寸評

 

 日ごろ当ホームページをご愛読いただきありがとうございます。新たに「寸評」というコーナーを作りました。これは論文や評論といった大げさなものではなく、軽く問題点を指摘するという趣旨です。書く方も読む方も手軽に立ち寄れるのがよいところです。ご覧いただければ幸いです。

 

平成22年1月25日

民主党首脳二人のゴマカシ比べ

 民主党首脳二人、すなわち鳩山首相と小沢幹事長は、ゴマカシの天才ではないか。

鳩山首相

 まず鳩山首相。『正論』2月号で、私が「鳩山首相はマザコンで、決断できない人間だから、何でも先延ばしにする」と書いたせいかどうか知らないが、普天間基地移設先を決めるのに、「期限」を切ってきた。「五月末までには決着をつける」と、断固とした態度を見せた。だがそれはとんでもない詐欺みたいなものである。

 「五月まで」というのは、ただ政府の案を作るというだけで、アメリカとの間の合意までも含めた「決着」ではないのである。つまりは、それからアメリカとの間の話し合いが出発するということなのだ。本当の決着がいつになるか、雲を掴むような話で、事実上の無限の引き延ばしである。

 だいたい、政府の中をまとめるだけで五月末までかかるというのが、おかしな話である。それほどに鳩山首相の指導力、リーダーシップは貧困なのか。そんな優柔不断なことでは、政府案が決まったところで、アメリカからノーといわれたら、またまた別の案を出すまでに長い時間がかかることであろう。

 名護市長選で、名護市への基地移設に反対の候補者が当選した。これで移転先選びはますます難しくなる。政府案を決めるのに、五月まででも無理になったというのが大方の見方である。

 面倒なことは先へ先へと引き延ばすという、私が指摘したマザコンの特徴を、わざわざ証明しているようなものである。ただし鳩山氏には、したたかな計算もあるのだろう。いま白黒を決めたのでは、支持者の多くが離れる危険がある。少なくとも参院選までは、のらりくらりと引き延ばそうという腹なのだ。決断できないマザコンでも、ズルイ計算だけはしっかりとできるらしい。

 案の定、普天間問題についての議論は沈静化してしまった。五月末に政府の結論が出るまでは休戦という形である。私はマザコンの特徴をもう一つ付け加えることを忘れていた。それは「ズルイ言い訳やゴマカシを言って、相手の鉾先をかわし、逃げまくる」という特徴である。昨今、鳩山氏のリーダーとしての資質に「 ? 」が付き始めている。支持率はどんどん下がるだろう。

小沢幹事長

 次は小沢幹事長。東京地検の聴取には応じたが、それで「手打ち」にしたいようだ。「私は天地神明に誓って不正はしておりません」と強がってみせたが、とても信じられない。四億円もの大金は個人としてこつこつ貯めたものだと ? 庶民の感覚から考えたら、何か悪いことでもしなければ、そんな大金が貯まるとは考えられない。どうやって貯めたのか、説明してほしい。

 「やましいところがない」のならば、国会の参考人として、堂々と説明してもらいたい。これだけの疑いをかけられているのだから、ごまかすつもりがないのなら、国会でも、堂々と質問に答えたらどうか。

 鳩山首相は、「小沢さんは選挙で民主党を勝たせてくれた大切な同志だから、信じたい」と言った。また小沢氏の元秘書の石川衆議院議員について、「起訴されないことを望む」と発言した。これらの発言は皆、「私」党の長としての発言であり、「公」党の長または国の長としての発言ではない。国の権力を私物化しているとしか思えない。小沢氏のゴマカシを、「信じたい」の一言で、ごまかそうという意図が明白である。

 民主党政権はゴマカシによって成り立っている政権である。赤松農水相は、マニフェストにない外国人地方参政権は民団への公約だと語った。外国人への公約は律儀に守るが、日本人への公約であるマニフェストはあってなきがごとし。「マニフェストを守らなくてもいい」と国民が言っているとうそぶくかと思うと、他方でマニフェストにない夫婦別姓法案を出すと言っている。

 この嘘つき政権のゴマカシに、国民がいつ気付くか。日本人は利口だというところを是非示してほしいものである。

 

平成21年12月16日

危険な政治家・小沢一郎

 雑誌『正論』2月号(12月25日発売)に鳩山首相の心理分析を書いたので是非ご一読願いたい。鳩山氏が政治家としていかに危ういかを論じているが、しかし今や最も危険な政治家は民主党幹事長の小沢一郎氏である。

 彼は昔は裏方として権力を操るのを楽しみにしていたようだが、今は表面に出て、独裁者である事を隠そうとしないばかりか、誇示するようにさえなっている。

 中国に大訪問団を率いて行き、その独裁政権に朝貢外交をしてみせたり、習近平副主席の訪日のさいに天皇陛下との会見を、ルールを破っても実現させるというゴリ押しをするなど、目に余る横暴ぶりである。

 羽毛田宮内庁長官から批判されたからというので、小沢氏は怒りをあらわに記者会見し、宮内庁長官に辞任しろと言わんばかりの言いようである。政治主導も結構だが、批判意見を言うことさえ許さないとなると、それは独裁的恐怖政治でしかない。この件では「自分は何も言っていない」というのならば、なにもあそこまでムキになって反論することはないはず。語るに落ちたとは、このことだ。

 外国の政治家が、天皇陛下の体調も顧みず、ルールを破ることも承知 で、何度断られても再三にわたって天皇陛下との会見を要請するというのはきわめて異常である。政治家として、何としてでも「今」、天皇陛下と会見する必要がある証拠だ。それは、次期主席として会見することにより、未だ絶対ではない次期主席の座を決定的なものにするため以外は考えられない。となれば、これ以上の「天皇の政治利用」はないであろう。

 天皇陛下は内閣の言うとおりに動くのが民主主義であり、憲法に従っているのだとは、天皇陛下は首相の家来だと言ったに等しい。小沢氏は「30日ルールなんて誰が決めたの ? そんな法律があるの ? 」と開き直った。皇室に関しては明文化された法律よりも内規のようなものや、慣例によっている場合が多いことをご存知ないらしい。正規の法律でなくとも、皇室への尊敬心があれば、それらを敢えて破ろうと思う者はいなかったのである。

 小沢氏は自分の言っていること、やっていることが、いかに愚かなことか分からなくなっているようだ。独裁が過ぎて「裸の王様」になってしまい、誰も意見を言えなくなっているのであろう。

 鳩山首相も、あまりの批判の多さにあわてふためいたのか、「中国は世界で一番人口の多い国だから、大切だ」と言い出すしまつ。となると、人口の一番少ない国は最も軽んじられることになる。何か弁解するたびにポロポロとボロを出している。

 小沢氏は中国の帰りに韓国に寄って、外国人地方参政権を来年一月の通常国会に提出すると、勝手に宣言してしまった。そんなことは党のマニフェストにも載っていないし、どの機関でも決定してはいない。独裁者にしかできない振る舞いである。「不幸な過去」についても謝罪した。どうしてそこまで韓国に媚びへつらわなければならないのか。真の動機は何か。

 外国人参政権がいかに危険かを知るためには、チベットとウイグルの現状を見れば一目瞭然である。どちらも漢族がどんどん移住し、人口の半分を占めるまでになっている。ウイグルの場合には会社や工場はすべて漢族が独占し、レアメタルなどの資源はすべて吸い上げて本国に持ち去っている。これが中国共産党の常套手段なのである。

悪夢のシナリオ

 もし日本で外国人参政権が実現したら、中国人が大量に移住してきて、彼等はすべて「民間外交員」つまりは工作員として、本国の命令に従って行動する。北京オリンピックの聖火リレーのときに、赤旗を林立させて道路を占領したのなどは朝飯前。政権は乗っ取られ、日本の富や技術はどんどん吸い取られ、日本という国はなくなりかねない。

 すでに今でも日本は朝鮮族に大きく浸食されている。スポーツ界や芸能界、マスコミやアカデミズムの世界では韓国・朝鮮人が大手を振って闊歩している。彼等は着実に「よい」ポストを獲得しつつあり、いったん得たポストは決して日本人には渡さない。後任は必ず韓国・朝鮮人である。じつは政治の世界でも、われわれが知らないだけで、韓国・朝鮮出自の者や、朝鮮の手先になっている者が多いのではないか。

 連立政権が日米同盟を軽んじていることは、普天間の決着無期限引き延ばしで明らかである。それに代わって鳩山・小沢両氏が重要視しているのが「東アジア共同体構想」である。中国、韓国にはご機嫌を取り続け、北朝鮮に対しても、拉致被害者の実行犯引き渡しを閣議決定文書から削除してい ることが判明した。「東アジア共同体構想」に対しては、多くの識者から疑問の声があがっており、EUのように民主化した国々と異なり、中国や北朝鮮といった社会主義国との共同体は無理であろうというのが大方の意見である。はたしてそうであろうか。我々は盲点に気づいていないのだ。それは、日本が社会主義国になるということである。そうすれば、一大社会主義共同体が実現することになる。ロシアも加われば、アメリカとEUに対抗どころか、はるかに勝ることができるであろう。民主党の行っている政策はすべて社会主義的であり、小沢氏が社会主義国の独裁者になろうとしていると考えれば得心がいく。

 日本の国益のためではなく、中国や韓国、北朝鮮の国益のためを考える政治家が権力を握ったらどうなるか。例えば小沢一郎氏は日本のためではなく、中国や韓国に媚びる姿勢を露骨に示している。それが民主党の独裁者であるばかりか、日本の独裁者になろうとしている。日本にとって、これほど危険な政治家があろうか。彼をのさばらせないためにも、民主党政権を一日も早く打倒しなければならない。

 

平成21年11月14日

「事業仕分け」という名の人民裁判

 「事業仕分け」なるものが「公開」で進行中である。概算要求が自民党時代より7兆円も多い95兆円になってしまい、予算要求の中の「無駄」を摘発するためだそうである。選挙中に麻生氏から「バラマキ」を批判されて「財源はどうする」と迫られ、「無駄をなくせばできる」と見栄を切ってきた手前、なんとしても「無駄」を摘発しなければならないのだろう。

 「仕分け」とは嫌な言葉である。なにか上から偉そうに「区分け」するという権力支配の匂いがする。予算について「必要」か「無駄」かを「分類」しようという仕事である。公開でやるというと、いかにも公平に「正しく」やるようなイメージがある。本当に公正にできるのか。

 一件について一時間で決めてしまうらしい。悪玉役の官僚が説明すると、善玉役の民主党の「仕分け人」が鋭くつっこみ、「不要な」「無駄」を探しだし、最後は多数決で決めてしまう。「無駄」と判定された予算はばっさりと削られるという仕掛けになっている。ずいぶん乱暴な話である。

 誰かがテレビでリキんでいた。「基準を明確にしておけばいいんです」と。しかし「必要」か「無駄」かを「分ける」客観的基準というものはありえない。主観の交じった価値判断によらざるをえない。もし客観的な基準があるというのなら、多数決など必要ないはずである。

 私はこれを見て、共産党独裁政権下の「公開人民裁判」を思い出した。広場に群衆が集まっている。中央に「被告」が引き据えられる。罪状が読み上げられると、群衆がワーッと拍手する。拍手が大きいと「有罪」とされ、その場で「銃殺」されてしまう。

 今民主党がやっている「事業仕分け」も、本質はこれと変わらない。何よりも恐ろしいのは、ルールも基準も明確でないことである。事前に基準が明示された上で、公明正大になされるわけではないのである。仕分け人の選び方もドタバタ劇を演じたようにいい加減だった。案件を「仕分け」にかける前にも、かけるか否かを決める「仕分け」がなされているはずだが、その基準も不明確だし公開でもない。基準は「仕分け人」の頭の中にそれぞれ勝手にあるにすぎない。それで「不要不急」と判定されると、ただちに「銃殺」にされ、葬り去られてしまう。まさに恐怖の人民裁判である。

 こんな発想は旧社会党から出た「人民独裁」的な感覚であろう。「人民」はつねに正義である。そして我こそは「人民」を代表する「正義の味方」というわけである。「民主」党という名に騙されてはいけない。本質は社会主義的独裁なのだ。

 それで思い出したが、国会で鳩山氏や閣僚が答弁すると、民主党員が一斉に大拍手をする。じつは良く聞いていると、鳩山氏の答弁はすべてスリカエ、ゴマカシで質問には答えていないのだが、大拍手されると、すばらしい答弁だったかのような錯覚に襲われるから恐ろしい。昔、ソ連時代の全国人民代表大会の議事録を見ると、スターリン書記長の演説が終わると「長く続く嵐のような拍手」と書かれていたのを思い出した。

 マスコミの拍手に騙されることなく、民主党というのは、本質は共産党独裁と同じ独裁的な感覚をもった危険な政党であることを、もっと我々は知らなければならない。

 

平成21年10月30日

続・民主党のジレンマ

 国会論戦を聞いたが、鳩山首相の屁理屈と幼稚な論理には、あきれはてた。こんな幼稚な政党に日本をまかせておいて大丈夫か。

 自民党の谷垣氏が「民主党の政策は矛盾だらけだ」と批判したら、「四年かかってやればよい」と答えた。「矛盾」とは単なる論理的矛盾ではない。そのために現実に多くの国民が苦しんだり困ったりしているのだ。四年後に解決すればよいという問題ではなかろう。「四年たっても公約を実現できなければ責任を取る」とみえを切ったが、さんざん国民を苦しめて、赤字のツケをまわすことになったら、責任の取りようがなかろう。

 普天間基地の移設問題で閣僚のあいだに意見の食い違いが露呈していることを指摘されると、「日米合意まで10年もかかったのが悪い」と他人のせいにしたり、「最後は私が決める、ゆっくりやればよい」と答えた。基地周辺の住民の苦しみが長引くことには無神経のようだ。

 財政赤字の可能性を指摘されると、「今までの政権が悪い」とまたまた他人のせいにした。幼児的甘えとしか言いようがない。

 なんでも「マニフェストに書いてあるから」断固やるのかと思うと、高速道路の無料化にしろ、農家の戸別所得補償にせよ、最初の年はほんの少しだけ「試しに」やってみるだけだそうである。「マニフェストは正しい」と胸をはるのなら、最初の年から全面的に実行すればよいではないか。なぜ小出しにして様子を見る必要があるのか。「実験をしてみる」のだそうだが、実験をしてダメなら止めると言うのか。マニフェストとは、実験をしなければ分からないような、きちんと実効性を調べた上でのことではない、そんないい加減な机上の空論だったのか。私が「青二才の机上のプラン」と批判したとおりになってきている。

 鳩山首相の「友愛」とは、自分たちが間違えても「友愛の精神」で寛大に許して頂戴、という甘えの正当化ではないのか。オバマ政権も、同じ民主党なのだから、仲良くなれば、こちらの我が儘も聞いてくれるのではないか、という甘い期待があるとしか思えない。だから、相手がこちらの言うことを聞いてくれるまで「ゆっくりやればよい」ということになるのだろう。まるで甘えの精神をもったマザコン男性の未発達人格を見ているようだ。日本国民はこんな程度の低い者たちに権力を与えてしまったのだろうか。

 母子加算の復活にしろ、障害者自立支援法の廃止にしろ、後期高齢者医療制度の廃止にせよ、前政権が苦労してやっと実現したものである。それを「弱者に優しい友愛」の精神で、すべてご破算にしてしまうつもりらしい。例えば母子加算の廃止について言えば、フェミニストどもがさんざん「離婚しろ離婚しろ」と煽りたてた結果として母子家庭が増え、その生活が成り立たなくなったので、生活保護に加えて母子加算なるものを与えたものである。おかげで「離婚すると生活が楽になる」「ますます離婚しなさい」と煽っていたのである。障害者自立支援法にしても、後期高齢者医療制度にせよ、所得の高い人からは一定の保険料を負担してもらい、一定の医療費を支払ってもらうという制度である。それを一律に「弱者」だとして全部優遇していては、若い人たちにばかり負担を強いることになる。「弱者のため」というと聞こえはいいが、人気とりばかりしていては、早晩台所は破綻する。

 民主党政権は、日本を滅茶苦茶にした末に、どうにもならなくなって投げ出すことになるような気がしてならない。

 

平成21年10月26日

民主党のジレンマ

 民主党はすでに破綻している。ジレンマに陥って必ず破綻する。そのジレンマがまだ顕在化していないだけである。

 まず普天間基地の移転問題。これを「見直す」などという「三党合意」をしたこと自体が外交オンチというべきだ。国と国との合意を勝手に「見直す」などということはできるはずがない。福島氏は「見直すという三党合意がキッチリとあるんです」とヘンな日本語でリキんでいたが、一体、三党合意と、国と国の合意のどちらを優先すべきかも分からないような輩に、国の権力を委ねた国民が馬鹿だったと言うほかない。両方の「合意」のジレンマをどう解決するか、これは見物だ。

 自公政権が組んだ補正予算を全部見直すそうだが、それもジレンマだらけ。

 第一のジレンマ。人気取りのバラマキ・マニフェスト(不要不急のものが大部分)を絶対優先にするそうだが、七兆円も足りなくなってしまった財源のうち、まだ三兆円しか見つかっていない。なお「不要不急」のものを探し出すつもりのようだが、今までだって「必要緊急」のものまで削って物議をかもしている(例えば地方の生活道路の建設を削るとか、地方の病院への支援を削るなど)。地方の声も聞かないで、どこが地方主権かと疑問の声も上がっている。本当に不要不急のものが、そうそうあるとは思えない。

 第二のジレンマ。もしも、本当に不要不急の財源を見つけたとして、それを急にやめてしまったら、日本中が大混乱になる。「コンクリートよりも人」が大切だそうだが、公共事業だって経済雇用政策としては一定の効果を持ってきた。それらを突然やめて、それに代わる景気対策が、「子ども手当」や「高校無料化」「母子加算の復活」「障害者自立支援法の廃止」「後期高齢者医療の廃止」等で、穴埋めできるとはとても思えない。景気はさらに落ち込むのではないか。

 第三のジレンマ。財源が見つからなくて、バラマキをやめないならば、予算の膨張である。税収も六兆円くらいの減少が予想される中で、残される手は赤字国債の発行か消費税増税しかない。しかし、両方ともマニフェストで行わないと言っている。バラマキもマニフェスト。どちらをやめても 公約違反だと批判される。さあどうする民主党。

 このように民主党の政治はすでに破綻が約束されている。臨時国会で自民党がどれだけ間違いを批判できるかをまずは見るとしよう。それにしても、本物の保守政党を設立するような立派な指導者はいないものか。

 

平成21年10月11日

青二才新政権の机上プランは社会主義計画経済と同じ、必ず破綻する

 新政権の「国家戦略室」なる物々しいというか恐ろしい権柄づくの名前のものが、「無駄」を摘発(?)して、二兆円だか三兆円だかの財源を確保したそうである。「無駄」というが、地方への公共投資なども含めて、その「無駄」で食べていた人たちは皆失業させられる(一昨日掲載した北海道の女性の投稿をご覧あれ)。彼らにはなんの罪もないのに。

 その「財源」でもらえるのは「子ども手当」、それも子供のいない人はもらえない。失業した人々は「子ども手当」で生活し、無料になった高速道路を使ってどんどん行楽にいきなさい、とでも言うのだろうか。

 新政権のやり方は、権力を持ったら何でもできる、またしてよいと思っている青二才と変わらない。頭の中にある机上プランを、そのまま実現できると思っている。同じ方法の社会主義の計画経済はことごとく失敗したというのに。

 もしも無駄な公共事業をなくそうというのであれば、それに見合う経済活動と雇用を作り出し、失業する人々を吸収する仕組みを作ってからにすべきである。ただ切り捨てたのでは、困るのは下請けや庶民ばかりである。

 国民をいじめて「無駄をなくした」と威張っていては、今に恨みと怨嗟の声が満ちてくるだろう。こんな馬鹿なやり方が成功するはずがない。必ず破綻する。ただし、実際に破綻させるためには、二つのことが必要になる。第一はマスコミ対策。第二は保守派の奮闘である。

 保守政権のときには細かいミスでも繰り返し取り上げて権威を落とそうとしてきたマスコミが、鳩山夫婦に対しては「善人」のイメージをふりまいて、ために支持率がいまだ80%である。インチキマスコミに対する有効な対抗策を考えなくてはならない。ネツトを活用して、もっともっと新政権の失策を宣伝しなければならない。

 次は自民党。もっとしっかりしてもらわないと困るのだが、これまでのところ新政権の間違いに対して、ほとんど何も批判していない。谷垣自民党は無為無能なのか。こんなだらしのないことでは、ますます保守派から見放されるだろう。それと民主党の中の保守派はどうしてしまったのか。まるで音無の構えに見える。今旗揚げしないで、いつするのか。自民党がだらしない今、真の保守派を糾合して、新保守政党を結成するくらいの気概を見せてほしいものである。

 今のままでは、サヨク・フェミの思うがまま、好き放題をやられて、日本は無茶苦茶にされてしまう。民主・社民連合が破綻したときに、政権を担えるような、立派な保守派政党を今から準備しておかなければならない。

 

平成21年10月3日

夫婦別姓、決戦の日は近い --国民をだます新政権のフェミナチ体質

 いよいよ出してきた。堂々と真っ正面から。千葉景子法務大臣と福島瑞穂消費者・少子化担当大臣は、9月29日の記者会見で、夫婦別姓を含む民法改正案を来年早々の通常国会提出を目指すと宣言した。マニフェストに書いてあるかないかは、まったく関係ないという態度である。一体マニフェストとは何だったのか。マニフェストに書いてないことも「政策集には書いてある」といって平気で持ち出すのなら、初めから政策集だけ出して、わざわざ別のマニフェストなど出すべきではなかったのだ。政策集とは別のマニフェストを出したことは、まさに「国民を騙す政治手法」と言われても仕方あるまい。

 「騙す」よりもっと罪深いのは、法務大臣の独走である。「民法改正案を来年の通常国会に提出する」などということは、まだ閣議では決まっていないことである。それなのに、9月27日付の『読売新聞』のトップ記事では、見出しに「政府方針」とあり、「政府は」という書き出しである。「政府」が主語になっているが、実際は「まだ閣議では決まっていない」「法相としての思いを述べたもの」(首相談)(『産経新聞』10月1日付)にすぎない。

 これが自民党政権下のことだったら、マスコミも野党も「閣内不一致」「越権行為」だとか言って騒いだところである。しかし野党になった自民党は自分たちの体制を作るのがやっとで、こんな重大な問題を突くこともできない。いずれ閣議でも追認することになれば、フェミ・オンナたちが独走するあとから、政権が付いていくという構図が常態となるのではないか。

 そもそも「不法滞在者が滞在できるように」とか「議論があるから死刑執行には慎重に対処したい」などという、法治国家の法務大臣としては問題の発言に対しても、批判の声はまだ上がっていない。とくに前者は不法を勝手に合法化するものである。また後者は「議論があるかないか」の問題ではない。国民の圧倒的多数が支持している死刑制度であり、法務大臣の仕事は死刑をただ執行することである。法務大臣の義務としての任務である。これらの発言は法務大臣の辞任を要求してもいいくらいの、大問題発言である。多数を取ったら何でもできるとなったら、同じく国民の多数によって選ばれたナチスの独裁と同じ政府になってしまうだろう。

 いよいよ決戦の日が近づいてきた。これは保守派・自民党にとって、またとないチャンスである。賛成・反対の国論は完全に二分されている。ただし、賛成派は「選択制だから好きな人だけやればいいんだから、いいじゃない」というウソの理屈にダマされている人が多い。いろいろなウソを暴露すれば、反対派が有利になる。今でも反対という人の方が多いのだから。

 それに対して、もし民主党が議会多数をたのみにゴリ押しをすれば、民主党の人気は急降下するだろう。カギは、第一には民主党内部の保守派がどれだけ発言できるかである。そろそろ公然と発言してもいいのではないか。いま一つのカギは、夫婦別姓論や婚外子差別論のウソや矛盾、戸籍法改悪論の危険性をどれだけ国民のあいだに広めることができるかである。保守派の理論武装こそ、最大の急務である。

 我田引水になって恐縮だが、これらの問題については、すでに私も何度か論文を発表している。拙著『家族の復権』及び本ホームページの以下の箇所を参照して、少しでも理論武装に役立てていただきたい。

そんなに家族を壊したいのか(『正論』平成14年1月号) ──内閣府世論調査の嘘

屁理屈で固めた夫婦別姓論

非嫡出子の区別は正当なり

 参考のために、重要な論点をいくつか整理しておこう。

 第一は「不便だから」という理由。これは通称使用を広めれば済むこと。理由にはならない。パスポートにはすでに通称併記が可能になり、職場でも通称使用がほとんど認められている。その方法をもっと進めればいいだけの話である。

 第二は「選択的だから」「好きな人だけやればいいんだから」、福島瑞穂氏に至っては「私もやってきたから」などとまっ たく理由にもならないことを言っている。「選択肢を増やす」が理由になるのなら、どれだけでも法律など変えられる。例えば、一夫多妻 制、一妻多夫制を男女差別なく同時に認める法改正もできよう。選択肢を増やし、やりたい人だけやればいいのだから。

 法律とは「なんでもあり」を許すものではなく、必ず価値観を伴うものである。現制度は家族単位で戸籍が作られ、それを一つの姓でまとめているのである。この基本を崩すか崩さないかは、家族単位思想か個人単位思想かを決める非常に重大な問題である。戸籍法廃止議連が結成されたことからもわかるように、夫婦別姓制度の次には戸籍法廃止が待っているのであり、「選択肢を増やすだけ」などという言葉に決してだまされてはいけない。

 とくに鳩山首相は「夫婦別姓により家族のきずなが損なわれる」との懸念に対して「必ずしもそういう認識をもっていない」と答えているので、この論点は極めて重要である。

 第三は「離婚がしやすくなるから」。「性格が合わない夫婦は早く別れた方がいい」という価値観を持っているフェミどもにとっては、「離婚しやすくなる」ことはメリットと考えられている。しかし、いろいろと努力して夫婦の調整をして、離婚しなかった夫婦の大半は「離婚しなくてよかった」と答えている。さらに大切なことは、親の離婚がもたらす子供への多大な悪影響である。これについてはアメリカに詳細な研究があり(ウォラースタイン『セカンドチャンス--離婚後の人生』草思社)、また日本の子供たちの証言もある(『バツイチの子供たち--娘から親へ』飛鳥新書)(親の離婚によってどんなにいやな思いをしたか、どれだけ辛い体験をしたか)。拙著『フェミニズムの害毒』で内容を紹介している。

 第四は子供への悪影響の軽視または無視。別姓を選んだ夫婦の子の姓に関しては、法務省案が「複数の子の姓は統一する」としているのに対し、民主党などの案は子の出生ごとに決めるとしており、今後調整する」のだそうだ。ここにすべてが現れている。「子供は国の宝」などと謳いながら親の都合を優先し、はじめに夫婦別姓ありき。子供のことは二の次で「調整」対象でしかない。子供が育つ上で、どのような環境が望ましいかを考えることが先決のはずではないか。

 再度子供自身が姓を選ぶ可能性も示唆されているが、子供は困惑するばかりであろう。子供に「パパとママのどっちが好き?」と質問することほど残酷なことはない。いずれにせよ、子供を両親や両家が取り合ったり、子供が両親の板挟みになるような制度は子供のために絶対許すべきではない。

 以上、主要な論点を整理してみたので、是非とも参考にして頂きたい。

 

平成21年9月29日

自民党は再生できるか

 自民党の再生をかけて、谷垣新総裁が選出された。自民党が再生するためには、敗北の原因を正しく総括し、そこを直さなければならない。一口で言うなら、自民党大敗の根本原因は、真の保守主義を堂々と真っ正面から掲げることができなかったことにある。

 私事になって恐縮だが、私が自民党を真に見限ったのは、静岡県知事の選挙のときである。自民党は候補に女性を立てた。女性であってもいいのだが、応援に駆けつけたのが野田聖子や猪口邦子で、フェミ丸出しの感じで「女性」「女性」と叫んでいたのを見たときである。「オンナ」を出せば勝てるという軽薄さに、愛想がつきた。本来の保守層も同じ思いだったのではないか。つまり本来の保守層は馬鹿らしくなって投票に行かなかったのではないか。

