プロフィール

 

略歴

昭和12年(1937年)、長野県飯田市に生まれる。

昭和31年、東京大学・文科1類に入学。

昭和33年から36年にかけて学生運動(いわゆる60年安保)に参加。ブント派全学連の常任中央執行委員として活動。

 そのころ経験したことや、その後の思想遍歴については、『間違えるな、日本人!』(小浜逸郎氏との対談、徳間書店、1999.6。後述の「自著自薦」参照)の第1章で詳しく語っている。

昭和37年、東京大学法学部卒業。

昭和43年、東京大学大学院経済学研究科修了。経済学博士。

昭和45年、東京女子大学専任講師、以後助教授、教授となる。

昭和50年度から51年度にかけてドイツ・テュービンゲン大学に2年間留学。このときC・G・ユングの心理学に出会う。以後、心理療法を学んで、主に青少年を中心に心理療法・カウンセリングに従事。その経験からベストセラーになった『父性の復権』が生まれた。

昭和63年度から平成元年度にかけてスイス・チューリッヒ・ユング研究所に1年間留学。心理分析を受けると同時に、「日本神話」についてドイツ語で4回の連続講義を行った。

 平成17年3月31日に東京女子大学を停年退職。

 現在の専攻は深層心理学、臨床心理学。とくにユング心理学。

 

著書

『ウェーバー社会学の方法と構想』(岩波書店、1970)

『スターリニズムの歴史的根源』(御茶の水書房、1971)

『ウェーバーの思想と学問』(共著、風媒社、1972)

『反進歩の思想』(木鐸社、1973)

『強さの思想と現代文明』(福村出版、1975)

『ツァラトゥストラの深層』(朝日出版社、1979)

『ユング』(清水書院、1980)

『無意識の人間学』(紀伊国屋書店、1981)

『ユング心理学の方法』(みすず書房、1987)

『ユング心理学の応用』(みすず書房、1988)

『尊と巫女の神話学』(名著刊行会、1990)

『日本的な、あまりに日本的な』(三一書房、1992)

『囲碁の深層心理学』(三一書房、1993)(改訂増補版を文春新書で出版)

『囲碁の心理学的上達法』(三一書房、1994)

『囲碁の心理的タイプ』(三一書房、1995)

『ユング心理学と日本神話』(名著刊行会、1995)

『囲碁の心理クリニック』(三一書房、1996)

『父性の復権』(中公新書、1996)

『囲碁入門革命』(誠文堂新光社、1996)

『主婦の復権』(講談社、1998)

『図説ユング』(河出書房新社、1998)

『ユング思想の真髄』(朝日新聞社、1998)

『父性で育てよ!』(PHP研究所、1998)

『間違えるな、日本人!』(小浜逸郎氏との対談)(徳間書店、1999)

『フェミニズムの害毒』(草思社、1999)

『母性の復権』(中公新書、1999)

『母性崩壊』(PHP研究所、1999)

『無意識への扉をひらく─ユング心理学入門 1』(PHP新書、2000)

『国を売る人びと』(渡部昇一氏、八木秀次氏との鼎談)(PHP研究所、2000)

『家族破壊』(徳間書店、2000)

『心のしくみを探る─ユング心理学入門 2 』(PHP新書、2001)

『心の不思議を解き明かす─ユング心理学入門 3』(PHP新書、2001)

『立派な父親になる』(童話屋、2001)

『家族の復権』(中公新書、2002)

『囲碁心理の謎を解く』(文春新書、2003)

『ユングと学ぶ名画と名曲』(朝日新聞社、2003)

『日本神話の英雄たち』(文春新書、2003)

『日本神話の女神たち』(文春新書、2004)

『父親のための家庭教育のヒント』(日本教文社、2004)

『なぜいま教育基本法改正か』(共著、PHP研究所、2004)

『家庭教育の再生』(編著、学事出版、2005)

『ユングで分かる日本神話』(文春新書、2005)

『家族を蔑む人々─フェミニズムへの理論的批判』(PHP研究所、2005)

 

雑誌の編集発行

『ユング研究』1〜10号(1990〜1995)(詳しい内容紹介は本HPの「C・G・ユング研究」の中にあり)

 

訳書

M・ウェーバー『理解社会学のカテゴリー』(岩波書店、1968)

M・ウェーバー『ロシア革命論』(福村出版、1969)

M・ウェーバー『政治論集』1(共訳、みすず書房、1982)

C・G・ユング『元型論』(紀伊国屋書店、1982)

C・G・ユング『続・元型論』(紀伊国屋書店、1983)

E・ノイマン『意識の起源史』上(紀伊国屋書店、1984)

E・ノイマン『意識の起源史』下(紀伊国屋書店、1985)

C・G・ユング『タイプ論』(みすず書房、1987)

C・G・ユング『ヨブへの答え』(みすず書房、1988)

C・G・ユング『心理療法論』(みすず書房、1989)

C・G・ユング『個性化とマンダラ』(みすず書房、1991)

H・バルツ『青髭』(新曜社、1992)

C・G・ユング『連想実験』(みすず書房、1993)

P・シェレンバウム『愛する人にノーを言う』(共訳、あむすく、1994)

C・G・ユング『転移の心理学』(共訳、みすず書房、1994)

C・G・ユング『元型論』(増補・改訂版) (紀伊国屋書店、1999)

E・ノイマン『意識の起源史』改訂新装版(紀伊国屋書店、2006)

 

 

私の思想遍歴

 

 長いあいだの沈黙を破って、最近はじめて、自分の若いころからの思想遍歴について語った。その部分を次に披露する。一つは『国を売る人びと』(PHP研究所、平成12年) (渡部昇一氏、八木秀次氏との鼎談)の「あとがき」であり、いま一つは『間違えるな日本人 ! 』(徳間書店、平成11年) (小浜逸郎氏との対談)である。なお『フェミニズムの害毒』(草思社、平成11年)の「あとがき」も自己紹介の意味を持つので、ここに追加する。

