寸評

 

 日ごろ当ホームページをご愛読いただきありがとうございます。新たに「寸評」というコーナーを作りました。これは論文や評論といった大げさなものではなく、軽く問題点を指摘するという趣旨です。書く方も読む方も手軽に立ち寄れるのがよいところです。ご覧いただければ幸いです。

 

平成25年10月16日

婚外子「差別」について

 去る9月4日、最高裁大法廷において、「嫡出子と非嫡出子の相続分が二対一と定めた現行民法の規定は、法のもとの平等を謳う憲法に違反する」という趣旨の判決を下した。これを聞いて私は一驚し、かつ慨嘆した。日本の司法はここまで堕落したのかと。なぜなら、この判決は、法律家としてはあってはならない論理性の欠如を示しているからである。

 「法のもとの平等」に反すると結論するためには、「平等」の意味を明確に定義しておかなくてはならない。しかしこの判決にはそのような定義はどこにも書かれていない。これは論理性の欠如以外の何ものでもない。

 「平等」には大きく分けて、「形式的平等」と「実質的平等」とがある。「平等に反する差別である」と言いたいならば、このどちらの平等に反しているのかを明言しなければならない。

 「形式的平等」とは、一人ひとりの年齢、性別、能力、境遇等に関係なく、ただ機械的に同額を支給するといった原理の平等観念である。それに対して「実質的平等」とは、一人ずつの状況を勘案して、支給額を変える、それこそが真の平等だと考える原理である。

 今回の最高裁の判決が「形式的平等」の平等概念に立っていることは明らかである。すなわち、嫡出子も非嫡出子もその境遇を子供自身は選ぶことができないのであるから、一律に同等の相続権を持つ、したがって「本件規定」(非嫡出子の相続分を嫡出子の二分の一とする)は「法の下の平等」を定めた憲法14条1項に違反し無効である、と結論しているからである。

 もちろん判決文はそう単純にこの結論を出しているわけではないので、ここで判決文の論理を簡潔に辿ってみよう。

 曰く、嫡出子と非嫡出子の区別に関しては、その国の伝統、社会事情、国民感情などのほか、家族というものをどう考えるかなど、さまざまなことを総合的に判断して決めなければならない。その上で、この区別に合理的根拠が認められない場合には、この区別は憲法に違反すると解すべきである。

 我が国は長いあいだ法律婚主義をとってきたが、それを含めてさまざまな事情も「時代と共に変遷する」ものであるから、「個人の尊厳と法の下の平等を定める憲法に照らして不断に検討され、吟味されなければならない」。

 さて「時代と共に変遷」した第一のものは、家族形態の多様化と、それにまつわる国民意識の変化である。すなわち「婚姻、家族の形態が著しく多様化しており、これに伴い、婚姻、家族の在り方に対する国民の意識の多様化が大きくすすんでいる」(註1)。また第二のものは、この問題にまつわる国際社会の事情や意識の変化である。世界の趨勢として、嫡出子と非嫡出子の相続分に関する「差別」が撤廃されており、「そこに差異を設けている国は、欧米諸国にはなく、世界的にも限られた状況にある」。

 これを要するに、世の趨勢・時代の趨勢は、嫡出子と非嫡出子とのあいだの区別をなくす方向にある。よってこの区別をなくすべきである。これが結論である。見てのとおり、いろいろと論理を尽くして考察した上での結論のように見せかけているが、結局のところ、世間の趨勢を事細かに述べて、それが形式的平等の方向に行っているから、それに従うべきだと言っているにすぎない。

 しかし、その際、この案件ではなぜ「形式的平等」の原理を基準にして考えなければならないのか、なぜ「実質的平等」の原理を捨ててよいのかという原理的理由については述べられていない。唯一の理由として挙げられているのは、それが国内的にも国際的にも「世の趨勢」だということだけである。これだけが、嫡出子と非嫡出子の区別を一切なくしてしまう「形式的平等」を選んだ根拠とされる。

 しかしながら、嫡出子と非嫡出子の相続の多寡を、このように形式的機械的に考えるべきものではあるまい。嫡出子と非嫡出子の関係は、具体的状況のあり方によって千差万別であり、それに応じて両者の相続分の割合も変わってくるはずである。また正規の婚姻による家族形態を守るべきだと考える人々から見たら、当然嫡出子と非嫡出子との間に区別をもうけるべきだと考えられるであろう。

 私は日本の家族形態は世界に類を見ない価値あるものであって、断固として守るべきものだと考えている。世界の趨勢がどうあろうと、それに逆らってでも、守る価値があると考えている。司法は価値中立でなければならないから、そのような価値判断をしてはならない、と反論する人がいるかもしれない。しかし「時代の趨勢に従うべきだ」という判断もまた一つの価値判断である。どちらも価値判断である点に違いはないのである。

 正規の婚姻による一夫一婦制という、先進国のあいだでは日本にのみ残されている貴重な形態を守るためには、形式的平等ではなく実質的平等の原理によらなければならないことは、見やすい道理である。

 ただし、実際の場合には、ケースごとに嫡出子と非嫡出子の相続の割合を、二対一にすべきか、三対一にすべきか、四対一にすべきか、それとも四対三にすべきか等と決めることは、あまりにも煩雑であり、実際にはまず不可能であろう。そこで現行民法はやむを得ぬ妥協点として二対一と定めたのである。

