C・G・ユング研究

5 『ラピス』(日本ユング研究会「通信」) 掲載論集

 

3 特別講義 ユングの心的エネルギー論

(1999年1月9日、日本ユング研究会月例会における特別講義)

(『ラピス』第3号、1999.6 掲載に加筆・修正)

(この内容は拙著『無意識への扉をひらく -- ユング心理学入門 1 』に入れる予定だったが、分量が多くなりすぎるために割愛したものである。わりあい分かりやすいし、ユング理解に必須の理論なので、ぜひ読んでほしい。)

 

 ユングについての本はいろいろ出ていますが、ユングの心的エネルギー論についての解説は見たことがありません。(註)

 この心的エネルギー論は、まとまった形では全集の第8巻で論じられています。第8巻はあちこち断片的に翻訳されていますが、冒頭の心的エネルギー論に関しては手つかずで来ています。

 心をエネルギーとして見るという見方は、じつはユング心理学全体の基礎になっていまして、ユングを理解する上できわめて重要な理論です。この見方は意識と無意識の関係を論ずる場合には必ず関係してきますので、いわばユング心理学のいたるところに出てくると言えます。

 これまで読んできた『タイプ論』や『元型論』の中にも出てきていたんですが、この視点にはあまり注目しないできました。今日は、心をエネルギーとして捉えると、どれぐらい心がよく分かるようになるかということについて、話してみたいと思います。

 

1 心はエネルギーである

  

 ユングは、心をエネルギーとして捉えると様々な現象がよく説明できると考えたわけですね。まずは、「心がエネルギーである」とはどういうことか、ということから話をしていきたいと思います。

 人間が何かをするのは、心がこうしたいと思うからするんですね。私はさっきタバコを吸っている人に「タバコはやめた方がいいよ」と言ったんですが、禁煙しなさいと言われたくらいでやめる人はまずいませんね。これは本人がやめたいと思わない限りやめない。吸いたいと思うと吸う。何かをしたいと思う、その思うことがエネルギーです。心のエネルギーが働いて、何か目に見えることがなされる。エネルギーそのものは目に見えないし、触れられないし、どこにあるんだか分からないけれど、何かがなされたことを見ることによって、ああエネルギーがあったんだなあということが分かるわけですね。エネルギーというのはすべてそうです。心のエネルギーについても同じように考えられるわけで、何かをしたということで、心のエネルギーがあったことが分かる。

 心の働きをエネルギーとして理解すると、それには必ず「方向」と「強さ」があります。方向というのは、何をしたいかということです。つまりは関心とか価値観がどういう方向に向いているか、ということです。そして、それをどれぐらい強く「したい」と思っているか、ということがエネルギーの「強さ」です。

 そのエネルギーが、どういう方向を持ちどれぐらいの強さを持っているかは、前もって分かりません。本人には分かりますが、他人が見ても分かりません。結局、その人が何をするか、どういう行動として現われるかを見ると、どんなエネルギーだったかということが分かります。

 エネルギーにはいろいろな形態があって、電気エネルギー、熱エネルギー、力学的エネルギー、運動のエネルギー、位置のエネルギーなど、いろいろとありますが、このようなエネルギーの中の一つとして心のエネルギーを考えると、心のいろいろな現象の説明がつくとユングは考えました。

 ただし、心のエネルギーには他のエネルギーと一つだけ違うところがあります。それは、他のエネルギーのように測定できないことです。正確な値というものが出てきません。質的にどの方向に向かっているかということと、他の心的エネルギーよりも相対的に強いか弱いかということだけが分かります。数字として量が出てくるわけではありませんが、それでも心の方向と強さが分かるだけで、心について非常に重要なことが言えます。

 

2 心のエネルギー論の先駆者

 

 このようにユングが、心をエネルギーとして見るという発想をしたのは、19世紀の自然科学の状況が背景にあります。19世紀には自然科学が驚異的に発展しまして、エネルギー論というのが出てきました。マイヤー・ヘルムホルツのエネルギー保存法則というのがありますが、これはエネルギーは形を変えていくけれども、量的には同じであることを明らかにしました。これが哲学や思想界に強い影響を与えまして、哲学者や思想家がしきりにエネルギーという言葉を使うようになった。そういう環境の中で、心理学にもエネルギーという概念が取り入れられたんですね。心理学においてその概念を取り入れた最も重要な人物が、フロイトとジャネです。この二人のエネルギー論を、まずは簡単に紹介しておこうと思います。

 

(1)フロイトのリビドー論

 

 まずはフロイトのリビドー論です。リビドーというのは、もとはラテン語の libido から取られた言葉です。この libido は「欲望」「情欲」「わがまま」「放蕩」などという意味の言葉で、あまりいい意味ではありません。それをフロイトは価値的には中立的な意味で使いまして、心的エネルギーのうちでおもに性的なエネルギーを表わす言葉として使ったのです。つまりフロイトは、心的エネルギーというのはそもそも性的なものだと考えたわけです。