 東京都の議会選挙のときも、自民党に投票する気にはどうしてもならなくて、投票には行かなかった。出口調査とやらによれば、自民党支持者の20パーセントか30パーセントは民主党に投票したそうだが、そもそも投票に行かなかった人も相当数いたのではないか。つまり自民党は本来の保守層をまとめあげることすらできなかったのだ。

 総選挙のときも同じ構図である。「政権交代」のスローガンにしてやられたとか、無党派層が離れたとか言うが、本来の保守派層がそろって本気で活動し投票に行っていたなら、これほどの大敗はしなかったのではないか。今度の総裁選挙でも、投票率は40パーセントくらいだったとか。自民党は自民党員からも見放されているのである。

 これらのことを考えるならば、自民党再生の基本は明かであろう。外交・安全保障について保守本来の政策を明確に掲げること、中国や北朝鮮に絶対に迎合したり譲歩しないこと、左翼やフェミに迎合しないこと、毅然として本来の保守主義に徹することである。

 しかるに三人の候補の主張を聞いていると(テレビで見ただけだが)、ピンとこない抽象的なことばかりである。谷垣氏は「みんなでやろうぜ」。何をどう「やる」のか、さっぱり分からない。河野太郎氏は「変われ」「変えろ」と言うが、どの方向に変えようとしているのか、さっぱり分からない。日ごろの言動から見ると、「左の方向に舵を切れ」という意味らしい。それでは自民党は第二民主党になってしまうだろう。西村氏は世代交代、若手中堅にまかせろ、と言うけれども、具体的な政策や方向性は出てこなかった。こんなことでは、あと四年どころか、少なくとも八年は政権に復帰できないだろう。

 その間に、日教組やフェミが跋扈し、外国人に参政権が与えられると、チベットやウィグル自治区のように、漢民族や朝鮮民族が大量に移民してきて、日本が占領されかねない。そうならないためには、自民党が真の保守主義に立つこと、左翼・フェミに迎合しないことが、最低限必要である。

 谷垣氏は「保守本道に立って、家庭・家族を大切にする」と述べた。たいへん結構だが、それがどの程度の覚悟で言っているのか、すぐに試されようとしている。サヨク・フェミどもは、早速「民法改正」という名の家族破壊とモラル破壊を企てている。谷垣氏は、この家族破壊法案に対する反対の集会やデモの先頭に立って、行進するくらいの覚悟がありやなしや。

 サヨク・フェミどもは政権を取ったとたんに、節度も遠慮もなしに、「それゆけ」とばかりに、走りだそうとしている。自民党の議員たちは、よほど勉強して論戦にのぞまないと、国民の前に新法案の危険性を暴露することはできない。例えば、TBSの何の番組か分からないが、チラッと見たら、街頭で聞いたら夫婦別姓賛成が60パーセントだといって、キャスターが「選択的というところが大切なんですよね、好きな人だけがやればいいんですからね」としきりに強調していた。試しに、自民党議員の何人がこれを論破できるだろうか。それができないと、自民党は民主党に勝つことはできないし、保守派の国民の支持を得ることはできないだろう。自民党再生とはかくも難しいことなのだ。「ここがロードスだ、ここで跳べ」。

 

平成21年9月20日

新政権は独裁政権か

 民主党中心の新政権は、日本人の感覚ではない。昨日の「寸評」で「参院選まではやるまい」と言った私も甘かったけれども、日本人の常識では考えられない行動に出ている。新政権はどこかの国にすでに乗っ取られているのではないか。マニフェスト入りを断念したことをゾロゾロと「やる」と言い始めている。

 今日の『産経新聞』一面トップ記事によれば、小沢幹事長は「永住外国人の地方参政権」の実現にむけて動き出すそうである。韓国イ・ミョンバク大統領の兄の韓日議員連盟の会長と会見し、早ければ来年の一月の通常国会で成立を目指すと述べた。その他、女子差別撤廃条約の批准、死刑の廃止もちらつかせている。戸籍法廃止を目指す民主党議員連盟も発足したそうである。その他のフェミ法案も、次々に出してくるかもしれない。

 ここで、「日本人同然の外国人に地方の参政権くらいあげてもいいんじゃない」と考えている人のために、「永住外国人地方参政権」の恐ろしさについて少しだけ解説する。「永住外国人」といっても、特別養子になって一年日本に住めば与えられる資格なのだ。与える権限を持つのは法務大臣。昨日書いた千葉景子氏である。大量の外国人が流入し、「永住外国人」の資格を取ることを誰も止められはしない。地方選挙は100票単位でも当落を左右できる。永住外国人の組織票が帰化人の立候補者へ集中したり、言うなりになる人間を当選させることもできる。中央の議員は地方の応援が不可欠なので、間接的には中央も支配するようになる。「永住外国人参政権」とは、悪用し尽くせば、大げさではなく日本という国を揺るがすことさえ可能な権利なのである。

 マニフェストとは何だったのか。国民を騙すための目くらましだったのか。昨日の「寸評」の第一の疑問点として「けじめのなさ」を挙げたが、その特徴が早くも表れている。マニフェスト入りを断念した事案を、こうも早くに堂々と出してくるとは、「権力さえ取れば何をしてもよい」と考えている者が多いのだろう。

 参院選で民主党が勝つとは限らないので、多数派をとっている今のうちに取れるものは取っておこうという、さもしい根性をもったサヨクやフェミ・オンナたちが、うごめき出している感じである。

 政権が代わるとこんなに大きく政策が転換するのでは、とうてい「健全な二大政党制」とは言えない。国民は民主党に白紙委任状を渡したわけではない。ちょっと自民党にお灸をすえるつもりの人も多かったはず。最終結果こそ民主党の圧勝だが、各小選挙区では自民と民主の票数が僅差のところが多かった。内容では決して圧勝ではないのだ。それを国会で多数を占めれば何をしてもよいとばかりに、「ガンガンやる」(福島みずほ氏の言葉)というのは、節度がないというか、けじめがないというか、謙虚さのかけらもない態度である。

 しかし、「禍い転じて福となす」のたとえどおり、これは案外チャンスかもしれない。国民的反対運動が起これば、民主党の人気が下がり、政権転覆のきっかけになりかねない。どうぞ、マニフェストにないことをどんどんやってくれ。ただし、「永住外国人参政権」問題でもそうだが、報道されなかったり見過ごすような小さい扱いしかされないことが多いので、マスコミの報道操作に対抗して、ネットを中心に反対運動を盛り上げていこう。

 

平成21年9月19日

民主党政権発足 --最初の疑問

 いよいよ民主党中心の連立政権が発足した。早速、疑問点続出である。

 第一の疑問点。鳩山氏は、正式に首班に指名される前から、どうせ指名されるんだから同じだとばかりに、10日も前から早々と主要人事を発表した。普通は正式に指名されるまで発表をひかえるものではないか。

 こういう行動様式は、左翼に特有の「けじめ」のなさ、「形式」蔑視を示している。

 第二の疑問点。鳩山氏の挨拶。「失敗もあるでしょうが」「寛容な心で」「辛抱強くお育て願いたい。」? ? ? …… なんだこれは。失敗をしても批判しないで頂戴という意味か。鳩山内閣は、これから育てなければならない存在なのか。まだ一人前じゃないという意味なのか。国民は母親じゃない。

 こういう言い方は心理学的にはマザコン的甘えを示している。さぞや世界各国になめられたことであろう。

 第三の疑問点。いろいろと問題のある「八ツ場ダムの建設中止」と、「高速道路の無料化」。どちらも「やる」と前原新国土交通大臣は言い切った。理由は「マニフェストに書いてあるから」。「中止する」と行っておいて、それから話し合いに行くのだそうである。「中止するかしないか」を含めた話し合いでなければ、本当の話し合いとは言えない。補償の話だけすればよいというものではあるまい。

 民主党の態度はマニフェスト教条主義である。民主党は国民主権を重んずるはずではなかったのか。マニフェストにあるというだけで政策を変更しないのは、国民主権ではなくて、マニフェスト主権ではないか。マニフェストは黄門様の印籠ではない。たとえマニフェストに書いてあっても、国民の多くが反対ならば、国民の多数の意見をいれて、マニフェストとは違う決定をするのが真の勇気であり、民主主義というものではないか。

 第四の疑問点。法務大臣・千葉景子氏はすごい女性である。弁護士出身で、旧社会党副書記長。その主張は、人権擁護、夫婦別姓賛成、女性差別撤廃条約の批准、非嫡出児の相続の平等化、国旗・国家法反対、国籍法の見直し、外国人の地方参政権賛成、死刑の廃止。左翼・フェミ政策のオン・パレードである。まさかこれらを次々に「やる」とはすぐには言い出さないだろうが。さし当たり問題になるのは「死刑の執行」。やるのかやらないのか、これは見ものである。

 それはともかく、これらのうちマニフェストに書いてあるものは人権擁護だけ。あとは具体的には書いてない。書いてあることは断固やるそうだが、書いてないことはどうするのか。

 党内フェミ女性や社民党のように、やりたくてうずうずしている者たちが多い新政権だ、油断はならない。どんな理屈をつけて出してくるか分かったものではない。例えば「国連の勧告があったから」というのなど、格好の理由になりそうだ。

 国論を二分する大論争になりそうなこれらの問題、直前にマニフェスト入りを断念したくらいだから、少なくとも参院選挙までは出さないだろうが、参院選挙をすぎると分からない。特に人権擁護法案は、マニフェストに書いてあることだから、すぐにでも堂々と出してくる可能性が高い。健全保守の皆さんは、これが出てきたら、国民的大反対運動を起こす準備を今からしておいていただきたい。

 

平成21年8月7日

裁判員制度の男女無区別主義

 前回の「寸評」で、裁判員制度が直接民主主義の幻想をバックにしていることを指摘した。例えば、裁判員制度の弁護論として、「国民参加が実現した」などと言われるが、国民参加それ自体が理想でも目的でもないはず。ちょうど「政権交代」それ自体が目的だというのに似ていて、衆愚政治に道を開く危険な思想である。

 さて、ふたを開けてみると 早速もう一つの危険な思想があらわになった。フェミニズムの最も馬鹿げた思想である男女無区別主義である。これは「もう一つ」というより、直接民主主義の幻想と同質の思想である。

 注目を集める最初の裁判員の男女比が、なんと女性五人、男性一人という偏りようである。最初から「男女比は問題にしなくてもよい」という思想があるとしか思えない。「男女同数にしなければならない」という思想があれば、男性候補者の中から三名、女性候補者の中から三名、というように選ぶことがでたはず。それをいとも平然と、これほどの偏りを出してきた背景には、「判断能力において、男女のあいだに何の違いもない」という男女無区別主義があるからである。

 しかし「判断能力において、男女のあいだに何の違いもない」という命題は、なんら科学的に証明されていない。むしろ逆に、脳科学の知見は、「男女のあいだで、脳の構造や機能に違いがある」「したがって例えば感じ方の点で違いがありうる」ということを示唆している。つまり被告の男性に同情をより多く感ずるか、被害者の女性により多く同情を感ずるかに、男女のあいだに違いが生ずる可能性があるのである。つまり男性が多いか、女性が多いかによって、量刑の判断が異なってくる可能性が否めないのである。

 もちろんプロの裁判官の場合には、感情に左右されず法令と判例のみに従って客観的に判断する訓練がなされている。しかし素人の裁判員の場合には、そうした訓練もなしに、いきなり判断をせまられる。感情や感覚が影響を与える確率は高くなる。感情や感覚の作用が男女で違うとすると、男女比を無視するのは危険だということになる。

 裁判員制度は初めから間違った思想を基に作られたが、さらに男女無区別主義という危険な思想によって運用されることが明らかになった。この思想は、例えば「永住外国人に選挙権を」とか、「非嫡出児に嫡出児と同じ権利を」といった主張と同質の、国民総無区別主義の現れである。

 ときあたかも、総選挙で民主党が大勝しそうだという。もし民主党が政権を取ったら、フェミがはびこり跋扈して、日本の公序良俗が溶解してしまわないか、将来の日本が心配で仕方ない。

 

「市民感覚」のマイナス面

 ここまで書いて判決を知った。「懲役16年の求刑」に対して、「懲役15年の実刑」。私は「10年」か多くて「12年」を予想していたので、「15年」には唖然とした。この厳しさは「市民感覚」の影響によるものらしい。プロの裁判官だけだったら、いままでの判例等を考慮して「10年から12年」になったろうという。では、それを「15年」にした「市民感覚」とは何か。

 マスコミはこぞって、被告の残虐さを浮き彫りにした、女性裁判員の質問を称賛している。「なぜ娘の形見だったサバイバルナイフを持ち出したのですか」「被害者を刺したあと、なぜすぐに救急車を呼ばなかったのですか」。その結果、「最初から殺すつもりだった」とか、「殺したあと、預金をおろして競馬場に行っていた」という事実を引き出した。いかにも情状酌量の余地のない、「執拗で残虐な犯行」(判決文)という印象を引き出している。

 「市民感覚」を肯定したい人々は、こぞって「こういう質問はプロの裁判官からは出てこない」と「市民感覚」を賛美している。かわって、被告に同情的な事情を引き出すような質問、例えば「ナイフを持ち出して、殺してやると叫んだときは、ほんとに殺すつもりだったのですか、それともただ脅すつもりだったのですか」とか「実際に刺す直前に相手の女性は何を言ったのですか、具体的に思い出してください」といった類の質問はなされなかった。裁判員の質問は最初から、被告に厳しい目でなされていた。公正中立に「事実」を明らかにし、その上で判断しようという姿勢とは言い難い。その結果、判決では「被害者の女性の言動はなんら関係ない」という、被告にとって最も不利な判断・判決となった。

 こうした予断をもった「市民感覚」はいったいどこから来ているのか。私がすぐに思い出したのが、DV(ドメスティックバイオレンス=家庭内暴力)に対する「市民感覚」である。夫婦喧嘩の結果、夫が妻に暴力をふるった場合、調停の場でも裁判の場でも、100%夫が悪いとされる。その前に妻がどんなに悪いことをしようが、どんなひどい悪態をつこうが、一切関係ないとされる。この「社会の常識」や「市民感覚」は、男性よりも女性の方が強く持っていると思われる。裁判員の評定は、最後は裁判員の多数決で決まるそうである。女性の比率が多かった今回の裁判員の構成が、専門家たちをびっくりさせた今回の予想外の厳しい判決に影響を与えなかっただろか。

 「市民感覚」を無条件で賛美するマスコミの大合唱のなかで、国民の多くが「ああ、市民参加とはこういうことでいいのか、自分の感覚をそのまま言えばいいのか」と思わないであろうか。あぶない。必要な知識や訓練もなしに、どこにでも素人が「参加」して、庶民感情のまま行動する。そのうち「私は死刑の判決はくだしたくないわ」とか「外国人を選挙に参加させたっていいじゃないか」となりかねない。

 直接民主主義と衆愚政治の弊害が日本の中でどんどん広がっていく端緒にならなければよいが。

 

平成21年5月20日

裁判員制度は愚の骨頂

 裁判員制度が21日に発足する。この制度、誰が言い出して、いかなる理念のもとに、何のために推進されたのか、さっぱり分からない。国民も政治家もよく分からないうちに、国民的な議論もなされないまま、いつのまにか決まってしまった。

 それなのに、この制度がたいへん危険な原理に基づいていることを、大部分の国民は知らされていない。この制度は、原理的には古代ギリシアのアテネの直接民主主義に基づいているのである。すなわち市民の誰もが統治者になれる能力を持っているとみなされ、極端な場合には統治者がくじ引きで選ばれ、一年ごとに交代する。今回の裁判員制度はまさにこの原理をもとに、抽選で選ばれた者が否応なく任命される。誰もが平等に、そのための能力を持っているとみなされているのである。

 しかし、言わずもがな、量刑を決めるという仕事は、被告についての多くの情報を熟知し、これまでの判例も研究した上で、高度な判断力を必要とする。そのための能力を誰もが平等にもっているとは言えない。高度な専門的な仕事の中に素人がいきなり放り込まれて、誰もができるはずだという前提のもとに、判断を強いられる。

 こんな馬鹿げた制度は、世界には一つも存在していない。なるほど、欧米にも市民が直接裁判に参加する制度は存在する。しかしそれらには一定の制限が課せられている。日本のように、すべての素人が無差別に選ばれて、いきなり専門の裁判官と対等に合議するという制度は存在しない。

 すなわち、アメリカやイギリスの陪審員制度は(国や州によって細部は異なるが原理的には)、市民から無作為に陪審員が選出されるという点では裁判員制度と同じである。しかし陪審員は職業裁判官からは完全に独立して評決を行える。ただし、有罪か無罪かのみで量刑は判断できないという制限を設けている。

 一方、ドイツ、フランス、イタリアなどの参審制は(国によって細部は異なるが原理的には)、裁判官と参審員が 一つの合議体を形成して、犯罪事実の認定や量刑を行う制度であり、こ の点は裁判員制度と同様である。しかし、参審員は、一定の資格をもつ者の中から選出され、任期制である。

 つまり、まったくのシロウトが裁判官から独立して意見を言えるが、専門的な量刑は判断させないのが陪審制であり、裁判官と合議して量刑の判断を下せるが、一定の資格を持った市民を選ぶのが参審制である。

 ところが、日本の裁判員制度は、まったくのシロウトが無作為に選ば れ、プロの裁判官と合議して量刑を判断しろというものである。つまり誰もが絶対平等に必要な能力を持っており、誰がなっても同じだという思想によって作られた制度なのである。しかし、素人である国民の誰もがプロの裁判官と同じ知識と判断力を持っているはずがないのである。つまり不可能なことをやれと言っているのが日本の裁判員制度である。当 然、裁判員がプロの判断に追従するのは目に見えている。

 しかも不可解なことに、裁判員が参加するのは「重大な事件の裁判」だけである。こういう限定を設けているのは、日本の裁判員制度だけである。いったいどういう意味づけをもって、どういう理由でこういう限定をしたのか、さっぱり分からない。うがった見方をする人は、素人は死刑の判定をすることをためらうだろうから、死刑の判決を減らすためだろうと推測する。しかしそれだけの理由でこれだけ大げさな制度を作ったのだろうか。

 要するに、この制度は意味づけも理由づけも明確でないままに、素人を専門的な場に引きずり出して、専門的な判断をさせようとするものであり、じつに馬鹿げた危険な制度である。ただ一つはっきりしているのは、直接民主主義の原理のなかで、最も馬鹿げている「国民の誰もが平等に必要な能力を持っている」という理念をもとにしているという点だけである。結局、何から何まで、信じられないほどに馬鹿げているのが、今回発足する裁判員制度である。

 これほど愚かで危険な制度が、誰が推進しているのか分からないままに、するすると決まってしまって、国民を動員してしまうところに、この国のあやうさと危険がある。この制度が危険というよりも、こんな馬鹿げた制度がたいした抵抗もなく決まってしまうところが、そら恐ろしいのである。

 こんな、百害あって一利なしの制度は、いっときも早く廃止すべきである。

 

 補足。今の日本では、多くの国民が知らないうちに、おかしなことがいろいろと起こっている。例えば「女性差別撤廃条約選択議定書」の批准問題というのがある。これを批准してしまうと、個人や団体が直接国連に訴えることができるようになり、国連が日本の国に対して口を出してくるようになり、国の主権が侵されてしまう。これに対して、岡本明子氏らが献身的に反対運動を展開し、大きな成果を挙げている。私などが今さら口出しするのも遅いが、皆さん是非これらの人たちのサイトを参照されて、できるだけの支援、声援をお願いします。

 

平成21年4月1日

森田健作知事誕生に寄せて

 森田健作千葉県知事誕生は、暗い話題ばかりの昨今、快挙というべき愉快なニュースである。ただし保守派はこれに酔いしれることなく、今後の作戦をしっかりと見定めていかなければならない。第一は森田氏への注文。第二は森田氏への支援のあり方である。

 森田氏への期待としては、当然ながら、堂本県政のもとで進められたジェンダーフリー教育の歪みを是正することである。8年間に浸透したジェンダーフリー思想を払拭することは容易ではないが、思想的理論的啓発に力を入れて、まず教育の場からジェンダーフリーを追放してもらいたい。

 そのさい重要なことは、混合名簿の廃止、男女別名簿の復活を、戦略の中心に据えることである。混合名簿は、教育現場でのジェンダーフリー政策のシンボルであり、錦の御旗として、フェミニズム運動の中心に据えられてきた。これをうち崩さないでは、ジェンダーフリー打倒は不可能である。混合名簿廃止は石原都政のもとでも実現できないでいるが、「男女の違い」を基礎にしていくことを明確にうたった森田氏の公約を前面に掲げていけば、必ずや可能であろう。

 次に大切なのは、森田氏を支えていく草の根保守の戦略である。知事が森田氏になったというだけで、安心してはいけない。自民党が三分裂したことを見ても分かるとおり、県議・市議レベルの自民党は当てにならない。現状の自民党が一致団結して森田氏を支えることは期待できない。

 そこで、保守派は思い切った作戦にでるべきである。来たる県議・市議の選挙のさいには、吉田候補や白石候補を支持した者を見限って、対立候補を立てて、議員を入れ替えるという作戦を立ててはどうだろうか。それくらい思い切った作戦を考えないと、保守派の一本化は不可能だろう。

 いずれにしても、森田氏当選で「勝った」わけではなく、これが出発点だという気持で、草の根保守の皆さんには頑張っていただきたい。

 

平成20年5月5日

愛国心ではなくジコチューだ

 中国の若者の愛国心の異常さが注目を集めている。過ぐる反日デモの暴力行為は目にあまるものがあったが、聖火リレーの「留学生」集団も、殴る蹴る、旗棹でなぐるなどの行為が見られたそうである。ソウルでは乱闘になり、韓国政府が中国政府に抗議する騒ぎになった。

 直接的な暴力よりもっと恐いのが、自分達を批判してくる相手を「漢奸」(売国奴)呼ばわりして攻撃するやり方である。アメリカでは対立している両者のあいだを仲裁しようとした女子学生が「売国奴」呼ばわりされ、実家には汚物がまかれたという。自分たちに全面的に同調しない者はすべて敵だという態度である。フランスでの聖火への抗議に対する、中国内のコンビニ店、カルフールへの不買運動も、感情的な八つ当たりというべきである。常軌を逸していると言うしかない。

 こうした若者の大量出現は、中国政府の愛国心教育の結果だと分析する人もいる。中国政府は本当に愛国心を教えているのだろうか。

 本物の愛国心とは

第一に、自国の良いところに誇りを持つことである。

第二に、自国の悪いところや間違っているところを指摘・批判されたときに、謙虚に反省し、そこを直し、改善しようとする態度である。もし相手の方が間違っていると思えば、理性的・理論的に反論する。自信があるから感情的に反発したり、激昂したりしない。

 第一の点についても問題はあるが(例えば有人宇宙飛行をやったとか、経済成長が高いとか、オリンピックを主催する、などという外見的なことに価値を見いだすか、国民の人格の成熟度や文化に見いだすか)、分かりやすいメルクマールは第二の点である。

 第二の点に照らしてみれば、中国の若者の行動が愛国心とは似ても似つかぬ代物であることは明瞭である。それは愛国心どころか、程度の低いジコチュー(自己中心主義)にすぎない。

 今の若者の世代は「一人っ子」政策のもとで、親から「王子さま」「お姫さま」のように過保護に育てられ、自分だけが正しく、反論や規制を受けない存在だと思いこんでいるのである。人格が未熟で弱いので、批判されると、相手を全否定しなければ、自分が全否定されると思ってしまう。自分を全面肯定するためには、相手を全面否定するしかないのである。

 こういう連中を政権の基盤として利用せざるをえないなら、中国共産党の独裁は、じつは脆弱な基盤の上に立っていることになる。政権の人間的土台(民度)がもろいということになる。彼等は常軌を逸した攻撃をするから、相手国の国民の反発を買う。しかし抑えようとすると、批判は政府そのものに向かう危険がある。育て方が間違っていたので、扱いに苦慮しているというのが本当のところであろう。

 中国のみが正しいという「中華思想」が「愛国心」教育の核心であり、それと個々人の自己中心主義が合致しているところが、一筋縄ではいかないところである。劣等感の裏返しという側面もあるので、いっそう厄介である。

 この鬼子を教育し直すことができるのか、それともコントロールできないのか、そこに中国という国の成熟度を測るメルクマールがあると言えるであろう。今のままでは、民主的な近代国家となるにはほど遠いと言わざるをえない。

 来日する胡錦濤主席に対して、福田首相は「相手のいやがること」でも、日本の国益のため、主張すべきことをしっかりと主張してほしいものである。間違っても「ご無理ごもっとも」という態度だけは取らないでもらいたい。

 かつて、天安門での武力弾圧に抗議して西側諸国が制裁を科していたときに、天皇訪中を画策し、それが突破口になって制裁が解除されていった経緯がある。中国にとって日本ほど御しやすい、都合のよい国はなかったことだろう。今回もオリンピックをめぐって中国への批判が高まっている中、福田首相が開会式に出席を約束しようものなら、中国にとってこんな旨い話はないが、反面、日本は世界の笑い者になるどころか、中国の家来になったのかと言われかねない。福田首相は決して開会式出席を約束してはならない。

 昨日、来日にさきだって胡錦濤主席が記者会見し、パンダの貸し出しを検討していると恩に着せるような発言をしたそうが、貸し出し料はオス・メスのペアで年間一億円とか。世界中のパンダはすべて貸し出しであり、生まれる子供も中国の所有となり、貸出料を取られる。パンダ利権と言うべきだ。有り難がって押し頂くような話ではない。それとも今回だけは無料にしてくれるとでもいうのか。もしこちらが金を出して、友好の演出をされ、北京オリンピックの露払いをさせられるようなことになれば、国際社会の軽蔑を買うことになろう。福田氏が首相であるかぎり、こうした関係は続くのであろう。いよいよ福田政権打倒しかないか。

 

平成20年4月28日

横暴な中国人の沿道占拠 ──赤旗林立は日本国民への侮辱

 長野とソウルの聖火リレーは、機動隊を中心にした4000人規模(ソウルでは8000人)という異例の警備体制のもと「予定どおり」行なわれた。警官隊の人垣の中を走るということ自体、異常であり、歓迎されていないなによりの証拠である。

 異様であったのが、「中国人留学生」と称する3000人とも4000人ともいわれる一団(ソウルでは一万人)が沿道を占拠し、赤旗(中国国旗・五星紅旗)を林立させ、歌を歌い、「ワンチャイナ」と叫んで応援したことである。当然日本人の一般市民は閉め出され、「ここは日本なのか、中国の街角なのか」と思わせる光景であった。

 中国が国家権力をもって動員すれば、このくらいは朝飯前であろう。力と数で圧倒すれが「勝ち」という感覚は、「友好」とはほど遠い感覚である。遠慮という感覚もなければ、礼儀の感覚もない。あるのは力づくで勝ちさえすればよいという感覚だけである。赤旗を林立させて人海戦術で沿道を埋めるという作戦は、日本国民を人と思っていない、横暴な感覚がなければできない所業であり、日本国民への侮辱である。それはチベット人を人と思っていない民族否定、文化否定にも通じている。中国共産党独裁の本質が露呈された光景であった。

 中国はオリンピックそのものを私物化しているが、聖火リレーにもそのことがよく表れている。聖火を管理するのは中国だということにこだわり続けている。青いトレーナー姿の「警備隊」は、日本では日本警察の面子を尊重して警備行動こそしなかったが、二人がランナーにぴたりとついて、管理権を執行していた。「あくまでもすべてを中国が取り仕切るのだ」という強い意思表示である。世界の皆に参加してもらい、ともに協力しあって成功させようという姿勢は見られない。自分たちが仕切り、そういう形で「成功」させたいという私物化・政治利用の動機が前面に出たやり方である。