 こう考えてみると、この度の最高裁の判決は根本的な誤りを犯していると言わざるをえない。この判決を金科玉条にして、現行民法を変更するなどということは、絶対にあってはらない。

    註1

 この認識自体がそもそも間違っている。婚外子の割合は1995年の1.2%から2011年は 2.2%、たった1%増えただけである。シングルマザーの割合は1.6%(平成23年国民生活基礎調査)にすぎない。スウェーデンやフランスでは、婚外子の割合が50%を超えていることと比較すれば、「著しく多様化して」いるなどとは、決して言えないのである。

 

また「国民の意識」についても、偏りがちなNHKの「解説」でさえ

内閣府の世論調査では、「婚外子というだけで法律上不利益な扱いをしてはならない」と考える人は、96年当時の55%から、去年は61% に増えています。 一方で、「法律上の結婚を保護するために は、不利益な扱いがあってもやむを得ない」と答えた人は、22%から 15%に減りました。この結果からは、少しずつですが、家族観に変化が生じてきているよう に思えます。

 と控えめに書いている。「大きくすすんでいる」などと大袈裟な言い方はしていない。

 しかも、同じ世論調査によれば(NHKは無視しているが)、

「現在の制度を変えない方がよい」は35.6%, 「相続できる金額を同じにすべきである」は 25.8%,「どちらともいえない」は34.8%となっており、現在の家族制度を支持する人の方が相当に多い。

 

前回の調査結果と比較して見ると,「現在の制度を変えない方がよ い」(41.1%→35.6%)と答えた者の割合がやや低下し,「ど ちらともいえない」(31.2%→34.8%)と答えた者の割合がやや上昇, 「同額にすべき」(24,5%→25,8%)は微増。

http://www8.cao.go.jp/survey/h24/h24-kazoku/2-5.html

 このように、大騒ぎするほどには家族は多様化しておらず、家族観にも大きな変化はみられ ない。家族が「著しく多様化」しているという最高裁大法廷の判決は、重大な事実誤認をしていると言うべきである。

 ただし、私の主張は、この点に関する事実認識がどうあろうとも、その趨勢に逆らってでも家族制度を守るべきだという趣旨なので、この問題についての指摘を「註」として述べた。

    註2

 なお、この問題については、本ホームページの「家族」「1 フェミニスト家族論の批判 (4)非嫡出子の区別は正当なり」で詳しく論評しています。是非ご覧ください。

                                            

 

平成25年3月6日

「花」について

 このごろ「花」に凝っている。と言っても、自分でいけるわけではなく、ただ観賞するだけである。もともと私は花が好きで、ずっと庭の花を愛でてきたが、十年くらい前に家を新築して引っ越したときにも庭を持つことができたので、そこに四季折々のいろいろな花を植えては、楽しんできたのである。

 花は自然に咲いているのが一番美しい、それを切り取ってきて部屋の中に飾るのは、どこか邪道のように思っていた。その考えが変わったのは、病気になって、ほとんど寝たきりの生活を経験してからである。そのころに作ったのが、こんな短歌や俳句である。

  病床の窓辺に妻が手折りこし かすかに匂うクチナシの花

 あるいは

  一晩で 満開となる 部屋の梅

 こんな具合に短歌や俳句とセットにして楽しむのが私の流儀である。そのころは、ただそこに花があるだけで幸せであった。

 ところが急に新しい世界が見えてきたのは、四年前ころから、娘が川瀬敏郎氏の花の教室に通うようになってからである。娘は川瀬氏をたいへん敬愛しており、氏がいかに偉い人かを得々と教えてくれる。お陰で私も氏の著作を何冊か読むことになり、門前の小僧くらいの知識を得ることができた。

 川瀬氏は流派に属さない一匹狼である。型にとらわれない、その自由さは、バロック期の彫刻界の革命児ベルニーニを彷彿とさせる。それは既成の型から解き放たれ、太古の昔から人が花とともに築いてきたイメージ記憶の中で舞い踊っているかのようである。

 最近の川瀬氏の作品が『一日一花』( 新潮社 ) である。これは新潮社のホームページに毎日一つずつ作品を発表したものを、一冊にまとめたものである。私は一年のあいだ毎日、「今日はどんな花かな」と楽しみにして、病床の身をなぐさめられていた。いまここに一冊の本としてまとめられたのを見ていると、これは森羅万象に対する無心の祈りではないかと感じられる。

 氏の教室に通う娘の話によると、氏は最近絶好調で、ますます花が冴え渡っているようである。花の世界の革命児に、今後も期待していきたい。

 

平成25年1月26日

推薦 長田安司著『「便利な」保育園が奪う本当はもっと大切なもの』( 幻冬舎ルネッサンス)

 「我が意を得たり」と言いたいような好著が出版されたので紹介したい。著者の長田氏は40年来、保育園長ー理事長として、保育の現場で実践に携わる中で、国や自治体の保育行政がいかに間違っているかを肌で感じ取り、このままでは働かされている母親からも社会からも「大切なもの」が奪われていくと、痛切に訴えかけている。

 国は長いあいだ、若い母親の安い労働力を利用するために、保育園の増設にはげみ、それどころか「延長保育」「夜間保育」「病児保育」を充実しようと奔走し、あげくのはてには「駅前保育園」「駅ナカ保育園」など、働く女性にとっての便利さばかりを追求してきた。

