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vol.9
身体がふわりと浮いているようだった。
ゆらゆらと漂いながら身を委ねていた。
「ここは…何処なんだろう……」
ただこれは夢なんだと言うことだけは分かっていた。
漂う流れが速くなり、急速に光の差す方向へ吸い込まれそうになったとき、手を引かれ浮遊感から解放される。
腕を掴む手を辿り、顔を見て香は思わず飛びついた。
「アニキ…っ!」
昔と変わらない眼差しで香を見てくれる。
「相変わらず無鉄砲なところは変わってないな」
飛びつかれ体勢を崩しかけた槇村が苦笑混じりにそう言うと、香は懐かしさで胸が溢れてくる。
あれから何年経ったのだろうか。
心の何処かでずっと願っていた。
――――もう一度アニキに会いたい。と。
その願望が今夢として現れたのだろうか。
それでもまたこうして槇村に会えただけで嬉しかった。誰にも替えられない香にとって一番安心できる場所。
「さあ、お前はこんな所に来てはいけない。お前を待っている人達がいるだろう?」
頭を撫でられ、目を閉じる。
「このままアニキと一緒にいたい…」
「我が儘を言わないで、お前を必要としてる人が待ってるぞ」
その言葉に首を傾げる。自分を必要としてる人間なんて何処にもいない。だって自分は足手纏いにしかならないから。
だから自分はもう側にいてはいけないのだ。
「私を必要としてる人なんて、何処にもいない……」
香は離したくないと槇村に強くしがみつく。
「香、逃げては駄目だ。昔から一つ一つゆっくりでもいいから解決して行きなさいと教えただろう」
まるで子供の頃に返ったようだった。そんな香の心情を読み取るかのように槇村は優しく頭を撫で続けて言ってくれた。
「香は強い子だから、大丈夫。俺が保証してやる。だから――――幸せになれる」
その言葉を聞いて香は顔を上げた。自分を待っていてくれているのだろうか。そんな不安が過ぎるが槇村の言葉は香の心に染みて行った。
大丈夫。
まだ自分の居場所はあそこにある。
そう信じて香は槇村から離れると、槇村は香の意図を汲み取ったのか頷いた。
「――――生きなさい」
トン、と背中を押され香は闇へと落ちていった。
まだ会いたいと想う人が居る。
あの時、会いたいと願ったのは……――――
――――リョ、ウ……
重たい瞼をゆっくりと押し上げて少しだけ視界が開けた。どこからか聞こえる電子音が定期的にピッピッと鳴っていた。
身体は全く言うことを聞かず、顔を動かすことすら出来ない。目線を少しずらすと、いつも見慣れた男の姿が目に入ってきた。
「気が付いたか?俺が、解るか?」
――――リョウ
答える代わりに少しだけ顎を引く。
声が出せなかったのは口から挿管されているからで管は呼吸を助けてくれていた。
還ってきたのだと、思った。
また愛すべき人の居る世界へ還って来たのだと思ったら、嬉しさで目尻に涙が溢れた。
名を呼んで安心させてあげたい。そう思えるほど横にいる男の顔は不安げだった。今まで見たこともない表情にその頬を大丈夫だとさすってやりたかった。
だが手も上手く動かせず指先を少しだけ動かすと、それに気が付いたリョウが手を握ってくれた。
「…ここに居るから……」
余りにも優しくて涙が止まらない。自分が怪我をしたことで意地になっていた物が無いように思えてくる。
身体の覚醒と共に頭もハッキリとし始めて自分がどうしてこんな風になっているか次第に思いだしてきた。
そうだ、自分は撃たれたのだ。
あれからどのくらいの時間が経っているのだろうか。
ただひたすらに自分の状況がリョウに迷惑を掛けてしまったことだけはハッキリと解ってしまった。
違う意味で涙が溢れていく。やはり重荷にしかなれない自分がいて消えてしまいたいと思った。
だが先程夢で見た槇村の声を思い出した。
――――香、逃げては駄目だ。昔から一つ一つゆっくりでもいいから解決して行きなさい。
そうだ。ここで自分が仮に死んだとしても何も変わらない。自分が変われずに終わってしまうだけだ。
溢れる涙をリョウの手が掬う。
「もう、大丈夫だ」
だからもう泣くな。そう言って苦く笑っていた。
思考は段々と曖昧になり、そしてまた次第に瞼が降りていく。束の間の覚醒は香に決心をもたらしてくれた。
ぼんやりとした中でも見えた自分のしたいこと。
それは今、香の手を握りしめてくれている手を離さないと言うことだけだった。
その後、香は人工呼吸器を外され、一週間は集中治療室にいたがその後経過が順調だと言うことで一般病棟に移された。
まだ大部屋は精神的にキツイので個室に移され、毎日のように誰かしら見舞いにやってきてくれる日々が続いた。
回復は順調だとはいえ、話をすることもまだ疲れてしまう状況だった。
リョウも毎日必ず顔を出していく。何をするわけではないが香の顔を見て、憎まれ口を叩きつつ帰っていく。
病院でもいつものように接してくるリョウに香は安堵した。
早く元気になってあのバカを止めなくては。と言う気力が生まれてくる。
その日は少し見舞客が多く疲れたのか香はぐっすりと眠っていた。
リョウはいつもの時間に顔を出し、香の病室のドアを開けると香の反応が無く思わず急いで香に近付いた。
リョウが入ってくると何かしら声を掛けてくるのにそれがないと思わず心配になる。
もしかしたら何かあったんじゃないか、と思わずベッドに近付くと香は規則的な寝息を立てていた。
健康だったときの香とは比べものにならないほど顔色は悪く、痩せて頬は削げ落ちていた。
脇にある椅子に静かに腰を下ろし、香の額に掛かる髪をそっと掻き分けた。
いつもこんな風に優しくしてやれたら良かったのかもしれない。
少し癖のある柔らかい髪を何度も手で掬ってリョウは額に唇を押し当てた。
いつか俺がお前の命を奪ってしまうかもしれない。ただ側にいればいいと思えた時期はもう過ぎ去ってしまった。
自分のエゴが今、自分の大切な物を傷つけている。いたずらに認めてしまったパートナーという立場が危険をもたらすことも解っていたのに、どうしても手放せなかった。
少しの間、香の寝顔を見詰めリョウは大きく息を一つ吐いた。
するとそれで香がゆっくりと目を開ける。その瞳がリョウを捕らえてふっと柔らかく笑った。
「…リョウ、いたんだ……また、ナンパでもしてきたの?」
遅かったね。と冗談交じりに笑う。その声も以前のような張りはなく、辛うじて吐き出されている様な感じだ。
だがリョウはいつもと変わらぬ様子で香の軽口に答える。
「折角こんなにいい男がナンパしてるっつーのに、今の若い子には俺の良さがまだ解らないんだよなぁ〜」
そう言って香を見れば、香も笑っていて、
「それは、アンタが年取った…って証拠よ」
と言い返された。
「ひでぇ〜な。ボキはまだ二十歳だっつーの!」
「それが、無理なの…」
言葉が途切れ途切れで香の具合の悪さがリョウにも伝わる。
「疲れたか?」
少し真顔で聞けば、「…そうね」と言って香はまた瞼を閉じてしまった。
聞こえているかも解らない香にリョウはそっと優しい声で囁いた。
「俺はここにいるから…安心して寝てろよ」
香の寝顔は穏やかだった。
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