 そもそも各国の聖火リレーは、各国のオリンピック委員会が管理すべきものであって、主催国が管理すべきものではない。各国でリレーをしながら盛り上げていくべきものである。主催国がしゃしゃり出るものではない。聖火リレーの段階で、これだけ不愉快なことがあった。始まったら、どれだけ政治利用されることか。まず開会式だが、政府要人が出席するだけで、私物化に花をそえることになりかねない。日本の福田首相はまだ態度を鮮明にしていないが、直前になって出席を表明する腹であろう。中国の顔色をうかがって、おろおろするとは、日本もなさけない国になり下がったものである。アメリカにむかっては「言うべきことを言え」と常日頃言っている連中は、中国に向かっても言うべきことを言ったらどうか。

 

平成20年4月11日

中国共産党の強権的姿勢と隠蔽体質

 国威発揚のためのオリンピック誘致が、皮肉なことに中国にとって裏目に出て、近代国家としての水準に達していないことが世界に明らかになってしまった。チベット弾圧は言うに及ばず、各国選手団が中国国内での合宿を避けるというほどの公害のひどさ、毒入りギョーザ問題をはじめとする食品安全の危うさ、貧富の差、人権無視、ありとあらゆるマイナスが一挙に世界の目にふれてしまった。

 今までチベット抑圧についてどんなに訴えても世間の関心を引かなかったのに、オリンピック開催時と重なったために、一挙に大きな関心をまきおこした。中国にとってオリンピック開催が凶となりかねない事態となった。

 このピンチに対処するのに、中国共産党は強権発動という硬直した姿勢と、都合の悪いことは隠して表面だけ取り繕うという、独裁政権の定番のやり方しか思い付かないらしい。聖火リレーへの抗議に対する対策に、そのことが典型的に現れている。

 一方では「警備隊」で聖火の周りを固めて力づくで聖火を守ろうとする。彼等は守るだけではなくて、聖火の受け渡しから持ち方まで指図し、ランナーを木偶か傀儡のように扱っていた。国内で人民を支配するときの感覚がもろに出たのであろう。が、それでも抗議行動を防げないとなると、こっそりとルートやゴールを変更して(発案は市長らしいが、もちろん中国側が「ウン」といわなければ実行されない)、こそこそと隠れて走ったことにして、「成功、成功」と宣伝する。

 国民には事実を知らせないで、公式発表だけを信じさせる独裁政権のやり方を、世界に対しても通用させようという、独断的で硬直した発想である。長いあいだ安易な独裁に慣れてしまうと、これほどまでに愚かな糊塗策しか思い付かないと見える。

 中国共産党にオリンピックを開催する資格のないことが、誰の目にも明らかになった。IOCは中国を主催国に選んだ条件としての「人権改善」がなされていないという声明を発表した。

 オリンピックを政治利用したのはヒトラーだった。聖火リレーを始めたのもヒトラーである。独裁者はみな同じことを考える。だが今は時代が違う。政治利用しようとした中国は、政治的に追いつめられている。ただ国内向けの報道管制によって、「市民から歓迎を受けた」と嘘を報道しても、世界には通用しない。ボロをかくしとおすことのできる時代ではないのだ。

 さて、問題は長野での聖火リレーである。ヨーロッパやアメリカでこれだけ激しい抗議が行なわれたのに、日本だけ無風地帯のように「無事に」聖火リレーが行なわれたら、世界の心ある人たちの笑い者になる。暴力的な抗議は日本人にはふさわしくないが、そのかわりできるだけ多くの抗議団を組織し、数の力で抗議の意思を見せつけることができれば理想的である。可能な人は一人でも多く長野に結集しよう。行けない人は自分の町で集会やデモを組織して、抗議の意思表示をしよう。

 欽ちゃんや星野監督など、ランナーは全員辞退すべきである。

 

平成20年4月3日

自滅的殺人はなぜ起きたのか

 「人を殺したかった」「相手は誰でもよかった」という理由で、人を殺す事件が立て続けに二件も起きた。「動機が分からない」と言われている。「動機」とは何かを考えてみる。

 殺人事件の犯人に対して、警察・検察や裁判所は必ず「動機」を明らかにしようとする。「動機」によって、処分の程度を決めるためである。鬼畜にもまさる身勝手な「動機」ならば極刑にするし、情状酌量の余地のある「動機」ならば減刑にする。「動機」がない(分からない)となると精神鑑定を行い、「心神耗弱」などと診断されると「責任能力なし」とされて、刑事責任を問われなくなる。

 私はかねてより、このシステムに疑問を持っていた。「動機」やそれを生んだ「原因」によって殺人に対する刑罰の程度が異なるというのは、犯人に対する同情心(とまでは言わないとしても、犯人に対する配慮)から出たシステムである。つまり犯罪を犯すのは「社会が悪いからだ」「育てられ方が悪かったからだ」という思想(階級闘争史観)を反映したシステムであり、原因を本人の外に見いだす考え方である。

 しかし被害者の立場から見れば、「動機」や「原因」は関係ないのである。命を奪われた者、その家族、友人等々から見たら、「動機」が何であろうが、殺人そのものが極刑に値する。失われたものの価値は、失わせた者の「動機」によって異なってくるはずがないのである(ただし「動機」の中には同情すべきものがあることも確かであり、まったく無視してよいという意味ではない)。例の光市の妻子を殺された本村氏が犯人の死刑を要求しつづけていることに、私は最大限の同情と支持を送りたい。

 どんな境遇であれ、立派に生きている人はいくらでもいるのであり、私は殺人犯の処遇の程度を決めるものとして「動機」に注目する今のシステムには大きな疑問を持っている。しかし私は別の意味で殺人犯の「動機」に注目している。それは彼等の真の「動機」を解明することによって、真の原因を明らかにし、それによってこうした無差別殺人のような理不尽な殺人を防ぐことが可能だからである。

 殺人の「動機」には大きく分けて二つある。ひとつは「意識的動機」であり、いまひとつは「無意識的動機」である。強盗に入って顔を見られたから殺したというのが「意識的動機」、今回のように「なんでもいいから人を殺したかった」というのは、真の「動機」が本人にも意識されていない場合である。こうした場合は、殺人にまで至るケースは氷山の一角で、いじめや鬱病や自殺という現象として社会を覆っていると言っても言い過ぎではない。

 今回の事件のうち、土浦市の8人殺傷事件も、岡山市の突き落とし事件でも、犯人の真の「動機」は「人生をゲームセットにしたい」というものである。心理学の専門家は「自滅的」と言っているそうだが、それは正しいと思う。現場の捜査員は「殺人そのものに興味を持っている」のが動機だという見方をしているらしいが、それは目の前の現象を見た印象であろう。自滅するための手段として殺人を考えるようになって、殺人に興味を持ったのであり、殺人への興味は二次的派性的なものであろう。根本は人生をゲームセットにしたいという心理である。ただし「自滅的」ならば端的に自殺をすればよさそうなものだが、じつは自殺には多大なエネルギーとある種の「強さ」が必要なのである。この二人の犯人には、それだけの「強さ」もなかったということである。だから殺人を犯して刑務所に入れられたり、死刑になることで、「この世」から「おさらば」したかったのである。

 問題は、(いかに困難を背負っていたとはいえ)人生を捨てて「この世」から去りたいと思うほどに、しかしそうかといって自殺もできないくらいに、ひ弱な人格にどうして育ってしまったのかというところにある。

 この疑問へのヒントとして、あるテレビが放映した、岡山の「突き落とし」事件を起こした少年の父親のインタビューに注目したい。この父親は驚くほど冷静に、自分と少年との関係を「分析」していた。すなわち、この父親は「子供の心にかかわってやれなかったのかもしれない」「受け止めてやれなかったのかもしれない」といった意味のことを語っていたのである(記憶だけなので言葉遣いは正確でない)。

 他人事のような言い方が気になる点は別として、こう言う「感想」は「母性的な対応をしてやれなかった」という感慨である。父親には父親として、子供を強く育てる、鍛えるという役目があり、それを十分に果たせなかったという反省は、この父親の口からは語られなかった。この父親自身にまったく父性が欠けているとしか考えられないのである。

 この少年は何度も環境の変化を経験し、カネが足りなくて大学にも行けず、就職もうまくいかなかった。それが真の「動機」だという見方もあるそうだが、それらは直接のきっかけではあるが、真の原因・動機ではない。隠れている真の動機は、困難に出会って人生を捨ててしまいたいというものであり、真の原因は父性欠如で育ってしまったひ弱な人格にある。

 自分の人生をゲームセットにしたいというときに、他人を巻き込むことの重大さに思い至らないというのは、自分勝手であると同時に、最大の「甘え」の発露である。これは自分の不満を「いじめ」という行動に出ることによって晴らすという心理と原理的には同じである。いじめられる側の立場に立って考えることができない、自己中心的な「甘え」の極致が、今回の「身勝手殺人」となって現れたと言うことができる。

 「身勝手殺人」の真の原因は、父性の欠如である。父親自身が「母性的な対応が欠けていた」と反省するようでは、まだまだ父性の大切さが子育ての現場に浸透していないと言わざるをえない。

 

平成20年3月26日

末期的な福田政権

 チベット族の抗議行動に対する弾圧に現れている中国共産党と軍部の強権主義については、何度も言ってきたので、今さら改めて言う気にもならない。またぞろ動き出した「夫婦別姓」への動きについても、これまた改めて論ずる気にもならない。

 中国五輪委員会は、日本での聖火リレーについて、抗議行動を制限するように日本政府に要求しているそうである。よくも臆面もなく無法な内政干渉をしてくるものである。日本政府はよほどなめられているとみえる。

 中国共産党の強権主義とかけて「夫婦別姓」と解く。ココロは、どちらも福田政権がバックアップしている。福田首相にも困ったものである。中国に向かって言うべきことを何も言わないのは、対中国利権派閥や団体に支えられている政権だからであろう。毒入りギョーザ事件もうやむやにされてしまいそうである。人気もガタ落ちで、末期的と言うべきである。

 日本のサヨクも例によって例のごとし。中国のチベット民族抑圧に抗議しない理由はと問われて、情報がないからだという。中国が情報統制しているという事実が、なによりも弾圧や虐殺・暴虐といった、中国にとって都合の悪い事実を隠すためであることを物語っているというのに。日頃、金切り声をあげて人権、人権と唱えているくせに、こういう時にはおとなしい。

 一方、小沢一郎氏も、自民党を困らせれば手柄になると考えているとしか思えない。戦術だけで政策がない。政権を奪取することだけが目的で、その政権で何をするのか明確でない。

 日本の政治はどうなるのか、先が見えなくなってきた。政界再編というが、どういう再編かが問題である。

 一条の光が見えてくるのか、突破口はあるのか、希望を捨てないで見守るしかないか。

 

平成20年3月15日

銃を向けただけで「公務員暴行凌虐」とは !?

 夜に路上で騒いでいた少年たちに、立ち去るように言ってもきかない。そこで警官が銃を抜いて威嚇した。それだけで、この警官は「公務員暴行凌虐」の罪で書類送検され、停職一カ月の処分を受けた。納得できない重すぎる処分である。

 この警官は意味もなく拳銃を抜いたわけでもなく、また意味もなく威嚇したわけでもない。警官には、拳銃を抜くことも、威嚇することも許されている。ただしそれは相手が暴力的に刃向かって来た場合だけである。この場合は、ただ説得に従わなかっただけなので、拳銃で脅すのは厳密に言えば確かに「違法」である。「殺すぞ」と言ったそうだが、それはさすがに行き過ぎだし、警官が感情的になってはいけない。ただし、単純な違法ではない。罪もない市民に銃を向けたのではなく、市民に迷惑をかけている悪ガキに言うことをきかせようとして、威嚇をしたのである。単に「違法」というだけで停職は重すぎる。ましてや「公務員暴行凌虐」はあまりに大袈裟ではないか。

 では、この場合、警官はどうすればよかったのか。どうすべきかについて、警視庁は日頃からマニュアルを作り、教育指導をしているのだろうか。警察官になる前に、警察学校で一般的な教育は受けるだろう。しかしこうした具体的なケースで、どう行動すべきかについて、段階的なマニュアルを作っているのだろうか。そういう指導があったのに、この警官が逸脱した行動に出たというのなら、処分を受けても仕方ない。

 そのあたりのことを質問しようと思って警視庁に電話をしたみたが、広報課にしかつないでくれない。電話に出た女性は、「ご意見を聞くことしかできません」と言う。質問には答えられないそうである。まして、処分を出した責任者とは話ができない仕組みになっているらしい。

 こうしたケースでは、私の考えでは、警官は実力行使をしてもいいと思う。腕をとってもいいし、反抗すれば腕をねじってもいい。もっと反抗すれば応援を呼んで署に連行してもいい。毅然とした態度で、実力行使をすればいいのである。それに対して、さらに暴力的に反抗してくれば、そこで初めて銃を抜いて威嚇し、その次の段階で威嚇射撃をする。状況次第では、銃を抜くことに躊躇してはならないのである。

 日本はアメリカなどに比べて拳銃使用に臆病すぎる。相手が反抗的だったり、突然暴力的になりそうな場合に、拳銃を抜いて構えるのは当然とってよい防御体勢である。迷惑行為をやめない相手に、拳銃で威嚇するのは正当行為だという認識を持つべきである。

 拳銃を突き付けた程度でいちいち処分されては、現場の警官の士気にかかわる。だいたい少年たちの住所氏名を聞いたときに、拒否されたというが、職務質問を拒否したら、ただちに署に連行し、きちんと住所氏名を確認すべきである。悪ガキを「市民」と呼び「市民に銃を突き付けたのは違法だ」というのが処分の理由らしいが、そんな弱腰の態度だから、なめられるのである。

 10年ほど前に、長野県の辰野町の警官が、二人乗りのバイクを止めようとしたとき、バイクがさんざん逃げ回ったのに対して、やはり銃を突き付けて、即刻懲戒免職になった事件があった。そのときは町民の多数の署名が集まって、結局復職した。今回も住民は警官を圧倒的に支持している。警察幹部は世論の動向を見誤ってはならない。

 今回の場合は、銃を抜くのが少々早すぎたというだけである。威嚇は必要だったのだから、「違法」「違法」と騒ぐほど、違法性は強くない。ましてや、暴行などしていないのに「暴行凌虐」罪の適用とは、その方が違法であろう。

 このケースはせいぜい「戒告」か「訓告」で十分である。

 

平成20年2月15日

親の注意義務 ──フェミニズムの悪影響 ?

 平成11年に、割り箸が喉に刺さり、保育園児が死亡するという事件があった。割り箸の先端が脳に刺さって残留しているのを見逃した医師の責任だとして両親が訴えた訴訟で、医師の過失は認められないという判決が東京地裁で降りた。

 問題点の多い事例である。まず、医師の側にどの程度の責任があったのかという問題。具体的に言えば、割り箸が喉に深く刺さって、その先端が折れて残っている可能性を疑い、調べてみるべきであったのかどうか。そのためには、医師に対して、それ相応の情報が与えられなければならない。

 ところが、この母親は、割り箸がどのくらい深く刺さったのかについて、ヒントになるような事実を示すことができなかったようである。自分自身、子供が転んで割り箸の刺さる所を見ていなかったからなのだ。刺さった割り箸も医師に見せてはいない。見せていれば、先端がささくれだっていたはずだから、その先がまだ体内に残っている可能性を医師は疑うことができたかもしれない。救急隊員からの申し送りも、第一級の緊急事態だというものではなかったそうである。医師は口の中を見て、普通の外傷だと判断し、薬をぬっただけだった。

 もし優秀な医師だったならば、割り箸が深く刺さって、その先端が折れて残っている可能性を考えたかもしれない。しかし、この場合の情報のあり方を考えてみると、すなわち割り箸も見ず、折れたとも聞かされず、傷口に割り箸の残骸も見当たらなければ、普通の医師なら外傷だけと判断しても無理ないのではないだろうか。

 さて、次に問題になるのが、両親の態度である。両親は、医師に対して過失を責めている。しかし、責めている両親の側には、過失はなかったのか。大いにあったと私は思う。幼い子供が口に棒をくわえて歩くなどという危険なことは、親は顔色を変えて注意し、阻止しなければならない。少なくとも、手を引くのが基本中の基本である。

 私が子供のころでも、子育てをしていたころでも、もしも幼い子供が口に棒をくわえて走りだしたら、周りの大人はきそって顔色を変えて走りより、抱きかかえたり手を握ったり、棒を取り上げたりしたものである。それくらい危険なことなのだ。

 ところが、この母親は綿飴を食べている子供から離れてしまった。中学校の教師であるこの母親は、生徒たちも祭りに引率しており、その生徒たちのところに向かった矢先に子供が転んでしまったのだ。子育てと仕事の両立がいかに難しいかが、絵に描いたように現れている光景である。

 私がいちばん疑問に思うことは、自らはその基本的な注意義務を怠っておいて、他人にだけは細心の注意義務を要求している点である。しかし、責任の第一は親にあったと言わざるをえない。

 この母親は訴訟を起こしたり、本を出版したりしているが、背後に何らかの集団や団体の存在がなければ、できることではない。現に、サヨク、キリスト教徒、フェミニストが見え隠れしている。この人たちは「しつけ」ということそれ自体に反発して、「しつけ=悪」という考えを持っている場合が多いのである。

 とくに、この母親の思考や行動には、フェミニズムの悪しき影響が数多く見られる。つまり、この母親は「子供のことは他人任せ」で、「子供を見ていない」「子供に関わっていない」のである。子供が転んで割り箸が喉に刺さったことも人から教わり、子供の詳しいケガの経緯も医者に説明しない(できない)まま医者任せ。それで医者を責めるのは理不尽というものであろう。

 さらに、この母親は、ぐったりしている子供を父親にあずけて、祭りの打ち上げの飲み会に行ってしまった。どこまでも「子供は他人任せ」の姿勢をつらぬいている。「幼児の世話は母親が第一次的に責任を負っている」という考えとは正反対の態度である。

 何でも他人任せ、何でも他人のせいにするという姿勢は、反体制思想を持つ人たちに共通の傾向である。毒入りギョーザ事件でも、政府の対策を強化せよと叫ぶが、中国政府やJTフーズや生協には対策を要求しない。まして、原材料に無関心で、安ければよいと買っていた自分のことは完全に棚上げである。沖縄の米兵による少女乱暴事件でも、アメリカを非難するが、女子中学生が夜中に盛り場を徘徊することについては非難しない。

 こうした事件においては、誰が加害者で誰が被害者かという単純な二分法に陥りがちである。しかし、大切なのは、割り箸が刺さって亡くなった子供のような、真の被害者を二度と生まないことである。医師に責任があったかどうかを検証することも大切だが、親にも責任があったということをはっきりさせなければ、同じような悲劇を防ぐことはできないであろう。

 

平成20年2月1日

お懐かしや大日向雅美氏の母性神話論

 久しぶりに大日向雅美氏の母性神話論が目にとまった。今でも彼女はいろいろな所で同じことを言っているのだろうが、このごろではあまり関心がないので、気にしていなかった。

 『読売新聞』に「人生案内」という欄があり、普段はあまり読まないが、今日は「母性に欠けていた母が憎い」という相談に対して大日向雅美氏が答えているのが目にとまったので、何を言っているのかなと興味を引かれて読んでみた。

 相談者は、自分が「子育てをしてみて、実は母に全く母性がなかったことに気付き母が憎くなってきました。」と書き出している。

 「母はずぼらで、子育てに興味がなかったようです。幼いころに髪をとかしてもらった記憶はなく、初潮の時も不安を察してくれませんでした。熱を出しても「寝てたら」と言うだけ。出産の時も、友人の母は一晩中腰をさすっていたというのに、私の母はミカンを置いて帰ってしまいました。

 経済的には恵まれていたので欲しいものは何でも買ってもらえました。ただ愛情や親子のふれあいがなかったのです。

 母も老いてきて最近は私を頼るようになってきました。しかし、昔のことを恨みに思う気持ちが抑えられず、母のことを心配する気持ちになれないのです。こんな自分が嫌になります。」と訴えている。

 これを読んで大日向氏は自分の娘から自分が非難されているような気持ちになったのではなかろうか。こう答えている。

 「あなたは、母親はいついかなる時も慈愛に満ちて、完璧な子育てができるはずだという母性観にとらわれてはいないでしょうか ? 女性に一様に揺るぎない母性を求める考え方は今や神話にすぎないと指摘されるようになりましたが、信奉する人が多く、大勢の母親が苦しめられています。

 母親も一人の人間。長所も欠点もあり、子どもの愛し方も人それぞれ異なるのです。精いっぱい愛しているつもりでも、子どもを傷つけていることもあるでしょう。あなたの理想の母親像は横において、産み育ててくれた人のあるがままの姿を受け入れる努力をしてみませんか。」

 相も変わらぬ大日向節と言うべきか。この人は母性のない母親を弁護することしか考えていない。母性のない母親に育てられた子供の気持ちはまるで分かっていない。つまり相談者の立場から答えるのではなく、その母親の立場から答えてしまっている。これでは相談者に対する「人生案内」にはならないだろう。

 しかも、その弁護の仕方にゴマカシがある。相談者の不満は、「髪をとかしてもらった記憶はない」「初潮の時も不安を察してくれなかった」「熱をだしても「寝てたら」と言うだけ」「出産の時もミカンを置いて帰ってしまった」というもの。こういう不満は、大日向氏によると「理想の母親像」「完璧な子育て」を求めていることにされてしまう。まるで逆ではないか。この人が求めているのは、母としての最低限の心遣いである。いったい、(経済的に貧しくて心の余裕もない、時間もないという場合は別として)幼い女児に髪をとかしてやったことのない母親がいるだろうか。出産のときにミカンを置いて帰ってしまうなどという母親がいるだろうか。いるとしたら、母としての最低の愛情もないと受け取られても仕方ないだろう。

 この人は母に最高の理想像を求めているのではない。最低限の愛情を求めているのである。大日向氏の答えがまるで見当はずれであることは明らかであろう。

 私ならこういう趣旨の答えをする。

 「あなたの恨みはもっともです。母に最低限の愛情を要求する権利は誰にもあります。」

 「あなたが母親のことを心配する気持ちになれないのも、もっともです。親子の関係や相互の愛情は、第一次的には親によって決められます。あなたが母親に愛情を感じられないのは、あなたには責任がありません。だから自分が嫌になる必要はさらさらありません。」

 「そこで、問題になるのは、今の母との関係をどうするかです。」

 「結論を言えば、基本的には、あなたのお母さんがあなたにしてくれた程度のことをしてあげればよいでしょう。」

 「その場合、あなたのお母さんが、どういう家庭でどういう母親に育てられたのか、ということにも関心をもってほしいと思います。それを知った上で、あなたの気持ちにどういう変化がおとずれるかは、自然にまかせてみてはいかがでしょうか。お母さんを許す気持ちになるか、依然として憎んだままか、私はどちらでもよいと思います。いずれになっても、あなたには責任はありませんし、悪いところは一つもありません。」

 「今のあなたにとって一番大切なことは、自分の子供に愛情を注ぎ、良い親子関係を築くことです。そうすれば、子供さんも豊かな愛情をもって応えてくれるでしょう。」

 こんな答えをする人間は回答者には選ばれないだろうな。

 

平成20年1月25日

警察庁の規制強化方針に大賛成

 警察庁は国民の生活安全に関する分野において、規制を強化する新方針を示した。一つは自転車の乗り方に関する規制。いま一つはインターネットの「出会い系サイト」に対する規制である。

 前者については、自転車に乗りながら携帯電話を操作すること、およびヘッドホンで音楽等を聞くことを禁止する、という内容である。後者については、サイトの運営者に届け出を義務づけ、指導を強化し、18歳未満に関する書き込みを削除する義務を課する。

 一歩家を出て歩道を歩くと、携帯を操作しながら自転車に乗っている若者が溢れていて、恐い思いや不愉快な気持ちを経験したことのない人はいないだろう。死者も出ているというのだから、立派な犯罪である。「禁止」という規制の仕方は当然すぎるほど当然である。

 インターネット無法地帯への規制も、もっともっと強化してもらいたい。届け出制と指導強化は、まずは第一歩という意味だと思うが、それではなまぬるい。規制に対する違反に関しては、罰則の強化と断固とした適用をお願いしたい。

 インターネットにおける名誉毀損などの犯罪に対する規制はまだまだ遅れており、「出会い系サイト」だけでなく、自由な書き込みのできる「掲示板」の運営者に対しては、誹謗中傷や名誉毀損に当たる書き込みを許さない体制を取ることを義務づけるようにすべきである。悪質な場合には、サイトそのものを閉鎖できるように法律を改正したらどうであろうか。

 そうした悪質なサイトでも、「内部告発」に役立つメリットもあるとか、表現の自由などという例のごとしの弁護論もあるが、名誉毀損に対して厳しい態度を取っても、メリットは消えないはずである。

 いずれにしても、警察庁の規制強化の方向に対しては、良識ある国民は諸手を挙げて賛成するに違いない。私も大賛成である。賛成の皆さんは、インターネットへの書き込みでもいいし、直接警察庁の生活安全局にメールなどで激励の意思表示をしてほしい。批判するときだけ大声を出すのでなく、よい方向に進もうとしているときにも、支援する声を上げたいものである。

 https://www.npa.go.jp/goiken/index.htm から意見を送れます。

 

平成20年1月21日

危険運転致死傷罪について ──「正常な運転」とは ?

