vol.12

 六本木にある高級マンションの最上階へと健二は向かっていた。
 そこは健二の所有するマンションでたまに息抜きで使われてる場所だった。エレベーターが最上階へ着いたことを告げ扉が開く。
 絨毯の敷かれた廊下を歩き、突き当たりにある部屋で健二は止まり、そしてカギを開けた。
 リビングのドアを開けたとき、ムッとするほどのアルコール臭が漂っていた。
 まだ昼間だというのに既に数本のビールとそして今は水割りをロックで飲んでいるようだった。
「…冴羽さん、そんなに飲んだら身体に悪いですよ」
 リョウはリビングにあるソファーには座らずそのままソファーを背もたれにして床に座っていた。健二が来ても顔色一つ変えずにそのままグラスを口に運ぶ。
「俺はこれくらいじゃ潰れたりしねぇよ」
 そう言ってリョウはまたグラスにブランデーを注ぐ。それを制止して健二がリョウの手を掴んだ。
「冴羽さん、もう限界です。今日は一緒に来て貰いますから」
 掴まれた手を振り解き、またグラスを口に運ぶ。
「もう二度と会わないと言っただろう。ほとぼりが冷めたら俺は日本を出る」
「あなたの為じゃない。もう香ちゃんが限界なんです。だから…っ!」
「…っるさい」
 一瞬にしてリョウの気配が変わる。リョウも余裕がないのか感情がそのまま垂れ流しだった。

 香りが入院していた時、リョウと一緒に病室を出た。
 その時、リョウに言われたのだ。
――――香を頼む。
「今が潮時だ。これ以上この世界にいたら、いつかは命を落とし兼ねない。これを機にあいつをこの世界から足を洗わせようと思う。悪いが暫くの間あいつの面倒を見てやってはくれないだろうか」
 健二は香の怪我を目の当たりにして、リョウの申し出を二つ返事で受け入れた。香を安全な世界へ戻せるのならばいくらでも協力は惜しまない。
 そして退院の日、リョウは向かえに来ることはなく、健二が現れたのだ。
 その時はまだ良かった。だが本当のことを告げてから、香の状態は悪化する一方だった。食べようとする意欲はあっても身体が受け付けず、嘔吐を繰り返す。このままでは精神に異常を来してしまう。
 いや、既にもう始まっているのだ。
 だから食い止めるのは今しかない。
 香の望みは、冴羽リョウという男の側にいることだった。
 ならばそれを叶えてやりたい。

「情けないわね、リョウ」
 リビングの入口に寄りかかって腕を組んでその女性は立っていた。
「何でお前がこんな所にまで来てるんだ?冴子」
「私が一緒にお連れしたんです」
 溜め息混じりにリョウは大きな息を吐き出す。冴子から見れば今のリョウは荒れ放題もいいところだ。
 この男のこんな姿を見るのは初めてかも知れない。
 冴子はツカツカとリョウに近寄り、上からリョウを見下ろす。
「さあ、行くわよ。香さんの所へ」
「俺はもうあいつとは会わない」
 リョウが目も合わせずにそう言うと冴子はリョウの胸倉を掴んだ。
「あなた、何逃げ回ってるのよ。逃げて逃げて、その先に何があるって言うの?」
「さあな、今の俺にはそんなもんどうでもいいんだよ」
 言い終わったと同時に冴子の手がリョウの頬を叩いていた。
「香さんを殺すつもりなの?見たんでしょ?香さんのこと。生きる意味を失って何処にも進めないで彷徨ってるじゃない。あなたの大切な愛しい香さんが、よ?」
 冴子の言葉にリョウが自嘲する。そしてキツイ視線を冴子に向け言い放つ。
「あれだけ傷つけておいて、何で自分の側に置ける?運が悪けりゃ死んでた。解るか?ならば今あいつを表の世界に還してやるチャンスじゃネェか」
「だったら槇村が死んだ時、何故手を取ったのよ!私、あなたに言ったわよね?槇村が死んだあの時、香さんを私が引き取ると、そう言ったときあなたは何て言ったか覚えてないの?」
 槇村の最後を看取った時。――――香を頼む。そう言って死んでいった。槇村がどんな気持ちでその言葉を言ったのかは分からない。それでも友が託したのならば、と言う気持ちもあった。
 妹を引き取るとなれば危険度が増すことは承知の上だった。ド素人のまだ成人仕立ての子供と大人の狭間にいた香。その時冴子が香の後継者を買って出てくれた。だがリョウはそれを断ったのだ。
「あの時の決心がそんな簡単に揺らぐのなら、何故手を取ったりしたのよ」
 あの時、香を抱えてこの世界で生きていくと決めた。守る者が増えれば危険は増える。それはこの世界でやって行くには生半可な事ではない。それを承知で槇村との約束を果たす為にも覚悟を決めた。
 守り抜いてみせると。
「…あいつは笑うんだ。俺のせいじゃないって。守れなかったのは俺なのに、な……」