 性的なエネルギーというのは、普通は大人になってから出てくるものだと考えますが、フロイトは生まれたときから性的なエネルギーはあると考えました。例えば、幼児がおっぱいを吸うとき、それは幼児にとっては性的な快感なんだと考えました。また、便を我慢したあげく排泄することも快感であり、そのもととなるのは性的な快感なんだと主張しました。

 フロイトでは、だいたい快感を感じると、そのもとは性的なものだということになってしまいますね。感覚的な快感を全て性的な快感としてしまうと、それは性的という言葉をあまりにも広く使いすぎているという感じがします。確かにプラトンなんかも「哲学は愛智である」と言って、性と関係づけているように思えますが、この場合の愛というのはエロスのことであって、別に性的なものではなく、もっと広い意味で使われています。

 自然科学的なエネルギーにはいろいろな種類がありましたが、そのうちの特定のエネルギーだけが本来的なもので、その他はそれから派生したものであるとは考えにくいですね。それと同じように、人間の心的エネルギーにもいろいろなエネルギーがあると考えるほうが自然ではないでしょうか。私などはそう思いますし、ユングもそう考えました。

 フロイトは、性的エネルギーというものが基本にあって、それが学問や芸術などの様々なエネルギーに形を変えていくんだと考えました。この形を変えることを昇華と呼んだんですね。

 それに対してユングは、性的なエネルギーはいろいろある中の一つにすぎないと考えました。そして、いろいろなエネルギーのうちのどれが強いかによって、その人の特色が出ると主張しました。宗教的なエネルギーが強い人は宗教家になるだろうし、芸術的なエネルギーが強い人は芸術家になる。権力エネルギーの強い人は政治家を目指す。どういうエネルギーが強いかによってその人のタイプが変わってくる。

 ユングはリビドーという言葉を最初は使っていましたが、自分の考えている心的エネルギー概念に合わないということで、後には捨ててしまいました。もっと一般的な、心的エネルギーという言葉を使うことにしたんですね。

 それともう一つ、ユングがリビドーという言葉を使わなくなった理由があります。それはユングが、フロイトの抑圧理論に疑問を持ったからです。抑圧理論というのは、人間の意識が、道徳的な観念とか価値観によって「悪いもの」と判断したものを無意識の中に追いやってしまうという理論です。そうすると、意識が否定したものが無意識だということになりますから、意識と無意識というのは、必ず対立することになりますね。無意識になっているエネルギーは、意識に否定されたエネルギーであるとなる。ところがユングがいろいろ調べたり体験していったりしたところ、どうもそういうふうになっていない例がたくさん出てきたんです。意識と無意識は、対立することもあるけれども、対立しないこともある。

 そもそもフロイトが属していた19世紀のウィーンというのは、フロイトの理論が成立するには非常に都合のいい条件が揃っていたんです。近代ブルジョア的な倫理観が非常に強く、性的なものが非常に強く抑圧されていました。性的なものが悪いものと見なされ、意識から否定されて無意識の中にある、ということが一般的にあったんです。だから、フロイトは別に間違っていたわけではなくて、その社会の中にいる人々を対象にすればそういう結論が出るようになっていたんですね。フロイトの理論は、19世紀のウィーンを前提にすると非常に正しかったんです。別にウィーンのみならず、世界的にもそういった傾向が強かったので、フロイトの理論がよく当てはまる状況があり、それで広まったわけです。

 しかし、ユングがいろいろ調べていくと、必ずしもそうでない場合も多く発見されていきます。例えば、神話や慣習・儀礼、そうしたものは無意識から出てきているわけですが、そうしたものが必ずしも意識と対立しているかというと、むしろ逆で、それは個人の意識のあり方を支えています。意識と無意識(あるいは無意識の産物)は、必ずしも対立するとは限らないわけです。そうすると、心のエネルギーというものを単純に抑圧理論によって説明するのは無理であると分かってきました。

 心の構造を抑圧理論で捉えているということは、じつは心の仕組みというものを、機械のように捉えているということです。フロイトはよく心のメカニズム Mechanismus という言葉を使います。心を機械に喩えているんですね。その機械の奥に抑圧された無意識が溜まっているというイメージです。その抑圧がなぜ起きたかというと、意識が道徳的に判断して悪いと思ったことが原因であり、これが無意識を生んでいる。これは原因−結果の因果論です。因果論と機械論というのが対応して同時に存在しているわけです。フロイトの心理学が19世紀の近代合理主義に対応していると言われるのはこういうところです。

 

 ではユングはどういう見方を取ったのかというと、ユングは心のあり方を機械に喩えず、水の流れに喩えます。水というのはエネルギーの比喩です。心をエネルギーの流れとして捉えるんですね。このエネルギーの流れがどういう方向を向いていて、どれぐらい強いかと考えるのが心的エネルギー論です。こういう見方を、ユングは因果論に対して目的論と言いました。