 

『国を売る人びと』(PHP研究所、平成12年) (渡部昇一氏、八木秀次氏との鼎談) 「あとがき」

 

 何かをよりよくしよう、という姿勢で、私はこれまでの人生を生きてきた。自分の状態をよりよくしよう、家族の状態をよりよくしよう、国のあり方をよりよくしよう、人類のあり方をよりよくしよう。  

 その中で間違いもたくさん犯した。しかし開き直って言えば、間違いを犯さない人間などいない。大切なのは「何かをよりよくしよう」という姿勢だと思う。それが一番の基本であり、他の間違いは修正することができるが、基本的な姿勢は一部修正すればよいというものではなく、あるかないかのどちらかである。

 

 このように言うと、「よりよいものとは何かが問題である。一人よがりによりよいものを押しつけられるのはご免だ」という意見が出てきそうである。そのとおりであるが、「よりよいもの」を巡って意見をたたかわすのは、「よりよいもの」を目指すという精神があって初めて可能になる。やはり「よりよいもの」を目指す姿勢こそ大前提でなければならない。

 

「よりよいもの」を目指す中で私が犯した最大の間違いは、ソ連・中国などの社会主義国を本当に理想を追求している国だと思い込んだことである。しかし幸いなことに、その間違いに二十歳前後という比較的早い時期に気づくことができた。社会主義と言われる国々は、人間性を否定する最悪の独裁国だと気づいたのである。

 

 そのとき気づいたもう一つのことは、反体制の運動をしている人たちの大部分が、決して「何かをよりよくしよう」という理想から運動をしているのではなく、ただ秩序や権威を壊したいという心理的な動機に支配されているという事実である。

 

 それでも六十年安保のときはまだ理想主義みたいなものの、いわば「何かをよりよくしよう」という動機が、運動に参加した学生たちの中にかなり働いていたと思う。しかし七十年前後の全共闘運動の中においては、そういう動機はまったくというほどに影を潜めて、ただ破壊衝動だけが前面に出てしまった。同時期の中国の文化大革命しかり、カルチェラタンに代表される世界的な学生の反乱しかり、すべて「そこにある既成の権威を破壊したい」という動機が支配してしまった。

 

 よりよいものを建設するために悪いものを破壊するというのではなく、破壊のための破壊である。そのような破壊衝動の背後には、ある種のコンプレックスが作用していたと思う。そのコンプレックスは反権威主義と結びついており、「なんでも反対」主義となって現象した。

 

「何かをよりよくしたい」という精神と、「何かを壊したい、崩したい」という精神とは、対極にある。私は前者の精神を持っていたので、後者の人びととは激しく対立するようになった。後者とは、社会主義者、マルクス主義者、人権派、フェミニスト等々の名で呼ばれる人びとである。

 

 そうなると、彼らは私を「保守反動」と呼ぶようになった。また「転向した」ともなじるようになった。私は「保守−革新」「反動的−進歩的」という座標軸そのものを超えている。また初めから「何かをよりよくしよう」という動機で生きており、その意味では「転向」も変化もしていない。何が悪いのかという現実認識が変わったり、また手段が直接行動から言論中心へと変わっただけである。私の本質はなにも変わっていない。

 

 私は保守派に「なった」のではなく、初めから「よいものを守る」という意味の「真の保守」であった。私が自称している「倫理保守」である。その意味でなら、現実の保守の中にも批判したくなる人びともいる。保守と呼ばれる人びとの中にも、自己利益をはかるために倫理に反することをしたり、権力を利用する人たちがいるからである。

 

 ここで座談をさせていただいた渡辺昇一氏と八木秀次氏は、私の名づけた「倫理保守」の範疇に属する人たちであると私は認識していた。実際に親しく話を交わす機会を得て、あまりにも考え方が一致しているのに驚かされた。これからも協力し合って、日本を、また世界を、よりよいものにしていきたいと思っている。

 

 

『フェミニズムの害毒』(草思社、平成11年) 「あとがき」

 

 われわれ夫婦は学生運動の中で結婚し、結婚式もやらず、籍も届けなかった。愛情が第一ですべてだという考えからである。このごろの言葉で言えば「学生結婚」の「事実婚」である。もちろん親からは自立し、仕送りなど一切もらわず、自分たちで働いて生活していた。個の自立ではなく、夫婦単位で自立していたと言っていい。夫婦の関係は完全に対等であった。そしてそのときどきで適切な分業をしながら助け合ってきた。はじめのうちは妻が働いてくれて、その後は二人で働いていたが、子どもができて私が就職したころから妻は徐々に専業主婦になった。われわれはウーマン・リブとかフェミニズムという言葉が流行する以前から、完全に男女平等を実践してきたのである。

 結婚して数年たって、子どもをもてる状況になったときに籍を入れた。親の思想によって子どもに無用な精神的圧迫を与えてはいけないと考えたからである。こうして結婚以来四十年間、互いに愛し合い、いたわり合って生きてきた。そして協力し合って子どもを立派に育てあげた。子どもを大切に正しく育てることが、人生でいちばん価値あることだと考えてきた。

 われわれ夫婦はこのような人生を歩んできた。この人生に対して、「古い」とか「新しい」とか批評できる者がいるだろうか。われわれの結婚の形態は、現在実践しても「新しい」と言われそうだが、四十年前にはまさしく革命的形態であった。しかしいまどき愛情の尊さを信じ、子どもを大切に育てることがなによりも価値のあることだと考えているのは「古い」型の人間と言われるかもしれない。われわれ夫婦は古さと新しさがミックスされた人間である。私の名前の印象から、「古い」道学者のようなイメージを与えようとした者もいたが、人間とはそんなに単純な存在ではないのだ。われわれの人生を見れば、「古い」とか「新しい」という言い方がどんなに無意味かわかるだろう。

