ご意見紹介・パート3

 

 このコーナーは、メールで寄せられたご意見、ご感想の中から、皆さんにも読んでいただきたいものを紹介します。ここに公表するときには、次の3原則を守ります。

 ・ ご本人の承諾を得る。  

 ・ 他人のプライバシーにかかわる部分を削除する。  

 ・ 原則として匿名にする。

 

72 私の町で起こっていることが日本でも起こるかもしれない(北海道・40歳代・女性)

 私は北海道に住んでいます

 私の住んでいる町は昨年、自民党系の無所属現職と民主党系の無所属新人が争う首長選挙がありました。双方ともに現職の大物国会議員が応援に入り、街を二分する選挙戦が行われました。

 選挙では自民党系の現職市長は敗れました。そのころはまだリーマンショックの余波も私の町には押し寄せてはいませんでした。

 小泉構造改革によりそれなりのダメージを受けましたが、道州制や麻生政権になってからすこしずつ地方へ公共工事などもおりてきて、大きな工事なども始まっていました。皆さん、危機感が薄かったのだと思 います。自民党政権への鬱憤を晴らしたような選挙戦でした。

 私の地元で選挙後、どんな状況になったかというと民主党系の新首長は自分の公約をなんとか実行に移そうと躍起になっています。しか し、議会は紛糾しており首長選の争点になった懸案事項はなにも解決されておらず、物事が止まったままです。いままで役所の仕事を貰っていた業界の人達も、H21年から仕事が途絶えてし まい、自営業や働き盛りの男性の自殺が増えています。

 犯罪も増えました、地元の警察から月に一度来る防犯レターには今まで数件だった窃盗などがB4用紙に一杯かかれているようになりました。前職の自民党系首長もい ろいろあったかもしれませんが、そこに暮らす人々のためにどうしたらより豊かで安全な暮らしができるのか考えて仕事していたと思います。 それが100%正しいかは別として。お灸をすえるつもりで反対政 党の首長を選 ぶことを選択しましたが今実際に物事がすすまず、自殺者が増えるような状況で、こんなはずじゃなかった、そう思ってる人が沢山います。

 北海道はもともと旧社会党系の民主党の政治家の支持が強いところ です。読売、毎日、朝日などよりはるかに強い圧倒的な販売シェアを誇る北海道新聞がその地盤を支えているといっても過言ではありません。

 昭和の時代に国家公務員だった私の父はいつも北海道新聞のぱっと見る限りではわからない社会党よりの報道姿勢を嘆いていました。

 今でも家庭欄や社説や一面、書評欄などはフェミファシズムの思想を薄く広くそれとはわからずに読み手に啓蒙してるような紙面です。一部の人には赤旗より赤い新聞といわれています。そんな北海道で長く知事を務め、北海道の巨額な財政赤字の原因を作った横路孝弘氏がいまなお民主党の重鎮である ことに私は怒りを覚えます。

 鳩山政権の閣僚は、内閣の認証式で17人のうち、数人しか国 旗に一礼をしなかったそうです。これからの4年間、日本はどうなるのか犯罪者の人権が守られ、犯罪被害者の人権が守られな い。働く母子家庭の母親の賃金より、生活保護を受ける母子家庭の支給額のほうが多い。そんなのは絶対おかしい。今回、自民党にお灸をすえるつもりで民主党に投票した人たちはこんなはずじゃなかったと思って いるかもしれません。

 内閣の顔ぶれや、民主党についていろいろ調べているうちに私は絶望的な気持ちになりました。彼らは日本という国に強い憎悪を持ち、強い権力志向をもった人達の集まりです。そういう人たちがどんな国家ビジョンを持って政権を運営していくのかと思うとぞっとします。

 しかし、今はもう鳩山政権が動き出してしまった。これから短くても4年、一体どんなことになるのかと不安でたまりません。

 日本は選挙で政権交代がなされた、民意によって選ばれた政権だと彼らは言っていますが、中にいる国民はそれがどんなことを意味してるか理解できていないと思います。明治維新に匹敵するようなことが起こりましたが、諸外国からは日本に社会主義革命が起こったと思 われているのではないでしょうか。

 

71 市民の洗脳と思想改造を求めるフェミニスト ──八尾市における男女共同参画社会をめざす「やお女と男のはつらつプラン」批判(大阪府八尾市・50歳代・男性)

問 題 点

 大阪府八尾市は平成10年3月に「男女共同参画社会の実現をめざし て」という提言を受け「やお女と男のはつらつプラン」(以下「やおプラン」という)を策定している。この提言はもとより「男女共同参画社会」の実現をめざして、取り組むべき施策の方向を示したものである。

 しかし、一読してその内容は危険極まりない「ジェンダーフリー」を、行政の力を借りて実施しようとするものである。ジェンダーフリーをはじめとする問題箇所を指摘し、一刻も早くこのプランの廃棄又は改正をするように訴えるものでる。

 

はじめに

 

 表題(プラン名)から、女性に媚びる卑屈な表現で始まっている。普通両性を指す場合には「男女」が日本語として通常の使用方法である。この表現からして「男支配社会のイデオロギー」に挑戦するフェミニストの思想がうかがえる。以下この「やおプラン」から問題となる項を検討するが、個別の問題に前に表紙の年月であるが、元号法制化以後公文書は元号で表記されるのであるが、一般冊子は西暦と同時表記する場合もある。その場合でも元号を明記し西暦を括弧書きとするべきと考えるが「やおプラン」の表紙には左翼が主張すると西暦が先になり元号が括弧書きとなっている。

 このプランの全体像をみると、

1 基本理念

2 基本的視点

  (1) 男女の人権の確立

 (2) ジェンダーに敏感な視点の確立

 (3) あらゆる場における女性のエンパワーメント

 (4) 市民がいきいきとくらすネットワークづくり

 (5) 男女対等のパートナーシップ

3 計画の概要と目標  

となっている。  

以下、この「やおプラン」の疑問点を具体的に批判していきたい。

 

一 ジェンダーフリー

 

 「やおプラン」の根本思想は男女の区別をなくそうとするジェンダーフリーであり、それに基づいた男女平等教育を進めようとしている。

 

「やおプラン」の男女平等教育はジェンダーフリー教育と、児童虐待の思想

 教職員や保育者の意識改革のため、市教育委員会は「男女平等教育推進のたの手引集」なるものを発行している。これは別の機会に批判してみたい思うが、「やおプラン」では「男女混合名簿」は「幼児、児童、生徒への男女平等意識を高め」るのでこの「男女混合名簿の採用を一層推進していく必要があります」と位置づけているが、なぜ「男女混合名簿」が平等教育と結びつくのかが説明されていない。

 そもそも、「男女別名簿」の弊害を「実証」せずして「男女混合名簿」を推 進する根拠がない。「弊害」とする「実証」なく「男女混合名簿」を主張するのは、自らの「無根拠」を証明しているだけであり「区別」と「差別」を明確に論じていない。「男女混合名簿」は、初めから男女の区別を否定する意図を持って導入されたものであり、ジェンダーフリー教育の入り口としての位置づけをもっており、ジェンダーフリーに基づかない「男女混合名簿」は存在しない。その根底には男女の性差の否定しか存在しない。

 「男女の区別を教え、男は男としての、女は女としての感じ方や行動をとれるようにしてやることは、人類が生きていくために絶対に必要なことである。

男子を男らしく、女子を女らしく育てないと、価値観や考え方の面で自分に自信が持てず、無気力や閉じこもりの原因になりかねない。さらに、異性との関 係がうまく作れないとか、セックスがうまくできないとか、同性愛に傾くとか、要するに生物として子孫を残すために必要な行動に支障が出る恐れがある。」「男子の場合には、心理的に去勢されてしまい、男性の本能行動にとって必要な積極性を失ってしまう者が出てきている。たんに本能行動ができなくなるだけでなく、男性としてのアイデンティティを明確に持てなくなり、自信喪失、無気力、現実逃避などの弊害が出る。これらの害は男子に対して特に大きくなるのである。こうした特徴は女子から見ると「男らしさ」や「頼もしさ」「力強さ」の欠如と映り、男性としての魅力を感じることができなくなり、軽蔑するだけで、利用する対象としか見られなくなる。」

「女子は「女らしさ」を失って言動が男性化し、下品になり、たしなみに欠け、優雅さを失うので、男子からみて、女性としての魅力を失い、尊重の対象ではなく単なるセックスの対象と見られがちになる。双方がそれぞれ「男らしさ」と「女らしさ」を失う結果、互いに相手に対する尊敬や憧れる心理が薄らぎ、カップルを作る心理的動機が弱くなる。そのために身体的接触や性的交渉に対する抵抗感は減少するが、しかし相手の性に憧れたり、神秘的に美化したり、人格として認めて尊重し心理的な愛情を育てるという傾向は少なくなる。」「最近の世相を特徴づけるこうした現象は、性差を否定し、「まぜこぜ」を推進してきたための弊害と言うことができる。」と東京女子大林道義教授は述べている(HP性差否定より)

 「男女別名簿」は児童・生徒に性意識を育て、男女それぞれに「男のアイデンティティ」「女のアイデンティティ」を育てる入り口であり、「男女混合名簿」は児童の健全な発育を阻害する児童虐待である。

 

「結果平等」を求める八尾市政の左翼ぶり

「やおプラン」は男女共同参加を促進するためと称して、八尾市における女性職員(公務員)の構成比率や役職者の構成比率を問題にし、さらに審議会・協議会への女性参加の比率が少ないことまで問題にし、比率向上を課題とし、八尾市の公務員の女性比率や管理職の比率まで出している。一部の女性参加率が多い分野(環境ライフデザイナー、市政モニターなど)では女性が多すぎ、逆に女性も男性も「性別役割分担意識」があるからだと唱え、ここにも、機械的に女性が多すぎるという男女平等原理主義が垣間見える。

公務員や審議会の委員、企業の幹部などは男女同数が望ましいなどと、「結果の平等」を求める主張であるが、先ほどの内閣委員会でも、政府答弁は「男女共同参画の目標は「機会の均等」であり、「結果の平等」ではない」と明確に否定しているにもかかわらず八尾市はひたすら「結果の平等」を追い求めている。 

機械的に男女比を同等にせよという要求は、男女の分業を否定する思想から出ているし、また共産主義そのものの思想である。

八尾市は、「やおプラン第3章 目標と基本課題の問題」でも「女性の意見が尊重され施策の決定に際して女性の意見も反映されるべき」と今更ながらの当然のことを述べているが、これは、いままで、女性の立場に立った発言がなされてこかったことの裏返しであり、改めてこの自明のことをことさら述べるのは男女を敵対物として捉える考え方である。また、このような実例もある。ご存知通り東京 ・ 荒川区の男女共同参画社会懇談会では、審議会委員などの「数値目標」について議論したとき、フェミニスト委員は「現時点で数値目標を設定すると一部の女性に過剰な負担を強いることになる」と主張し数値目標に否定的であったといわれている。(「正論」平成16年10月号八木論文)

 

ジェンダーに敏感な視点とジェンダーフリーは同義語

 ──やおプラン第2章 「やおプラン」の基本的な考え方の問題点

 この章は簡単な文章であるが、かなり危険なジェンダーフリー思想を盛り込んでいる。

 まず、ジェンダーで、<女である・男である>というだけで生き方を狭められたり、差別を受けたりしていると結論付けている。

 しかし、<女である・男である>というだけで、生き方が狭められている実例があるのだろうか。多くは、観念的に「あるかもしれない」という推測である。

 <女らしく・男らしくではなく、自分らしく>を多くのフェミニストが言う。実際、「やお女と男のフォーラム」でこの表題で講演や分科会が開催されたのは事実である。

まず、<女らしく・男らしくではなく、自分らしく>は男と女は相反する対立するものとして捉えられているが、両概念が両立不可能なものであるかのように対比して見せて、どちらを選ぶかというような論理立ては妥当性がない。

 「男らしさ」や「女らしさ」を肯定することが、そのまま「不平等」「人権侵害」になるはずがない。問題なのは、「人権」という概念の乱用である。人権尊重というのは、お互いに一個の人格であることを認めあうことが基本であり、各人の意思に関係なく「男らしさ」や「女らしさ」それ自体が悪いものだということには意味がない。この「やおプラン」でも各人の意思と「男らしさ」や「女らしさ」とが相反する場合を例に挙げ(それも抽象的に観念的に)、それによって「男らしさ」や「女らしさ」を「人権無視」と結び付けてみせる。

 だいたい、「男らしさ」や「女らしさ」は必ず個人の意思と反するようなものでなく、男女がその生の中で、性差に由来するエロスを汲み上げながら、より一層人生を充実したものにしてゆくこともある。それを全面的に禁止する正当な根拠は何もない。その禁止を強行しようとすれば、いかなる名目を掲げようとしても実質的にはジェンダーフリーこそ「人権無視」「自由の抑圧」以外の何物でもない。

 ジェンダーフリーはここ十数年しかたっていないが、その害毒は多くの人々の知るところとなっている。父として夫として家族を守る気概のない男子や、子供のご飯をつくらない女子が出現している。婦女子としての心意気や品位ある立ち振る舞いを躾けられていないため、化粧ばかり毒々しく、パンツの見えそうなスカートをはいた女の子が、恥じらいもなく階段を登るではないか。それ以上に不甲斐なく頼もしくない男子が増えたことも事実である。

 

「やおプラン」でいうジェンダーに敏感な視点とは

1 まず、家庭・学校・地域であらゆる問題で、「敏感な視点の確立」とは、すべての事象を「ジェンダー」というフィルター越しに見直し該当するものを摘発するということであり、「ジェンダーフリー」の用語を使用しない「ジェンダーフリー」の考えで「実質的な」平等を実現すると述べ、まさしく「ジェンダーフリー」そのものの考えである。

 しかも、「ジェンダーに敏感な視点」で判断するとしながら、明確な判断基準もなくまったく個人的主観での判断であり、フェミニストの独断場 フェミニストが性差別なるものの裁判官になってしまう。さらに、ここで問題にしたいのは「性差は歴史的、社会的、文化的に形成されたもの」という、もっともらしいまやかしのジェンダーの規定です。本当に後天的に「作られたもの」なのだろうか。この考えは「思想」であり、「イデオロギー」であるといわれている。何故なら、この命題を根拠づける科学的根拠は今までも、またこの「やおプラン」にも記述されていない。今までも存在するのはすべてアンケート調査による「意識調査」であり、その結論は初めから決まっている。「親が「男らしさ」「女らしさ」の観念を植え付けるから、男子は「男らしく」なり、女は「女らしく」なるのだという結論である」(上記 林道義教授HP「母性とフェミニズム」より)

 さらに、林教授はいう「もし、「男の子らしい性質」「女の子らしい性質」が生得的だとしたら、「ジェンダーフリー教育」は子どもの心に不自然な歪みや葛藤を与えはすまいか」と。

