原点
〜死ぬまで一緒に歩く肉体〜

・5リハビリ

 手術が終わったら、骨が完全に結合するまで、ひたすら脚を動かさないようにしなくてはいけない。歩くなんてもってのほか。しばらくはベッドの上から動くこともできなかった。
 骨を止めている金具も、はずすのは1年後だということだった。

 寝たきりの間。もちろんすべて看護婦さんのお世話になる。でも、脚を動かさないでいろいろするのは大変だ。特に大変だったのは大便だ。携帯便器を尻の下に敷くために、身体を浮かすのが重労働だった。脚を極力動かさずに便器の上に乗るのは、本当に困難なことだった。
 当然、看護婦さんは女性だし、僕は微妙な年頃だし。恥かしいとか、情けないとか、そういう機微があってもおかしくないんだけど。そういうのは全然なかった。それどころじゃ、なかったから。あ。いや。僕がただ、年頃の割りにはガキだったっていうのもあるのかも。(笑)
 とにかく。毎日の、朝起きて、ご飯を食べて、寝る。というそれだけのことを必死になってやっていた。親の、姉の、看護婦さんの、みんなの協力を得て。自分でできることなんて、何もなかった。ただ、寝るだけ。でも、寝る以外にすることがないから、寝ることすらできなくなっていく。

 この時期。僕の体力はがっくりと落ちた。
 食事も、病院の決して多くはない量を全部食べることができなくなっていった。
 入院当初の悪さばっかりしてた元気は跡形もなくなっていた。

 しばらくして、僕は車椅子から松葉杖をつけるようになり、退院することが決まった。中学校が始まってすぐの入院だったため、できるだけ早く学校に行かせたいという親の希望もあった。骨が完全に結合するまで、約1年。僕は、松葉杖をつきながら学校に通うことになった。
 そして、退院の際医者から特に厳重に注意されたことがあった。それは・・・

「絶対に右脚を地面につけてはいけない」

 と、いうことだった。骨がきちんと結合せず、曲がってしまったり、離れてしまっては元も子もなくなってしまう。手術が無駄になってしまうからだ。
 僕は生活しながら、脚が根元からぽっきり折れてしまう恐怖と闘わなくてはいけなかった。

 リハビリも自宅で母の協力を得ながら続けていった。
 母は、砂袋を作ってくれた。脚に重りとしてつけて、脚を上げる運動をするんだ。最初は500グラムとかだったと思う。
 退院した当初の僕の体力は、腹筋は1回もできない。仰向けの状態で脚を上げることができない。体の幹の部分の力がとにかく「無」に近かった。
 だから500グラムの重りなんて、とんでもなかった。重りをはずして、なんとか頑張って脚を上げようとする運動を、毎日続けた。昨日は1ミリ浮いた。今日は2ミリ浮いた。汗をかきながら、必死に、母が見守るなか、少しずつ、脚を浮かせていった。
 はっきりと、脚が浮いた時は、本当に感動した。自分の身体が力を取り戻しつつあることが分かって嬉しかった。毎日の努力が報われることが嬉しかった。

・6カップヌードル

 食事も、少しずつ食べれるようになっていった。
 退院して真っ先に食べたがったものは、日清カップヌードルだった。
 病院の食事は美味しくなくって。そんなに不味くもないんだけど。普通にあたりさわりのないものばかりで。だからたいてい同じようなものばかりで、退院する頃は食事が苦痛になっていた。

 そこで、毎日つまらない食事をする中で、ずっと頭の中にあったのは「カップラーメンが食いてえ!!」ってことだった。毎日毎日きちんとした食事で、小児科だったからお菓子なんかを食べることもできない。だから、そういうジャンクフードに飢えていた。身体にいいとか悪いとかじゃなくって、パンチの効いたものを貪りたかった。

 毎日のように「退院したらカップラーメンが食べたい!」と僕が訴えていたこともあって、母は僕の退院最初の食事に僕の希望通り、カップヌードルを用意してくれた。
 でも、カップヌードルは美味しかったけど。身体が受けつけなかった。半分くらい食べたところで吐いてしまった。
 吐いてしまって、「ああ・・・まだ食べられなかったか」という思いと、せっかく用意してくれた母に申し訳なくって、すごく情けない気持ちになってしまった。

 カップヌードルを用意してくれた母の顔を、今でもよく覚えている。
 食べたい食べたいと、毎日のようにせがんでたものを用意してくれた母。そりゃ、そこらへんでどこにでも売ってるものだけど。そんなものだったけど。母の愛を感じた。
 それを、僕は吐いてしまった。
 悲しかった。
 本当に、申し訳ないという気持ちでいっぱいになった。

 でも、母の表情は変わらなかった。嬉しそうだったんだ。僕の前にカップヌードルを用意した時と、同じ柔らかい、慈しみを持った表情だった。
 僕が吐いてしまったことよりも、食べたかったものを僕が食べたことが、嬉しかったようだった。
 思えば、母はずっと僕と一緒に病気と闘ってくれていた。病院の面会の日に、替えのパジャマを持ってきてくれたり、欲しいと言った物を用意してくれたり。主治医と治療のことで話をしたり。僕が病院の食事のことで不平を言うと、それを改善してくないかと病院側と話をしてくれたり。
 母は、病院に通うために、そして脚が不自由になる僕のために車も購入した。

 先日、30歳の誕生日に母からメールが来た。祝いのメッセージだ。
 このコンテンツを書いていることもあって、返事に「最近、手術した時のことを思い出しています」と書いた。自分の息子の身体が切り刻まれるのは、どんな思いだっただろうか。
 血を流し、糸で縫われ、脂汗を流し、唸り、そしてただ寝てるだけで、日に日に痩せ細っていく、そんな僕の姿を見続けて、母はどんな思いだっただろうか。

 カップヌードルは、僕と母にとって、「勝利の証」のようなものだった。食べきれなくって、吐いたとしても、自宅の食卓で、カップヌードルを僕が食べていて、その前に母が座って見ていて。
 それだけで、もう良かったんだ。
 それだけで、母にとっては、もう喜びだったんだって、今は分かる。

 母に喜んでもらえて、良かった。

 今でも、母が作る食事は大好きだし、母と一緒に食事をするのも好きだ。もう、最近では年に数回くらいしか、そんな機会はないんだけど。
 でも、今でも、そしてこれからも。母と一緒にする食事は、僕にとって、幸せな時間の一つなんだ。

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