 この本は夫婦二人の共同作業の成果である。文章にしたのは私だが、内容は二人でつねに研究し合い、討論し合ってきた。しかし共著にしなかったのは、「別にそれほどのことはしていない」と妻が固辞したからである。もともと妻は研究者になろうとしていたのだが、「私にはたいした才能はない、それよりあなたの学問を助けた方がいい結果がでるし、世のため人のためになる」と言って、内助の功に徹してくれた人である。彼女は「社会的に派手に活躍するばかりが立派とは思わない。陰で手助けするのも立派な人生だと思う」と言う人間である。「価値の多様化」を言い、「多様な家族」を肯定するフェミニストは、こういう妻の人生を「夫に従属している」と言って軽蔑するのだろうか。

 われわれ夫婦は根っからのフェミニストである。だからこそ、このごろのフェミニズムの頽廃と堕落と逸脱を許せないのである。われわれが目指すのは、やみくもに性別分業を否定し、保育園神話にうつつをぬかし、母性と家庭を崩そうとする硬直した愚かなフェミニズムを廃棄し、真の男女平等を打ちたてることである。

 男女が対等のかたちで協力し合える社会の実現を願う人びとに、ぜひとも本書を読んでいただきたい。

 

 

『間違えるな日本人 ! 』(徳間書店、平成11年) (小浜逸郎氏との対談)

第1章 六〇年安保から得た思想的課題

 

 六〇年安保闘争のなかから生まれた問題点

 

林 これから小浜さんと現代日本の思想状況を点検、吟味してみたいと思うわけですが、そのためには、お互いの思想的なスタンスとか、あるいは根源的な考え方について基本的な了解をしておかなければならないでしょう。

 

私と小浜さんとはちょうど一〇年の年齢差があります。それは戦後史の大きなエポックの中で考えるとちょうど六〇年安保闘争と七〇年全共闘の違いともいえます。そうした二人の思想遍歴の原点とか、あるいはそのプロセスを必要最低限出し合って、そこからこの日本における思想問題をどういうふうに汲み取っていくのかについて話し合ってみたいと思います。

 

 まず、私の話をしたいと思いますが、実は私は自分の思想遍歴についてこれまで書いたり語ったりしたことがありません。本当はそれでは済まないのですが、あまり生々しい思想活動や発言をしてこなかったので、それで済んできました。

 

 ただ、私がウェーバー研究からユング研究に移ったことについては、人にはよく訊かれます。ユングとウェーバーでは全然違うとだれでも思っていますから、そういう質問をされるわけです。ですからどこかで一度話したいとは思っていました。

 

 私の思想遍歴の原点は、六〇年安保の全学連の学生運動です。それも単にデモに参加したというようなことではなくて、最高指導部で常任中央執行委員として活動しましたから、言ってみれば参謀本部にいたような感じです。当時、全学連の中央執行委員会の委員は三〇人ぐらいいたのですが、その数字は地方の人も含んでのことですから、東京で書記局に常任で運動を指導していたのは五、六人しかいませんでした。その中の組織部長でした。

 

 組織部長というのは、各大学の自治会の指導部に理論指導をしたり、組織的な指導をしたり、全国を回って歩くわけです。学生運動というのは労働運動と違って、ノルマで何人動員しろという指令を受けて、それで動くというようなものではありません。まったく一〇〇パーセント自主的な原理で動くものですから、理論闘争をして、要するにアメリカ帝国主義はいかに悪いかとか、日本政府はどんなに悪いか、だからそれと闘わなければならぬということを純粋に理論的に説得して、つまり大衆討論を組織していくわけです。

 

 具体的にはクラス討論を行って、各クラスの学生を組織して、デモに参加するという形になります。そのためには、各自治会の指導者、各クラスの委員の人たちを集めて、まず理論武装して、その人たちがクラスに帰って、クラス討論を組織して、大衆運動にするという、そういう原理なんです。だから指導部を育てなければならないわけで、その役目を私はやっていたわけです。

 

 その中で一番大きな仕事は、愛知県学連を共産党支配からひっくり返して、ブント支配にしたことです。当時、全国的に見ると、愛知県を除くすべての県でブントが学連を握っていました。そこで私は名古屋に一年くらいいて、全部ひっくり返した。名古屋大学教養学部で下からブントの組織を作って自治会の執行部を取り、県学連のレベルでは共産党の指導者たちをオルグして大半をブントに入れてしまった。共産党の牙城を奪われたというので、私は恨まれていたんです。あるとき共産党の幹部と風呂屋で一緒になったら、そのときツケられていたんでしょうね。しばらくして警察が私のアパートを訪ねてきました。

 

 オルグ活動だけでなく、ときには実戦の指揮もしました。例の岸首相の渡米阻止で羽田に集まったときに、私は最高指揮官でした。その中で幹部はすべて、もちろん私も逮捕され、刑務所に入ったりもしました。

 

 なぜそんな学生運動をやることになったのかということは、なかなかうまく言えなくて、難しいんですが、ああいう運動に参加する人には、大きく分けると二つのタイプがあります。

 

 非常に純粋に、理念的というか、理想主義というか、そういうことから入る人と、自分の感性というか、あるいはコンプレックスというか、そういうものが強くて入る人の二つがある。もちろん理想とか正義を考えている人にも、その背後には心理的なものがあるのは当然ですし、また、感性から入る人が、理想を持っていないということではないわけですが、どちらにウエートがかかるかによって、大きな違いが出てきます。

 

 私はいわゆるロマンチックな青年だったものですから、理想とか理念から入っているわけです。じつは私は子供の頃から政治家になりたいという夢を持っていました。三国志の玄徳に憧れたり、プラトンや孔子の哲人政治みたいなものに憧れていました。世の中に恨みつらみがあるとか、ひどい目にあったということから思想や政治に入ったわけではありません。一口に言えば理想の社会を築こうということです。そのモデルがロシア革命、中国革命で、それに憧れていたわけです。ですからロシア、中国の社会主義は善で、アメリカ帝国主義は悪であると、非常に単純明快で、全然疑っていなかった。いまから考えるとばかみたいな話ですが、当時の雰囲気というのは、国民の半分は社会主義はよいものだと思っていました。