 いま最先端の科学の一つである「脳科学」によって解かったこととして、「男女の脳は違う構造をして」いて感情、思考、理解の仕方、優先順位、行動、信念などにも性差があり、同じ作業をしていても男と女では使っている脳の部分が違うという。

これでは、共通しているのは「種」が同じということだけだ、「男女の心理的性差には生得的な部分があり、それを無視するのは危険」と警告を発している。

 参考文献として「話を聞かない男、地図が読めない女」(主婦の友社、ピーズ夫妻著)「ここまでわかった!女の脳・男の脳」(講談社、新井康充著)「男と女の脳をさぐる」(東京書籍、新井康充著)がある。

「女性が本来持っている能力を自覚・開発し発揮していく存在」になるために、あらゆる分野に参加・参画すること」という。なるほど本来持っている能力を発揮するのは大変結構であり、現実にそのような女性が多くいるが、問題は、「人口の半分が女性であるから」あらゆる分野において参加・参画するべしと、言外にあらゆる分野での女性の構成比率を半分にしろというすり替え理論であり、「男女の実質的な平等」として「結果の平等」を追求するマルクス主義の考えに導いている、誘導理論でありすでに批判してきたところである。

 またあらゆる職業に男性・女性に向き不向きがあることも事実である。女性が一人の人間として尊重されることは当然のこととして否定しないが、「ジェンダーや固定的な役割分担意識は男性の生き方をも阻むものとなると勝手に決め付けている。どこにそのような事例があるのか。実は「阻むものとなる」と勝手に予測・想像しているだけである。しかし、私はその実例を「やおプラン」に基づく平成12年度の「女性フォーラム」報告者の話に見つけた。  

 ここにあるのは、八尾市は「離婚されたくないなら男性もフェミニストになれ」と言外に述べる集会を開催し、その実行委員会に何も知らない女性を参加させフェミニストに仕立て上げる行政を誇っているのです。まさに家族崩壊、家庭崩壊を八尾市行政が策動しているといって断言してよい施策です。

 

危険なジェンダーフリーの刷り込み教育

 ──「女性の人権を大切にした男女共同参画への意識づくり」の問題点

学校や家庭・地域社会での教育や学習は重要だから、幼児期からのジェンダーフリーの意識を育てることが大切と「洗脳教育」を強調している。

 とりわけ幼児期には「自我(アイデンティティ)の確立のためには、自分が男であるか女であるかという自己同一化は非常に大切なものとされている。

 また、女性への暴力や性犯罪、などは人権侵害の最たるものとして、これは誰にも否定しがたいものであるが、他の差別問題と同等に、否、差別が存在するであろうとする問題をすべて列記し、人権教育が大事だと「人権オンパレード」を声高に叫んでいる。

 

保育・学校教育におけるジェンダーフリー意識の育成

保育・学校教育でジェンダーフリーの意識を育成することが大切と言う。すなわち、「女の子は職業的・社会的な能力の開発を自己犠牲する傾向となり、男の子は身のまわりの自立に欠ける傾向がある」という男女の違いをすべて無視してこれらの事を否定的に見る。そして、あらゆる学校行事にジェンダーフリーの観点からの指導を強要する。すべての教科にジェンダーフリーとの関連をつけて教育し、「体育等にジェンダーフリーの視点から見直し」を言う。ここには幼児、児童の教育的指導は皆無で将来の日本人を教育する観点が欠落している。「人より早く走ることが否定され」、「お手てつないでゴールイン」と言う、運動能力に長けている子どもの発達を奪う児童虐待が平気で行われている。さらに、女性への人権侵害のひとつとして「性の商品化」をあげている。ところが男女平等主義から導き出される全国での「性教育」でフェミニスト教員は、児童・生徒に「セックスは気持ちの良いもの」「女性も拒否権があり」「愛のないセックスはダメ」と「愛さえあればセックスはよい」として、さらに「自己決定」さえあれば・・・とも教える。「お金をもらうセックスはダメ」と言外に「お金をもらわないセックスならよい」と教え、「他人に迷惑をかけないセックス」ならと教えている。この男女平等主義に基づく「性教育」が「少女売春」をはびこらせている原因の一つであることに、行政はどのように責任をまっとうするのか。

 

犯罪的すり替え理論

 地域・家庭での育成では、各家庭内に存在するジェンダーを取り払えと市民に呼びかける。その例として、「やさしさ」や「たくましさ」を例に挙げる。これを男女両性に必要なもの、「その発現の多少は個性の違いで、男女の特質、性の違いとみなしている考え方」を払拭するよう八尾市は市民に呼びかける。しかし、この論法はすり替えの最たるものといわなければならない。「男にやさしさは必要であるが、それは女のやさしさと違う」ことを、「たくましさ」も男に必要なのは、「精神的たくましさとともに、肉体的たくましさ」であるが「女の子のたくましさは、肉体的たくましさでなく精神的たくましさ」であることを混同させて、「やさしさ」「たくましさ」一般にすり替え、置き換えている。

 さらに、家庭生活における「母性的役割」と「父性的役割」を否定し、家庭を混乱させる指導を行政が無責任に押し付けることをしている。そして、女性のPTA会長を就任させ、何人就任したかで育成度を測るという、幼児的単純思考、マルクス主義的「結果平等主義」に落ちいっている。

 

「性の自己決定権」=「フリーセックス」の教育

 小中学生から「性教育と称して、精神的発達段階を無視した性教育」を実施し、コンドームやペッサリーの使用実演まで行う学校での性教育」の目的は「性行為の禁止でなく、性病さえ予防できればフリーセックスを勧める」もので、多くの父兄が猛反対する内容であるが、「学校では父兄に内密」で教育しているのが現状である。しかも、女性が社会進出するには「性と生殖に関する権利」が不可欠とこじつけている。「性の自己決定権」ですべての規範を否定している。例えば府下吹田市の中学生用性教育指導書には「タンポンの入れ方」が絵で説明してあり、「性交はすばらしいもの」「とっておきのコミュニケーション」と位置づけ、まさに「性交讃美」といった状況にある。

 さらに、「やおプラン」には「子どもいつ何人生むか、生まないかといった妊娠や出産の調整方法などを自己決定することは、「性と生殖に関する権利(リプロダクティブ・ライツ)」として、個人の自由な人生の選択にとって基本的な権利です」としている。そもそも「生む、生まないを決める権利」をめぐる国際論議は、発展途上国などの虐げられた女性たちをどうするかという問題意識から生じたもので、先進国の性道徳ついて論じたものでない。その権利を先進国の特に若手女子に与えたら、わがままと乱れを生ずるだけである。

 平成15年1月に警察庁が発表した意識調査では「同年代の女子が見知らぬ人とセックスすること」を容認する中高生が67,7%、「見知らぬ人とセックスして小遣いをもらうこと」つまり売春容認の中高生が50,7%という。

 セックスのやり方を教え、「セックスは気持ちよいもの」だと教え、コンドームの装着方法を実技で教え、あとは本人の自由意志でやりなさいと教えるのが、フェミニストの主張する「リプロダクティブ・ライツ」であり、自己決定権という性教育でありその弊害は今日の世情に顕著に現れている。  

 

全行政にジェンダーフリーの横串を貫く

 さらに、この「ジェンダーに敏感な視点」から指導すると公言しているところは、

A「小中学校における男女平等教育の推進・充実」の施策で

  o「学校行事、生活指導、課外活動等においても」指導する。

 o「児童・生徒に対するジェンダーにとらわれない労働感・職業観を持たせる。

 o保育・教育における「幼児玩具、絵本、教材、図書、スモック等を見直し改

善。

 o教育現場等における「隠れたカリキュラム」の見直し。

 o体育等における見直し、

B地域・家庭における意識の育成では、

 o地域・家庭教育の推進、

C地域・家庭における人権としての性の尊重に関する啓発の推進では、

 o従来のジェンダー意識に影響された性行動や性意識を見直しする。

 o学校等における性教育の取り組みを充実させる。などの項目にある。

 即ち、上記に列記した以外に全行政の広範な部分に、ジェンダーフリーの横串を貫き行政を総動員させ、行政を混乱させる暴挙なのです。平成16年3月に「やおプラン」が一部改定されているが、そこには「庁内横断的に取り組む共通目標として「男女共同参画社会の確立」を位置づけている。

 「男女共同参画社会基本法」は戦時中の「国家総動員法」と構造上よく似た危険な法である事に、行政に携わるものは思いいたすべきである。

 かかるフェミニストに侵された行政を市民に賛同を得られる行政に改革させることが緊要である。

 ここにフェミニストと行政とのかかわりで注目すべき対談がある。抜粋してみると

 

 上野  審議会ってそんな簡単に論理が勝つの?ホントかなあ。

 大沢  利益代表の審議会でなければ、論理の戦う場です。それに、ここは特殊な審議会なんです。というのは、事務局が引き回したくても、その素養がないです。大学で女性学を学んでいませんし、役所に入ってからも女性政策というのは本当に周辺の「ウメチル」(ウィメンとチルドレンの略、女子どもの意)ですから、ジェンダーという発想はまったくないわけで、結局委員が発言し、自分の発言したことを起草して、文章を作っていくという、稀に見る審議会だったんです。(p27〜28)

 大沢 「ビジョン」の特徴と意義を解説した私の論文を、参画室の事務局で「ビジョン」の起草に深く関わった男性のお役人が、立ったまま読み始めて、そのままとうとう終わりまで読んでしまった。そして最後に「こういうことだったのか」って言ったそうです(笑)。

 上野 今のエピソードは実に典型的ですね。つまり、納得しながら進めてきたんじゃなくて、あれよあれよと大沢委員に寄り切られて、ふりかえったら「そんなことやってしまっていたボクちゃん」(笑)ということなんでしょうか。(p29〜30)

 大沢 各省庁の課長補佐とか、企画官とか、参事官補とか、そういう役職についている四〇代前半くらいの女性の官僚は、本人が自分についてどういうかは別にして、フェミ二ストでない人を探すほうが難しい状況です。私はオーストラリアで言うような意味でのフェモクラットが登場していると思います。(p52、文中の「フェモクラット」はフェミ二スト官僚の意。フェミニスト・ビューロクラット)『ラディカルに語れば・・・』(平凡社)という本にある、上野千鶴子と大沢真理の対談からの引用であり、大沢真理は男女共同参画審議会委員として基本法の制定にあたり政策決定に大きく関わってきた人物である。

 八尾市の職員も同じことではないかと考えるし、そうでないと否定する根拠はまったくない。

 

 最後に1995年の第4回国連世界女性会義(北京会議)へのマザー・テレサのメッセージの一部を紹介する。

 神はなぜあるものを男性に、またあるものを女性にお造りになったのでしょうか。それは、神の愛のひとつの形が女性の愛で表わされ、別の形が男性の愛で表わされるからです。どちらも愛するために造られていながら、それぞれの愛し方が違うように、男性と女性は互いを補い合って完成されるものであり」

「子供達が愛すると祈ることを学ぶのに最もふさわしい場は家庭です。家庭で父母の姿から学ぶのです。家庭が崩壊したり、家庭内に不和が生じたりしていれば、多くの子供は愛と祈りを知らずに育ちます。家庭崩壊が進んだ国はいずれ多くの問題を抱えることになるでしょう。私は、とりわけ裕福な国々で愛情不足と疎外感から逃れるために薬物に向かう子供達を幾度となく目にして参りました。」

  「家族の絆が強く、家庭が円満であれば、子供達は父母の愛の中にかけがえのない神の愛を見ることができ、自分の国を愛と祈りに満ちた場にしていくことができるのです。子供は神から家族への最高の贈り物ですが、子供にとっては父と母の両方が必要です。なぜなら、父親は父親らしいやり方、母親は母親らしいやり方で神の愛を体現して見せるからなのです。ともに祈る家族が離れていることはありません。そして、家族がひとつであり続ければ、神がそのひとりひとりを愛してこられたように、互いを愛し合っていけるでしょう。愛のあるところには常に安らぎが生まれます」

 

二 有償労働の過大評価(働けイデオロギー)と専業主婦の否定という差別、多様な家族論の欺瞞性

 

女性の有償労働就業率が男女平等のメルクマール?

 次に「やおプラン」のジェンダーフリーを正当化するために使われている思想的背景を明らかにしておきたい。

 ジェンダーフリーの背後に貫かれている思想は、女性を給与を得る職業に就かせるために、女性の労働率は改善されてはいるが依然としてスウェーデンやアメリカと比較して遅れているから更に働かせよ、という労働を至上とするマルクス主義を基礎としているものである。

ここでスウェーデンの悲惨な現状を述べる。確かに女性の国会議員はスウェーデンでは42,7%、ノルウェーで36,4%となっている。しかし、「犯罪率が異常に高いことが、離婚が二組に一組という状況に象徴される家庭崩壊のせいだということ、また家庭育児を消滅させ社会で育てるという原理に変えた政策が失敗した証拠ではないか」という批判には答えていないと林道義教授は述べているように今やフェミニストたちはスウェーデンをお手本にしなくなった。フェミニストの讃える個人主義のアメリカでは、今や家庭崩壊が極度に進み被虐待児や少年の凶悪犯罪が、日本の5,6桁違いの勢いで激増している現実がある。

 アメリカにおけるこの惨状は、家庭崩壊とそれによる子育て(教育)の失敗によっており、もともと「母性原理」の乏しいアメリカで「社会性をつける父性原理」も急速になくして、家庭・親子関係・教育といった極めて保守的な分野に、個人主義に根ざした進歩主義が入り込むなかでこのような決定的な状況になったのである。また、この悲劇は両親の離婚によるものが多い。

 この悲惨な結果を見ることなく、「やおプラン」も少子化の促進、児童生徒の個人主義促進、核家族化の促進、「男らしさ・女らしさ」をなくした青少年の育成、夫婦間のトラブル増加などを促進させ離婚を促進させる、家族崩壊・国家崩壊への道を切り開くプランそのものである。

 フェミニストが賛美するアメリカでも、この惨状を克服すべく1996年には「家庭の再構築と教育の改革」を大統領が一般教書で呼びかけ、その結果、今日本のフェミニストの主張と正反対の「古いピューリタン的生活やわが国の古き“善き”家族のあり方や教育(しつけ)がいかに子どもを幸せにするか」という見地に立ってアメリカで改善の方向が示されている。アメリカ産の「ジェンダーフリー」の思想が、ご当地アメリカで既に破産している。

 

専業主婦という生き方を軽視・否定する八尾市の行政

  また、フェミニストが好んで用いる用語の「M字型労働曲線」を用いてこの女性就業率の低さを「やおプラン」の正当性の根拠として主張している。

 「八尾プラン」では「スエーデンやアメリカと比較すると、わが国では依然として、結婚や出産を機にやむなく退職し、子育てなど一定の期間をおいて再度就職するといった状況があり、いわゆるM字型労働曲線を描いています」と「M字型労働曲線」を否定する主張をしている。

