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『日本史地図・図解集(CD-ROM 解説文・白地図付き)』の見本図


− ・古河公方と堀越公方の分立 ・長崎出島 ・薩英戦争 ・荘園絵図 −




古河公方と堀越公方の分立


古河公方と堀越公方

 1454年、足利成氏は上杉憲忠を鎌倉府に呼び出して殺害しました。この事件により、成氏と山内・扇谷の両上杉氏との対立も表面化し、関東では成氏方と上杉方の二つの勢力が激突することになりました。1455年、幕府の成氏討伐命令で出陣した駿河守護今川範忠が鎌倉を占領、成氏は下総古河に逃れました(享徳の乱)。
 下総に逃れた成氏にかわって、鎌倉には憲忠の弟、房顕が入り、上杉氏が同地を占拠します。2年後、幕府から派遣された足利政知は鎌倉に入れず、伊豆堀越(現 静岡県韮山町)に居を構えて堀越公方といわれ、古河・堀越両公方が並立することになります。
 これ以後、関東は戦国の世に突入しました。




長崎出島


長崎出島

 出島は長崎港内にあり、小橋で結ばれた扇形の埋め立ての築島で、鎖国の下で唯一の西洋への窓口でした。オランダはバタヴィア(現、ジャカルタ)においた東インド会社の支店として、1641年出島に商館をおき、貿易の利益のみを求めました。オランダ船は、中国産の生糸や絹織物・毛織物・綿織物などの織物類と、薬品・砂糖・書籍などをもたらしました。一方、日本の輸出品は、銀・銅・海産物などがおもでした。商館長の江戸参府以外にオランダ人の自由な外出は許されませんでしたし、また日本人も役人や指定商人ら以外は立入禁止でした。






薩英戦争


薩英戦争

 1863年6月27日、前年の生麦事件の慰謝料と犯人の処刑を要求して、イギリス艦隊司令長官キューパー少将が、ニール代理公使とともに旗艦ユーリアラス号以下7隻を率いて鹿児島湾内に進入しました。翌28日、鹿児島の前之浜に進み、一列になって投錨し、ニールは要求に対する24時間以内の回答を求めました。
 ところが、進展しない交渉に業を煮やしたキューパー長官は薩摩藩が購入していた蒸気船3隻を拿捕しました。ここで、薩摩藩側は開戦命令を出し、7月2日正午天保山砲台の大砲が火を噴きました。拿捕された3隻は焼き払われ、戦闘は数時間におよびましたが、薩摩藩は苦戦しました。イギリス側も旗艦ユーリアラス号の艦長と副長が砲弾で即死しました。
 7月4日夕刻、イギリス艦隊は鹿児島湾を退去しました。イギリス側の被害は戦死者13名、負傷者50名、薩摩藩側は戦死者5名、負傷者十数名でしたが、蒸気船3隻失い、鹿児島城下の北部を焼失しました。
 この戦いの結果、薩摩藩は攘夷の無謀を理解し、ニール代理公使は交渉の過程で中央政権である幕府が、地方政権の1つにすぎない薩摩藩に対して強制力を持たないことを知りました。こうして、講和後かえって両者は接近することになりました。






荘園絵図


荘園絵図

 荘園絵図は立荘や係争の際に作成されました。この荘園は9世紀初めに開発され、1183(寿永2)年に後白河法皇から神護寺に寄進されました。5つの●(境目)により荘園の領域が示されています。境相論関係絵図の一種です。紀伊川は紀ノ川のこと、記入されている文字は現在の用語用例になおしてあります(原図は神護寺蔵)。




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