どれだけアナタのことを想っていたのかすら。
 今はもう思い出せないけど。


 それでも何処かで覚えている。









+破裂+








 夕暮れ時の道を一人で歩くのは嫌いじゃなかったはずだったのに。
 アスマと別れた後に一人で歩く道すがら、いつの間にか一人で歩くのを寂しいと思うようになった。それはあの人を知ってから。いつも帰る時はあの人を待って一緒に帰っていた。
 先に帰ればいいのに、と何度も言われたけど一分でも一秒でも長くいたかったから。だからイルカの残業を待ってでも一緒に帰るのがカカシの日常になっていた。
 それが崩れたのは3ヶ月くらい前。
 イルカが任務に行ってしまってから。それからは一人で帰ることになったら、昔は好きだったはずの一人がいつの間にか苦しい物に変わっていて、その事に酷く戸惑う自分がいた。
 何かが変わってしまった。自分の中でイルカと共にいて何かが変わった。
 そうだ。自分は「愛情」という物を手に入れてしまったのだ。
 イルカという存在が自分に与える愛情と。そして自分がイルカを愛するという「愛情」を知ってしまったから。だから嘘でも任務でもイルカが誰か他の人と結婚するという事がカカシの心に不安という罅を入れた。
 不完全なままで過ごしてきたカカシに。イルカという安定が入り成り立っていた物が音を立てて崩れていく。
 カカシは暮れ行く空を見つめていた。

――――何も感じない。

 イルカと居る時は綺麗だと思えたそれは、ただ赤いと言う認識でしか無くなっていた。
 アスマが心配してるのも分かっている。だがどうすることも出来ない。自分ではどうすることも。
 いつからこんなに弱くなってしまったのか。
 だから任務に出る。危険な任務でも何でも良い。この不安と寂しさを紛らわす事が出来るのなら。
 その度にアスマも一緒に付いてきて何かと世話を焼いていた。イルカとの繋ぎはアスマの任務の一つだが、あまりアスマにはイルカの話は聞かなかった。
 聞けばイルカに会いたくなって任務だと分かっていたも奪い返しに行きそうになってしまいそうだったから。
 カカシは空を見上げて一つ溜め息をついた。
 なんて愚かで小さな自分。
 いくら忍として強くとも、人としてはなんて脆い。
 歩みを進め人気の無い路地に入った所で、前方に人影を見た。
 スラッと伸びる影がカカシの足下にかかる。興味のないその人影をやり過ごそうとしたとき。
 その人の姿が明るみに出た。
 
「こんばんわ…はたけ――――カカシさん」

 ゾワッとした嫌な物がカカシの背中を走った。
 カカシは無言を提示する。何故自分の所に来るのか――――イルカの婚約者のこの女が。
 作り笑いを見せる女の顔はやはりカカシには歪んで見えて、周りが囃し立てるほど綺麗だとはどうしても思えなかった。

 嫌な、笑い方だ。

 カカシは無表情のままその女の横を通り過ぎると、後ろからまた声を掛けられる。

「イルカさん、と仲良くていらっしゃいましたよね?よくお話し聞いています、貴方は凄いお方だって」
「はぁ、そりゃどうも」

 抑揚のない声で答えるとくすりと女は笑う。

「私ね、貴方とイルカさんの関係も知っているんです。色々と調べさせていただきました」

 そう言われるとカカシの表情が一変した。知っているのなら隠す必要もない。苛立ちを露わにしたカカシが、

「だから何?」

 と冷たい声色で答えると、またあの笑いを見せる。

「今日は貴方にどうしても伝えたいことがあって参りましたの。貴方の所にイルカさんが帰ってくると信じているかもしれませんけど……」

 にこりと勝ち誇った笑みを浮かべて。

「貴方の所にイルカさんは帰らない。私、遂に素敵な物を手に入れましたの。それは私が女だから。言っている意味分かります?」
「……」

 カカシは手をポケットに突っ込んだままその女の話を黙って聞いていた。
 何が言いたいのだ。苛立ちを募らせる言い方だ。
 そして、女は高らかに笑った。人を馬鹿にしている様は本当に醜いと思ったし、今の何かが外れているカカシの感情がその女のせいで大きく膨れあがった。
 怒りが自然と沸いてくる。
 そして、女は自分の腹を大事そうに包んだ。
 それを見た瞬間、カカシは怒りと焦燥感と苛立ちと。全てが入り交じって自分の感情をこれ以上コントロール出来そうになくなった。
 それでもカカシの苛立ちを煽るように女は続けた。