 ユングの方法が目的論的であるとはよく言われていることですが、それがどういう意味かということは必ずしも明らかにされていないと思います。「目的論」という言葉に対応する言葉には、ドイツ語では Teleologie と Finalismus の二つがあります。ドイツ語で目的論的と言うと、teleologisch (テレオローギッシュ) か final (フィナール) という言葉が使われます。日本語に訳されるとどちらも「目的論」ですが、実は異なった二つの原語があるんです。ユングがどちらの意味で「目的論」と言ったのかを見ないと、ユングの思想は本当には分かりません。

 teleologisch というのは、あらかじめ最後の目標、究極の目的が決まっていて、すべてのプロセスがそれに向かっていくということです。例えば生物の進化を teleologisch に見ると、鳥は空を飛ぶために羽根が生えたとか、魚は海を泳ぐために流線型になったとかいう説明の仕方になります。象の鼻が長いのは、高いところにある葉っぱを食べる“ため”にそうなった、そういう「○○のためにそうなった」とするのが teleologisch です。この説明の仕方ですと、目的はプロセスの原因であるということになる。ユングはこういった説明の仕方はよくないとしました。ユングはこういう意味で「目的論」とは言っていません。ここを誤解している人が結構いるんです。

 じつはユングは、teleologisch という言葉を使いません。final という言葉を使います。finalというのはアリストテレスの「目的因」という言葉から来ています。英語で言うと final cause です。アリストテレスは形相因、質料因、動力因、そして目的因という四つの原因を考えました。

 この目的因というのはどういうことかというと、例えば植物が、種子の状態から次第に成長して完全な木になる、最初の種の中にすべてが含まれていて、それが実現していく。最初に持っていた可能性がすべて実現していく、そういう意味なんですね。最後に実現したものは、可能性として最初のものにすべて含まれていた、こういう見方です。これはドイツロマン主義の見方です。ユングへのロマン主義の影響はこういうところからも伺えます。「ユングが目的論的な見方をしている」と言うときには、もとから目的が決まっているということではなく、「初めの中に未来の全体が含まれている」という、後者の見方なんですね。

 心をエネルギーとしてみると、どうしてもこの final な見方にならざるをえないとユングは主張しました。エネルギーとして見るということは、プロセスとして見るということです。そのプロセスというのは、最初に可能性として含まれていたものが次第に姿を現していくプロセスです。最初に何が可能性としてあったかは分からない。だんだん花開いていくうちにそれが姿を現してくる。結果は分かっていない。

 結果から見るのが teleologisch で、結果は分からないというのが final です。ユングが「個性化」とか「自己実現」と言う場合には、final 的な見方をしている、つまり結果よりもプロセスを大切に考えているわけです。

 ユングの心的エネルギー論がフロイトのリビドー論から派生したように言う人がいます。たしかに用語としては同じものを使っていた時期もありますが、考え方がまったく違うということを理解してないといけないんですね。

 

(2)ジャネの心的エネルギー論

 

 次に、ジャネの見方を紹介します。

 ユングがリビドーという言葉を使っているので、ユングの理論はフロイトから影響を受けたように見えます。たしかに影響は受けているのですが、理論形成の上ではジャネの心理学理論もユングに非常に大きな影響を与えています。

 ユングの心的エネルギー論の特徴は、強さを見るということです。どちらのエネルギーが強いかを見るということ、これはあたりまえのようですが、よくよく見ていくとかなり面白い見方につながります。例えば、性的エネルギーが強いか芸術的エネルギーが強いか、どちらになるかでその人の人生は変わってきます。しかしもっと重要なことは、意識のエネルギーが強いか無意識のエネルギーが強いかです。

 その人の持っている心的エネルギーというのは、総体としては同じであるとジャネやユングは考えました。意識のエネルギーが小さいと無意識のエネルギーは大きくなる。逆に、意識のエネルギーが大きくなると、無意識のエネルギーが小さくなる。こんな単純な見方でも、心を見るときには大きな意味を持ってきます。つまりは意識と無意識、どっちのエネルギーが大きいかでその人の態度とか行動、その人の人生までもが決定的に影響を受けてくるわけです。

 この辺のことをジャネは熱心に研究しました。ジャネという人は非常にたくさんの業績を残した人ですが、最初の頃『心理自動症』という研究をしました。心理自動症というのは、心が自動的に動いてしまう、心が自分の意識しているようには動いてくれない、むこうが勝手にやってしまうように思えるというものです。心や体が、意識のコントロールに従わない。今日の言葉で言うと、無意識の心の働きをジャネは見ていたんです。