 

 我々の運動は言ってみれば大衆運動です。どれだけ大勢の大衆を動員するかということが大事だと思っていたわけで、実際にものすごく動員力がありました。何か日を決めて運動を起こすと、東京だけでなく全国の主要な地方都市でもすごい大衆運動が起こった。全学連だけでも三〇万人集めました。

 

 ご存じのように一時は国会を取り巻いて学生がデモをすると市民が呼応するという構造ができ上がっていました。だから我々は前衛だと言って誇りにしたり、威張っていたわけですが、事実そうでした。国会を三〇万人、四〇万人が取り巻いて、麻痺してしまうという状況になって、我々はこれは革命の前哨戦だといい気になっていたわけです。その前提は、社会主義は善で、資本主義は悪であるという考えでした。

 

 しかしだからといって日本共産党を支持していたわけではありません。そのとき既に我々は共産党に見切りをつけていました。共産党のどこがだめかというと、一つには公式主義です。それから官僚主義です。共産党は組織を増やすことしか考えていなかった。本気で革命をやろうとは全然思っていない。言ってみれば革命家を職業にしているんです。職業革命家というのはみんなそうですが、その職業が官僚化した職業になってしまって、本当の革命家ではなくなっている。

 

 ですから、運動があるとそこへ出かけていっては、運動している青年や良心的な人をみんな共産党に入れて組織化することしか考えていない。だから革命と組織とどちらが大事なんだということです。それで嫌気がさして共産党とは袂を分かって、我々は本気で社会主義の実現を目指していたわけです。

 

 ところが、共産党と分かれた直後、あるいはその過程の中で、だんだんショックな事実が明らかになってきた。我々は内心どこかおかしいとは思っていたけれども、ソ連の社会主義というのは、社会主義ではないのではないかということがだんだんわかってきました。スターリンの死後、自由化で情報が漏れてくるし、それ以前に一番おかしいと思ったのは、第二次大戦後のシベリア抑留の問題です。捕虜となった日本兵を連行して強制労働させるなどということは、社会主義ではありえないことなんです。第一、日本の人民が悪いわけではない。むしろ日本の人民を解放して助けなければいけなかった。それを強制労働させるなどということは、社会主義ではありえません。

 

 それから、ソ連が日本の漁船をだ捕するようになった。これもありえない。人民を苦しめるだけですから、社会主義の理論から言ってもおかしい。

 

 トロツキストの人たちが、ソ連は社会主義じゃないということを言いはじめた。では何なのかといったら労働者国家だと彼らは言うが、労働者といっても、全然権力がないし、抑圧されているだけです。いろいろ議論がありましたが、ともかく社会主義ではないし社会主義に向かっているわけでもないということがわかってきた。

 

 それがわかってからどうなったかと言うと、大したことでなかった人もいたけれども、私はものすごくショックを受けました。なぜ、どこにショックを受けたかというと、自分もだまされていたけれども、人をだましていたということです。

 

 ソ連を中心にした社会主義体制というのは、コミンテルンというかたちで全世界の共産党を指導していたわけです。そのコミンテルンの背後にだれがいるかというと、スターリンがいたわけです。つまりスターリンの権力的利益のために、全世界の共産党やその周辺に集まっている良心的な人たちを全部利用していた。それだけのことだったわけです。革命は輸出しないと公然と言っていました。本当に正しいならば、革命は輸出すべきなんです。そういうふうに当時私たちは思っていた。しかしスターリンを中心とした指導部は、理想社会の実現などは、何も考えていない。自分たちの権力を守ることしか考えていなかったのです。

 

 そして、全世界の本当に真面目に社会主義のために働いている人たちが次々に犠牲になっていきました。典型的なものにはローゼンバーグのスパイ事件があった。そのように世界中、共産党はもちろん、社会主義に憧れるロマンチスト、インテリ、良心派を全部利用していたにすぎなかったわけです。スターリンの基本戦略は、資本主義国の中の反体制派を使って騒動を起こして、混乱させ、その力をそぐ、ということだけです。

 

 私たちはそれまで社会主義は正しいと思っていました。例えば朝鮮戦争が勃発したときは中学生でしたが、若い人気のある先生が、これはアメリカの侵略だと言う。ただそう決めつけるだけでなく、まことしやかに、開戦当時からの事実を全部積み重ねて、アメリカが侵略したとしか考えられないというようなことを言うわけです。ものすごく丁寧に詳しく実証するので、中学生の頭ではとても批判的には聞けない。なるほど、そうだと思ってしまった。

 

 いまでは、北朝鮮のほうが先にしかけたことがわかっていますが、当時は真相はまったくわからなかった。もちろん韓国、アメリカ軍のほうも予測していたように互角に戦っているわけです。もしかしたら、北が始めるという情報をつかんでいて、向こうが始めたら、その機に乗じて北を統一してしまえということだったかもしれませんね。ともかく、アメリカ帝国主義は悪、社会主義は善だから、アメリカがやり始めた戦争だと思いこまされていました。

 

 しかし、大学生になって実際に革命運動をやってみると、いろいろなことがわかってきました。ソ連は理想的な国でもないし、社会主義でもない。むしろ大変な独裁国なんだということもわかってきた。トロツキストはまだ社会主義に「戻る」希望があると、労働者国家だからと言っていました。だけど我々は希望はないと判断したわけで、そこでまたトロツキストと分かれるんです。

 

小浜 トロツキストは、世界一国、世界同時革命と言っているわけですね。

 

