家族 2 夫婦別姓  

 

(1) そんなに家族を壊したいのか

   ──「夫婦別姓」推進派のウソと本音

 ( 『正論』平成14年1月号掲載)

 

 夫婦別姓のための民法改正を執拗に狙っている者たちがいる。しかしその理由がウソで固められているとしたら、その背後には後ろめたい動機が隠されていると思わなければならない。別姓推進派の本音、真の動機は何か。

 

 一 国民をだます大ウソ

 

 別姓推進派の言い分には、少なくとも三つの大ウソが隠されている。

 第一のウソは「選択的」だから「好きな人」がするだけ、「びっくりするようなことじゃない」「原則は今まで通り」(平成十三年九月二十日付け「小泉内閣メールマガジン」での森山真弓法相の発言)という言い方。しかし夫婦別姓は婚姻・家族制度の重大な改変であり、家族単位から個人単位への移行を意味している。これはきわめて重大な原則の変更である。

 第二のウソは、世論調査で賛成が反対を上回ったと宣伝しいること。これは内閣府の世論調査の数字を偽って操作した結果であり、国民の意思を逆に見せるという、犯罪的なウソと言うべきである。

 第三のウソは、夫婦別姓を必要とする理由が、どれもゴマカシであり、少しも理由になっていないところにある。これは正当な理由が存在しないことを、すなわち隠された真の動機があることを意味している。

 まず以上の三点が大ウソであることを証明した上で、隠された真の動機を明らかにしたい。

 

 二 第一のウソ 婚姻・家族制度の根本的改悪

 

 森山氏は「センタクテキフウフベッセイなんていうと、何かすごいことみたいに聞こえるかもしれないけれど、そんなにびっくりするようなことじゃないんです」と書いている。本当にそんなに大きな変化ではないのだろうか。

 現行法のもとでの結婚は、結婚する二人が同一の戸籍を作るという行為から始まる。事実上は一方の戸籍に他方が入るという形を取る。これによって戸籍に入る側は姓を変え、二人は同一姓となる。

 この婚姻制度は夫婦二人を基本単位として、それを中心に家族単位を形成するという思想に基づいている。現行法の思想は家族単位思想である。

 この制度のもとでは、新しい単位を作る行為には、それなりの覚悟を必要とし、それを壊せばそれなりの不利を被る。不利とはたとえば、離婚をすれば姓が変わる、結婚しないで子を産めば非嫡出子になるなど。これらは家族単位を守るための、いわば社会としての防衛策である。

 別姓法案は、姓の決め方を個人単位にすることを意味しており、したがって婚姻制度のきわめて重大な原則的変更を意図するものである。それは事実上、事実婚を認めてそれに法律的な保護を与えることを意味する。そうなれば結婚も離婚もきわめて安易にできるようになるだろう。それが離婚率を上昇させるように作用することは目に見えている。

 これをもって「びっくりするような変化ではない」と見せかけるのは驚くべき偽りである。家族単位か個人単位かという違いは、国家制度としても、子供の養育をめぐっても、きわめて重大な違いをもたらす大変化である。

 個人単位思想を基にした変革であるという意味では、別姓制度は家族制度と婚姻制度の根本的な破壊を意図している。

 これを「原則は同じ」というのは大ウソと言わざるをえない。

 

 三 第二のウソ 世論調査のゴマカシ

 

 次に第二のウソ、世論調査のゴマカシについて述べる。

 平成十三年八月五日の新聞やテレビなどのマスコミは、夫婦別姓に関する内閣府の世論調査の結果を大きく報じた。

 見出しには

 

夫婦別姓「賛成」四二%

初めて「反対」を上回る 

 

などと書き立てていた。

 

「通称として使えるようにするという意見も合わせると、結婚後も別姓を名乗れるよう何らかの法改正に賛成する人は六五%にのぼった」とわざわざ「解説」するものがほとんどであった。

 じつはこの結果を示した数字の読み方がゴマカシであることを、私はいち早く八月十四日の時点で私のインターネット・ホームページにおいて指摘した。

 すなわち、今回なされた調査の項目は(「わからない」を除けば)次の三つである。

 1 夫婦別姓を認める法改正をしても構わない(四二・一%)

 2 夫婦は同姓を名乗るべきだが、旧姓を通称として使えるように法改正をしても構わない(二三%)

