しませてくれる。

 平安時代の囲碁の名手、藤原佐為(ふじわらのさい)の亡霊が少年ヒカルに乗り移り、佐為の影響でヒカルが次第に碁に目覚めていく。

 佐為はかつては江戸時代の棋聖とうたわれた秀策に乗り移っていて、じつは秀策は凡人で、その碁は完全に佐為が打ったものだったということになっている。つまり秀策は単なるロボットだったという話である。この辺は、秀策のファンが怒りはしないかと心配になる。

 ところが我がヒカルは、佐為の単なるロボットにはならない。初めのころからときどき佐為の指令に反抗して、自分の打ちたい手を打っては失敗したりする。しかしその手自体は悪手だが、塔矢名人によれば不思議な才能を感ずるということらしい。そう、ヒカルは自分も周囲も気がついていないが、たいへんな碁の才能を持っているらしいのだ。

 ヒカルは佐為にいつも碁を打ってもらいながら、次第に頭角を現わして、プロ試験に合格し、順調に上達しているようだ。ライバルのアキラとの差も徐々に縮まっていると感じられる。

 ヒカルと佐為の関係はユング心理学で言う自我と「自己」の関係である。自我は生まれてから次第に成長していくが、「自己」は自我の完成された姿を先取りしている。潜在的な可能性としての自分であり、理想の姿である。それは単に目標であるばかりでなく、心の中にあって導いてくれる導師、先達、psychopompos 「魂の導き手」である。

 佐為はヒカルに取り付いたのではなく、はじめからヒカルの心の中にいた「自己」の像であり、取り付かれたと思ったそのときはじめてヒカルに意識化されたのだとも解釈することができる。

 佐為は亡霊なので永遠の存在かと思うと、どうやらそうではないらしい。最新刊の14巻では、佐為が突然「私には時間がない」と言い出す。これには意表をつかれた。私は佐為は不死身(?)だと思っていたから。

 なぜか佐為は近いうちに消えてしまうらしい。そのときはいよいよヒカルが完全に独立するときである。佐為とヒカルの関係は、佐為と秀策の関係とはまったく違うのである。

 ヒカルが成長し自立していく過程を描くことで、このマンガは少年少女にとって非常に健全なよい影響を与えることが期待される。ドラエモンのポケットにいつも依存し、それに甘えているノビタ少年の話よりも、はるかに健康である。

 このマンガの影響力はすごく、少年少女のあいだに囲碁ブームが起きているらしい。私の大学での囲碁授業の学生たちも、一昨年このマンガが始まったときにはまったく関心を示さなかったのに、今年の受講生に手をあげさせたところ、半分くらいが愛読している。これには私もびっくりした。テレビのアニメも見ているそうである。

 日本棋院はじめ関係者は、囲碁人口衰退の中にあってほっとしているし、中にはうかれている人もいるようである。しかし日本棋院はこれで喜んでいる場合ではないと思う。自分の努力でもなければ、成果でもない、いわば「たなぼた」と言える。そのような他力本願でなく、自分たち自身でどういう努力や工夫ができるのか、もっと真剣に考えるべきではなかろうか。