 それによって少子化もなくなるはずであった。しかし、ここ20年来出生率は下がる一方である。「便利な」保育園は少しも少子化対策にはなっていなかったのだ。

 それどころか、「便利な」保育園は、もっと大切なものを母子から奪っていると長田氏は警告している。保育園が便利になればなるほど、母子のつながりは切り裂かれ、母親が母として成長する機会を奪っているというのだ。その結果が、いじめや学級崩壊につながっていることは、見やすい道理である。

 そうした弊害を少しでもなくそうと、著者は日々の保育の中で実践してきた、母子のつながりを増やすためのさまざまな工夫を紹介している。

 本書は、真の子育てとは「親心」を取り戻すことだと、痛切に訴えかけている。国民みなに読んでほしい良書である。

 

平成24年3月3日

春入学は「日本人」を育てる大切な文化だーー秋入学を粉砕せよ

 東大が秋入学の方針を打ち出した。いくつかの大学も追随する構えのようだ。グローバル・スタンダード(国際標準)に合わせることを錦の御旗に掲げているが、間違った国際標準に合わせるなど、愚の骨頂である。入学の時期を単なる制度だと考えている国々に合わせるのは、軽薄で愚かな「改革」である。

 「春入学」は他なる制度ではない。「入学式」というものが存在しない 欧米と違い、厳かな式とともに始まる日本の「春入学」は、日本人の人間性を形成する役割を持った一つの文化である。制度だと思うから、留学に便利かどうかという次元の低い議論が優先することになる。留学生を来やすくするために英語の授業を増やすとか、果てはベジタリアンの留学生のため に学食メニューを増やすとか、これでは温泉旅館がやっている外国人観光客の客寄せと同じではないか。客商売ならそれも仕方なかろう。

 しかし、教育現場が根本原理を忘れてはならない。留学生の数を増やし、大学の国際化という体裁を整えるよりもっと大切なことは、日本人学生を教育し、育成するということである。外国人留学生のために英語の授業を増やせば、日本人が母語で広く深く学ぶ機会を減らすことになる。二流三流の留学生を集める単なる数合わせより、優秀な日本人を育てることに集中すべきであり、優秀な研究者の海外流出こそ食い止めるべきであろう。

 よく「桜とともに入学する」と言われる。あの浮き浮きと心が弾むような感覚は、誰もが経験し覚えている大切な思い出である。「桜とともに」というのは、なにも入学式当日に桜が満開になるという意味ではない。日本列島は北から南まで長いので、丁度うまいぐあいに入学式と桜の満開が重なるとは限らない。しかし入学のころの、高揚した期待感と晴れやかな気持とは、日本人の心の中に桜のイメージと共に記憶されてきた。

 もちろん春は桜だけではない。木々が芽吹き、様々な花が一斉に咲き誇る。自然のバイオリズムが上昇のカーブを描く季節であり、人間の心身もまた元気になる季節である。そうした時期に新学期を過ごすことは生理的にも最善であり、また、情操教育の面でも非常に有用である。

 人間を自然の一部と考え、自然を尊び、自然とともに、四季とともに生きることが日本人の根本原理である。これは日本人なら誰でもと言って過言ではないほど、当たり前のように私たちの体の中に染み渡ってい る。しかしだからこそ、当たり前になりすぎていて、そのことの意義や固有性に気づいていないとも言える。欧米人は自然を人間がコントロー ルできるものと考え、征服の対象としてきた。ここに根本的な違いが存在する。その違いを自覚し、グローバル・スタンダードという名の欧米基準を無批判に取り入れることがあってはならない。

 海外に出て行った際、最も問われるのは「いかに日本人であるか」なのだ。留学経験もなく、東大を一歩も出たことのない濱田東大総長には、真の国際感覚というものがないのであろう。海外文化にかぶれることなく留学経験をすれば、日本文化固有の価値を再認識するものである。真の国際人であるならば、この自然の摂理に従った春入学という素晴らしい日本文化を堂々と誇り、欧米にも導入させようとするくらいの気概が欲しいものである。主要大学が定見もない日和見主義か制度論に堕しているのは情けないの一言に尽きる。

 そしてこの「桜の入学式」が日本人のアイデンティティの原点と気づいていればこそ、それを抹殺しようとする勢力があっても何ら不思議ではない。桜は「桜のように散る」軍国主義の象徴でもあるとして、日の丸、君が代のように、桜を嫌う者もいるのである。一口に「秋入学」といっても、様々な人間の様々な思惑が背後に存在することも忘れてはならない。

 主要大学が秋入学にすれば、企業や私立の中高一貫校も追随するであろう。春と秋の入学・入社が併存して混乱を極めた挙げ句、最終的にはすべての学校や会社、公的機関が、新年度を秋始まりにするというシナリオを読むのはたやすい。

 「春入学」は日本の大切な文化である。これを壊すのは、日本人の精神的土台を掘り崩すような、大罪である。「秋入学」は絶対に阻止しなければならない。

 

平成23年11月3日

なぜ政治はかくも幼稚になったのか

 民主主義とは「リーダーを見る眼を養う」ことによって生かされているものである。各成員が「リーダーの資質とは何か」をよく理解し、それに相応しい人を選ぶ目を持つ。これによって初めて成り立つ制度である。そこが悪平等主義に基づく直接民主主義と決定的に異なるところである。

