もう一つのエピソード
〜カーニヴァルの夕べ〜
1886年8月18日、カルーセル広場にあるパリ管区郵便局の臨時事務所で,
センセーショナルな展覧会「アンデパンダン展」(独立展)が開催された。主催
者は「ソシエテ・デザンデパンダン」すなわち「独立グループ」と名乗り、2年前に
ジョルジュ・スーラやポール・シニャックといった回家たちによって設立されたもの
だった。展示されたのは500点はどの作品だったが、どれも官立のサロンの審査
に出せば失格間違いなし、それどころか散少ない印象派の信奉者たちの間にさ
え、スキャンダルを巻き起こさずにはいなかったろう。主催者のやり方は革命的
だった。審査もなければ、様式の現定もない。出品料として15フランを出しさえす
れば、どんな画家でも参加することができた。つまり美術教育も芸術倫理の薫陶
も受けたことのない、まったくの素人画家でも参加できたわけである。
この展覧会はギュスターヴ・クールベの抗議を文字どおりに受けとめて、芸術
という分野が広く一般に受入れられたものであることを万人に宣言するものだった。
その中でも2つの作品がセンセーションを巻き起こした。同面を原色と補色の細
かな点に還元したジョルジュ・スーラの≪グランド・ジャッド島の日曜の午後≫と、
アンリ・ルソーの描いた夜の風景画≪カーニプァルの夕べ≫である。この
目立たない税関職員が、1885年に公的な展覧会の「落選者」たちによる「サロ
ン・デ・レフュゼ」(落選者展覧会)に出品したとき、世間の人々は涙を流ざんばか
りに笑い転げたものだった。スーラにもルソーにも、イタリアのルネサンス以前の
根源性や素朴さをうかがわせる表現形式があるとする数少ない好意的な批評も
あるにはあったが、それでも二人の問にははっきりとした隔たりがあった。知識人の
スーラは新しい運動の先駆者として、また印象派の間題に科学的に回答した点
描画法の創始者として論議の的となった。遠近法もろくに知らない無学なルソー
氏は洗練されたフランス絵画からほど遠く、人々の嘲笑の的となった。当時の
人々の目に映ったのはルソーの美術史に対する敬意でも、大胆な近代美術の
荒削りな試みでもなかった。ただ具体的に目に見えるもの、つまり深いいブルーの
地に白い満月やふわふわの雲、葉を落とした木々の絡み合う黒いシルエット、透
き通った森のあずまや、まるで、ベル・エポックのチョコレートの広吉から抜け出し
てきたような衣装のカップルなどが、きっちりと輪郭線で、縁取られ、固有色で塗ら
れて漂っている画面だったのだ。
「税関史」神話と、印象派以降の絵画界の無秩序状態を解説するにあたっ
て、カンヴァスに描かれたこの人形劇以上にふさわしい作品はあり得ないだろう。
鷲いたことに、アンリ・ルソーはこの絵の中のピエロよろしく、41歳で芸術の舞台
に足を踏み入れた。そして25年間にわたってポール・シニャック、フィンセント・ファ
ン・ゴッホ、ポール・ゴーガン、アンリ・マティスなどの画家たちと並んで、にぎや
かな前衛芸術界で、自ら描く登場人物同様、断固として自分の地位を主張し続
けた。技量は6歳の子供並だが、功名心旺盛な奇妙な画家だとみなされた。そ
の作品は道化芝居さながらの喝采を博した。笑いはとどまるところを知らず、「ア
ンデパンダン展」の展示委員会が作品を脇の展示室に隠しても、「サロン・
ドートンヌ」(秋季展)の会長フランツ・ジュールダンが1907年の作品群を、一段、
評価の低い装飾美術収蔵室へと引き下げても、一向に収まらなかった。このス
キャンダルのおかげで、槍玉に挙げられた当のルソーは年々有名になり、反対
に、鑑賞する際の新しいフォルムを作り上げることに躍起だった芸術家たちは苛
立ちをつのらせていった。1893年にルソーが「アンデパンダン展」から閉め出さ
れずにすんだのは、ひとえにアンリ・トウールーズ=ロートレックが、無審査展覧会
の会則を引き合いに出したおかげである。またアメリカ人の画家、マックス・
