原点
〜死ぬまで一緒に歩く肉体〜

・11 嫌悪と後悔

 中学時代は、誤解と諦めで過ごした。
 思い出すだに、あの時代に戻りたいとは思わない。「やり過ごす」だけの日々を送っていた。面白くもないし、充実感もまったくなかった。

 高校に入った。
 高校は、学区で一番の学校だった。この学校で勉強ができても「ガリ勉」「死ね」なんて言われることは絶対にない。まあ、逆に、成績は悪い方になっちゃったけれども。正直、勉強を頑張ろうという気には全然なれなかった。勉強は「遅れている分を追いつこう」とはしていたけど、それ以上を求めるモチベーションはそもそも無かったから。

 高校は楽しかった。
 僕が入院していたことも知らない、僕が学年で一番を取っていたことも、ほとんどの人が知らない。そういう環境に切り替わって、本当にホッとした。
 部活は漫画研究部に入った。あと放送委員会にも所属した。委員会だけど、実際は部活みたいなもんだった。友達もできた。中学時代は友達はいないようなものだったから、彼らと付き合うのはものすごく楽しかった。

 いかに、中学時代がイヤだったか。大人になってからすごく後悔した出来事が象徴的だった。ちょっと話がそれちゃうんだけどね。
 大学生になった頃、中学時代の数少ない友人の1人から「一緒に飲まないか」と突然誘われた。中学を出てからはほとんど交流もなく、すでに「友人」と呼ぶよりは「元同級生」という感じだった。その彼には中学時代、グループで「無視」されるというようなこともあった。友人関係は回復したけれども、個人的に「中学時代」そのものに嫌悪感を持っていたため、高校に入ってからは意識的に彼らとの音信を断っていた。
 そんな折、「一緒に飲まないか」と言われても、正直なところ「なんだろう?何があるんだろう?」とついかんぐってしまった。「今さら何の用なんだよ?」みたいな、そういう被害者意識というか、マイナス感情が沸き起こって、適当な理由をつけて断ってしまった。

 その後は、特に接触はなかった。
 しばらく経って、僕が23歳の時。平成7年。1月18日。
 今でも覚えている。
 阪神淡路大震災の次の日だった。
 彼は死んだ。

 自殺だった。

 彼と、もう会うことはできなくなった。彼と、一緒にお酒を酌み交わすことは永遠にできなくなってしまった。
 通夜の時、彼の親友だったヤツからいろいろ話を聞いた。
 彼がいろいろ問題を抱えて苦しんでいたこと。精神的にも不安定なところもあって、しょっちゅうケンカをしては怪我をしていたこと。

 本当は、漫画家になりたかったこと。

 彼は、僕が漫画を描いていることを知って、話をしたかったんだ。将来のこととか、自分の可能性とか、悩みとかもありつつも、「漫画を描きたいんだ」ということを、あのとき酒を飲みながら僕と話したかったんだと思う。

 僕は、次の日彼の葬儀のお手伝いをした。友人として。

 葬儀が終わって、彼の遺影の前に、中学時代の友人達が自然と集まった。
 みな、彼の苦しみがそれほどのものであったことに気づかず、悔やんでいた。
 僕は、お酒を持ってきた。彼の分と自分の分と。
 遺影に向かって乾杯をし、飲んだ。

 ものすごく後悔した。
 なんで、あのとき普通に会いに行かなかったんだろう。って。
 なんで「友達なんだから、会おう」と思わなかったんだろう。って。

 ただ、やっぱり僕にとって中学時代はそれだけ暗黒の時代であって、思い出したくもなく、その当時の人にも会いたくないと心底思うほどだったんだ。
 彼から「飲もうよ」と電話があったときに、自分を支配したのは「嫌悪感」だけだった。彼に対して「嫌い」だとか「会いたくない」とか、そういう感情はなかったように思う。中学時代の3年間が「思い出したくないもの」だったから、その記憶を喚起する存在の彼からの電話に、無意識の部分でものすごく守りに入ってしまったのだと思う。
 今になってみれば、それだけ精神的なストレスを受ける環境にいたわけだから、当時の人に「会いたくない」と思うことは自然だと思うし、そして実際に「会わない」としたことも、妥当だったようにも思う。