林 世界同時革命というのは正しいんですよ。世界同時でなければ、革命ももちろんできない。一国社会主義というのはありえない。それから、資本主義を飛び越えて革命をするということもありえない。この二つを否定したのがスターリンです。トロツキストの言っていることは正しかった。スターリンはマルクス主義の常識を覆して社会主義を実現するんだと言いましたが、結局実現できなかった。そういうことはありえないんです。

 

 自分も思想にだまされたが、その自分が人もだましていた

 

林 私が一番ショックだったことは、さっきも言いましたが、自分もだまされていたけれども、大勢の人をだましていた。だから思想というのは、自分もだまされるけれども、人をだましている。これが私の場合は父親の経験と重なるんです。私の弟は、父親は軍国主義者だと言っているんですけれども、私は軍国主義者ではないと思うんです。軍国主義とは、軍事力がすべてで、戦争で国家の利益を獲得しようとする主義のことですが、あのころの庶民はほとんどそうですが、戦争は日本を守るためと思いこまされ、一生懸命戦ったんです。私は父親の名誉のために言っておきたいのですが、絶対に軍国主義者ではなかった。

小浜 校長先生でいらしたんですね。

林 そうなんです。丸山真男の本によると、日本ファシズムの一番末端のリーダーは学校の先生とか田舎のインテリがやっていたと書いてあるんですが、まさに父親はその役割を担ったわけです。しかし軍事力ですべてを解決せよという軍国主義から戦争に協力したわけではありません。戦争は、日本のための戦争、日本が生き残るための戦争だと、当時の日本人はほとんどの人がそう思い込まされていた。よほどの情報があるか、最初から戦争は嫌いだとか、最初からマルクス主義の立場に立っているとか、キリスト教の信仰を持っている人は、それはおかしいのではないかと思ったけれども、それはたまたまその人が幸運にもそういう信仰や思想を持っていたからにすぎないので、別にその人が偉かったからではありません。そうでない普通の人は、もちろん情報など何もなかった。そして日本のために身を捧げようと思っている非常に真面目な人たちが、一番引っかかってしまったんです。

 

 私の父親が戦争中に何をしたかというと、学校の先生でしたから、教え子を送り出したわけです。日本のために働けと、戦争に送り出したし、満州開拓に送り出した。そして教え子たちは死んでしまったり、シベリアに抑留されたりした。自分自身は真面目に一生懸命日本のためを思ってやったつもりだったが、実際には人をだましてしまった。だましたという言い方はちょっと間違っているかもしれませんが、人を不幸な目に遇わせてしまっているわけで、結局自分も父親と同じことをやったということに気がついたわけです。

 

 それで、なぜ間違えたのかということを自分は一生かけてやらなければいけないとそのとき思いました。刑務所にも入っているし、もちろん就職もできませんから、学者になって、思想的な総括をしなければいけない、これを自分の一生の仕事にしようと学者になったんです。

 

 運動の挫折からモラルの崩壊が始まった

 

林 ところが、学者になるまでが大変だった。大学院を出ても、共産党に徹底的に意地悪されて、就職できなかった。その前にそもそも大学院に入れない。大学院の試験も、筆記試験には受かるんですが、面接になると、私だけ落とされてしまった。東大の経済学部では面接で落としたことがそれまでなかったのにです。

小浜 反代々木系ということでですか。

林 いや、そんなに単純ではないんです。当時の東大経済学部の、特に私が受験した理論経済学コースでは、代々木系と反代々木の宇野経済学とが激しく争っていました。我々ブント、全学連、新左翼はこの宇野経済学に依拠していましたが、私はそれを批判していました。私はその頃、相当に生意気な青年で、面接で宇野弘蔵の一番弟子みたいな鈴木鴻一郎と論争してしまいました。あとで恐らく彼は「林はわかっていないから落とせ」という発言をしたんでしょうね。共産党系は内心ニヤニヤしていただけで、もちろん弁護などしてくれない。それで一年浪人ですね。せっぱつまっていたから、ものすごく辛い経験でした。

 

 後でもう少し詳しく触れますが、私は全学連の中でも少数派でした。ブントの中でも少数派だったんです。当時の全学連は革命のためには手段を選ばずという人たちが多数を占めていましたが、私はそれはおかしいと言って批判し、モラルを高くしろという立場でした。マルクス・レーニン主義というのは、革命のためには手段は選ばなくてもいいと言っていましたが、実はレーニンもモラルを高めるということと、手段を選ばずということを、使い分けているわけです。

小浜 レーニンは政治家ですからね。

林 ブルジョア的道徳はいけないけれども、プロレタリア道徳を確立しなければいけいないと言っているんですね。だからどちらにも解釈できるから、両方の派ができてしまうわけです。

 

 いま言ったようにモラルを重んじるという真面目派と、革命のためには手段を選ばない、何をやってもいいんだという派があったわけですが、運動がうまくいっているときはそんなに対立はないんです。ところが、運動の末期、六月一五日に樺美智子さんが死んだ事件の後から、もうこれはうまくいかないということになってきました。運動は失敗なんだということになった。

 

 結局ああいう政治運動は必ずいつかは挫折して、失敗するんです。共産党のように組織を守るとか組織を維持する、ふやすということを目的にしている限り、絶対挫折はありません。しかし我々の運動は権力を取るということが目的でした。しかし権力は絶対に取れないわけです。大衆運動をいくらやっても、そうした権力にはならない。そういう挫折感がありました。さきほど言ったように、私の挫折感は少し意味が違いますが、大部分の人は実際に成果が出ないということで、敗北感を持ちはじめたわけです。

 

 それで、このままではだめだから何かしなければならない。突破口を開こうということになった。運動はもうしりすぼみになって、大衆動員力もなくなってきている。同じことをやっても大衆はだめですからね。いくらやっても安保改定はなされて、自民党政権は依然として続いているわけですから。そのときに実に奇妙なことが起こったんです。

 