 遅まきながら、福岡市の飲酒運転追突事故の判決について、重大な疑問を呈しておきたい。検察の求刑は「危険運転致死傷罪」を適用して25年の懲役であったが、判決は「危険運転ではない」「脇見運転による業務上過失致死罪」として7年6月の懲役と結論した。

 この判決の最大の問題点は「被告は事故当時、酩酊状態とは言えない」「アルコールの影響で正常な運転が困難な状態にあったとは認められない」というところにある。この判決の特徴は、

 1 「酩酊」を最も狭く厳しく定義し、

 2 「正常な運転」を最も広く甘く定義している

点にある。すなわち、

 1 川口裁判長は、被告が「正常な運転が困難なほどに酩酊していなかった」証拠として、追突までの約8分間、幅が狭くカーブの多い道路で蛇行や衝突をしないで運転していたという事実を挙げ、「酒気帯び」ではあるが、「酩酊による危険運転」には当たらないと結論した。

 また追突直前には気が付いて急ブレーキを踏んでおり、避けようとしてハンドル操作もした。だから「酩酊状態ではなかった」と川口裁判長は判断した。この判断は「酩酊」を最も厳格に解釈した結果である。

 この解釈だと、「酩酊」運転というものは存在しないことになる。なぜなら、「酩酊者」が運転しようとしても、とたんに何かにぶつかってしまい、運転そのものが不可能だからである。つまり「危険運転致死傷罪」の法律は必要ない、というよりほとんど適用されることのない法律ということになる。

 

 2 時速50キロ制限の一般道路を酒を大量に飲んで時速100キロでとばし、しかも脇見をすること自体、常識で考えると「正常な運転」とは言えないと思うが、常識でなく法律に照らしても50キロもオーバーしていれば、飲酒とは無関係に「危険運転」に該当すると認定することが可能である。

 しかも、事故の原因は「酩酊」ではなく、「脇見運転」であるというが、ただの1、2秒間の「脇見運転」ではない。脇見をしていなければ、直線道路の先に車が止まっているのを発見できたはずなのに、脇見をしていて発見できなかった時間は10秒前後あったらしい。ただの脇見ではなくて、「正常な運転」とはとうてい言えないほどの脇見であった。「時速100キロ+約10秒の脇見」は、「正常な運転が困難な状態にあった」どころか、そもそも「正常な運転がなされていなかった」なによりの証拠ではないのか。しかし、この判決は「100キロ+約10秒の脇見」までも「正常」の中に入れるという、「正常」概念の不当な拡大解釈に依存している。

 そもそも、法律自身の定義によれば、「危険運転致死傷罪」とは「アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させ、よって、人を負傷させた者は15年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は1年以上の有期 懲役に処する。その進行を制御することが困難な高速度で、又はその進行を制御する 技能を有しないで自動車を走行させ、よって人を死傷させた者も、同様とする。」(刑法第208条の2)。法律の条文の中には「酩酊」などという用語は存在していない。「アルコールの影響」があって、「正常な運転が困難」なら「危険運転」になるのである。

 ところが、この裁判官は「アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態」=「酩酊」と定義し、酩酊か否かから出発してるから、酩酊でなければ単なる脇見と結論づけることになった。

 「正常な運転が困難な状態」とは具体的に言うと、「前方注視やハンドル、ブレーキの操作が困難な状態」のことである。被告はかなり長いあいだ脇見をしていたことになるので、「前方注視が困難」どころか、はっきりと「前方注視をしていなかった」ことになる。これだけを見ても「危険運転」であることは明らかではないか。

 このように、この判決が求めるような厳格な意味での「酩酊」は「危険運転」の要件にはなっていないのである。「アルコールの影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させ」れば、危険運転とみなされるのである。「時速100キロ+約10秒の脇見」は「アルコールの影響により正常な運転が困難な状態」どころか、「正常な運転をしていなかった状態」と言うべきである。

 

 このように、この判決は「酩酊」の立件を最も厳格に要求し、「正常な運転」の範囲を最も広く定義した結果、「危険運転致死傷罪」には当たらないという、被告に不当に有利な結論が導き出されることになった。

 法律の専門家の中には、法律自体が曖昧なのがいけない、とコメントしている人たちがいるが、法律があいまいな場合には、常識や良識に則って、適切な解釈をするのが裁判官の務めである。事実、この判決においても、「酩酊」「正常な運転」の概念について、一定の定義や解釈をしているのである。問題は、その解釈が正しいかどうかである。

 福岡地裁の川口裁判長の判決は、「酩酊状態」と「正常な運転」の概念に関する解釈が間違っている。それらの概念を被告に有利なように解釈しているという無理がある。そのような解釈では、この法律の存在意義がなくなってしまう。この法律の立法趣旨にかんがみ、この法律を正しく活用するためには、「正常な運転が困難な状態」を適切に解釈し、この事例に「危険運転致死傷罪」を適用すべきである。

 

平成19年12月17日

松山市議会の快挙、「男女共同参画」実施にあたっての濫用防止の基準を採択

 愛媛県松山市には、かねてより会員六百人を擁する「健全な男女共同参画社会をめざす会」という市民グループがあり、男女共同参画の間違った適用(ジェンダーフリー的適用)に反対し、その是正を目指す実践を続けてきていた。その成果が実って、市民グループの支援のもと、本日、市議会の保守派議員が一致協力して、市の「共同参画推進条例」の間違った運用に歯止めをかける「請願」が議会で採択された。これは全国の間違った条例を持つ自治体にとって、間違いを是正する一つの有効な方法を提示したものであり、大きな意味を持つ快挙である。

 男女共同参画を進めるにあたって、その濫用を防止する基準は「請願事項」として11項目にまとめられているが、基本的には私が会長を務めた荒川区の「男女共同参画社会懇談会」の「報告書」の「乱用防止条項」と同じ趣旨である。あのときにはフェミニストが意外なほどの危機感をまる出しにして気違いじみた反対運動をしたが、この松山市の歯止め基準は「請願」という形式をとったせいか、あのときよりは抵抗が少なかったようである。とはいえ、大切な原則はすべて入っており、画期的な内容になっている。もちろん実現のために努力した人々のご苦労はたいへんなものであったと思う。

 たしかに、条例そのものは残っており、それを改正したり新規制定するという課題は残っている。その意味では、条例の作り替えを10歩とすれば、3歩前進と言うべきかもしれない。しかし、地域ごとの事情に応じて、できる範囲で確実に前進することは、大きな意義をもっている。この方式は、他の自治体でも取り入れることが可能であり、ぜひとも全国に波及させてほしいと思う。

 

 採択された「請願事項」とは、次の11項目である。

(1) 日本の伝統と文化を尊重すること

(2) 身体および精神における男女の特性の違いに配慮すること

(3) 家族と家庭を重視すること

(4) 専業主婦の社会的貢献を評価し、支援すること

(5) 子どもを健全に育成する上で乳幼児期に母親の役割が重要であることに配慮すること

(6) 性教育は社会の良識に配慮し、子どもの発達段階に応じて行うこと

(7) 数値目標は現実的に策定し、長期的視野に立って達成すること

(8) 教育においては上記の全項に配慮するほか、規範意識と公共の精神の醸成にも努めること

(9) 表現の自由および思想信条の自由を侵さないこと

(10) 松山市はジェンダー学あるいは女性学の学習あるいは研究を奨励しないこと

(11) 性別による固定的役割分担意識およびそれに基づく社会習慣を認定した場合には、その認定について松山市議会に報告すること

以上

 

 なお、その前に「趣旨」として、以下のような前文がつけられている。

 

 松山市男女共同参画推進条例の運用の基本方針を明確にすることを求めることについて

(趣  旨)

 男女共同参画社会基本法は平成11年6月に制定され、同年末までに2回改正されました。翌年12月に男女共同参画基本計画が策定され、男女共同参画の施策が本格的に推進されることになりました。この基本法の定めるところにより、地方公共団体は続々と男女共同参画推進のための条例を制定しました。松山市は平成15年7月に男女共同参画推進条例を制定し、同年12月に改正しました。

 基本法には「ジェンダーフリー」という思想が巧妙に隠されていますが、多くの国会議員はそれに気づかず、また法案の作成にかかわった審議会委員や官僚に対して不信の念を持たなかったために、基本法を易々と成立させてしまいました。地方公共団体の議会においても、同様に多くの議員がむしろよいものと判断し、条例を成立させました。

 基本法では隠されていたジェンダーフリーの思想が、基本計画では表に引き出され、偏向した男女共同参画の施策が行われることになりました。その施策が進み、ジェンダーフリー思想が社会に周知されるに及び、ようやく男女共同参画の正体に人々が気づき、各地で多くの批判が湧き上がってきました。

 その批判を受け、政府は「男女共同参画はジェンダーフリー思想の普及を目的とするものではない」という趣旨の弁明を行うとともに、平成17年12月には第2次基本計画を作成し、ジェンダーフリー色を除去した男女共同参画推進の基本方針を示しました。

 昨年12月には教育基本法が改正され、続いて本年6月に学校教育法、地方教育行政法および教員免許法のいわゆる教育三法が成立しました。これらの改正法では、伝統と文化の尊重、規範意識と公共の精神の醸成、家族と家庭の重視などが掲げられています。ジェンダーフリーの思想はこれらの価値観と全く相容れません。

 このように私たちを取り巻く社会の情勢は、松山市が男女共同参画推進条例を制定したころとは大きく変わっています。したがって、松山市が政府の第2次基本計画、改正教育基本法および改正教育三法の精神、さらには小児医学や脳科学等の最近の学問水準に基づき、下記の請願事項を基本方針として現行の条例を運用されるよう請願いたします。

 

平成19年12月4日

またやってくれた、汚い韓国

 まずは、祝・星野ジャパン北京五輪出場決定 ! !

 北京五輪そのものに反対し、ボイコットを訴えている人たちから叱られるかもしれないが、宿敵韓国を破っての結果だから、とくに喜ばしい。

 もちろん、私も北京五輪そのものに反対である。侵略的覇権主義の中国共産党支配は、人民を苦しめ、公害を垂れ流し、一部の特権階級のみを富まし、人権を侵害し、少数民族を圧迫している。北京五輪はその共産党独裁支配を花輪で飾り、正当化するために利用されている。

 とはいえ、矛盾するようだが、一野球ファンとして、いや一スポーツファンとして、星野ジャパン北京五輪出場決定には諸手を挙げて快哉を叫びたい。

 ただし、一つだけ不愉快、というより許してはならないことがあった。韓国がまたもや汚い手を使ったことである。

 すなわち、一時間前に「国際野球連盟」に届け出た先発メンバーを、試合開始直前に大幅に変更したのである。つまり日本の投手や打順を見た上で、それに対抗する投手や打順を出してきたのである。新しいメンバーは、先発投手が右投げから左投げへ、打順も左腕の先発成瀬に不利になるように、1番から6番まで右打者を並べた。

 疑問の声に、韓国の監督はうそぶいた。「ルールには違反していない」と。たしかに、ルールには明文化されていない。しかし、法網をくぐるような卑劣なやり口である。そういうことはやらない、という前提の下で、一時間前にメンバー表を届け出る。報道陣や審判の便宜のためであるから、リストが配布される。自然に互いの知るところとなる。それを悪用して、「勝つためには手段を選ばず」という態度に出るとは、スポーツで最も大切なフェアプレーの精神に反することはなはだしい。

 星野監督も「監督会議で紳士協定を結んだ。ルールブックにはないことだが、非常に疑問だ」と語ったという。国際感覚としては、超・後進国である。世界が見ている中で、よくもあんな恥ずかしいことができるものである。もしかすると、「日本の鼻をあかした監督よ、よくやった」と褒める大衆が背後に多くいるのだろうか。

 韓国には、特大の前科がある。2002年のサッカー・ワールドカップ大会で、審判買収の強い疑惑がかけられたままである。「サッカーW杯の誤審事件について」参照

 あれで、サッカーファンを中心に韓国嫌いが急増した。日本だけではない。世界どこにいっても韓国人は嫌われものになっているそうだ。最大の被害国イタリアでは、韓国人が道を歩いていると物を投げられたそうだが、韓国人と間違えられて日本人まで被害に遭ったというのだから、たまったものではない。今回のアンフェアなやり方によって、またもや野球ファンを中心に韓国嫌いが増えることだろう。

 こんなことを繰り返していると、韓国は世界の鼻つまみになりかねない。今回の件は日本が勝ったからいいようなものの、もし負けていたら、と思うとぞっとする。韓国人は汚い手段については頬かむりして、ただ「勝った」「勝った」と大喜びしたことであろう。韓国が今後も「手段を選ばず勝ちに来る」ことは目に見えている。いくら抗議しても改めることはないであろう。しかし、「紳士協定」を破るような国とは友好関係は結べないと、声を大にして言い続けることは必要である。

 

平成19年11月1日

市川市の基本計画案は議会制民主主義の否定・地方自治の否定 ──私が送ったパブリックコメント

 今回出された市川市の男女共同参画「基本計画案」は議会制民主主義の否定・地方自治の否定と言うべきものである。なぜなら、「市の」基本計画とは、「市の」条例の理念を具体化するためのものであるから、「市の」条例の内容に即したものでなければならないのは理の当然であるのに、即していないからである。

 発表された「基本計画案」は冒頭で、国の男女共同参画社会基本法と市の条例に基づくと述べ、また2001年にスタートした「市川市基本構想」や国や県の「基本計画」との「整合性を図りながら」作成されたと述べられている。「整合性」というと聞こえがいいが、しかし実際出来上がったものを見ると、9割がたは「国連-国-千葉県の取り組み」に則り、肝心の市川市の条例の内容を棚上げし、無視し、ないものとして扱っている。

 その具体的手口は、一方で市条例の中にある内容を無視する、他方で市条例の中には存在しない内容を入れ込む、というやり方である。市議会が否定したものを再び入れたのでは、市議会を否定したも同然である。また国や県の権威を押しかざすのは、地方自治の否定である。

 要するに、議会で可決された新条例を、事実上否定する所業である。これが議会制民主主義の否定・地方自治の否定でなくして何であろうか。この基本計画は手続き上は、市長の裁断で制定できるのだそうである。もしこんなものが実現すれば、市川市の恥さらしとなるであろう。

 それにしても、フェミニストというのは、どこまでも汚い手を使うものである。どんなルール違反をしようが、手段を選ばず、結果さえ勝ち取ればよいという態度には、怒りを通り越して、呆然としてしまうほどである。

 以下の緑色の部分は、私が市川市に送ったパブリックコメントである。皆さんも是非、一人でも多く、市川市にパブリックコメントを送ってください。締め切りは14日です。

 

 市川市の男女共同参画条例に基づく基本計画案へのパブリックコメントをお送りします。

 基本的姿勢の間違い

 市の基本計画は、市の男女共同参画条例の理念を実現すべき計画なのであるから、直接的に市の条例に則った内容でなければならない。

 しかるに、基本計画案は国連や国や千葉県の取り組みと、市川市の基本条例との「整合性を図りながら」起案されたと述べられているが、事実上は「国連-国-千葉県」のこれまでの取り組みにほとんど全面的に則っており、直接的に依拠すべき市川市の条例内容を無視または軽視したものとなっている。市の基本計画は市の条例の理念を実現するためのものであるから、「条例に基づかない基本計画」というものは存在しえないはずである。

 

 この基本計画案は

(1) 条例の中にあるのに計画案では無視ないし著しく軽視されている内容と、

(2) 条例には存在していない内容や条例と相反する内容

 

から成っており、結果的に条例とは無関係な計画案となっている。

 

(1) 条例の中にあるのに計画案では無視ないし著しく軽視されている内容

1 性別役割分担の積極的評価

 条例では「男女が、その特性を生かし、必要に応じて適切に役割分担しつつ」(第2条)、と性別役割分担を積極的に評価しているが、「計画策定の目的」においては「社会制度や慣行において、男女の役割を固定的に捉えた性別役割分担意識が、いまだに解消されているとはいえません」となっており、むしろ性別役割分担意識の「解消」を目的としている。 

 

2 家庭に関する部分が全面的に無視されている。

すなわち条例では、

(1) 家庭において実現すべき姿

ア 家族一人一人が家庭尊重の精神に基づいた相互の理解と協力の下、それぞれの個性を大切にする家庭

イ 家族が、生活設計の中で学習、仕事、家事、子育て、介護、地域活動等その時々に応じた多様な組み合わせの生き方を自ら選択することができ、それぞれの能力及び適性を認め合うことができる家庭

ウ 専業主婦を否定することなく、現実に家庭を支えている主婦を家族が互いに協力し、支援する家庭

エ 子を産むという女性のみに与えられた母性を尊重するとともに、育児における父性と母性の役割を大切にし、心身共に健康で安心して暮らせる家庭

 

 となっているが、この部分に対する基本計画がまったく貧弱であり、ただ「家族一人一人が協力し合い、適切な役割分担により補完しあって築いていきます」としか書かれていない。家庭・家族への軽視は明かである。

 

(2) 条例には存在しない内容、および条例と相反する内容

1 「政策・方針決定過程への女性の参画」(各種審議会への女性の参画の促進・女性人材情報の整備と提供・事業所及び各種団体等における女性の参画の啓発・女性の自立及び自己決定能力の育成への支援・女性団体等への活動の支援)

 男女共同参画と言いながら、女性だけを優遇し支援する内容となっている。

2 「性別に捕らわれない視点に立った社会制度・慣行の見直し」

3 「女性のあらゆる社会への一層の参画や、男性においても職場や仕事だけでなく、家庭や地域社会への積極的な参画」と書かれている。これは条例と逆の主張である。すなわち、家庭生活における女性の重要性に対する認識が欠如しており、むしろ家庭を捨てて社会進出を促す思想である。また男性の「家庭への参画」とは、女性の社会進出を補完するためと理解されており、これも条例に反する内容である。

4 「就学前教育・学校教育・家庭における男女平等教育の推進」

5 「性と生殖の健康・権利についての意識の浸透」

 これは問題ありとして削除されたリプロダクティブ・ヘルス/ライツを復活させようとするものである。

6 「国際的な協調と相互協力の推進」「在住外国人と共に目指す男女共同参画社会」

 これは男女共同参画社会実現にとって何を意味しているか分からない意味不明の文章であり、条例からは削除された部分である。

7 「男女が男らしさ、女らしさを否定して人間を中性化することを目指すのではなく、生物学的な性差、社会的性別の中の男女共同参画社会の形成を阻害しないと考えられる性別、そうした特性を認め合い」の中の「男女共同参画社会の形成を阻害しないと考えられる」という文言の追加は、「阻害する」と解釈された「性差」を否定する危険を隠し持っている。すなわち、条例とは反対に性差を否定することになりかねない。

 

 以上、今回示された基本計画案は市の条例とは無関係に近い内容であり、全面的に破棄し、条例に基づくものを改めて作り直す必要があると思われます。

 

平成19年10月28日

市川市の基本計画案(男女共同参画)は新条例を換骨奪胎 ──ほとんど旧条例のまま

 画期的な男女共同参画条例が制定されて、健全な男女共同参画社会を目指す人々を元気づけた市川市だが、それに基づくべきはずの男女共同参画基本計画案の中に、なんとほとんど旧条例のままの内容が盛り込まれるという、常識では考えられないような事態になっている。

 新条例に基づくと思われるところは、ただ「男女の違いに配慮する」という文言だけで、あとの内容は用語から思想までほとんどすべて旧条例のままである。例えば、削除された「リプロダクティブ・ヘルス/ライツが入っていたり、「固定的性別役割分担」を中立化するための意識変革をすべきだの、新条例で否定されたはずの思想が堂々と入っている。こんなものが通ったのでは、なんのために新条例が制定されたのか、分からなくなってしまう。

 このように市の新条例を否定する内容を「基本計画」に盛り込むために取っている方法が、「国連」-「国の基本法」-「千葉県の条例」を冒頭に掲げて、旧条例に基づく内容を正当化するというやり方である。もし市町村の条例が国や県の条例をそのまま使えというのであるならば、なにも市町村の条例を改めて作る意味はまったくないし、地方自治体の自主性と独自性を否定するものである。したがって、基本計画案の冒頭には、国連だの基本法だのについて述べる必要はさらさらなく、市の条例の趣旨を述べるだけでよい。それに基づいて基本計画が立てられるべきだからである。

 このように、この基本計画案は、最初から基本となる考え方が根本的に間違っているのである。こんな間違った計画案はただちに撤回し、条例に基づく計画案を作成し直すべきである。

 全国の良識派の皆さん、是非とも同市に意見を寄せてください。

男女共同参画条例

http://www.city.ichikawa.chiba.jp/soumu/equal/jourei/i_equal.htm

市川市男女共同参画基本計画(新条例計画策定案)

http://www.city.ichikawa.chiba.jp/soumu/equal/pubkeikaku.htm

パブリックコメントの募集(11/14〆)

http://www.city.ichikawa.chiba.jp/soumu/equal/publickoment.htm

 

平成19年10月18日

荒川区問題、再び ──小坂英二氏(荒川区議)の嘘

 本ホームページを読んでくださっている方は、3年余り前の荒川区男女共同参画懇談会の経緯と真相について、私が詳細に報告した内容を多大な関心を持って読んで下さったことと思う。「荒川区問題」は、その後もさまざまなところで取り上げられ語り継がれてきており、また「条例案」をほとんどそのまま条例にする自治体も現れるなど、今もなお、今日的な問題であると言える。

 そんな中、最近、あのときの一政治家の言動(報告書・条例案に賛成したか反対したか)が問題になっていることを知った。私も大いに関係のあることなので、事実関係をはっきりさせた上で、私の考えを述べることにする。

 私たち懇談会メンバーが原案を作った条例案は与党公明党の裏切りで廃案になったと言われてきたが、じつはもう一つの側面があった。すなわち、自民党から分裂した「尚志会」という保守的な会派があり、もしこの会派が賛成すれば、公明党が反対に回っても条例案は可決されたのである。しかし「尚志会」は結局フェミニストの側に同調し、条例案をつぶす側に回った。

 そのとき、「尚志会」の中で最も活発に「反対」の言論活動をしていたのが、小坂英二氏であった。ブログにも頻繁に反対意見を書き込み、積極的反対者であった。私は小坂氏のブログを逐一見ていたが、当時の反対派と全く同じことを言っていたのである。しかし、私は保守派である「尚志会」が会派としては最終的に賛成に回るという一縷の望みを持っていたので、正面切って批判することを差しひかえ、ホームページ上では取り上げなかった。

 ところが、最近あるきっかけで、根屋雅光氏から当時の態度について質問された小坂氏は、「林氏と見解を共にする」と答えた。そして 当時は「会派の見解のみをHPに記載した」、採決の際には「会派内での造反を考えていた」と答えたのである。氏のホームページにも、最近そのような自己弁護論が書き加えられた。

 これは真っ赤な嘘である。彼の条例案反対の言動は単に会派の方針に従ったという消極的なものでは決してなく、自分の個人的主体的な判断によるきわめて積極的なものであった。その証拠は末尾に引用する当時の小坂氏のブログやホームページでの「個人としての」発言に見られる(私が黄色で強調した部分に注目されたい)。

 私は当事者の一人として、小坂氏に対し怒りを覚えずにはいられない。当時、私たちに反対したからではない。最初から賛成だったと嘘をついたからである。正直に「最初は反対したが、その後、間違いに気づいた」となぜ言えないのか。正直に言った上で、どういうきっかけで気づいたのか、説明責任を果たした上で、立場の変更を表明すれば済むことである。しかし、初めから賛成だったと嘘をつくというのは、反対された私としては許せない。政治家にせよ、誰にせよ、意見が変わるというのは、よくあることである。まったく変わらない方がおかしいくらいである。かく言う私も多くの思想遍歴を経てきているが、それについてはきちんと総括して公表している。考えが変わったなら、それを周囲に説明するのが、とくに政治家としては最低限の義務であろう。その義務を怠って、最初から変わっていないと嘘をつくなどは言語道断である。

 嘘をついたことも大問題だが、当時の小坂氏の言動も軽率のそしりを免れないものである。懇談会で「常識とかけ離れた運営がなされている」とか、条例案は「介護や子育てを家庭の中だけに無理やり押し込もうとする方向性」などと、まったく事実無根な中傷をブログに書きこんでいたのである。事実を確かめもしないで一方的な情報を頭から信じてすぐブログに書き込むとは、信じられないほどの軽率さである。

 小坂氏は、2004年4月29日の東京新聞、5月7日の朝日新聞、毎日新聞を読んで 5月9日にブログを書いているが、私は5月8日の時点で「ジャーナリズムの暴力──荒川区男女共同参画社会懇談会・一委員の辞任問題」、5月9日に「張學錬(チャン・ハンニョン)委員の辞任 ──荒川区男女共同参画社会懇談会をめぐる嘘と不思議」と題する文章をホームページ上で発表していた。

 さらには、「6人の要望書」の内容についても、小坂氏は5月27日にブログで懇談会委員有志と会って要望書を提出した経緯を聞いたと書き、「懇談会議長の強引な取りまとめ方、とりわけ自分の意に沿わない意見は報告書では軽んぜられている点」が問題だと、「6人の要望書」の嘘をそのまま無批判に書いている。翌28日にはホームページ上で要望書を出した人の「想いはよく分かりました」と書いている。

 結局小坂氏は、懇談会会長である私を貶めようとする嘘の情報ばかりを鵜呑みにし、私の言い分には終始無関心だったようだ。私は5月29日にも「荒川区男女共同参画社会懇談会 4 6委員の要望書への反論」をホームページ上で発表したが、小坂氏がこれらを読み、自らの誤りに気づくことはなかった。その証拠に、小坂氏は6月14日のブログで「荒川区がこの第2回定例会(6月)に成立を目論んでいる 「男女共同参画条例案」が嬉しいことに可決されない情勢になっています。」と書いている。造反しようとしている人間が「嬉しいことに」などと書くわけがない。

 以上、すべての小坂氏の過ちは、議事録か報告書のどちらかをきちんと読みさえすれば簡単に(もちろん私の反論を読めばもっと簡単に)、回避できたものばかりである。しかるに小坂氏はフェミニストの側の嘘を鵜呑みにして、その正否を検証する努力を怠り、軽率な言動を繰り返すばかりであった。

 さて、その後も小坂氏はある掲示板で荒川区の男女共同参画条例案への態度について質問され、2005年4月9日の時点でもなお「条例案の底流に流れている「育児は家庭で行うべきで、女性の社会進出を快く思わない」ような思想にも私は賛同できませんので提出に反対しました。」と書き込んでいる。つまり、1年近く経ってもまだ「反対」であったことを表明している(しかもこの時点で小坂氏は「会派の意見」としてでなく「自分の意見」として反対だったと証言しているのである)。にもかかわらず、つい先日の2007年9月12日に「採決より前の段階で自分の信念を全面に出すことができなかった反省に立ってその後は、最初から最後まで信念を前面に出して活動するようにして参りました。」とホームページ上に追記したのだ。厚顔無恥もはなはだしい。

 これだけでも十分許せないのだが、さらに、小坂氏について、私はもっと重大な疑惑を抱いている。根屋氏のブログによれば、小坂氏の嘘をあばいた根屋氏に対して、さる人物が電話をかけてきて、ブログの中のその部分を削除しなければ「街宣」をしかけるという脅しをかけた。これは民主主義と言論の自由に対する重大な侵害であり、挑戦である。それが小坂氏の意思であるなら、大問題である。小坂氏は「街宣」で脅すような人物と親密な関係にあるのか。男女共同参画条例案をめぐる「嘘」について、そしてこの「脅し」の問題について、小坂氏は納得のいく説明をする義務があろう。自らのホームページ上に、きちんとした弁明を出してもらいたい。

 なお、論点は異なるが、注目すべき記述が見られる。すなわち「賛成は現時点では自民党のみ」(6月14日)「自民党以外賛成する会派はいません」(21日)「嬉しいことに可決されない情勢になっています」(21日)。つまりこの時点ですでに公明党が反対に回るということが公然の秘密として共有されていたという可能性を示している。すなわち、私がホームページに公明党批判を書いたから公明党が反対にまわったというのは口実で、その前から反対する方針であった可能性を示唆している。

 

 以下、小坂氏の嘘の証拠として、小坂氏のブログ、ホームページより引用する。(黄色による強調は林)

小坂氏のブログより引用

平成16年5月9日 ここしばらく、新聞各紙で(例えば5月7日の東京新聞を御覧下さい)荒川区男女共同参画社会懇談会についての記事が見られます。記事をお読みいただければ常識とかけ離れた運営がなされている点がご理解いただけると思います。(1)このような懇談会を非公開で進めていこうとする不自然さ、(2)介護や子育てを家庭の中だけに無理やり押し込もうとする方向性にはとても賛成できません。こうした大事な問題は公開された場で、公平な運営のもと、行なわれるよう区に求めて参ります。

 

5月27日(木)区政で論点となっているもう一つの「男女共同参画社会懇談会」の報告書取りまとめについて、懇談会委員有志(署名6人+趣旨に賛同2人)から区長に申し入れがなされました、詳しくは明日、ご報告いたしますが、懇談会議長の強引な取りまとめ方、とりわけ自分の意に沿わない意見は報告書では軽んぜられている点が問題です。その後、会派の控え室で要望書を提出した経緯をお聞きしました。

 

6月14日(月)荒川区がこの第2回定例会(6月)に成立を目論んでいる「男女共同参画条例案」が嬉しいことに可決されない情勢になっています。以前にも書いたかもしれませんが「育児や介護を家庭に戻す方向」を向いているといわざるを得ない報告書に基づいて作成したこの条例案は(1)中身も偏った点がありますし、(2)懇談会の議事録の整理も終わらないうちに条例を委員会にかける拙速さへの不可解(3)反対の声が大きい条例案を可決する意味が見出せない内容であり、小坂は「おかしな点だらけでとても賛成できない」と言ってきました。もちろん尚志会で賛成するつもりの議員はいませんし、全ての会派を見ても賛成は現時点では自民党のみのようです。32議席のうちの12議席(自民党議員数から議長を除く)が賛成するだけでは 否決になるのは目に見えているわけで、こんな体たらくなら「条例を出すのを止めたらどうか」と区の責任者には申しあげたいと思います。

 

6月21日(月)なお、注目されている「男女共同参画」の条例は自民党以外賛成する会派はいません。区の理事者には成立の見込みの無い、そして存在意義が無く、争いのみをもたらすこの条例の提出を取り下げることが最も賢明な対処だと申しあげておきます。

 

6月26日(土)昨日、速報で示した通り、男女共同参画の条例案が区長部局より取り下げられました。(詳しい報道はこちら)。何度も書いていますように、この件に限らず、(1)様々な観点からの検討をろくにしないで、一部で偏った意思決定を行なう、(2)議会への報告は後回しまたは省略、(3)区の上層部の動きに疑念を持つ議員には法律で公開が定められている文書すら渡そうとしない隠蔽体質、(4)自販機問題だけでなく不可解な契約案件が多すぎる、と言えます。その責任は区のトップにあります。区長の任期も残りわずか。本当に公正・公平な区政運営を行なえる人格・識見に優れた人を次の区長に選ばなければなりません。

 