 フェミニストが、自らの思想(女性の就労率の低さを問題視する思想)の裏付けるとするこの「M字型労働曲線」批判なるものは、当の女性自身の希望を無視することでしか成立しないものであり、これを問題視すること自体が、専業主婦に対する蔑視・否定の現れである。

 

専業主婦への蔑視的偏見と八尾市の共産主義的行政

 「やおプラン」は目標3で、共産主義の家族観を持ち込み驚愕するような主張を展開している。「賃金の男女格差や職種・職域の偏り、登用・昇進における差別的な取り扱いが今もみうけられる」のは性別役割分担のせいであると。さらに「雇用の多様化が進み、パート労働、派遣労働、家内労働(有償の?)が」「現状では主婦の就業に」都合よい就業スタイルになっていると。そして、「無償労働も有償労働と同様に社会や家庭になくてはならない重要な労働で、それゆえにこそ男女がともにかかわることが必要」で「男性に対して家族的責任の共有を促すことが非常に重要」という。

 女性の「有償労働」と「無償労働」を対立させ、「有償労働」する女性の就業の継続、待遇平等確保のためには「無償労働」が桎梏になっているから、「無償労働」部分を男子に負担させ、少子・高齢化社会のなかで女性の労働力が期待されているから、子供の養育や老人の介護の「社会化」をはかり、さらに男性に「家族的責任の共有」をせよと主張する。

 ここで八尾市は専業主婦という生き方をしている個人のあり方・生き方を軽視・蔑視し挙句の果てに「有償労働」する女性の敵と位置づける。さらに、この論には、子供の視点からふれた論はまったくなく、大人の議論しかされていない。それは「家族的責任の共有」という言葉に表れている。ここで言う「家族的責任」なるものは、育児を取ってみても授乳やオムツの交換など直接に子供にかかわることだけでなく、子育てにかかわることを同じ作業を分担することまでいっているのは、フェミニストの主張に多く見る。授乳やオムツの交換などを母親が担当し、父親がその精神的・物質的な支援を担当するという役割分担があってもよく、このような役割分担の上に従来の「子育て」が成立していたのである。前者だけを「子育て」と考え、そのすべてを女性だけが担当していたと考えるなら、それは女性の傲慢以外のなにものでもない。

 また、「賃労働」を「有償労働」とし、家事労働を「無償労働」とする見方はマルクス主義特有の労働観であり、「経済の領域」である「賃労働」と「家庭という領域」の問題である「家事・育児」は、まったく別原理に立脚するものであり、このよ

うな混同をするのはフェミニズム特有の考え方であり不当そのものである。また、「働かない自由」も存在することを否定してはいけない。

 

働く女性への支援なるもの=ご都合主義の方針

 この課題でも、問題のすり替えと牽強付会が満ちている。「男と女を差別するな」とジェンダーフリーを唱えながら、この課題では、厚かましくも「女性に対して過重な肉体的・精神的負担がかからないように」配慮をせよと言う。「女性だからと差別するな」「男女の体力差は特質でなく個人差だ」と言いながら過重な肉体的・精神的負担とはどの程度のことなのか不明で、まるでそのようなことは「男性」にしてもらえと「自己撞着」はなはだしい論を展開する。

 

日本的家族観・家族制度の破壊 ──多様な家族形態の承認と支援

 この課題も一般的に反対しきれない内容を含みながら、それを前面にして現状肯定と不自然な現象を承認する退廃的行政で日本的家族観・家族制度を破壊するものである。

 「固定的な家族イメージを払拭」と言いながら言外に、同性結婚や夫婦別姓を勧めている。フェミニストは、社会を構成しているのは個人であり、家族は共生の仕組みと論じるが、その根拠に「全国世帯の世帯別割合」なるものを引用する。しかし、彼らの云うのは、「家族」と「世帯」を混同した詭弁を弄している。両者を混同することで「家族の形態の多様化」を打ち出し、「家族」概念を相対化ないし否定しようとする主張である。

 また、八尾市が「プラン」で列記している「単身者、離婚、未婚、非婚」などは、当人たちの意思によって行われるものであり、それによって社会的にどのような扱いの差が生じるかという事をわきまえて、自己決定的に選択された形態である。自分たちでそのような形態を選択しておきながら「人びとがどのような家族形態やライフスタイルを選択しようとも、差別的な扱いを受けたり偏見をもたれ」るのは不利益となるというが、筋違いもはなはだしい。

 まず家庭・家族の崩壊をもくろみ促進させ、子どもを「いつ何人生むのか、生まないのか」は夫婦の相談・決定事項でなく、女性の「自己決定権」、「中絶も自己決定権」であり、個人の自由な人生の基本的権利という。ここには何故結婚して、子供を生み家族を形成するのかと言う基本的問題、優れて国家観の問題を、個人の自由の問題にすり替えている。それでも、「生むか生まないか」は女性の「自己決定権」と言うのは、家庭にあっても個人の権利を尊重し、家族は単なる人間の一集団に過ぎないと家族意識を軽視した考えで、これでは「家族愛」や家族の集団とする「地域愛」すら育むことはできないし、総合的な「祖国愛」や「愛国心」は到底ありえないし、国家崩壊への一里塚といっても過言ではない。

 

 性と生殖に関する女性の「自己決定権」(リプロダクティブ・ライツ)は第5回アジア太平洋人口会議で採択されたというが、そもそも、「リプロダクティブ・ライツ」をめぐる議論は、開発途上国などの虐げられた女性たちをどうするかという問題意識から生じたものであってフェミニストたちが主張しているのとは、本質的に別問題である。実際この「リプロダクティブ・ライツ」は「リプロダクティブ・ヘルス」と共に使われる概念であり、途上国における母体の健康その他の保護や、新生児の死亡率の低下を目的にしたものであって、先進国の性道徳について論じたものではない。このように論理のする変えの手口はフェミニストの常套手段である。

 

同性愛まで認知する多様な家族形態支援

 「離婚・未婚・非婚など」「どのような家族形態・ライフスタイルを選択しても差別を受けない環境が必要」という。一見ありがたい、受けのよい口上であるがこの中身は大変危険な家族破壊のイデオロギーである。

 まず、「など」の中に「シングルマザー」「事実婚」「同棲のカップル」「同性愛のカップル」「夫婦別姓」も含まれている。このようなものにも「差別を受けない環境」が必要と。「事実婚」(同棲)や「同性のカップル」に至っては、当人たちの意思によって行われたのであり、婚姻届を出すか出さないか、それによって社会的にどのような扱いの差が生じるかと言う事をわきまえた上で、それこそ自己決定的に選択された形態である。自分たちでそのような形態を選択しておきながら「差別的な扱いを受たり偏見を受けずに自立した生活を送れる環境づくりが必要です」というのは筋違いである。同棲している男女が婚姻届を提出することを妨げる規定は、未成年者や重婚の場合を除けば、法的には存在しない。にもかかわらず、このようなことを主張するのには別に魂胆が隠れている。

 この魂胆とは、フェミニストが眼の敵にしている戸籍制度の破壊がある。結婚したものは届けなければ法律上の保護を受けられないという制度は「悪しき制度」と位置づけられ、破棄の対象としている。

 「夫婦別姓」にしても、よくある例として「女性が社会的に認められた評価を得るようになれば、結婚による姓の変更は女性の業績の評価に影響が出てきて、女性の社会的評価の継続に問題が生じる」という。果たしてそうだろうか。所謂「旧姓」を通用させることで結婚後の姓の変更後も以前と変わりなく社会的に活動されている例はあまたある。また本当に社会的に評価された実績を持っておられる女性は、結婚による改姓後も旧姓時代と同じように社会的な評価を持続されている例も身近に多くある。詳細は省くが「夫婦別姓」は「選択制」だけの問題ではない。

 「別性の選択制」→「夫婦別姓の普及」→「結婚の形骸化」→「家族の解体」へと続いていくことを指摘しておきたい。「非嫡出子差別」も結婚の形骸化に含まれる問題として指摘しておきたい。所謂「後継者」の問題で賛意を表される方もあろうかと思うが、それは問題の後回しに過ぎない。

 「夫婦別姓」「戸籍制度破壊」は共産主義思想に基づく共同体組織破壊の思想である。

 参考までにフリードリッヒ・エンゲルスは「家族・私有財産・国家の起源」で「近代的個別家族は・・・・妻の公然または隠然の家内奴隷制のうえにきづかれている」

「夫は家族のなかでブルジョアであり、妻はプロレタリアートを代表する」「女性の解放は、全女性が公的産業に復帰することを第1条件とし・・・社会の経済単位としての個別家族の属性を除去することを必要とする」と述べている。

 

「DV防止法」男性を攻撃し離婚促進させるための法

 「プラン」には『ドメスティック・バイオレンスは家庭内の問題とされていたが、「DV防止法」施行以来、犯罪的行為とされるようになり、被害者のほとんどが女性で、意識調査では33,7%の女性がDVを受けたことがあり、命の危険を感じた人が、1,7%いました』と大層に書いている。

 この文言には三つの問題点が潜んでいる。

 1 意識調査そのものが、既に指摘しているように「作為の調査」であり、初めに結論ありきの調査であることである。

2 男性には加害調査のみである。

 「被害者のほとんどが女性」であるのは女性のみ対象としてDVされたかどうか調査しているからこれ以外の調査結果が出ないのは当然のことである。

3 「大声で怒鳴られた」「ものを投げられた」「交友関係や電話を細かく監視されたり、外出を制限された」「何を言っても長時間無視され続けた」などは普通の夫婦喧嘩で日常茶飯事に発生している現象である。言葉の暴力なら女性のほうが凄い、女性に口でポンポンやられたら男はかなわない。

 さらに、「大声で怒鳴られた」のも女性が失態をして「怒鳴られた」かもしれない。ブランド物に消費し家計を破壊した妻に「怒鳴る」のは普通である。

それでも「言葉の暴力」として扱われる。原因は別にして結果しか問題にされない。

 DV法の大きな根底には、男性蔑視がある。男女共同参画基本法と同じ、男性を敵対するイデオロギーが底流にある。即ち、「男が女を差別したり、妻が働くのを嫌がったり、女を所有物とする気持ちがあるので暴力を振るう、だから暴力を振るわれた女性に非はない」という絶対前提がある。

 確かに悪質なDV夫はいるが、男と女の関係は差別だけでは語れないものである。相手の女にさしたる非がないにもかかわらず、女に暴力を振るう、生活費を渡さない男は、男らしくない男である。DVを少しでもなくすためにも、男を男らしく育て上げるようにするべきである。ところが、男女共同参画では、男を男らしく育てることを禁じている。女をいたわることを教えない男女共同参画では、DVとりわけ身体的暴力はなくならないであろう。(この項は「正論」1月号 野牧雅子著「DV防止法」参照)

DV相談所へ相談にいかれたら、離婚まで覚悟しなければならないようになっている。この法はまさに「離婚促進法」なのである。

 

三 意識調査と国連信仰を悪用した国民の意識操作

 

自治体の「意識調査」「世論調査」の基本スタンス

 自治体が実施する「実態調査」「意識調査」「アンケート調査」は、施行する事業が住民のニーズに見合ったものであるか、住民のニーズから乖離していないかを正確に判断するためのものである。

 或いは事業を計画する前に住民の意向を調査し、住民の意向に沿った事業の計画と実施をはかり、税金の無駄な使用を防止する手段として存在する。そしてまたそれは一部住民の要求を、住民多数の要求であるかの如く謀ることを防止するためでもある。

 このように自治体の「実態調査」や「意識調査」「アンケート調査」は、住民のニーズや意識を正確に掌握する「公正・中立」なものであり、一部住民の要求や意識が住民全体で占める割合の多数であるかのように謀り、または誘導するものであってはならない。

 以上のことが「実態調査」「意識調査」「アンケート調査」を実施する者の最低担保するべきものであるのは自明のことである。

 

八尾市の「意識調査」は誘導・作られたもの 

「プラ ン」で頻繁に使用され、「プラン」実行の正当性を証明するものとして八尾市の「実態調査」「意識調査」の結果なるものがある。

 ところが、八尾市の「実態調査」「意識調査」なるものは、ジェンダーフリー派の期待する結果を求めるように仕組まれ、作為された「実態調査」「意識調査」「アンケート調査」であることがわかった。

 

伝統文化の破壊法

 それは、「改定プラン」目標Z「男女共同に向けたまちづくりと文化の創造」に具現化されている。「地域社会に根ざした男女共同参画社会をめざして」「生き生きとくらしていける八尾のまちづくり」といえます。そのためには「地域慣行として残っているしきたり等に意識を向けて」「新しい文化をつくり上げていくことが重要という。」この表現に多くの市民は、「別に問題ではないし、結構なことだ」と言う感覚でこの文を理解する。

 本当にそうであろうか。

 この文脈の中に「気づくこと」「話しあいをすること」が大切という。「気づくこと」は一般的・普遍的に通常でないから「おかしい」と気づくことでるが、この言葉の裏に「ジェンダーの視点で見て」「おかしいと気づくこと」を勧めている。不都合の 有無に関わらず「話しあいをすること」は大切なことですと何故強調するのか。不都合があれば「話しあう」のは当然のことである。「しきたり」「地域の行事」(伝統的なものも含めて)を点検して「気づいた」ことは、すべて「話しあいをしましょう」そのことが大切ですよ。「伝統という言葉で片付けないで下さい」といいたいのである。

 今日まで、地域の行事や伝統行事でも長い期間にわたって変化していったものもある。

 さらに「人々なかでつくられたもの」だからという。ここには「社会的に構築されたもの=解消されるべきもの」という方程式がある。

 

作為された意識調査

 上記のような「しきたり」や長い歴史のもとに作られてきた「伝統」を破壊するために、その上に男女共同参画社会の実現のために「市民の意識調査」が必要となる。市民の意識を「錦の御旗」とするためである。

 上述したように公平・無私で純粋に市民意識を調査するのでなく、この「目標3」で明確に「ジェンダーに敏感な視点を盛り込んだ内容になっているのかどうかの点検が必要」という。「基本課題」でも「本市が行う調査は」「ジェンダーに敏感な視点から標本の抽出・設問の設計・分析等を行い、施策の企画や立案に活用できるようにすることは引き続き必要」という。これほどあからさまな予定された結論を誘導する、作為みえみえの調査は例を見ない。

 

    具体的に「意識調査」をてみよう。

「様々な場面での男女平等に対する評価」

 各場での平等感が調査されているが、「結果の平等」を問うているものがあり、地域での行事・しきたりでは、人より前面に出たい女性にとっては現行を不満とするし、奥ゆかしい女性は、なんとも感じない回答をする。「平等」に対する評価を調査するなら、「男女間で機会の平等が保障されているとおもうか」と問うのが正常な「市民の意識調査」である。

 