 私は運動そのものの根源を問い直さなければだめだという立場でしたが、そのままの形で運動をもっと先鋭化してやろうという人たちが出てきた。その人たちが何をやったかというと、いままで守ってきたものを崩そうとしたんです。それで一つは右翼と結んだわけです。唐牛健太郎が田中清玄と手を組もうとした。

小浜 有名な話ですね。

林 そういう連中が出てきたのと同時に、金のつくり方がものすごく汚くなったんです。金はそんなに要らないはずですが、彼らは生活の基盤を全部投げ捨てて運動に参加していたので、自分たちが食っていくのに金が要るわけです。私は、真面目でしたから、依然として家庭教師などのアルバイトをしながら、自分のものは全部自分で稼いでいた。下っ端の運動家はみんなそうでした。私は幹部でしたけれども、そういうふうにやっていた。当時、私は家から仕送りを受けていないんです。大学に入ってからは自分で生活費を稼いでいた。ところが、連中は、うまいこと金をせしめようとしたんです。いろいろなところから騙し取った。

 

 一番ひどくて、後々まで影響を持ったのは、鶴見俊輔をだましたことです。当時、鶴見俊輔は大学を退職して、具体的な金額は知りませんが、退職金が入ったので、彼らはそれに目をつけたんです。鶴見俊輔は当時、心情的に全学連に加担していました。そこにうまいこと取り入って、借りるということで五〇万円くらいらしいんですが、だまし取ったんです。

 

 当時の五〇万円というと、いまの感覚だと五〇〇万円ぐらいの感じですよ。名目は借金ですが、返すつもりは毛頭ないわけです。私はそうした動きからは完全にはずされていた。林に言ったら反対するし、ぶち壊すだろうからということで、彼らが勝手にやったわけなんです。それでずっと後までこのことを知りませんでした。

 

 それで鶴見俊輔が怒って、「全学連の連中はけしからん」というようなことをどこかで言って、別に私のほうから「私は加担していません」と一々弁解することもないので黙っていましたから、私のことも同じ穴のむじなだと、いまでも思っているだろうと思いますが、実は全然違うんです。

 

 じつは私も小さな被害者で、私が逮捕されたときに、高校のある後輩が、わざわざ書記局を訪ねてきて、私にとかなりの金額をカンパとして預けたんですが、それは誰かが着服して私の手には戻らなかったんです。その事実はずっと後になって知りました。

 

 これはちょっと余談でしたが、運動の最終段階に至って、我々は完全に分裂していたということです。分裂と言っても、私のようなものは数から言ったら圧倒的に少数派なんです。しかし、指導部の中では少なかったのですが、一般の活動家は私のような真面目派のほうが多かったんです。そういうことを手段を選ばずやっていいなんていう人は、むしろ運動の中に入ってきません。

小浜 ブントが中核派と革マル派に分裂したのはそのころですか。

林 そうです。手段を選ばずというか、暴力化した連中が中核と革マルとして残ったんです。

小浜 政治には汚いことはつきものだというような、一種の合理化の論理によって……。

林 暴力的なことをやっても構わないということになって、そこで一つのたががはずれたというか、チェックポイントがなくなったんですね。

 

 我々が大衆運動をやっていたときには、暴力は振るわないということが絶対的な基準だったんです。そういう歯止めをかけていたのですが、それが崩れてしまった。我々はそこでもうこの運動はだめだということで見切りをつけました。そして、見切りをつけなかった人たちが中核と革マルになったということだと思います。

 

 さきほどの話に戻ると、だから私は学問の世界に入って、そこで思想的な営みというものは何なのかを考えようということでやったわけです。

 

 最初は私はマルクス主義経済学をもっときちんとやろうと思って、経済学研究科の理論経済学に入ったんです。ところが、理論経済学は共産党と宇野経済学と二つしかなくて、両方がけんかしていました。それで一年目は落とされてしまった。

 

 二年目は、今度は私は面接のときに黙ってにらみつけていたんです。そうしたら宇野経済学の鈴木鴻一郎が、「林君、今年はおとなしいね」と皮肉っぽく言った。それでも私はじっと黙ってにらみつけていた。筆記試験は去年よりいい点だというのは自分でわかっていたから、面接で落とす口実になるようなことを言わなければ、落とせないんです。去年落としているから、二度も落とすほど度胸はないだろうと思って、抗議の意味を込めて黙ってにらみつけてこわい顔をしていた。そうしたら合格になったんです。

小浜 そのころからこわかったんですか(笑)。百戦錬磨の経験もおありですしね。

林 革命運動なんかやっていたら、顔もこわくなりますよ(笑)。

 

 それで、入学できたのはいいんだけれども、共産党と宇野経済学が対立しているために、私の居場所がないんです。何があろうと研究すればいいと思っていたのが甘くて、これはだめだというのがわかったわけです。結局、思想がからんでいるところはどこかの派に入らないとやっていけない世界なんです。いまでもそうですが、嫌な世界ですね。

 

 人間の内面の問題にぶつかったときに出会ったウェーバーとユング

 

林 それで私はどうしようかと考えたんですけれども、マルクスは十分勉強したし、もういいやと。どこがだめなのかも大体わかってきた。ソ連の現実を見てもわかりますが、要するに人間がわかっていない。人間のどこがわかっていないかというと、人間の内面の部分がわかってないんです。人間というのは、ノルマを与えたら働くと考えて、計画経済をやったわけですが、人間は、そのとおり動けと言ったって動きません。だからソ連経済はつぶれたわけです。

 

 では、人間は何で動くのかといったら、内面的な動機なんです。内面的な動機をやっている人は誰かということで、私がその当時目をつけたのがマックス・ウェーバーなんです。運がよかっただけなんですが、いいところに目をつけたと思うんです。フロイトなどもありましたが、まだマックス・ウェーバーは流行っていなかった。少し後になって流行ってくる。同じように経済だけではだめだ、観念の世界も重要だといって、それをフロイトの視点からやったのが吉本隆明ですね。私はそれをウェーバーの視点からやった。どちらの視点でやるかによって、かなり大きな違いが出てくると思いますが、そのことは後で話します。

