最終更新日2019年5月18日

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大学入試日本史地図図解問題

−藤原氏の進出−

藤原氏の進出(駒澤大・学習院大 改)
次の文章の( )に適する語句を語群より選び、その記号で答えよ。また、問に答えよ。
 藤原氏は藤原鎌足以来(1)氏から分岐した名族で、奈良時代には藤原四家がおこった。
 8世紀初め、皇族と畿内の有力な氏の代表者らとのあいだで勢力の均衡が保たれていた。鎌足の子である藤原不比等は、大宝律令の制定に関わり、平城京への遷都に尽力し、養老律令の編纂にも関与した。不比等は娘宮子を(2)天皇に嫁がせ、宮子は皇太子を生んだため、藤原氏が外戚となる端緒をつくった。不比等は皇太子にも娘の光明子を嫁がせたが、これがのちの聖武天皇と光明皇后である。
 不比等が死去したため、天武天皇の孫である長屋王が政権を握った。不比等の子、武智麻呂・房前・(3)・麻呂の4兄弟は、それぞれ南家・北家・式家・京家の藤原四家として力を持っていた。しかし長屋王が政治的権力を増してくると外戚としての地位が危うくなったので、729年に長屋王に謀反の意図があるとして、自殺に追い込んだ。1988年平城京内から長屋王邸宅跡が発掘され、約6万平方メートルの敷地から膨大な数の(4)が発見され、その中には「長屋親王」の名が記されていたものもあった。
 長屋王の死去後、藤原氏は光明子を皇后にたてることに成功したが、737年に流行した天然痘で、4兄弟が相次いで病死し、藤原氏の勢力は弱まった。
 皇族出身の橘諸兄は、738年に右大臣になり、さらには左大臣となって、唐から帰国した(5)や吉備真備らと結び権力を掌握した。740年には式家(3)の子藤原広嗣は、(5)・吉備真備の排除を求めて反乱を起こしたが鎮圧された。このような状況の中で聖武天皇は、(6)・難波宮・紫香楽宮に転々と都を移したが、仏教のもつ鎮護国家の思想によって国家の安定をはかろうとして、741年に国分寺建立の詔を出し、国分寺・国分尼寺をつくろうとした。743年には紫香楽宮で大仏造立の詔を出したが、745年に平城京にもどり造立を続け、(7)に東大寺で大仏開眼供養をおこなった。
 孝謙天皇の時、南家の藤原仲麻呂は光明皇太后と組み勢力を伸ばし、諸兄の子である橘奈良麻呂を倒し、(8)天皇を即位させ、恵美押勝の名を賜り、大師(太政大臣)になった。孝謙太上天皇は道鏡を寵愛し、(8)天皇と対立したため、恵美押勝は、道鏡を除こうと764年に挙兵したが、孝謙太上天皇側に滅ぼされ、(8)天皇は淡路に流され廃帝となった。
 孝謙太上天皇は重祚して称徳天皇となり、道鏡は天皇の支持で太政大臣禅師、さらに法王となり権力をにぎった。769年に称徳天皇が(9)の神託で道鏡に皇位をゆずろうとするが、和気清麻呂らによってさまたげられた。この背後には式家(3)の子藤原(10)がいた。(10)らは、それまで続いた天武天皇系の皇統にかわって天智天皇の孫である光仁天皇を迎え、その後も天智天皇系の皇統が続くことになった。
(語群)
 ア 漆紙文書 イ 永手 ウ 恭仁京 エ 754年 オ 鉄剣 カ 中臣 キ 道慈 ク 宇佐神宮
 ケ 良弁 コ 長岡京 サ 文武 シ 近江大津宮 ス 百川 セ 750年 ソ 物部 タ 孝徳
 チ 伊勢神宮 ツ 清河 テ 淳仁 ト 木簡 ナ 玄ム ニ 元正 ヌ 桓武 ネ 春日大社 ノ 舒明
 ハ 752年 ヒ 冬嗣 フ 大伴 ヘ 宇合 ホ 種継
問1.問題文中の(5)は、唐に留学後、聖武天皇の母の病を癒した功績で取り立てられたが、藤原広嗣に非難され、広嗣の乱の後に左遷された。その左遷された場所を次より選び、その記号で答えよ。
 ア.大宰府  イ.筑紫観世音寺  ウ.越前永平寺  エ.下野薬師寺
問2.道鏡は称徳天皇が亡くなると、後ろ盾を失い左遷された。その左遷された場所を次より選び、その記号で答えよ。
 ア.大宰府  イ.筑紫観世音寺  ウ.越前永平寺  エ.下野薬師寺

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答え
1(  )2(  )3(  )4(  )5(  )6(  )7(  )8(  )9(  )
10(  )問1(  )問2(  )

解答
1(カ)2(サ)3(ヘ)4(ト)5(ナ)6(ウ)7(ハ)8(テ)9(ク)
10(ス)問1(イ)問2(エ)



(この地図図解・史料問題は『日本史地図図解問題』に収録されています。また、問題で使われている地図・図版は『日本史地図・図解集』に収録されています。)