「男は仕事・女は家庭」という考え方に同感するか

 まず、この調査が男女共同参画社会に関することなのか不明だ。この調査をするのに「女性が働くことが男女共同参画社会に近づく」という思想があり、その価値観があるからこそこの価値観に対する市民の反応を調査するものである。役割分担で各市民がどのような考え方をしても、それは各市民の自由であり、それを行政があれこれ言う権限は全くない。

 にもかかわらず、さらに次の設問「女の子、男の子の育て方」を調査項目に入れ、「男らしく・女らしく育てる」の回答が多いと、遅れた考えが「根強く残っている」と完全に市民の意識を否定的に評価し、市民は遅れているから「引き続き取り組みが必要」と結論付ける。

 そもそも行政に市民の意識が進んでいる、遅れていると評価する権限があるというのか。

 

「介護される立場になった場合の望ましい対処方法」なる質問で「家族による介護を望む人も3割を超えている」というが、施設入所希望は25〜30%ある。やはり「介護で家族に迷惑をかけたくない」と考える人が多いはずだが調査項目がないからなんともいえない。介護される人の気持ちがわからないフェミニストだからの調査といえる。それも入れれば50%以上の家庭が「家族での介護」を希望していると予測できる。そこから出る結論は、「男性も介護を手伝え」ということでなく「介護の必要な家庭への財政的支援をどうするかではないのか。ことほどジェンダーに敏感な視点による調査なるものは、「偏向した結論ありき」のためにする調査である。

 

 国連信仰は愚の骨頂 ──国連は妖怪 国連に騙されるな

 国の男女共同参画に関する各種施策及び八尾市の「プラン」策定の前提が全て、国連の条約及び国際会議の決定にある。日本人の国連信仰の盛んなるを利用して方針・施策の権威付けにこれ以上のものはない。ところが国連信仰ほど危険なものはない。女性政策についてみると、一番の基礎となるのが「女子差別撤廃条約」である。

結論から言うとこの条約が悪の根源である。

 「女子差別撤廃条約」(CEDAW)は昭和60年(1985年)に批准された。

  男女共同参画社会基本法はこの条約に対応する国内法で、「この条約の実施のためにとった立法上、司法上、行政上その他の措置」を定期的に国連事務長に報告することを義務付けている。所謂、「男女共同参画社会基本法」の制定は日本にとってこの条約の義務遂行の一環である。

 背景に1960年代からのフェミニズムの世界的な潮流があり、国連を介して世界的にその思想が制度化されていったということがある。国連のこの策動の背景にアメリカのフェミニズム運動と公開論争がある。この公開論争を通じて、フェミニズムの思想が過激な革命思想であることが明白となり、民主党政権下でもCEDAWを批准せず現在でも批准していない。当初、この条約の本性を隠蔽し世界人権宣言以来の「男女平等」の枠内での差別撤廃であるように偽装してきた。

 しかし条約はこの原則と相容れない家族破壊思想を条文化した。ここには「男女の定型化された役割に基づく偏見及び慣習その他あらゆる慣行に撤廃を実現するため、男女の社会的及び文化的な行動様式を修正すること」と定めている。日本のフェミニズム行政は、全てこの条文通りに実施されてきている。

 さらにこの条約に基づき国連に「差別撤廃委員会」がつくられ、この委員会が「指令システム」となって、各国へ提案・勧告をする。この勧告により差別の概念が拡大され続ける。

 

 日本にとっては「間接差別」が当面の課題となる。来年「機会均等法」改正案が提案されようとしている。「間接差別」はさらに、現行民法に夫婦別姓を認めてないのは「間接差別」であり「民法改正」を求めるようになる。

 このように国連の女性差別撤廃委員会へ日本の一部サヨク過激フェミニスト勢力が「ご注進」におよび、委員会の細部にわたる国政・行政に勧告と称する介入を招いている。

「やおプラン」はこのような危険思想の実現を国連信仰を御旗に押し進めようとし

ている。ここに至っては地方都市の八尾市の問題を超えて日本国家の重大問題とな

る。 (この項 「正論」5月光原論文参照)

 

70 監獄法改正に反対 ──受刑者としての体験から(32歳・東京都在住・男性)

 イラク問題で何度かメールを出した者です。ご無沙汰しております。

 今日は、昨日(2月3日)の監獄法改正についての寸評を読み、先生の「不当な虐待をなくすことと、待遇問題を混同してはならない」という部分に、強く同意する気持ちから、差し出がましくも応援の意味からメールを書いております。

 子どもの教育の問題でも、男女問題でも、本当におかしな議論がまかり通っていて、日本の先行きに不安を感じます。今回、受刑者の人権という議論が、特にメディアの批判にさらされることなく、新聞等に平然と記事になっているのには、気持ち悪さを感じます。

 最初に告白しますが、私は二十歳の頃に罪を犯し、服役の経験があります。その上で誤解を招くような言い方をすれば、服役中の受刑者に人権など不要だと思います。当時の私も含め、情状酌量の余地無く実刑に至るような人物は、常識で管理できるようなレベルの人間ではないことを、まずよく考えるべきだと思い ます。テレビ等で伝えられる刑務所の中からは、受刑者の本当の姿や、その被害者の姿までは見えてきません。どんな模範囚でも、刑期に見合う過去を抱え、矯正の必要あって刑に服しているのです。受刑者の客観的な姿を知るためには、裁判の傍聴で検察や判事の評から判断するのが最も正確だと思います。「受刑者の人権」を謳う方は、裁判の傍聴等を数多く重ねるべきです。

 私が刑務所に送られたとき、処遇責任者の訓示で「お前達の生命も我々が管理する。」という言葉に、少なからず震えを感じたものです。このような言葉は人権主義者の格好の槍玉になるのでしょうが、どんなに始末に負えない犯罪者でも、こういう厳しい目で睨まれてこそ、規律を守り、管理が可能になり、人によっては更生の道を見つめ始めることができるのだと、今は思います。

 もちろん、理不尽なことも数多くありましたが、法を守れない人間には、理不尽でも言うことを聞かせるということが、経験として必要だと思います。もちろ ん、再犯率の高さからいっても、現状が完全でないことは確かです。ただ、少なくとも私も含め、更生にある一定の成果を果たしてきたことを無視し、人権という的外れな議論で、勝手に刑罰の質を緩和してはいけないと思います。人権を盾に看守を困らせる受刑者の姿が目に浮かぶようです。何を目的に、このような議論をしているのか、私には全く理解できません。

 私は、たまたま二十歳という時期に服役したため、今にして思えば、今の世の中に失われた成人のイニシエーションのようなものだったと思っています。この過保護な世の中に残された、数少ないしつけの厳しい施設が、刑務所のような矯正施設だと思います。法規社会的に末期的な人間しか行けないということが、少し勿体ないように思えるほどです。そんな場所まで過保護な目が行き届くとなれば、これはある意味、更生の可能性ある受刑者の自立する機会まで摘みかねな い、全く誰にとってもいいこと無しの改案です。このような議論では、すぐに外国の例との比較から、日本の人権意識の至らなさを槍玉にあげますが、少なく とも日本が未だ治安レベルの高い国家であることからも、軽はずみに法律を変えるべきではありません。

 法律には、立場によっての利益不利益はつき物ですが、この見直しによって、いったいどんな利益があるのか、慎重な議論を望みます。

 

69 市川市のジェンダーフリー教育の現状(20代・男性・市川市)

(65で千葉県市川市のジェンダーフリーまみれの現状を知らせてくれた市民が、市の教育委員会とのやり取りの記録を送ってくれた。そこには男女の差をなくす教育に熱心に取り組む、市川市のきわめて偏った思想と実践が浮き彫りになっている。「ジェンダーフリーはやりません」と言いながら、実際には性差否定の教育をすすめている実体が分かる。貴重なドキュメントなので、長いがそのまま載せる。-林)

━市への質問(5/27)━

今回も返事を頂きまして感謝しております。

どうもありがとうございます。

僕は、『市川の男女平等教育はジェンダーフリーそのものであり、請願書の考え方とは相容れない。』ということを何度も指摘してきましたが、これを裏付けるような市教育委員会の残念な施策を見つけました。

市川よみうり4月号の記事を紹介いたします。

━市川市=教職員に「男女平等教育」指導書━

市川市男女共同参画課は先月、市内の小中学校教員や市教委と共同作成した『教職員のための男女平等教育に関する学習事例集』を全市立小中学校に配布した。その編集方針は「男女平等教育は、男女の生物学的な性差は認めつつ、文化的・社会的に発生した性差(ジェンダー)を解消するための教育」であり、「この基本的な認識の下」個人の育成を目指すと明記。

 「ジェンダーに敏感な教育姿勢を持って、ジェンダーに関する固定的なものの見方や考え方を再生産しないようにすること、さらに積極的にそれを見直していくこと」を、指導上の留意点として掲げている。

 同課は「市川市男女平等基本条例にのっとっている」と語り、「『男らしさ』や『女らしさ』の否定ではなく、強調しすぎると個性を制約してしまうとの考え」との姿勢を示しているが、「『女らしさ』や『男らしさ』の概念が、知らないうちに刷り込まれていることに気づき」「性別を意識するのではなく」などの記述や「『男の子だから〜』『女の子だから〜』という言い方をされて納得のいかない経験はなかったか想起させる」よう、教師の支援項目まで設けた。

 なかには、スカートをはいてサッカーボールに足を乗せているように見える男の子 のイラストで「男の人もスカートをはいている国があることを知らせる」よう指導し、「性別によって、『〜らしい』言動が決めつけられていることに気が付いたか」を評 価、「スカートをはくのは、女の子とばかり思っていた」という児童に、「これからは『女』とか『男』とかあまりこだわらないでやっていきたい」と考えさせる例も挙げられている。

 市は「県の案ほどジェンダーフリーを強調していない」という。しかし、国会でも一昨年11月の参院内閣委員会で、福田官房長官が「男女共同参画社会は男らしさと女らしさを否定しているものではない」。今年2月の衆院内閣委員会では中島内閣府副大臣が「画一的な男女の違いをなくし、人間の中性化を目指すという意味でジェンダーフリーという用語を使用している人がいるが、男女共同参画社会はこのようなことを目指すものではない」と発言している。

 3月の県議会でも、「ジェンダーフリー教育の排除徹底」を求める請願が採択されたばかりだけに、波紋を呼びそう。

http://www.ichiyomi.jp/BACK/2004-04.html

━終わり━

 

 これを読んで僕は大変な衝撃を受け、同時に強い怒りを覚えました。おそらく、日本国内で一番偏向的な男女平等教育の考え方だと思います。

 男らしさ・女らしさを否定しないと書いてありますが、完全に男らしさ・女らしさを軽視・敵視しているように思います。なぜなら、子供達が培ったいい意味での性差意識までも解消させ、男らしさ・女らしさを大事にする事に負のイメージを持たせているからです。男らしさ・女らしさを大事にする自由すらそこには無いといって良いでしょう。

 子供達は未熟ですから、主体的に物事を考える事がまだできません。先生に言われた事は正しいと思って、強く心に刻んでしまいます。このような偏った考え方の刷り込みがが許されるのでしょうか。このようなジェンダーフリーそのものの偏向的な指導書を市内の小中学校に配って、市川の男女平等教育はジェンダーフリーではないと未だに考えているのですか? 

 僕に対する説明では、ジェンダーの及ぼす不平等や差別を解消していく教育が市川の男女平等教育であるということでした。この定義ならば、市川の男女平等教育はジェンダーフリーでは無いというような今までされてきた苦しい主張も確かに可能ではありました。しかし、指導書には、ジェンダーを解消するとはっきり書いてあるのです。これはまさに、請願が徹底排除を求めているジェンダーフリー教育そのものです。

 それ以外の部分に関しても、「ジェンダーフリー思想」のオンパレードです。今までの僕とのやりとりで主張されていた内容は偽りだったのでしょうか? 残念です。この事については、やりとりも含めて多くの方に紹介していきます。

 県議会でのジェンダーフリー教育の排除徹底の請願採択を受けて、今すぐにでも可能な限り早い段階での指導書回収・廃棄を求めます。このような異常で偏向的な考え方を公教育に導入することは、断じて許されません。回収する意思があるかどうかお聞かせください。回収しないという選択肢はありえないのですが、その場合は理由をお示しください。(この指導書は誰がどう見てもジェンダーフリーそのものです。)【質問1】

 

 次に、呼称の統一・整列混合問題について。

 この問題は、ジェンダーフリー教育を象徴するものであるので、とりあげました。理論的にはジェンダーフリーが性区別の撤廃である事は承知されていると思います。そこには不平等・差別に当たるか否かはどうかの吟味の余地はありません。男女をいたずらに同一視して画一化する呼称の統一や整列混合は性区別であるならばとにかく無くしてしまうというジェンダーフリーそのものです。

 仮に、「そういう目的ではない、男女平等のためである」と主張されても、事実結果としてやっていることは行き過ぎた性区別撤廃です。市の「男女をいたずらに同一視することなく」という姿勢に反しているのですから、即座に是正指導してください。この取り組みが広がるような事があれば教育指導課の責任は重大です。指導課が性区別撤廃(ジェンダーフリー)への拍車をかけてはなりません。

 

 次に市内における性教育について伺います。

 市川の条例にはリプロダクティブヘルス/ライツについて学校教育現場で学ぶ事が望ましいとあります。これについては慎重に取り扱うべきです。なぜなら、それはライツ(権利)としては認められるものではないという考え方が多数であり、国内において議論の最中であるからです。 また、仮にこれに基づいた性教育を学校教育現場で行うのであれば、文部科学省の学習指導要領を逸脱したものとなります。学習指導要領を逸脱した性教育が一部で行われている事を憂慮して、文部科学省は性教育の方針を四月の末に示しました。

(1)児童生徒の発達段階に応じている

(2)学校としての年間計画を立て、計画に沿って行う

(3)保護者の理解を得る−の三点を指針

 これから、全国の小中学校の実態調査が行われるそうです。

 以前に質問させていただきましたので、詳しい実践内容は結構ですから(万が一方針が変わっているようでしたら、内容をお示しください)、上で示した文部科学省の方針を踏まえた上で市内の性教育はきちんと学習指導要領に基づいているかどうかそれを超える内容を扱うような事はしていないかどうかお答えください。リプロダクティブヘルツ/ライツの扱いについてもお答えください。【質問2】

 ジェンダーフリーをジェンダーフリーと認めないという、とても理解の出来ないような対応をされておりますので、性教育についても質問させて頂く必要を感じました。はっきりとした責任のあるお答えをお願いします。

以上2点についてのお答えをよろしくお願い致します。

━質問終わり━

 

この質問に対しては何故か男女共同参画課から返事が来ました。

 