 ならば違う意味で守ってやるしかないじゃないか。
 冴子の手を振り解いてリョウは立ち上がった。
「弱い自分がそんなに怖い?……あなたは機械じゃないんだから、いくら強くてもあなたは人間なのよ?」
「怖いよ。その弱さが自分の大切な者を奪うのならば、俺は逃げる事だって出来る」
「それが香さんを追い詰めて、死に追いやってもあなたはそう言えるのかしら?」
 死、と言う言葉にリョウの身体がビクリと動いた。視線が健二を捕らえ何かを訴える。健二はその視線に気付き大きく頷いた。
「このままで行くと…死を招かないとは言い切れません。香ちゃんは……生きることを拒否してしまったんです」


 楽しい夢だった。
 リョウと槇村といつもの部屋で他愛もなく過ごした時間。ほんの少しだったけど香にとっては何にも代え難い時間だった。
 大切な人と、自分の全てを賭けられる男と共に過ごした愛しい時間だった。
 ぼんやりと目を開ければそこには見慣れた男が座っている。
 ああ、これも夢だ。
 だから香は朦朧とする意識の中でその男に手を伸ばした。
「…夢でも良いから……会えて良かった」
 いつもは傲慢なほど強気のその男が香の伸ばした手を掴む。酷く苦しそうな表情で香を見詰めて、そして口を開いた。
「夢じゃねぇよ…俺はここにいる」
 その声は香の耳にもハッキリと届き意識が覚醒していく。
 起き上がろうとしても上手く力が入らずに這い蹲るようにして漸く上半身を起こす。

「……リョ、ウ…?……本当に…?…」
 リョウの腕を掴んで訴える。
 会いたかった。
 どんなに自分が想ってもきっともう二度と会ってくれることはないと想っていた。この男の性格は嫌と言うほど知っていたから。一度決めたことは必ずやり通す男だ。
 リョウは何も言わず、ただ香の手を握りしめていた。
「…私はもう…必要なくなった?…ただの重荷でしかなかったの?……」
 言葉にしたらもう堰を切ったように溢れるだけだった。
 涙も、そして言葉も。
「そんなに、私は邪魔だったの?……私は、ずっと一緒に……」
 嗚咽が混じり上手く言葉が出ない。だがそれでも香は言い続ける。責めたい訳じゃなかったのに。ただ自分はリョウにとって何だったのか。それだけが知りたかった。
「ずっ、と…一緒に…生きていくって、そう言ったのに……」
 香は今まで一度として言ったことのない心の奥底に仕舞い込んでいた言葉を露呈した。

「もう、大切な人に……置いていかれるのは嫌……お願いだから、もう……」
 最後の言葉はリョウに抱きしめられて上手く言えなかった。
 強く身体が軋むほど抱きしめられて、驚きと嬉しさと、そして切なさが混じって更に涙が止まらなかった。
 そして言えなかった言葉を震える声で吐き出した。
「…お願いだから…一人にしないで……」
「……――――悪かった。お前をここまで追い込みたかった訳じゃないんだ」
「……っ…」
 香の細くなってしまった身体を抱きしめてリョウは居たたまれない気持ちになる。ここまで追い詰めたのは他でもない自分自身だ。
 それでも香は自分をまだ受け入れてくれる。
「俺は逃げたんだよ、お前から。目の前に突きつけられた現実から。逃げて逃げて、そんでいつかお前が俺のことなんぞ吹っ切って、健二とでも幸せになったのを見て、あぁ、俺は間違えてなかったなってそう言いたかったんだ」
 その告白に香は身体を硬くした。やはり自分がこの男の側にいることは好ましくないんだと、そう思えてしまった。
「けど、それは出来なかった。お前が何処にも進まねぇから……俺も進むことが出来なかった。やっぱり、どんな事があっても……」
 リョウは香の身体を少し引き離して、そして額をこつんと合わせた。
「…俺はお前が居ないと、強くなれないんだ……」
 これ以上ない告白だと香は想った。今まで一度も言われたこともないしまさかこんな風に思っていてくれたなんて想いもしなかった。
 口下手な二人はいつも勝手に互いの気持ちを想像して落ち込んで、そんなことの繰り返しでここまで来てしまったのだ。
 それは甘美な睦言のように聞こえた。
 私の生きる意味は、此処にある。
 此処にいて、共に生きていこう。
 リョウの言葉を聞いて香は泣き笑いをした。嬉しくて、またこの男の側で生きていけることに悦びを感じながら、香はそっとリョウの首に手を回した。
 弱音を吐いたこの不器用な男を抱きしめてあげたい、と心から思う。
 リョウは合わせていた額をゆっくりとずらし、そして唇にそっと合わせるだけのキスをした。
 初めてのキスは色んな事を乗り越えてやっと辿り着いた物。
 何度も何度も啄むようなキスを繰り返し、香が回した手に力を込めるとそれを合図にリョウが香の唇を深く貪った。
 角度を変え、舌を絡ませて深く強く求めてくる。
 その強さが自分を求めている強さと比例しているかのようで、香は嵐の中に居るようだった。
 ゆっくりと唇が離れていくと、リョウが笑っていた。
 久々に見る、いつもの笑顔。
 そして耳元で囁かれた。
「もう、二度と離さねぇぞ?…逃げたって何処までも追い掛けてやる」