 しかし戦後の日本では、そこのところの国民教育はほとんどなされてこなかった。学校で学級委員を選ぶときには、先生は「好きな人の名前を書きなさい」と言って投票用紙を配る。リーダーとしての資質として、「皆をまとめる力」「判断力」「公平性」などの項目を挙げ、それらについて説明し、それから投票させる。こういう教育はほとんどなされてこなかった。ひどいときは順番で決めたり、ジャンケンで決める場合さえあった。

 これでは大人になってからの選挙にさいして、正しい選択がなされるはずがない。まだ戦前のエリート主義が残っていた間はよかったが、戦後「民主」教育の悪平等主義が浸透するにつれて、政治がどんどん幼稚化していったのも、無理からぬところである。

 加えて、民主党政権になると、幼稚性の度合いは格段に進んだ。その理由の最大のものは、その集団が権力に対する「畏れ」の感情を欠いており、ただ軽蔑して貶める対象としか考えていないことが挙げられる。権力の持つ真の意味を真摯に考えるという姿勢は存在せず、無責任な体 質となっていたのである。

 その結果、権力の座についた者たちの間に、信じられないような幼稚な言動が見られるようになる。威張りちらしてみたり、権力をもてあそんでみたり、首相が個人の思いつきを国際会議で約束してみたりと、ありとあらゆる醜態が噴出した。

 内閣だけでなく、このような内閣を持つ日本という国そのものが、早晩世界の信用を失うのは目に見えている。もっとどっしりとして、近隣諸国の不当な圧力に毅然とした態度のとれる、大人の内閣を早く作りあげなくてはなるまい。( 『日本の息吹』11月号所収 )

 

平成23年8月27日

60年安保とは

 『読売新聞』8月20日号で60年安保の特集をやっていた。当時の国際情勢から国内の政治情勢までを網羅し、左翼運動の役割がブントの出現でガラリと変わっことから、ブントの突出した活躍がうまく描かれていて、感心した。

 最後にブントの理論的指導者であった青木昌彦氏のコメントが載っていた。当時のブントきっての秀才で、ブントを理論面で導き、今も経済学者として活躍している彼が、どんなコメントをしているのか、当時のブントの指導者陣のはしくれであった私としては、少なからぬ興味をもって読んでみた。ところが、正直言って、たいへん失望した。

 彼はこう言っている。

 「当時、社共などの既成左翼は安保の改訂を、日本をアメリカに従属させる動きと捉えた。

 一方、私たちブントは、日本の政治的支配者が、戦前のような帝国主義的野心を復活させるため、軍事同盟を強化しようとしている、と受け止めた。歴史的認識としては私たちの方が正しかったのではないか。」

 「歴史的認識としては私たちの方が正しかったのではないか。」私を失望させたのは、この結論である。この秀才は、当時の歴史的認識をそのまま引きずっている。左翼の教条的な「帝国主義」という言葉の呪縛から未だに逃れえないでいる。

 当時の日米の政治的支配者の共通認識は、中ソの「帝国主義的」野心から極東アジアを守ろうというところにあった。それに対して、日本の左翼の決定的な間違いは、中ソを味方か、少なくともそれほど恐ろしくない勢力と勘違いしていた点にあったのだ。

 その結果、突出したブントの活躍は、中ソを始めとする国際共産主義の世界戦略に利用され、危うく日米軍事同盟を弱体化しかねなかったのである。

 この構図を見誤ったところに、すなわち中ソを始めとする国際共産主義の恐ろしさを過小評価した点にこそ、ブントを先頭にした左翼全体の歴史的認識の決定的な間違いが存在していたのだ。未だに「歴史的認識としては私たちの方が正しかったのではないか」などと脳天気な総括しかできていないとは、当時の理論的最高指導者としては、なんともなさけない。もっと痛切な反省があってしかるべきではないか。

 

平成23年6月30日

御無沙汰のお詫びとお知らせ

 長いあいだ更新をしなかったので、ご心配をおかけし、申し訳ありませんでした。じつはこの度の震災の惨状を日々目のあたりにして、言葉を発することができないまま、今日に至っています。被災者の方々の悲しみ、苦しみを見るにつけても、療養中の我が身のもどかしさを思うばかりです。

 それにつけても腹立たしいのは政治のあり方です。何か書きたいと思っていたところへ、雑誌『正論』編集部より、菅直人首相の精神分析をしてほしいと依頼がありました。

 菅直人氏は私にとっては因縁の人です。昔、拙著『父性の復権』でリーダーシップの模範として褒めたことがあります。彼が厚生大臣だったときに、薬害エイズの問題で、厚生省の幹部たちが「ない」と言っていた大切な資料を、若手の官僚たちのチームを組んで、発見したことがありました。あのときは確かにリーダーシップを発揮したので、褒めたのは間違いではなかったと思います。

 しかし時が経ち、首相になった彼の言動を見るにつけて、これがあのときと同じ人物かと耳目を疑うような、情けない姿になっています。私は彼を分析して、ずばり「幼児性」と診断しました。

 くわしくは『正論』8月号(7月1日発売)をお読みください。今日の政治の混乱の元凶がお分かりいただけると思います。

 

平成23年3月9日

桃太郎と時代劇

 芥川龍之介が「桃太郎」という作品を書いたそうである。これを最近サヨク・フェミ系統の者たちが称揚しているらしい。早速読んでみた。なるほど芥川龍之介らしい、はすかいに見るというか、反権威主義というか、物語をすべて反転させている。「鬼」たちは楽園で平和に暮らしている善良な者たちである。そこへ「桃太郎」という、欲深で残虐な「人間」が攻め込んでいき、殺戮をはたらき、財宝を略奪する、という話になっている。いかにもサヨク・フェミ系統の者たちが飛びつきそうな内容である。