 3 夫婦は同じ姓を名乗るべきで法改正の必要はない(二九・九%)

 

 このうち「夫婦は同姓を名乗るべき」と答えた2と3の人たちが別姓に反対なのは当然である。これをを合わせると五二・九%になる。1の「構わない」四二・一%は厳密に言うと「賛成」ではないが、それを仮に「賛成」だと考えても、賛成が反対を上回っていないことは明瞭である。「賛成が反対を上回った」という、このような大ウソを発表する方もする方だが、多くの大新聞がこの大ウソを書き立てて、なんの批判も受けない、指摘を受けても反省も自己批判もしないというのは、じつに奇妙な現象と言わなければならない。

 じつは別姓に関する世論調査は過去三回行われている。

一回目 一九九〇年九月 賛成二九・八% 反対五二・一%

二回目 一九九四年九月 賛成二七・四% 反対五三・四%

 

 この二回の質問文は、別姓も選べるようにする民法改正に賛成か反対かを単純に尋ねる表現であった。

 結果は、賛成よりも反対の方が圧倒的に多い。しかも四年後の二回目の方が賛成が減り、反対が増えている。世論の賛成が次第に多くなると予想していた推進派は、ここで作戦を変えた。つまり世論を正々堂々と喚起するという戦略を捨てて、ゴマカシの世論調査によって賛成が増えていると見せかける方法に変えたのである。

 すなわち二回目の調査から二年も経たない一九九六年六月に三回目の世論調査を実施した。しかも質問項目をまったく変えて、今回と同じ選択肢を使った。すなわち「夫婦別姓を認める法改正をしても構わない」という項目を作り、これが別姓賛成を表わすものと見せかけた。

 法務省民事局は「過去の調査に比べ、選択肢としての別姓に理解が進んだ」というコメントを出し、マスコミは一斉に「別姓容認派がついに過半数を超えた」と報道した。

 今回も同様の項目によって調査をし、最初の二回の調査で賛成が二〇%台だったのを、一挙に四二%にまで上がったかのように見せかけた。

 しかも別姓反対者の扱いもきわめてアンフェアである。反対者を「通称使用容認」二三%と「通称使用にも反対」二九・九%の二つに分断して、後者のみを別姓反対として計算し、「別姓賛成が反対を上回った」と宣伝したのである。

 私はその結果が発表された現場に居合わせていないので、発表した役人が

「別姓賛成が反対を上回った」と表現したのか、記者たちが勝手に解釈したのか分からない。しかし、すべてのマスコミがまったく同じ間違った読み取り方をしたというのも、不可解な現象ではある。

 いずれにしても、国家が欺瞞的な世論調査を行い、マスコミが間違った読み取り方をして宣伝したのであるかぎり、これは国家とマスコミが共謀しての大ウソであると言っても決して言い過ぎではないであろう。

 

 四 第三のウソ 偽りの理由

 

 では、それほどのゴマカシを使ってまで別姓にしなければならない理由とは何であろうか。驚くべきことに、その理由とやらもゴマカシなのである。

 

ゴマカシの1 別姓によって家名存続は保証できない

 森山氏が内閣メールマガジンで主張する理由の第一は「家名存続のため」である。すなわち、少子化でひとりっ子同士の結婚が多くなったため、夫婦のどちらか一方の姓を名乗る今の法律では「家名がとだえてしまう」ので、「結婚できない、子孫も途絶えるという問題が結構深刻」だと言う。夫婦別姓によって本当に家名が存続できるようになるのか考えてみよう。

 夫婦別姓にすれば、たしかに自分の代では両方の家名が残る。しかし子供の代になると保証できない。

 なぜなら、第一に、ひとりっ子対策として考えられているのだから、その子供もひとりっ子だとすると、両親のどちらかの家名は途絶えることになる。ひとりっ子を前提にするかぎり、別姓にしても家名問題の解決にはならないのである。

 第二に、二人の子供がいるとしても、子供は大人になると自由意志で選び直せるのだから、二人とも父親(母親)の姓を選びたいと言ったら、母親(父親)の家名は断絶することになる。「自由意志」の「選択」を認めるかぎり、家名が存続する保証はないのである。「選択」を重んずるという趣旨の法律を作ろうとする人々が、こんな事態も予想できないとは、なんという想像力の貧困であろうか。