━市からの回答(6/22)━

○○さん、熱心なご意見ありがとうございました。

 先の回答でも述べましたとおり本指導書は、教職員の学習資料として配布したものであります。

 その中にスカートをはいてサッカーボールに足を乗せているように見える子どものイラストがありますが、そのイラストについて、説明させていただきます。

 この部分のテーマは、小学校高学年を対象とした「自分らしさの発見」であり、テーマのねらいは「性別にかかわりなく自分らしさを大切にする気持をもたせる学習」であります。これは、性差に気づき始め、それを意識し始める小学校高学年から一般的に男女の行動には違いが目立つようになってきますが、こうした時期に自分の個性、自分らしさということに気づいて主体的に行動してもらいたいという観点から設けたものです。

 そのため、事例は、あえて見方によっては、どのようにも受け取れる例をあげ、受け手の個性により、様々な感じ方があること、そこから人それぞれ個性が違うことを認め、理解し合うものであります。画一的に男女の違いをなくそうというような意図は全くありません。この点については、先にお答えしたメールでご理解いただきたいと思います。

 質問1については、以上のとおりです。

男女共同参画課

 

次に質問2につきましてお答えします。

 市内の小中学校の性教育につきましては、以前にも回答致しましたが、文部科学省の指導要領に基づき、小学校では4年生において体育科の保健領域で、また中学校では1年生、3年生の保健体育科の保健分野において行っております。各学校ではそれぞれ教科書に示された内容をもとにして、児童・生徒の実態に応じて学ばせております。基本的な方針は変わっておりません。従いまして、「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」につきましても、小中学校の指導要領の教育内容に取り上げられているわけではありませんので、ご理解ください。

   教育委員会保健体育課

━回答終わり━

 

 教育指導課からではなく男女共同参画課から回答が来たため、きちんと教育指導課に答えて頂けるよう要望しました。合わせて、以下の四点について留意して頂けるよう要望しました。

1.指導書はジェンダーフリーそのものであること。

   (ジェンダーを解消すると明記してある。)

2.ジェンダーフリーは県内で徹底排除を求められていること。

3.今回の指導書配布の事実により、教育委員会の男女平等教育の考え方が明らかにジェンダーフリーであることが証明され、考え方を改めなければならない必要がでてきたこと。

4.性教育には様々なイデオロギーが入る傾向があるから、これからも学習指導要領に基づいて指導していく必要があること。 現場教員による逸脱が行われていないかチェックする必要があること。

 

━市からの回答7/13━

今回のご質問に対して、回答させていただきます。

 公教育に携わる立場の者として、法律、条令、学習指導要領そして県教育委員会の指導・助言等に基づいて学校教育を推進することは、当然、堅持していくべきものであります。

 したがいまして、市川市で行われている男女平等教育はジェンダーフリーに基づくものではないことをご理解ください。また、男女平等教育学習事例集については、すでに男女共同参画課からの回答がありますので、指導課からの回答は控えさせていただきます。

 また、性教育における逸脱した指導が行われていないかというご指摘ですが、こうした指導は行われていないものと認識しております。幾多の学校訪問等を通じて見ておりますが、あくまでも学習指導要領に基づいて行われております。

 今後も、児童生徒の実態に基づき、保護者等の意見を参考にしながら、適切な指導を進めて参りたいと考えております。

 以上で、ございます。

━回答終わり━

 

━市への質問(7/14)━

回答を頂けたことに感謝しております。どうもありがとうございます。

 性教育についてのはっきりとした責任ある回答にはとても満足しております。これからも学習指導要領にのっとった性教育をすすめていってください。指導書問題については男女共同参画課に再び質問をするつもりでおります。

 

 市川の男女平等教育はジェンダーフリーではないと未だに考えているようですので、 今回もこの点について再び説明・質問させて頂きます。今回の質問は教育委員会に対してさせて頂くものですから、僕の文章を他の課に回すようなことはやめてください。それと、これは要望で結構なのですが、返事をもう少し早く頂けると助かります。

 

  まず、今までのやりとりの経過をまとめてみようと思います。

 性差を生物学的性差(sex)と社会的・文化的に作られた性差(gender)に分けセックスは認めるがジェンダーは解消するというのがジェンダーフリー教育です。

 これに対して、市川の男女平等教育はジェンダーの及ぼす不平等や差別はできる限り排除する立場に立つものであるから、ジェンダーフリー教育であるとは考えていないというのが指導課様のお考えでした。

 しかし、不平等や差別に当たらないような性区別の撤廃を容認するような発言や、男女の特性(男・女らしさ母性・父性)を大事にする事を認めないという考え等から、指導課様の推進する男女平等教育はジェンダーフリーであることが分かりました。誤解をされては困りますので、明言しておきますが、僕が批判の対象としているのはジェンダーフリーという言葉ではなく、性差解消(ジェンダーフリー)の実践そのものであるということです。目的はどうあれ、結果的に実践がジェンダーフリーそのものであるならば、請願に従ってできる限り早い段階で見直さなければならないのは当然です。

 このようなことを僕は何度も指摘してきましたが、指導課様は頑として受け入れない、というのが以前までのやりとりでした。

 

  そして、前回の僕の指導課様への質問(男女共同参画課に回されましたが)で、男女平等教育指導書が市内の全小中学校に配られていることを問題にしました。

 その指導書には、「男女平等教育は、男女の生物学的な性差は認めつつ、文化的・社会的に発生した性差(ジェンダー)を解消するための教育」であり、「この基本的な認識の下」個人の育成を目指すと明記されています。これは、まさしく「ジェンダーフリー」の定義を述べているものであり、様々なジェンダーフリーの解釈のうちでもっとも世間の批判を浴びている解釈です。

 さらに「ジェンダーに敏感な教育姿勢を持って、ジェンダーに関する固定的なものの見方や考え方を再生産しないようにすること、さらに積極的にそれを見直していくこと」を、『指導』上の留意点として掲げている、ということです。まさにこのような性差解消教育が一部で行われている事を憂慮して内閣府は男女共同参画はジェンダーフリーではないという姿勢を明確にし、さらには千葉県議会でジェンダーフリー徹底排除の請願が採択されているのです。

 指導書にはジェンダーを解消するための教育が男女平等教育であるとありますがそれでもなお市川の男女平等教育はジェンダーフリーではないとお考えなのですか? 指導課様にとってのジェンダーフリーとは何かについて明記した上で、何故、市川の男女平等教育がジェンダーフリーではないのか丁寧に説明して下さい。

 念を押させてもらいますが、僕が分かるように分かりやすく説明してください。 今までのやり取りで、僕の考えは分かりやすく示してきたつもりです。(質問1)

 

次に継続して取り上げていた男女の呼称・整列混合問題について。

 何度も申し上げますが、これは不平等や差別に当たらない性区別の撤廃です。目的はそうではなく男女平等意識を高めるためであるといっても、自分は男・女であると意識する機会を奪うことにつながってしまっています。こういった取り組みが男女平等につながると考えている時点で、常軌を逸しているということに気付いてください。

 さらに、市川市内の学校に通うお子様をお持ちの方などに教えてもらいましたが、整列混合どころか運動会の徒競走も男女混合で行われている学校もあるそうです。このような性区別の撤廃が紛れもなくジェンダーフリーであるというのは、市議会における一部のジェンダーフリー推進派の議員の意見やジェンダーフリー教育発祥の国立市の取り組みと一致することからも明らかです。

 そこで再び質問させていただきます。

 以下にa〜dまで四つの性差解消の実践例を挙げましたが、市川市内の小中学校ではそれぞれ何校が実践しているのかお答えください。

a.呼称を「さん」で統一(先生→生徒) 

b.生徒の間でも「さん」で呼び合っている

c.男子生徒に「私」と言わせる   

d.朝礼や体育などの整列が混合である

また、指導課様はa,dを推進するつもりなのかどうかについてもお答えください。

                                 (質問2)

 

最後の質問です。

 2/17の読売新聞に高校生の生活と規範意識についての記事が記載されました。

 記事によると、日本の高校生は「男は男らしく」「女は女らしく」といった性差意識が突出して低いということがアンケートによって分かったそうです。これについては、ジェンダーフリー教育の影響であるという考えが主流であり、国会や県議会でもとりあげられ、市川市議会でも一般質問で触れられていました。市川市の男女平等教育はこのような性差の規範意識を否定してしまい、性差意識を低下させる事につながってしまうのではないかと僕は心配しています。

 そこで質問ですが、市川の男女平等教育は紹介した性差の規範意識を下げることにつながるのかどうか、男・女は男・女らしくを肯定する人間を減らすことになるのかどうかお答え下さい。

                                            (質問3)

 

以上、三点の質問に回答していただけるようよろしくお願いします。

 公教育に携わるものとして・・というお言葉が今回のご回答にありましたが、そうであるならば偏向的な考え方から子供たちを守るのも大切な役割のはずです。これに関しては教育委員会の指導課は特に大きな責任を負うはずです。請願を真摯に受け止めて、ジェンダーフリーを徹底排除し、市川の男女平等教育の教育正常化につとめてください。

 どうぞよろしくお願いします。

━質問終わり━

 

━市からの回答8/10━

いただきましたご質問に対して回答いたします。

(質問1)については、

 すでに4月28日付けのメールでも回答しましたように、私たちは「男女平等教育=ジェンダーフリー教育」とは捉えておりません。ジェンダーフリーならば全ての性差(ジェンダー)解消を目指すところでしょうが、児童生徒が男女の性別に関わりなく一人の人間として成長していくことを期待して、全ての教育活動を進めているところでございます。

次に(質問2)についてですが、

a〜dの項目についての調査は実施しておりません。

 男女共通の呼称や男女混合の整列は、児童生徒に不必要な性差意識を与えず、男女平等教育を推進するために、学校長の経営方針に基づき実施しているものです。ただし、呼称については児童生徒に強制的に行うものではなく、児童生徒の意思を尊重すべきものと考えております。したがいまして、a〜dの項目を推進するつもりはありません。

 

(質問3)については、これまでも再三申し上げてまいりましたように、私たちは いわゆる「男らしさ・女らしさ」を否定するものではなく、また、これらを否定した 男女平等教育が各学校で実施されているとは考えておりません。

 ご指摘の新聞記事にあった林道義教授の見解は参考にさせていただきますが、市川市の教育は男女の性に基づく意識を歪曲するものではないことをご理解いただきたいと思います。以上でございます。

━回答終わり━

 

━市への質問(9月中旬)━

今回も回答を頂けたことに感謝しております。どうもありがとうございます。

 今議会の金子正議員の一般質問における教育部長の答弁を踏まえた上で、頂いた各回答について、再質問および誤りの指摘をさせて頂きます。

 お忙しいことと存じますが、ジェンダーフリーは非常に重要な教育問題です。こういった抗議が来ている事を、指導課の中で問題にし、議論して下さい。また、できれば教育長にも目を通して頂ける事を希望します。回答が不十分な事で、再質問をするような事は避けたいと思っていますので質問の真意を理解し、丁寧にご回答くださるようよろしくお願い致します。

 

(質問1)について

「ジェンダーフリーとは全てのジェンダー解消を目指すものである。」というのが教育指導課様のジェンダーフリーの解釈であるということでした。

 ここで「全てのジェンダー」という言葉が使われていますが、これは不適切です。なぜなら「全てのジェンダーの解消を目指さなければジェンダーフリーではない。」というような極めて悪質な詭弁を許すことにつながってしまうからです。 教育部長は指導要領に基づき中庸を堅持した教育を行うと述べていますが、これが明らかな「偽り」である事は疑いようのない事実です。

 市川市の男女平等教育は中庸とはかけ離れたものになっています。実際に、事例集にはジェンダーの解消を目指す事が明記されていますし、教育部長も個性を縛るジェンダーは解消すると明言していました。これこそまさに、批判されているジェンダーフリーの定義そのものです。この定義であれば、個性を縛る可能性のあるジェンダーは全て排除されます。当然のことながら、初めに槍玉に挙げられるのは男・女らしさです。実際に事例集は男・女らしさに負のイメージを持たせるものになっています。最も、直接的に男・女らしさを批判する事は公教育では許されませんので、「自分らしさ」を導入して男・女らしさを貶めるという手法をとっています。また、「個性を縛るジェンダー」の範疇は非常に曖昧かつ広範なので、不平等や差別に当たらないその他多くのジェンダーの解消を招く事になります。

 

  昨今の国内の議論を踏まえて、男女平等教育の考え方を見直す必要があります。上に示しましたように市の男女平等教育は明らかなジェンダーフリー教育ですが、(これに対する論理的な反論があれば、きちんとなさってください。)「解消すべき対象のジェンダー」についての考え方を改めるべきです。具体的には、「個性を縛るジェンダーを解消する。」という現在の考え方を「不平等や差別に当たるジェンダーを解消する。」というものに変えるべきです。不平等や差別に当たらないジェンダーの解消は、「行き過ぎ」に当たります。この提言についてのご検討を真剣になさって下さるよう、お願い致します。

 この事についてのご見解をお聞かせください。(再質問1)

 *これまでに既に回答いたしました通り・・ではなく、これまでの回答の誤り・問題が指摘されている事を踏まえて、丁寧なご回答をお願い致します。

 

☆事例集について。

 この件は、男女共同参画課に抗議したので、読んで頂くだけで結構です。

 議会での教育部長の「スカートをはいた男の子」の答弁は明らかな詭弁です。受け手の個性により様々な感じ方があることを理解させるということですが、この事例ではこの絵の次に男がスカートをはいている国のイラストを見せ、「スカートをはくのは女ばかりだと思っていた」「これからは女とか男とかにこだわらずにやっていきたい」と子供達が思うことを想定しています。ですから、学習の目的は「様々な感じ方があることを学ぶ」ことのみならず、「男がスカートをはいてもおかしくない」と思わせる所にあります。

 それ以外にも、ジェンダーの解消を目指す事を明確に掲げ、男・女らしさといった意識を無くすような事例が沢山挙げられています。これこそ、国が否定・県議会の請願が憂慮するジェンダーフリーそのものであり、こういった指導書の配布を許してしまった教育指導課様は公教育の立場を堅持できていないことを明記しておきます。

 

(質問2について)

 呼称の統一や整列混合はジェンダーフリーそのものです。その理由については、何度も申し上げてきたので割愛します。

 指導課様は、市内の実践状況を詳細に把握しておられないようですが、それならば何故これがジェンダーフリーではないと断言できるのでしょうか?こういった取り組みがジェンダーフリーの名の元に行われているのは、市議会における石崎たかよ議員や小泉昇議員の発言からも明らかです。、また、推進派の考え方・著書を参照しても明らかなジェンダーフリーです。いずれにせよ、不平等や差別に当たらない性区別の撤廃である事は事実です。

 市内では校長の権限で数校で実践されており、指導課様は推進していない事、実践目的は不必要な性差を刷り込まず、平等意識を高めるためという事でした。この観点で性差を無くしていくと、性区別は際限なく撤廃されてしまいます。なぜなら、不平等・差別に当たるかどうかの吟味の余地がないからです。現実に、下駄箱やロッカーも男女混合で配置されている学校もありますし、男女の色分けや制服の違いも槍玉に挙げられているという実態があります。