 文学や芸術が権威を否定することには一定の意味がある。権威や権力の腐敗を防ぐ意味を持っているからである。ただし、それが反主流派に留まっているかぎりでは、という留保付きである。世の中の主流はあくまでも勧善懲悪でなければならない。そうでないと、世の秩序や正義は保たれないからである。

 世の中の主流のイデオロギーが「世の中には悪者なんていないんだよ」とか、「正義なんてないんだよ」「善悪の区別なんてそもそもできないんだよ」という傾向になってくると、社会の公序良俗や正義は守られなくなる。反権威主義が安易に広まることは危険なのである。

 「桃太郎」の話は反権威主義的なサヨク・フェミ系統の者たちにとって、とくに気にさわるらしい。一方が「善」で他方が「悪」と決め付けるところが気に入らないらしい。少し前にも、節分の豆まきのときに、「鬼は外」と追い出すのは「鬼に対する差別」だから、「鬼はうち」「福はうち」と言いましょうという人たちが出てきて、しきりに宣伝していた。また、「善」が必ず「男」だというところが特に「許せない」ようだ。「桃太郎」の主人公を女の子にして「桃から生まれた桃子」が鬼と「話し合って」平和になりました、という話を作って宣伝した者もいた。幸いなことに、どちらも流行らなかったが。

 そんな風潮が流行らなかったことは、まだまだ日本の社会が健全であることを示している。「桃太郎」は英雄物語である。英雄物語とは、正義の英雄が悪者を退治するという話である。正義をたたえ、悪を憎むというのが、社会の基本であり、子供の教育においてもまず「勧善懲悪」を教えて、「善悪の区別」がはっきり出来るようになってから、つぎに「正義と悪の区別は実際には難しいものだ」ということを教えるのが、正しい順序でなければならない。

 また英雄は男でなければならない。「男=強い者」が悪者と戦う、というのが古来からの正しい性別役割分担である。主人公が女の英雄物語なんぞは、男女平等のイデオロギーから生まれた現代の産物であり、世の風潮に媚びた不自然なニセモノである。

 同じことは時代劇についても言える。時代劇の主人公は男でなければならない。なぜなら悪を撃つ正義の強者は男でなければサマにならないからである。しかし最近は時代劇の主人公を女にすることがやたらと流行っている。だが女が主人公の時代劇なんて時代劇ではない。時代劇に名を借りた現代劇である。

 そもそもこの世から「時代劇」が消えつつある。名作「鬼平犯科帳」はじめ、「銭形平次」「大岡越前」「暴れん坊将軍」「剣客商売」などなど、夜の八時台、九時台にはどこかのチヤンネルでやっていた。今は「水戸黄門」ただ一つである。時代劇のよいところは、どうしようもない極悪非道の悪者を、主人公が最後にバッサリと斬ってしまうという、単純明快なところである。

 いい時代劇はお金がかかるため、今のテレビ業界ではなかなか難しく、そこそこの時代劇では視聴率が低い。時代劇が消えつつある直接の原因 はそうしたことのようだが、平和主義イデオロギーと男女平等イデオロ ギーとも無関係ではないであろう。弱い者のために男が悪と戦って成敗するという原則を見失ってはいけない。

 

平成23年2月13日

体罰禁止法は有効か --スウェーデンの場合

 昨日(2月12日)の『産経新聞』に興味深い記事が載っていた。世界で初めて体罰を法律で禁止したスウェーデンで、必ずしも体罰が減っていないという趣旨である。法律で禁止されたので表面には出ないだけで、本当のところは疑わしいらしい。例えば、この法律に好意的な調査によれば、1981-96年の児童虐待死は4人となっている。ある教授は「こんなに大々的に大人の意識と行動が変化したことは他にない」と話した 。

 しかしイギリスの社会学者クリス・ベケット氏は「スウェーデンの神話--体罰禁止と児童死亡統計」という論文で、この死亡数の中には「母親の鬱によるもの、心中、育児放棄は含まれていない」と指摘しているという。ユニセフのリポートによれば、体罰による児童死亡数は、スウェーデンでは10万人当たり0.6人。オランダも同様。これらの国には体罰禁止法がある。それに対して、スペインは0.1人。続いて少ないのがギリシア、イタリア、アイルランド。これらの国には体罰禁止法はない。

 これは何を意味しているのか。なんでも法律で押しつければ意識改革でもなんでもうまくいく、というフェミ的ファッショ的な発想では、効果がないということなのだ。とくに意識の中とか家庭の中を法律で強制しようというのは、どだい無理なのだ。

 これについて、「家族のきずなを守る会」の岡本明子さんはこう語っていると、このレポートはしめくくっている。「法が家族の中に入ってくるのは本当はおかしなこと。子供を自主的にかわいがる心を育む環境を作ることが一番大切なはずだ」と。

 スウェーデンの実験がことごとく失敗している今こそ、スウェーデン的な発想で作られた国連の「条約」や数値目標を押しつける強権的な発想を捨てなければならない。

 