 もし家名存続のために役立たせようとするなら、二人の子供に姓を分けた場合、その姓を大人になっても変えないように強制しなければならなくなる。つまりこの制度は家名存続のためには強制を使わなければならないという制度である。「選択制」という自由意志を重んずるタテマエとは完全に矛盾することになる。

 さらに、十一月十四日に明らかになったところによると、法務省の新しい別姓法案では、夫婦の複数の子供はすべて同一姓を名乗ることにするそうである。そうなると、家名存続のためには子供が大人になった時点で、少なくとも一人の子供に姓を変えるように強制しなければならなくなる。「親は選択してよいが、子供には選択を認めない」とでも言うのであろうか。

 「選択制」であるかぎり、別姓制度は家名存続のためには役立たない。家名存続のためという口実は、あまりにも見え透いたウソとしか言いようがない。

 そもそも家名を存続したいという気持ちは個人レベルの問題であり、それを国家の制度によって保証するという発想そのものが公私混同であり、自由と民主主義の原理に反していると言うべきである。少なくとも自由民主党に属する議員が言い出すべきことではない。

 

ゴマカシの 2 不便はなくならない

 子供は大人になってから姓を変えられると言うけれども、そのときに書類を書き換えなければならないなどの不便さは、夫婦同姓制度のもとで結婚時に姓を変える側の不便さと同じである。「姓を変えるのが不便だから」別姓制度にせよと言っている人々は、子供が大人になって姓を変えたいというときの不便さをどうするというのか。親が免れた不便さを、子供は確実に背負い込むことになる。不便さを次世代に先送りし、押しつけるだけである。

 だいいち、「不便」だけをなくそうと言うのなら、いわゆる通称使用で十分に対応できる。統計の結果を歪めてまで大げさな制度いじりをする必要はさらさらないのである。

 

 以上のように、推進派の理由は、どれをとっても理由になっていないばかりか、大きな矛盾と欺瞞を内包しているのである。

 

 五 目的は家族単位思想の絶滅

    ── フェミニズム諸立法のもくろみ

 

 別姓必要論はウソばかりであることが分かった。では推進派の真の動機は何であろうか。

 

フェミニズムの戦略転換

 別姓法案に執拗にこだわるフェミニストたちの動機を見抜くためには、彼女・彼らが九十年代になって大きな戦略の転換を図ったことを知っておく必要がある。

 まず思想上の転換。それまでは単純な男女平等を掲げてきたのに対して、九十年ころより「家族」への攻撃を強めてきた。フェミニスト学者たちは一斉に「近代家族」批判を展開し、「家族単位」に代わる「個人単位」思想を宣伝した。これは「家族の多様な形態を認めよ」という主張となり、それは事実上の家族否定論または不要論につながるものであった。

 他方、政治的運動としては、市民運動の展開という方法から転換して、政府の中にもぐりこむという方法を取り、政治や官僚の中に大量に進出し、政府の中から動かしていくという戦略が取られるようになった。その成果が「男女共同参画社会基本法」と「介護保健法」であり、その延長戦上に今回の「選択的夫婦別姓」と「婚外子差別撤廃」法案が置かれている。

 一連のフェミニスト諸立法はすべて、家族単位思想の破壊という、確固とした戦略的イデオロギーのもとに打ち出されていることを見抜く必要がある。

 

人間の意識を法律で変えようという戦略

 一連のフェミニスト諸立法は、人間の意識を法律や行政によって変えようという意図で作られている。

 男女共同参画社会基本法は、性別役割分担などの「制度または慣行」を変え、育児や介護を家庭内から排除して外注にし、それによって女性を外に出して働かせようという意図を持っている。また子の養育を結婚した夫婦のみならず、どのような状態の男女でも同等の権利があるとすることによって、婚外子も同等の権利を認めるようにしようという意図も隠しもっていた。(この法律の詳しい分析については拙著『家族破壊』徳間書店を参照していただきたい。)

 このような国民の意識変革を意図していることをあからさまに語っているのが山口県副知事の大泉博子氏である。大泉氏は不合理な日本人の意識に代わって、市場原理による近代化・合理化を推し進めなければならないと言う。つまりは女性の労働力化である。そのためには日本人の意識を近代化しなければならない。たとえば、おせち料理を自分で作るなどという「遅れた」意識をやめさせ、介護も育児も家事全般を外注し、「人間関係、人生の選択などを確実に近代化させる」(くわしくは『家族破壊』参照)という。