 でも。すごく、悔しい。自分の弱さが、本当に情けなかった・・・。悔しくて悔しくて、泣いた。あのとき泣いていた彼の友人達は、みな悔しくて泣いていたんだと思う。
 その時その時、自分にできることには、全力で向かっていかなくてはならない。
 人間は弱い。逃げることも多い。でも、打算とか好き嫌いとか、そういうのとはまったく違う「仁義」が求められるときがある。「会うべき時」に会い、「話すべき時」に話す。こうやって言ってしまえば当たり前のことかもしれない。でも、そういう当たり前のことをできる強い人間になりたいと、本当に心の底から思う。


 話を戻すと、僕の中学時代は僕にとってはそれだけの「嫌悪感」を持つものだった。むやみに目立つことのないように、自分を抑えて学校にいる時間をただやり過ごして中学校が早く終わることを、高校に早く進学できることだけを願っていた。

 そして、僕はやっと中学校から解放された。
 高校に入った僕ははしゃいだ。ある意味元気に暴れまわっていた。後輩の女の子なんかからは「すごく元気のいい先輩」みたいに思われていたみたいだった。中学の頃に、誤解されていた分、はじけてしまった部分があったように思う。
 喜怒哀楽が必要以上に激しく、情緒不安定だった。

 そういう情緒不安定な自分であっても、楽しかった。環境が変わったことで窮屈だった気持ちが思いきり開放されていたから。
 でも、一つ不満があった。それは、やはり体力だった。

・12 自己鍛練

 一応走ったりもできるし、暴れたりもできるようになった。そして友達もできた。そうなるとちょっと遠出なんかもするようになる。自転車に乗って隣の市だとか、そのまた隣の市だとかに走っていったりするようになった。
 中学の頃はそんなことはしたことがなかった。自転車に乗って行動範囲が広がって、しかも友達と遊びにでかける。それだけでもう本当に楽しかった。
 ただ、こんなことはもちろん母には内緒だった。ろくに体力もないのに自転車に乗って、電車の駅3つ分くらい走っていくなんて、ばれたら無茶苦茶怒られただろう。
 そして、実際体力の無さを痛感することになった。
 別に、事故とかはなくって、それは良かったんだけど。一緒に走っている友達についていけないのだ。

 友人達の自転車に、最初は一緒になって走ってついていける。談笑しながら自転車をこいでいるのだが、しばらくすると疲れてスピードがガクっと落ちる。一生懸命ついていこうとするんだけど、ついていけない。みんなは「え?」っという感じでそのまま走って行く。どんどん距離が離れていって待ってもらうことになる。
 最初は「体調が悪いのかな?」とか思っていたんだけど、とにかく何度遊びにでかけてもついていけない。「自転車の性能が違うんだ」とか、そんな風に思っていたけど、これは明らかに体力の差だった。筋肉が本当に発達していなかった。自転車に関して言うと太ももの筋肉がろくについていなかった。腕力もないし、腹筋も背筋もなかった。
 普段、学校ではテンションが高く、あれこれ暴れてもいたけど、こういう持久力を求められるものは全然ダメだった。もちろん瞬発力もなかったけど。
 体育で3キロほど走るときも、走りきるときには右足をひきずって歩きながらゴールするのがやっとだった。
 身体を動かすことは、本当にダメだった。

 その分、部活で漫画を一生懸命描いていた。でも、漫研で嫌だったのは、幽霊部員だった。ろくに部活にも来ないくせに、会誌の発行の時にはぺろっと一枚だけイラストを描いて「載せといて」と渡してくる。もちろん編集を手伝うようなことはない。
「なんだこいつら?漫画を好きで漫画を描くために入ったんじゃないのか?」
と、ものすごく腹が立った。
 まぁ、彼らの感覚というのは、当時の部の雰囲気からすれば分からないでもない。まとまりもなかったし、これといって目標があるわけでもなかったし。盛り上がるような雰囲気はまったくなく、ただ集まって仲良くするでもなく、絵を好き勝手に描いてるだけだった。

 でも、僕からしたら信じられないことだった。
 僕は、「運動部には絶対入ってはいけない」と言われていた。だから、もう僕には文化部しかなかった。「漫画を描く」ということしか、その時の僕にはなかったんだ。
 漫研に入ったら、もう一生懸命漫画を描くことしか頭になかった。それが当然だと思っていた。
 でも、実際そこにいたのは漫画を描く情熱も持っていない、ただ、だらだらした連中だった。
 逆に言うと、しっかり身体も動く彼らにしてみたら、熱中するほど漫画に打ち込む動機がそもそも無かったんだろう。何かを懸命に手に入れようとするほど、自分自身にも環境にも不満も飢えもなく。向上心も持てない。焦りもない。疑問もない。