ウエーバーによれば、師のアンリ・マテイスはルソーについては冷たく口をつぐん
で黙殺したそうである。
アンリ・ルソーは66歳で敗血症のために死去したが(ネッカー病院のカルテ
は、患者はアルコール中毒だとしている)、その後には詩人ギョーム・アポリネー
ルの言葉による「穏和なる税関吏」、「歓楽街(モンパルナス)の老いた天便」とい
う伝説的なイメージが残った。それは単純、かつほとんど信じがたいような物語
だった。それによれば、ルソーは世慣れぬ純朴な小市民であり、内向的に、ほとんど
自閉的に絵を描き続けた。しかし彼は作品と現実とを混同していたので、そ
れと自覚していたはずはない。そして芸術でも、実際の人生でも、常に欺かれ続
けたのだという。確かに、アルフレッド・ジャリやポール・ゴーガンやギョーム・アポ
リネールといった世紀末の変人奇人は、無知蒙味な市民社会や決まり切った価
値観と闘うにあたって、話題の素朴画家ルソーを引き合いに出して、その中に自
分たちの思想の論拠を見いだしていたに違いない。しかしまた、ルソーがインテリ
たちのお遊びにつきあい、自衛と自己顕示欲から、一緒になって「素朴さの仮
面」を作り上げたというのも確かな事実なのである。このことは最初の伝記作者
であるドイツの美術史家で蒐集家のヴィルヘルム・ウーデが既に1911年に椎
測しており、またその50年後に歴史家のヘンリー・サーティニーが詳細に証明し
ている。
次のエピソードは、それが作り話であれ事実であれ、ルソーの複雑な人物像
を鮮やかに切り取って見せてくれる。画家伸間はたびたび、まことしやかに彼をか
ついだが、あるとき彼のもとに、フランス共和国大統領の夜会の招待状が届けら
れた。やがて家に戻ってきたルソーが語ったところによれば、官邸で警備員に止
められて中に入れなかった、大統領白身が出てきて気の毒そうに肩を叩いて、
「ルソー君、残念だが君は平服だ。見たまえ、みんな礼服を者ているんだ。次の
機会にまた来てくれたまえ」と言ったという。このように大袈裟に誇張して、嫌がら
せを柳に風と受け流したのである。お人好しの道化の仮面の下には、別の顔が
隠れていたのであった。
1895年、ルソーはジェラール・エ・クータンス書店に、企画中の『来るべき20世
紀の肖像』第2巻のために、短い年譜とペンによる自画像を寄せている。
それはみすぼらしい服装でこちらを見つめる何の変哲もない老人の肖像で、牧神
めいた顔立ちが詩人のポール・ヴェルレーヌを思わせる。その目は、疲れ切った
ような肩の線と際だった対照をなしている。すばやい観察力、不信、不安、親切
さ、そして病的なほど高揚した内省といったものが、その視線から見て取れる。ル
ソーの外観的特徴を真っ二つに引き裂く、笑いと涙の交錯した悲喜劇である。こ
のときルソーは51歳だった。この作品はルソーという人間の一種の精神図となっ
ており、それはギュスターヴ・コキオ、アルセーヌ・アレクサンドル、ロベール・ド
ローネー、ヴィルヘルム・ウーデといった同時代人や、さらは1907年の警察記
録が語るところと合致する。
ルソーは分裂的な性格だった。お人好しなのに聞き分けがなく、茶目っ気たっ
ぷりで、ひどく底意地が悪い。そして人とうちとけない態度は、いかにも大きな苦悩
をかかえているかのようだった。実際、ルソーの生活白体が隠れんぼ遊びのよう
なものだった。ルソーは22年間パリ市の税関で小役人として勤めて、1893年に
早期退職したのだが、世間が自分に冠した「ドワニエ」、つまり税関更という虚構
の役職名を黙認した。オーストリア帝国のマクシミリアンのノキシコ皇帝即位を援
護する軍隊に加わって国外に派兵されたとか、独仏戦争中にドルー市を市民の
暴動から守ったとかいう、根強い虚を助長もした。しかし実際にはちょうどその昨
期、1863年当時、ルソーはアンジェで雇い主のフィロン弁護士からわずか20フラ
ンを盗んだかどで、少年刑に服していたのだった。さらにまた志願兵として勤務し
ていたのは、戦線から遠く離れた故郷の第51歩兵連隊だったのである。