 つまりフェミニストたちは日本人の意識を完全に男女の区別を否定するものへと「変革」しようとしているのだ。彼女らは日本人の繊細な感覚や美意識を邪魔なものとして告発し、家族同士の愛情を「不合理な」精神として否定する。それはまさに人間の「非合理的な」感情や人間性を否定する唯物論的共産主義そのものである。

 そうした「変革」のために意図的に作られているのが、一連のフェミニスト諸立法なのである。たとえば、介護保健法も、老人介護を家族の中で行う方式をほとんど全面否定する内容を持っている。今回の夫婦別姓法案も、そうした戦略の一環として出されていることを知らなければならない。単なる便利不便とか、家名がどうのこうのという次元の問題では絶対にないのだ。

 

離婚をし易くする狙い

 別姓推進派の真の動機として見逃せないのが、離婚へのハードルを低くしたいという動機である。

 離婚者にとって現行の同姓原理の戸籍制度は、そうとうに高い壁になっている。というのは、同姓制度だと離婚したときに姓がまた変わるので、世間に分かってしまうからである。彼女らは「離婚は恥ではない」と言っているけれども、本音では世間の目が気になると誰もが言う。

 私の知り合いで、とても離婚しなければならないほどに仲が悪いとは思えなかった夫婦が離婚した。驚く私に彼はこともなげに言った「別姓の事実婚でしたから、どうってことないですよ」と。別姓制度がおおっぴらに認められ、はじめから別姓ならば、離婚しても目立たないし、また心理的にも抵抗が少ないので、別姓制度は確実に離婚をしやすくする。 

 同様に婚外子差別撤廃も同じ動機から出ている。離婚したりはじめから結婚しないでシングルマザーになった者たちが、一人で子供を育てやすくしたいというのが真の動機である。

 しかし、本当に離婚をしやすくするのが、よいことなのであろうか。別姓にして離婚をしやすくしたスウェーデンで何が起こっているか、スウェーデンを模範にしてきたフェミニスト諸君はご存知ないのだろうか。

 

 六 離婚と犯罪の比例関係

    ──スウェーデンの国家的破綻を直視せよ

 

 スウェーデンでは離婚率が約五〇%だということだけはよく知られている。では犯罪率はどのくらいか、知っている人は少ない。犯罪数が人口当たりアメリカの四倍、日本の七倍。強姦が日本の二〇倍以上、強盗が一〇〇倍である(武田龍夫『福祉国家の闘い』中公新書、二〇〇一年、一三四ページ)。なんとスウェーデンという国は世界に冠たる犯罪王国なのだ。

 この驚くべき数字は高い離婚率や家庭育児の激減と決して無関係ではない。つまり家庭で子供を育てていないために親の愛情不足が生じ、それによってまず子供の犯罪が増え、やがて彼らが成人すると大人の犯罪が増える。共働きの増加と離婚率の増加と犯罪の増加は完全に比例しているのだ。

 つまり、夫婦別姓が離婚などの家族崩壊をもたらし、子供を犯罪化させるというのは、以上の統計的事実からも十分に予想できる事態なのだ。

 福祉の理想郷のように言われていたスウェーデンは、国民の精神が荒廃しただけではなく経済も破綻し、いまや最低の国になっている。それは個人単位の原理によって国作りをしてきた必然的な結果なのだ。

 私の計算によると、日本でも片親しかいない子供が重い犯罪を犯す(少年院に入る)率は、両親がそろっている子供よりも十倍も多いのである(くわしくは拙著『フェミニズムの害毒』草思社、二五四ページ参照)。

 関西弁護士会の調査によれば、重大犯罪を犯したものの大半は片親だとか家族が崩壊しているために、親の愛情が不足していたそうである。また内閣府の「青少年の社会的適応と非行に関する研究調査」によれば、補導経験のある少年は、自分を愛してくれる人が身近にあまりいないという結果が出た。

 こういう重大な事実や研究調査があるのに、性懲りもなく家族を破壊し個人単位思想を広めようとしているのが、別姓推進派である。そのために彼女・彼らは「家族の多様性」というスローガンを前面に出しているが、それはどんな欠陥家族でもいいじゃないかという意識で国民を洗脳しようとするものである。