「このお腹にはイルカさんの子供がいるの。私を愛して私を何度何度も抱いてくれて。そして遂に貴方に勝った」

 そんな事は嘘だと分かっているのに。この女の言ってることが全て戯言でしかない。そんな事は分かっているのに、負の方向へしか動かないカカシの思考が不安と怒りと苛立ちを増幅させる。 
 イルカとこの女が交わっている姿など想像したくもない。
 イルカは自分だけの物だと。初めて知った安らぎを奪われたと錯覚を起こす。
 ギリと奥歯を噛み締めて怒りを抑えようとしたが、もうどうすることも出来なかった。

「貴方には絶対に与えることの出来ない、あの人の子供を、私は得ることが出来たわ。この子が居る限り…」

 自信に溢れる声で女はカカシを見下すように話していた、が。
 それは突然だった。 
 罅割れていたカカシの感情が遂に破裂する。
 女の目の前から消えた銀髪の男は次の瞬間には自分の後ろに移っていた。
 その間痛みすら感じなかった。
 その男が自分の後ろに移動したと認識出来た途端。
 下腹部に走る激痛と目の前に広がる血の海に、女はがくりと膝を付いた。
 カカシの手にはクナイが握りしめられていて、そこから滴る血が流れ落ちた。
 自分の本能に従ったまでだ。カカシは倒れていく女をそのまま見つめていた。

――――オレからイルカ先生を奪ったアンタが悪い。

 そのまま横たわり下腹部から血を流す女のその腹を蹴りたい衝動に駆られる。
 ここに。この腹にいかがわしい何かが居るような、そんな気すら起きて、カカシが女に近寄った。
 まだ息のある女は近寄ってくるカカシに顔を向けた。虫の息、と言うのだろうか。急所はしっかりと突いたはずだからもう助かることはない。
 腹大動脈まで達したキズは大量の血溜まりをそこに作っていた。
 それでもまだ女は何かを口にしていた。声はもうほとんど出ていないがカカシはその動く唇の動きで分かった。
 口の端を上げ、笑みまで浮かべて。

「…これで、本当に貴方の元へ…イルカ、さんは還ってこない……苦しむ、が良いわ……あの人の子供を…殺した貴方の元へ……イルカさ、んが還るはず…ないから……」

 その言葉にカカシは一瞬で凍り付いた。
 なんてことだ。この女は全てを見越していたのだ。自分が嫉妬に狂った女のように殺人まで犯すことを。
 自分を見失っているカカシに気がついていたなんて。
 女の恐ろしさを思い知ったような気がした。この女は本当にイルカ先生を愛していたのだ。
 それがまた悔しかった。
 これ以上言葉を聞きたくなくてカカシはクナイを握る手に力を込めたその瞬間。
 後ろからの気配にハッと息をのんだ。

「カカシさんっ!」

 後ろを振り向かなくても分かる。久しぶりに聞く自分を呼ぶ声に涙が出そうになる。
 カカシは振り向くことなくその場に立ち尽くしていた。

――――イルカ先生。

 声には出さず心の中で名前を呼んだ。
 もうアナタの所には還れない。
 イルカの後ろにはアスマの気配もした。
 カカシの足下に広がる血の海にイルカが息を飲むのが分かった。
 もう、お終いだ。
 足下から微かな声がした。目線を落とせば梗香がイルカの名を呼んでいた。
 そして、


「さよなら……はたけ、カカシ、さん……」


 と、聞こえて言葉が途絶えた。
 ああ……もう戻ることは出来ない。全てが狂ってしまった。
 それは全て自分の犯した過ち。何処で何が狂ってしまったのか。
 信じた物は何だったのか。無くした物はあまりにも大きすぎて。
 カカシは自分が出口のない闇に問われてしまったことを知った。
 