 健二のマンションには海坊主も来ていた。無理矢理力ずくで健二の家まで連れてこられ、香の姿を見たとき、すべてのしがらみが溶けたような気がした。
 ここまで追い詰めたのは自分。
 それ程までに想い思われているのなら本望だ。
「まだ、逃げる?」
 後ろにいた冴子に言われた言葉だ。
「…いんや、そんな気失せちまった…」
 力が抜けてそう言うと、冴子は安堵したような溜息を漏らした。そして、
「じゃ、後で一発殴らせて貰うわよ。槇村の代わりに」
 と言ってリョウだけを残しみんなは部屋を出て行った。
 香の細くなった身体を見詰め、自分のした間違いを後悔する。
 認めていいじゃないか。弱くても、脆くても。それでも自分が求める物は何なのか。
 目の前に眠る女を求めてやまない自分をもう許してもいいじゃないか。
 自嘲してそっと髪を掻き上げてやると、ぼんやりと目を開けた。
 香は自分を見て夢だと言った。手を取って握りかえして、それは違うと言うと涙を流して己の名を呼ぶ。
 深く沈めていた想いが吐き出されていくようだった。
 自分の側にいれば降り掛かる火の粉は避けられない。安全な場所で誰の目にも触れずに隠しておけるのならばどんなに良いだろうか。
 だがそんな風に留まる女ではないと解っていたのに、最後まで自分から引き離すことが出来ず今まで来てしまった。
 結局引き離して駄目になったのは自分の方だった。
 香は怪我の後遺症もあり、更に精神的負担をかけてしまい衰弱してしまった。
 こうなることも予測できたはずなのに、冷静さを欠いて時期を見余った。
 それ程余裕が無くなってしまっていた。香を傷つけられたという事が、自分から自信と余裕を奪い取ったのだ。
「もう、大切な人に……置いていかれるのは嫌……お願いだから、もう……一人にしないで…」
 愛おしくて堪らなかった。
 強く抱きしめて、すべてを奪ってしまいたいほど。
 こんな激情を自分はまだ持つことが出来たのかと、嬉しくなった。
 感情は切り捨てて生きてきたはずなのに、香に出会って、泣いたり笑ったり怒ったり、時に見せる優しさが溢れる感情を見ているうちにいつしか忘れた物が蘇ってきていた。
 だから側に置くのは怖かった。
 いつか自分がそれに飲み込まれ弱さを露呈するんじゃないか、と。
 だがそれは違っていた。
 弱くなるんじゃない。強くあるのだと。
 弱さを認め、それを補える力を持つ事で更に強くなる。
 もう二度と離さない。
 自分を裏切ることももう二度としないと。
 そう自分に誓った。
 



