教育 15  

性差否定(ジェンダーフリー)教育はなぜ悪いか

 

性差は人類の文化的財産 ---- 男女まぜこぜ主義は自我の形成を阻害する


男か女かはアイデンティティーの根幹
 いま公立の小中高校を中心にジェンダーフリー教育が急速に広まっている。性差を意識させるような男女区別を取り払い、区別を感じさせるものを子どもの視野の中から排除することを目指している。
 そのために「ジェンダーチェック」と称して、男女で区別することをなんでも槍玉に挙げる。体育着やランドセルを同じ色にせよ、健康診断や体育も男女混合にせよ、名簿や下駄箱も混合にせよ、端午の節句や雛祭りは差別だと主張される。また男女別学を共学にせよとして、女子校・男子校を廃止して、共学にする運動が進められている。
 とくに、ジェンダーフリー教育のシンボル的・戦略的な意味を与えられて、精力的に広められようとしているのが男女混合名簿である。県や市町村の教育委員会が率先して指導している例も少なくない。同時に「くん」「さん」という呼び方もいけないと、「さん」に統一させる教師もいる。

そのうち「ぼく」「わたし」もいけないと言い出すのではないか。
 こうした男女無区別主義または男女まぜこぜ主義は恐ろしい弊害を生む危険がある。男女の区別をしないと、子供たちのアイデンティティーが健全に作られない、つまり自我が正常に発達しないからである。
 アイデンティティーとは、「自分が自分らしいと思えばよい」というような簡単なものではない。いくつもの層から成り立っている複雑なものである。
 たとえば、家族の一員だという帰属感。また自分は男なのか女なのか、どちらなのかという帰属感。そのほかにも日本人という帰属感。故郷や学校や会社への帰属感など、多くの帰属感の累積によってアイデンティティーが形成される。こういう同心円的な層をなす帰属感の集まりが、アイデンティティーの本質である。
 中でも、自分は男または女だという自己意識はアイデンティティーの基礎であり、たいへん重要である。これが揺らいで定まらないと心理的な性同一性障害に陥るばかりでなく、自我そのものが健全に形成されない恐れが出てくる。
 子供は三歳くらいから始まって思春期までには、自分が男または女の特性を持っていることを意識的に確信し、それなりの行動基準が確立されていなければならない。


子孫を残す行動に支障が出るおそれ
 男女の区別を教え、男は男としての、女は女としての、感じ方や行動をとれるようにしてやることは、人類が生きていくために絶対に必要なことである。
 男子を男らしく、女子を女らしく育てないと、価値観や考え方の面で自分に自信が持てず、無気力や閉じこもりの原因になりかねない。さらに、異性との関係がうまく作れないとか、セックスがうまくできないとか、同性愛に傾くとか、要するに生物として子孫を残すために必要な行動に支障が出るおそれがある。予想される障害は、心理面から本能行動まで多岐にわたり、深刻である。
 とくに男子の場合には、心理的に去勢されてしまい、男性の本能行動にとって必要な積極性を失ってしまう者が出てきている。単に本能行動ができなくなるだけでなく、男性としてのアイデンティティーを明確に持てなくなり、自信喪失、無気力、現実逃避などの弊害が出る。これらの害は男子に対してとくに大きくなるのである。
 こうした特徴は女子から見ると「男らしさ」や「頼もしさ」「力強さ」の欠如と映り、男性としての魅力を感じることができなくなり、軽蔑するだけで、利用する対象としか見られなくなる。
 また女子は「女らしさ」を失って言動が男性化し、下品になり、たしなみに欠け、優雅さを失うので、男子から見て女性としての魅力を失い、尊重の対象ではなく単なるセックスの対象と見られがちになる。
 双方がそれぞれ「男らしさ」と「女らしさ」を失う結果、互いに相手に対する尊敬や憧れる心理が薄らぎ、カップルを作る心理的動機が弱くなる。そのため身体的接触や性的交渉に対する抵抗感は減少するが、しかし相手の性に憧れたり、神秘的に美化したり、人格として認めて尊重し心理的な愛情を育てるという傾向は少なくなる。一口に言えば、男女のあいだの必要な距離感がなくなるのである。最近の世相を特徴づけるこうした現象は、性差を否定し、「まぜこぜ」を推進したための弊害と言うことができる。

男女の区別を意識させるのが文化の役目
 要するにジェンダーすなわち男女の文化的性差は人類の大切な文化的財産であり、人間にとって必要な智恵の結晶である。
 したがって、人類は男女区別を教え込むための文化的な仕掛けをいろいろに発達させてきた。もちろん、その具体的な姿は各部族や民族や地域によって異なる。しかしそれぞれに行事や儀礼や教育を通じて、男女の区別を際だたせ、教えこんできたのである。
 たとえば、イニシエーション(参入儀礼)と総称される儀礼は、男女それぞれが大人の男と女になる儀礼であり、男女別々に行われてきた。イニシエーション儀礼においては、子供は抽象的な「大人」になるのではなく、必ず「男の大人」か「女の大人」になるのである。
 文化が発達するということは、男女それぞれの文化が分かれて洗練されていくことであり、日本でも端午の節句と雛祭りがあるように、男女それぞれの儀礼や行事が明確な意味と美しい様式を伴って発達してきた。それらを通じて男女の区別を意識させ、男性または女性としてのアイデンティティーを確立させてきたのである。
 男言葉と女言葉の区別も、男女平等の遅れを示すものではなく、文化的発達と洗練の結果なのである。それをすべて家父長的な遺物であるかのように見るのは大きな間違いである。
 もちろん男女区別文化の中には男女差別が含まれているケースもある。地方には今でも冠婚葬祭のときの食事の席が男性用しかなく、女性は別室で弁当を食べるなどというように、差別の遺制が残っている。そうした差別的な文化は当然なくしていかなければならない。

 しかし全体として見るならば、男女の区別を際だたせる文化は、決して支配-被支配の関係を主として表わしているのではなく、人類の智恵と言うべきであり、必要な修正を施しつつ大切に守っていかなければならない祖先の遺産である。

両性の分業と協力の正しいあり方を教えよ

 男らしさと女らしさは社会的・文化的にのみ作られたものではなく、生まれつきの遺伝を基礎にしていることは、いまや脳科学によって充分に証明されている。この生まれつきの男らしさ・女らしさを自由に出すことが妨げられると、心は不当なストレスにさらされる。男女の違いを否定する教育は、子供たちの心に不自然なひずみを与える危険な暴挙と言わざるをえない。
 つまり、ジェンダーからフリーになろうとするのは大きな間違いであり、ジェンダーフリー教育は子どもたちから正常な心の発達を奪い取る危険がある。したがってこのままジェンダーフリー教育が広まると、五年後十年後には青少年の心の病が急増する恐れがある。
 それを防ぐためには、男女の区別を科学的に正しく教え、その上で両性の分業と協力の正しいあり方について考えさせる教育が必要である。ジェンダーフリー教育は、愚かを通り越して、子供たちの健全な心の発達を阻害する犯罪と言うべきである。
(『日本の論点』2003(文芸春秋社刊)p.736-739、「論点-75」「性差はなくす方がいいか」)

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