小坂氏のホームページより引用

 総務・区民委員会での発言。

平成16年5月24日

※議論をする前提として議事録の公開は当然だと考えます。

懇談会の内容についても議論が繰り広げられていましたが、「懇談会」は諮問機関に過ぎないわけで、こだわり過ぎるよりも条例(必要性がまだ、理解できませんが、制定することが規定路線である以上)の内容の精査が重要です。

小坂は「配布された有志の方の異議申し立ての「要望書」を拝見すると懇談会の委員の方々、また、議員の中にも、この報告書を受けての条例制定の内容に大変危惧を抱かれている。特定の思想を前面に出すものではなく、理念を示す条例は議会においても全会派が納得できるような内容のものにすべき」との要望もいたしました。

 

平成16年5月28日

★荒川区男女共同参画社会懇談会「報告書」提出について

 5月27日、荒川区男女共同参画懇談会委員の有志(6人が署名)が区長への要望書を手渡しました。この懇談会が昨年から行なってきた議論の経過と提出された報告はこちらをご覧下さい。

 

 この有志が報告書が提出後に、要望書を持参した理由は

(1) 議長の意見に相容れない意見は「報告書」に反映されていない。

(2) 「乱用の防止と是正」という項目を入れる是非をきちんと審議もせずに既成事実化されていた。

(3)「報告書」反映されなかった少数意見を「報告書」に添付なりすべきとの数人の意見にも関わらず、理由も無く却下され、議事録に追加意見として記されるのみの軽い扱いとなった。

(4)区が、条例策定の過程で「報告書」を参考にするなら、その「報告書」が懇談会の総意ではないことを認識してほしい。

(5) 17人の全委員の半数近く(署名6人、賛同2人で合計8人)が審議の進め方やこの報告書での少数意見の軽んじられ方に強い不満をもっている事実を区は重大なこととして認識すべき。

 

そうした背景から

(1)会議録に付された「追加意見」も報告書と同等に重視し、検討して欲しい。

(2)「乱用の防止と是正」については、懇談会の合意形成がなされていないこともあり、慎重に考えて欲しい。

という、要請を行なわれたのです。来られたのは3人で区長とは80分会談。

 

 各会派の控え室にも説明に来られました。新聞記者との懇談を控えて充分な時間が無いため、長い話はできませんでしたが、渡された要望書と説明で想いはよく分かりました

 

 「★この報告書を参考にして区が独自に男女共同参画の条例を制定するのですが、「報告書」はあくまで参考にするだけのもので、それに振り回されず、「男も女も主体的な選択で人生を送れる社会」に寄与する条例にすべく、小坂の所属する総務区民委員会(この条例を審議する担当の委員会)で、有志の皆さんの意も汲んで議論に臨むつもりです。議論非公開や、強引な議事運営など、このような批判を受ける懇談会の有り方は再考の余地が大いに有ります。

(以下、平成19年9月12日 加筆) という姿勢は所属会派(6名で構成)の見解です。

 

 ★(同上、加筆)小坂個人の考えとしては、林氏がこちらに書かれてる見解(「6人の要望書への反論」にリンク)を共にします。にもかかわらず、平成16年の時点で、自ら会派内での意見の衝突を避けるため、会派の見解のみをHPに記載したことは、自らの未熟さと無責任さ故の行動であり、お詫び致します。この条例案は委員会審議にかけられる直前に前区長から取り下げられた経緯をたどりましたが、採決がもし有った際には会派のスタンスに背いても自分の考えを、貫こうと「会派内での造反」を考えていました。採決より前の段階で自分の信念を全面に出すことができなかった反省に立ってその後は、最初から最後まで信念を前面に出して活動するようにして参りました。現在は一人会派の形で、明確に保守を掲げる無所属会派として活動しております。

 

 

平成19年10月12日

自己責任だ、放っておけ ─イランで学生誘拐

 また同じことが起きた。以前はイラクで、危険を承知で行ったはずのばか者が拘束され、政府が救出に懸命になった。私は自己責任だから、放っておけと主張した。今回も同じである。危険なところへ承知で出かけていくのは、自己責任でやるべきである。そこで何が起きようが、政府が国民の「公僕」や税金を使って関与すべきことではない。ましてや、大学が記者会見を開き、24時間態勢で情報を収集するとは、開いた口がふさがらない。大学の授業で行ったわけではないのだ。大学は学生の行動を規制しているわけでもないし、 学外での行動に責任を持っているわけでもなかろう。

 政府にしても大学にしても、放っておいたら「冷たい」と非難を受けると思うのか、あるいはここぞとばかりに「やさしさ」をアピールして点数稼ぎをしようとするのか、いずれにしても筋違いである。幼稚園の子供ではあるまいし、大の大人が自分の判断で行ったのである。被害者が日本人だからといって、自動的に日本政府が何かをしなければならない義務はないのである。まあ政府の立場としては何もしないというわけにはいかないだろうが、通常の業務を犠牲にして大騒ぎすることではない。情報収集や仲介に限るべきである。マスコミも例によって騒ぎすぎである。

 同じような構図が最近も話題になった。流産をしそうな妊婦が救急車を呼んだところ、受け入れ先の病院を探しあぐねているうちに、死産してしまったという事件である。その妊婦はかかりつけの産婦人科を持っていなかった。かかりつけの産婦人科医師がいれば情報も早いし、近くの救急病院も探しやすかった。しかも夜中の2時だったか、買い物をしている最中に、痛くなり救急車を呼んだのだそうである。7カ月の妊婦がどうして夜中の2時に買い物をしているのか。そんな出鱈目な人間のために救急車はあるのではない。自分の危機管理や責任を果たした上で、他人の助けを求めるのが基本である。

 ところが、例によって、政府が悪いことになり、話は救急医療体制の不備だということにされてしまった。自己責任と政府の責任との境界がきわめて曖昧なのが、日本社会の特徴である。なんでも面倒をみるのが「良い政府」ではない。自己管理をきちんとしていて、真面目に生きている者に対して優しいのが、本当に優しい政府である。

 それで思い出したが、ずっと以前のことだから、もう言ってもいいだろう。子供がアメの棒をくわえて走っていて、転んで棒が喉に刺さり、死亡した事件があった。病院の医師が刺さったままの棒の先端に気づかず、帰宅させたのちに子供が死亡したのである。医師は責任を問われた。

 子供が死んでいるので親を批判しにくかったために、私はコメントしなかった。今だから言うが、あれはまず第一には親の責任である。棒をくわえて走るなどという危険なことは、親は顔色を変えて注意し、阻止しなければならない。医師の処置と判断に問題があったことは確かだが、子供の死亡の第一の原因と責任は親にあったと言わざるをえない。全部が医師の責任のように責められたが、自己の責任を棚上げして他人ばかりを責めるのは間違いである。

 自分がやるべき注意義務を果たし、やるべき危機管理をした上で、危機に陥った者は、国なり社会なりが救うのは当然である。しかし自分の危機管理の義務を怠った者については、社会は助ける義務はないという原則を明確にしておくべきである。

 

平成19年10月8日

年金横領犯人、名前を公表せよ

 舛添厚労大臣は、年金横領犯の刑事告発をする方針である。当然すぎるほど当然のことである。

 ところが告発しないという自治体がある。表向きの理由は「すでに返還している」「懲戒免職などですでに社会的制裁を受けている」から、それ以上の制裁は必要ないというのである。返せば許されるというものではなかろう。また、罪を犯したら刑事罰を受けるのは当然であり、社会的制裁とは別の問題である。

 刑事罰は社会的制裁を受けていると軽減されることは多い。しかし、起訴するかどうかを決めるのは検察であり、さらに起訴された場合に刑を決めるのは裁判所である。自治体は犯罪が露見した場合には告発する義務があり、社会的制裁を受けているから告発しないなどということを勝手に判断する資格はないのである。

 自治体が消極的なのは、職員がほとんど親類縁者で占められている自治体が多いからである。親類でなくても、親しい知人だったりする。さらには、自治労の圧力もあるだろう。しかし、刑事訴訟法239条2項は「官吏又は公吏は、その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない」と規定している。告発をしないというのは、刑事訴訟法違反である。

 問題はすでに時効になっているケースである。これについては法律上、刑事告発できない。では放っておくのか。それでは社会的正義が貫けない。時効のケースについては、横領金を返還するのはもちろん、罰金として受け取った給与の一部と退職金くらいは自主的に返還させるべきである。もし返還に応じない者がいたら、社会的制裁を加えるべきだ。社会的制裁に時効はない。例えば、実名の公表といった手段がある。

 もっとも、横領犯の氏名は、時効に関係なく全員のものを公表すべきである。例えば、銀行で横領が発覚したら、すぐに銀行が告発して逮捕、実名報道がなされる。実名が報道されれば、職員、元職員の人権が侵害されると言う者もいるが、犯罪者の実名は常に報道されている。この場合だけ「人権」を盾に、例外的に実名を隠す理由はない。舛添大臣の断固とした態度が単なるポーズでないのなら、犯罪者の実名を公表すべきである。

 

平成19年10月2日

福田内閣のフェミニズム政策を阻止せよ

 前回、福田新内閣を「つなぎ内閣」と呼び、自民党内の対立をまねきそうな問題は避けて通るだろうから、しばし休戦だと書いた。基本的にはそのとおりだが、一つだけ例外のテーマがある。それは「男女共同参画」である。これについては、福田氏(およびリベラル派と公明党)は根本的にフェミニストなので、油断がならないのである。

 彼らは、フェミニズム政策を進めれば国民的支持を得られると思い込んでいる。しかも、周りにいる官僚はほぼ全員フェミニストである。安倍内閣のもとで鳴りを潜めていたが、福田氏を庇護者と思っているフェミニストたちは、さっそく動き出した。

 内閣府男女共同参画局は「男女共同参画社会に関する世論調査」の結果を発表した。調査そのものは定期的に行なっているものだと言うのだろうが、保護者内閣が発足したときを狙って発表したとしか考えられない。しかもフェミ的コメントをつけて。さらにマスコミが、「夫は仕事、妻は家庭」に反対する人が初めて半数を超えた ! と騒ぐという方式も、いつものとおりである。

 何度も論評してきたので、今さら言うまでもないのだが、これもまた私が「調べる詐欺」と名づけたインチキ調査である。まず数字を見てみると、

 「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきだ」という考えに対し反対は52.1%で、賛成44.8%を上回った。この質問は92年の調査から開始し今回が5回目。92年調査は賛成60.1%、反対34.0%だったが、その後、反対が次第に増え、今回過半数に達した。

 この設問と結果は何も意味していない。方法論的に、そもそも意味を読み取ることが不可能なのである。なぜなら、設問の意味が不明だからである。「夫は仕事、妻は家庭」に「賛成か反対か」という質問は、何を聞いているのか不明である。そういう役割分担について、自分はやるかやらないかを聞いているのか、他人も含めてやるべきかべきでないかを聞いているのか、社会の仕組みとして肯定するのかしないのかを聞いているのか、まったく不明である。質問された人は、それぞれ自分なりに、聞かれている意味を選択して答えることになる。つまり答えの中には、さまざまな考えが混在してしまうことになる。例えば、「自分はそうしているけれども、他人にまで押し付けることではない」と考えて、「反対」と答えるかもしれない。自分の生活態度としては「賛成」なのに。また、とくに「べき」と言われると、「その方がいい」と思っている人でも、反発を感じて「反対」と答える人が多くなる。このように、いろいろな考えが反映しているので、その結果、出された数値からは、何か明確な意味を読み取ることは不可能となる。

 92年から設問は変わっていないから、一定の傾向を読み取ることはできるという意見もあろう。しかし、最近では男性でも家庭を大切にしたいと思う人が増えているので、「夫は仕事、妻は家庭」と機械的に割り振ることには「反対」と答える人が多くなっているかもしれない。

 さらには、強制されることへの反発は強まる傾向にあるため、「べき」に反対する人も、若い世代を中心に今後ますます増えるのではないか。

 このように、「反対」の中には、いろいろな思いが込められていると考えられ、単純に「反対」が過半数になったといって、短絡的に役割分担意識の変化と結論づけることはできないであろう。

 設問者の「操作」が加わる可能性のある設問文は、調査の客観性を損なうものである。この調査からは、なんら客観的な結論を導き出すことはできないのである。

 しかるに、こうした方法論的にきわめて杜撰な「調査」から、内閣府男女共同参画局は一つの明確な結論を引き出した。

 役割分担意識は変わりつつある。しかし、まだ不十分な面があり、現実とのギャップを埋める努力も進めたい。

 思い上がりもはなはだしいコメントである。「意識の変わり方が不十分」だとか「現実とのギャップを埋めるべき」とか、政府が口出すべきことではなかろう。思想の自由に対する深刻な侵害ではないか。だいたい夫婦がどういう役割分担をしようが自由であり、国が介入すべき事柄ではない。政府がこんな押しつけを言ったら、少し前までだったら、左翼やマスコミは金切り声を発して抗議したはずである。しかし左翼やマスコミは自分の考えに迎合する発言に対しては、自由や民主主義に反していても、知らぬふりである。

 家庭生活に関する意識に介入する意図を持った、こんな意識調査は、思想信条の自由を保証する憲法に抵触するものである。そもそも、現在の「共参法」が個人の私的領域にまで国家を介入させようとする共産主義国家ばりの「共産法」であるから、このような意識調査がなされるのである。つまりは諸悪の根源は「共参法」にあるのだから、「共参法」の廃止こそ我々の目標としなければならないのである。

 福田政権は、何ごとに対しても「消極」政権である。しかし男女共同参画についてだけは積極推進の道を突き進む危険がある。今のうちから真性保守の議員たちを糾合して、フェミニズム政策を阻止しなければならない。

 

平成19年9月26日

つなぎ内閣

 福田新体制が発足した。自民党4役に派閥の領袖を配し、内閣の顔ぶれは安倍内閣の閣僚をほとんどそのまま留任させた。小泉氏によって「ぶっこわされ」そうになった旧自民党派閥体制に息を吹きこんでやるような布陣である。内閣の布陣は、安倍内閣を引き継いだというよりも、もともと安倍改造内閣がすでに派閥に気を使った体制だったということにすぎない。何もできない「つなぎ」の内閣というところか。せいぜいインド洋給油の継続を実現するのが精いっぱい、それに教育改革や公務員改革の続きを少しやる程度、といったところか。

 麻生氏への支持が多かったために、また一般国民の麻生支持が圧倒的だったために、福田新首相が推進すると危惧されていたサヨク的政策(女系天皇容認、国立追悼施設、人権擁護法、夫婦別姓等のフェミニスト立法、外国人への地方参政権付与など)は当面、凍結さぜるをえないであろう。自民党の中で鋭い対立をまねくことをすれば、それこそ自民党は空中分解をしかねない。国会乗り切りと、重大な衆議院選挙をひかえて、挙党態勢をめざさなければならない福田執行部としては、そんな余裕はなかろう。ひとまずは休戦ということになろうが、衆議院選挙後に正念場が来ると予想される。もっとも、それも勢力地図がどうなるかにかかってはいるが。

 それにしても、改めて愕然とさせられるのは、日本の自民党の中にも、これほどに親中国・隠れ親北朝鮮の派閥が多かったのかということである。中国や北朝鮮の工作はかくも成功を収めてきたのである。「工作」というものの恐ろしさを、もっともっと国民に知らせていかなければならない。

 

平成19年9月19日

拉致問題に「解決」などありえない ──福田康夫氏の危うさ

 自民党の総裁候補の福田康夫氏は「拉致問題の解決は私の手で」と語っているそうである。恐ろしいことを平気で言うものである。

 この言葉のどこが恐ろしいかと言うと、この人には、拉致問題にはおよそ「解決」というものが存在しえないということが分かっていないという点にある。いや、この人の頭の中では「解決」の見取り図がすでにあるのかもしれない。

 拉致問題の「解決」とは何か。もし本当の「解決」がありうるとしたら、それは第一に犯人の引き渡しと処罰、生存者の速やかな奪還・帰国、死者の死因の特定とその責任を取らせること、被害者の数十年にわたる人生と生命に損害をもたらしたことに対する心からなる謝罪と補償、これら以外にはありえない。これらのことを今の金正日政権は絶対にしないであろう。ということは、拉致問題の「解決」が絶対にありえないことを意味しているのである。

 このことを確認してみると、同じ「解決」といっても、福田氏が言っている「解決」がこれとは根本的に異なる意味で言われていると考えざるをえないのである。では彼が言う「解決」とは何か。「話し合いによる」と言っているように、交渉と妥協によって「落としどころ」を決めるということになろう。つまりは、数人の帰国と引き替えに、どれだけの「見返り」(経済援助という名の金品)を与えるか、そういう取引を考えているということなのだ。

 拉致という未曾有の犯罪に対して、それを認めた上で、身代金を払うという最低最悪の「解決」方法である。その方法はテロリストを否定するのではなく、テロを肯定し助長するというテロリストにとって思うつぼの「解決」法である。

 そもそも、私はこれまでも、「拉致の解決なくして日朝国交回復はありえない」という言い方に危惧の念を感じてきた。「解決」とは何かを明確にしないなら、こういう言い方は無意味である。というより、危険である。もっと根本的なことを言うなら、拉致問題の解決とは関係なく、現政権の北朝鮮と国交正常化をすべきではないのだ。アメリカがどう変節しようが、6ケ国会議で「孤立」しようが、いっこうにかまわないではないか。拉致問題の本当の解決がないかぎり、日本は何もせず、堂々としていればよいのである。北朝鮮への経済支援も国交回復もすべきではないのだから。

 福田康夫氏が北朝鮮との「解決」を言い出すとは、彼の支援者たちの中に、よほど北朝鮮に贈り物をしたい者たちが多いからであろう。さすが「よど号事件」でテロリストに譲歩し、刑務所にいた仲間まで釈放して北朝鮮に逃がしてやった福田赳夫当時首相の息子だけのことはある。あの大きな過ちによって、よど号メンバーが中心となって拉致を実行し、多くの人生と生命が奪われたのである。「命は地球より重い」とのたまうた福田赳夫氏の犯罪的な過ちによって、地球より重い生命が多く奪われたのである。福田親子の頭の中には、テロと戦うときに安易に譲歩したら未来に禍根を残すという原則が抜け落ちているのであろう。福田親子は二代にわたって、犯罪的な過ちを犯すのであろうか。

福田康夫氏が「拉致問題の解決は私の手で」と語るとき、どんな「解決」を思い描いているのか、それを語らずにただ「解決」を語るのは、恐ろしく危険であり、また欺瞞であることを、もっともっと我々はあばいていかなければならない。

 

平成19年9月17日

一喜一憂しないで行こう

 一寸先は闇とはよく言ったものだ。まさか安倍首相が政権を放り投げてしまうとは、誰が予想したか。こんなひ弱なぼんぼんに政権を託したのが間違いだったと、繰り言を言っても仕方ない。こんな腰砕けを予想せよと言うのが無理である。

 それにしても、残念なのは、すべてが安倍政権以前に逆戻りしそうなことである。福田政権が実現すれば、中国・北朝鮮への不要な譲歩、派閥政治への逆行、フェミニズムへの媚びへつらい、どれをとっても逆行である。とくにフェミニズムが息を吹き返すのは、目に見えている。福田氏は政策として、「男女共同参画・女性の自立」を掲げた。「女性を男性から自立させる」のだそうである。猪口邦子氏のような取り巻きが大喜びしているところを見ると、「自立」とは「女性が働くこと」しか意味していないのだろう。古くさいフェミニズムの亡霊が生き返ったような錯覚に襲われる。

 しかし、残念がっている暇はない。戦いの情勢がもとに戻っただけである。安倍以前の小泉-福田路線に戻るだけであり、我々は戦いを続けていくのみである。客観的情勢が不利になったらなったで、そこから改めて出発するしかないのだ。戦いに一喜一憂は禁物である。やるべき戦略を正しく設定し、断固実行するのみである。

 これまでの我々の戦略に決定的に欠けていたものがある。それは政策担当者への直接の働きかけである。フェミニストの側はそれを全面的に展開してきた。その象徴が小泉政権下の福田官房長官(男女共同参画担当)へのフェミニストの働きかけであった。フェミニストは福田長官を囲んでは何度も一緒に食事をして、「説明」を繰り返してきた。彼女らによると、福田氏は長時間にわたってじつによく言い分を聞いてくれたそうである。

 こういう働きかけを我々はほとんどしてこなかった。最近になって、岡本明子さんたちのグループが、外務省や国連を相手に、そうした活動を開始したばかりである。その戦略を、保守全体が共有し、政権への働きかけを強化する必要がある。「フェミニストの言い分を聞くなら、反対派の我々の言い分も聞くべし」と主張して、政治家や官僚へのレクチャーを増やしていかなくてはならない。

 我々は今まで、地方から攻め上るという戦略を立ててきた。これは大きな前進を見た。宇治市の条例の実現、荒川区での奮闘と教訓、市川市の大勝利へとつながってきた。その動きとタイアップして、中央政権においても、男女共同参画基本法の廃棄と新法の制定に向けて、ねばり強く戦っていこう。

 

平成19年9月5日

部落解放同盟を「支援」する役所と新聞 ─公正と中立はどこへい った

 部落解放同盟に対して多くの自治体が不当に優遇したり、不当な利権を与えてきたことは、よく知られてはいるが、それと真っ正面から戦う人はあまりいなかった。しかし最近、各自治体のレベルで、その横暴と果敢に戦う人が増えてきた。少し前には福岡県八女市の近藤将勝氏が何十年も同じ地位にいた部落解放同盟所属の横暴な八女市役所の係長を更迭させた実績を持つ。

 現在も、東京都荒川区と鹿児島市で、部落解放同盟が問題となっている。それぞれのいきさつはこうである。

 まず東京都荒川区の場合。ある不動産会社の店長が、荒川区役所の窓口(人権推進係)に「どの地区が部落なのか? 物件の所在地が部落なのかを知りたい」と「相談」に来た。役所側はそうした質問には答えず、その店長は名刺を置いて帰った。ところが、その後、その店長は部落解放同盟の荒川支部、江東支部、東京都連が開催した「荒川区土地差別調査事件確認会」に呼びつけられ追求された。「確認会」と中立そうな名前がつけられているが、解放同盟がいつもやっている「つるし上げの会」である。そうした「つるし上げの会」では、逆の人権侵害がなされてきたことも、よく知られている。

 この事件には問題点が二つある。一つはその店長の意識と行動。店長自身に差別意識があったかどうかは分からないが、世間の差別意識を前提にして、物件の価値を知ろうとしている。しかも、のこのこと役所に聞きに行くという脳天気ぶりである。事態の重要さを知らなさすぎる。

 さて、最も重要な問題は、そうした店長の「相談」を受けた役所の態度である。正しい応対は「そうした差別を前提とした質問には答えられない」と拒否することである。それで必要にして十分な応対と言える。公の役所としては、それ以上のことも、それ以下のこともすべきではない。それ以上のことを言うのは越権行為である。ただし、親切心から「そうしたことを調べてまわることは、差別になりかねないですよ」と注意することくらいまでは許されるだろう。

 ところが、区役所は、この店長のことを解放同盟に知らせたのである。今しきりに問題になっている「個人情報の漏洩」である。根屋雅光氏(下記のブログ参照)が電話したところ、区役所の職員は「個人情報ではなく企業情報です」と言ったそうだが、詭弁もいいところだ。店長個人の名前と連絡先というまさに「個人情報」で、この店長は呼び出されたのである。まして、部落解放同盟に知らせれば、店長がつるしあげられることは分かりきっているのである。荒川区役所はこれまでも何かあると解放同盟に知らせてきたそうである。個人情報か企業情報かという以前に、これは公務員が公務中に知った情報を特定の利害関係者に漏洩したという、公務員の倫理規定に抵触する行為と言うべきである。こうした公務員の情報漏洩は絶対にやめさせなければならない。

 

 さて、いま一つ鹿児島県でも、ある市議が「部落解放同盟に対する差別や人権侵害はない」と発言したかのように思わせる記事を新聞が載せたという、重大な人権侵害が起きている。

 問題になっているのは、南日本新聞の「同和とアイヌ 人権でない」という見出しの記事である。霧島市議の徳田拡志氏が「同和とアイヌに対する人権侵害はない」と発言したかのような印象を与える見出しである。この記事をきっかけに、徳田氏が「差別者」であるかのような宣伝や悪口が横行している。徳田氏に対する重大な人権侵害である。(南日本新聞は例の「男女同室着替えはない」という嘘の報道をした新聞、のちに南日本新聞自身が鹿児島県の半数の小学校で同室着替えがなされているという事実を報道した。http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/arakawa2.htmlの中の「十 フェミニズムのダブルスタンダード」参照)

 たしかに徳田氏の発言は、本人も認めているように舌足らずで、必ずしも明確ではない。しかし、明確でない発言を取り上げて、ある一定の方向に解釈し決めつけて報道したり、曖昧な表現で報道するのは、本人に対する人権侵害である。ジャーナリストならば、まず本人に取材して、その真意を確認すべきである。

 徳田議員は3月議会において同和対策事業について質問し、部落解放同盟に対する優遇措置を問題にした。その中で「最大の人権を侵害されているのは、同和でもアイヌでもなく、(北朝鮮に)拉致された日本人」だと発言した。8月31日の委員会で徳田議員は「同和問題とアイヌ問題だけが人権問題ではないという趣旨だった」と釈明した。その発言のどこが問題なのか。まったく正しいことを言っているのではないのか。部落やアイヌがどんなに差別され人権を侵されているといっても、拉致被害者のように30年にもわたって異国に拘束され、心身ともにボロボロにされ、生命の危険にさらされ(すでに生命を奪われた人もいる)、人生を無茶苦茶にされた、これほどの人権侵害を受けてきた人たちがいるのか。徳田氏の発言は至極正当であり、それを問題視する方がよほど非常識と言うべきである。

 人権を守る会の会長は、「障害者や在日問題など、差別全体について考えるきっかけにしてほしい」と述べたそうだが、人権は差別されている者だけが侵害されるものではない。差別とは関係なく侵害されることもある。人権問題を差別問題に限定することなく、真の「人権」の意味を考えるきっかけにこそすべきであろう。

 「差別」を糾弾するために、公務員の倫理規定も新聞記事の公正・中立性も無視してよいというものではあるまい。そういうことをしていては、ますます逆の差別と人権侵害が増幅されるであろう。「人権」や「差別」を掲げながら、他人の人権を侵害するようなことを絶対に許してはならない。

 (これらの事件の詳細については、この問題を追求している近藤将勝氏のブログhttp://genyosya.blog16.fc2.com/と、根屋雅光氏のブログhttp://masa-n.at.webry.info/を参照されたい。)

 

平成19年8月28日

安倍改造内閣の気がかりな点

 安倍新体制が発足した。党内のいろいろな勢力に気を使った「気配り内閣」に見えるが、じつは本質は親中国シフトの「経済界と中国への気配り内閣」である。中国よりの党内左翼とも言うべき山崎派、津島派、二階グループ、古賀派が何人も入った。中国よりの経済界と連携して、今後の対中国外交が弱腰になりかねない。北朝鮮との不必要な「正常化」を画策される恐れもある。今後の対中国・対北朝鮮外交は要注意である。

 その他、いくつか気になる点を挙げておこう。

 まず続投が決まった伊吹文部科学相。文部官僚の利害を代表しているところが気がかり。教育再生会議の提言に水をかけた発言はいただけなかった。その上、あのわがまま横綱・朝青龍を弁護して「25歳くらいで他国の文化を理解しろというのは無理」と発言した。誰も「日本の文化全体を理解せよ」とは言っていない。さしあたっては相撲に関する文化としきたり、マナー、そして品格を要求しているのだ。それがあるはずとして、横綱を与えられているのである。ましてや、仮病を使って義務をまぬがれようという精神は、絶対に横綱には相応しくない。それを詭弁を使って擁護するとは、何か裏があるとかんぐられても仕方ないのではないか。少なくとも文化、教育に携わる大臣の発言としては不適切であろう。一番続投してほしくない人物が続投とは、がっかりである。

 防衛大臣は高村正彦氏。まずは実力者であり、イラク特措法の延長という最大課題を重視した布陣として、妥当であろう。ただし、前任者の小池百合子氏が起こしたごたごたの始末をつけるのが先決である。小池氏と守屋事務次官との確執は、噂されるように本当に守屋次官が悪しき独裁者で、それを除こうとしたのならば、志は正しかったと言える。しかし、その手法は「思い上がった女性の蛮勇」といったところであろう。大事は一人でなすものではない。パーフォーマンスではないのだ。仲間をつのり、十分な根回しをした上で決行すべきである。政治家としては落第だということも示してしまった。