 

 マックス・ウェーバーは、「内面的、心理的な利害関心」という言葉を使います。そういう面を非常に重視して、歴史が動いていくときに内面的な、あるいは宗教的なものがどんなに大きな役割を果たすかという、そういう考え方です。

 

 マックス・ウェーバーというのは歴史学だとか法律、経済を全部やった人ですが、実は宗教社会学という膨大な研究領域がありました。宗教社会学の根底にある方法論というのは、理解社会学なんです。人間の内面を理解することによって、歴史とか社会現象を理解しようという方法です。私はそれに目をつけたわけです。これだと思って、ウェーバー研究を大学院でやりました。当時私が訳したウェーバーの『理解社会学のカテゴリー』(岩波文庫)は二五年間、毎年五〇〇〇部出て、よく読まれたようです。

 

 マックス・ウェーバー研究では大塚久雄という偉い先生がいて、私の恩師になった人ですが、この大塚先生について勉強した。そして私が大学院を出るころにウェーバー・ブームがやってきて、学生でウェーバーを知らないのはもぐりだというくらい、誰もかれもウェーバーを読むようになった。なんか私がやると流行るんですよ(笑)。それであいつは世渡りがうまいといわれるのですが、全然違うんです。私が研究しているときは本当にマイナーで、ごく少数の人しか研究していませんでした。

 

 私の研究はウェーバーを使ってロシア革命を分析することでした。研究を進めるうちにソ連は実は資本主義に向かっているということがわかってきた。それで論文を書いて、ソ連は資本主義に向かうと予言したのですが、誰一人信用してくれませんでした。でも結局、私の意見が正しかったわけです。これは山勘で言ったのではなくて、ちゃんと理論的に、正しい推論をしているというのがいま読んでみるとわかるのですが、当時は誰も理解してくれませんでした。

 

 そんなわけでソ連論はやめてしまった。その後、いろいろ思想遍歴をして、一時、フランクフルト学派にこりました。フランクフルト学派のすばらしいところは、近代を批判しているということだけではないんです。マルクス主義とか資本主義を批判しているということだけでもない。啓蒙的理性というのは近代の思想のすべての原理に立っているものですが、それが実は近代から始まったものではなくて、古代からあった。階級社会が始まったころからもうその原理はある。そこに戻って、そこから根本的に批判しなければだめだということをフランクフルト学派は言ったんです。

  

 (注 一口に「フランクフルト学派」と言うと誤解を受けるので、説明を加える。雑誌『正論』平成15年8月号に田中英道氏のフランクフルト学派に関する論文が掲載されて以後は、とくに誤解を受けそうである。田中英道氏の論文の趣旨はフランクフルト学派とは「隠れ共産主義」であるというものであった。しかし氏のフランクフルト学派に対する認識は、ほとんどブキャナンの著書に依存しており、自らフランクフルト学派の著作を読んで性格づけをしたものではなさそうである。ブキャナンのフランクフルト学派イメージはかなり偏っており、かつ粗雑である。フランクフルト学派というのは非常に広い幅を持っており、哲学的な批判派から、マルクス主義の西洋市民版、フロイト左派、極左的否定主義、性の全面的解放を唱える者等、さまざまである。その中で、私が好んで読んだのはホルクハイマーとアドルノ共著の『啓蒙の弁証法』や「権威主義的性格」の研究とフロムの『自由からの逃走』であった。これらの中には優れた文明史観とでもいうべきものがあり、大きな視点で人類史を見ることや、歴史を心理学的に見る視点を教えられた。しかし他のものは少しもよいとは思わず、とくに全共闘的な反体制的傾向には違和感を持っていた。要するに私の場合はブキャナンや田中英道氏の描くフランクフルト学派とは無縁だったと言える。)

 

 そこで私が思ったことは、これは進歩の原理そのものだということです。進歩という原理そのものを批判しなければだめだということで、一九七三年に『反進歩の思想』という本を出しました。これがまた話題になって、ベストセラーというほどではなかったですが、当時の市民運動、反公害闘争などにものすごく影響を与えて、新聞やテレビなどでかなり活躍しました。

 

 そして、この『反進歩の思想』が話題になっているときにドイツに留学することになります。ドイツではユング心理学を研究することになった。普通、ユング心理学をやるのには大変な動機があると思われるんですが、私の場合は特に何もありませんでした。

 

 ユングの前にフロイトにも興味を持ちました。ところがフロイトは体質的に違和感があって、どうしても入っていけませんでした。ともかくフロイトで一番おかしいのは、すべてセックスで説明して、宗教でも政治でも文化でも、みんな性が昇華したものだと言うでしょう。昇華してあんなものになるわけがない。それが正しいかどうかと言われると何も証拠はありませんが、感覚的にそんなばかな話があるかと思うわけです。

 

 そんな風に感じているときにユングの本に出会った。普通、日本ではみんな河合隼雄から入るのですが、私はそうではなかったから幸せだったと思うんです(笑)。ドイツで直接ユングのものを原書で読みました。

 

 最初に読んだ「元型論」に感激して、これだと思ったんです。宗教も芸術も文化も初めから人間に備わっている。もちろん性も最初から備わっているわけですが、これらは全然別のもので、こっちからあっちへ行ったり来たりするものではないということです。私はこれだと思いました。

 

 それからは、ユングを研究している限り心が安定していて、ほかのことをやる必要性を感じなくなった。ですから二〇年ぐらい、私はほかのことはやっていないんです。社会的にもあまりかかわっていない。小浜さんのように現代の社会や思想と格闘してきませんでした。

 

 最近になって、やっとユングの目で世の中を見るようになったわけです。そうするといままで見えなかったものがいろいろ見えてくるという感じになって、現在に至っているということです。