 僕は、彼らに対して嫌悪感を持った。
 この嫌悪感は中学時代のとはちょっと違う。中学の時は僕に対して無意味な敵意を持つ子達に対してうんざりする嫌悪感だった。早くこの人達との関わりを断とうと思う、そういう感じだった。
 高校に入って先輩達に対して思った嫌悪感は、もっと攻撃的だった。「俺はこいつらみたいにはならない」と心に誓い、だらだらと過ごす彼らに敵意を持って接した。

 そのときの決意がその後の漫研を大きく変えていくのだけど。その話はちょっと後で。

 僕は、体力が無かった。運動部に入るなと言われていた。
 だけど、僕は運命的な出会いをする。それが「格闘技」だった。
 偶然テレビで見た空手の世界大会に感動したのだ。

 格闘技というと、映画の「バシッビシッ」っと綺麗に倒す、演技的なそんなイメージしかなかった。でも、僕が見たその大会は鍛えぬかれた技の応酬があり、選手同士のドラマがあり、戦った後に健闘をたたえあう、そんな男ロマンを感じさせてくれる素晴らしい「スポーツ」の大会だった。
 優勝した日本人選手がインタビューを受けていて、でも、彼はほとんど何もしゃべることができないほどの消耗して放心していた。

 そこまで打ち込んで、優勝を成し遂げた彼の姿に素直に感動した。格好いい!!!!と思った。あこがれた。
 さっそく次の日、格闘技雑誌を買ってきた。雑誌で見る格闘家達はみんな立派な体格をして、美しい筋肉をしていた。しかもスポットライトを浴びて輝いて見えた。
 最初は空手の記事が読みたかったけど、格闘技全般が一気に好きになった。それから本屋に行って格闘技や武道の本を読みあさった。お小遣いでビデオを買ったりもした。

 それだけ一気にはまっていくなかで、格闘技が好きな友達もできた。
 その彼は運動部には所属していなかった。道場やジムに通っているわけでもなかった。本などを見ながら自己鍛練をしていたのだ。
「え?」
 という感じだった。
 「自己鍛練」という方法がある、ということがカルチャーショックだった。そんな方法があったとは!!確かに「空手道入門」とかそういう家にいながら鍛練できるという本はいくつも出ている。そして「自己鍛練」のいいところは「自分のペース」で鍛練ができるということだ。その彼は中国拳法が好きだったんだけど、特に中華思想なんかでは「個人個人の差」によって生き方も違うし鍛練のスピードも違う、ということの認識がきちんとあって「自分のペースで鍛練するべき。無理をすることはよろしくない」ということだった。
 つまり、「自己鍛練」であれば、僕も僕の体力に合わせて鍛練していくことができるというのだ!!

 これは、本当に驚きだった。
 最近は、スポーツセンターであるとか、そういったものが地域に増えてきているから、今では「自己鍛練」ということは不思議な発想でもなんでもないと思う。
 でも、その当時は「スポーツとは学校の部活、体育でするものだ」というのが一般的なスポーツのイメージだった。だから手術をして「運動部にはもう入っていけない」と言われたことは、そのまま「スポーツをしてはいけない」と言われたことと同じだった。
 当時の「スポーツ」は集団でやるものというイメージが強かった。個人個人の能力差があっても同じメニューをこなすことで連帯感もつくし、精神的に追い込まれるから根性がつく。
 まだまだ練習中に水を飲むことが許されないような時代だった。
 そんな時代に身体に重大なハンディを持った僕がスポーツをすることなど、絶対に考えられないことだった。

 しかし、自分の身体は自分で鍛えることができる。
 そんな当たり前のことに初めて気がついた。鍛えていけば、僕も格闘技ができるかもしれない。テレビで感動したような空手とか雑誌で見た格闘家のようになれるかもしれない。

 僕にもスポーツができる。
 
 その事実に、全身の血が沸騰した。
 漫画が好きで打ち込んではいたけど、やっぱり本当は身体を動かしたかった。このまんまなんだなと諦めていたけど、本当はそんなの嫌だった。

 僕は一生はじかれたと思っていたスポーツの世界に戻ることができた。
 それはたった1人の世界だった。
 誰とも競争せず、誰からも何も言われず、ただ、自分の身体だけに向かい合うスポーツだった。

 でも、それは今までに経験したことのない充実した日々であり、僕にとって本当に大切な財産となる、そんな日々だった。

 たった1人で自分と向き合う日々。
 それは、喜びと驚きの日々だった。


 そして。それこそが、僕の原点なんだ。

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