平成23年1月18日

民主党政権は詐欺師なり

 民主党政権は詐欺師政権であり、ウソつき政権である。できもしないことを、さもできるように言って国民を欺きつづけている。菅首相は「やったことはたくさんある」と言っているが、マニフェストという約束は大半が守られていない。「子ども手当」も本当は月額2万6千円という約束だったが、結局半額がやっとである。高速道路無料化も、いまだに「実験」段階である。「無駄をはぶけば財源はある」と言っていたが、結局は赤字財政を増やしただけである。

 鳩山前首相は普天間基地の移設を「最低でも県外」と言い続けたが、結局不可能だった。菅首相は「一にも雇用、二にも雇用、三にも雇用」と期待を持たせたが、いまだまったく改善されていない。政権を取るためだけにオイシイことを言って風船をふくらませたが、風船がしぼんでしまうと、舌先三寸でごまかすことしかできないでいる。内閣改造も政権を維持することだけが目的なのは明白なのに、「政権のためではなく、国のためだ」とウソをついている。

 菅直人氏という男は、こんなズルい男だったのか。リーダーシップなどはかけらもなくて、自分では手をよごさずに部下にやらせておいて、へまをやったら首をすげかえる。私はかつて『父性の復権』で菅直人をリーダーシップがあると褒めた。そのときは確かにリーダーシップを発揮してみせたので、間違いを言ったわけではないが、しかし今やそれは取り消さなければならなくなった。

 バラまきの結果、予算が膨張してしまったので、消費税を増税しなくてはならなくなると、消費税増税路線の与謝野氏を閣僚に迎えて、増税でバラまきの尻ぬぐいをするつもりのようだ。その理屈もまた詐欺師まがいである。「社会保障と税制の一体改革」だと言う。正直に言えば「社会保障をしっかりやるためには、消費税増税が必要だ」という意味である。これは大ウソである。国民の関心の一番多いのが年金、医療などの社会保障だという世論調査をふまえて、「社会保障」だけを前面に出して、国民を騙そうという手口である。全部の予算を一体改革すべきである。中でも「子ども手当」などの人気取りのバラまきを止めれば、よいだけのことである。「社会保障と税制の一体改革」とは、消費税増税をするための詐欺である。

 一方、自民党もだらしがなさすぎる。谷垣総裁という人は、リーダーシップもないし、頭も悪いのではないか。菅改造内閣について、「求心力がない」という程度のことしか言えないとはなさけない。国民の大部分が民主党政権に失望しているというのに、では自民党に戻せとはなっていないことに、危機感はないのか。若返りと改革を早くやって、代わりの政権を作るだけの力をつけてくれ。さしずめ保守党としてのしっかりした政策を示すことだ。例えば国会議員の枠にとらわれずに、落選した若手を集めてシャドウキャビネットを作るくらいのことをしたらどうか。「解散に追い込む」と威勢はいいが、本当に解散になったら、勝てるとは思えない。

 

平成22年12月27日

いじめ対策の見当はずれ

 いじめられたと言って自殺した生徒が出たので、学校関係者はいじめ対策に大わらわである。子供たちのいじめのサインに早く気づくように皆で見守るのだという。それはいいとして、そのあとが問題である。

 いじめが見つかったら、どういう対策を取るのか。言われているのは、「いじめられている子に声かけをする」「よく気持を聞いてあげ、相談にのってあげる」、どうにもならない場合には「転校の斡旋をする」等々、いずれもいじめられている子供の世話をすることばかりである。いじめている子供たちへの対策はとんと出てこない。

 いじめている子供自身や親への働きかけ、善悪や理非曲直の観点から厳しい態度を取るなどという原理はまったくといっていいほど語られない。きちんと叱る、指導するといった対策は検討さえされない。一般的に言うと「義」の観点が欠けているのである。そう言うと、「いじめる子にも心理的事情や家庭の事情があるので、ただ叱るだけでは解決しない」などという意見が出てくる。しかしまず「いじめは悪いこと」「悪いことは悪い」という基本の厳しい態度をきちんと示すことが基本でなければならない。

 そう思っていたら、千葉県がいじめ対策として道徳教育の時間を増やすのだというニュースを知った。我が意を得たりと思ったら、係の役人が出てきて、「コミニュケーション能力が増えれば、いじめが少なくなるでしょう」と語っていた。えっ ? 、いじめの原因はコミニュケーション能力の不足なの ? これゃだめだ。

 さて、いじめ対策としてもっと大切なのは、社会的な観点から、いじめる子供たちの家庭的な事情を調べ、問題点を明確にして、対策を考えることである。しかし、そんな話はまったく出てこない。それをやると、困る者たちがいて、「プライバシーに関わる」などと言って反対するからである。なぜ困るかというと、いじめる子供たちの非常に多くが親の愛情不足のせいだという事情があり、その背後には親の共働きの問題がひそんでいるからである。なんでもかんでも「女も働け」と煽った結果の一つだという事実があからさまになることを懼れているのである。

 「女性が働く」=「フルタイムで働く」という観念が社会を覆っているために、母親が愛情をもって子供を育て見守る時間が極端に減っている。保育園に預けられる時間が長ければ長いほど、つまり母性が不足すると子供が攻撃的になるということは、研究結果から明らかなのであり、いじめの問題と切っても切り離せないのである。昔からいじめは存在したが、このところのいじめは、ますます陰湿かつ残虐になり、かつ増加している。

 これらの根本的な問題にメスを入れない、今のいじめ対策は、まったく対策になっていない。そんな間違った方針を与えられて、現場がいくら一生懸命に努力しても、決していじめはなくならないであろう。この国はいつになったらフェミニズムの幻影から目覚めるのであろうか。