 

 ユングとウェーバーはどこが共通なのか

 

林 ユングとウェーバーは、まるで違っていると思いこんでいる人が多いようですが、じつはユングとウェーバーには大事な共通面がたくさんあります。

 

 第一は物事を客観的に見るということです。つまり両者とも経験科学ということをしきりに強調します。ウェーバーは社会科学者だから当然として、ユングも自分の心理学は事実を重んじる経験科学だといつも言っていました。

 

 第二は、人間の内面からものを見ていくということです。人間の内面的な動機、ウェーバーは内的、心理的利害と言っていますが、これが社会や歴史を動かしているという。だからマルクス主義の反対ですね。マルクス主義は下部構造という経済的な社会的基盤によって歴史は動くというわけです。ただし、誤解のないように言っておくと、ウェーバーも下部構造は否定していません。両方が対応しているということを言っている。どっちが原因とか結果ということではない。だから内面的なものだけで歴史が動くと言っているわけではないんです。ただ、それを非常に重視したということです。

 

 ユングもまったく同じ見方でものを見ています。第一義的に存在しているのは心の中の内容であり、それを実現するというのが人間の営為であり、歴史としてあらわれてくる、社会現象としてもあらわれるんだということです。

 

 第三は、価値観や無意識を自覚して、それから自由になれと言っている点。自分が知らないうちに囚われているものがある。それを意識化しろと言っている。まったく同じスタンスなんです。

 

 だから、私はウェーバーからユングに移ったとよく言われるけれども、全然移っていないんです。まったく同じものなんです。ところが、なぜかウェーバーをやっていた学者たちはユングを全然理解しない。私がいくら同じだと言っても関心を示さないんです。不思議なものですね。ウェーバーをよく理解していたら、すっとユングに入れるはずなのに、誰も入らない。どうもウェーバー学者たちのウェーバー理解がおかしいんじゃないかと思います。

 

 逆にユングをやっている人にウェーバーは同じだと言っても、全然受け付けないんです。それは日本のユング派がおかしいのではないかと思うんです。日本のユング派がウェーバーと同じだというふうな形でユングを理解していない。全然違う形でやっているということに最近気がついたんです。それで日本のユング派を批判するようになったわけです。だから私は、ユングを嫌いだと思っている人の方が、本当はユングを正しく理解できる人が多いとにらんでいるんです。ただその人たちは河合隼雄を読んで、「あんないい加減なものは嫌いだ」と言うんですが、ユングそのものを読んでいないんですね。

小浜 そういうユングのイメージをつくり出した元凶は秋山さと子であり、河合隼雄であるというふうなお考えなんですね。

林 日本のユング派は九九パーセント、秋山派と河合派によって占められていますから、私は発言の機会を封じられてきたんです。

小浜 精神分析学のフロイトを元祖とする系統というのは、たぶんにいろいろなところを経由して、拡大されたり歪曲されたりして日本に入ってきている感じがあります。私は語学がだめで翻訳物しか読めないので、精神分析学派の歴史について書かれた本を見ると、必ずユングともう一人、高弟としてアドラーの名前が出てきますが、アドラーの本というのは日本にほとんどないんですね。人間の権力と自我の関係を追究した人として、林さんはアドラーには関心を持たれなかったんですか。

林 ユングという人はアドラーとフロイトの両方と格闘して、両方の要素を統合した人ですから、もちろん両方の問題があるわけですね。つまりエロスの問題と権力の問題ですね。その両方を見ていかなければいけないということです。私はアドラーに大いに関心を持っているのですが、そこまで手がまわりません。

 

 権力のほかに、アドラーとフロイトの両方に出てこなかったのが宗教です。宗教というふうに言うと狭いんですが、人間の高さを求めるもの、芸術とか宗教とか文化とか……。

小浜 超越性ですね。

林 超越性と言ってもいいんですが、高さですね。宗教は超越ですけれども、もっと一般的に言うと、高いほうを求めていくということですね。それがユングの独自性なんですが、エロスと権力の両方に超越性というか、高さというものを加味したものですね。

 

 人間を動かしているものにエロスと権力があるということは誰でも認めることですが、実はもう一つ、広い意味での宗教的なもの、これが決定的に重要だと言ったのがウェーバーであり、ユングなんです。両方ともそういうことを言っています。非常に共通性があるんですよ。

 

 

自著自薦

『間違えるな日本人!』(小浜逸郎氏との対談)(徳間書店、1999.6)


 

特徴

 戦後思想のどこがダメたったのかを、他人ごととして外から語るのではなく、自分自身の実践的体験や思想的営みを通して語っている。


 第1章では、私が60年安保闘争に指導者として参加した体験を語りながら、その反省からその後どのような思想的営みをしていったかを語っている。とくに運動に対するどういう反省からウェーバーやユングのどこに注目したのかを明らかにしている。よくウェーバー「から」ユング「へ」移ったのはなぜかという質問を受けるが、「移った」のではなく、両者はまったく同じ精神構造、同じ方法論を持っているということを明らかにしている。


 なおこの部分ついて小林よしのり氏が卑劣な悪口を言っているが、それへの反論は近くこのHP上に出す予定の「小林よしのり氏への反論」を読んでいただきたい。


 第2章では小浜氏が全共闘運動の体験を語り、


 第3章では両者が「安保闘争と全共闘をどう総括すべきか」を語り合っている。


 第4章では「歴史を見る」ときの見方について、とくに反権威主義世代の見方の誤りについて論じている。


 第5章ではフェミニズムを批判し、


 第6章では吉本隆明氏を批判し、


 第7章では小林よしのり氏の『戦争論』の功罪について論じている。(この部分については、小林よしのり氏が反論の本『「個と公」論』を出したが、それに対するさらなる反論「小林よしのり氏への反論」を近くこのHP上に出す予定。)


 第8章では「人類の未来への責任」という視点の必要性を論じている。