アンリ・ルソー年表

1844年5月21日、アンリ=ジュリアン=フェリックス・ルソー、板金工ジュリアン・ルソーと妻エレオノールの第3子としてラヴァル(マイエンヌ県)に生まれる。

1849-1860年ラヴァルで小学校、やがてリセに入学。1851年以降は父の商売の破産により、両親が各地を転々とせざるを得なかったため、寄宿生となる。

1861年一家はアンジェに移る。

1863-1867年弁護士フィヨンの事務所で働く。郵便切手を含む20フランを盗み、ナントで1ヵ月の少年刑に服する。志願兵として7年間軍務に就き、アンジェの第51歩兵連隊に配属される。メキシコ遠征に加わったという後世の伝説は誤りである。

1868年父の死。兵役満了を侍たずに軍務を離れ、パリに移る。ルースレ街25番地に住む。執達吏ラデスの事務所に勤務。

1869年18歳のお針子クレマンス・ボワタ一ルと結婚。5人の子供を儲けるが、娘のジュリアを除いてすべて早世(ジュリアは1956年死去)。

1871年パリ市入市税関に就職、後に正式採用。

1872年この頃、絵を描き始めるか。

1884年ローマ賞受賞者フェリックス.クレマンの推薦を得て、ルーヴル、リュクサンブール美術館、ヴェルサイユ宮殿、サン・ジェルマン宮殿での模写を許可される。セーヴル街135番地に居を定める。

1885年2点の作品を「落選者展覧会」に出品。『ヴァイオリンもしくはマンドリンのための序奏付きワルツ、クレマンス』の作曲で「フランス文芸音楽協会」の学位を獲得。この作品はべートーヴェン・ホールで演奏される。

1886年画家マクシミリアン・リュスの助言に従い、有名な《カーニヴァルの夕べ》を含む4枚の作品を「アンデパンダン展」に出品。1899年と1900年を除いて、毎年出品し続ける。カミーユ・ピサロが、最初に彼の絵を認めたひとりとなる。

1887年パリの美術批評家が、ルソーを初期ルネサンスの画家と比較する。

1888年妻クレマンス、結核のために死去。作品がオディロン・ルドンの目を引く。

1889年パリ万国博覧会に非常な感銘を受ける。『1889年の万博を見学して』という戯曲を執筆(1947年、トリスタン・ツァラにより出版)。

1890年ポール・ゴーガン、《私白身、肖像=風景》を賞賛。

1891年最初のジャングル作品《不意打ち》を制作。若い画家フェリックス・ヴァロットンが好意的に批評。

1892年アルセーヌ・アレクサンドルが、アレゴリー《独立百年祭》を批評。

1893年バニョレ市庁舎のコンペに参加するか不採用。申請して早期退職、年金生活に入る。

1894年代表作《戦争》発表。詩人アルフレッンド・ジャリと出全う。

1895年アルフレッド.ジャリとレミ・ド・グールモンの創刊した雑誌『リマジエ』にリトグラフ《戦争》掲載。クータンス・エ・ジェラール社の『来るべき世紀の肖像』シリーズのための短い自伝を執筆(発表されず)。

1897年タデ・ナタンソン、『レヴユー・ブランシュ』で代表作《眠るジプシー女》を批評。ジャリをメーヌ街14番地の白宅に同居させる。

1898年ヴァンセンヌ市庁舎の大広間壁画コンペに応募するが不採用。薔薇十字団の心霊研究会に出席。フリーメーソンに加入。ヴェルサンジェトリクス街3番地にアトリエを構
える。

1899年戯曲『ロシア孤児の復讐』を書く(1947年、トリスタン・ツァラにより出版)。寡婦ジョゼフィーヌ=ロザリー・ヌリーと結婚

1900年パリ万博と回顧展「フランス美術百年展」を見学。アニエール市庁舎のコンペに参加。

1901年ガッサンディ街36番地に居住。妻がそこに文具店を開き、ルソーの作品も販売する。オーギュスト・ルノワールが「邪悪な不意打ち」に感動。

1902年一種の市民大学である美術工芸協会で、陶磁器の絵付けと細密画を教える。急進的社会主義者アドルフ・メッシミーの選挙を応援する。

1903年2度目の妻、死去

1904年2枚目のジャングル作品《虎に襲われる偵察員》を発表。

1905年問題作《飢えたライオン》などを「サロン・ドートンヌ」に出品。

1906年画家ロべール・ドローネーに出会う。またジャリを通して詩人ギヨーム・アポリネールと知り合う。ペレル街2番地2に居住。

1907年画家ドローネーの母にあたるドローネー伯爵夫人ベルトのためにジャングル画《蛇使いの女》を描く。伯爵夫人を通してドイツの蒐集家で美術批評家ヴィルヘルム・ウー
デ、ロシアの画家で後にドローネー夫人となるソニア・テルク、マティスの弟子マックス・ウェーバーなどと知り合う。この頃よりアトリエで夜の集まりを催し、重要なパトロン、文筆家、前衛美術家などを客として迎える。

1908年12月、ルソーを讃えてピカソが"洗濯船"で伝説的な宴会を催す。

1909年1月9日、銀行詐欺により、罰金200フランと執行猶予付き禁固2年の判決を受ける。ギヨーム・アポリネールとマリー・ローランサンをモデルにした2枚の絵のうち2枚目を描く。サロン・イズデルスキーがキエフとオデッサで、1年後にはサンクト・ペテルブルクとリガで彼の作品を展示。

1910年代表作《》を発表。アルデンゴ.ソッフィーチ、アンブロワーズ・ヴォラール、セルジュ・フェラ、エレーヌ・デッタンジャン他の注文を受ける。9月2日、敗血症のためネッカー病院で死去。バニューに葬られる。7人の会葬者の中にポール・シニャックとロべール・ドローネーがいた。墓碑銘はアポリネールが起草、1913年にブランクーシとオルティス・デ・サラテの手で制作される(1947年、ラヴァルに改葬)。

【文献】ルソー コルネリア・スタベノフ TASCHEN No.24