 何より問題なのは、男女の区別を一方的に「不必要な性差」としている事です。男女の健全な性差意識(性自認を含む)は区別をされることで芽生えるものです。さらに、市川市内の学校に通うお子様をお持ちの方に頂いた情報によると、金子議員ご指摘の「男女混合徒競走」が実践されている学校があるそうです。また、体力差のある中学生の体育の共修も市内では既に行われています。

  子供同士の呼称・一人称については強制しないというご見解でしたが、千葉県の柏市立第四小学校では、子供の間でも「さん」で呼び合わせたり、一人称として「私」を男子生徒に使わせる事を真剣に検討しています。

 明らかな不平等や差別に当たるジェンダーを解消すべきだとは思いますが、そうではないジェンダーの解消は目指すべきではありません。不平等や差別に当たらない性区別の撤廃はいたずらに行ってはなりません。

 

☆呼称・一人称の統一の強制が児童・生徒へ対してされていないか、男女混合徒競走などといった行き過ぎが行われていないか、不平等や差別に当たらない性区別の撤廃が行われていないか、市内の小中学校への男女平等教育の実態調査は必要不可欠です。実践されているのであれば、当然の事ながら是正指導する必要があります。特に混合徒競争は既に実行されている学校があるので対処をお願いします。

☆既に一部で実行されている呼称の統一・整列混合も見直すべきです。

これがジェンダーフリーそのものである事は何度も説明しました。

このような取り組みが男女平等であると捉えるのがジェンダーフリーです。

 

以上の二点に関して、それぞれ丁寧にご見解をお聞かせ下さい。(再質問2)

 

(質問3について)

回答が十分ではないので再び質問させて頂きます。

「市川の男女平等教育は紹介した性差の規範意識を下げることにつながるかどうか、男・女は男・女らしくを肯定する人間を減らすことになるかどうかお答え下さい。」ジェンダーフリーは男らしさ・女らしさを否定するものですが、世間の批判を受けて、ジェンダーフリーは「自分らしさ」を大切にするものである、と、建前だけを変えて中身は変えないというような実態があります。得られるのは、性差の規範意識や男・女らしさの意識の希薄化です。(再質問3)

 

以上、三つの質問についてのご回答をよろしくお願い致します。

 念を押させて頂きますが、質問の真意を理解し、丁寧なご回答をよろしくお願い致します。

━質問終わり━

 

━市からの回答(10/12)

 ご質問について、回答いたします。

 質問者の言われる「不平等や差別に当たらないジェンダー」が、男女混合名簿や呼称の統一、整列混合であり、かつそれらが「行き過ぎたジェンダー」とするならば、そこにはこれらのものに対しての見解の相違があると言わざるを得ません。すなわち、男女別の名簿や呼称、整列が、特に女子に対する不平等や差別に当たるから、男女混合名簿や呼称の統一、整列混合を行っているという考え方ではなく、あくまで男女平等の意識を育む手段として、学校における慣行の中で、男女別にしなくとも学校運営上、支障がないと考えられるものとして実施しているということです。【質問1及び質問2の回答】

 

 市川市の男女平等教育が、男女それぞれの性差意識を下げることにならないか、というご質問ですが、私たちはそのようになるとは考えておりません。男女平等教育は、いわゆる「男らしさ・女らしさ」を児童生徒に強制する学習ではありませんし、またいわゆる「男女の中性化」を図るものでもありません。男女の「性」に基づく区別は認識した上で、児童生徒がその子らしさを発揮できるように援助していくのが、男女平等教育であると考えます。【質問3の回答】

 これまで、質問者の質疑につきましては幾度となく回答をしてまいりましたが、十分にご理解をいただけない点がありますことは、大変残念です。今回のご意見につきましては参考とさせていただきたいと存じます。

 なお、市内各幼稚園並びに各小・中・養護学校への支援、また主催する作品展等の行事等の準備や市内の学校への訪問指導等のため、回答が大変遅れましたことをお詫びいたします。

担当:学校教育部 指導課

━回答終わり━

 

━市への質問(10月中旬)━

今回も回答を頂けたことに感謝しております。どうもありがとうございます。

 頂いた回答それぞれに反論がありますが、論点を明確にしておきたいので、今回はご回答が不十分な点についての再回答のみをお願いさせて頂きます。従って、僕と指導課様の解釈が一致しない部分については言及致しません。できる限り早く回答を頂けるようお願い致します。

 

☆呼称の統一問題

  呼称の統一を児童・生徒に強制するべきではないというご見解ですが、現実に強制が行われている学校が他市(神戸市等)にはあります。日教組が推進している取り組みなので全国的に広がっている可能性があります。教育指導課様は市川市内での実践状況を把握されていないようですので、市川市ではこの取り組みが一切(全学校・あらゆる場面)行われていないのか早急に確認する必要があり、もしそのような実態があったなら指導をすべきです。このことについてのご見解をお願いします。(質問1)

 

  先生が男子生徒に対して女子生徒の呼称である「さん」で呼ぶことで、生徒の間にまでそれが見かけ上「自然に」浸透していく危険性があります。これは「スカートを男性が履く」と同じ類のものであり、文化の破壊に相当します。呼称の統一が児童・生徒に浸透することになるかどうかお答えください。(質問2)

 

☆男女混合徒競走について

 市議会の金子議員の「男女同室宿泊や混合徒競走等といった行き過ぎはあるか」という質問に対し、教育部長は「そういった行き過ぎはない」と答弁しました。しかしながら、既に市内では「混合徒競走」が行われている学校があります。答弁に責任を持ち、即座に調査・是正指導を行うべきです。このことについてのご見解をお聞かせください。(質問3)

 

☆性差意識について

 「市川市の男女平等教育が、男女それぞれの性差意識を下げることにならない」というご見解が示されましたが、これは大きな認識の誤りです。教育委員会は「自分らしさを大切に」というジェンダーフリーの考えの元に、児童・生徒に一律にジェンダーにとらわれない生き方を強要しています。すなわち、「自分らしさ」と「男・女らしさ」が対立するものと位置付け、子供達が男・女らしさを大事にする事に負のイメージを刷り込んでいます。

 これにより、子供たちが男・女らしさを大事にしなくなるのは当然の帰結です。市川市の男女平等教育は、「男は男らしく」「女は女らしく」を肯定する人間を減らすことになるかどうか明確にお答え下さい。(質問4)

 ジェンダー(男・女らしさ)が日本の文化・伝統を担う大切な概念であること、生まれつき男女には脳の性差・心身の違いがあることを認識なさってください。

 

以上、四点の質問についてできる限り早くご回答ください。

 

*参考 神戸市の男女平等教育の実態 日教組の取り組みから

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sumire/2407/danjo.html

小学校六年生に組み体操を男女ペアでやらせたり、騎馬戦も男女混合(もちろん馬も)で行われています。子供同士の間でも「さん」を強要しています。

━質問終わり━

 

━市からの回答(11月15日)━

ご質問に対して、回答いたします。

 男女の呼称の統一を、児童生徒に強要することは一考を要すると考えます。しかし、呼称の統一が男女平等の意識を高めるものとして、多くの児童生徒及び保護者等に理解され、実施されている場合もあります。私たちは、学校での多様で自由闊達な教育活動を尊重してまいりたいと考えます。

【質問1の回答】

 しかし、学校で行われる様々な教育活動や慣行は、児童生徒・保護者や地域の方の理解と賛同を得られなければ推進できず、また成果を挙げられないものです。したがって、現在の各学校の状況を見る限り、男女の呼称の統一が、市内全ての学校に、そして全ての児童生徒に広がっていくとは考えておりません。

【質問2の回答】

 運動会・体育祭における種目については、各学校において児童生徒の実態・目的・効果等を踏まえて実施しています。したがって、男女混合徒競争についても、そのような観点から行われているものと認識しています。

 一例を挙げますと、ある学校では日頃より兄弟学級(異学年による交流)で活動している場面が多いことから、運動会でも異学年による関わりの中で生まれる教え合い、助け合い等を目的に「兄弟学級レース」と称し、男女混合で実施しています。そのことで、さらに仲良くなり、休み時間に一緒に遊ぶ姿も多くなるなど、体力向上への取り組みになっているといった効果が出ています。

【質問3の回答】

 私たちは、「自分らしさ」と「男らしさ・女らしさ」が対立するものと位置付けてはいません。また、「男らしさ・女らしさ」を否定し、「らしさ」に負のイメージを児童生徒に刷り込むものでもありません。このことは、これまでにも再三お答えしてきた通りです。したがって、いわゆる「らしさ」を肯定する人間を減らすことにはならないと考えます。【質問4の回答】

 なお、できる限り早く回答をとのことでしたが、来年度の予算編成の時期と重なり、また、ほとんど毎日のように行っている学校訪問等で忙殺されており、返信が遅れましたことをお詫び申し上げます。以上でございます。

市川市教育委員会 指導課 菅澤

━回答終わり━

 

68 多数派に見せかけるネット運動(30代・男・広島)

 先生の選択的夫婦別姓に対するご意見を拝読し、自分自身が10数年間考えてきたことと非常に近いと思いました。

 私はこれまではおもに2ちゃんねるの別姓関連スレッドで反対派として発言したりしてきましたが、先生もご指摘のように、どうも推進派による何らかの組織的なネット運動のようなものが展開されているように思われ、そう考えると賛成派や推進派のサイトばかりが目立っていて反対派のサイトが少ないということに気づきました。

 その組織的なネット運動の存在を思わせる事実ですが、2ちゃんねるの政治・法律・社会・男女など、少しでも関係のありそうな板にはたいがい一つは別姓関連スレッドがあり、そこで必ず以下のような特徴を持った書き込みがあります。

1. いわゆる「別姓待ち」の事実婚カップルが「たくさんいる」と思わせようとする。  → 「わたしも事実婚です」とか「早く別姓が実現してほしい、そうしたら結婚したい」など多数書き込みがあります。しかし現実にいろんな方にお会いしても、そのような方に会ったことは一度もありません。その疑問をぶつけると「あえて公表していないだけ」とか「自分の周囲にいないだけ」とか言われる始末です。

 ネットは匿名の空間ですからそんなことを言われても実際に現実にそういう人を見かけない以上「たくさんいる」とはにわかに信じがたいです。

 また「どのような事情が?」と問うと職業上の都合を挙げる人もいますが、他の方からその職業では婚姻時改姓に対応する手段がちゃんとあることを指摘されたりしています。

2. 同様に「うちの親は別姓(事実婚)だけど自分は平気」とか「知り合いの事実婚カップルはうまくいってる」とかいうパターンもあります。

3. 反対派の反論や疑問に対して返ってくる答えが、口裏を合わせたかのように同じです。まるでどこかに想定問答集があるかのようです。そしてそれは有名な推進派サイトに書かれていることとほとんど(挙げる例まで)同じです。

4. 「いまどき別姓くらい普通でしょ」といったような、およそ社会の現実とは乖離した感覚が、あたかも定着しているかのような内容も多いです。

5. 話が噛み合わない、話を逸らす、相手の発言の意図を捻じ曲げてから反論する、無意味な揚げ足取りなど、議論技術的に稚拙な書き込みが多いです。

6. 議論に負けると急にスレッドをしばらく放置して(その間賛成派の意見がまったく書き込まれない)、ほとぼりが覚めたころある日突然に復活し、一度終わった話をまた最初から蒸し返します(そのために何度も議論がループします)。

 だいたい復活後の最初の書き込みは1.のようなものや「それぞれの自由でいいじゃない」というようなものが多いです。

 こういったものを見ていると、あまりにも不自然で、本当に彼らが言うように「実際に切実なニーズがあってこの改正案が出てきた」とは到底考えられないのです。明らかに「まず選択別姓ありき」で、なんとかして反対派を封じ込めるために手段を選ばない、イデオロギー的な方向性を持っている感じがします。

 少なくとも近隣・知人・友人などの間で感じる「ごく普通の当たり前の家庭観、社会観」といったものとはかけ離れたものばかりが出てきます。どう考えても世の中こんなことを考えている人ばかりじゃないはず、としか思えないのです。だとするなら、ごく一握りの人たちが、自分たちの主張を世間の主流であると思い込ませるために工作活動をしているとしか考えられません。

 そのためには2ちゃんねるのような匿名掲示板はもってこいですし、そう考えると何もかも非常にうまく辻褄が合ってくる気がするのです。

 しかしそこまでして民法を変えて日本人の家族観を変質させたいと狙っている人たちというのはいったい最終的に何を目指しているのか、いまだによくわかりません。よくわかりませんが、その勢いの強さと強引さには一種の恐怖を覚えます。こんな世の中で自分が子供を育てて社会に送り出すのかと思うと、暗澹たる思いがします。

 わたしは保守主義者でも懐古趣味でもありませんが、こういったファナティックな思想浸透運動は決してだれのためにもならないと思います。

 ということで、どうか今後とも先生が選択別姓推進派の矛盾と誤りを指摘され、欺瞞と偽善を暴き、社会に警鐘を鳴らし続けてくださることを切に願っております。

 いきなりで失礼かとは思いましたが、義憤を抑えることができず、メールさせていただきました。

 一人の読者の意見としてお汲み取りいただければ幸甚です。

 

67 「平和」「人権」の看板に騙されるな ──創価学会= 公明党に政党の資格なし(『日本時事評論』第1557号、平成16年7月2日〈天録時評〉 )

 創価学会=公明党が掲げてきた「平和」「人権」などは、国家権 力を奪取するための看板でしかない。票取り、人気取りのために掲げているだけだか ら、創価学会の出す出版物では汚い言葉による誹謗中傷の「人権侵害」を繰り返し、 絶対平和主義を掲げていた「反戦平和」も簡単に方向転換してしまう。政権奪取のた めには手段を選ばない創価学会=公明党に権力奪取を許してはならない。こうした政 党が存在すること自体異常なことである。国民は創価学会=公明党に騙されず、こう した政党の跋扈(ばっこ)を許さない意思表示が必要である。

 

平和、人権はどこへ

 

 公明党はかねてより「平和の党」「人権の党」などと自称してきたが、明らか に看板に偽りありと言わざるを得ない。昨年の二月までは、公明党はイラク攻撃につ いて「安保理決議がない場合は、公明党としてイラク攻撃を容認できない」(冬柴幹 事長)としていたのが、三月に入ると急に方針転換し、国連安保理による武力行使の 容認決議が採択されなくても、米国のイラク攻撃を容認する方針を固めた。一昨年の 年末にはイージス艦のインド洋派遣に賛成し、昨年末には、自衛隊のイラク派遣をも 容認した。

 公明党は創価学会と共に絶対平和主義を掲げていたのだから大転換である。し かも、かつて、東西冷戦が激化している中で、日米安保の廃棄、在日米軍基地の撤去 などを求め、自衛隊も違憲の疑いが濃厚だとして政権をとった暁には解体すると表明 した。自衛権の行使すら否定していたのである。まさに様変わりだ。