 彼は神経症などの患者を見ていて、患者がみな心のエネルギーが足らない症状に見えると気がつきました。心のエネルギーが足らない、だから普通のことができない。何かをしようにも、そのことをするだけの心のエネルギーが不足しているように見える。しかしもっとよく見てみると、実際にエネルギーがない場合と、エネルギーがないように見えるだけで本当はエネルギーを持っている、ただそれを使えないだけという場合があることに気づいていきます。そこでジャネは、この二つの次元を区別するべく「心理力」と「心理緊張力」という言葉を使うようになります。

 心理力というのは、心のエネルギーそのものです。心のエネルギーというのは、表に現われている場合と、裏に隠れている場合とがあります。エネルギーが表面に現われていない、または表わせない人を見ると、私たちは無気力や無能力だと判断してしまうんです。心のエネルギーがまったくない人というのはいないわけで、ただ表わせないという人は多いですね。

 心理力は、誰もがもともとある程度は持っている、人によってあまり変わらない。それを表わすことができるかできないかは、心理緊張力が違うからだということになります。心のエネルギーを使うためには、緊張しなければなりません。別の言葉で言うと、集中しなければならない。何が緊張するかというと、意識が緊張するんです。ジャネは意識が緊張するという言い方はしていません。ただ緊張するとだけ言っています。しかしユング心理学の用語で言うと、ジャネが言っていることは「意識が」緊張するということなんですね。

 意識が緊張していると、ジャネが言っていた心理力は、意識によって使われます。意識が緊張していないと、心理力は無意識が使ってしまう。無意識がエネルギーを使うと、外からは目に見えないんです。いろいろなことを空想したりして、その空想の中、心の中で緊張してエネルギーを使ってしまい、ああ疲れたと寝てばかりになってしまったりする。そういう人は、本当はエネルギーをたくさん使っているんだけれども、外からは見えないからエネルギーを使っていないと判断されてしまいます。

 このごろの不登校や引きこもりを見るときにも応用できる見方ですね。ただしこのごろの不登校は、心のエネルギーそのもの(ジャネの言う「心理力」そのもの)が乏しい人が増えてきました。

 さて、我々が社会人として常識的に行動したり仕事をしたりするためには、心のエネルギーが意識的に使われる必要があります。そのためには、意識が一定程度以上に緊張している必要があります。この緊張が一定程度以下になると、エネルギーは無意識の方に行ってしまいます。つまり、意識と無意識の間に目に見えない境界があって、エネルギーがそこから向こうに行くか、こっちに来るかで違いが出てきます。それによってまったくの別人になってしまう、まったく違った行動をする。この境目を「識閾」(しきいき)とユングは言いました。この境界線を中心にして、意識のほうが充分に強いとエネルギーがこっちへ来ている、意識が弱いと向こうに行ってしまうと考えたんですね。

 ジャネが問題にしたのは、要は意識の強さです。意識の強さが充分にあるとその人は普通だけれども、意識が弱くてエネルギーが無意識の方に行ってしまうと精神病になったりして、病的だと判断されるということなんです。つまり、彼の言う心理緊張力というのは、意識の強さということなんです。ユングはよく abaissment du niveau mental というジャネの言葉を引用するんですが、これは普通「心の水準の低下」とか「精神水準の低下」と直訳されています。しかし実際にはこれは正しくは「意識水準の低下」と訳すべきです。niveau mental というのは意識の緊張の水準ということなのです。

 心のエネルギーを意識が使っているか無意識が使っているかで、その人はまったく違った行動を取る。このことを捉えたのがジャネなんですね。それをユングは全面的に採用したと言えます。ジャネの abaissment du niveau mental という言葉はユングの主要な論文にはたいてい引用されているほどです。

 

3 心的エネルギーのシーソー

 

 フロイトとジャネ、この二人がユングの心的エネルギー論の先駆者と言えるわけですが、この人たちに共通しているのは、心のエネルギーの総量は一定していると仮定したことです。総量が変わらないというのは物理学におけるエネルギー保存則の見方ですが、それを心のエネルギーにも適用している。

 そして、意識がエネルギーを使っている状態と、無意識の中でエネルギーが使われている状態がある。意識と無意識の間で、エネルギーが行ったり来たりする。行ったり来たりが交互に繰り返されるということです。エネルギーが行ったきりで、一生分裂病のままでいる人もいますが、普通は無意識の方へ行ったきりでそのままということはあまりない。意識の方へ戻ってくる、行ったり来たりするほうが普通だと彼らは考えたんですね。