 最新刊の福島瑞穂氏の『これも家族、あれも家族』(岩波書店)の題名そのものが、どんな欠陥家族も「同じ権利の」家族として認めよというフェミニストの思想を如実に表わしている。

 彼らは「選択的なんだから好きな人だけ別姓にすればいい」という言いながら、あらゆる姑息な詭弁を使って、国民を個人単位思想へと洗脳しようともくろんでいるのである。

 

 七 姓は「単なる形式」ではない

    ──同姓は家族統合の象徴である

 

 同姓制度が家族の一体感を強めるという主張に対して、同姓という「単なる形式」は一体感とは関係ないと反論する人々がいる。

 たとえば、政府の男女共同参画会議の基本問題専門調査会は「家族の一体感にとって大切なのは、同姓という形式ではなく、愛情や思いやりといった実質である」と言っている。

 この主張の間違いは、「形式」と「実質」を機械的に分け、しかも「同姓」を「単なる形式」だと理解しているところにある。

 まず強調しなければならないのは、世の中に「単なる形式」などというものは存在しないということである。形式は内容を補強し、内容は形式を必要としている。堕落や腐敗した場合にだけ形式と内容が乖離するにすぎない。

 夫婦同姓は決して「単なる形式」ではない。それは家族統合のための大切な象徴であり、また日本文化の基本の型である。(文化の基本型については本誌前号の「随筆」欄に書いたので参照されたい。)

 どんな集団や組織にも必ず統合のための象徴があり、たとえば学校や会社には記章があるし、どの国家にも象徴としての国旗と国歌がある。宗教も神社や卍(まんじ)や十字架といった象徴を持っている。それらは同じ集団に属するという意識を高め、きずなを強める働きをしている。

 象徴が人間に対して強い力を持っていることは、ユング心理学がつとに研究してきたことである。発達した精神は美しい象徴を作り出すし、人間は象徴に強く縛られ影響を受ける。個人においても心が大きく変化するときには、必ず心の中の象徴も大きく転換する。

 集団が持つ記号や象徴は「単なる形式」などではなく、心理的な結合を強めるために人間だけが持っている高度な精神的営みである。

 

 家族においても同様に姓が家族を統合する象徴の役割を果たしている。家族が同姓だということは、とくに子供に対しては大きな意味を持っている。子供の感覚や心は敏感で影響を受けやすいので、幼少時のしつけが大切なのであるが、それと同じ働きが姓の同一性についても言える。幼少時から家族が同一姓だということは、心の深いところに家族の一体感を浸透させる強い影響を与えていると考えられる。

 象徴というものは強い影響力を持っているので、たとえば家族の統合のための象徴を正しく選ぶことが大切になる。家族の象徴が分裂したり、複数あるという「親の別姓」状態は決して健全な心を育てないであろう。

 

 八 野田聖子議員の愚かな屁理屈 

      ──記号や象徴は下等動物の印か

 

 この問題について、野田聖子議員は『東京新聞』平成十三年十一月十一日付けのインタビューの中で次のように語っている。

 

 質問 依然として「家族の一体感がなくなる」などの反対論も、自民党内では強い。

 野田 何それって感じですよね。家族の一体感を作るのは「氏の統一」ではなく、それぞれの気持ち。同じ記号だから仲良くなるという下等動物じゃないでしょ、人間って。家族のつながりは、それぞれが相手を支えようという意欲とか、意識とか、協力の中でつくられるものだと私は信じている。

 

 この発言はじつに重大な問題を含んでいる。

 野田氏の「下等動物」とはどの動物を指しているのか。記号を使って仲良くなっている下等動物とは何か、ぜひ教えていただきたい。そもそも「下等動物」という言葉自体がずいぶんと差別的な響きを持っている。

 野田氏は「記号を使って仲良くなる」ことを「下等」だと言っているが、同じ記号や象徴を使うことによって一体感を高めることがどうして「下等」なのであろうか。むしろそれは人間に特有の高等な精神活動であり、動物には萌芽的にしか見られない。それは集団や組織を作って協力し合って生きなければならない人間に与えられた、大切な心理的働きである。

 たとえば、国旗とか国歌(国によっては国王、元首、天皇、大統領などの個人)が国民の統合の象徴になるという現象は、人間心理の自然なありようである。そういうことを下等だと言うなら、国旗・国家を持っている世界中の人間は下等だということになる。