 また、当時は旧ソ連による共産主義勢力が拡張を続け米国はベトナム戦争の泥 沼化の中にあり世界が赤化しそうな様相を呈していた。創価学会は青年部を中心とし てソ連との交流を深め池田大作会長(当時)自ら共産圏への訪問を繰り返していた。 明らかに親ソ、親共産主義に傾いていた。日本共産党と「創共協定」を結ぶなど左翼 革命政党と協調し、政権奪取を目指していた。要するに、政権への近道として「反戦 平和」の看板を掲げたのである。

 

本来好戦的な体質

 

 創価学会は戦前から、反戦平和を掲げていたというのは、嘘である。創価学会 の初代会長である牧口常三郎氏は「国家諫暁(こっかかんぎょう)だね。陛下に広宣 流布(こうせんるふ)の事を申し上げなければ日本は勝たないよ。これを御本山に奏 請(しんせい)して、東京僧俗一体の上に国家諫暁をしなければ国はつぶれるよ。並 大抵でない時に生まれ合わしたね」(『人間革命』戸田城聖の初版)と説いている。 牧口氏自ら靖国神社へも参拝していた。つまり牧口氏には、「反戦・天皇制反対」な どという意識は持ち合わせておらず、むしろ「皇国日本」を戦争に勝利させるために 国家諫暁(国家を諫め諭すこと)や広宣流布を行おうとしていた。要するに、牧口、 戸田両氏とも戦争に正面から反対して投獄されたのではないということだ。

 また、現在の池田名誉会長が実権を握ってからは、「創価学会は国立戒壇(こ くりつかいだん)建立のために参議院に出る。衆議院には出ない」と言っていたが、 数年も経たぬうちに、衆議院に進出した。池田氏は政権取りを標榜していたが、政権 を握った暁には「日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化 一切の指導者・最高権力者である」とまで公言していたのである。その一点を目指し て創価学会が公明党を作り、選挙活動に死に物狂いになっていることを忘れてはなら ない。

 創価学会の組織も、「反戦平和」を掲げる団体にはふさわしくない、軍隊組織 を真似た組織であった。とにかく「勝つ」ことへの執着は甚だしく、それだけに敵対 者への攻撃姿勢はとても平和的とは言えない。創価学会の脱退者に対する誹謗や中傷 の激しさはよく知られているが、幹部や公明党の議員であれば死んでも誹謗中傷され ている。

 聖教新聞や創価新報を見れば、嘘吐きやゴミ、屑、蛆虫などの言葉が踊ってい る。とても「人権」を尊重しているとは思えないし、明らかに、人権侵害ともいえる ほど執拗な批判を繰り返している。あるいは批判的な個人や団体に対しては訴訟を乱 発し、相手を経済的にも時間的にも消耗させて、批判させないようにしている。こう した行為はいっこうに止める気配を見せていない。創価学会=公明党に「人権の党」 を名乗る資格はない。

 

政権奪取が至上命題

 

 「広宣流布達成の暁には、池田先生が総理大臣になる。〃国主〃として天皇よ り上になる。我々〃学会人〃(編集部注‥会員は、自分達をこのように自称して、非 会員と区別していた)は世の中であらゆる所で上になる。その時は、我々を貧乏人と さげすみ、見下していた連中を見返してやるのだ。我々は、邪宗の連中を女中や下男 として召しつかい、子供の通学の送り迎えもやらせるような身分になる……」という 夢がかつて語られていたが、創価学会=公明党の存在目的は変わっていない。

 創価学会=公明党を実質的に支配している池田氏は「創価学会は宗教団体であ り、公明党は政治団体である。ともに日蓮大聖人の教えを奉じ、王仏冥合をめざす同 体異名の団体である」 (「池田会長全集」第一巻)。「創価学会を離れて公明党は ありえない。もし創価学会を離れた独自の公明党があるとすれば、それは既成政党と なんら変わることのない存在。創価学会と公明党は、永久に一体不二の関係」(「池 田会長全集」第一巻)と説いている。さらに、「私が教わったのは帝王学だ。私は最 高権力者になる」(池田大作発言・『現代』昭和四十五年七月号)と言っている。創 価学会=公明党は国家の頂点に池田氏を据え日本を支配することこそが悲願なのであ る。

 創価学会=公明党が、目的達成のためには「平和」「自由」「人権」「福祉」 「弱者保護」といった言葉をこれからも多用してくることは明らかだ。しかし、共産 党以上に独裁的で、反民主的な団体が政権をとれば、民主主義は否定され、自由や人 権が抑圧されるのは目に見えている。国民は甘い言葉に騙されず、その本質を見抜く べきである。こうした政党を排除しなければ、日本の将来はない。(了)

 

66 浜松市の男女共同参画政策(浜松市在住 40歳代 男性)

林先生、はじめまして。

ホームページ、大変興味深く拝読しております。

 私は40歳代の男性ですが、今年になって先生のホームページを知るまでジェ ンダーフリーの危険性どころか、ジェンダーフリーという言葉さえ知らず、そういっ た政策が各地で行われていることも知りませんでした。

 私は、静岡県の浜松市に住んでおります。地元ではどのような状況だろうと思 い、浜松市役所のホームページを覗いてみて驚きました。全国各地にはびこる、ジェ ンダーフリーの流れのご多分に漏れず、我々の市でも、「立派な」施策が推進されて いるようです。

 曰く(以下、浜松市の「男女共同参画」の「基本理念」「基本目標」「主要課 題」について述べたホームページからの引用です)

「・・・わが国においても、21世紀の最重要課題として男女共同参画社会の実現 が掲げられる・・・」

「・・・幼児期から男女平等教育を実施することの重要性を十分認識し,固定的 な性別役割にとらわれない意識づくりをはかるため,保育士,教職員に対する学習機 会の提供や,児童・生徒に対する啓発教材の活用等を推進・・・」

「・・・審議会などの委員や,市職員・教職員・企業などの管理職に女性を登用 することにより,男性中心の価値観や固定的な性別役割分担を見直し,あらゆる分野 における女性の積極的な参画を推進・・・」

「・・・地域活動の中で活躍する女性は,男性より多いにもかかわらず,組織の 代表者など役職は男性が殆どを占めています。

 これは地域運営の中にある役割分担意識や女性の能力に対する偏見の表れです。男 女共同参画になじまない慣行の見直しや啓発などを行うとともに,女性リーダーの養 成・研修・登用を・・・」

「・・・男女の経済的自立と生活的自立が確立されない限り,真の男女平等は実 現しません・・・」

「・・・男女が社会のあらゆる場面で共同参画するためには,男女共にこれまで の性別役割分担から,自由で自立した暮らしができることが必要です。しかし,これ まで子育てや高齢者・障害者などの介護は,女性が担うのがあたり前と考えられ,女 性の自立を妨げる要因となっていました。」

「・・・暮らしに解決すべき問題が生じたとき,慣習化され見えにくくなってい る性別役割分担意識が根強く残されていないか,または明らかな差別はないかを問う 相談体制が必要です。」

 

 引用が長くなってしまいました。先生にとってはこのような文章は見慣れたも のかもしれませんが、自分の住んでいるところでこんなものがまかり通っていること に非常に大きな驚きを感じております。いちいち私の感想を説明する必要もないと思 いますが、全般的に文化大革命が「ブルジョワ思想」狩りを行った、そのような印象 を持ちました。

 おそらく、多くの市民はこのような方針に基づいて市政が運営されつつあるこ とは知らないでしょう。といいますのも、普段職場でも、家庭でもそのようなことは 話題に上ることはありませんし、日常の生活でこの施策の影響を受けることは今のと ころあまりないからです。逆に言うと、フェミニストは「男女共同参画」という一見 聞こえのよいスローガンで人々の関心を希釈しておいてその裏で、恐ろしい企てを着 々と進めているということがいえると思います。

 

 来年(平成17年4月)から、浜松市立高校は女子校から共学校へ変わりま す。これもその施策の一つでしょう。明治34年に濱松高等女学校として設立された 通称「いちりつ」高も、ある意味で歴史にピリオドを打たれることになるのでしょ う。今までセーラー服だった制服も、来年の共学化にともない男女ともブレザータイ プに変わります。(下はズボンとスカートの違いはありますが)おそらく、フェミニ ストは学生服とセーラー服ではなく、ブレザータイプにすることにもこだわったので はないでしょうか。

 今の段階では市民の多くの人が関心を持つようになれば、まだ流れを食い止め ることができるのではないかと思います。食い止めることができなければ、行き着く 先はあらゆる面での「荒廃」でしょう。自分も微力ながらこのことで何かできること はないかと考えております。

 

65 「乱用防止」規定の必要性〜市川市の実態から〜 (市川 市在住 23歳 大学院生)

林先生、初めまして。

私は千葉県の市川市に住む学生です。

 今回メールを致しましたのは、実際に条例が乱用されている市川市のことを紹 介し、「乱用防止」規定は必要不可欠であることを訴えたいと思ったからです。

 1999年に男女共同参画社会基本法が国会で成立していますが、ジェンダーフリ ー思想を持った人間がこの基本法を都合よく解釈し、あたかもジェンダーフリーが国 の施策であるかのように各地で啓蒙しました。

 その結果、一部の自治体では急進的ともいえる条例が成立してしまいました。

 千葉県議会においても平成14年に県の男女共同参画条例が論争の的となり、知 事案(ジェンダーフリー推進)と自民党案(ジェンダーフリー反対)が対立し、男・女ら しさ,自己決定の性教育等の問題点が浮き彫りとなっていました。

 ところが私の住む市川市においては、県議会での論争を無視するような形で同 時期の平成14年12月議会において男女平等基本条例が全会一致で成立しました。条例 はジェンダーフリー思想に染まった極めて偏ったものでした。

 

「ジェンダーにとらわれない」という言葉が何度も登場するだけではなく、男 女のありかたを規定し表現の自由すらを縛る条文、苦情処理機関の設置、リプロダク ティブヘルス/ライツを学校で学ばせることを奨励する条文などジェンダーフリー推 進派に迎合する内容となっております。

 

 私はジェンダーフリー教育について特に強い危機感を抱いたので、市に対して 質問のメールを送り、長い間やりとりをしております。

 市から頂いた回答によると、市川市の男女平等教育の考え方は「いたずらに男 女を同一視するのではなく、異性を異性として認識する」というのが前提であるとい うことだったのですが、呼称の統一や男女混合整列などが既に一部の学校で行われて いる事を知りました。

 これは、ジェンダーが性差別を生み出すからジェンダーを無くさなければなら ない、ジェンダーを生み出す性区別は一律に排除しなければならない、という考えが 根底にあることは明白です。

 不平等や差別に当たらないような性区別の撤廃を認めてしまえば、同じ性質の 性区別である男・女言葉や服装の違いなども排除の対象となります。

 実際に千葉県内のある小学校では、男子生徒に「私」と言わせたり子供同士の 間でも「さん」で呼び合わせることを真剣に検討しています。

 私はこのような考え方の危険性を市に対して示すとともに、市の方針と異なる のだから呼称の統一や混合整列を是正するよう求めました。

 ところが、「目的は性差否定でなく、男女平等の意識を高めるためであり、各 学校の裁量で実施している」という無責任な回答が返ってまいりました。

 また、男らしさ・女らしさ、母性・父性などといった男女の特性を軽視するよ うな教育はしていないという言葉を引き出しましたが、やりとりを深める中で生物学 的性差以外は認めていないことが分かりました。

 

 千葉県議会でジェンダーフリー教育徹底排除の請願が採択されましたので、請 願を受けて考え方を変えるつもりはあるのかどうか尋ねたところ、「市の男女平等教 育の考え方は請願と一致しているから変えるつもりはない」という返事が返ってき て、その解釈が誤りであることを指摘すると、「市の男女平等教育はジェンダーフリ ー教育ではないから考え方は変えない」という訳の分からない返事が返ってまいりま した。

 市川市の男女平等教育はジェンダーフリー教育であり、請願の示す教育とは相 容れるものではないことを丁寧に説明したのですが、考え方が誤っていることを認め てもらうことはできず、「憂慮されるのは分かるがものごとの捉え方は色々あって当 然である」と相手にしてもらえませんでした。

 

 昨年度三月に、市の男女共同参画課と教育委員会が市内の全小中学校に男女平 等教育の指導書を配布していたことを、つい最近私は知りました。指導書は「ジェン ダー」を「文化的・社会的に創られた性差」と位置付け、男女平等教育は「ジェンダ ーの解消を目的とする」と明記されていました。他にも、「男・女らしさが、知らな いうちに刷り込まれていることに気づき」「性別を意識するのではなく」のような記 述があり、男・女らしさに負のイメージを子供達に持たせるものとなっています。

 指導書が示す男女平等教育の骨子は、男女の扱い方の違い(不平等・差別でなく ても)が生み出す性差は全て一律に個性を縛る悪者であって、これは刷り込みの結果 であるから、性差を生み出す環境のみならず個人の培ってきた性差すらも積極的に無 くしていかなければならない、というものであると思われます。

 このジェンダーフリー教育推進の指導書配布によって、市川市の男女平等教育 =ジェンダーフリー教育であることは明らかになりました。

 ジェンダーフリー徹底排除の請願に従い指導書を回収するよう市に訴えました が、「ジェンダーフリーという言葉は使っていない」「ジェンダーを悪者と位置付け ていないし、男らしさ・女らしさも否定していない」「男女平等基本条例に従ってい るから回収はしない」という回答を頂きました。

 ジェンダーを解消することが目的であると明記されているのですから、これら の回答はごまかし以外の何者でもありません。ただ、最後の文章は市川市の男女平等 基本条例を盾にしてきています。いくら市川市の条例が偏向的であるとはいっても、 条例にはジェンダーを解消するという言葉はどこにもありませんから、条例が乱用さ れたモデルケースといえるのではないかと思います。

 

 条例の条文にジェンダーフリーという言葉が明記されていなくても、ジェンダ ーフリー思想を持った人間によって乱用されれば市川市のようにジェンダーフリー教 育が堂々と行われてしまいます。ジェンダーフリー教育徹底排除の請願すら無視して しまうのです。

 これから条例制定を計画している自治体は市川市の二の舞を踏まないために も、ジェンダーフリーを想起させる条文は入れないようにしなければなりません。

 「性別にかかわりなく」などのような文言を入れるのであれば、「乱用防止」 規定は必要不可欠であることを強調させていただきます。

 一方的なイデオロギーの押し付けから子供達を守っていかなければなりませ ん。

 

64 福岡市の条例制定をめぐる意見募集について(福岡市在住 ・主婦)