 これは言ってみると、シーソーみたいなものです。シーソーみたいにエネルギーは流れると考えた。この見方が最も当てはまるのが躁鬱病ですね。躁のときにはエネルギーがあるように見えますが、これは意識の方にほとんどのエネルギーが来ているからです。普通の人は、意識的に行動しているようですが全部意識的というわけではないんですよ。エネルギーが100%意識で使われているわけじゃない。躁のときには100%近く意識で使われているから、活動的で元気がある。しかしこれは長続きしないんです。しばらくするとダーッと落ち込んでしまって、何もやる気がしなくなる。この時には意識にはエネルギーがなくて、ほとんどが無意識の方に行ってしまっている。意識的には何もできなくなってしまう。これが鬱病の状態です。つまりは極端な行ったり来たりを繰り返すのが躁鬱病です。エネルギーの行き来の振幅があまり大きいのは危険ですね。

 エネルギーがこのように行ったり来たりする状態を、ユングは「エナンティオドロミー」と言いました。エナンティオドロミアというギリシア語は、古代ギリシア哲学者のヘラクレイトスの言葉です。ヘラクレイトスの「万物は流転する」という言葉は有名ですが、これは万物は対立し争いながら、その対立する相手の方に変化していく、しかし対立しても元に戻って、全体としては調和しているのだという見方です。例えば、天にあるときは火であるが、この火が地に降りてくると水となる。水は土になる。しかし土はまた水に戻って、その水はさらに火になって天に戻っていく。ユングは『元型論』で、精神(ガイスト)は天にあって火であるが、現代は地上に降りて水になっていると言っていますが、これはこのヘラクレイトスの言葉をふんでいるんです。こういった逆転現象が心にも見られるとユングは考えました。

 つまり、意識的な状態が、ある一面的な状態に偏ると、それに対する反動現象が起きて、「補償」ということが出てくる。そういう意味では「反動」というのはいいことです。これが起きないと、一面的になりすぎるわけですから。

 先程、意識と無意識とは必ずしも対立しないと言いましたが、まあ、普通は対立することが多いです。ユングはこの対立からエネルギーが生じてくると言いました。心のエネルギーは対立があるから生じるんで、完全に調和していたらエネルギーは出てこないと言うんです。このことは私たちにも思い当たります。ちょっと不幸だとか、恨み辛みがあるとか、コンプレックスがあるという人のほうが仕事をしますよ。ただし、おかしなコンプレックスがあると仕事はするがいい内容にはならない。心の中の対立が大きいほどエネルギーも大きくなります。歴史上の人物の中にも、意識と無意識との対立が激しいがゆえに劇的な人生を送る人がいます。

 要するに、意識のあり方と無意識のあり方の間に落差があるんです。落差が大きい人ほどエネルギーが大きくなる。ユングはこの落差のことをゲフェレ Gefaelle と言いました。これは斜面という意味なんですが、私は「落差」と訳しています。

 この落差によるエネルギーというのは、大きければ大きいほどよいとは限らないんです。意識と無意識があまり激しく対立しているのは望ましいことではありません。意識があまり緊張しすぎていると長続きしません。自然にエネルギーが無意識の方に流れて行ってしまう。このように反対のものが出てくることを、ユングは「補償」と呼びました。

 

4 退行と創造

 

 意識があまりにも偏っているときに、無意識から補償が現れる。例えば、働きすぎの人が突然働けなくなってしまうようにです。心というのは、どうも最初から平衡を取るようにできているみたいなんです。これはホメオスタシスと呼ばれています。自然に平衡を取るように働くんですね。

 ユングは、対立する状態というのはあまり続かないと見ていまして、心というのはエントロピーの法則に従うと言っています。エントロピーというのは、だんだんとエネルギーがなくなる方向に進むという自然現象ですね。次第に平衡状態に向かっていってエネルギーが失われていくという法則です。

 ただし、自然界と違って心のエネルギーというのは、一方を補償するエネルギーが出てきて、次第に平衡状態・調和状態になるというわけではないんです。時には、片方に行ったままになってしまうことがある。無意識の中にエネルギーが行ったままになる状態を、退行 Regression と言います。これは、エネルギーが無意識の中に行って、こっちに戻ってこない、向こうの中で閉じ込められてぐるぐる回っている状態です。

 こういう状態が夢に出てきますと、例えば、広い野原の同じところを回っていて疲れたとか、出口がなくて帰ってこられないとか、建物の中で迷ってしまって出てこられないといったような状態になります。いわゆる迷宮の夢というものです。外に出られなくなる、あるいは行きたいと思うところにどうしても行かれない。これは、エネルギーが意識の方に出ていく出口が見つからない、無意識の中に閉じ込められているという状態です。

 こうした状態がいつまでも続くと、自閉状態とか鬱病になったりする。もっとひどくなると、無意識の中のイメージが現実のものと思えるようになってきて、分裂病になる。必ずしも病的でなくとも、これは内向的な子供にはよく見られる現象なんですよ。子供を注意深く観察していますと、同じ動作を繰り返している子がいたりします。一人で遊んでいる、手がかからなくていいなあと思っていますと、ずっと繰り返している。例えば、一方のザルから豆をざーっと他方のザルへ移す。そしてもとのザルに再び戻す。これを一時間も繰り返している。これには早く気がつかなくてはいけないんですけど、最初はそうと気づかない。あまりやっているので話しかけてみると、きょとんとしているが、ひどく疲れている。ひどいときにはぐったりして熱が出たりする。それだけのことで熱が出たりするんですよ。