 

平成22年12月7日

作られた流行語「イクメン」

 少し前のことだが、今年の流行語大賞が発表されて、そのベストテンの中に「イクメン」という言葉が入っている。というより無理矢理入れたという感じである。というのは、そんな言葉は少しも流行ってなどいないからである。

 「イクメン」とは「育児をする男性」のことである。「イクメン」などは少しも流行ってはいない。育児休暇を取る男性はいつまでたっても一%台であり、ほとんど増えていない。流行らせているのはNHK初めとするマスコミと、その背後にいるフェミニストというイデオロギー集団である。NHKなどは、何かというと「イクメン」を取り上げては、いかにも増えているかのようにキャンペーンを展開している。あからさまな世論操作である。

 その本音は、育児は夫に任せて、女性たちは仕事に専念したいというところであろう。フェミの愚かさはいつまでたっても変わらない。乳幼児期には母親の優しさと温かさが必要であり、それを十分に受けてこそ、その後の人格形成がうまくいく。母子の愛情によるつながりが不十分だった人間は、情緒不安定で、攻撃的になって、のちにいじめっ子になりやすい。

 十年前のことだが、私が小学校や中学校のPTAから頼まれて講演に行くと、校長先生が内緒話のようにして、「いじめる子はみんな保育園育ちなんです」と話してくれた。しかし大きい声では決して言えない雰囲気があった。そんなことを言おうものなら、「差別だ」と批判されかねない。今でも同じであろう。「見えない」言論統制が支配しているのである。

 保育園を増やすのが善政だという考えが依然として政界に蔓延している。夫婦別姓や配偶者控除の廃止など、家族単位を個人単位にする悪法を成立させようとして、フェミたちが依然として画策しているようである。なんとか健全な家族を守るように、良識のある皆さん、ガンバってください。

 

平成22年11月24日

反権力者が権力者になると・・・

 権力を軽蔑し、馬鹿にし、ないがしろにする、というのが反権力者の精神である。その反権力者がもし急に権力者になったら、急いで頭を切り換えて、権力を正しく公正に行使することを考えなければならない。しかし、これができる人は希有である。

 切り替えができなかった典型が柳田法相である。法務大臣という権力のトップに座ったとたんに、さっそく悪い癖が出て、「国会答弁なんてチョロいものだよ、二つのフレーズを覚えておけばいいんだから」という意味のことを言ってしまった。反権力者から権力者への頭の切り替えができていない好例である。問題にされて官邸に呼び出されても、「これからお小言をもらいに行きます」などとヘラヘラしていた。辞表を出す段階になっても「なぜ辞めなきゃいけな いんだ」と言ったとか。自分の発言の重大性、権力者としての自覚、つまり権力とは何かということが終始わかっていなかったのである。

 もう一人の好例が仙石官房長官である。「自衛隊は一種の暴力装置だから・・・」と述べた。彼は学生時代に左翼の急進的な学生運動の組織に属していた。そのころの用語がつい口をついて出てしまったのであろう。「暴力装置」とはマルクス・レーニン主義の典型的な用語である。その意味は「軍隊や警察は人民を抑圧し支配するための暴力的な組織だ」というものである。したがって「自衛隊が暴力装置だ」とは、自衛隊に対して失礼だなどという生やさしいことではなく、「自衛隊は権力者の犬だ」と言ったに等しいのである。ところが仙石氏は「ウェーバーを勉強し直します」と、ウェーバーがいかにも「暴力装置」という言葉を使ったかのように見せかけて、ごまかしてしまった。しかしウェーバーは「暴力装置」という言葉を使っていないのである。

 ウェーバーは1919年に行った「職業としての政治」という講演の中で、無政府状態に陥らないために国家が「正当な物理的暴力行使の独占」をしなければならないと言っている。それは、1917年に出版された『国家と革命』において、レーニンが国家は人民を抑圧する「暴力装置」で あり、それを倒すためには暴力革命しかないと述べた考え方とはまったく異なるものである。マルクス・レーニン主義の「暴力装置」という言葉を用い、批判されて慌てて撤回、謝罪するということは、ウェーバー の「正当な暴力行使」としての国家観、権力観へと切り替えができていない証拠なのである。大切なことは、マルクス・レーニン主義の反権力的な意識のままの人間が権力の中枢に座っているということなのだ。まさにウェーバーを勉強すべきであろう。

 もっと恐ろしいのは、菅内閣そのものが、この切り替えができていないことである。例の秘密にすべきでない中国漁船の衝突の映像を、勝手に「国家機密」にしてしまい、それを流出させた者を犯人扱いしている。権力の乱用以外の何物でもない。「権力は正しく使うべきだ」という意識が微塵もないのである。

 民主党は、二大政党制の一方の勢力として、まったく成熟していない。権力をまかせられる集団ではないのである。その危ない性質は、外国に対するときに、もっとも明確に現れる。首脳会談などこっちから蹴っ飛ばすべきときに、ペコペコと会談をお願いするとは、情けなくて涙も出ない。一刻も早く民主党政権を打倒しなければならない。

 

平成22年11月14日

隠すは大罪、暴くは義挙

 尖閣諸島での中国漁船の無法な暴力の真実を写したビデオを流出させたと名乗り出た海上保安官に対して、まるで重大な犯罪であるかのような扱いである。本人が主張しているという「本来隠すべきものではない」というのが、事の本質である。