 防衛省の機密漏洩や、自衛官の間に広がっているのではと懸念されている麻薬問題、さらには兵器産業との癒着をめぐる疑惑など、これらが「守屋体制」と関わりがあるのかないのか。高村氏には防衛省の堕落を正し、膿を出してもらいたい。

 次は退任が決まった高市早苗・少子化担当相。自身のホームページで「ワークライフバランスの疎外要因」についての意見を募集していた。この人はなんにも分かっていないな、という印象を持った。そもそも「ワークライフバランス」というのは、「ジェンダーフリー」が批判され、使えなくなったので、その代わりにフェミが使いだした用語である。専業主婦の夫にも育児をさせよとか、男性も育児休暇を取れという内容を含む、フェミ・イデオロギー色の濃い用語である。それを高市氏は百パーセント「良いもの」という前提で、それを「疎外する要因」について意見を募集している。募集するなら、そもそもこの「ワークライフバランス」とは何かについて、もっと具体的に説明をした上で、それについての賛否の意見を募集すべきである。高市氏の発想そのものがフェミ的ではないのかと、疑いたくなる意見募集であった。

 さて、その後任の上川陽子氏。どんな思想の持ち主か分からないが、どうやら危険人物のようだ。なにしろ「夫婦別姓」の支持者らしい。とんでもないのが「男女共同参画」の担当相になったものだ。このポストには必ずフェミ的な女性がつく。フェミ官僚が画策するのではないか。男性の大臣を「参画」させる発想はまるでないようだ。

 次に要注意が桝添要一氏。ずいぶん威張っているが、テレビ出演と「遠距離介護」で名を売ったための人気に依拠しているだけである。思想的基盤がどのくらいしっかりしているか、疑問である。フェミの「民法改正」や「夫婦別姓」攻勢に対して、どの程度抵抗できるか、未知数である。

 最後に鳩山邦夫法務大臣に対して要望しておきたい。死刑の執行を断固として実行してもらいたい。前任者の長勢甚遠氏は、死刑囚10人の死刑を断固実行した。快挙である。以前に杉浦正健法務大臣は「自分の信念」で死刑の執行をしないと得意そうに語ったが、法の執行者は自分の信念で行動してはならない。死刑囚が100人もたまっているというのは異常である。死刑の判決は、最も甘い基準でも死刑を宣告された、極悪非道の者たちである。死刑の制度があるかぎり、断固として執行すべきである。最近の女性殺害の事件でも、自白の電話をかけてきた犯人の動機は「死刑になるのが怖いから」というものだった。その恐怖がなかったら、第二の凶行を計画していたというのだから、恐ろしい。死刑制度を守るためにも、死刑執行を無限に遅らせるという事実上の死刑否定を認めてはならない。

 

平成19年8月24日

「国連」に逃げ込む反日左翼

 反日左翼はその時々で有利な活躍の場を求めて殺到し、歪んだ心理を満足させると同時に利権を得てきた。同和教育・同和政策の利権などはその典型である。最近はフェミニズムがその温床になってきたが、錦の御旗としてフリーパスの感があった一頃と比べて、フェミ批判が強くなって、思うようにいかなくなってきた。(それでももちろん自治体のレベルでさかんにうごめいているが。)

 そこで、彼らがいま力を入れているのが、「国連」である。「国連」の委員会が勝手に基準や「数値目標」を決めて、それを各国がどの程度実現しているかを査察するという体制を作っている。そこに左翼は積極的に参加して、とくに「国連」信仰が強い日本で、「国連」の権威を利用して外から左翼思想を押しつけようという作戦である。

 そうした欺瞞的構造にいち早く危機感を抱いて、海外の「家族の価値を守る」団体と提携しつつ、反日左翼と闘っているのが岡本明子さんたちのグループである。先日も外務省で、国連社会権規約のもとに置かれている社会権規約委員会への政府報告書作りに伴う、市民・NGOとの意見交換会があったという。出席者70人のうち、保守派は約一割しかいなくて、発言するとヤジが飛び、多勢に無勢で、当然発言の機会も少なく、悔しい思いをしたそうである。左翼は「反差別国際運動(解放同盟)」「婚外子差別の会」「ウトロを守る会」「在日韓国人問題会」「自由人権協会」「慰安婦問題行動ネットワーク」「海南島慰安婦問題支援の会」「国際人権協会」「北京JAC」等々、あらゆる名目の会を動員して、人海戦術できているのである。

 要するに味方が大勢いると見せかける作戦であり、彼らの常套手段である。フェミの活動にさいしても、常に電話、FAX、メールを大量に送りつけるという作戦で自治体の政治家や職員を騙してきたが、今度は国際的な場で外務省の役人を騙そうという作戦である。その作戦を見破って対抗しようとしているのが、岡本明子さんたちのグループである。

 ただし、残念なことに、まだその活動の大切さが保守派の中で十分に知られていないので、公式の場に出ていくと少数派に見えてしまう。反日左翼のプロの活動家たちの「見せかけ多数派」作戦に対抗できるためには、保守派の中で岡本さんたちを支援する体制を作っていかなくてはならない。公式の場で左翼と対決する機会には、保守派も大挙してでかけていき、数でも負けていないことを示す必要がある。時間と体力に余裕のある人は岡本さんのブログを見て連絡をとり、できるだけの支援をお願いしたい。岡本さんのサイトは以下のとおり。

http://familyvalueofjapan.blog100.fc2.com/

 

平成19年8月1日

参議院選挙の意味するもの

 民主党大勝、自民党惨敗。予想されたとはいえ、その振幅が大きすぎるという印象である。

 

基本政策は正しいのに

 これほどの大敗を喫するほどに、安倍内閣は悪いことをしたのだろうか。明らかに失策だったのは、閣僚が次々と公金の使い方で不始末をしたり、失言をしたことくらいである。格差問題はたしかに下積みの人たちにとっては深刻であり、長時間労働が常になっている労働者や、農業や中小企業の苦境も深刻である。しかしそれらの点については、これから改善していくと首相は約束している。口約束にすぎないと言えばそれまでだが、口約束にすぎないという点では民主党も同じである。

 むしろ、安倍内閣の政策は基本的には正しいと言うべきである。憲法を変えなければならないというのは正しい。教育改革でも、基本法はじめ教育三法を成立させて、一歩も二歩も前進させている。公務員改革についても、天下りをなくすことや、社会保険庁の解体整理など、正しいことをやっている。それこそが年金不祥事の根本的解決への道である。拉致問題でも、原則的な道を貫いて、歴代内閣ではできなかった北朝鮮への制裁に踏み切った。大事な政策において、すべて正しいことをやっているのである。

 いったい何が原因でこれほどの大敗になったのか。選挙民の「審判」は正しかったのか。

 

喧嘩が下手な安倍首相

 まず最大の原因と目される年金問題について見てみよう。年金不祥事の責任は安倍内閣にはない。たしかに形式的には自民党内閣が続いてきた中で温存されてきた膿が出てきたのだから、形式的責任は自民党内閣にある。しかし実質的責任はないと言える。実質的責任の第一は、以前にも書いたが、地方公務員労組の自治労と、それを援護してきた旧社会党などの野党にある。彼らがサボリを正当化する労働協約を盾に、いい加減な仕事をしてきた結果である。

 安倍内閣はむしろ、その悪の根源を絶ち切るために、社会保険庁を解体し改革しようとしているのである。このことは選挙の中でほとんど強調されなかった。

 安倍首相が最も強調したことは、「責任は私にあります」ということと、「最後の一人まで正当な年金を受給できるように全力を尽くします」ということばかりであった。この戦略は最悪であったと思う。なぜといって、最初から「私が悪いのです」と罪を認めている者を攻撃することほど楽なことはないからである。本当は実質的な責任のあるのは野党の側であった。そこを積極的に主張し、その根源を解体しようとしているのが自分の内閣だということを、なぜ堂々と主張しなかったのか。

 本当の犯人を浮き彫りにすることに失敗したことは、なんと民主党比例区の当選者の一番手に自治労幹部が踊り出たことが如実に示している。自民党が真の犯人を暴露していたら、こんな馬鹿なことは起こりえなかっただろう。

 ただ殊勝らしく「私が悪うございました」「責任は私にあります」と頭を下げていれば、国民は寛大になってくれるとでも考えたとしたら、あまりにも甘すぎる。その弱気の姿勢につけこんで、左翼マスコミが「自民党責任論」を大合唱し、「民主党善玉」観を国民のあいだに刷り込んでしまった。安倍氏は自分の方から認めたのだから、反論のしようがない。あまりにも喧嘩の仕方が下手、基本戦略の失敗としか言いようがない。

 同じ失敗が、米下院での慰安婦問題での非難決議阻止のための戦略にもよく現れていた。はじめ安倍首相は「軍が強制した事実はない」と主張したが、反発をまねくとすぐに引っ込めてしまい、「慰安婦の皆さんの苦労はよく分かる」などと事実上の謝罪をしてしまった。外交上の論戦や主張において、方針がくるくる変わるのが一番いけない。もっと悪かったのが、この方針転換に不満な日本の議員や民間人が連名でアメリカの新聞に意見広告を出したことである。それを口実にして、非難決議を出そうとしていた者たちが勢いづいて、ついに決議がなされてしまった。日本の首相が元「慰安婦」に対して謝罪せよという、なにからなにまで理不尽な決議である。意見広告がなくても決議はなされたかもしれないが、うまく利用されてしまったとは言える。「敵」につけこまれたと言うべきである。

 私は意見広告を出した人たちを非難しているのではない。問題は国論が二分されているどころではなく、日本の首相と、意見広告を出した国会議員その他の有志とのあいだで行動が二分してしまったことを問題にしているのである。外交においては、官民一致して事にあたらなくてはいけない。事前に意見を調整し、戦略を一致させた上で、外に向かっていかなければならない。その主導権を取ることができるのは首相だけである。そういう意見調整をしないまま、自分だけの考えで、強硬意見を言ったかと思うと次の瞬間には軟化して謝罪をする。これでは国内の不満分子が決起して独自の行動をしてしまうのも無理がない。外と喧嘩をするためには、中を固めてからにしなければならない。安倍首相は本当に喧嘩が下手である。

 強硬に主張すべきところと、潔く謝るところとを、間違えてはいけない。自分が悪くもないところで「潔く」謝ってしまっては、「敵」につけこまれるばかりである。この弱さが、今度の選挙戦略の誤りとしても露呈してしまったのではなかろうか。

 左翼と左翼マスコミは、年金不祥事の自分たちの責任を与党に押しつける戦略を取った。その戦略は、安倍内閣の戦略の失敗によって、予想以上の成功をとげてしまった。これが今度の選挙の一つの本質である。

 

人材結集に失敗

 もう一つの安倍氏の弱点は、人材を結集できなかった点である。

 この点では、安倍内閣の誕生以来半年あまり、がっかりさせられることが多すぎた。安倍氏の手腕やいかにと見ていたが、有為な人材を集め、スタッフや側近を堅め、要所に配置することができなかった。自分より有能な大物を使いこなすことができなければ、リーダーの器とは言えない。閣僚の人選もまるで落第だったことは、不正な金の使い方や失言が続出したことを見ても明らかである。

 審議会等の人選も官僚の好みに押し切られ、自分やスタッフの考えを出すことができなかった。それは日頃の不勉強のせいである。リーダーになろうとする者は、常日頃から勉強して、どの分野にはどんな人材がいるか熟知している必要がある。結果を見ると、安倍氏はそういう努力をしてきたとはとうてい思えない。少なくとも教育や育児の面ではまったく落第である。独自の見識を持っていないから、官僚につけこまれ、足を引っ張られることになった。例えば「教育再生会議」の委員の人選では官僚にリードされ、せっかく出した提言に対しては官僚の手先となった文科相に足を引っ張られてしまった。自分より大物を使いこなすくらいでないと、一国の首相は務まらないのではないか。

 夫人の言動にもがっかりさせられた。手をつないでタラップを降りる姿はどうしても私には違和感があった。それはまだいいとしても、最も疑問に思ったのは、夫人のブログに「ご帰天」などというカトリックの用語が野放図に使われていたことである。そこに書かれている訪問先のほとんどがキリスト教関係の施設ばかりである。ブログはなるほど私的な日誌ではあるが、書き手がまったくの私人ではない場合には、公的な意味を持ってしまうということが意識されていない。政治というものの真剣さ、怖さが分かっていない。とてもファーストレディの資格はないと思われた。

 キャラクターグッズを売り出すなどという発想がどこから出たのか知る由もないが、そういう子供じみた手段で人気を得ようという発想が軽すぎる。もっと正面きった政策の正しさと、堂々とした態度で人気を得ようとしてほしいものである。安倍氏の人気が出たのは、北朝鮮問題で断固とした態度をとったからだということを忘れないでほしい。

 あれやこれやで、安倍政権がピンチだとは分かっていても、一生懸命肩入れしようという気に、どうしてもなれなかった保守派が多かったのではないか。出口調査とやらを見ても、自民党支持者に棄権が多かったらしい。自民党は無党派層の支持を失ったのは明かだが、本来の支持者の支持さえも失っていたのではないか。

 

「民意」の間違い

 さて、第二の問題、自民党に厳しい「審判」を下した有権者にも、私は苦言を呈したいと思う。

 もちろん、その怒りはよく理解できる。年金管理の杜撰さについては、私も腹が立つやら、あきれるやら、なんともやりきれない気持ちである。また過度の競争社会になって、下積みの人たちにしわ寄せがいき、苦労している人が多いこともよく分かる。

 ただし、感情に走っては、正しい投票行動とは言えないであろう。真の原因と、真の責任を見定めなければならない。ただ、うっぷん晴らしでは、よい結果は出てこない。

 はっきり言って、年金問題は、安倍内閣の責任ではない。また民主党が何か手柄を立てたわけでもない。むしろ、サボリ体質の労組を支援してきた野党の責任も大きかったのである。もし旧社会党が政権を執っていたら、自治労がもっとのさばり、もっと無茶苦茶になっていたかもしれないのである。ところが、感情的な怒りが自民党に向き、地滑り的な民主党勝利をもたらした。これは決して健全な民主主義とは言えない。

 そもそも、長年にわたって杜撰な社保庁の年金管理を許してきたのは、日本人の個人主義と事なかれ主義にも原因の一端、それも重要な一端が潜んでいるのである。

 日本人の最大の悪癖は「文句を言わない」ことである。どんなに不平や不満があっても、文句を言わない。自分だけ言っても仕方ないと、初めから諦めている。もちろん、ここで「文句を言う」とは、家の中で個人的にブツブツ文句を言っているということではない。苦情を公表したり、相手にぶっつけたり、意見を集約して運動につなげていく行為のことである。日本人にはそれがあまりにも少なすぎる。

 私は何年もヨーロッパで暮らした経験から、ここのところが彼我の最大の違いだと感じている。ヨーロッパの人たちは、何か不都合や不正を感ずると、皆でワーと文句を言う。例えば電車の中で不正を働く者がいたら、誰も黙っていない。皆で文句を言い、行動にでる。しかし日本人は「見て見ぬふり」を決め込む。電車の中で目の前で女性がいたずらされているのに、助けるどころか誰も通報もしなかったという事件が、つい先日もあったばかりである。

 もっと早くから、何十年も前から、社保庁の役人のいばりくさった態度に対して、その不親切な対応に対して、皆が文句を言っていたら、事態は少しは、いやもしかしたら大きく、変わっていたかもしれないのである。窓口に行って、確認をしようとしたときに、「領収書を持ってこい」と言われて、「そっちに記録があるだろう」と言ったとき、「自己申請主義の制度だ」と言われれば、「自己申請主義」という制度そのものが問題だと気づき、皆が文句を言って世論を作っていけば、事態は変わっていたかもしれない。

 そもそも「年金をもらえるかどうか」は自分で証明しなければならない制度のはずである。その「自己申請主義の制度はよくない」というのなら、それに反対する発言や抗議行動をした人が誰かいたのだろうか。もしかすると専門家の中にはいたかもしれないが、いま文句を言っている普通の人の中にいたとは思えない。つまり、年金の保険料を支払った領収書は自己責任で保管しておくべきものである。自分の責任はほうかむりして、すべて他人の責任だ「みんなお上が悪い」とばかりに怒りを爆発させるのは、おかど違い、あるいは甘えというものである。そもそも杜撰で生意気な役人を放置し、のさばらせてきたのも、日本人の「自分だけよければよい」「人のことは見て見ぬふり」という、利己的な意識構造のなせる業であったのだ。そこを反省しないかぎり、「自民党にお灸をすえた」と喜んでも、何も変わらないだろう。

 たしかに、多くの人は「自己申請主義」などとといいうことは知らずに、ただまじめに積み立てていれば年金をもらえると思っていたのであろう。無理もないとは言える。しかし、厳しいことを言うようだが、「自己申請主義」は知っておかなければならないことなのである。それは自己責任の部分であり、自分にも少しは責任があるのである。もちろん、政府としては、そのことを十分に周知徹底させる義務がある。その義務をはたしてこなかった責任は重い。しかし、国民の方も、「悪いのはすべてそっちだ」と怒りを爆発させるのは、ちょっと違うのではないだろうか。

 国民として知っておくべきこと、やるべきことをしないでいて、投票のときだけ怒りを表現する、それも真の原因に対してでない、という有権者のあり方は、決して成熟した民主主義とは言えない。真の民主主義とは、投票以前に発言し行動し、自分たちの手で改善の努力をすることである。投票だけを鬱憤のはけ口とするものではない。

 

安倍政権は否定されていない

 今度の選挙で自民党は大敗したとはいえ、安倍政権は決して否定されていない。安倍政権の主要政策はまったく争点にならなかったからである。衆議院では与党は3分の2以上を占めている。それは与党の主要政策に対する国民の支持を示しており、その支持は参院選挙によってなくなったとは解釈できないのである。

 例えば、8月1日付の『読売新聞』の世論調査によれば、

「民主党に政権担当能力はあるか」

  「ある」 35.9%

  「ない」 46%

「民主党が議席を増やした理由」

  「安倍首相や自民党への批判」68%

  「政権交代への期待」39%

となっている。つまりは、国民の多くは民主党に政権を委ねる気はないのである。政権を担うのは自民党だ、もっとしっかりしてくれ、というのが今回の選挙によって示された「民意」なのである。

 したがって安倍首相は自信をもって政権を担当し、今回の選挙で示された国民の批判点を是正した内閣を組織し直して、今までどおりの方向を堅持していけばよいのである。外交、安全保障、憲法改正、教育、拉致、公務員改革、どれ一つとして修正する必要はない。これらの問題について、今回は国民の意思表示はなかったのだ。ということは、衆議院の3分の2以上という勢力を基盤にして、政権運営をしていけばよいことを意味しているのである。参議院で否決されても、もう一度衆議院において3分の2以上で可決すればよいのだ。選挙で負けたとたんに急に方針を転換したブッシュ政権の醜態を真似することはない。堂々と今までどおりの方針を貫いてもらいたい。

 

平成19年7月19日

自衛隊に浸透する危険なフェミニズム

 女性防衛大臣は是か否かという問題に関連して、自衛隊における女性の登用・配属(軍事における男女の役割分担は是か否かという問題)に目を向けてみると、これが大きな問題をはらんでいるのである。

 自衛隊全体、つまり防衛省の女性登用の基本方針は、「できるだけ多く女性を登用したい」「できるだけ広い職種に女性を登用したい」ということである。防衛省の公式HPを見ると、「ほとんどの職種で女性自衛官が活躍しています」と書かれている。女性が配置されていない職種は非常に少ない。すなわち航空自衛隊の場合には「救難」と「放射線」だけ、海上自衛隊の場合は潜水艦だけ、陸上自衛隊の場合は小銃を持って戦う部署だけだそうである。つまり、それら以外は最前線で敵と遭遇し戦う部署(いわゆる「戦闘職種」)にも女性を配置しているということである。

 それどころか、防衛省は女性配置をさらに積極的に押し進める方針である。ちょうど一年前に防衛庁は「男女共同参画基本計画を策定し、『戦闘職種』とされる戦車、護衛艦、潜水艦、戦闘機などへの女性自衛官配置を検討することを決めた。従来は、『母性の保護』などを理由に、戦闘職種への配置を見送っていた。基本計画は2006〜10年度が対象。」(『読売新聞』2006年7月13日付)驚くべきフェミ汚染と言うべきである。恐らく「男女共同参画社会基本法」に基づくと「戦闘職種」への女性配置までしなくてはならないと、指導部が思い込まされているのであろう。

 他方、警察では、危険を伴う部署にどれほど女性を配属しているかというと、きわめて少ない。刑事部にも女性はいるが、ほとんどは女性被害者に対応するためだし、機動隊に女性は入れていない(柔道、剣道や射撃の女性選手は「特練隊員」といって機動隊所属にはなっているが、実戦部隊には配属されていない)。また一時パトカーに女性警察官を乗せたことはあるが、実際に男同士が殴り合っている現場に行って、上司である男性警察官が部下の女性警察官に「割って入って止めろ」と命令できなかったなどという経験を経て、やはりパトカー勤務は危険が多く女性には無理だということになり、今では取り止めている。警察でも女性は「進出」しているが、男女の違いや得意不得意があるので、自然と役割分担が出来上がっているのである。

 自衛隊と警察のこの違いはどこから来るのだろうか。ちょっと考えると、「いざ」というときの危険度は自衛隊の方がはるかに高いはずである。しかし、その「いざ」が来る現実性はというと、今までのところ、ほとんどゼロに近い。実際に戦争になる確率は非常に低いからである。だから安心して女性を実戦部隊に配属できるのだ。訓練に耐えることのできる体力さえあれば、実戦部隊に入ることができるのである。

 それに対して、警察の「危険」は身近であり、確実に訪れる。捜査員として、拳銃を持っているかもしれない犯人の逮捕に向かったり、若者が集団で暴れている現場にパトカーで向かうというのは、女性では無理だとなるのが自然である。警察の場合は、日々「実戦」を経験しているから、「実戦では無理」ということが体験的に分かる。一緒にやらされる男性からも疑問や苦情が出る。純粋理論からの男女まぜこぜフェミニズムは淘汰されざるをえないのである。

 消防や海上保安庁の場合にも同じ問題があると思うが、そちらの方については、今までのところ私にはあまり知識がない。しかし、どちらの場合も常に「実戦」をやっているようなものだから、そう簡単に「実戦」部署に女性を配置したりはできないであろうと想像する。

 ところが、自衛隊の場合には「実戦」はまずやってこない。「実戦」になったらどうなるか、試したことがない。考える必要がないはずはないのだが、実際には「考える必要がない」のである。だから平気で(?)女性を危険な部署に配置できるのである。

 ここで誤解のないように断っておくが、私は自衛隊や警察に女性がいてはいけないと言っているのではない。そこまでの石頭ではない。基本的に男の組織だとはいえ、女性の方が適している職種はいくらでもある。例えば、警察の場合ならば鑑識の仕事において、髪の毛一本を見逃さなかった女性の細やかな神経が役に立ったということもあるそうだ。また自衛隊でも、ヘリや車輛の整備の仕事は女性の方が丁寧に細やかにやると評判がよいらしい。

 こうして警察と自衛隊を比較すると、自衛隊の女性自衛官「活躍」の宣伝が、 いかに悪しきフェミニズムに毒されたものかが分かるであろう。数年前の自衛隊関係の雑誌が女性自衛官について特集をしていて、そこには樋口恵子氏が何枚もの大きな写真入りで登場し、戦闘隊員としての女性自衛官を褒めちぎっていた(フェミニズム批判23警察と自衛隊に浸透するフェミニズムの危険(平成15年5月17日初出)参照)。この問題はフェミニストのあいだでも意見が分かれたり、少なくとも「とまどい」が見られるが、樋口氏は手放しの「軍隊における男女平等」の主張者らしい。その教条的なフェミニズムに自衛隊が相当に毒されているのである。

 スポーツのように男女差が数字や勝敗で明らかになるわけでもなく、実戦で危険な目に遭うことのない自衛隊は、実は男女同質思想をもっとも実践しやすく、それが実現可能であるかのような錯覚を起こさせる場所なのである。実戦という洗礼を受けない自衛隊は、警察のように純粋理論が淘汰されることのないまま、今日に至るまで着々とその理論が培養され続けてきたのである。ちなみに、防衛大学校に女子を入学させるようになったのは平成4年以降であり、定員300名のうち女性枠が25人と、例の悪しき数値目標が「勝ち取られ」てしまっている。

 欧米の教条的なフェミニズムの影響が日本全体としてはかなり下火になりつつある中、自衛隊という国民があまり関心を持っていない所に浸透している現実をしっかりと監視し、議論していかなければならない。

 

平成19年7月14日

女性防衛大臣について再論

 前回の「女性防衛大臣に反対」は、やはりタブーの領域だったらしい。この問題はフェミ側にとっても、反フェミ側にとっても、一筋縄ではいかない、やっかいな問題のようである。反フェミ側の反響も混乱している。いただいたメールの中にも私の考えに対して誤解があるようなので、その点について整理する必要を感じた。

 第一の混乱は、「女性が防衛大臣になることは適切かどうか」という原理・原則の問題と、「小池百合子氏という個人が防衛大臣になることは適切かどうか」という問題とが混同されている点にある。

 第二の混乱は、「軍事のトップ」という場合に、「首相も軍事のトップ」(最高指揮官という位置づけ)だからというので、「首相」と「防衛大臣」(国防大臣)が混同されている点である。どちらも「軍のトップ」という位置づけがされている場合でも、その意味は異なるのである。

 第三の混乱は、「防衛大臣は文民だから女性でもよい」という意見。つまりシビリアン・コントロールのために上から舞い降りた鶴のようなもので、軍人の中には入らないという見方がある。しかし、軍人であるないにかかわらず、軍のトップであることに変わりはない。

 以下、それぞれの点について簡単に説明する。

 第一の点について言うならば、私は小池氏個人が防衛大臣として適任かどうかについては、一言も述べていない。その点について判断する材料を持っていないからである。小池氏の防衛問題についてのキャリアとしては、今回「安全保障問題の首相補佐官」であったことくらいであろう。その前に沖縄・北方対策の内閣府特命担当大臣として沖縄の米軍再編に関係していたので、普天間基地移転については適任だと言う人もいる。まぁしかし、私としては、小池氏個人については、今のところ否定も肯定もしない。今後のお手並み拝見と言うしかない。

 ところが、私の前回の「寸評」を読んで、小池氏が否定されたかのように受け取った人がいたようである。ちょうど参院選挙が目前にせまっていて、皆がナーバスになっている時期のせいもありそうである。しかし、私が論じているのは、あくまでも「防衛大臣は女性でよいのか」という原理・原則の問題である。この問題は、前回も書いたとおり、「男女平等」ということと、「男女の違い」「男女の役割分担」との関係如何という本質的な問題に関わってくるのである。

 次に第二の点について。イギリスのサッチャー首相のように、女性である首相が立派に軍のトップとしての役目を務めた例があるのだから、軍のトップが女性でも構わないという意見がある。さらにイギリスは女王の国であり、軍隊は女王陛下の軍隊だから、トップが女性でも差し支えなくやっているという意見もある。しかし、首相や女王が軍のトップだという場合と、事実上の軍のトップとしての国防大臣とは区別しなければならない。首相は軍のトップだけでなく、全てのトップなのである。したがって、自衛隊だけのトップとは明らかに質が異なる。だからこそ私は首相は女性でもかまわないが、軍事部門のトップは男性であるべきだと述べたのである。

 さて、第三に、日本の防衛大臣は文民であり、軍人ではないのだから女性でもよいという意見について。確かに民主主義の国ではシビリアン・コントロールの原則を重んじなければならないので、防衛大臣が文民だということは必要なことである。しかし、文民であろうと、防衛大臣が軍のトップであることに変わりはない。防衛省は軍隊の組織であり、本質的に男の組織だということを見誤ってはならない。

 