 だいいち日本国憲法の第一条には「天皇は日本国民統合の象徴である」と書かれている。天皇という象徴をもつことよって国民がまとまり仲良くしようという憲法を野田氏は「下等」だと言うのであろうか。それは日本国民と日本国憲法に対する侮辱である。

 国や国民に統合の象徴が必要なように、家族にも統合の象徴は必要である。氏姓というものはそうした統合の象徴の意味を持っている。

 もちろん愛情は家族のきずなを強める大切な働きをしている。しかし同一の姓という象徴もまた心理学的なきずなを強める重要な働きをしているのである。まったく異なる範疇の愛情と象徴を比較して、どちらが重要かという議論をするのはナンセンスである。

 氏姓を「単なる形式」「単なる記号」だと考えるのは、型や記号が持っている重要な働きについての教養のなさを自ら露呈していると言わざるをえない。

 

 九 別姓は封建社会の特徴、同姓は近代化の産物

 

 別姓論者たちは、中世の北条政子や日野富子などの例を出して、「昔は別姓だった」「同姓制度などはつい最近出てきたことで、日本では本来は別姓だった」と言っている。中世の武士社会ではなぜ別姓だったのか、それが同姓になったことにはどういう意味があるのか考えてもみないで、ただ過去にあったということを持ち出すのは、歴史の意味を知らない無教養人のすることである。

 中世社会では、妻は出身の家族とのつながりが強く、所領をもとの家族からもらっており、初期においてはそれを娘に相続させることもできた。つまり出身の家族との縦のつながりが強く、現在の夫との横のつながりは相対的に弱かった。(出身の家の家名にこだわる野田議員の意識は、封建社会の家名意識と同じレベルと言わざるをえない。)

 それに対して、現在一緒に住んでいる家族のつながりの方を重視し、同姓にしたのが近代化の一つの成果である。人間は小家族になるにつれて、出自とは関係なく現在ともに住む家族のつながりを重視するようになり、同姓制度を採用したのである。それが近代的な精神にマッチした自然な変化だったのだ。つまり同姓制度は近代化の所産、歴史上の進歩的要素だと言うことができる。

 もちろん進歩と言っても、それが家父長制度と一体になっていることを指して言っているのではない。明治以来の同姓による一体感は父権制度による妻の権利の縮小や被支配とともにもたらされた。しかしその家父長制度も戦後は廃止され、夫婦はどちらの姓を名乗ってもいいという形で、同権となった。歴史は確実に進歩しているのである。あとは実質的に夫婦が男性の姓を選ぼうが女性の姓を選ぼうが、誰も気にしないというように、社会的な意識を変えていくように運動するのが、健全な社会変革の考え方である。ウソやゴマカシを使って圧倒的な少数派がミント日本人多数派のように見せかけ、クーデターまがいの法改悪をたくらむのは、どう見ても健全な民主主義国家の姿ではない。

 現行の同姓制度の進歩的な要素を評価しないで、歴史を逆にまわして、別姓を復活させれば男女同権が進むと考えるのは、歴史の進歩とは何かを知らない浅はかな考えである。

 

 十 日本文化の基本型を守れ

 

 別姓論者は同姓になったのは「たった百年前」だと言うが、ある観念が社会に定着するには百年は十分すぎる長さである。世代にして四世代、場合によっては五世代も経過している。それだけの時間がたった今、同姓制度は日本人の心にしっかりと定着している。

 今や家族同姓は日本人の意識の一部となり、家族のアイデンティティーのシンボルになっている。それは決して「単なる形式」ではなく、愛情のあり方にも当然影響を与える。同姓か別姓かは心のあり方と無関係ではないのである。それを壊すのは日本文化の型を崩す暴挙と言わなければならない。

 日本文化を破壊しようとするフェミニストの戦略は、別姓制度導入を突破口にして、婚姻制度そのものを崩すという方向に向いている。「事実婚を追認し、安易に結婚と離婚ができるようにする」「正規の婚姻によらないで子供を産むことを容易にする」「非嫡出子にも嫡出子と同じ権利を与える」「同性愛者のカップルを法律上の夫婦と認めさせ、法律上の権利を与える」等々。それらはすべて家族制度と婚姻制度のなし崩し的な破壊へと通じている。

  スウェーデンと同じ破綻への道を辿らないためにも、夫婦別姓は断固として葬り去らなければならない。