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特集 アレクサンドロス大王の東方遠征

−カエサルやナポレオンが魅せられた王−



マケドニア王国の領域(前454年ころ)  マケドニア王国の領域(前433〜前364年)  フィリッポス2世時代のマケドニア

アレクサンドロス大王の東方遠征(前334〜前324年)  アレクサンドロス大王の後継者の国家(前303年)

(これらの歴史地図は、『世界史地図・図解集』にも収録されています)


はじめに

 アレクサンドロス大王の東方遠征は古代から人びとをひきつけ,後世の政治家や軍人(カエサルやナポレオンなど)に影響を与え,作家や美術家や音楽家に創作の主題を提供しました。中世ヨーロッパではいくつかの叙事詩の原型にもなりました。アレクサンドロス大王の活躍はペルシアなどアジアの文学でも題材になっており,フィルドゥシーの著作でペルシア王の歴史,『シャー・ナ』などがあります。ここではマケドニアの建国からアレクサンドロス大王の東方遠征そして彼の国家の分裂までをあつかっています。アレクサンドロス大王死後のヘレニズム世界の展開については『世界史地図・図解集』に詳述されていますので参考にしてください。


マケドニア王国の領域(前454年ころ)

マケドニア王国の領域(前454年ころ)

 マケドニアがフィリッポス2世の治世(在位前359〜前336)に拡大した時代に,アテネの雄弁家デモステネスは,ギリシアの北に住む人びとを「バルバロイ(異民族)」とよび,つい最近まで羊飼いだったと決めつけました。しかしマケドニア人はギリシア西部の方言を話し,領内にはほかの民族も吸収していましたが,もともとは「ギリシア人」だったと現在は考えられています。マケドニアと南の都市国家の大きな違いは,マケドニアを支配していたのが王と有力貴族だったことです。
 マケドニア王国は前650年ころに建国されましたが,最初の150年間についてはほとんど解明されていません。アケメネス朝ペルシアの侵攻以降の王国に関する知識がおもにヘロドトスによって今日に伝えられています。マケドニアが勢力を拡大したのは,アレクサンドロス1世(前497ころ〜前454ころ)の功績で,アレクサンドロスは自分の姉妹をアケメネス朝のサトラップと結婚させて,ペルシア人と友好関係を保ちました。サラミスの海戦のあとにはギリシアの同盟を分裂させようと画策しました。しかしマケドニア国内はアレクサンドロスの死後,政情が不安定になりました。その一方,アテネが勢力を拡大して,エーゲ海地方北部の交易を支配したため,バルカン半島住民の経済は深刻な打撃をうけました。


マケドニア王国の領域(前433〜前364年)

マケドニア王国の領域(前433〜前364年)

 アテネ軍によるポテイダイアの包囲がペロポネソス戦争(前431〜前404)をまねきましたが,さらにマケドニアとトラキアのあいだの抗争も引き金となりました。マケドニアはスパルタやコリントスに助けを求めて,王国を維持しようとしました。一方アテネはトラキア王国をはじめとする非ギリシア人国家と友好関係を維持する政策をとりました。ペロポネソス戦争の終結とともに,エーゲ海北部に対するアテネの影響力は消滅しましたが,かといってスパルタの影響力が高まったわけではありませんでした。マケドニアは戦争後,内政が不安定となり,周囲のイリュリアやモロッシスからたびたび侵略されました。
 レウクトラの戦い(前371)でスパルタが敗北し,テーベがギリシアの覇権をにぎると,マケドニアをめぐって,テーベと,コリントス戦争(前395〜前386)で制海権を掌握し勢力を回復したアテネが争います。アテネはふたたびアンフィポリスとケルソネソス半島の領土権を主張しはじめました。当時マケドニアはテッサリアのギリシア諸都市と対立していました。テーベはテッサリアの援軍要請をうけ,マケドニアに侵攻しました。一方マケドニアはアテネの援軍を求めましたが,前368年,テーベに降伏しました。マケドニアがアテネの支援を最後まで求めなかったのは,マケドニアの領土をうかがうアテネの野心を恐れたからとみられます。


フィリッポス2世時代のマケドニア

フィリッポス2世時代のマケドニア

 フィリッポス2世(在位前359〜前336)の時代には,フィリッポス2世自身がテーベの人質時代にギリシア文化を学んだこともあり,マケドニアはギリシア文化から大きな影響を受け,都市の景観はギリシア風となっていました。しかし,有力な軍事エリート階級を擁する部族の伝統も根強く残っていました。
 フィリッポス2世の勢力拡大は,長槍戦術をうみだした彼の力量によるところが大きいですが,ギリシア諸都市がたがいに争い弱体化していたことも大きな要因です。テッサリアはギリシア諸都市の内紛に乗じて掌握しました。前342年に非ギリシア人国家トラキアを撃破してさらに東に進軍し,ビザンティオンに矛先を向けました。この地は黒海からエーゲ海に入る要衝で,黒海方面からの穀物の供給に依存していたアテネにとって大きな脅威となりました。
 急速に勢力を拡大するマケドニアに対して,アテネはテーベと同盟し前338年カイロネイアの付近で戦いましたが,テーベ・アテネの連合軍は決定的な敗北を喫しました。これによってギリシア世界におけるマケドニアの覇権が事実上確立しました。