 以上、論点を整理してみた。私の主張は、戦闘部隊には女性を配属してはならないということと、軍事のトップである防衛大臣は男性でなければならないということである。

 ともあれ、この問題については正面から議論されたことはほとんどなく、したがって考えてみることさえあまりなかったと言っても決して言い過ぎではないであろう。しかしこれは男女平等とは何かという根本的な論点に関わるきわめて重要な問題である。軍事において男女の役割分担が必要なのか、それとも、男だから女だからではなく個人の資質が優先されるか、大いに議論されるべき非常に重要な問題ではなかろうか。

 

平成19年7月9日

女性防衛大臣に反対

 どうも、誰もなんとも言わないらしい。女性が防衛大臣に任命されたことについてである。防衛大臣が女性であることについて、論評することさえ、鬼門というか、タブーというか、禁じられているかのようである。「女性であっていけないのか」と言われただけで、たいていの人は腰砕けになってしまう。

 私はあえて言おう。「防衛大臣が女性であることに反対である」と。「男女平等」という原則から言えば、防衛大臣が女性であろうが男性であろうが、構わないはずである。しかし、本当に「男女平等」ならばイコール「防衛大臣が女性でも構わない」のだろうか。この論点はフェミニズム問題の根幹に関わる大問題である。つまり「男女平等」ということと、「男女の違い」「男女の役割分担」との関係如何という本質的な問題に関わってくるのである。

 「男女平等」とは、「男女の役割分担を否定すること」という理解だと、「防衛大臣が女性であること」になんらの違和感も湧いてこない。むしろ「すばらしいこと」と感じられるだろう。しかし「男女の生得的違い」や「太古から続く男女の役割分担」を重んじ、異質なものを平等に評価するという立場から見ると、「防衛大臣が女性であること」にはどうしても首をかしげざるをえないのである。

 防衛省は軍隊の組織である。軍隊とは基本的に男の組織である。命をかけて国と家族を守る。それは男の仕事である。軍隊までいかなくとも、身近な例で言えば、男女のカップルあるいは子供連れの夫婦が歩いているところに暴漢が襲ってきたら、女性や妻子を守って戦うのが男性の役目である。

 女性は本能的に「頼もしい男性」を望んでいる。酔っぱらいから守ろうとしてくれたからこそ、「電車男」に「エルメス」は振り向いたのである。日本女性が韓国男性にあこがれるのは、徴兵制で鍛えられた韓国男性の「頼もしさ」の魅力も一因と言われている。韓国では、辛い辛い兵役を務めあげて初めて「一人前の男」とみなされるそうである。単なる儀礼ではない、本物のイニシエーションである。いつの時代でも、女性はイニシエーションに合格した心身共に強くたくましい男性にあこがれる。それはよりよい遺伝子を後世に残そうとする「メス」の本能なのである。またそれに応えて自分を鍛え、いざというときには女性や子供を守って戦うのが男の甲斐性というものであろう。

 軍隊は戦うための組織である。その中に女が一人もいてはいけないとは言わない。戦う男を助ける仕事はいくらでもあるから、医療・通信・事務・後方支援など、女性ができる(あるいはむしろ得意な)分野の仕事もある。しかし、戦闘部隊に女性を配属してはならない。先頭にたって敵と戦うのは男でなければならない。それが太古からなされてきた役割分担である。

 「男は戦い、女は家庭を守る」という役割分担を崩しては、男の存在意義はなくなるし、同時に女の存在意義もなくなる。軍隊というのは、男女の役割分担が最も明確に現れざるをえない所なのである。このことを国民も政治家も忘れてはいけないのではないか。

 私は他の省庁の大臣に女性がなることは、適任であればいっこうに構わないし、首相に女性がなってもよいと思っている。しかし、戦う組織の長は是非とも男性でなければならない。軍事のトップとして女性がにこやかに笑っている図は、どうしても似つかわしくないのである。戦う組織の長は、戦う男たちのシンボルとして、例えば日露戦争の日本海海戦のさなか、旗艦三笠の甲板の先端に、ふりしきる弾丸の中、立ちつくした東郷平八郎元帥のようでなければならない。じっさいには大臣が戦場に立つことはありえないが、「妻子や国を守る」という気概と覚悟を持って戦う男たちの頂点には、同じ気概と覚悟を持った男がシンボルとして立つべきなのである。

 たしかにフランスにはジャンヌ・ダルクの先例がある。彼女はフランスの解放のために男たちの先頭に立って戦った。その伝統にならったのか、シラク大統領は国防大臣に女性をすえた。北欧や南米の小国は別として、大国としては唯一の例である。しかしジャンヌ・ダルクは例外である。例外を一般法則にしてはならない。アメリカもロシアもドイツもイタリアも中国も、軍事のトップは男性である。

 女性がトップにいると、男性たちはふるいたって勇気百倍、戦えるようになるだろうか。いや、むしろ逆ではないか。男性隊員の中には、しらけてしまったり、力がぬける感じを味わっている者も多いのではないか。

 小池大臣の初登庁にさいしては、約50人の女性自衛官が整列して出迎え、陸海空の女性自衛官の代表がそれぞれ花束を渡した。幹部は「女性初ということで気を遣った」と言ったそうだが、考えれば考えるほど意味不明である。

 この事実をフェミニストはどう見るのだろうか。フェミニズムの原理から言えば、女性大臣が来るからといって、女性自衛官を並べて歓迎するなどということは、あってはならないことのはずである。大臣が男性であろうと女性であろうと、関係ないというのが本来のフェミニズムの立場であろう。こうしたことに対してフェミニストから批判の声があがらないところに、今の日本におけるフェミニズムの堕落ぶりが如実に現われている。女性自衛官を50人並べるという発想は、俗流フェミニズムが防衛省のいわゆる平服組の中に根強く浸透していることを示している。

 自衛隊の中のフェミニストたちは、例えば潜水科の教員に女性がなったとか、ヘリコプターの操縦士に女性がなったとか、落下傘部隊の中に女性隊員が何人いるとか、そういうことを「戦果」として誇示している。それは男女の役割分担の原則を切り崩す役割を担っているのである。彼女たちは知ってか知らずにか、男女同質・同型思想を実現するまさに「先兵」としての役割を担っているのである。女性が防衛省の大臣に就任したことによって、今後ますます自衛隊が「女性自衛官の活躍」を目標とするようになるのであれば、国防の面からも、男女の健全な役割分担の面からも、ゆゆしき事態と言わざるを得ない。

 仮想敵国の軍事指導者たちは、日本は甘い甘いと笑っているのではなかろうか。軍隊がお人形さんを頭に飾って喜んでいるようでは、本当に国防を考えているのかと疑われてしまう。平和ボケ日本の象徴のような風景と言うべきであろう。安倍首相は、久間氏のような失格者以外に、防衛大臣にふさわしい男性の人材を見つけられないのか。選挙のための人気とりのつもりかもしれないが、大切な国防の人事を人気とりに使ってはならない。参議院選挙を女性防衛大臣という小手先でしのごうというのでは、志が小さい。もっと堂々と正攻法で取り組んではどうか。その方がむしろ支持を得られるのではないか。

 

平成19年6月24日

年金問題の責任は野党と労組にあり

 ずさんな年金管理に対する批判と怨嗟の声が国中に満ちている。国民の怒りは当然であり、責任は厳しく追及されなければならない。

 「責任」というとき、国民の大部分は「政府・自民党に責任あり」と思っているようである。だからこそ、参院選は自民党にとって「逆風」であり、それも「突風」だそうである。

 そういう見方に私は敢えて異を唱えたい。実質的な最大の責任は旧社会党(今の民主党の左派と社民党)、および公務員の労働組合すなわち自治労にあると考えるからである。自治労は総評参加の労組の中でも、強い組織力と闘争心(階級意識)で有名であり、それだけに闘争の「成果」を誇っていた。すなわち、彼らに有利な勤務条件を勝ち取っていた。ということは言い換えれば、「サボリ」体質を色濃く持っていたことになる。民間に委託すれば10分の1の時間で出来る仕事を、ダラダラと時間をかけてやっていたのである。その体質は、時間を無駄にするだけでなく、勤務の質にも当然反映していた。記録ミス、データの打ち込みミスが膨大であることが、今になって発覚した。

 それどころか、データの打ち込みをアルバイトにさせていたということも明らかになった。自分たちは仕事をしないでいいような労働協約を結び、ダラダラと遊んでいる分をバイトにさせていたのである。バイトの者は、名前をいい加減に読んで打ち込んでいたが、それをチェックもしなかった。その根源は労組の「サボリ」奨励体質にあり、それをバックアップしてきた社会党など野党の責任は重大なのである。

 個人的体験を出そう。もう20年以上前の話だが、私の妻が年金の積み立てについて確かめようと社保庁の支部を訪ねたときのことである。妻は20歳のころから真面目に欠かさず支払いを積み重ねてきていた。ところが驚いたことに、途中の数年間、支払いがなされていないと言われた。「そんなはずはない」と抗議する妻に、役人は「記録がない」の一点張りで、「領収書を持ってきてください」と言うばかりであった。

 仕方ないので、家に帰って探したところ、(何度も引っ越しをしたのに)奇跡的に領収書が保存してあり、それを持って再び社保庁を訪れたところ、その役人はただ「記録しておきましょう」と言っただけ。悪びれるふうでもなく、もちろん謝りもしなかった。「正しく記録しておくことが自分たちの義務だ」という意識がまったくないのである。「払ったという証明は国民の側がしなければならない」という意識なのである。記録のミスがあっても、責任を取らなくてもよい、誰からも責められない、いざとなったら強力な労組と野党に守られている、これでいい加減な仕事ぶりがなくなる方が奇跡である。

 要するに今回の年金不祥事の最大の責任は民主党と社民党にある。それなのに、自分たちの責任はほうかむりして、政府や自民党ばかりを責めるのは、まるで逆さまではないのか。自民党に落ち度があるとしたら、こういう理不尽な労組をのさばらしてきたという罪である。だからこそ、安倍内閣は、まだ生温いとはいえ、公務員改革法案を提出しているのである。

 いっそのこと、国民の代表が旧社保庁の職員を相手に、給料返済の訴訟を起こすか、彼らへの年金支払い停止の訴訟を起こしてはどうか。法律的に勝てるかどうか分からないが、誰に真の責任があるかは、明らかになるのではないか。

 年金不祥事の責任は、形式的には政府にある。しかし実質的責任はむしろ野党の側にある。そこを国民は見誤ってはならないと思う。自分たちの責任を棚に挙げて、他人ばかりを批判する民主党の欺瞞が、もっと暴露されなければならない。

 

平成19年6月7日

意識改革が必要な日本棋院

 日本主催の囲碁国際戦・富士通杯の準々決勝で、依田紀基九段と張栩碁聖が勝ち、久しぶりにベスト4の中に日本人が二人入った。喜ばしいことだが、手放しでは喜べない。というのは、この朗報は二人の個人的な実力と頑張りによるものであり、日本囲碁界の復活を意味するものでないばかりでなく、個人の頑張りを支える体制ができたことを決して意味するものではないからである。

 最近、日本の囲碁界では、国際戦を頑張れという機運が高まっているが、国際戦を勝ち抜くための体制作りはまったくなされていないと言っても決して過言ではない。体制作りと言ったとき、長期的な養成の問題を除いて、短期的な対策として考えられるのは、選手の選抜と、選手の日程調整である。この二つは私が『諸君 ! 』2月号の論文で指摘して以来、まったく改善されていない。

 選手の選抜は、相変わらずタイトル保持者を優先しており、旧態依然のやり方を取っている。日程は過酷なままである。例えば、

 張碁聖は5月28日に十段戦本戦を戦い、6月2日にこの富士通杯を戦っている。これは対局場が韓国であるから、前日か前々日に移動しなければならない。彼は次いで6月4日と6日に行なわれたLG杯(韓国主催)の一回戦と二回戦にも出場し、両方とも勝ってしまった。彼の敢闘精神と国際戦への意気込みには敬意を表するが、しかし写真を見るとげっそりと痩せており、今後の対局への悪影響が心配である。彼の場合は少なくともLG杯の出場は取り止めるべきであった。国際戦のすべてに出場する必要はない。せめて日本主催の国際戦だけに出場し、日本の碁の価値を見せつけてくれればよいのである。

 他方、依田九段は現在、本因坊挑戦手合いを戦っている最中であり、第2局が5月22、23日に韓国の済州島であった。6月2日にまた韓国に渡り、6月6、7日と本因坊挑戦手合い第3局が待っている。

 こうした過酷な日程を続けていると、そのうち過労がたまって、あるとき突然不調になり、大事な試合に負けることになりかねない。この1月のトヨタ・デンソー杯の決勝戦のときの張碁聖がそうだった。それまで過労ぎみだった彼は、本因坊と名人のタイトルを次々に失い、はた目にも痩せてしまい、疲れているようだった。暮れから正月にかけて休養をとったはずだったが、決勝戦のときの写真を見たら、まだ痩せたままで、回復はしていないようだった。三番勝負の一回戦は、彼独特の驚異的ねばりでなんとか勝ったが、一日おいた二回戦を逆転され、翌日の(!)三回戦でも負けてしまった。スタミナがあれば負けることはなかったはずである。

 日本棋院は国際戦に選手を送りこむかぎりは、もっともっと選手の日程を配慮・調節し、良いコンディションで望むことができるように、最善を尽くさなければならない。富士通杯の準決勝は7月7日、決勝戦は7月9日だそうだが、その前後の両選手の日程を過密にしないように、ぜひとも配慮してほしいものである。

 ただ個人に頑張れと言うだけでは、精神主義にすぎない。個人が頑張れるような環境作り、コンディション作りにも配慮するように、日本棋院の意識改革が必要である。

 

 さて、話は変わるが、先月末、世界アマチュア囲碁選手権戦が行なわれ、中国代表の13歳の単小騰選手が優勝した。前にも書いたが、中国選手はどう見ても「アマチュア」とは言えない。今までの歴史を見ても、中国代表で優勝した「アマチュア」選手は軒並み直後にプロになり、それもトップクラスのプロとして活躍している。プロ級の実力のある者を「アマ」として出してきているのである。

 この単小騰選手も、日本で言えば院生にあたり、院生以上に囲碁漬けの毎日を送っているそうである。すなわち彼は休学して(!)囲碁道場に通っており、日曜日以外の週6回、朝の8時半から夜の9時まで囲碁の勉強に励んでいる(『週刊碁』2007.6.11号による)。これがどうしてアマチュアと言えるのか。

 ちなみに日本の院生はアマの大会には出られない規定である。日本の院生以上にプロに限りなく近い者を「アマ」として出してくる方も来る方だが、それを「寛大に」黙認する方もおかしいのではないか。三位になった日本代表の森氏は普通の職業を持った普通のアマである。

 日本囲碁界はどうしてこうも、中国に対して甘いのか、どうしてこうも中国を優遇するのか。日本を抑えて中国が優勝したといえば、またまた単純に中国の民衆は沸き立ち、ますます囲碁熱が盛んになり、レベルアップしていくだろう。

 もともと中国ではプロとアマの境界が曖昧であり、厳密にアマに限ることが難しいことは分かる。しかし少なくとも公正に運営されるべきという意識が希薄なのが問題である。日本棋院の改革は加藤正夫元理事長の死以来ストップしているが、具体的な改革以前に、意識の改革が必要なのではないか。

 

平成19年6月2日

裁判官が反体制派という危険な国 ──無国籍児に住民票

 東京地裁で、とんでもない判決が出た。原告は事実婚の夫婦。彼らは反体制的な確信犯であり、婚姻制度を否定しているので、婚姻の届け出を出さない。当然、生まれてくる子供は「婚外子」「非嫡出児」とされる。出生届のさいには「非嫡出児」と記載しなければならないが、それは「抵抗がある」という理由で書かなかった。当然、出生届けは受理されない。親の身勝手なイデオロギーによって、子供の戸籍がなくなってしまったのである。確認しておくが、子供の戸籍を奪ったのは親自身であり、子供の将来の利益を奪ったのも親自身である。

 この夫婦は、子供の戸籍がなくても住民票を作成すべきだという訴えを起こした。身勝手もここに極まれりという話である。彼らは国の戸籍制度や婚姻制度を否定しているのである。当然、国が与える保護や福祉を受けない覚悟があろう。ところが、子供には国の保護や福祉をくれという。またしても「子供」をダシにして、身勝手なイデオロギーを押し通そうという作戦である。

 この夫婦の主張を認めたら、国の家族制度、婚姻制度、戸籍制度が否定されかねないということを、この大門匡という裁判官は理解できないのだろうか。この訴えを認めたら、婚姻制度、戸籍制度が事実上、掘り崩されてしまうのである。そのことを理解できない馬鹿ではあるまい。この裁判官自身が反体制派であり、原告と同じ思想的立場に立って、原告と共演しているのであろう。

 その証拠に、この裁判官は一年前にも同じ「子供に罪はない」判決を出している。すなわち、

 中国残留婦人の子と偽って約10年前に一家で来日した李忠武さん(45)の長女で、高校2年の金花さん(17)=千葉市=が東京入国管理局の強制退去処分取り消しなどを求めた訴訟の判決で、東京地裁は19日、請求を認め処分を取り消した。

 大門匡裁判長は「事情も分からず父母に連れてこられ、不法入国の責任はない。7歳から日本語で教育を受け、中国への退去は過去の努力を水泡に帰すものであって著しく不利益。在留特別許可を当然出すべきだった」との判断を示した。

 高校3年の長男峰さん(19)も同様の訴訟を起こし、東京地裁は3月、在留を認める判決(入管側控訴)を言い渡している。李夫妻は昨年5月に強制退去させられた。(共同通信、2006年7月19日)

 反体制左翼は組織的に「子供の利益」を前面に出して、300日問題のように民法や戸籍法を標的にして訴訟を起こし、家族制度を掘り崩す作戦に出ている。今回の原告、菅原一之氏は「なくそう戸籍と婚外子差別・交流会」の活動家であり、「婚外子差別」と「戸籍制度」をセットで「なくそう」しているのである。彼らが訴訟を起こせば、司法の内部に巣食っている「同志」の判事が呼応して「画期的判決」を出すという仕組みである。司法の中に獅子身中の虫がいるのだから、危機と言うより、船底に穴をあけられた状態と言うべきだろう。

 『産經新聞』にも獅子身中の虫がいる。6月1日付の記事の中で、この判決を高く評価して「親子、家族関係が多様化する中、現行法の規定から外れたために戸籍がないままになっている子供にも、ほかの子供たちと同様の行政サービスを受ける権利があることを明確に示した点で画期的だ」と書いている。フェミニストそのままの考え方である。

 「親子、家族関係が多様化する中」という言い方は、多様化した関係をすべて一律平等に認めるという意味を含んでいる。つまり事実婚もシングルマザーも同性愛カップルも、正規の婚姻と同じ権利を与えるべきだと主張しているのである。しかも「現行法の規定から外れたために戸籍がないままになっている子供」という言い方も欺瞞的である。「外れた」のは不可抗力でやむをえず「外れた」のではなく、親の反体制的な思想のために故意に外されたのである。子供の利益を守りたかったら、親自身が婚姻届をだしさえすれば、子の利益は守られるのである。

 ところがこの判決は、(婚姻届けを故意に出さないという)反体制的な行動を不問に付した上で、その親子を「救済」すべきだと結論している。しかしそれは国の根幹である家族制度を掘り崩すことを意味しているのである。自分が気に入らない法律でも守らなければならないのが民主主義の法治国家である。法治国家の原則を守るべき司法が国家の基礎を掘り崩すような判決を出すところに、今の日本の危機的な状況が浮き彫りになっている。

 中国や北朝鮮の外的脅威もさることながら、それらの工作活動ではないかと疑いたくなるように、こうして足元の土台が崩され、それが積み重ねられていく内的脅威の方が、さらに深刻ではなかろうか。

 

平成19年5月25日

信じられない警察の弱腰

 愛知県長久手町の立てこもり事件をテレビで見ていて、信じられない光景が次から次へと出てくるのには、驚きを通りこして、唖然とした。一口で言えば警察の信じられないほどの弱腰である。

 第一の驚きは、負傷して横たわり、うめいたり、もだえたりしている警官を救出しないで、5時間も放置したこと。幹部は、犯人が「助けにくれば撃つ」と脅したので行けなかったと弁明した。首を撃たれた警官が死ななかったのは奇跡である。犯人が「撃つ」と脅せば、こちらも「撃つぞ」と言えばすむことである。いくら人質がいたとはいえ、5時間も無為無策だったとは、あまりにも無能ではないか。人質の存在よりも、びくびく、おどおどしなければならない理由があったのではないのか。

 これを見て、警官になろうと思っていた優秀な若者はどう思ったであろう。負傷しても助けてくれない上に、凶悪犯に発砲もさせてもらえず殺されてしまった現場を目の当たりにしたら、誰が警官になりたいと思うであろう。この損失は計り知れない。

 第二の驚きは、警官の救出にあたって、犯人が4発も撃ってきたのに対し、一発も撃たなかったこと。何のために重装備のSAT隊員を配置していたのか。犯人が撃ってくるということは、警官隊に死傷者が出る可能性があるということである。最小限、威嚇射撃か援護射撃をすべきだし、最大限は狙撃・射殺することである。相手は凶悪犯である。しかし弱虫であることは十分に推測できた。放送局に電話をかけ、自分の言い分を聞いてもらいたいと話し込む弱虫である。弱虫だから、人質をとり拳銃を持っているという優越感を誇示するために発砲するのだ。警察が弱腰だと見て、威丈高になっているだけなのだ。その心理のすきを突く作戦を考えるのがプロというものだろう。とにかく犯人が好き放題に撃ってくるのに対して、一発も応戦しないなどということは、絶対にあってはならない態度である。

 第三の驚きは、犯人が手を上げて投降してきたときの、警察車輛のアナウンスである。なんと「出てきてくれてありがとう」「手に持っているものを下に置いてくれる?」「うしろを向いてくれる?」と優しく語りかけたのである。4人も死傷させた凶悪犯である。それに対して、どうして幼児に語りかけるような調子が必要なのか。「手に持っているものを下に置きなさい」「うしろを向きなさい」でどうしていけないのか。

 こうした驚くべき警察の弱腰と失態は、しかし警察だけを責めれば済むというものではない。その根は深いのである。はしなくも今回の事件で表面化した警察の異常な「慎重さ」の裏には、「民主主義」と「人権」をめぐる戦後60年あまりの長い歪みとねじれの歴史が横たわっているのである。

 戦後の民主主義警察は、「オイコラ」はいけないというところから始まった。威張ったり、強腰の態度を取れば、たちどころにマスコミから袋叩きにされた。発砲などしようものなら、幹部は責任をとらされて辞任させられるほどの大事件となった。

 対するに、警官が死傷しても誰も非難しない。しかし犯人も含めて民間人を死傷させると、とたんにマスコミが非難の大合唱をする。そういう雰囲気の中で、犯人の命といえども、「命」であるからには大切にしなければならない、というのが警察に課せられた大原則になってきたのである。警官の命を助けるために、もしも人質や犯人の命を失わせることにでもなれば、どれほどの非難が集中するか、と幹部は恐れたのであろう。悲しい「性(さが)」としか言いようがない。

 今では、警官が発砲しても非難する意見はほとんど聞かれないほどに、世論は悪人に対する警察の断固とした態度を支持している。もし非難をするとしたらマスコミだけである。このごろではそのマスコミも世論の変化を反映して、警察の強い態度を批判しなくなっている。文句を言うのは、いわゆる「人権派」だけである。しかし、長いあいだに染み付いてしまった「民主警察」のおどおどした態度は、なかなか抜け切らないのであろう。

 最大の問題点は、犯人に対する作戦を、純粋に警察の立場から立てて遂行するという体制が確立されていない点にある。政治的な配慮だとか、マスコミや「人権派」への配慮から、その状況にマッチした作戦を遂行できない所に、本当の弱点がある。いかに優秀なSAT部隊を配置していても、宝の持ち腐れになってしまう。政治やマスコミから独立した、警察の純粋に技術的な独自の能力と判断力を持たせ、それを高める努力をしなければならない時期にきているのではないか。

 今回の事件は、どこかの国の工作組織に、絶好の教訓を与えてしまった。たった一人でも、あれだけの撹乱を起こしうるのである。日本の警察は、人質さえ取れば、手も足も出ないのだということを教えてやったようなものである。

 対外的な安全保障の面では、ようやく憲法改正が議論されるようになり、集団的自衛権を認める方向で動き出している。自衛隊を普通の国の軍隊に近付けようというのである。国防の正常化と言っていいだろう。国内的にも、警察の実力行使をもっと可能にし、しかし適切な歯止めをかける独自の制度を整備するという方向で、警察を正常化していかなくてはならない。

 警察が「普通」の警察であったならば、林一歩警部は絶対に死ななくてすんだ。このように無念な犠牲を出さなくて済むように、早急に警察の正常化をはからねばならない。

 

平成19年5月17日

偽善と矛盾の「赤ちゃんポスト」

 「赤ちゃんポスト」に三歳児が入れられていたというので、大騒ぎである。設置容認を打ち出していた厚労省の担当者が「驚いた」そうだが、呆れた話である。新生児だけでなく、幼児が捨てられる可能性は十分に考えられた。私はとうに「捨て子」を助長すると危惧の念を表明していた。それが現実のものになっただけである。今さら驚くとは、その方が驚きである。

 「赤ちゃんポスト」は慈恵病院で「こうのとりのゆりかご」と名付けられている。 この病院の院長はクリスチャンであり、病院の理念では第一に「キリストの愛と献身の精神を信条とします」と掲げている。キリスト教文化圏であるヨーロッパでは、こうのとりが赤ん坊を運んでくるとされる。もちろん神から授けられた命を運んでくるのである。つまり、「こうのとりのゆりかご」は「神から与えられた子」を助けなければならないという発想であり、その発想から「善行」を実行したところが、想定外のことが起きてしまったというところだろう。

 クリスチャン率1パーセントの日本で多くの人が感じる赤ちゃんポストへの違和感は、価値観、宗教観の違いによるところが大きいであろう。宗教観の違いを無視して、日本でいきなりキリスト教的な価値観の慈善を実践しようとしても、理解を得られなかったり、間違った利用をする者が現れるのも、無理もないのである。

 「赤ちゃんポスト」で有名なドイツでも賛否両論が拮抗している。『読売新聞』によると、イタリアではたくさんあった「赤ちゃんポスト」が次々に廃止されたが、その理由は2、3歳児が置かれる例が多くなったからだそうである。キリスト教文化圏でさえ反対論が根強い上に、廃止する方向にあるのだ。それを「許可しない合理的理由はない」と許容した厚労省はどう弁明するのか。

 「虐待で命を落とすよりまし」という意見もあるそうだ。その考え方は、「赤ちゃんの命がなによりも大切」という「赤ちゃんポスト」のもともとの考えにそっている。しかし、もし本当に子供の命を一番に考えるのならば、なにも新生児に限る必然性はなくなる。三歳児であろうが六歳児であろうが、親が育てられないといえば、みな受け入れるべきではないか。そもそも虐待している親は、堂々と(?)捨てていかない。虐待の発覚を恐れるからである。だから「虐待で命を落とすよりまし」などというコメントはまったくの的外れなのである。こうして、いろいろと考えてみれば、この「赤ちゃんポスト」にはさまざまな矛盾が含まれていることが理解されるだろう。

 ポストの横には「相談機関に相談しましょう」という呼びかけが書かれていたり、ポストの中には「お母さんへ」という封筒が置かれていて、それには「気持ちが変わったら連絡して」という手紙が入っているそうである。それらの呼びかけは、切羽詰まっている上に人目を気にして、さっと置いて帰ろうとしている母親に、どんな効果を持つというのか。「捨て子を助長する」という批判をかわす偽善的な小手先細工にすぎない。本当に「命を救う」ことが目的なら、その趣旨に徹して、何歳児でも無条件に受け入れたらいいではないか。三歳児が入れられたといって、そうびっくり仰天することはなかろう。むしろ本来の趣旨が活かされたと言って喜ぶべきではないのか。