 ただ、そこに呆然と立ち尽くすカカシがいた。
 今日は何故か分からないが梗香に自宅に帰るように言われ、その道すがらアスマと出会った。
 こんな所では滅多に出会さないアスマにどうしたのかと訪ねれば、カカシの事が心配で今別れたが後を追っているところだと分かった。
 「一緒に来い!」と言われアスマと共にカカシを追っていればカカシの姿を見付けた。
 手にはクナイ。そして足下に転がっているのは――――梗香の姿だった。

「カカシさんっ!」

 声を掛けてもカカシは振り向こうとはしなかった。
 その横をアスマが渋面で駆け抜けていった。

「…っの馬鹿野郎がっ!」

 アスマはカカシのクナイを取り上げて胸ぐらを掴むとそのまま塀にドンっと押しつけた。
 何も抵抗もせずカカシはアスマにされるがままだった。

「なんで我慢出来なかったっ!」

 その言葉にカカシはやっとアスマを見る。泣き出しそうに苦しそうに眉を歪めて。

「…ゴメン、ネ」

 とだけ言った。
 解っていた。アスマがどれだけ自分に気を付けていてくれたかも。それでもどうしてもやり過ごすことが出来なかった自分のどす黒い嫉妬という感情に勝つことが出来なかった。
 イルカの顔は見ることが出来なかった。
 これでもうカカシは全てを失ってしまったから。
 イルカが近付こうと足を踏み出した瞬間。

「イルカ先生」

 と、カカシの声がした。

「ゴメン、こっち来ないで。お願いだから…」

 オレを見ないで。

「こんな結末で、ゴメンね、イルカ先生……」

 アスマの手を解いてカカシはイルカに背を向けた。
 イルカは何を、どう声を掛ければいいのか解らなかった。そこに転がっているのは梗香には目もくれずに。イルカの全てはカカシなのだから。
 カカシの為に全ては動いていたのに。

「…カカシさん……」

 ただ、名前を呼ぶことしかできない自分が歯痒かった。
 だってカカシはこの瞬間から自分を拒絶しているのが伝わってきてしまったから。
 それはイルカにとってこれ以上ない哀しみだ。

「アスマ。行こう…」

 そう言ってカカシはアスマと共にその場を去ろうとしている。
 そして、やっとイルカの方に振り向いて。
 笑った。

「…サヨナラ、イルカ先生……」

 アナタを一番愛してたのはオレだったのに。

「カカシさんっ!待ってください!」

 カカシを追おうと足を踏み出した瞬間、カカシの姿はそこから消えた。アスマにも阻まれイルカはカカシの後を追うことが出来なかった。
 悔しい。
 何も出来ない自分が。
 暮れ行く夕日が血溜まりを照らして。
 イルカは自分の無力さを思い知った。結局カカシには何もしてやることが出来ないじゃないか。
 きつく目を瞑り、手を握りしめる。力を入れすぎたその掌からはぽたりと血が落ちた。

「これの後始末を頼みたい」

 アスマはイルカにそう告げると、イルカはただ頷いた。

「…カカシさんはどうなるんですか?」

 そう問うとアスマは大きく溜息を付いた。やりきれないのはアスマも一緒だ。
 あれだけカカシを見張っていたのに。
 最後の最後で目を離してしまった。自分が目を離さなければこんな事にならずには済んだのだ。
 アスマは大きく息を吸い込んで深呼吸した。
 後悔してももう遅い。これから先のことを考えなければ。

「そうだな、多分独房行きだ。これは任務でも何でもない。ただの殺人だ。その後処分が決まるだろう」
「…独房…処分……」

 イルカの中で何かが動き始める。
 自分がカカシに出来ることはまだあるはずだ。

「処理班をよこすからそれまで頼む」
「……はい」

 そう言ってアスマはカカシの後を追った。








 イルカはその場に転がった梗香の遺体を見つめていた。
 手を触れることもせず。
 梗香は最後にイルカを見て笑っていた。
 だが、イルカは心痛むことも正直無かった。痛むのはカカシを見逃してしまった自分の心。
 溜息を付いてイルカはしゃがむと開いたままの瞳に掌を当てて瞼を閉じさせる。


「人の物には手を出すなってあれ程教えたのに……」




 そう呟いて。





 


 
 
 







 


9<< || >>11

――――2005.8.1.up