アレクサンドロス大王の東方遠征(前334〜前324年)

アレクサンドロス大王の東方遠征(前334〜前324年)

 前359年マケドニアの王位にフィリッポス2世がつきました。アレクサンドロス大王の父であるフィリッポス2世は重装歩兵戦術を改良し,1m強の槍が一般的であった当時に,全長5mの槍を使用した戦術を取り入れ,カイロネイアの戦い(前338)でアテネ・テーベ連合軍を撃破しました。これにより全ギリシアに覇権を確立したフィリッポス2世は,アケメネス朝ペルシアに対して全面戦争を宣言しました。しかし,フィリッポス2世は小アジアに派遣した先発部隊に合流することなく,前336年にマケドニアの首都ペラで暗殺されました。
 アレクサンドロス大王は父の優秀な軍隊とペルシア征服計画を受け継ぎ,前334年にダーダネルス海峡を渡り,グラニコス川の戦いでペルシアのサトラップと対決して,最初の勝利をおさめました(前334)。つづいて,イッソスの戦いでダレイオス3世軍を撃破し,ダレイオス3世を敗走させました(前333)。その後,アレクサンドロス大王はフェニキアの港を掌握し,エーゲ海で活動をつづけていたペルシア艦隊を阻止,エジプトをペルシアから抵抗をうけることもなく占領しました(前332)。アレクサンドロス大王は砂漠のなかのシワを訪れ,アモンの神託を求め,アモン神の息子として認められました。メソポタミアに戻ったアレクサンドロス大王はアルベラでペルシア軍と最後の大決戦をおこない,再びダレイオス3世を敗走させました(前331)。ペルセポリスを占領したアレクサンドロス大王はダレイオス3世を追って北進しましたが,ダレイオス3世は側近貴族に殺害されました。
 つづいてバクトリアとソグディアナに遠征し,前326年には南へ進路を変えて,インドの征服をめざしました。ヒュダスペス(ジェラム)川での戦いをへてパンジャブ地方を制圧しましたが(前326年),配下の軍隊の反乱でそれ以上はインドに侵攻できませんでした。前324年にスサに帰還したものの,翌年バビロンで死去し(享年32歳),征服事業は突然,予期せぬ終わりを迎えました。


アレクサンドロス大王の後継者の国家(前303年)

アレクサンドロス大王の後継者の国家(前303年)

 前321年のアレクサンドロス大王の死の後,20年間に,将軍たちのあいだで大きな抗争が起こり,帝国は何度か分裂しました。前321年の時点でとくに有力だった将軍は,エジプトとキレナイカの支配者プトレマイオス1世,バビロンのサトラップのセレウコス1世,小アジアのフリュギアを領有するアンティゴノス1世,アジアのほとんどを支配するアンティパトロスでした。アンティパドロスはカッサンドロスの父親です。
 カッサンドロスによって殺されたアレクサンドロス大王の息子アレクサンドロス4世の死が前306年公表され,大王の血筋が絶えると,アンティゴノス1世と息子のデメトリオス1世が王に選ばれました。しかし,翌年の前305年プトレマイオス1世,リュシマコス,カッサンドロス,セレウコス1世が自分の領土の王を宣言しました。前301年イプソスの戦いで,王たちの戦いがくりひろげられ,アンティゴノス1世は殺され,デメトリオス1世は逃亡しました。そしてアンティゴノス1世の領土は勝者のあいだで分割され,帝国分裂が決定的となりました。


むすび

 フィリッポス2世は息子アレクサンドロス大王の名声の陰に隠れてあまり知られていませんが,フィリッポス2世はすぐれた戦士かつ雄弁家であり,カリスマ的な魅力をそなえた指導者でした。フィリッポス2世は若いころにテーベの人質になりました。その地でフィリッポス2世は効率的な戦略と統率を身につけ,帰国後マケドニア軍を強化し,同時代で最も効率的な軍隊に育てあげました。一方,その軍隊を引き継いだアレクサンドロス大王は全エネルギーを軍事遠征にそそぎ,外交官や政治家というよりも,征服に熱中する有能な軍人であったようにみえます。ですからみずからがつくりあげた国家の将来におもいをはせるよゆうもなく,大王の死後20年たらずで大帝国は瓦解してしまいました。