 日溜まりの中、ソファーに寝転がっていたリョウが大きく一つ伸びをする。
「香ぃ〜、コーヒーくれぇ」
 ダイニングの方で何か答えた声が聞こえたがハッキリとは聞こえなかった。多分暫くしたらコーヒーを手に香が来るだろう。
 あれから三ヶ月。
 香の身体は順調に回復し始めていた。もう日常生活には支障はないし体力の方も徐々に戻りつつあった。
 変わったことと言えば、リョウが過保護になったくらいだろうか。
 気持ちを確かめ合って二人の間にあった柵が消え失せたことから、リョウの言葉にも優しさが見える。
 ソファーから立ち上がり窓際で日に当たりながら煙草を噴かしていると、トレーにコーヒーを乗せた香が入ってきた。
 もう大分体重も戻り痩せ細っていた影は見当たらない。
 テーブルに近付こうとしたとき、香の足が縺れて転びそうになる。咄嗟に手が出たのはリョウでトレーを片手に反対側で香を支えて難を逃れた。
「ご、ごめん……」
 筋力は簡単には戻ってはくれず、時折こうやって足が縺れたりすることがあるのだ。
「…ん。大丈夫か?」
 リョウは咥え煙草のまま、トレーをテーブルに置いた。そして香もソファーに座りコーヒーを口にする。
 斜向かいに座ったリョウもコーヒーを口にしてボソリと呟く。
「…美樹ちゃんの煎れたコーヒーが飲みてぇなぁ…」
「…あんた、サイテー…人に煎れろって言ってその言い草は何よ」
「たまにはさ、こう美人の煎れたね…ものを……って、わー嘘です。これで僕は十分です」
 鉄拳を喰らいそうな形相に慌てて否定するも、やはり一発喰らってしまった。いてて、と顔をさすりながら笑う。こんな痛みにも愛しさを感じる自分は相当絆されてるな、と思う。だがそんな自分も嫌いじゃなかった。
「…後で久々にキャッツでもいくか…」
 リョウの言葉に香は目を輝かせて頷いた。
 外出は久しぶりだ。香が撃たれた時に一人で外出させたことを後悔しているリョウは、香が一人で出掛けるのを未だに嫌がるのだ。
 過保護、と言えばいいのか。とにかく出掛ける時はまだリョウが一緒じゃないと出られない状況だ。だからあれだけ毎日通っていたキャッツアイにも簡単にはいけなくて困っている。
 最近はリョウの過保護ぶりを見た美樹が見かねて家に遊びに来てくれる。香がこの家に戻ってきた当初は散々リョウの事を怒り、「この次香さんを悲しませたら許さないから!」とリョウに言い放ったくらいだ。
 香はみんなに支えられて今があるのだとつくづく思う。それが今の自分の財産だ。
 そして、不器用な男と向かい合って居られる事に感謝した。
 健二はあの事件からバタバタと忙しくしており、それでも時折暇を見付けてはここへやってくる。そしてリョウとあれこれやり合いながらも認め合っている二人が香は嬉しかった。
 結局、逮捕というで世間を騒がせてた為、小室は早知子と離婚。正式に後継者は健二のみとなった。健二ももう小野の性を名乗る事をやめ、今は小室健二として若き実業家として多忙な日々を送っていた。
 温かい日差しが差し込む部屋はゆったりとした時間を与えてくれる。
 気持ちよさに両腕を上げ伸びをした香が、「痛っ!」と脇腹を抱える。つい忘れてしてしまう動作の中に傷を引きつらせる動作があるのをすっかり忘れてしまう。まだ少し痛む傷に手を当てると、リョウが心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫よ。ちょっと引きつっちゃっただけだから」
「見せてみろ」
 少し不機嫌そうな声は緊張している証拠で。
 手招きされリョウの座っている前に立つと香のシャツの裾を捲り上げた。
 腹部に走る大きな傷。
 リョウはそれをゆっくりとした動作で撫でていく。そしてまるで儀式のようにその傷に軽く口付けた。
 これはリョウの自分に対する戒めだ。もう二度とこんな目には遭わせないという確固たる決意と、そしてもう二度と離さないという愛の誓い。
 口に出して言う事なんて出来ない代わりに、こうやって毎日のように儀式を行う。
 初めは戸惑った香も、今はもう慣れてそれを受け入れている。
 この傷を見る度に痛みに歪むリョウの顔を香は知っている。自分を責めているのだ。その度に「違う」と言うのだがリョウはそれを認めようとしなかった。
 だが香は思う。離れていった男をまたこうして捕らえられる事が出来たのもこの傷のお陰だと思えば少しは報われる気がした。
「大丈夫。私はアンタを置いていったりしないから…」
 儀式の様な口付けを終え香の腰を抱きしめているリョウの頭を抱き込んだ香がそう呟いた。
「…ああ、そうだな。お前は俺を置いていったりしない……俺ももう二度とお前を離したりしないから……」
 そう言ったリョウが香の項を掴んで自分の方へ引き寄せた。
 上から見下ろして居たリョウの顔が近づいていく。
 そして唇がゆっくりと重なっていった。












 大切な物は此処にある。

 失う事を恐れる変わりに、それを強さに変えて。

 もう二度と離したりしないから。


 だから。


――――共に生きていこう。













 






11<<

――――2008.12.23up

感想など、一言どうぞ。

Powered by FormMailer.