 しかし、「赤ちゃんポスト」を設置した病院側は、かたくなに「コメントできない」という態度を取っている。それはあまりにもおかしいだろう。今回の事態について、どう考えるのか、どう対策を取るのか、きちんと意見表明をする責任と義務があるはずである。都合が悪くなるとだんまりを決め込むのは卑怯である。

 「赤ちゃんポスト」は本来、新生児の命を救うという趣旨だと言うが、その趣旨は、国民の全員が善意をもっていて、その趣旨を理解し守ることを前提にしている。全員の善意を前提にしているところは、ありもしない「平和を愛する諸国民の公正と信義」を頼りにして「戦争放棄」をした我が国の偽善的憲法に似ている。

 個別的に善行をすれば問題が解決するというのは、偽善であり自己満足にすぎない。もちろん、個々の善行は尊いし、有益な場合もある。しかし社会全体との調和を乱す場合もある。どうしても善行をやりたければ、社会全体の価値観や宗教観、および対応や対策と矛盾しない善行のやり方を考えていくべきである。

 

平成19年5月13日

素人集団の素人提案 ──教育再生会議の子育て提言

 政府の教育再生会議は、子育てに関する保護者向けの緊急提言をする予定であったが、批判が多いので見送ることになったそうである。

 批判とは、一方では、「家庭生活の内部まで踏み込むような印象を与え、感情的な反発を招きかねない」という政府・与党側からの懸念である。伊吹文科相も「人を見下した訓示のようなことをするのは適当ではない」と述べたそうである。

 他方で母乳育児やPTAへの父親参観といった提言に対して、主に野党側から「母乳が出ない人、したくてもできない人への配慮が欠けている」といった疑問の声が出されたそうである。

 どちらの批判も間違っている。一方の、親に命令するかのような印象を与えるという批判だが、山谷首相補佐官が語っているように、「価値観を押しつけるものではない」し、親を見下したり命令したりするつもりのないことも明々白々である。

 他方、「○○が理想だ」と言うと「○○ができない人が可哀相」とか「出来ない人を追い詰めるから言ってはいけない」という、野党がよく使う屁理屈は、いい加減にやめるべきである。その論理を使ったら、およそ理想を主張することは不可能になってしまう。理想を言うことは、できない人を否定したり責めたりすることであるはずがないのである。その論理は「何でも反対する」ための、ためにする屁理屈と言うべきである。

 また左翼系の新聞雑誌は一斉に、「国が家庭の中にまで口だしするのはけしからん」といった反対論を展開している。問題になっているのは、子供のしつけもできなくなっている親が増えているということ、そういう親をどうしたら再教育できるかという点である。もちろん誰も強制できるなどとは思っていない。しかし、最低限、そうした親に問題点を提示することくらいはしたいという願いが込められているのである。その趣旨に反対するものたちには、「では君たちは今のままでいいと思っているのか、思っていないなら対案を示したまえ」と質問しなければならない。

 このように、反対はいずれも的はずれだが、しかし的はずれでもそうした反対をもっともらしく見せる「弱点」が提言の中にあることもまた事実なのである。

 「弱点」とは、家庭で行うべき具体的行為をいきなり列挙している点である。これでは、「これこれのことをやりなさい」と命令または訓示されていると感じられるのも無理はないし、「母乳が出ないなどの人はどうすればよいのか」という的はずれな批判を誘発してしまうのである。

 具体的内容を示す方が国民の理解を得やすいと考えたのかもしれない。しかし、いきなり具体的内容を示すという方法は、かえって理解を妨げるのである。なぜなら、そうした具体的行為がなぜ必要なのかについて説明がない(少なくとも説明が後回しになる)からである。

 正しい提言の順序は、まず大切な原理を示し、それがなぜ必要かを説明した上で、その原理を実現するためには例えばこれこれの具体的行動をすることが有効ですよと提案するというものでなければならない。

 例えば、母子のコミュニケーションはのちのち人間関係を形成する上で基礎となる大切なものだという原理をまず打ち出し、そのためには母乳育児、子守歌、読み聞かせ、親子の会話をふやすなどが有効です、というように、具体例はあくまでも例として出すのが正しいやり方である。

 ところが「これこれの具体的行動をとれば家庭教育はうまくいく」という形で出すと、「母乳が出ない人をどうしてくれる」と抗議されることになり、「そういう人は強く抱きしめる」という項目を新たに付け加えるということになる。あまりにバカバカしくて笑ってしまった。具体的行動を金科玉条のように考えていると、それが駄目なら別のことを付け加えるという発想しか出てこないのであろう。原理をまず打ち出せば、「母乳育児」は母子のコミュニケーションをはかるいろいろある手段の一つにすぎず、一つの手段ができないからといって騒ぐのは馬鹿らしいということが理解されるだろう。(誤解のないよう断っておくが、母乳は母子のコミュニケーションをはかるという意味だけを持っているわけではない。)

 つまり、実際に予定されていたという提言は、批判を受けやすいからいけないという以前に、方法論的に間違っており、そのために余計に批判を受けやすくなってしまったのである。

 その「弱点」が露呈してしまうのは、委員の中に家庭教育の専門家と言えるほどの人材が入っていないので、家庭教育とは何かが分かっていないためである。

 委員の多くは、ここに出されているような「具体的提言」をテレビ、雑誌、講演などで「訓示」している。それらをそのまま列挙しただけである。「偉そうな押しつけ」と感じられるのも無理もないのである。

 左翼も同様に「専門家がいない」と批判している。左翼の言う専門家が本当の専門家かどうか、問題はある。しかし専門家が入っていないという批判は当たっている。素人集団の素人提案という感じである。

 分科会は専門家を呼んでヒアリングをしたそうである。委員たちは本来専門家のはずではないのか。それがなぜ専門家を呼んで教えてもらわなければならないのか。初めから専門家が入っていれば、そんなことは必要ないはずではないか。教育再生会議が出来たときに私は委員の人選に問題があると指摘したが、それがここにきて大きなつまずきのもとになっているのである。

 提言は与野党の両方から「押しつけはいけない」と批判されているが、イデオロギーや押しつけとは関係ないところで、家庭教育として行うべきことについて提言することは可能である。その場合、専門的学術的な根拠をふまえて、家庭教育にとって欠かせない原理をまず示すことが必要になる。

 家庭教育や親学は是非とも必要なものである。しかし、強制できないので、納得されなければ実行されない。それだけに、多くの国民に納得される形で提案されなければ意味がないのである。なんでも国がすることにはとりあえず反対するという左翼は別としても、普通の国民に「もっともだ」と感じられるような内容を説得的な形で提案するのでなければならない。

 

平成19年5月11日

保育料・給食費 ──払わない親に鉄槌を

 けしからん奴は、いつの時代にも、どこにでもいるが、それに対する国や自治体の態度があまりにも生温い。私は早くも『産經新聞』平成15年7月28日付「解答乱麻」欄で、「子供に不正義教えるな」という題名で、給食費の不払いに断固たる態度を取るべきだと訴えた。それから4年も経つのに、この問題はいまだに解決していない。最近、新たに、保育料を払わない親が多数いることも判明した。それらの親たちは、もちろん収入があり支払う余裕のある者たちである。

 大部分の自治体の対応は、訪問して説得するだけである。給食費の不払いは無銭飲食だから、給食を食べさせないようにすべきである。あるいは、無銭飲食をしたら逮捕されるのだから、親を逮捕したらいいのである。給食を食べさせないと「子供が可哀相」と言うのだろうが、不正義を働いたら当然の罰が与えられるのだという教訓を与えることこそ正しい教育である。

 給食費と保育料の過去の(卒園・卒業した者の)不払いに対しては、給与の差し押さえなど含めて、絶対に許さないという断固とした処置を取らなければならない。

 現役の保育料の不払いに対して保育拒否をするのは、あまりにも当然の対応である。高知市、山形市などでは保育拒否を打ち出した。ところが、それに対して厚労省が「児童福祉法に違反する可能性がある」とブレーキをかけた。とんでもない見当違いである。

 確かに、児童福祉法第2条には「国及び地方公共団体は、児童の保護者とともに、児童を心身ともに健やかに育成する義務を負う」と定めている。給食を食べさせないと、児童の身体が健やかに育たないというのであろう。しかし条文には「心身ともに健やかに」と書いてある。身体だけ健やかに育成せよとは書いてない。給食費を払わない子供に給食を食べさせておいたら、その子の心は健やかに育つだろうか。絶対に否である。ただ食い、食い逃げを咎めないで、断固たる処置を取らないで、公正感覚やルール感覚、規範意識を育成できるはずがない。ただ食いを認めている大人社会を見ている周りの子供たちの心も悪影響を受けるだろう。それでは児童の心を「健やかに育成する義務」を果たしていないことになろう。

 それだけではない。児童福祉法が想定しているのは、親が貧乏で子の保育に支障をきたしたり、保育料を払えない場合である。そういう場合に対しては、「国及び地方公共団体」が援助しなさいという趣旨である。そうした援助はすでになされている。今回問題になっているのは、支払い能力のある親たちの不払いである。支払えない親子のための法律を、支払い能力のある親子に適用するのは、まったくの見当違いである。そうした場合の保育拒否は、児童福祉法違反であるはずがないのである。

 厚労省の見解は、事実上、不正義を弁護し、不正義をやりやすくし、不正義の摘発をやりにくくさせるものである。厚労省は間違った解釈を直ちに撤回し、不心得者に対して自治体が断固たる態度を取れるように後押しすべきである。また自治体側も、厚労省が一言「違反の可能性がある」と言っただけで、おろおろするのではなく、法律論で争ってでも正義を貫く勇気を持ってほしいものである。

 

平成19年5月10日

相撲は下品になった ──朝青龍の罪

 サルコジ氏が「相撲は知的スポーツではない」と言ったそうだが、まさにそのとおりになっているのではないか。相撲を下品にしている最大の張本人は朝青龍と、その横暴・乱暴を許している相撲協会である。

 朝青龍が横綱になってから、相撲の品格とか品位は地に落ちてしまった。取り口は汚い。毎日のように張り手を使う。このたび引退した栃東を殴りつづけ、相手は完全に無抵抗で、血まみれになっているのに、まだ殴り続けたことがあった。また最近では相手の手首を執拗に掴むという卑怯な手を使う。ケガをさせかねないことをわざとやり、相手が嫌がってひるんだ隙に技をとばす。こんな無法な横綱など見たことも聞いたこともない。

 もう一つ、朝青龍が使う汚い手に、稽古のときに痛めつけて恐怖心を植え付けるという手がある。本番のときに相手が力を発揮できないようにさせてしまうのである。

 今回、その被害にあったのが、期待されていた新小結の豊ノ島である。豊ノ島は小兵ながら、技のキレと闘志あふれる取り口によって、もっとも期待されていた力士の一人であり、朝青龍にとっては苦手とする力士である。朝青龍はそういう相手を、場所前の稽古のときに痛めつけて、本番で力を発揮できなくさせる作戦を取るのが常である。

 はたせるかな、場所前、朝青龍は豊ノ島の部屋に出稽古に行き、豊ノ島にプロレスまがいの荒稽古をつけて、足に全治2週間の負傷をさせた。『読売新聞』によれば、稽古場で勝負がついた後に、豊ノ島は朝青龍に首を固められて押しつぶされ、足首とひざに怪我を負った。足首とひざと言ったら、相撲を取る場合にもっとも大切な箇所である。やくざや悪がきではあるまいに、横綱が勝負がついて相手が力をぬいたときに、プロレスまがいの技を仕掛けるとは、およそ考えられない、武士道に反する行為である。朝青龍は本場所でも、相手が土俵を割った後に突き飛ばすことがよくあるが、横綱の品格とは無縁の行為と言えよう。豊ノ島は13日から始まる夏場所を休場せざるをえなくなった。稽古のときに横綱が相手に怪我をさせるなどは、最大の恥であり、本場所出場を辞退すべきほどの罪である。

 日本の国技である大相撲は、朝青龍が横綱であるかぎり、下品であり続けるであろうし、外国人から「知的スポーツではない」と言われても、反論できないであろう。「相撲道」も含め、およそ「道」と名のつく日本文化は高い精神性に支えられたものであり、ルールだけ違反しなければよいというものではない。何よりも卑怯であることを疎んじ、美しくなければならないものなのだ。

 こうしたことを今の親方たちがきちんと理解しているかは、はなはだ疑問である。親方だけではない。日本人一般も「ルールに違反しなければいい」とか「法に触れなければいい」、果ては「その人の自由」と思っている人間が増えている。国技である大相撲の凋落ぶりは、こうしたことを象徴的に表していると言えよう。なさけないことになったものである。

 

平成19年5月9日

フェミニストの世渡り

 フェミニストは世渡りが上手だ。出世欲が強いとも言える。キャリア官僚から政治家になるのもいるが、多くは大学教授になりたがる。出世頭は坂東真理子氏である。男女共同参画局長から埼玉県副知事になり、その後、昭和女子大の学長にまで上りつめた。そして最近『女性の品格』という本を出版して42万部の売れ行きだと新聞に書いてあった。

 『女性の品格』とは、なんとも品格のない題名である。そもそもフェミニストの付けるべき題名ではないだろう。品格は女性にだけあるものでもないし、女性にだけ必要なものでもない。男女ともに同様に必要なものである。わざわざ「女性の」を付けなければならない理由は何もないはずである。もし理由があるとすれば、それを付けることで売れるようになるという思惑だけである。

 それよりも、もっと品格のなさを示しているのは、藤原正彦氏の『国家の品格』以来、流行語となった「品格」という言葉を使って(フェミニストとしての自己矛盾を犯してまで)「売れる」本を出したという行為そのものである。こういう品格のない「品格本」が人気を博すというところに、日本という国のどうしようもない品格のなさが現れている。

 今日の『読売新聞』には、また一人、世渡りのうまい女性が登場している。「フランスにはない300日問題」という題名で、フランス在住の竹下節子氏が度はずれたフランス賛美を書いている。例によって例のごとし、という内容である。要約すると、

 フランスには「家」というバーチャルな制度がなく、男女は誰かれとなく離れたりくっついたりしている。戸籍にこだわることなく子を産み、したがって庶子と嫡出子の区別もない。父親や母親と関係なく生存の権利が認められる。

 まるで「乱婚のすすめ」である。フランスの出生率が2.0より上になったと言って、まるで「結婚に縛られず」男女がくっついている結果のように書いている。しかしフランスの出生率を押し上げているのは移民たちであり、自由恋愛をしている白人たちでない。

 日本で夫の浮気相手というと「水商売の女」を連想することが多い。フランスではずばり「友人の奥さん」だ。家族ぐるみの交際は盛んだが、そこには男と女の競争原理が働く。男にとっては相手が人妻だから母親だからという自制は働かないし、逆に、自分の妻が常に女として見られているという危機も管理しなくてはならない。男が女を「女」として認識しないところに子供は産まれない。

 なんとも露骨な自由恋愛のススメである。たしかに自由恋愛の乱交なら、子供はどんどん産まれるだろう。産んだ子供は「社会」が面倒みてくれるとあらば、なおさらである。結果は「本当の意味で生命が生まれ、輝き出すかもしれない」そうである。

 自由恋愛で産みっぱなしにすれば、「輝く命」を社会が大切に育ててくれるという夢物語は、さすがのフランスでも幻と消えそうである。新しいサルコジ大統領は、「自分で産んだ子は、自分の責任で自分で育てろ」と言うのではないか。少なくとも、原理的には、そういう方向に舵を切っていくはずである。

 その記事には、ご丁寧に「明るい雰囲気に包まれるフランスの家庭」という写真がデカデカと添えられている。まるでフランスの家庭がみなこのように「明るい雰囲気に包まれる家庭」ばかりであり、日本には「明るい雰囲気に包まれる家庭」がないかのようである。

 代わりに、日本人は「戸籍というバーチャルな家の中で家長の子を産む」という感覚を持っており、「バーチャルな家」の「生産装置」としての妻や母という図式に縛られているのだそうである(今どき、そんな人が何人いる ? )。いつも思うのだが、フェミニスト、とくに外国にいる女性の日本に対する現実認識があまりにも現実とかけ離れているのには驚かされる。

 こういう、素っ頓狂な人間がいてもいいのだが、問題は大新聞が麗々しく、大々的に、こういう偏った考えを掲載することである。とくに問題なのは、彼女が繰り返し「家」を「バーチャル」だと述べていることである。「家」は「仮想」だと言いたいのだろうが、しかし「家」は確実に現実に存在しており、個人に対しては保護的に作用しており(束縛と感ずる者もいるが)、国家に対してはその基礎となっている。「家」は現実的な存在であって、決して単なる仮想ではない。それをいとも簡単に「バーチャル」なものと規定してはばからないとは、現実感覚が狂っているとしか言いようがない。

 ところが、こういうお粗末な議論の方が、その党派性のゆえにフェミニストたちから評価される。「母親の就労は子の発達に無関係」という「研究」を発表した女性は早速、お茶の水女子大の助教授になった。この筆者も遠からず、どこかの大学の教授におさまるかもしれない。ここまで党派的な文章を書くということは、この手の女性たちの世渡りの術なのである。かくして日本の女性学ははてしなく、かつてのプロレタリア文学や学問と同じく、客観性や学問的良心を捨てて、党派性に身売りしていくのであろう。

 

平成19年5月4日

公正感覚の違い

 フランス大統領選がたけなわである。サルコジ氏とロワイヤル氏の一騎討ちとなった。テレビ討論の映像や新聞写真を見て、私は目を見張った。なんと、両者の話した時間がデジタルで大きく表示されているのだ。話した時間を同じにしようというルールなのだ。こういうのを公正感覚と呼んでおく。

 公正感覚において、フランスと日本では大きくかけ離れている。使った時間をリアルタイムで表示するとは、日本ではおよそ考えられないやり方である。日本だったら、司会者が適当にだいたい同じくらいに話すように調節をする。一分一秒たりとも同じにせよとは言わない。

 もちろん、時間を同じにすることだけが公正ではない。一分一秒たりとも同じにしたから公正と言えるのかという疑問も出ることであろう。しかし、問題は一分一秒も同じにしようという感覚が、その他の条件にも当てはめられるという所である。すべての場面で公正ということが最も重んじられるということになるのである。

 このことを羨ましいと私が思ったのは、今まで私がしてきた論争の中で、しばしばそうした公正感覚の欠如を経験してきたからである。私ほどフェミニストと多く論争した者はいないであろう。その論争のほとんどすべてで、フェミニストの論争の仕方の汚さ、公正感覚のなさを痛感させられてきた。フェミニストが汚いだけではなく、第三者や行司役の者までも、公正感覚を欠いているのである。

 典型的な例を二、三挙げてみよう。

 10年ほど前に注目を集めた田中喜美子氏との論争の中で、『信濃毎日新聞』紙上で、紙上討論が四回にわたって掲載された。そのとき、田中氏の原稿は毎回、編集者が決めた字数より超過していた。そのことを指摘されると彼女はいくつもの嘘を積み重ねて自分を正当化した(くわしくは『フェミニズムの害毒』p.230 ~ 232 、本ホームページの「フェミニズム批判」「5 林 - 田中論争」「資料2」)。

 社会的に活躍している「名士」とも言うべき人間が、堂々とルール違反をするというのも驚きだったが、行司役の記者が彼女に字数を削るように要求しなかったことは、私にとってもっと驚きであった。また批評家が「字数が多いか少ないかという」「瑣末な」「泥仕合」になったと評したのも驚きであった。「瑣末」であろうが何であろうが、公正さが問題になっているのである。公正さが大切だという感覚があれば、そういう批評は出てこないであろう。もっとひどかったのは『ニッポンの論争2000』という雑誌に載った批評であるが、これも本ホームページに収録してあるので、ご覧いただきたい。

 第二の例。数年前に「日本比較文化学会」でフェミニズムをめぐってシンポジウムが開かれ、私もパネリストとして参加した。その発言を機関誌に掲載することになり、枚数を指定されて各自原稿にまとめた。出来上がってきた機関誌を見たら、フェミニストの原稿は指定枚数を大幅に超過していた。編集担当者はそのルール違反を黙認したのである。もしかしたら積極的に支持したのかもしれない。

 第三の例。一年前になされた macska との論争。 macska は私の反論が出されると、一日をおかずして反論を出し、内容的な反論をほとんどしないまま、罵り言葉や嘲笑言葉を多用して相手を貶めようとした。自分のホームページの読者たちに、私の反論を「読むほどのこともないくだらないもの」と思わせて読ませないためである。本当に論争を公正に行なう意思があるなら、読者が相手の論を読む時間を与えるはずである。

 そして「小山エミ」を名乗って書いた「ブレンダ問題」に関する論文の中では、私の重要論文(本ホームページの「フェミニズム批判」「29-(3) 『双子の症例』と『ジェンダー論』の関係」)にはただの一言もふれないで、逃げてしまった(『バックラッシュ ! 』)。そこでは八木氏に対しては詳細な批判をしているのに、私に対しては何一つ理論的な反論をしていない。とうてい太刀打ちできないと思ったからであろう。

 かわりに、私のケアレスミスを取り上げて、「思いつきだけでモノを書くという、この著者に顕著な傾向」だと書いている。たった一つの例から「顕著な傾向」を導き出し、読者にマイナスの印象を与えようという作戦である。私の書いたものを読んだことのない者にしか通用しないのだが、私の文章を読む気にさせない効果は持っている。少し前に知人が「あちこちで林道義のホームページには行かない方がいいなどと掲示板に書き込まれている」と教えてくれたこともある。つまり、私の書いたものはフェミニストにとって読まれると「困る」のである。それにしても、正々堂々と議論できないとなると相手の文章を読ませないように画策するとは、実に姑息で卑怯な精神である。

 この種の例を挙げようと思えば、いくらでも挙げられるが、煩瑣になるのでこれくらいにしておこう。フェミニストというのは、どうしてこうも公正感覚に欠けているのであろうか。というよりも、もっと問題なのは、周囲の社会がそうしたルール違反に対して不思議なほど寛大だという点である。

 フランスと日本の違いは、「たった一分の違い」「たった数行の違い」も厳格に公正にしようとするか、「それくらいいいじゃないか」と許してしまうかの違いである。「些細な」ルール違反を許せば、その態度は社会のすべての分野に浸透し、ルール破りを許してしまう。いま日本人の規範意識の希薄化が恐ろしいスピードで進んでいるが、その根本には、こうした公正感覚の欠如が横たわっているのである。

 

平成19年4月28日

「子供優先」の欺瞞 ──代理母・民法772条・非嫡出子など

 前回、「命がなによりも大切」という言い方は危険であるということを述べた。目の前の命を救うことだけを最優先にすると、他の命を危険におとしめる可能性があるからである。

 同じ問題は、代理母とか、離婚後300日以内に生まれた子供を前夫の子供とみなすという民法772条の問題などに見られる。

 代理母の問題は以前から議論されてきたが、日本では認められていない。ところがタレントの向井亜紀氏がアメリカ人の代理母に頼んで子供を産んでもらい、その子を自分たち夫婦の子供として認知してほしいと訴えたことで、クローズアップされた。その記者会見の様子をテレビで見たが、自分の主張が絶対に正しい、それを認めないのは時代遅れで頑迷固陋だと言わんばかりの態度には、じつに不愉快なものを感じた。

 日本の法律で禁じられていることを、いわば法網をくぐる形で既成事実にしておいて、「子供が可哀相」を掲げて押し通すというのでは、日本の法律を無効にしようとしていることになる。それを認めれば、法治国家の否定につながるであろう。

 さらに、誰に頼んで産んでもらってもかまわない、という考え方は、出産の外注化であり、家族というものの比重を少なくしようというフェミニズムの考え方にも通ずるものを持っている。「子供が可哀相」だけで、社会の枠組みを壊していいはずがないのである。

 本当に子供のことを最優先に考えるのであれば、最も重要な問題は代理母によって母子関係がどうなるかということである。妊娠・出産・初期授乳によって母性本能にスイッチが入るということは、すでに科学的に証明されている。その過程を経なかった母子が、母子としての絆を築くには、それなりの不利な条件を背負っていることになる。もちろん「産みの親より育ての親」というように、実母でなくても良好な母子関係を築くことは可能である。しかし、そのためには人一倍の努力が必要であるし、そこには越えがたい「壁」があるのもまた事実である。

 逆に代理母の側が母性に目覚めてしまい、子供の所有権を主張してトラブルになったり、訴訟沙汰になったケースもある。要するに母子関係が交差したり、混乱する可能性、言い換えれば母性本能が混乱する可能性をはらんでいるのである。

 代理母を肯定する人たちは、母性本能というものを軽く考えてはいないであろうか。母性本能というものは、人間が先天的に持っており、何十万年もの長いあいだ遺伝的に受け継がれてきた、人間にとって最も基本的な大切なものである。これを乱す可能性のある方法を、いかに科学的・医学的に可能になったからといって、安易に肯定してよいものであろうか。母性は人間が人間であるために絶対不可欠なものであるという認識が、どうも薄れている。というより、薄れさせたくてたまらない人たちがいるような気がしてならない。

 さて、話は変わって民法772条問題であるが、こちらにも同様の問題構造が見られる。新しい夫の子供なのに、300日以内に生まれてしまった子供が新しい夫の子供として認知してもらえない、だから民法を変えろという話である。民法の思想は、前夫の子供と新夫の子供を厳格に区別すべしというものである。それによって家族制度や婚姻制度を守ろうという趣旨である。その思想と枠組みを簡単に崩してしまっては、民法の存在意義がなくなってしまうであろう。

 新夫の子供が300日以内に産まれてしまったという場合には、それを証明する方法や手続きを明示して、救済すればよいだけの話である。基本的枠組みを変える必要などないのである。

 ちなみに、4月24日の『読売新聞』の「論陣論客」欄で、「300日問題」について与党内でも意見が対立しているとして、自民党の稲田朋美氏と公明党の丸谷佳織氏とが対論している。

 稲田氏は(300日問題は)「家庭裁判所で救える。拙速に、目に入るかわいそうな子を救うというだけで、(法律を変えるというような)安易な解決策をとるのはやめたほうがいい。」無戸籍児というけれども、「届け出」は「できない」のではなく、「していない」というだけである。「無戸籍児」というより、「未届け児」と言うべきだ、と述べている。しごく尤もな意見である。フェミニストたちは法律を変えるために、わざと家裁に届けでて救済してもらう方法を拒否して、「無戸籍児」を人工的に作りだして、「可哀相」だと宣伝しているにすぎない。「可哀相な子供」を手段に使っているのだ。

 その線で主張を展開しているのが、公明党の丸谷氏である。「一番重要なのは目の前にある問題を解決することで、道徳論、家族論を言っているだけでは、戸籍のない子供の状況は何も変わらない。」「子供の身分を安定させ」「子供を最優先」すべきだ。

 相も変わらぬ「子供優先」論である。しかし「戸籍のない子供の状況は何も変わらない」というのは嘘である。家裁に届け出るという方法を取れば、状況は「変わる」。手続きが多少煩瑣であるとしても、それは全体としての道徳や公序良俗を崩す可能性のある生き方をしている者に課せられるペナルティと考えて我慢すべきである。

 丸谷氏の意見には、目の前の子供が「可哀相」だという情に訴えることによって、制度そのものを変えてしまおうという、フェミニスト特有のずるい魂胆が見えかくれしている。「なによりも子供を大切にする立場」などという決まり文句に騙されてはいけない。本当に子供を大切に思うならば、子供を人質に取るような、結果として届け出をしないで無戸籍児にしてしまうというような、子供を犠牲にする戦術を取るはずがないのである。それよりも、政治家ならば、単に目の前の子供のことだけでなく、子供全体のことも考えて、家族制度や婚姻制度をしっかりと守ることこそ、基本にしなければならない。

 夫婦別姓のときも、同じ方法が使われた。「別姓を認めてくれないので、婚姻届けができない」といって、「困っている人」を作り出し、というより自ら志願して「困っている人」になって、圧力をかけるという方法である。放っておくと、非嫡出児が産まれてしまい、「可哀相な子供」になってしまう、というわけである。「金太郎飴」ではないが、フェミニストはどこまでいっても、まったく同じ戦術をとっている。

 「子供のため」を言いながら、子供を手段に使う方法は、もういい加減にやめにしたらどうか。でないと、フェミニズムの欺瞞がますます国民の多くにみすかされることになろう。

 

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