 日本にとって大切な真実を隠した菅内閣の罪は「大罪」と言うべきである。外交における駆け引きの基本は、我が方の有利になる事実をまず堂々と示すことである。

 それができない理由は何か。

 第一は、相手を怒らせるから、という。中国人というのは、自分に不利な事実をつきつけられると、まず怒ってみせるというのが、彼等の伝統的な駆け引きである。それを懼れてオドオド、ビクビクしていては、何も主張することはできなくなる。

 第二は、日本人が怒って、日中友好が壊れるから、という理由。あれを見て、怒るのが正常な反応である。相手の無謀に怒るのは、付き合いの基本である。無謀に怒らないならば、相手はつけこんでどんどん無理無体を仕掛けてくる。ふじたの社員を拘束されて、驚いて犯人の船長をさっさと釈放してしまった。中国の無謀に困っている東南アジアの国々はがっかりし、ロシアにはなめられて、メドベージェフ大統領は国後島を訪問しておいて、「国内に行っただけだ」と開き直った。朝鮮学校の教科書も無償化すると決め、内容改善を「強く求めていく」だけだという。何から何まで、どうしてそうもオドオド、ペコペコしなければならないのか。

 日本人の怒りを代表して、問題のビデオを公開してくれたのが、海上保安官である。これは立派な英雄的行為、義挙である。ところが政府はそれを犯罪扱いして、「任意」と言いながらすでに三日も拘束して取り調べているという。公務員の守秘義務違反だとして、自分たちの「証拠隠し」の大罪から国民の目をそらす作戦である。

 それに対する野党の側の作戦はまるで見当はずれである。機密事項の管理の責任を追及するのだという。それも必要だが、それをやればやるほど、義士の義挙は「犯罪」とされ、菅内閣の「大罪」は陰に隠されていく。国益をだいなしにしかねなかった証拠隠しという大罪を追求するのが基本でなければならない。

 これだけの腰砕け・屈辱外交をやっても、まだ菅内閣への国民の支持率は30%もあるという。自民党をはじめとする野党側の追求の下手さが、民主党への支持率を押し上げているのではないか。野党の中で自民党が一番迫力がない。無能自民党を一刻も早く改革して、若返らせてほしい。今のままでは、国民がいかに怒っても、その受け皿がないのだ。政界でも「義挙」をやる人、出てほしい。

 

平成22年11月7日

犯人はどっちだ

 尖閣諸島をめぐるビデオ問題で、政府はビデオを流出させた「犯人」探しに躍起になっているようだ。しかし、そもそも政府こそが中国人船長 という犯人を隠避した「犯人」なのである。記憶に新しいところの、大 阪地検特捜部長が罪を犯した部下をかばった、あの「犯人隠避罪」である。犯人を、罪を問うこともなく釈放してしまった政府の犯罪に対して、義憤に駆られた者がビデオを流出させたのだ。「犯人探し」は、政府が自らの罪を国民の目からそらすための、一種のパフォーマンスである。

 それはそうと、尖閣諸島をめぐるスッタモンダを、ずっと観察していて、日本の弱腰外交の原因を考えてみた。原因は二つあると思う。

 一つは、民主党の体質。民主党とその支持者には、中国が共産党独裁だということが、違和感や恐怖の対象にはならないのである。同じ社会主義的独裁体質があるだけでなく、中国系や韓国系の人間が多数いることとも関係があるのではないか。

 第二は日本経済の中国経済への依存である。経済界は中国からちょっと脅されただけで悲鳴を上げるほどに中国に依存している。第一の原因よりも、こっちの方が根本的なような気がする。なぜかというと、もし民主党政権が自民党政権にかわったら、どう違ったかを考えてみるとよく分かる。

 もし自民党政権だとしても、ペコペコ姿勢にはそんなに変わりがないのではないか。自民党は以前から経済界の圧力を受け、中国への朝貢外交を強めており、その結果が今日の弱腰外交の背景にあるからである。

 問題はレアアースだけではない。経済全体が中国の手に握られはじめているのである。レアアースについては、同様に危機を感じているアメリカとともに、中国以外の資源を求める方針を確認したが、同様の姿勢は経済すべての分野について言えるのである。

 日本が情けない態度をとらざるをえないのも、「戦略的互恵関係」を維持したいため、つまりは中国依存を維持したいからに他ならない。中国への依存をなくすためには、経済の軸足を中国からインドや東南アジア諸国へと移す政策を、官民挙げて進めるよりないであろう。そういう宣言を官民挙げて行ったら、中国がどういう態度に出るか、ミモノである。

 この転換は早くやらないと、手遅れになる。新幹線の技術が、その良い例である。新幹線を中国に売り込みたいばかりに、大切な技術を教えてしまったものだから、中国はたちまち新幹線を売り込む側になり、今や日本の強烈なライバルになってしまった。日本はお人好しにも、環境対策技術でも「援助」に名を借りた技術流出をしようとしている。あらゆる分野でもうすぐ、日本は技術的優位を中国に取られて、経済依存だけが残ることになりかねない。そうなったら日本は名実ともに中国の属国となるであろう。日本は一刻も早く中国への経済依存から抜け出さなければならない。

 そうでなければ、今回のように「無理が通って道理引っ込む」ことは繰り返され、犯人が英雄に祭りあげられるようなことが今後も起きるであ ろう。真犯人は政府と圧力団体の経済界であり、その構図を見失ってはならな い。

 

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