亡くなった最初の妻クレマンスについては、彼は常に臆面もなく悲しみをあらわ
にしていた。彼女は1888年に37歳で結核で亡くなっている。生前、妻のために作
曲したワルツをルソーはことあるごとに演奏した。この結婚でもうけた4人の子供
の死や、ただl人だけ成長した娘のジュリアについては、彼はほとんど語らなかっ
た。1909年、銀行詐欺と文書偽造の罪で、ルイ・ソーヴァジェという名の主犯と共
に裁判にかけられ、2年間の保護観寮と罰金100フランの判決を言い渡されたと
きには、あらん限りの善良な市民ぶりを顕示した。自分が愛国者であり、貧しい
人々にとっては「ルソー親父」であり、1848年創立の市民教養講座で、ある美術工
芸協会の名誉図画教師であると述べ立て、また献身的な良き家庭人であること
を強調し、以前は週60時間も勤務しながら病気の家族の面倒を見ていたと申し
立てた。だがそれよりも何よりも力説したのは、絵を描くという切なる責務があるこ
とであった。このあたりと関係して、次のような彼の主張は、この「税関更」の複雑
な生活の本質を解き明かしてくれるだろう。「もし両親がわたしの絵の才能を認め
ていてくれたら・・・わたしは現在フランスで最も偉大で最も金持ちの画家になっ
ていたろう」。1895年に書かれた短い自叙伝でも、彼は自分の生活について触れで、
ルソーは音楽の才能豊かな少年だった。しかし9歳だった1853年に父親が
投機に失敗して、持っていた家屋敷3軒、店舗1軒全部を失ってしまったのだっ
た。両親が没落したことで、ルソーの生活も大きな影響を受けずにはすまなかっ
た。学校時代の成績は悪く、兵役でも税閣勤務でも将釆の見通しは立たないま
まだった。残された逃げ場は芸術しかなかったのだ。パリ時代の隣人で、貧しい
生まれから身を起こしてローマ賞を受賞したフェリックス・オーギュスト・クレマン
は、それを励まし力づけてくれた。白分の運命を恨んでいたルソーは、こうしてこ
の世の富と名声に対する望みのすべてを埋め合わせようとしたのだった。たとえ
人からあざ笑われようとも、白分を無名の存在から救い出してくれるなら、どんな
状況でも利用した。同時代の知性豊かなダンディや扇動者たちと並んで、ル
ソーは無力な貧民階級出身でありながら、どんな非難でも反対に利用するした
たかな誇大妄想の芸術家という「分裂した」存在を生きたのである。
絵を始めた時期が曖味だというのも、ルソー伝説のひとつである。本人は40歳
か42歳になって初めて絵筆を取ったのだと繰り返し主張しているが、これはどう
やら初めて作品を発表した時期のことを言っているらしい。画家クレマンが教育
大臣アルマン・ファリエールに推薦してくれたおかげで、彼は1884年9月にルー
ヴル美術館、リュクサンプール美術館、ヴェルサイユ宮やサン・ジェルマン・ア
ンルー宮など、国立の美術館で模写する許可を得ている。また1886年の「アン
デパンダン展」では、すで、に2度目の参加であった。この2つの出米事は、ルソー
の立場が人目に立つものであったことを示している。絵を描き始めたのは、当然
それ以前だったはずだが、ルソーは自分の絵画手法を非常に早い時期に模倣
し始めており、また、仕上げた作品にたびたび手を加えては新たに日付を入れて
いるために、その時期を確定することは難しい。
年代について多くを教えてくれるのは鉛筆画とパステル画で、これについては
1895年まて、に200枚が制作されたと言われている。それらは税関勤務の間に周
囲を描写したり、非番の時に町の外へ足をのばして、独学したことをうかがわせ
る。セーヌ川には数多くの港があり、ルソーはそこで、パリの市内で行われるのと
同様、ワインや穀物、ミルク、塩、燃料用アルコールといった課税対象の積み荷を
検査し、通関証明書を交付していた。オートウイル埠頭はそのうちのひとつであ
る。1885年に描かれた2枚の風景は、人気のないひなびた、のどかな郊外