 実は、表面的に見ると単純作業ですが、無意識の中では非常に大きなエネルギーを使っているらしいんですね。精神科の医者が失敗談として書いた症例を読んだんですが、来談中の子供が、水洗トイレで水を流して、水の渦ができて流れていく様子を非常に興味深そうに見ている。何か意味があって見ているのだろうと思ってそのままにしておいたら、非常に症状が悪くなったそうです。つまり、面白いからとか、楽しいから見ているんではないんです。例えば、恐怖心で引きつけられて見ているのかもしれない。無意識のエネルギーに引きつけられて見ているのかもしれないんです。これを放っておくとたいへん危険なんですよ。

 つまり、無意識の中でエネルギーがぐるぐる空回りしている状態というのがあって、そこでエネルギーが使われてしまい、現実生活においてはぼーっとしていたり、何もできない状態になったりすることがある。そしてこれが無駄であることもあるし、無駄でないこともある。大人になってからそうしたことが役に立つこともある。これはユングもずいぶん経験したことでして、自分でも、他人においても、だいぶ体験したようです。

 だいたいユングの患者というのは神経症よりも分裂病の人が多かったんですが、入院してくる重い患者になると、エネルギーが完全にあの世に行っているんですよ。あるときユングが、自分は月に行っていると思い込んでいた若い女性の患者を診て、これは現実に引き戻さなくてはならないと思い、病院内で看護婦の助手の仕事をさせました。これでだいぶよくなったそうなんです。

 それでユングが、だいぶよくなったからこれで面接を終わりにしましょうと言ったら、散弾銃を持ってきて机の上に置いた。そして、「もしあなたが私の話を信じてくれなかったら、これで撃ち殺そうと思っていました」と言ったそうです。ユングは彼女が月の話をしたら、ふんふんといって聞いていました。これは単に信じているふりをしているのではなくて、話を聞きながら半分は信じていた。これは微妙なところなんですが、100%信じてはいけません。それだと患者と一緒に精神病になってしまいます。しかし100%信じているわけではないが、彼女の心にとっては真実だと思っているからきちんと聞いていた。それでよかったんですね。そうでなければ撃ち殺されていた。

 そういうわけで、エネルギーが無意識に行ったままの状態というのは、非常に危険な状態と言えるわけです。しかし、危険な状態ばかりというわけではない。向こうの状態が、必ずしもただエネルギーが空回りしている状態だとは限らない。何か良い内容というのを、この中で掴むこともあるんですね。軽い例だと、夢の中で良いアイデアが出てきたとか、インスピレーションが湧いたなんてことがあります。さらに、長い間向こうに行っていると、大きなものを掴むこともあるんですよ。こちらの現実では思いもしないようなことが出てくる。それを持ってこちらの世界に戻ってくると、非常にすばらしい創造的な仕事をすることがあるんですね。これを創造的退行と呼びます。ただの退行ではなくて、創造につながるような退行ですね。

 そもそも退行というのがなぜ起こるかというと、現実の中でエネルギーがうまく使われないからです。心理学の用語で言うと、適応できないということです。現実にうまく適応していない人は、現実の中でうまくエネルギーが使われない。だから無意識の方にエネルギーが行きます。無意識の方でエネルギーを使うと、きれいなイメージが出てきたり、好きなイメージが出てきたり、自分が活躍したり、好きに遊んだり、楽しいかもしれない。そのことをユングは「神経症という幸福な島」と表現しました。神経症というのは、逃げ場になったり、その逃げ場がその人にとっては現実よりも幸福に感じられたりする場合さえあるのです。だから神経症の人には治りたくないという人がいます。

 しかしそれだとエネルギーは空回りして生産的に使われません。まあ、楽だからやっているのか、正しいことが見つからないからやっているのかは分かりませんが。

 そんな中で、なにかすばらしいイメージを持って現実に帰ってこられる人もいるんですよ。そうすると、非常に新しく創造的な作品や思想を表現したり、新しい形で現実に適応ができるようになったりします。無意識のイメージを表現できる道を見いだすと、こういったことが可能になります。ユングの治療の仕方を見ていると、必ず無意識のイメージを表現させています。表現することで意識化できるようにしていますね。私が『個性化とマンダラ』という本の中で訳した、X婦人の例などはその典型的な例です。絵を描かせて、その中に無意識のイメージが表現されていくんですが、それがいつの間にか、意識と無意識の合作みたいになっていきます。それが期せずして、彼女の個性化過程を表わしていた。