 6月12日の「寸評」欄の「フェミニストの汚い宣伝と工作」を読んで、福岡市の条 例制定に関しても似たようなことが起きましたので、ご参考までにお知らせいたしま す。
 福岡市の男女共同参画懇話会(フェミニスト系)が「中間とりまとめ」を公表して意 見募集をしたところ、2000人を超える意見(意見の件数としては5843件)が あり、そのほとんどが懇話会に対して批判的でした。
 その結果に狼狽した懇話会委員が、「社会科学的な合理性に基づくデータではない ので意見 の多寡では判断できない」「どこかのグループで作ったパターンに名前だ け書いたものまで入っている」といった趣旨のことを口走り、市民の意見を無視しよ うとうする態度をとりました。
 しかしながら、寄せられた意見を調べてみると、実は組織的に意見を届けたのはフ ェミニスト側であることがわかってきました。端的な例で言えば、懇話会の「中間と りまとめ」を支持するような内容を書いた印刷物に、希望する「条例の名称」と「氏 名」だけを書き込んだものが50枚程度ありました。
 そして、その印刷物に刷られた内容は、北京JACふくおか(副代表は懇話会の委 員)が意見を懇話会に届けるようにメールでよびかけていた例文とほぼ一致すること が判明しております。
 逆に、「中間とりまとめ」に慎重・反対の意見は、手書きが多く、多種多様であ り、また、全体として市外からよりも市内の人の意見が多かったことからも、市民の 良識的な意見を反映していたといえます。
 現在の行政対応としては、サイレント・マジョリティーの声なき声を聴き取ること など期待できませんので、声の大きい方になびく傾向があり、それが、施策をゆがめ てきています。それは、一方で、良識的な人たちが、意見をきちんと声に出して行政 に届ける努力をしてこなかったという怠慢・油断であったともいえます。
 その意味で、良識派の人々は声を挙げる必要がありますし、行政側としても真の住 民の願いがどこにあるか、しっかりと見極めてほしいと思っております。
 いずれにしてもノイズィー・マイノリティに振り回される愚を繰り返さないよう、 行政をあずかる責任者、あるいは住民の代表である議員にはしっかりしてほしいもの です。

 

63 未婚の原因は育った家庭にあり(神戸市在住・独身女性・ 40歳)


 いつも楽しく先生のHPを拝見しております。
 6/11付けの先生の「寸評」(出生率1.29)を読んでの感想です。
 私は40才で独身なのですが、先生がご指摘されているように、私が独身の理由は自 分の親にあります。
 私の両親は仲が悪く、また祖父母と同居していましたので、嫁姑問題など、結婚生 活とはこんなに苦痛なものか、家族とはこんなにしんどいものかと、幼い頃から感じ ておりました。なので、独身生活が気楽で快適です。
 ただ、周りが「年をとったら一人は淋しいよ」とか「子供は産んだ方がいい」と言 うのですが、本当にそうなのか?と疑問があります。きっとそれは自分の育った家庭 が苦痛に満ちたものであったからだと思っています。
 苦痛に満ちた家庭で育つと、大人になってからも心の苦しさがいつもつきまといま す。私が苦痛から開放されたのは、一人暮らしをし始めてからだと気付きました。人 は一人で生きるより家族を築いて生きた方が自然なのは頭では理解できますが、私の ような家庭環境で育つと勇気が出ません。
 仲の悪い家族で育つ子供というのは、本当に不幸です。とにかく心が苦しくて、生 きていても楽しくないというのが事実です。
 殺人を犯した子供も本当は親を殺したかったのではないか?と思っています。私も 子供の頃、攻撃的な面があり物にあたってよく色々な物を破壊しました。今、思うと それは親への怒りだったと思います。でも、子供のときはそんなことは全く理解して おりませんでした。
 今は親も年を取り、別々に住んでいるせいもあってかなり怒りはおさまりました が、心のどこかで親が早く死ぬ事を望んでいるような気がしています。
 私の母の時代は離婚をしても、女性が生きていく場所がなかったようで、そういう 意味では女性が一人で生きていける世の中になって良かったと思います。ただ、子供 は母親が育てるものだと思っていますので、子育てを終えた女性の社会復帰をもっと 支援するシステムがあれば良いのになぁと思います。

 

62 女性自衛官の問題点 ──「母性とフェミニズム 24  警察と自衛隊に浸透するフェミニズムの危険」への感想(大分県在住・20歳代・男性 ・元自衛官)


 私は元自衛隊の者ですので先生の論文にひかれる内容は多くあります。「母性とフ ェミニズム 24 警察と自衛隊に浸透するフェミニズムの危険」を読ませてもらいま したが、思い当たる節が多くあります。私は、通信部隊にいたため職場には婦人自衛 官が前線部隊より多く存在していました。隊長の指導方針としては「女性隊員を男性 隊員がサポートするぐらいの心の広さが男には必要だ。それが男女平等だ」という感 じで女のわがままを、われわれ男が聞かされることが、ままありました。

 今でも覚えてますが、女性自衛官が扱った銃の手入れをやらされたことがありま す。通信部隊でも射撃はもちろん土木作業もやります。銃というものは、射撃後の状 態は銃の筒内部に火薬の燃え残りカスがたまるため射撃訓練後は、銃をばらばらに分 解し、すすを除去し油をひかなければなりません。射撃は割かし楽しい仕事なのです が、なんでも後片付けというものは面倒なものです。

 面倒で手の汚れる仕事は男が進んでひきうける。ん? まいいか、逆らうのもうっ とうしいし...という感じでした。自衛隊では、銃は自分を守ってくれる最後の武器 であるため、自分の銃は自分で管理、恋人のように大切に扱えというのが原則です。 私は、そもそも軍隊に女性を入隊させることそのものに反対です。ただし、自衛官で なく、事務官ならいいと思います。女性差別だといわれようが、なんと言われよう が、国を守るという大目標のためには少々の差別はやむなし、と考えます。

 そもそも、殺されるような場所へ人間を送り出すことそのものが十分に人権侵害だ というのに、それを承知で出かけていく者たちの間に権利も何もありません。男女平 等を叫ぶ人たちは、自衛官の殉職者の大多数が男性自衛官であることが差別だという でしょうか?

 また、3年くらい前パレスチナで若い女性が自爆テロを起こし、新聞では「女性ま でもが...」といった記事を書いてましたが、男女平等の原則にのっとれば、女性だ って死んで当然となるのでしょうか? 女性隊員を前線に配置するとか警察にも女性 の機動隊員とか白バイ隊員がいるそうですが私は大反対です。

 組織の上層部は自衛隊がいかに効率よく有力に国民の皆様の力となるかというので はなく、国民にいかに受けるか、いかに注目してもらうかということを優先している のでは?と勘ぐってしまいます。災害現場で体力のない女性に土嚢を運ばせたり、け が人を担架で運ばせたりしていいのでしょうか?それで作業がまごついたとしたら 「男女平等ですので」という言い訳ができましょうか? 「作業がまごつかないよう に男性隊員が女性隊員をサポートせよ? なんで? 住民の方を救助することにエネル ギーを使わなければならないのに同じ自衛官をサポートする状況ではない」と、必ず 不満が出るはずです。防大出たてで右も左もわからない新入り幹部を部下が補佐する ということは当然のことです。しかし、同じ階級の女性を丁重に扱って、いかにも自 衛隊は男性・女性ともに協力し合う、やりがいのある職場ですよ、と自衛官募集のポ スターの中だけならまだしも、現場で実際にそれをやらされてはたまりません。

 たとえ女性差別と言われようと、体力のあるものを優先して現場に派遣すべきであ ると思います。女性でも女子プロレスラーのように特別のコーチをつけ時間をかけれ ば男性並みの体力はつくかと思いますが、わざわざそんなことするぐらいだったら、 そこらへんぷらぷらしてる兄ちゃんを連れてきて気合を入れた方が安上がりです。

 女というものは、自分勝手でわがままで、周りの状況を考えようとしない、といっ たようなことは一般論として昔からよく言われてきたことだと思いますが、そういう 女性についてあれこれ文句を言うようなことは野暮なことだとされてきたのではない でしょうか。私はそれでいいと思います。西洋でのレディーファーストというのもそ んなところから生まれているのではないでしょうか。

 昔から男は「まあまあ、女の言うことだからハイハイごめんねと言っとけ」で済ま せてきました。それはなぜかというと、女性というものは、自分のために自分勝手な のではなく、子供のため、子供を生む存在であるから、ということで、「女のわがま まは(ある程度)仕方のないものだよ」と、されてきたのではないのでしょうか? 子 供を産んで育てることにエネルギーを裂かなければならない女性であるため、周りの 状況に配慮できるはずもない。

 むかしから、女性は守られる側の存在として扱われてきたのは、女性を守るという より、母体を守る=子供を守る、即ち種の保存に基づく男性側の本能みたいなところ にその源があるのではないでしょうか?そういうふうに考えれば、少々自分勝手で、 わがままな女であっても、まあ女のことだから=子供のためなのだから=これは本能 だ、ということで、女のわがままに目をつむることはできるというものです(ただ し、最初から子供を生むつもりはないという女性、あるいは、育児は社会がやるべき という女性であれば話は別です)。

 自衛隊時代の隊長の理屈から言えばおかしな指導方針も男女平等思想から言ってい たのではなく、以上のような昔から自然と伝わってきた風習みたいなものに知らず知 らず影響を受けてのことではと思います。おそらく先生が理詰めで男女共同参画法の 危険性を指摘しても田舎の年寄り議員たちは、こう言うでしょう。「女性陣が一生懸 命訴えているというのに聞いてやるくらいの度量がなくてどうするんじゃ。お前はそ れでも男か!」フェミニズムの方々は、「男と女は体が違うだけで、考え方・感じ方 の違いは文化・社会的に作られたものだ。だから変える事ができる」と主張します。 なぜ体が違うのかについて言及している本をあまり見たことはありません。ご存知で したら紹介してください。

 体が違うというのは生きていくうえでの役割が違うからではないかと思います。性 別役割分業も先天的なものから派生したのではと思います。そもそも役割という言葉 自体「社会的に押し付けられたものですよ」という感じのイメージを持った受身で消 極的で不健康な言葉ではないかと思います。役割ではなく手段とはいえないものなの でしょうか? 体力のない女性、子供を産めない男性が「役割として押し付けられ た」などといって神様(社会であったとしても)を恨んでも仕方ありません。

 持ってないものを恨むよりも、与えられた能力に感謝し、それを手段として最大限 に発揮、お互いに補完し合い、男女共通の目的=種の保存、社会の維持・発展のため に頑張りましょう、というのが教育だと思います。教育においては、男性にはこうい う能力があり、こういうものはない、女性にはこういう能力があり、こういうものが ない、というふうに男と女の違いを明確にする教育がよいと言う先生の考えには賛成 です。

 

61 ご意見紹介58を読んで (ベルリン在学中・20歳代・女 性)


ご意見紹介58(「純潔」知りませんでした(16歳・男子高校生・横浜))を読んで、考 えさせられることがあり、メールを書いています。
私はこの16歳の少年とは世代が違います。10歳も年上ですから、彼が小学校から 男女混合名簿で育った、と書いていたのには驚きました。それでも、「純潔」を守る べきかどうか、の感覚については、既に私たちの世代でも誰も相当に曖昧であったと 思います。

個人的なことかもしれませんが、私の家では、性についての対話も殆どなく、なんと なくタブーとして、話題にも上りませんでした。おまけに、私自身、メディアに疎か ったために、性交渉についての知識は漠然としかありませんでした。
それが、高校2年の時に、保健体育、と称して「性教育」の時間があり、突然ヴィデ オで各種の避妊の方法や、堕胎についてなどを生々しく見せられて、ショックを受け ました。そのときまで私は、実際の性交渉の方法さえもはっきりとは分かっていませ んでしたが、ヴィデオではそれが「絵」という形で示されていて、一瞬頭の中が真っ 白になったことをよく覚えています。

もちろん、その「性教育」の授業はヴィデオを見ただけで終わり、それについて考え たり、討論したりする時間などはありませんでした。しかも悪いことに、堕胎の方法 についてとても生々しく描写してあるヴィデオだったせいで、わけもわからぬ恐怖感 が先に立ち、何はともあれ後味が非常に悪かったのです。今考えると、堕胎は基本的 にしてはいけない事だし、100%安全な避妊法はないから軽々しく性交渉に及ぶべ きではない、という含みがあったのでしょうが、そのくらいなら真正面から性道徳に ついてふれて欲しかったと思います。

高校時代から学生寮にいて親元を離れていた私は、結果的に性道徳というものについ て深く考える間もなく、いきなり避妊について学んでしまったことになります。もち ろん、私の世代の親はまだ保守的ですから、家の中でタブーだったことから、一応 「軽々しく口にしたり、してはいけないこと」なのだということを本能的に感じては いましたが、それが何故か、という問いには答えることは出来なかったと思います。

今考えると、その性教育のヴィデオを見せられた当時、私も16歳でした。それから 10年が経ち、私には今婚約者がいますが、交際した男性は過去にもう一人います。 もう、その男性と別れてからのことですが、ある日突然、私は自責の念にかられまし た。

もっと性道徳について考えておけばよかった、と。

自分なりに、きちんと結婚を前提に付き合いだすまでは交渉を拒否する、などの「基 準」を定めておけばよかった、と。自分に基準がなければ、相手側の意思に簡単に左 右されることになります。そして、そのような基準は、交際が始まる前か、遅くても 直後には定まっているべきものなのだと思うのです。もちろん、相手との話し合いに よって基準が変更されることはありえるかもしれませんが、それでも、基準さえなけ れば話し合いにもならないのですから。

私も、はっきりと、「何故」結婚前の性交渉が望ましくないのか、には答えられませ ん。ですが、性交渉とは、相手との愛を確認し合うだけでなく、新しい命を作る営み であるわけですから、・・・・今適当な言葉が浮かびませんが英語だとRespect(尊 重、というのも少し違いますが)するべきだと思うのです。そして、特に女性にとっ ては、心理的に少しでもしこりがあると、後になって私のように「後悔」するケース も少なくないのではないでしょうか。(男性の心理については私はよく分からないの で・・・)「なし崩し的に・・・」、と言うのはよくあることと思いますが、女性に っては、それが本当は「半ば強制的に・・・」と同様に感じられることだってありう るのです。そしてそれは予想外に大きな心理的な傷として残ると思うのです。

別に私は、性的に自堕落な生活を送ったつもりは全くありませんし、割と保守的なほ うだと思うのですが、その私でさえも、そう感じたのです。現役の高校生で、現行の 性教育を受けた子供たちは、10年後に何を思うのか、少し不安です。

私の個人的な経験談になってしまいましたが、ご意見紹介58の高校生の方の参考に なれば、と思い、メールを書かせていただきました。月並みな事だったかもしれませ んが、先生のウェブページを拝見し、自分が「かにいい加減な性教育を受けたのかを 実感したしだいです。

終わりに、今後の先生のご活躍をお祈り申し上げます。