の情景を選んで、おり、この素人画家がもっぱら素朴で具体的な風景に関心を寄
せていたことを示している。全体を大ざっぱにまとめたり、省略したりせず、ルソー
は樹木と垣根、税関の建物とアパートという立体的に向き合うものを、ていねいに
平面に写し取ることに努めている。物事をその典型的な形で定着させて描くこと
を意図しているのである。つまり垣根は枝の一本一本が数えられるように並び、
梢はその反対に数え切れない細かな部分の集まりからなっている。家や壁や護
岸工事を施された岸辺は、建材の構成や構造物の成り立ち方を示さねばならな
いが、雲などは曖味な影の輪郭のままで構わないのである。
ルソーは、目に映るものと自分の知識とを一致させることを目指した。そのため
に、ルネサンス以来の透視図法によって空間を合理的に把握するための、視覚
的な立脚点を探す必要に迫られずにすんだのである。また彼にとっては、個性を
あまりに重視したスタイルも問題外のことだった。白分が見て知っている物事その
ものを描いている。「両親に財産がなかったために、芸術的な才能が要求するのとは異
なった道を、とりあえず歩まざるを得なかった。その結果1885年になってようやく、
芸術に最初の一歩を踏み出すことになった。幾度もの挫折を経、ジェロームとクレ
マンから多少の助言を得た以外はもっぱら自然のみを絵画の師として」。これら
の言葉から、専門の美術教育を受けていない素人画家であることに、ルソーが
一生劣等感を抱き続けていたことがわかる。それを親のせいにする背景には、幼
児期に受けた心の傷がある。生家は職人や商人、将校などの多い堅実な家柄
もののはうが豊かだったからである。もっともルソーが、なぜ1885年のパリ美術学
校回顧展に出品されたウジェーヌ・ドラクロワの作品≪ライオンとトラ≫
(1828〜29年)などの模写をしたのかは、不可解なままである。遠近法や絵画
技法を忠実に再現したこの模写から推し量るに、独学者ルソーには、美術史の
中から自分にふさわしい表現法を選ぶ能力があったのだと言えよう。こうした方
法を見ると、このいわゆる素朴画家がますますいかがわしく見えてくる。いずれに
せよこの選択は直観的なものであり、理論的に筋の通ったものではなかった。
サン・ニコラ、つまり現在のポル・デュ・ルーヴルの港からサン・ルイ島を望む
夕暮れの風景では、平面的な描写部分が左側の遠近法的な切り口を圧倒してい
る。別人の手によるかあるいはルソー自身が何らかの手本を模写したか
のように、岸辺の溝や敷石、航行管理所や遠くの税関更の影は、おなじみの遠
近法的な空間のとらえ方で表されている。まるで、奥行きの深い舞台に、距離や大
きさに応じて装置を並べたかのようだ。それとは逆に川岸に積まれた積み荷や貨
物船、ポン・デ・ザールの鉄橋、セーヌの中州に建つ家々やノートル・ダム大聖
堂などは、どこかよそよそしぐいわくありげな風情で、ひとまりまりに収斂している。
ここではもはや何ひとつ明確なものはない。防水シートに覆われた積み荷の山は
冷たい青緑色に塗られ、透明に光る奇妙な月の砂漠に変容する。橋脚はま
るで凍りついたような流れの上で、橋桁を支える役も果たさぬまま漂い浮かんで
いる。水に反射する光は孤立し、明るいガス灯と決して「正しく」対応していない。
三色旗が翻る船のマストは空間的な関係を無視して、橋の上にそびえ立つ。こ
れは、遠景に林立する煙突や塔などと呼応しているだけである。その背景の晴
れた夕暮れの空には白い満月が浮かんでいるが、何を照らし出すわけでもない。
エミール・ゾラは小説の主人公クロード・ランティエに喧噪に満ちた港で活気あ
ふれる日常生活を体験させたが、それとは無縁に、大都市パリはここで平和な
相貌を見せて憩っている。そうしてこの静物画の真ん中に、昼と夜、外的事実と
内的真実との狭間に美の幻想を夢見て、それを見守る小さな税関更のルソー
が描かれているのである。
【文献】ルソー コルネリア・スタベノフ TASCHEN No.24