 今まで否定していたり、現実ではないとしていたイメージを、もう一度意識の方に呼び戻す。これは無意識の要素を意識の中に取り入れるということです。そしてより全体的な構えになる。これがユングの言っている個性化ですね。無意識の中のものを呼び戻すことによって、それが一段高い次元のものになる。これが表現によって可能になると言いましたが、この「表現」というのを別の言葉で言うと「シンボル」です。

 

5 心のエネルギーの方向転換

 

 シンボルを作るということは、簡単にできることではないんです。シンボルができるためには、心のエネルギーの転換ということが起きなくてはならない。心のエネルギーが転換されてシンボルが形成されるんですね。これはシンボルが新しくなるということではなくて、美しいものが醜くなったり、怖いものが優しいものになったりと、シンボルが変化するということです。

 ユングは子供の頃に、大きなシンボルの転換を経験しています。それが例の、カンテラの夢と名付けられている夢です。この夢の中でシンボルが急に大きく転換しているんですね。それまでのユングにとっては、あの世の人格No.2、これはユングの無意識世界での自分の像なんですが、これが明るく輝いてすばらしかったんです。この世の自分のイメージはみすぼらしくて、つまらない子供だった。ところがあるとき、ユングは明りを守っていくという夢を見ます。

 夜、嵐のような風の中で明りを守るのに必死になっていて、誰かが追いかけてきているという感じがして振り向くと、大きな入道雲のようなものが追いかけてくる、それから必死になって小さな明りを守るという夢です。

 この小さな明りというのは自我なんですね。後ろの入道雲のようなものは無意識です。それまでは無意識の世界こそが輝いていたすばらしい世界だったんですが、この夢を境にして彼のイメージは逆転します。無意識を表わすものが、入道雲のようになって自分を襲ってくるものになったんです。それに対して自我=意識が、明りに象徴されるような貴重で大事なものになったんですね。

 これが意味しているのは、心的エネルギーが方向転換したということです。それまでは無意識の方に向かってエネルギーが流れていて、いつもあちらの方に行っていた。だから彼も、学校ではいつも授業なんか聞いていなくて、勝手な想像を楽しんでいた。授業を聞いていないどころか学校にも行かなくなって、森へ行って絵を描いたり一人で遊んでいたりした。現実の世界の方にエネルギーがぜんぜん向いていないんです。ところが、そのエネルギーの向きが、無意識の方から現実の方に転換した。それまでのユングは勉強をすると発作が起きて椅子からころげ落ちていたんですが、これ以降のユングは努力して自分で勉強をし、学校にも行き、現実の世界に復帰するんですね。この精神力というのはすごいですよ。普通なら心理療法を受けなくてはできないようなことを、彼は自分の力でやってしまうんです。

 つまり大事なのは、エネルギーの流れが逆方向に転換するということです。例えば、電車は線路を進んでいきますが、線路が右左二つに分岐しているところに来ます。いつもは左の方向に進んで行くものが、右の方向に行こうとするならば、転轍(てんてつ)、すなわち線路のポイントを切り替える必要がある。これがエネルギーの転換ということです。例えば、いつも無意識の方に行っていたものが、意識の方に向くように転換される。また、母のイメージがいつも怖く逆らえないようなものであったが、あるときその母を倒すようなイメージに変わる。これらは心が転換したんです。この時に、シンボルも変わっています。心のエネルギーが転換するというのとシンボルが変わるというのが、タイアップしているんです。

 こうしたエネルギーの転換と、それに伴うシンボルの変化について述べているのが、全集第5巻の Symbole der Wandlung で、『変容の象徴』と訳されているものです。このもととなった論文はブロイラーとフロイトが名目的な編集者だったけれども事実上はユングが編集者だった『精神分析学および精神病理学年報』という雑誌に掲載されたのですが、そのときのタイトルは Die Wandlung und Symbole der Libidoでした。これがが「リビドーの変容と象徴」と訳されてきました。

 「変容」というと、人格が変容することだというように思えるでしょう。この「変容」という訳語に引きずられて、この Wandlungの意味がよく理解できなかったのです。いったい何が変化するのか、どうしてこんな言葉を使うんだろうと私は長い間疑問に思っていました。訳語というのは大事ですね。「変容」という訳語は読む人を惑わすので、よくないと思います。

 じつは、Die Wandlung und Symbole der Libidoというタイトルに落ち着く前に、ユングはWandlung のところに Verlegung という言葉を当てていたときがあります。Verlegung というのは、「位置を変える」、「転換、変換」という意味です。これはエネルギーを転換する、エネルギーの向きを変えるということなんです。転轍手がポイントを切り替えて電車の方向を変えるように、心的エネルギーの向きを変えるということです。「変容」という訳では、この感じがまったく出ないんです。正しく訳すならば、Symbole der Wandlung は「向きが変わったことを表わすシンボル」という意味ですから「転換のシンボル」と訳すべきです。もとの論文のタイトルも、「リビドーの向きが変わることと、その向きが変わったことを示すシンボル」と訳すことができます。

 ちなみに第5巻の題名 Symbole der Wandlung は英訳では Symbols of Transfomation となっています。Transfomation とは「変身」とか「変容」という意味ですから、英訳者は完全に人格の変容だという理解をしていると思います。日本のユング派はほとんど英語から入っているので、英訳者の間違いをそのまま引きずっているのです。英訳はしばしばとんでもない誤訳をしているので、注意が肝要です。

 さて、以上のことが分かってみると、「竜との戦い」とか「犠牲」などのさまざまなシンボルの解明があの書から出てきたことの意味が分かります。『転換のシンボル』の内容は、心的エネルギー論ときわめて密接に結びついている。心的エネルギー論を理解していないと、あの書はよく理解できません。『タイプ論』もそうで、「補償」とか「エナンティオドロミー」という概念は、完全に心的エネルギー論がバックになっています。

 

6 文化のエネルギー転換

 

 エネルギーの転換に関して、今までは個人について見てきましたが、社会的に見ると、文化というのがシンボルの役割を果たしています。文化というのがエネルギー転換の装置になっているんです。我々の文化というのが、自然の衝動が勝手に動かないようにするための枠になっています。その枠が、心的エネルギーをうまく導いていく役割を果たしているわけですね。

 宗教とかイデオロギーとかいったようなものも、みんなそうなんです。例えば救済宗教は、この世の救いからあの世の救いへと心のエネルギーを向けているんですね。そのことでこの世での生き方がどうなるか、この世は価値がないんだからどうでもいいやと反倫理的なるか、より倫理的に高い生き方になるか、ちょっと考えると前者のようですが、そうではないんですね。不思議なことに、たいていは倫理的な生き方を奨励する結果になっています。

 ですから、規範というのは大事なんですね。規範というのが桎梏だとか縛るものだという感覚が最近非常に出てきている。すると、ユングが警告したことと同じことが起きてくるんですよ。プロテスタントが偶像破壊によってイメージの世界をすべて壊してしまった、そうなると結局はむき出しの無意識が出てきてしまうんですね。文化とか規範というものを、そう簡単に否定してしまうことは非常に危険なんですよ。エネルギーをうまく流れさせるための枠とか制度というのは、必要なんです。枠というものをみんなが嫌がってきている、これは枠自体がおかしいのか、それを嫌がる感覚の方がおかしいのか、果たしてどっちでしょうね。

 非常に恐ろしい方向にエネルギーを転換してしまった例は、ユングもよく引き合いに出すナチスです。ナチスは平和主義に対する反動として暴力が出てくるという社会背景をもとに、ユダヤ人差別の心を煽ることによって、そちらの方向に大衆のエネルギーを転換してしまったんですね。こういうのがいちばん恐ろしいエネルギーの転換の仕方、最も不幸な例です。現代のフェミニズムも、心理的なエネルギーを転換して外で働くことに向けさせようとしていますね。これが人類にとってどういう意味を持っているのかを考えなくてはいけません。

 エネルギーを大きく転換するというのは、非常に危ないことなんです。慎重に見定めていかないといけない。今までのことを単に否定するのではなくて、それがよりよい形で現われることができるようなシンボルが出てくるというのがいちばんいいんです。

 

 シンボルというのが、エネルギーを転換する作用をする。だから、よい方向にエネルギーを転換させるよいシンボルというものが必要になります。人間のエネルギーがどういう方向に流れるかを決定するという意味で、シンボルの役割は非常に大事です。

 心をエネルギーとして捉える、それをエネルギーの転換という観点から考えれば、われわれ一人一人の役にも立つし、社会や文化の問題点も見えてくる。

 今日の話で、ユング心理学のすべてのところに心的エネルギー論の見方が行きわたっていて、その基礎となっているということがある程度ご理解いただけたんじゃないかと思います。

 

(註)

  その後刊行されたマレイ・スタイン『ユング 心の地図』(入江良平訳、青土社、1999.12) の中で「心的エネルギー論」が扱われている。その中にも「変容」という訳語が出てくるが、これは不適切な訳ではなくて、本当にスタインはWandlungを「変容」という意味に理解しているようである。つまりスタインはWandlungを「性的なエネルギーが文化的なエネルギーに変容する」という意味で理解しており、フロイトの「昇華」に近い意味に取っているようである。

 そうだと、Wandlungはいい意味での変化のみを意味していることになり、狭い理解になってしまうと思われる。ユングはもっと広い意味でのエネルギーの転換一般を考えていたと私は理解している。つまり心の構え(Einstellung)が転換する(当然「悪い」方向への転換もありうる)、その変化につれてシンボルも転換するという意味である。すなわちエネルギーの転換を表わすシンボルの転換も考えられていたはずであるが、その点についてはスタインはあまり詳しく考察していない。